2013年7月6日土曜日

戦国石見国人名辞典

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【あ】

当木四郎左衛門【あてのきしろうざえもん(15??~15??)】

風呂の木砦主。三隅家臣。1570年、毛利元就勢の攻撃を受け、当木四郎左衛門と家臣八の木八郎右衛門は討死した。

安部家貞【あべいえさだ(15??~15??)】

吉見頼興家臣。1532年、萩常念寺を建立した。

安部元貞【あべもとさだ(15??~15??)】

安部家貞の男。吉見正頼の信任厚く、萩指月要害の守護を命じられた。1563年、阿武郡川島庄七石九斗三升足を加増された。

安氏稔【あんのうじとし(1505~1581)】

吉見正頼家臣。官途は下総守。1558年、吉見正頼より阿武郡地福、生雲で九石六斗を加増された。

安吉金【あんのよしかね(15??~15??)】

吉見家臣。通称新左衛門尉。1572年、周防宮野の正安寺にあった高麗版書写般若経を阿武郡篠目の希運院に施入した。

阿武政直【あんのまさなお(15??~15??)】

吉見正頼家臣。通称右衛門尉。豊前三嶽城攻防戦では吉見正頼に属した。後に小早川隆景に属して「小田原の役」や「文禄の役」に参陣した。

出羽祐盛【いずはすけもり(15??~15??)】

邑智郡二ッ山城。官途は民部大輔。石見国人衆。出羽450貫を隣接する高橋盛光に横領されていた。1529年、毛利元就によって高橋盛光が滅ぼされ、所領を還付されたのを期に毛利元就に属した。

出羽元祐【いずはもとすけ(15??~15??)】

出羽祐盛の男。官途は民部大輔。1549年、大内義隆より家督相続を安堵された。大内義隆死後は毛利元就に属した。1554年、安芸国黒瀬での陶与党の殲滅戦や「厳島の戦い」で戦功を挙げた。1555年、安芸佐東50貫、東西条100貫。1560年、石見高見70貫、山南55貫。1564年、石見矢上500貫を宛がわれた。後に毛利元就の六男、毛利(出羽)元倶を養子に迎えた。

出羽元倶【いずはもととも(1555~1571)】

毛利元就の六男(出羽元祐の養子)。通称孫四郎。十七歳で病没した。

出羽元勝【いずはもとかつ(15??~15??)】

出羽元祐の男。官途は出雲守。別名富永掃部頭。出羽家に入嗣していた出羽元倶(毛利元就六男)が病没したため、出羽家の家督を相続した。1574年、足利義昭より毛氈鞍覆、白傘袋の使用を認められた。1589年、周防都濃郡内393石、玖珂郡内190石余を打渡された。羽柴秀吉から従五位下、出雲守に任官された。

伊藤実信【いとうさねのぶ(15??~1569)】

吉見家臣。官途は左近亮。1569年、大内輝弘率いる大内再興勢が山口に侵攻した際、吉賀頼貞、上領信貞共に兵500余りを率い救援に向かうも宮野口仁保之杖坂において城井小次郎率いる大内輝弘勢に大敗し討死した。

