2013年6月8日土曜日

戦国備前国人名辞典

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【あ】

青津太郎左衛門尉【あおつたろうざえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安寄騎衆で170石を領した。戸川達安退去後は「宇弥八」に編入された。

明石景則【あかしかげのり(15??~15??)】

和気郡坂根城主。浦上則宗家臣。通称源三郎。

明石景親【あかしかげちか(15??~15??)】

明石景則の男。官途は飛騨守。室は伊賀家久。別名明石行雄。1567年「明善寺の戦い」では、浦上家方として宇喜多直家の援軍として駆けつけ勝利に貢献した。1568年、片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時、服部久家、日笠頼房、岡本氏秀、延原景能と明石景親の六人が行った。1569年、美作国で毛利元就に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本、長船、岡らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃した。1574年「天神山城の戦い」では、浦上宗景から離反して宇喜多直家に内応じて落城の端緒となった。1580年、宇喜多直家から毛利輝元へと寝返った高城主竹内為能を攻撃したが、城兵の反撃を受け平尾弾正忠が討取られた。1582年「備中高松城の戦い」では、宇喜多秀家を補佐して戦功を挙げた。宇喜多直家の病没後は宇喜多秀家の補佐を務めた。

明石景盛【あかしかげもり(15??~1615)】

明石景親の男。官途は掃部頭。別名明石全登。洗礼名「ジョアン・ジュスト」。室は宇喜多直家の娘。1599年「宇喜多家騒動」が起り、家臣団の多くが出奔すると、執政として宇喜多家中を取り仕切った。1600年「関ヶ原の役」で、宇喜多秀家が石田三成に属すると、宇喜多秀家勢8,000名を率いて先鋒を努め、福島正則勢を相手に善戦したが、石田三成勢は壊滅した。1614年「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼に属した。1615年「大坂夏の陣」では、伊達政宗勢と交戦した。「天王寺、岡山の戦い」で、天王寺口の真田信繁勢が壊滅したことを知ると、松平忠直の軍勢に突撃し討死した。

明石景行【あかしかげゆき(15??~15??)】

明石景盛の男(明石景季の養子)。通称久兵衛。和気郡岩戸城2,000石を領して鉄砲足軽40人を率いた。1600年「関ヶ原の役」では、宇喜多秀家に従い参陣したが敗北、備中国足守に落延びた。1614年「大坂冬の陣」では、嫡男明石宣行らを率いて参陣したが敗れて、明石宣行は討死した。明石景行は落延びた。

明石宣行【あかしのぶゆき(15??~15??)】  

明石景行の男。1615年、明石宣行は「大坂夏の陣」で討死した。父明石景行は、和気郡吉永の土豪衆武元正高を娘婿として迎えて明石家の家督を相続させた。

明石右近【あかしうこん(15??~1593)】

和気郡北曽根城。明石景行の養子。1593年「文禄の役」で討死した。

明石四郎兵衛【あかししろべえ(15??~15??)】

宇喜多家臣。1585年、赤坂郡軽部庄の天地神社を修造した。宇喜多秀家に仕え、明石守重の寄騎衆として1,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、美作国英田郡の倉敷城に在番した。

芦田右馬充【あしだうまのじょう(15??~15??)】

沖構砦守将。通称宗源。1583年、羽柴秀吉と結ぶことに反対した毛利家臣によって沖構要害を攻め落された。後に沖構要害は宇喜多秀家が奪回し、芦田右馬充と嫡男芦田作内と共に守将に復帰した。1600年「関ヶ原の役」後、出家した。1614年。芦田作内は「大坂冬の陣」で、羽柴秀頼勢に属し討死した。

芦田太郎【あしだたろう(15??~1579)】

宇喜多直家家臣。1579年、吉川元春勢が宇喜多家領を攻めると小寺畑城に籠城したが、吉川元春勢の猛攻により落城した。

粟井三郎兵衛【あわいさぶろうびょうえ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。「八浜七本鑓」のひとり。1579年、宇喜多直家が織田信長に属した。1582年、宇喜多直家が病没すると、毛利輝元勢の穂井田元清は八浜の西にまで侵出した。宇喜多直家勢は、宇喜多忠家を大将に戸川秀安、岡利勝らが八浜の手前に布陣した。穂井田元清勢の村上八郎右衛門が海賊衆を使って宇喜多家勢の側面を衝いてため、形勢不利になった、宇喜多忠家は宇喜多家勢の撤退を図ったが宇喜多基家が討死、宇喜多家勢は敗走した。殿軍の戸川秀安が兵をまとめ、能勢頼吉、馬場職家、岸本惣次郎、小森三郎右衛門、粟井三郎兵衛らが穂井田元清勢を食い止めると、国富貞次、宍甘太郎兵衛らが加勢すると、逆に多数の兵を討取って追い崩すことに成功した。

伊賀久隆【いがひさたか(15??~1578)】

津高郡虎倉城主。松田元輝家臣。官途は左衛門尉。室は宇喜多興家の娘。1568年、宇喜多直家の松田元輝の攻略に加わり戦功を挙げ宇喜多直家に仕えた。備前国上房郡、美作国真島郡の一部150,000石を領有した。1574年、備前国に進出する毛利勢と虎倉城で戦い撃退した。1578年「上月城の戦い」に、参陣した。1578年、宇喜多直家により謀殺された。

伊賀家久【いがいえひさ(15??~1587)】 

伊賀久隆の男。通称与三郎。室は明石景親の娘。伊賀久隆の謀殺を聞いて虎倉城に籠るが、岳父明石景親の勧めで虎倉城を退去し毛利家に仕えた。1579年、小早川隆景の麾下に属して「備中忍山城の戦い」に参陣して、宇喜多春家が籠城する金山城を攻撃した。1578年、父伊賀久隆が謀殺されると、宇喜多直家から離反した。虎倉城に籠城するも、岳父明石景親の説得で開城して毛利輝元を頼って落延びた。1582年、羽柴秀吉による「備中高松城の戦い」では、小早川隆景に属して忍山城を守備した。

石原新太郎【いしはらしんたろう(15??~15??)】

長船貞親家臣。津高郡虎倉城代。室は長船貞親の娘。1591年、長船貞親は、弟長船源五郎、側近金光宗廻と共に虎倉城代石原新太郎を訪問した。石原新太郎は嫡男石原新介と共に、碁の対戦中の長船貞親と長船源五郎を謀殺した。石原新太郎は櫓に火を放って自刃し、折からの西風に烈しく煽られた炎は櫓や塀を伝って燃え上がった。残った石原家枝連衆は近くの寺に入り自刃した。

市義直【いちよしなお(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。1579年「小山城の戦い」で、江原親次と共に吉川元春勢を撃退した。

今田三九郎【いまださんくろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。遠藤秀清寄騎衆で50石を領した。浮田太郎左衛門尉から浮田主馬に組替えが行われた際、遠藤秀清に編入された。

今多神介【いまだじんすけ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安寄騎衆で90石を領した。戸川達安退去後は「津七」に編入された。

今多与三次郎【いまだよそうじろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安寄騎衆で50石を領した。戸川達安退去後は「宇弥」に編入された。

今田与三【いまだよぞう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安寄騎衆で30石を領した。戸川達安退去後は「津七」に編入された。

今田神次郎【いまだじんじろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。岡利勝寄騎衆で30石を領した。

今田五郎兵衛尉【いまだごろうべえのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船貞親寄騎衆で100石を領した。

今田助進【いまだすけのしん(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。宍甘太郎兵衛尉寄騎衆で30石領した。

上田家実【うえだいえざね(15??~15??)】

下道郡鬼身山城主。別名上田阿西。鬼身城は、街道玉島往来の要衝にあり、備中松山城に対する要塞の機能を持った重要な城であった。1574年、三村元親と対立した三村親成が毛利輝元に頼って落延びると、小早川隆景は三村元親の討伐の兵を起した。小早川隆景は、川上郡国吉城を降すと、哲多郡楪城主三村元範を攻め落し、鬼実山城主上田家実を攻撃した。三村元親の弟三村実親が城主上田家実の養子となって在城していた。上田家実は小早川隆景勢に城を支えきれず、養嗣子上田実親の自刃を条件として和睦した。これらの諸城の陥落により、三村元親方の城は松山城と、妹婿上月隆徳の常山城のみとなった。

上田実親【うえださねちか(1556~1575)】

三村家親の四男(上田家実の養子)。1574年「備中兵乱」が起こると三村家側の居城が次第に毛利家に落とされていった。1575年、鬼身城も毛利輝元勢の大軍に包囲された。上田実親と城兵は苦戦を強いられた。上田実親は城兵の命と引き替えに自刃した。

上野高徳【うえのたかのり(15??~1575)】

児島郡常山城主。三村元親家臣。官途は肥前守。別名上野隆徳。1575年、三村元親が毛利家を離反し織田信長についたため、毛利輝元、宇喜多家直家勢の攻撃を受けた。毛利輝元勢は、播磨国に展開している羽柴秀吉勢が備中国に至るまでに三村家を討伐しなければならず、備中国に兵力を集中して三村家方の城を次々に攻略した。備中松山城も落城、三村元親も自刃した。三村元親は上野高徳の室鶴姫の兄。鶴姫の父三村家親も宇喜多直家に謀殺された。三村家方に残った城は常山城だけ。常山城主上野高徳は、四国の三好家に援軍を求めたが、敗北必死の三村家勢に加勢するものはなかった。常山城は完全に包囲され、毛利輝元勢6,500騎に対し、上野高徳勢はわずか80騎余り。連合軍に攻められ、上野高徳は激闘したが遂に敗れて自刃した。上野高徳の室鶴姫も圧倒的多数の敵陣に飛び込み、自刃して果てた。