伊藤元利【いとうもととし(15??~15??)】

伊藤頼時の男。官途は但馬守。吉見元頼に属した。1592年「文禄の役」の際、戦功を挙げた。1598年、毛利輝元に召しだされ120石を領した。

伊藤就安【いとうなりやす(1578~1660)】

伊藤頼時の次男。1592年「文禄の役」の際、吉見元頼に属して戦功を挙げた。

井下朝兼【いのしたともかね(15??~15??)】

福屋隆兼家臣。通称新兵衛尉。福屋隆兼家臣だったが吉川元春に降伏し、吉川家に仕えた。のちに伊予河野家への救援部隊の先鋒として赴いた。

上杉五郎丸【うえすぎごろうまる(15??~1554)】

鹿足郡五郎丸城主。1554年、陶晴賢勢の攻撃を受け落城した。

大石治郎兵衛【おおいしじろべい(15??~15??)】

大石城主。1522年、大石治郎兵衛がこの地を領した。

大草永春【おおくさながはる(15??~1559)】  

美濃郡出来円大草城主。1559年、吉川春元に対して反旗するものの益田藤兼に攻められ討死した。

大島弥六左衛門【おおしまやろくざえもん(15??~15??)】  

益田元祥家臣。1592年「文禄の役」では、戦功を挙げた。その時に使用した太刀は「遠田八幡宮」に奉納された。

益田大谷章道【おおたにあきみち(15??~15??)】 

大谷城ヶ辻城主。1511年、益田宗兼に属して「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。

益田大谷知通【おおたにともみち(15??~15??)】 

大谷章道の男。1561年、益田藤兼に属して、大友義鎮勢と戦った。1563年、毛利元就の尼子晴久攻めで戦功を挙げた。1592年「文禄の役」では、益田元祥勢の一隊として参陣した。

益田大谷章昌【おおたにあきまさ(15??~15??)】 

大谷知通の男。1570年「三隅の戦い」では、益田藤兼勢に属して戦功を挙げた。1592年「文禄の役」では、大谷章昌は益田家の三奉行のひとりとして活躍した。

益田大谷織部丞【おおたにおりべのじょう(15??~15??)】 

益田大谷家枝連衆。益田藤兼家臣。1560年、石見海賊衆を率いて戦功を挙げた。兵糧を運ぶなど毛利元就へ多大な貢献をした。

匹見大谷吉隆【おおたによしたか(15??~15??)】 

那賀郡広瀬古土居城主。益田藤兼家臣。官途は若狭守。1555年、小松尾城に益田兼治が入城し、益田家が匹見郷を支配下に置いた。大谷、斎藤、澄川の三家が匹見郷を治めた。大谷家枝連衆の所領は、三葛、野入、内谷、広瀬、千原など匹見の大半を領した。益田元祥に枝連衆を謀殺されが、自身は隠居していた為、謀殺劇には会わなかった。

匹見大谷通光【おおたにみちみつ(15??~1575)】 

匹見竜山城主。官途は主水頭。大谷吉隆の次男。父大谷吉隆から広大な領地を受け継いでいた。1575年、大谷正方が益田元祥へ謀反を起こした杉森氏久に援軍を出した事を益田元祥に知られ激怒、益田元祥の命を受けた渡辺左内に江の川の渡しに誘われ謀殺された。

匹見大谷盛英【おおたにもりひで(15??~1575)】 

千原城山城主。1575年、大谷通光が謀殺されると東村龍山城へ籠城したが、寺戸惣右衛門に徹底交戦し討取られた。

匹見大谷内蔵丞【おおたにくらのじょう(15??~1575)】 

大谷吉継の三男。内村花木城主。1575年、小松尾城主益田兼治の宴へ呼ばれ謀殺された。

匹見大谷平内【おおたにへいない(15??~16??)】 

大谷吉継の四男。三葛屋敷主。1575年、大谷家枝連衆が謀殺された際、寺戸惣右衛門を討取った。その後、備中国に落延びた。

大谷正方【おおたにまさかた(15??~15??)】

大鹿城主。通称右京進。1570年、杉森氏久が謀反を起こした際、家臣森脇市正に兵100を授け、杉森氏久の救援に向かわせた。

大庭景治【おおばかげはる(15??~15??)】

鹿足郡中山城。吉見家臣。官途は将監。陶晴賢が吉見領に侵攻した際、大庭景治は須子伊豆守、板垣甲斐守らと共に下瀬山城に籠城した。陶晴賢に属した益田勢の攻撃から下瀬山城を守りぬいた。

石見小笠原長徳【おがさわらちょうとく(15??~1547)】

邑智郡川本温湯城主。小笠原長隆の男。1542年 銀山を奪回した。石見小笠原家は清和源で阿波小笠原長房の男、小笠原長親が石見国邑智郡温湯城を領したことにはじまる。

石見小笠原長雄【おがさわらながたか(1520~1569)】

石見小笠原長徳の男。官途は弾正少弼。通称弥治郎。室は吉川元経の娘。1547年、父小笠原長徳の病没により、小笠原家の家督を相続した。1548年、石見銀山を占領した。この頃の領地は、邑智郡、迩摩郡、安濃郡の三郡にまたがり16,800石を領した。1551年、大内義隆が病没すると尼子晴久に属した。1558年「降露坂の戦い」で毛利元就の攻撃を受けた。尼子晴久の援軍を受けたが毛利元就の攻撃を受け続けた。1559年、小早川隆景の仲介を受けて毛利元就に降伏した。1558年、吉川元春によって攻められると、小笠原長雄は温湯城に籠城し尼子晴久の援軍を待ったが、尼子晴久勢の援軍が江の川を渡れず引き上げたことにより降伏した。毛利元就は小笠原長雄の所領を江の川の北側へと替え、温湯城のある辺りは吉川家領となり替え地として伊田、羽住(波積)を与えた。

石見小笠原長旌【おがさわらなかはた(15??~1595)】

小笠原長雄の男。小笠原長旌は病弱であったことから、小笠原長旌にかわって吉川元春の三男吉川広家を養子に迎えようとしたが毛利輝元の反対により実現しなかった。1569年、尼子勝久の蜂起に対して、先陣を務め鎮圧した。小笠原長旌は娘と弟小笠原元枝の嫡男小笠原長親を娶せ、嫡男としたが、その後に実子である小笠原千代童丸が生まれた。小笠原元枝は家督を小笠原千代童丸に返還させたが、小笠原千代童丸はわずか二才で夭折、小笠原長旌も没すると、小笠原元枝が小笠原家の家督を相続した。

石見小笠原元枝【おがさわらもとえだ(15??~15??)】

小笠原長雄の次男。

石見小笠原長親【おがさわらながちか(15??~15??)】

小笠原元枝の男。室は小笠原長旌の娘。1592年「文禄の役」参陣中に、出雲国神西城に転封になった。

岡田則彰【おかだゆきあき(15??~1551)】 

西山水来城主。三隅興兼家臣。官途は右京亮。1553年、三隅興兼が益田藤兼に降伏した後も、抵抗をやめず討死した。

岡彦兵衛【おかひこべえ(15??~15??)】  

益田祥元家臣。1592年「文禄の役」では、益田元祥に属して戦功を挙げた。朝鮮の陣、自分の草履に挟まった「石」が取れず日本に持ち帰りそれを祭った。

岡本大蔵大夫【おかもとおおくらだいふ(15??~15??)】

石見国豪族衆。大内義隆家臣。1542年、大内義隆と大内晴持に属して「月山富田城の戦い」に参陣した。枝連衆大内照弘、家臣杉重政、陶晴賢、内藤守興盛他、石見国の国人衆は、益田藤兼、福屋隆兼、佐波隆連、小笠原長雄、本城経光、羽根弾正忠、都野駿河守、岡本大蔵大輔、利清太兵衛、吉川和泉守、都治三河守らが参陣した。

岡本正長【おかもとまさなが(15??~15??)】

三ッ子山城主。福屋家臣。毛利元就により滅ぼされた。

岡本家臣団【おかもとけかしんだん】

古城主:石川九郎。

乙吉刑部丞【おとよしけいべのじょう(15??~15??)】 

益田藤兼家臣。益田藤兼の外交を支えた。

小野政福【おのまさふく(15??~15??)】

吉見家臣。官途は内蔵助。小野鉱山を再開発し吉見家の財政に多大な貢献をした。

小野盛吉【おのもりよし(15??~15??)】   

三隅隆繁家臣。1570年「三隅高城の戦い」では、毛利元就勢の熊谷飛騨守を討取ったが、三隅隆繁、三隅国定兄弟は自刃した。

小野行則【おのゆきのり(15??~15??)】  

三隅隆繁家臣。1570年「三隅高城の戦い」で活躍した。

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【か】

勝達貞経【かつだちさだつね(15??~15??)】  

滝蔵山勝達寺の僧。益田藤兼の祐筆。勝達寺の炎上の折、益田藤兼に再建して貰い信服した。

加藤民弘【かとうたみひろ(15??~15??)】   

須懸家臣。1570年、佐々田盛時と戦うも敗走した。

上領頼兼【かみりょうよりかね(1485~1591)】

吉見頼興家臣。官途は淡路守。吉見家に属して、安芸国、出雲国で戦功を挙げる。陶晴賢勢が吉見領に侵攻、三本松城を攻囲した際、陶本陣に夜襲を仕掛け、勝ちを得た。後に山崎伊豆守に居城を攻撃され敗北した。