宇垣市郎兵衛【うがきいちろうびょうえ(15??~1568)】

津高郡徳倉城主。松田元輝家臣。1568年、弟宇垣与右衛門は、宇喜多直家の知略で謀殺された。

宇垣与右衛門【うがきようえもん(15??~15??)】

宇垣市郎兵衛の弟。1568年、金川城周辺で開かれた鹿狩りの際に、松田家臣宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で宇喜多側の人間によって弓で射ち殺された時も、家中から「宇喜多の手の者の仕業では?」という声が挙がるが、元輝は宇喜多との友好関係が乱れる事を恐れこれを黙認する。この元輝の処置に激怒した与右衛門の兄、宇垣市郎兵衛は元輝に絶縁状を突きつけて出奔したという。この頃にはもはや元輝と家臣団との溝は決定的なものになっていた。

宇垣興右衛門【うがきこうえもん(15??~15??)】

宇垣市郎兵衛の弟。

宇垣秀緒【うがきひでお(15??~15??)】

宇垣家枝連衆。通称治郎左衛門尉。1540年、祇園社の荘園であった磐梨郡可真郷の年貢について、松田元堅に年貢を進納すると宇垣秀緒と横井氏明の連署で祇園社に返答した。

宇垣秀家【うがきひでいえ(15??~15??)】

宇垣家枝連衆。通称甚左衛門尉。1555年、宇垣秀家は備前長船の刀工源兵衛尉祐定に依頼し、自らの所持刀を製作させた。

宇喜多能家【うきたよしいえ(15??~1534)】

邑久郡砥石城主。宇喜多久家の男。官途は和泉守。通称平左衛門尉。浦上則宗、浦上村宗の二代に仕えた。1499年、浦上家の家督を巡って、浦上則宗と浦上村国が戦うと宇喜多能家は浦上則宗に属して戦った。1502年、宇喜多能家は浦上則宗勢の総大将として松田元勝勢と戦い、有松右京進を討取る戦功を挙げた。1503年、宇喜多能家は浦上則宗勢と共に、松田元勝と戦い松田家勢を敗走させた。1518年、浦上村宗が赤松義村と争うと、宇喜多能家は浦上家中をまとめ「船坂峠の戦い」で、赤松義村勢を敗走させた。1520年、赤松義村は再度兵を集め、三石城には浦上村国を、東美作国を攻略すべく小寺則職を向かわせた。赤松義村勢は浦上村宗勢を圧倒したが、宇喜多能家の活躍により、赤松義村勢を敗走させた。1523年、赤松義村の嫡男赤松晴政を擁立した浦上村国と小寺則職を討つため、浦上村宗は播磨国に出兵した。先鋒を務めた宇喜多能家の次男宇喜多四郎が、浦上村国の策略にあって討死した。1531年、浦上村宗が「天王寺の戦い」で細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて討死すると、砥石城で隠居した。1534年、高取城主島村盛実の奇襲を受け砥石城にて自刃した。

宇喜多興家【うきたおきいえ(15??~1536)】

宇喜多能家の男。室は阿部善定の娘。1524年、父宇喜多能家の出家により宇喜多家の家督を譲られた。1534年、父宇喜多能家が島村盛実により砥石城を攻められ自刃した際は、嫡男宇喜多直家と共に備後国鞆津に落延びた。後に備前福岡の豪商阿部善定に庇護されると、阿部善定の娘を娶った。1536年、病没した。

宇喜多直家【うきたなおいえ(1529~1582)】

宇喜多興家の男。通称三郎右衛門尉。官途は和泉守。室は中山信正の娘。継室は円融院。1534年、祖父宇喜多能家が島村盛実らによって謀殺された際は、父宇喜多興家と共に備後国鞆津に落延びた。天神山城主浦上宗景に仕えた。宇喜多直家は策謀に長けており、祖父の復讐を果たすために島村盛実を謀殺したのを初め、舅である沼城中山信正や龍ノ口城主穝所元常を謀殺した。1566年、三村家親を遠藤又次郎、遠藤喜三郎兄弟を起用して鉄炮で謀殺した。1567年「明善寺の戦い」により、備中松山城主三村 元親勢の駆逐した。金川城主松田元輝、松田元賢親子、岡山城主金光宗高などを討取った。1569年、西播磨の赤松政秀と結び浦上宗景に反旗を翻した。赤松政秀が「青山、土器山の戦い」で、黒田職隆、黒田孝高親子に敗北しすると、宇喜多直家も浦上宗景に降伏した。1574年、浦上直宗(久松丸)を擁立して、浦上宗景から再び離反した。1575年、明石景親を内応させ浦上宗景を播磨国へ退け、備前のみならず備中、美作の一部にまで支配域を拡大した。1579年、羽柴秀吉が中国方面に進出してくると、宇喜多直家は毛利輝元から離反して織田信長に属した。以後美作国、備前国各地を転戦して毛利輝元勢と戦った。

宇喜多秀家【うきたひでいえ(1572~1655)】

宇喜多直家の男。官途は権中納言。通称八郎。室は前田利家の娘(羽柴秀吉の養女)豪姫。1581年、父宇喜多直家病没により宇喜多家の家督を相続した。1582年「本能寺の変」後に、羽柴秀吉の天下統一戦に積極的に参陣、数々の戦功を挙げた。備前国、美作国、播磨国西部、備中国東半の574,000石を領した。1589年、前田利家の娘で羽柴秀吉の養女となった豪姫を室に迎えた。1590年、羽柴秀吉の指導を受け、岡山城と城下街を整備、商工業者を城下に集め、のちの岡山発展の基礎を築いた。1592年「文禄の役」でも、戦功を挙げ松平元康、前田利家らと共に五大老に任じられた。1599年、家臣団の統率に失敗し「宇喜多家騒動」に発展し、歴戦の重臣達に離反された。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢の主力となって奮戦するが壊滅、敗走、薩摩国の島津家へ落延びた。三年後、松平元康の元に赴き、死罪を免れて二人の子息と共に八丈島へ配流された。

宇喜多宗因【うきたそういん(15??~15??)】

宇喜多久家の次男。浜城主。

宇喜多秀高【うきたひでたか(1591~1648)】

宇喜多秀家の男。室は奥山縫殿助の娘。1600年「関ヶ原の役」では石田三成勢に属して敗北した。父宇喜多秀家と共に薩摩の島津義弘を頼って落延びた。1603年、島津忠恒によって松平元康の下へ身柄を引き渡された。1606年、父宇喜多秀家の流罪に従い八丈島に流される。その後、八丈島代官奥山縫殿助の娘を娶った。

宇喜多秀継【うきたひでつぐ(1599~1657)】

宇喜多秀家の次男。1600年「関ヶ原の役」での宇喜多家の敗戦後、薩摩の島津義弘を頼って落延びた。1603年、島津忠恒によって松平元康の下へ身柄を引き渡された。1606年、父宇喜多秀家の流罪に従い八丈島に流された。

宇喜多忠家【うきたただいえ(1533~1609)】

宇喜多興家の次男。通称七郎兵衛。1578年、毛利輝元が尼子勝久が籠城する上月城を攻めた際、兄宇喜多直家に代わって、宇喜多家勢の総大将を務めた。1581年、宇喜多直家が病没して、宇喜多秀家が宇喜多家の家督を相続したが若年の為、枝連衆として戦功を重ねた。1599年、宇喜多秀家と、家老職の戸川達安、宇喜多忠家の嫡男宇喜多詮家、花房職秀などが対立した「宇喜多騒動」後、剃髪して隠居した。

宇喜多春家【うきたはるいえ(15??~15??)】

宇喜多興家の三男。官途は河内守。通称六郎兵衛。1559年、島村盛実、浮田国定らに奪われた砥石城を奪還した際には城代に任じられた。1568年、金山城に入城して、毛利元就、三村家親との最前線を任された。1581年、宇喜多直家の病没後も、宇喜多秀家を宇喜多忠家と共に補佐した。1592年「文禄の役」に参陣した。1581年、毛利輝元勢の忍山城侵攻の際には金山城を守備して、伊賀家久の猛攻を受けたが防戦に成功した。

宇喜多詮家【うきたあきいえ(1563~1616)】

宇喜多忠家の男。官途は対馬守。別名坂崎直盛。室は戸川秀安の娘。宇喜多秀家に仕え24,000石を領した。1600年「宇喜多騒動」が勃発すると、宇喜多秀家と対立した。「長尾家征伐」では、宇喜多秀家の陣代として参陣した。「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げ、石見国浜田城0,000石を領し、坂崎直盛と称した。1615年「大坂夏の陣」では、松平元康の孫娘千姫を大坂城から救出した。千姫が本多忠刻に 嫁ぐことが決まると、宇喜多詮家は千姫奪回を画策するも露見し自刃させられた。