上領頼規【かみりょうよりのり(15??~15??)】

上領頼兼の男。通称九郎左衛門。室は吉見正頼の娘。1551年「鹿谷野の戦い」では、益田家臣寺戸大学兼勝から誘降の書状が送られてくるもこれを拒否した。その後、僅か十八騎(板垣甲斐守、田村平兵衛、水津新左衛門ら)になり決死の覚悟で益田家勢に突撃し打撃を与えた猛将。1557年、毛利勢が防長に侵攻した際、吉見頼員と共に手勢を率い参陣した。後に大内輝弘が山口に侵攻した際、吉見家の援軍として兵500余りを率いるも、宮野口にて城井小次郎に敗北した。この時、援将であった伊藤実信と嫡男上領頼武を失った。1599年、吉見広長出奔の際は、吉見家臣として吉見広頼の再家督就任を斡旋し病弱な吉見広頼を助け吉見家滅亡を回避させた。

上領頼長【かみりょうよりなが(15??~15??)】

上領頼兼の次男。官途は筑前守。1558年、毛利元就勢が石見赤城を攻略した際、弟上領頼平と共に守将となった。

上領頼平【かみりょうよりひら(15??~15??)】

上領頼兼の三男。官途は治部少輔。1558年、毛利元就勢が石見赤城を攻略した際、兄上領頼長と共に守将となった。

上領頼武【かみりょうよりたけ(1553~1569)】

上領頼規の男。大内輝弘が山口に侵攻した際、吉見家の援軍として兵500余りを率いるも、宮野口にて城井小次郎に敗北、同じく援将であった伊藤左近と共に討死にした。

上領頼定【かみりょうよりさだ(15??~15??)】

上領頼規の次男。兄上領頼武の死後、上領家の家督を相続した。1592年「慶長の役」では、吉見元頼、吉見広長に従い、戦功を上げる。後に吉見家滅亡後、赤木行定と名を改めた。

上領頼康【かみりょうよりやす(15??~15??)】

吉見家臣。上領頼規の三男。官途は肥後守。1582年、吉見広頼から下瀬山城の普請を命じられた。

上領直之【かみりょうなおゆき(15??~15??)】

吉見家臣。上領頼規の四男。通称清右衛門尉。1588年、阿武郡嘉年、大井、三見郷にて15石を加増された。

上領頼綱【かみりょうよりつな(15??~15??)】

吉見家臣。下瀬頼郷の次男(上領頼明の養子)。官途は玄蕃頭。

河村惣兵衛【かわむらそうべえ(15??~15??)】     

吉見広頼家臣。厚東吉見の刀匠。1592年「文禄の役」の遠征途中で厚東吉見村に立ち寄った吉見元頼を出迎え持て成した。

喜島宗勝【きじまむねかつ(15??~15??)】

美濃郡下黒谷城主。黒谷宗秀の男。官途は備後守。益田元祥家臣。1561年「門司城の戦い」では、大友方国東海賊衆の伊美弾正統昌を討取ったとされるなど、比類なき戦功を誇る名将だった。1573年、益田元祥の命で美濃郡喜島城主となった。1600年「関ヶ原の役」で毛利家が減封されると、益田家に従って長門国に移り住んだ。

喜島宗遠【きじまむねとお(15??~15??)】  

喜島宗勝の男。羽柴秀吉の「九州征伐」などに参陣した。1592年「文禄の役」に参陣した。

鬼村祐光【きむらすけみつ(1580~16??)】  

益田元祥家臣。室は吉田重治の娘。益田元祥の戦で敵将を巨大弓矢で片っ端から射殺し鬼が乗り移っていると称された。京の「本願寺」で寺院設立の免許を伝授された。1614年「松龍山泉光寺」を創立した。