宇喜多基家【うきたもといえ(15??~1582)】

宇喜多忠家の次男。通称与太郎。1579年、宇喜多直家が織田信長と和睦する際に宇喜多直家の名代として織田信忠と面会した。1582年、毛利輝元勢との「八浜の戦い」に、宇喜多忠家と共に参陣するも、流れ弾に当たって討死した。宇喜多家勢は総崩れとなったが「八浜七本槍」の活躍により宇喜多家勢は退却に成功した。

宇喜多信濃守【うきたしなののかみ(15??~1581)】

宇喜多家枝連衆。忍山城守将。毛利輝元勢の吉川経言は、忍山城に籠城する宇喜多信濃守と岡剛介を攻撃した。吉川経言勢は岡剛介勢を攻撃、敗走させ、城内に乱入して、城に火を放ち外からも攻め寄せられた忍山城は混乱の内に敢えなく落城し、宇喜多信濃守は討死にした。 

宇喜多直重【うきたなおしげ(15??~15??)】

大寺畑城主。宇喜多家枝連衆。1579年、吉川元春が宇喜多家領に侵攻すると大寺畑城に籠城したが、吉川元春勢の猛攻で落城した。

宇喜多盛重【うきたもりしげ(15??~15??)】

湯山城主。宇喜多家枝連衆。通称平右衛門。1579年、吉川元春が宇喜多家領に侵攻すると湯山城に籠城したが、吉川元春勢の猛攻で落城した。

浮田国定【うきたくにさだ(15??~1556)】

宇喜多久家の三男。官途は大和守。別名宇喜多国定。1534年、宇喜多能家と折り合いが悪く、島村盛実と結んで宇喜多多能家を討取って、砥石城主となった。1551年、備前に侵攻してきた尼子晴久への対応を巡って、浦上政宗とその弟浦上宗景が対立した際には浦上政宗に属した。砥石城を狙う浦上宗景が、宇喜多直家に砥石城攻略を命じると、浮田国定は宇喜多直家と抗争を繰り広げた。家臣馬場職家などの奮闘もあり度々撃退した。1556年、砥石城は落城。この際に浮田国定も討取られた。

浮田宗勝【うきたむねかつ(15??~15??)】

邑久郡高尾山城主。宇喜多家臣。高尾山城4,000石を領して多数の寄騎衆を従えた。1600年「関ヶ原の役」では、岡山城代として国許を守った。宇喜多秀家が敗戦し、宇喜多詮家や戸川達安が岡山城の接収に来たときは争いを避け、速やかに開城して退去した。

浮田喜八郎【うきたきはちろう(15??~1600)】

宇喜多家臣。

浮田源五兵衛【うきたげんごえもん(15??~1579)】

宇喜多家臣。

浮田太郎左衛門【うきたたろうえもん(15??~15??)】

宇喜多家臣。

浮田源三兵衛【うきたげんさびょうえ(15??~1600)】

河本対馬守の次男。熊山城22,600石を領した。1600年「関ヶ原の役」で、討死した。

浦上村宗【うらがみむらむね(15??~1531)】

赤松義村家臣。浦上宗助の男(浦上則景の養子)。備前国守護代。官途は掃部助。室は佐用則純の娘。1517年、赤松義村の宿老(浦上村宗、小寺則職)と側近(櫛橋則高、志水清実、衣笠朝親)と対立した。1521年、足利義稙、細川高国と結んで赤松義村を謀殺し独立勢力となった。1530年、細川高国と共に柳本賢治を破って勢力を拡大した。1531年「天王寺の戦い」で、三好元長勢と戦って討死した。

浦上政宗【うらがみまさむね(15??~1564)】

浦上村宗の男。官途は美作守。通称与四郎。1531年、父浦上村宗の討死により、浦上家の家督を相続したが、若年の為、枝連衆の浦上国秀の後見を受けた。赤松晴政と対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続けた。1537年、尼子晴久が備前国に侵攻すると赤松晴政と和睦して尼子晴久に対抗したが、国衆の離反により敗北した。1541年、尼子晴久が「郡山城の戦い」により、山陽道の勢力が弱まると、播磨、備前の両国を回復した。浦上政宗は赤松晴政の筆頭宿老として、備前西部の松田元盛、税所元常らと縁組し備前、播磨で勢力を拡大した。1551年、浦上政宗は尼子晴久、松田元輝、浮田国定などと同盟を結び、弟浦上宗景は毛利元就、中山信正の援助を得て対立した。「天神山城戦い」や「新庄山城の戦い」などで相次いで敗北、備前国での勢力を大きく後退させた。1558年、赤松晴政を廃して子の赤松義祐に家督を継がせたが、赤松晴政も娘婿である龍野城主赤松政秀を頼った事により龍野赤松家がと独立勢力となった。1564年、浦上宗景と和睦して、次男浦上清宗と黒田職隆の娘と縁組を行うも、婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受けて討死した。

浦上忠宗【うらがみただむね(15??~15??)】

浦上政宗の男。宇喜多直家の放った刺客によって謀殺された。

浦上清宗【うらがみきよむね(15??~1564)】

浦上政宗の次男。1564年、父浦上政宗は、弟浦上宗景と和睦して、浦上清宗と黒田職隆の娘と縁組を行うも、婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受け父浦上政宗と共に討死した。

浦上誠宗【うらがみなりむね (15??~1567)】

浦上政宗の三男。通称三郎九郎。室は黒田職隆の娘。父浦上政宗と兄浦上清宗の討死後、兄の嫁になるはずだった黒田職隆の娘を室に迎えた。播磨国内での勢力拡大を恐れた、叔父浦上宗景家臣江見河原源五郎によって謀殺され、これにより室津浦上家は滅亡した。

浦上直宗【うらがみなおむね(1567~1575)】

浦上誠宗の男。通称久松丸。母の実家である黒田職隆、黒田孝高父子に養われた。備前国で起こった宇喜多直家と大叔父浦上宗景の対立にあたり、宇喜多直家に擁立され岡山城へと迎えられた。浦上宗景は麾下の国人衆の離反が相次ぎ、天神山城から播磨国へと退去した。1575年、宇喜多直家に謀殺された。

浦上宗景【うらがみむねかげ(15??~15??)】

和気郡天神山城主。浦上村宗の次男。官途は遠江守。通称与次郎。1531年、父浦上村宗の討死後、兄浦上政宗が浦上家の家督を相続した。1543年、赤松晴政の侵攻を撃退した。1553年、美作国に侵攻した、尼子家臣宇山久兼と戦った。1551年、尼子晴久の備前侵攻に際してその対応を巡って、松山城主浦上国秀と共に浦上政宗と対立した。1554年、浦上政宗が尼子晴久と結ぶと、浦上宗景は毛利元就と結び、三村家親の支援を受けて備中各地で浦上政宗勢と戦った。1560年、浦上政宗の勢力を備前東部から駆逐し、備前国の支配権を握った。1563年、浦上政宗と和睦して、三村家親と戦った。1564年、浦上政宗と次男浦上清宗が赤松政秀に謀殺されると、浦上誠宗が浦上宗家の家督を相続した。1567年、備前国から三村家親、毛利元就の勢力を駆逐し、浦上誠宗を謀殺した。1568年、松田元輝を滅ぼして、瀬戸内海の児島を除く備前国と美作国東南部を領した。1569年、赤松義祐、赤松則房、小寺政職らと結んで、山陽道各地で毛利元就、三村家親、赤松政秀らと戦った。1574年、宇喜多直家が毛利元就と結んで離反すると劣勢に立たされ、播磨国の小寺政職の元に落延びた。

浦上国秀【うらがみくにひで(15??~15??)】

浦上村宗の三男。富田松山城主。1531年、父浦上村宗の討死後、甥浦上政宗が若年のためその後見人を務めた。浦上政宗が元服すると「浦上家三奉行」のひとりとして島村盛貫、角田佐家と共に浦上政宗を補佐した。その後、浦上政宗と弟浦上宗景が対立した際には、浦上政宗に属して、浦上宗景と戦った。

浦上宗辰【うらがみむねとき(1549~1577)】

浦上宗景の男。通称松之丞。室は宇喜多直家の娘。家臣宇喜多直家が離反し、後に和睦した際に、その娘を室として娶った。1575年、三村元親を滅ぼして宿願を果たしたが宇喜多直家によって謀殺された。

浦上成宗【うらがみしげむね(1573~1636)】

浦上宗景の次男。通称与五郎。宇喜多直家の謀反により父浦上宗景が天神山城から退去すると、浦上成宗は家臣高取備中守に預けられた。その後、宇喜多家臣となり3,000石を領した高取家の元で養育され、高取備中守の娘を室とした。1600年「関ヶ原の役」では、養父高取備中守が討死すると帰農した。

浦上宗久【うらがみむねひさ(15??~15??)】

香登城主。浦上則景の次男。1519年、赤松義村の誘いを受け、三石城主浦上村宗を攻撃しようとしたが、宇喜多能家により察知され、浦上宗久は備中国へ落延びた。

遠藤秀信【えんどうひでのぶ(15??~15??)】

遠藤与市左衛門の男。備中国、美作国などを転々とした後、宇喜多直家に仕えた。

遠藤秀清【えんどうひできよ(15??~1604)】

遠藤与市左衛門の次男。官途は河内守。通称又次郎。備中国、美作国などを転々とした後、宇喜多直家に仕えた。1566年、宇喜多直家から三村家親謀殺の密命を受けて、弟遠藤俊通と共に興善寺で軍議を行っていた三村家親を討取った。大将を討取られた三村家親勢であったが、家臣三村親成が三村家勢を上手く纏めたため備中松山城に撤退した。謀殺成功した、遠藤秀清は徳倉城1,000石を領した。宇喜多秀家の代では4,500石まで加増を受けていた。1600年「関ヶ原の役」後、宇喜多家の改易とともに浪人を余儀なくされた。

遠藤俊通【えんどうとしみち(1533~1619)】

遠藤与市左衛門の三男。官途は修理亮。通称喜三郎。別名遠藤秀隆。備中国、美作国などを転々とした後、宇喜多直家に仕えた。1566年、宇喜多直家から三村家親謀殺の密命を受けて、兄遠藤秀清と共に興善寺で軍議を行っていた三村家親を討取った。大将を討取られた三村家親勢であったが、家臣三村親成が三村家勢を上手く纏めたため備中松山城に撤退した。謀殺成功した、遠藤俊通は赤坂郡正崎城3,000石を領した。

大田原長時【おおたわらながとき(15??~15??)】

和気郡大田原城主。浦上宗景家臣。通称三左衛門尉。浦上宗景が兄浦上政宗から独立する際、浦上宗景を補佐した六名のひとり。1568年、要湊片上と浦伊部との間で起こった境目争いに対し、大田原長時は他の老臣五名と連署して、仲裁にあたった。浦上宗景の奉行として、訴訟沙汰の解決に能力を発揮していた。1574年、宇喜多直家の謀反後も、大田原長時は浦上宗景を支えた。1575年「天神山の戦い」でも浦上宗景方として奮戦、落城後は浦上宗景を護って播磨国へ落延びた。

大村盛忠【おおむらただもり(15??~15??)】

松田元輝家臣。松田元輝、松田元賢の二代に仕えた。

大村元盛【おおむらもともり(15??~15??)】

大村盛忠の男。1568年、伊賀久隆の内通により、金川城が落城すると、松田元明と共に高松城主清水宗治を頼って落延びた。松田元明の病没後、野々口に帰住した。1592年「文禄の役」に、宇喜多秀家に属して参陣した。

大村家盛【おおむらいえもり(15??~15??)】

大村元盛の男。

大森盛忠【おおもりもりただ(15??~15??)】

松田元輝家臣。大森盛長の男。1568年、宇喜多直家が伊賀久隆を内通させて松田家攻略をした時にこれに抵抗したが討死した。

大森家盛【おおもりいえもり(15??~15??)】

大森盛忠の男。

大森義臣【おおもりよしみ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。吉備津神社神職の出身。1575年、大森義臣は浦上宗景との「辛川の戦い」で戦功を挙げた。

大森長範【おおもりながのり(15??~1600)】

大森義臣の男。通称藤左衛門。戸川逵安の寄騎衆として200石を領した。1597年、備前赤坂郡、備前津高郡内の代官を務めた。1599年「宇喜多家騒動」では戸川逵安に属して退去し伏見城に在番した。1600年「伏見城の戦い」で、討死した。

岡家利【おかいえとし(15??~1592)】

磐梨郡肩瀬城主。官途は豊前守。通称平内。宇喜多家三老のひとり。1549年「砥石城の戦い」で、戦功を挙げた。1569年、美作侵攻戦に参陣し、宇喜多直家に従って各地で転戦した。1573年、岡山城の修築及び城下町の整備に任された。1582年、羽柴秀吉に属した宇喜多忠家と共に宇喜多家勢を率いて備中高松城に参陣した。備中国高松城攻略後、庭瀬城を守備し、窪屋郡、都宇郡の干拓を進めた。1588年、宇喜多家の政務を取り仕切っていた長船貞親が亡くなると、その後を継いで宇喜多家の政務を取り仕切った。1592年「文禄の役」に参陣したが病にて倒れて病没した。

岡利勝【おかとしかつ(15??~1615)】

岡家利の男。官途は越前守。通称九郎右衛門。1592年、父岡家利が病没する岡家の家督を相続し、赤坂郡白石城23,300石を領した。1599年、宇喜多秀家の室、豪姫付きの中村次郎兵衛と対立し、その排斥を秀家に訴えたが、勘気を蒙って大和郡山城主増田長盛に預けられた。このとき多くの同僚が主家を退去し、宇喜多家の戦力は大幅に減退した。1600年「関ヶ原の役」後、松平元康に属して6,000石を領した。1614年「大坂夏の陣」で、嫡男岡平内が明石景盛と共に、羽柴秀頼勢に参陣したため、松平元康の不興を買い、京都妙顕寺において自刃した。

岡清三郎【おかせいさぶろう(15??~1581)】

宇喜多直家家臣。別名岡剛介。忍山城700石を領した。1560年、宇喜多直家の命を受けて上道郡龍ノ口城主穝所元常を謀殺した。1567年「明禅寺の戦い」で、戦功を挙げた。宇喜多直家が毛利輝元から離反して、織田信長に通じると、岡清三郎と宇喜多信濃守が守備する忍山城は毛利輝元勢に包囲され、落城。岡清三郎は討死した。

岡元重【おかもとしげ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。通称惣兵衛。官途は但馬守。上道郡正木山城730石を領した。1567年「明禅寺の戦い」で戦功を挙げた。その後津高郡船山城に移って守備した。

岡平次郎【おかへいじろう(15??~15??)】

岡利勝家臣。1599年、宇喜多秀家の城代として岡家利の寄騎衆の湯浅九郎兵衛尉、岡平次郎を派遣した。

岡本氏秀【おかもとうじひさ(15??~15??)】

浦上宗景家臣。通称太郎左衛門。大田原長時、服部久家、日笠頼房、延原景能、明石景親と並ぶ浦上家の重臣で、浦上宗景の奉行として活躍した。1568年、片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を六人がいった。浦上家の滅亡時も、浦上宗景と共に播磨国に落延びた。

長船貞親【おさふねさだちか(15??~1591)】

宇喜多直家家臣。官途は越中守。通称又右衛門。1567年「明禅寺の戦い」に参陣した。1569年、美作国に侵入し、三浦家残党と共に毛利家方高田を攻めたが失敗した。など各地で戦い主家に尽力する。1577年、浦上宗景を追放したのちは播磨国駒山城、ついで津高郡虎蔵城を守備した。1577年「上月城の戦い」では援軍に赴くも失敗した。「備中忍山城の戦い」「美作祝山城の戦い」にも参陣した。1585年、宇喜多秀家の宇喜多家の家督相続がが織田信長に認められると、参礼のため安土へ赴いた。1582年、戸川秀安が隠居すると国政を預かる。1585年「四国征伐」に参陣した。1591年、妹婿石原新太郎に虎倉城で謀殺された。

長船綱直【おさふねつななお(15??~1599)】

長船貞親の男。官途は紀伊守。1591年、父長船貞親が謀殺され虎倉城が全焼した。1594年、伏見城普請において普請奉行を務め、そのときの能力を羽柴秀吉に認められて、岡家利に代わって宇喜多家領国の国政を担った。内政手腕に優れ、宇喜多秀家の側近で岡山城の改修に功のあった中村次郎兵衛や、宇喜多直家の時代からの用人浮田太郎左衛門とともに、領内検地などにより主家の財政問題解消に取り組んだ。熱心なキリシタンで宇喜多秀家もこれを容認したため、日蓮門徒の戸川達安や岡利勝らはこれに反発した、後に宇喜多家を退出する原因ともなった。

長船定行【おさふねさだゆき(15??~15??)】

長船貞親の次男。通称吉兵衛。1594年、兄長船綱直の病没を受けて長船家の家督を相続して24,084石を領した。寄騎衆91人、鉄砲足軽40人は家中屈指の戦力を保持した。

長船源五郎【おさふねげんごろう(15??~1591)】

長船貞親の弟。室は戸川秀安の妹。1591年、長船源五郎は、兄長船貞親とその側近金光宗廻と共に虎倉城代石原新太郎を訪問した。碁の対戦中に兄長船貞親と共に石原新太郎と石原新介に謀殺された。

生石惣左衛門【おいしそうざえもん(15??~15??)】

岡利勝家臣。岡利勝組で組頭を勤め2,500石を領した。

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【か】

片岡義春【かたおかよしはる(15??~15??)】

大附城主。通称常右衛門。片岡家は海賊衆を率い宇喜多直家に仕えた。

片岡土佐守【かたおかとさのかみ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。1579年、江見久盛の守備した備中林野城は、後藤勝基の籠城した三星城と共に落城した。宇喜多直家は、片岡土佐守と斎藤新五左衛門を林野城守将に任じた。

金光備前守【かなみつびぜんのかみ(15??~15??)】

松田家臣。室は松田元運の姉。大永期、岡山の地に、岡山城を築城した。

金光宗高【かなみつむねたか(15??~1570)】

能勢頼吉の男(金光備前守の養子)。通称与次郎。1564年、松田元輝と宇喜多直家が和睦し、浦上家に属して、備中国へ出陣する動きを察知した三村家親に城を攻められた折、兵が少なく防戦できない状態にあり、三村家親に降参し麾下に入った。1567年「明善寺の戦い」で、三村家親が敗れると宇喜多直家の居城である沼城へ出仕し宇喜多直家の麾下に入った。1570年、岡山城の地を狙っていた宇喜多直家に毛利輝元との内通の嫌疑を受け自刃した。