杭ヶ打彦右衛門【くいがうちひこえもん(15??~1561)】

邑智郡杭ヶ打城主。重富兼雄家臣。杭ヶ打彦右衛門は、福屋隆兼の家老重富兼雄の家臣。1561年、毛利元就の撒いた「重富兼雄謀反」の流言に乗った福屋隆兼は、重富兼雄を攻撃した。重富兼雄は強く抵抗したが、福屋家臣桑原光共の猛攻により、重富城は陥落、重富兼雄は自刀した。その直後、杭ヶ打城も福屋隆兼の攻撃を受けて落城した。

杭ヶ打家臣団【くいがうちかしんだん】

土床城主:土床庄右衛門。

草野鎮正【くさのしげまさ(1479~1526)】  

益田家臣。通称新五郎。仙道郷の神主。1515年「古和城の戦い」では、三隅興信勢を散々に蹴散し古和城を攻略する戦功を挙げた。

口羽通良【くちばみちよし(1512~1582)】

邑智郡琵琶甲城主。官途は下野守。志道元良の次男。毛利家四天王のひとり。家系は大江姓毛利家の庶家にあたる坂家枝連衆志道家の傍流。石見国邑智郡口羽を本拠に定め、琵琶甲城を居城として、在名を取り口羽と称した。毛利元就に古くから仕えて、主に山陰地方の制圧やその統治、吉川元春の補佐などを任された。毛利元就の病没後は行政手腕に優れていたため毛利輝元を補佐して、吉川元春や小早川隆景、福原貞俊と共に毛利家四人衆と称された。

口羽春良【くちばはるよし(15??~15??)】

口羽通良の男。1569年、尼子勝久や山中幸盛らが尼子家再興勢を率いて出雲国に侵入した。1570年「布部山の戦い」に参陣して、尼子再興勢を打ち破った。1571年、自領に宇佐八幡宮に勧請して、松尾山八幡宮を建立した。「備中兵乱」で三村元親らが毛利元就から離反した時には備中国内の鎮撫にあたった。1578年「上月城の戦い」にも参陣した。尼子再興勢降伏の起請文に、毛利家側の代表として名を連ねた。1585年、毛利輝元の使者として上洛して羽柴秀吉に謁見した。

口羽家臣団【くちばけかしんだん】

調査中。

久利清太兵衛【くりせいたいへい(15??~15??)】

石見国豪族衆。大内義隆家臣。1542年、大内義隆と大内晴持に属して「月山富田城の戦い」に参陣した。枝連衆大内照弘、家臣杉重政、陶晴賢、内藤守興盛他、石見国の国人衆は、益田藤兼、福屋隆兼、佐波隆連、小笠原長雄、本城経光、羽根弾正忠、都野駿河守、岡本大蔵大輔、利清太兵衛、吉川和泉守、都治三河守らが参陣した。

久利左馬介【くりさうまのすけ(15??~15??)】

石見国豪族衆。大内義隆家臣。1542年、大内義隆と大内晴持に属して「月山富田城の戦い」に参陣した。枝連衆大内照弘、家臣杉重政、陶晴賢、内藤守興盛他、石見国の国人衆は、益田藤兼、福屋隆兼、佐波隆連、小笠原長雄、本城経光、羽根弾正忠、都野駿河守、岡本大蔵大輔、利清太兵衛、吉川和泉守、都治三河守らが参陣した。

桑原光共【くわはらみつとも(15??~15??)】

福屋隆兼家臣。官途は伊賀守。1561年、毛利元就の撒いた「重富兼雄謀反」の流言に乗った福屋隆兼は、重富兼雄を攻撃した。重富兼雄は強く抵抗したが、桑原光共の猛攻により、重富城は陥落、重富兼雄は自刀した。

黒谷宗秀【くろだにむねひで(15??~15??)】  

黒周原城主。益田宗兼家臣。1511年「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。

黒谷満善【くろだにみつよし(15??~15??)】  

黒谷宗秀の次男。次男ながら兄喜島宗勝の思惑で黒谷家の家督を相続した。1556年、吉見正頼の侵攻で兄喜島宗勝は防衛したが、黒谷満善は吉見正頼へ降ったと言う、そこで苦肉の策として兄は益田藤兼に仕えた。黒谷満善は吉見正頼に仕える事で両者の衝突を意図的に防いだ。1586年、中山八幡宮を建てた。