金光文右衛門【かなみつぶんえもん(15??~15??)】

金光宗高の男。本丸御番衆として900石を領した。父金光宗高が毛利家に内通の疑いで宇喜多直家に自刃させられた。後に岡山城を明け渡し、宇喜多直家に仕えた。1580年「冠山城の戦い」では、勇猛で知られた毛利方の武将湯浅新蔵を討取る戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、宇喜多秀家が敗れた後、弟と共に御野郡古松村に隠棲した。

苅田万三郎【かんだまんざぶろう(15??~15??)】

赤坂郡古城山城主。浦上宗景家臣。長船貞親の寄騎衆。長船貞親組で140石を領した。

苅田弥三郎【かんだやさぶろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船貞親寄騎衆で40石を領した。

苅田与右衛門尉【かんだよえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で800石を領した。御鉄炮衆頭として鉄炮衆38人、1,520石を預った。

苅田又三郎【かんだまたさぶろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で200石を領した。

苅田小平太【かんだこへいた(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で300石を領した。

河内友清【かわちともきよ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。花房職秀寄騎衆で800石を領した。花房職秀が宇喜多家を離れた後は本丸御番衆として戦功を挙げた。

川端家長【かわばたいえなが(15??~15??)】

佐良山城主。浦上宗景家臣。官途は丹後守。浦上宗景の滅亡後に宇喜多家に仕えた。1583年、草刈重継との戦に負けて城を離れる。その後、本丸御番衆並びに鉄砲頭として1,600石を領した。

河原直久【かわはらなおひさ(15??~15??)】

三村家親家臣。通称六郎左衛門。1574年、毛利輝元が三村元親の父三村家親を謀殺した宇喜多直家と和睦したため、三村元親は毛利家を離反し織田信長と手を結んだ。1575年、三村元親の父三村家親の代からの家臣河原直久と竹井直定が毛利家に内通しているという噂があったが、河原直久と竹井直定はこれを打ち消すため、三村元親の妹婿の都窪郡幸山城主石川久式に謀反の気持ちがないことを伝え、石川久式が三村元親の守る備中松山城に出向いた隙に、松山城天神の丸を乗っ取り、石川久式の妻子を人質にした。これにより兵の結束は乱れ、備中松山城の落城を早めた。

岸本惣次郎【きしもとそうじろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。「八浜七本鑓」のひとり。1582年、宇喜多直家が病没すると、毛利輝元勢の穂井田元清は八浜の西にまで侵出した。宇喜多直家勢は、宇喜多忠家を大将に戸川秀安、岡利勝らが八浜の手前に布陣した。穂井田元清勢の村上八郎右衛門が海賊衆を使って宇喜多家勢の側面を衝いてため、形勢不利になった、宇喜多忠家は宇喜多家勢の撤退を図ったが宇喜多基家が討死、宇喜多家勢は敗走した。殿軍の戸川秀安が兵をまとめ、能勢頼吉、馬場職家、岸本惣次郎、小森三郎右衛門、粟井三郎兵衛らが穂井田元清勢を食い止めると、国富貞次、宍甘太郎兵衛らが加勢すると、逆に多数の兵を討取って追い崩すことに成功した。

岸本与七【きしもとよしち(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安寄騎衆で300石を領した。戸川達安退去後は一色雅楽助組に編入された。

国富貞次【くにとみさだつぐ(1546~1632)】

上道郡比丘尼山城主。宇喜多直家家臣。通称源右衛門。「八浜七本鑓」のひとりで、鉄砲頭として800石を領した。1582年、宇喜多直家が病没すると、毛利輝元勢の穂井田元清は八浜の西にまで侵出した。宇喜多直家勢は、宇喜多忠家を大将に戸川秀安、岡利勝らが八浜の手前に布陣した。穂井田元清勢の村上八郎右衛門が海賊衆を使って宇喜多家勢の側面を衝いてため、形勢不利になった、宇喜多忠家は宇喜多家勢の撤退を図ったが宇喜多基家が討死、宇喜多家勢は敗走した。殿軍の戸川秀安が兵をまとめ、能勢頼吉、馬場職家、岸本惣次郎、小森三郎右衛門、粟井三郎兵衛らが穂井田元清勢を食い止めると、国富貞次、宍甘太郎兵衛らが加勢すると、逆に多数の兵を討取って追い崩すことに成功した。

小嶋一頼【こじまかずより(15??~15??)】

浦上宗景家臣。通称左馬允。1571年、明石行雄、日笠頼房と連署して、播磨室津と那波の境界争いを解決するため、那波の一向宗寺院万福寺と龍野城主赤松広貞に事態の平穏な収拾を申し付けた。播磨では浦上宗景の擁立する赤松則房と、織田信長方の別所長治との戦いが激化していた。小嶋一頼は浦上宗景の使者として派遣され、置塩城を守備する上月次郎太郎を見舞った。

河本久隆【こうもとつしまのかみ(15??~15??)】

熊山城主。三宅大炊助の男。官途は対馬守。室は宇喜多能家の娘。乙子城以来直家の側近を勤めた。1568年「明禅寺の戦い」に参陣した。1592年「文禄の役」では、宇喜多秀家の出陣後の岡山城留守居役を勤めた。

河本源十郎【こうもとげんじゅうろう(15??~1581)】

河本対馬守の男。通称源十郎。浮田源三兵衛の兄。1581年「八浜の戦い」で討死した。

苔口宗十郎【こけぐちそうじゅうろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。1570年、花房職秀が7,000石を領して荒神山城主に任じられると、小嶋次郎兵衛、苅田七郎兵衛、柴田六郎右衛門、難波孫左衛門、河内七郎左衛門、苔口宗十郎らが寄騎衆として補佐した。

近藤与右衛門【こんどうよざえもん(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。1560年、龍ノ口城主穢所元常を宇喜多直家が攻撃するものの撃退された。1561年、宇喜多直家の謀略により落城し、宇喜多直家の家臣である近藤与右衛門が城主となった。

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【さ】

穢所元常【さいしょもとつね(15??~1561)】

上道郡龍ノ口城主。官途は治部少輔。1560年、龍ノ口城主穢所元常を宇喜多直家が攻撃するものの撃退された。1561年、宇喜多直家は、男色家の穢所元常に対して美男の家臣を放逐後に召抱えさせた後に謀殺させ龍ノ口城を落城させた。

笹部勘次郎【ささべかんじろう(15??~15??)】

赤磐郡茶臼山城主。浦上宗景家臣。1577年、宇喜多直衛が天神山城主浦上宗景を播磨国に追い落とすと、美作国三星城主後藤勝基は、反宇喜多直家の城主を集めた。笹部勘次郎も後藤勝基に属して、宇喜多直家に対抗した。1579年、宇喜多家臣延原景能、花房織秀らの猛攻を受け落城した。笹部勘次郎は討死した。

塩見孫左衛門【しおみまござえもん(15??~1581)】

浦上宗景家臣。浦上宗景に最後まで従ったが、浦上家の没落以後は備前上道郡西隆寺村に引きこもった。

宍甘太郎兵衛【しじかいたろうべえ(15??~15??)】

宇喜多秀家家臣。宇喜多秀家に仕えて1,210石を領した。1581年「八浜の戦い」では、毛利輝元勢の追撃を退け「八浜七本槍」のひとりとして名を轟かせた。1600年「関ヶ原の役」では、老齢により留守居役として弟宍甘太郎右衛門と共に岡山城に留まり、城代浮田宗勝を補佐した。宇喜多秀家が敗走すると、岡山城の接収に来た戸川達安、宇喜多詮家に無事城を明け渡すのに貢献した。

宍甘太郎右衛門【しじかいたろうえもん(15??~15??)】

宇喜多秀家家臣。宇喜多秀家に仕えて1,624石を領した。1597年「南原城の戦い」では、南門へ一番槍の戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、留守居役として兄宍甘太郎兵衛と岡山城に留まり、城代浮田宗勝を補佐した。宇喜多秀家が敗走すると、岡山城の接収に来た戸川達安、宇喜多詮家に無事城を明け渡すのに貢献した。

島村貴則【しまむらたかのり(15??~1531)】

細川高国家臣。通称弾正左衛門。1531年、摂津国尼崎で細川晴元方の三好元長らに敗れ,敵兵ふたりをかかえ海中に身を投じた。のち近辺でとれる人面状模様の蟹を島村蟹とよぶようになった。

島村盛実【しまむらもりざね(1509~1559)】

邑久郡高取山城主。島村貴則の男。浦上家臣。官途は豊後守。別名島村宗政。浦上家三奉行のひとり。1534年、浦上家臣であった頃から仲の悪かった宇喜多能家を砥石城に奇襲し、これを自刃に追い込んだ。その後は浦上家中にて権勢を大いに振るった。1559年、宇喜多能家の孫宇喜多直家によって謀反の容疑をかけられて謀殺された。