後藤行友【ごとうゆきとも(15??~15??)】

吉見家臣。通称七左衛門。吉見惣領家改易後、生田頼重、吉賀元貞らと共に毛利輝元に仕えた。

小林房辰【こばやしふさたつ(15??~15??)】

邑智郡牛之市城主。多胡正国家臣。1559年「余勢城の戦い」では、吉川元春勢の攻撃を受け、落城、城主多胡正国は出雲国に落延びた。1597年、羽柴秀吉の「慶長の役」に参陣して戦功を挙げ、牛之市城を得た。

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【さ】

斎藤源吾【さいとうげんご(15??~1575)】

大谷吉隆の男(斎藤泰家の養子)。斉藤泰家の娘と婚姻し斉藤家を継ぐ、匹見の道谷笹山城の城主、1573年頃、同族の斉藤為久と不和になり領地が乱れた為、益田藤兼に斉藤兄弟の同族・斉藤将頓が刺客として送り込まれ、宴で殺された。

斎藤為久【さいとうためひさ(15??~1575)】

斉藤泰家の男。養嗣子斎藤源吾と争い領内を殺獏とさせた為、益田藤兼の刺客によって三坂峠で謀殺された殺された。

斎藤将頓【さいとうしょうとん(15??~15??)】 

斉藤源吾枝連衆。官途は因幡守。益田藤兼の命で寺戸資清と共に家の斎藤兄弟を謀殺した。

斎藤信貞【さいとうのぶさだ(15??~1546)】

登代板井川城主。三隅興信の家臣。三隅興信に武勇を称えられ邑智20町歩を領した。

斎藤信周【さいとうのぶちか(15??~1571)】  

斎藤信貞の男。1571年、益田藤兼家臣小原修理大夫に火攻めにあって討死した。

斎藤信城【さいとうのぶしろ(15??~1581)】  

斎藤信周の男。父斎藤信周の病没後は益田家に属した。

佐波誠連【さがせいれん(1474~1536)】

邑智郡青杉城主。1517年、毛利元就が武田元繁と戦った「有田の戦い」、大森銀山をめぐる大内義興と尼子経久の戦いに参陣した。さらに毛利元就 の台頭と高橋久光の滅亡、文字通り目まぐるしく変転する乱世を生きていた。尼子経久の石見進出が繰り返されるようになると、 居城を滝原に移して、酒谷泉山城、片山登矢ヶ丸城などの支城を構えた。尼子経久は小笠原長徳と結び大森銀山に侵攻した。

佐波隆連【さがたかつら(15??~1551)】

佐波誠連の男。1540年、佐波隆連は尼子晴久に属して、吉田郡山城主毛利元就を攻撃したが、その後は大内義隆に属した。1551年、佐波隆連は大内義隆に出仕して山口にいた所に陶晴賢の謀叛にあって討死した。佐波隆連には嫡子がおらず幼い娘がいただけであったため、家督は佐波興連の嫡男佐波隆秀が一時的に佐波家の家督を相続し、佐波興連がその後見人となった。

佐波興連【さがおきつら(15??~15??)】

邑智郡八幡城主。佐波秀連の男。官途は越後守。1551年「大寧寺の変」で甥佐波隆連が大内義隆に殉じた。1555年「厳島の戦い」後、毛利元就に属した。1556年、八幡城を築き、出雲国方面への備えとした。石見大森銀山攻防に活躍した。龍岩寺城を築いて居住し、氏永城には景山家、浄土山城には大草家を入れて尼子家に対する備えに固めた。佐波隆連には男子が無く、佐波家の家督は嫡男佐波隆秀に継がせたが、実質的な後見人として、佐波家中を取り仕切っていた。1562年、佐波興連が家臣石橋新左衛門尉を出雲国商人塩治、朝山司に任じた。

佐波隆秀【さがたかひで(1523~1592)】

佐波興連の男。官途は常陸介。「石見表の戦い」で、戦功を挙げた。備後国奴可郡東城などで4,300石余を領した。1592年「慶長の役」では広島城の留守居を務めた。1551年、大内義隆が陶晴賢らの謀反により討死した際に、伯父佐波隆連も討死した。佐波隆秀佐波家の家督を相続した。佐波家中には佐波隆秀の相続に反対する勢力があり、佐波隆秀は嫡男佐波恵連に佐波隆連の娘を娶らせ、佐波恵連の元服するまで家督を継ぐという条件で家督を継承した。1556年、毛利元就に属し、枝連衆の離反者を討伐し、豊前国への侵攻時にも長野弘勝を討取る戦功を挙げた。1592年「文禄の役」では、毛利輝元から広島城の留守居を命じられたが、間もなく病没した。

佐波恵連【さがけいつら(15??~15??)】

佐波隆秀の男。1565年、毛利元就の「月山富田城の戦い」で初陣した。毛利輝元と織田信長の戦いでは、吉川元春勢に属して戦功を挙げた。毛利輝元が羽柴秀吉に属すると、佐波恵連も吉川元春に属して各地に転戦した。その後毛利輝元の広島城築城に伴い、父佐波隆秀と共に、備後国奴可郡東城10,000石に転封された。1600年「関ヶ原の役」後、毛利輝元が防長二国に減封されると、萩城下へと移った。この後佐波郷は佐波家との関係を失い、繁沢元氏(吉川元春の次男)に属した。

佐波善内【さがぜんない(15??~15??)】

佐波恵連の男。1605年、熊谷元直、天野元信一族が萩城築城の遅れを口実に粛清された際、佐波善内も粛清された。

佐波広忠【さがひろただ(15??~15??)】

唐樋城主。官途は越後守。佐波隆連の枝連衆。

佐波家臣団【さがけかしんだん】

笠松城主:吾郷武利、奥山城主:奥山、氏永城主:景山、浄土山城主:大草、高畑城主:高畠遠言。

佐田兼為【さだかねため(15??~15??)】 

益田元祥家臣。1586年「九州征伐」で戦功を挙げた。

刺賀長信【さつかながのぶ(15??~1558)】

安濃郡刺賀城主。小笠原長隆の四男。官途は治部少輔。1543年「月山富田城の戦い」で大敗し勢力を石見国から後退させた大内義隆勢を追撃する形で尼子晴久が石見銀山を奪取し、小笠原長雄との共同経営した。刺賀長信は尼子家方として山吹城に在城した。1556年、毛利元就に属したが、尼子晴久は出陣中の備前国から兵25,000余りを撤退させ石見国に侵攻し山吹城を包囲した。宍戸隆家は兵7,000余りを率いて、尼子晴久勢を迎撃したが「忍原の戦い」を敗退した。増援の吉川元春も尼子晴久勢の反撃を受けた。刺賀長信は、高畠遠言と共に自刃した。

重富兼雄【しげとみかねお(15??~15??)】

重富城主。福屋隆兼家臣。福屋隆兼が毛利元就から離反した後、毛利元就の謀略が行われた。1561年、毛利元就の撒いた「重富兼雄謀反」の流言に乗った福屋隆兼は、重富兼雄を攻撃した。重富兼雄は強く抵抗したが、福屋家臣桑原伊賀守光共の猛攻により、重富城は陥落、重富兼雄は自刀し、福屋家の武闘派筆頭重富党は毛利元就の陰謀により壊滅した。

品川員永【しながわかずなが(1514~15??)】

久城普月城主。品川信定の男。益田藤兼家臣。1517年、父品川信定は安芸武田元繁の家臣で、毛利元就勢と戦い討死した。1544年、父品川員永は、流浪の末、益田藤兼の家臣となり久城領を領した。

品川勝盛【しながわかつもり(1544~1565)】

品川員永の男。官途は大膳。別名品川狼ノ介。弓の名手として知られ、腕力が強く、益田氏の主力として戦った。1565年「第二次月山富田城の戦い」に参陣した。出雲国広瀬川の中州で山中幸盛と一騎打ちを行った。品川勝盛は弓を持ち出したが、秋上久家がそれを非難し弓弦を射切るという妙技を見せたため、諦めて尋常な勝負に望み、品川勝盛は山中幸盛に討取られた。山中幸盛は「出雲の鹿が石見の狼、打取ったり」と大音声で勝ち鬨を上げ尼子家勢の士気は上昇した。