来住法悦【しゅうらいごうえつ(15??~1609)】

法悦城主。伊部の豪商。1582年、羽柴秀吉が「備中高松城の戦い」後、来住法悦の屋敷に帰路立ち寄る約束をしたのが「本能寺の変」により立ち寄ることはなかった。

新庄安政【しんじょうやすまさ(15??~1559)】

竹原城主。中山信正家臣。通称助之進。1549年、宇喜多直家は砥石城を攻略した恩賞として奈良部に領地を得て新庄山城を賜わり、新庄安政は竹原城を築いて移った。1559年、宇喜多直家は中山信正を謀殺し新庄安政の竹原城も攻め落として新庄安政は自刃した。

進藤正次【しんどうまさつぐ(15??~15??)】

宇喜多秀家家臣。通称三左衛門。本丸御番衆として600石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、宇喜多秀家に従って参陣したが、敗れると宇喜多秀家、黒田勘十郎と共に戦線を離脱し、宇喜多秀家を薩摩国へ落延びさせた後、大坂に出向いて松平元康に宇喜多秀家は自刃したと嘘の報告をした。後に、松平元康に仕えて500石を領した。

真木鈴木近重【すずきちかしげ(15??~15??)】

真木山城主。伊賀家臣。通称孫右衛門。1566年「松山城の戦い」では、搦め手で戦功を挙げた。「岩毛の戦い」「佐井田の戦い」でも、戦功を挙げた。

須々木行連【すずきゆきつら(15??~15??)】

船山城主。松田元堅家臣。通称豊前守。1563年、三村家親の攻撃を受け降伏した。1567年「明禅寺の戦い」で、三村家親が宇喜多直家に敗れると、宇喜多家に降伏したが、須々木行連を改易に処し船山城を廃城した。

須々木四郎兵衛【すずきしろうびょうえ(15??~15??)】

須々木豊前守の男。明見山城に在城した。1567年、須々木行連が宇喜多直家から改易処分を受けた。

角田佐家【すみださやいえ(15??~15??)】

浦上家臣。浦上家三奉行のひとり。

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【た】

高取宗政【たかとりさえもん(15??~15??)】

香登城主。浦上宗景家臣。通称左衛門。1534年、島村豊後守に討たれた後は、香登城は、高取宗政が城主となった。宇喜多直家が浦上宗景に叛旗を翻すと、香登城も攻撃を受け落城した。

高畠和泉守【たかはたいじみのかみ(15??~15??)】

鉾立城主。1572年、鉾立城は、児島東部一帯に勢力を持っていた高畠和泉守によって築かれた。

高鼻市正【たかはたいちまさ(15??~15??)】

高畠和泉守の男。1589年、宇喜多直家勢に攻められ落城した。

高見伝兵衛【たかみでんびょうえ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。浮田左京亮の寄騎衆として100石を領した。1582年「八浜の戦い」後、馬場重介の戦功の証人となった。

津島九郎左衛門【つしまくろうざえもん(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安の寄騎衆。

津島七助【つしましちすけ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安の寄騎衆で310石を領した。戸川達安退出後は「御小姓」に編入された。

津島与一郎【つしまよいちろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川秀安の寄騎衆で20石を領した。戸川達安退出後は「津七」に編入された。

津島新左衛門尉【つしましんざえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。岡越前守の寄騎衆で70石を領した。

津島弥助【つしまやすけ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。岡越前守の寄騎衆で60石を領した。

津島次郎三郎【つしまじろうさぶろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。浮田左京亮の寄騎衆で30石を領した。

津島次郎太郎【つしまじろうたろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。浮田主馬の寄騎衆で40石。浮田太郎左衛門尉から浮田主馬に組替えが行われた際、「河州」、浮田河内守に編入された。

津島与市【つしまよいち(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。宍甘太郎兵衛の寄騎衆で90石を領した。

津島治部【つしまじぶ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。楢村監物の寄騎衆。1595年、召放となり、以降明石久兵衛尉の寄騎衆で30石を領した。

津島七右衛門【つしましちえもん(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で520石を領した。1600年「関ヶ原の役」後、美濃国に潜伏する宇喜多秀家を迎えに、本田四佐兵衛、難波助右衛門と赴いた。

恒次家員【つねつぐいえかず(15??~15??)】

和気郡北曾根城主。通称新左衛門尉。

恒次新左衛門【つねつぐしんざえもん(15??~15??)】

恒次家員の男。1553年、天神山城主浦上宗景が兄浦上政宗に叛旗をひるがえすと、浦上政宗は恒次新左衛門を恩賞をもって誘い、天神山城の通路をふさぐように要請した。恒次新左衛門らの不穏が浦上政宗に属すると、浦上宗景の攻撃を受け討死した。

寺見三四郎【てらみさんしろう(15??~15??)】

浦上宗景家臣。浦上宗景に仕えて200石を領した。

寺尾休五【てらおきゅうご(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で1,010石を領した。

寺尾藤右衛門尉【てらおとうえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で280石を領した。

寺尾清吉【てらおせいきち(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で100石を領した。

寺尾喜右衛門尉【てらおきえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で60石を領した。

寺尾右衛門尉【てらおえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で40石を領した。

寺尾三十郎【てらおさんじゅうろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で30石を領した。

寺尾彦三郎【てらおひこさぶろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。長船吉兵衛尉寄騎衆で30石を領した。

寺尾彦兵衛尉【てらおひこびょうえのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。浮田主馬寄騎衆で40石を領した。浮田太郎左衛門が浮田主馬となった後「河州」に編入された。

寺尾孫四郎【てらおまごしろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で400石を領した。1582年「八浜の戦い」後に、馬場重介の戦功に異義を唱えたが、鷹(高)見伝兵衛の証言で却下された。宇喜多秀家が、宇喜多直家家中での鎗の巧者を尋ねた際、浮田修理、浮田太郎左衛門尉、花房又七(道悦)の三人は、馬場重介、幸和織部と共に寺尾孫四郎を巧者とした。

戸川秀安【とがわひでやす(1538~1597)】

宇喜多直家家臣。通称平右衛門尉。官途は肥後守。室は石川晴清の娘。1545年、宇喜多直家小姓として仕えた。1566年、三村家親の弔い合戦と称して三村五郎兵衛が寡兵を率いて、備前国に攻め入ったときに、宇喜多忠家らと共に迎え討った。その後は、備前国、備中国、美作国、播磨国を転戦して数々の戦功を挙げた。1570年、宇喜多直家が謀略により金光宗高を自刃させた後の岡山城の接収を馬場職家と共に執り行った。1575年、常山城25,000石を領した。「第一次木津川口の戦い」では、宇喜多家海賊衆を率いて石川本願寺家方で参陣した。岡家利や長船貞親と並ぶ宇喜多家三老のひとりであるが、宇喜多直家の信任は三老の中で最も厚かった。

戸川達安【とがわたつやす(1567~1628)】

戸川秀安の男。官途は肥後守。通称助七郎。室は長船綱直の娘。継室は岡元忠の娘。父戸川秀安の隠居により戸川家の家督を相続し常山城を守備した。羽柴秀吉勢に属して「高松城の戦い」に参陣した。「九州征伐」「小田原征伐」「文禄、慶長の役」にも、宇喜多秀家勢の主力として参陣して戦功を挙げた。宇喜多直家の没後、宇喜多家の国政は三老が宇喜多秀家を後見する体制をとった。1591年、長船貞親が謀殺された。1592年、岳父岡家利が病没すると、戸川達安が中心となって国政を担った。1594年、宇喜多秀家は、筆頭家老の戸川達安を罷免し、長船紀伊守を筆頭家老に任じた。宇喜多秀家や豪姫がキリシタンに関心を示すと、日蓮宗の信者が大半を占める宇喜多家中は動揺し、さらに長船紀伊守が急死するなど、家中は分裂状態に陥った。1600年「宇喜多家騒動」が起こり、中村次郎兵衛に対して戸川達安が宇喜多詮家や岡越前守と共に反乱を起し、備前屋敷に籠城したが、松平元康の調停で宇喜多家を退去した。「関ヶ原の役」では、松平元康に属して戦功を挙げ、備中国庭瀬城主30,000石を領した。

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【な】



中村次郎兵衛【なかむらじろべえ(15??~1636)】

宇喜多秀家家臣。通称中村刑部。はじめは前田利家の家臣であったが、宇喜多秀家が前田利家の娘である豪姫を娶ると、その付き人として宇喜多秀家に仕え、大坂屋敷家老となった。経理に明るく、土木築城技術に優れていたため、宇喜多秀家に重用された。1599年、長船綱直と共に宇喜多詮家、戸川達安、岡越前守、花房正成、角南重義、楢村玄正らと対立して、中村次郎兵衛の排除を図ったが、宇喜多秀家は中村次郎兵衛を前田家に落延びさせた。この事件は「宇喜多家騒動」と称され、宇喜多家の中核戦力である武将達の離反を招いた。

中山信正【なかやまのぶまさ(1510~1559)】

上道郡沼(亀山)城。松田家臣。官途は備中守。後に浦上宗景に属した。中山信正の娘は宇喜多直家の室(奈美姫)。1559年、宇喜多直家は、中山信正の謀叛の風説を流し、浦上宗景から討伐命令を受けるように仕向けた。宇喜多直家は、舅中山信正を宴に誘い謀殺し、亀山城を奪い領地を拡大した。父が謀殺されたことを新庄山城で知った奈美姫は、宇喜多直家の所業を恨み、二人の女児を残して自刃した。

楢村監物【ならむらけんもつ(15??~1594)】

宇喜多直家家臣。1592年、病没後、寄騎馬衆は召し放され、明石久兵衛尉に預けられた。

楢村玄正【ならむらはるまさ(15??~1611)】

楠木正虎の男(楢村監物の養子)。通称監物。室は明石景親の娘。後陽成天皇から「コトシヨリ花咲初ル橘ノイカデ昔ノ香ニ匂フラン」と書かれた宸筆色紙を賜った。3,100石を領して、寄騎衆に23人、鉄砲足軽40人を率いた。「小田原の役」や「文禄、慶長の役」に参陣した。1599年「宇喜多家騒動」の際は戸川達安に属して大坂の宇喜多家邸に籠るが、後に大谷吉継の仲介で帰参した。1600年「関ヶ原の役」への参陣を拒否されて再び宇喜多家を退出して、大和奈良に閉居した。1602年、松平元康より備中国に2,000を与えられた。

楢村新五兵衛尉【ならむらしんごべえのじょう(15??~15??)】

松田元康家臣。後浦上宗景に仕え、さらに宇喜多秀家に仕えて200石を領した。宇喜多家では寄騎衆として伯父楢村監物組に属した。

楢村左介【ならむらさすけ(15??~15??)】

楢村監物寄騎衆。楢村監物組で40石を領した。

楢村徳右衛門尉【ならむらとくえもんのじょう(15??~15??)】

楢村監物寄騎衆。室は妙行(内室)。楢村監物組で30石を領した。

楢村助八【ならむらすけはち(15??~15??)】

楢村監物寄騎衆。楢村監物組で30石を領した。

楢村九兵衛尉【ならむらきゅうべえのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で400石を領した。

楢村平六【ならむらへいろく)(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で300石を領した。

楢村宗吉【ならむらそうきち(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で360石を領した。

楢村太郎作【ならむらたろうさく(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で50石を領した。

楢村八郎右衛門尉【ならむらはちろうえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。赤坂郡周匝1,308石を領した。

難波信明【なんばのぶあき(15??~1571)】

花房職秀家臣。1571年、花房職秀が後院庄城主杉山為国と戦った際、杉山為国を討取ることが出来たが、難波信明もまた討死した。

難波経定【なんばつねさだ(15??~15??)】

殿山城主。松田家臣。通称八郎佐衛門。永禄年間、宇喜多直家勢の攻撃を受け討死した。

額田秀正【ぬかたひでまさ(15??~15??)】

赤磐郡大久保城主。通称与次右衛門。1575年、宇喜多直家の攻撃を受け、額田秀正は宇喜多家臣渡辺紀右衛門に討たれた。

額田喜介【ぬかたきょうすけ(15??~15??)】

赤磐郡佐古谷城主。浦上宗景家臣。宇喜多直家の攻撃を受け落城した。

能勢頼吉【のせよりよし(15??~15??)】

児島郡本太城主。松田元輝家臣。官途は修理大夫。通称勝右衛門。「八浜七本鑓」のひとり。後宇喜多直家に属した。1567年「明善寺の戦い」で庄元祐を討取る戦功を挙げた。1582年、宇喜多直家が病没すると、毛利輝元勢の穂井田元清は八浜の西にまで侵出した。宇喜多直家勢は、宇喜多忠家を大将に戸川秀安、岡利勝らが八浜の手前に布陣した。穂井田元清勢の村上八郎右衛門が海賊衆を使って宇喜多家勢の側面を衝いてため、形勢不利になった、宇喜多忠家は宇喜多家勢の撤退を図ったが宇喜多基家が討死、宇喜多家勢は敗走した。殿軍の戸川秀安が兵をまとめ、能勢頼吉、馬場職家、岸本惣次郎、小森三郎右衛門、粟井三郎兵衛らが穂井田元清勢を食い止めると、国富貞次、宍甘太郎兵衛らが加勢すると、逆に多数の兵を討取った。

延原景能【のぶはらかげよし(1528~1580)】

上山城主。浦上宗景家臣。官途は弾正忠。浦上政宗と浦上宗景とが争った際は、浦上宗景に属して戦功を挙げた。1568年、片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時、服部久家、日笠頼房、岡本氏秀、明石行雄、延原景能の六人が行った。1574年、浦上宗景と宇喜多直家の「天神山城の戦い」では、延原景能は宇喜多直家に寝返った。1577年、美作国で真木山長福寺の宗徒が嶺の外へと境を広げた、後藤家臣後藤左近、小坂田甚兵衛、難波与三右衛門が兵200余りで真木山を攻め立て宗徒を降伏させたが、延原景能勢60余りが討取られた。1578年、延原景能が、茶臼山城主笹部勘次郎と争うと、笹部勘次郎は星鷺山城主賀光重から援軍を受け延原景能勢を敗走させた。1579年、延原景能は花房職秀と共に、笹部勘次郎、星賀光重、鷹巣城主江見市之丞を攻略後、宇喜多詮家の援軍を得て、三星城主後藤傷基を自刃に追い込んだ。1580年、美作国で毛利輝元勢との戦いの中で討死した。

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【は】

服部久家【はっとりひさいえ(15??~15??)】

浦上宗景家臣。官途は備後守。邑久郡福岡庄服部郷の出身。1567年、浦上宗景の使者として赤松家のもとへ行くなど、外交面で浦上宗景を支えた。1568年、片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時、服部久家、日笠頼房、岡本氏秀、延原景能と明石景親の六人が行った。宇喜多直家謀叛の際にも、浦上宗景方として戦った。

馬場職家【ばばもといえ(1532~1608)】

浮田国定家臣。通称次郎四郎。「八浜七本槍」のひとり。1556年、花房正幸の放った矢に指を射抜かれ負傷し、撤退した。浮田国定が討死後、宇喜多直家に仕え300石を領した。1563年、美作国に侵攻した三村家親勢と「三星城の戦い」で戦功を挙げた。1564年、備前国に侵攻してきた備中衆との龍口城での攻防戦でも戦功を挙げた。1567年、父三村家親の弔い合戦のため備前国に侵攻した三村元親勢と「明禅寺の戦い」などの各合戦に参戦し、戦功を挙げた。1570年、宇喜多直家が謀略により金光宗高を切腹させた後の岡山城の接収を戸川秀安とともに執り行った。1580年「高城の戦い」に参陣したが、敵の放った鉄炮で重傷を負った。1582年、備前国に侵攻してきた穂井田元清勢との「八浜の戦い」では、その殿をつとめ「八浜七本槍」と称せられた。羽柴秀吉の「九州征伐」にも参陣したが、この際に負傷し、老齢であった事もあり晩年は邑久郡に隠遁した。

馬場実職【ばばさねとも(15??~15??)】

馬場職家の男。1592年「文禄の役」に参陣した。「漢南の戦い」では 戸川達安の弟戸川玄蕃が危機を陥ると助太刀をした。1600年「関ヶ原の役」後、岡山に戻り隠棲した。のちに池田光政に仕えた。

馬場右近大夫【ばばうこんのたいふ(15??~15??)】

浦上宗景家臣。邑久郡豊原庄の豪族衆。1575年、浦上宗景の使者として阿波国の三好長治のもとへ派遣され、援軍の早期出陣を催促したが、三好家は積極的な軍事行動を起こさず、馬場右近大夫の交渉は失敗に終わった。

日笠頼房【ひかさよりふさ(1518~1582)】

和気郡日笠青山城主。日笠元信の男。通称次郎兵衛尉。天神山城は浦上政宗方の攻撃を持ちこたえ、逆に浦上宗景は対抗勢力を徐々に駆逐して勢力を拡げると、日笠頼房は浦上宗景に降った。浦上宗景、日笠青山城主日笠頼房を重臣として取り立てるなど厚遇し融和を計った。浦上宗景の奏者として活躍した。1568年、片上と浦伊部の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時、服部久家、岡本氏秀、明石行雄、延原景能と日笠頼房の六人が行った。1571年、明石景親、小嶋一頼と連署で播磨国室津と那波の境界争いを仲介した。1574年、浦上宗景と宇喜多直家との戦においては浦上宗景を支援した。日笠青山城下に宇喜多家勢が侵攻する枝連衆日笠牛介らが戦功を挙げた。1575年、天神山城が落城すると、浦上宗景と共に落延びた。

日笠頼則【ひおきよりのり(15??~15??)】

日笠頼房の男。

日笠頼重【ひおきよりしげ(15??~15??)】

日笠頼房の次男。1598年、藤戸村に帰農し、大庄屋となった。

平賀頼久【ひらがよりひさ(15??~15??)】

赤磐郡明田城主。羽床伊賀守家臣。

平賀義兼【ひらがよしかね(15??~15??)】

赤磐郡山鳥城主。羽床伊賀守家臣。

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【ま】

松田元隆【まつだもとたか(15??~1531)】

御野郡金川城主。松田元勝の男。1522年、将軍足利義晴により京都所司代に命ぜられた。また日蓮宗妙覚寺の別当も務めた。1531年、浦上村宗とともに「摂津天王寺の戦い」で討死した。松田元成以来、浦上家と幾多の戦いを続けてきた松田家だが松田元陸の代からは和睦し、一転して友好な関係を築いていた。

松田元盛【まつだもともり(15??~15??)】

松田元隆の男。室は宇喜多長勝の娘。嫡男松田元輝も浦上国秀の仲介で浦上政宗と婚姻関係を結んだ。

松田元輝【まつだもとてる(15??~1568)】

松田元盛の男。官途は左近将監。別名松田元堅。1551年、尼子晴久の備前侵攻に際しては尼子晴久に従がって浦上政宗と連携して、浦上宗景と戦った。尼子晴久が病没すると、浦上宗景は備前から徐々に尼子家、浦上政宗方の勢力を駆逐して備前での影響力を強めた。松田家麾下の龍ノ口城主穝所元常が宇喜多直家の計略によって、岡清三郎に謀殺された。和田城主和田伊織も敗走させられて苦戦を余儀なくされた。1562年、松田元輝は苦境を脱するため浦上宗景と和議を結び、宇喜多直家の長女を嫡男松田元賢の室に迎えた。松田家臣の伊賀久隆にも妹を嫁がせ、浦上家との連携を図った。松田元輝は嫡男松田元賢ともに熱狂的な日蓮宗徒で、読経に明け暮れたり、領内の他宗の神社に改宗を迫り、断れば打ち壊して焼き払うなどの乱行とも取れる行動を繰り返し次第に領内の民衆は荒れ、家臣団との関係に亀裂が生じるようになった。1568年、松田家臣の宇垣与右衛門が宇喜多家に謀殺されるが、松田元輝は宇喜多直家との友好関係悪化を恐れ黙認する。この松田元輝の処置に激怒した宇垣与右衛門の兄、宇垣市郎兵衛は松田元輝に絶縁状を突きつけて出奔した。宇喜多直家は伊賀久隆をは調略によって寝返らせると、伊賀久隆に金川城を包囲させ松田元輝を討取らせた。

松田元賢【まつだもとかた(15??~1568)】

松田元輝の男。通称は孫次郎。室は宇喜多直家の娘。1562年、浦上家臣宇喜多直家からの和議の申し入れを父松田元輝が受け入れ、浦上家との和睦が成立した際に宇喜多直家の娘を娶り婚姻関係を結ぶ。1568年、松田家臣の宇垣与右衛門が宇喜多家によって謀殺されると、浦上家との関係も再び悪化する。宇喜多直家は調略によって寝返らせていた伊賀久隆に金川城を包囲させると松田元賢も父松田元輝とともに籠城した。籠城中、父松田元輝が討死すると、父に替わって指揮を執ったがまもなく弟松田元脩とともに落延びた。総大将が離脱した事により部下の多くも金川城から退去、程なくして伊賀久隆に城門の守りを破られ、金川城は落城した。松田元賢は、落延びる途中、伊賀久隆の手勢に討取られた。室の宇喜多直家の娘も程なくして自害した。

松田元脩【まつだもとなが(15??~15??)】

富山城主。松田元輝の次男。1568年、金川城落城のさい、雑兵に紛れ兄松田元賢とは別行動で脱出した。金川城攻略と同時に富山城にも宇喜多と伊賀の兵が仕向けられ城主不在の富山城は金川城落城に併せて既に然したる抵抗も出来ずに落城した。松田家臣の多くは金川城で命を落とすか宇喜多直家に恭順の意を示すかの行動をしていた。これにより兵を集めて反抗するどころか行く宛てすら無くなってしまった松田元脩は止む無く宇喜多直家の手を逃れるため備中国へと落延びた。

松田家臣団【まつだけかしんだん】

横井土佐守、宇垣市郎兵衛、宇垣与右衛門、松田元親、大村盛恒。

新庄松田元貞【まつだもとさだ(15??~15??)】

磐梨郡西谷城主。通称久兵衛。1575年、松田元貞は浦上宗景に属して天神山城に籠城した。

虫明市内【むしあけいちない(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。戸川肥後守組で30石を領した。戸川達安退去後は「九平次」に属した。

虫明喜右衛門尉【むしあけきえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。岡越前守組で27石を領した。

虫明助左衛門尉【むしあけすけざえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。岡越前守組で50石を領した。

虫明宗左衛門尉【むしあけそうざえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。浮田左京亮組で20石を領した。

虫明市左衛門尉【むしあけいちざえもんのじょう(15??~15??)】

虫明又兵衛の男。は宇喜多直家に仕えた。邑久郡服部村を領し、本丸御番で970石を領した。

虫明忠右衛門尉【むしあけそうざえもんのじょう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で425石を領した。

森田小伝次【もりたこでんじ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で500石を領した。御弓頭として御弓衆30人、1,200石を預かった。1600年「関ヶ原の役」後は本多左兵衛、進藤三左衛門尉、黒田勘十郎、芦田作内と共に宇喜多秀家潜伏に随行したが、森田小伝次は途中で脱落した。

森田兵段【もりたひょうえ(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。本丸御番で100石を領した。

森田小一郎【もりたこいちろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。西丸番で20石を領した。

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【や】

湯浅九郎兵衛【ゆあさくろへいえい(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。岡家利の寄騎衆に属し、組頭や旗奉行を兼ねた。1598年、窪屋郡幸山城在番を勤めた。

横井又十郎【よこいまたじゅうろう(15??~15??)】

田益城主。官途は丹後守。通称又七郎。松田元賢家臣。富田城を橋本、宇垣市郎兵衛と共に交替で守備した。

横井氏明【よこいうじあき(15??~15??)】

横井又十郎の男。1540年、横井氏明は、宇垣秀緒と共に松田元堅の奉行人を務めた。

横井氏家【よこいうじいえ(15??~15??)】

横井氏明の男。

和田伊織【わだいおり(15??~15??)】

赤磐郡両宮山城。松田元賢家臣。両宮山城は、龍の口城の出城で和田伊織の居城であったが、龍の口城が落城した後、宇喜多直家勢によって攻められ落城した。

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【資料Ⅰ】

備前国(9郡/240,000石)

和気郡:天神山城、三石城。
磐梨郡:肩瀬城。  
赤坂郡:茶臼山城
上東郡:福岡城、亀山(沼)城。  
上道郡:龍ノ口城。  
邑久郡:高取山城、福岡城
津高郡:虎倉城。 
御野郡:岡山城、金川城。
児島郡:常山城、本太城。

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【資料Ⅱ】

宇喜多家三老【うきたけさんかろう】

戸川秀安、岡家利、長船貞親。

浦上家三奉行【うらがみけさんぶぎょう】

角田佐家、浦上国秀、島村盛貫。

八浜七本槍【はちはまななほんやり】

能勢頼吉、国富貞次、宍甘太郎兵衛、馬場職家、岸本惣次郎、小森三郎右衛門、粟井三郎兵衛。

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【資料Ⅲ】

備前国【びぜんのくに】

播磨灘に面した山陽道の国。東は日名倉山から船坂峠に至る線で播磨国に接し、西は太平山から岡山に至る線で備中国と接する。北は吉備高原で美作国に接し、南は岡山平野から瀬戸内海を臨む。中国山地から瀬戸内海に注ぐ吉井川と旭川の二つの水系の流域に、肥沃な沖積平野が形成され、弥生時代から農業が発達した地域であった。また古くから製塩業や軽工業も発達した。工業としては、伊部を中心とした備前焼の工芸品の他に、長船物を代表とする備前鍛冶があり、戦略的にも重要である。こうした工業品を販売するための市場も整備され、文化、経済共に発展している地域。

伊部【いんべ】

中世、備前国の皇室領香登荘にあって片上湾に臨む港街。同荘と西方約五キロにある吉井川流域の物資集散港として、西日本全域で使用された備前焼の生産、流通拠点としても栄えた。山陽道により、伊部は陸路と海路を結節する交通の要衝としての地位を占めるようになった。伊部とその周辺の山地では、備前焼の生産が盛んであり、15世紀後半には窯が流通に都合のいい伊部周辺の山麓や浦伊部地区に移り、畿内をはじめ西日本各地に流通量を拡大させた。伊部船は備前焼の他にも米やマメ、小麦、胡麻、蕎麦、芋(芋麻布の材料)などを運んでおり、香登荘や吉井川流域など内陸部広域の物資積出も担う水運の拠点でもあった。

福岡【ふくおか】

吉井川の下流が山陽道と交差する水陸交通の要衝に形成された市場街。中世、穀倉地帯であった福岡荘や香登荘など周辺荘園や美作など吉井川上流地域の物資集散地となって栄えた。室町期の福岡には、その地勢的、経済的な重要性から備前国守護赤松家や山名家の守護所がおかれた。

備前刀【びぜんとう】

備前国吉井川下流域の長船や福岡を拠点とする備前刀工によって製造され、全国的に流通した刀剣。備前鍛冶の拠点となった福岡、長船地域は、山陽道が通る交通の要衝。吉井川も鉄の産地である美作国に通じていることから、流通や技術、素材の入手などに有利な条件を備えていた。1488年、長船勝光、長船宗光の一党六十人が上洛し、足利義尚のもとで千草鉄廿駄を用いて刀を打った。1464年、三万把超の刀剣が遣明貿易で明国に輸出されていた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

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※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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