品川勝貞【しながわかつさだ(15??~1600)】

品川勝盛の男。通称勘衛門。室は大塚兼安の娘。1600年「関ヶ原の役」以降、益田元祥と共に須佐へ移った。品川家は大膳の勇士に肖り、代々「狼介」と称した。

下瀬頼郷【しもせよりさと(1496~1585)】

日原下瀬山城主。吉見正頼家臣。官途は丹後守。通称弥六左衛門。別名脇本弥六左衛門。数々の謀略を用いて益田兼任勢を翻弄した策士。「第一次津和野城の戦い」では、先陣を嫡男下瀬頼定に任せ、下瀬頼郷は津和野三本松城で全軍の指揮取った。益田兼任は、吉見正頼の居ない津和野三本松城を3ヶ月も包囲したが津和野三本松城を攻略することができなかった。青原小瀬大嶽城主板垣甲斐守の書状を利用して、下瀬頼郷は家臣の水津新左衛門に、益田兼任への寝返りを約束させ、戦いの最中に再び寝返りさせた、混乱に落ちいた、益田兼任勢は敗走した。しかし、毛利元就勢の援軍が送れ、陶晴賢との和議が結ばれた。

下瀬頼定【しもせよりただ(1531~1614)】

下瀬頼郷の男。官途は加賀守。通称弥六左衛門。弓の名手。1551年、鹿谷に陣を構えていた益田藤兼勢の小荷駄隊を壊滅させ益田藤兼勢を撤退に追い込んだ。1553年、陶晴賢勢の町野隆風を高左原で迎え撃ち、弓隊を率い戦い戦功を挙げた。さらに乃美賢勝、久芳賢重と戦い股と膝に三箇所も弓矢を受けながらも敵を撃退、更に津和野防衛戦では嘉年勝山城へ城主波多野滋信と共に籠城した。1554年「嘉年勝山城の戦い」で、勝山城は落城するも、津和野城に落延び上領頼兼と共に戦った。1582年、吉見広頼に属して「備中高松城の戦い」へ参陣した。1600年「関ヶ原の役」後、吉見広頼は萩城下へ移ったが、下瀬頼定だけは下瀬に残り日原脇本城と日原銅山を独自に支配した。

城市正雄【じょういちまさたか(1455~1551)】 

向横田頚ヶ滝城主。城一正常の次男。通称勘助。室は立原義綱の娘。1471年「大内教幸の乱」では、益田家方として初陣して、猛戦し豊田二本松城主豊田宗尭を討取る戦功を挙げた。「安富小倉城の戦い」でも戦功を挙げた。甥城一兼正をを補佐し活躍した。1478年、領家仲尭に替わり向横田領を領して、向横田の地頭となった。領内の開拓を進め、民に農業を自ら進めて教え善政を行った。

城一兼正【じょういちかねまさ(1459~1530)】

真砂館主。城市正雄の甥。益田尹兼の参謀で、猛将と称された。益田貞兼の先陣隊長「六十四陣委勝」と言う兵法を極め、益田尹兼の領国強化に貢献した。1524年、領内の治水を改善し「水分神社」に称された。

城一正賀【じょういちまさよし(1498~1570)】

城一兼正の男。1551年、原邑城を嫡男城一正久へ譲り、岡見茶臼山城主となった。1556年、吉川元春勢に敗れると、この地に「励称寺」を建て住職となった。

城一正久【じょういちまさひさ(1520~1603)】

城一正賀の男。通称二良左衛門。病弱の為に家督を一城正熙に譲った。1600年、益田元祥が須佐へ移ると城一正久は飯田郷の飯田村へ住み「普門庵」を開祖し住職となった。

城一正納【じょういちまさのう(1546~1616)】 

城一正久の男。1592年、益田元祥と共に「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。1598年、帰国するが世の中の忌わしさを嫌い匹見の山田郷へ住み「小石」に法華経等を書き供養した。

城一盛長【じょういちもりなが(15??~15??)】  

城一正久の次男。1597年、益田元祥、兄城一正納と共に「文禄の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」後、毛利輝元が長防の二ヶ国に転封になると吉田重治に仕えた。

神護院全忠【しんごんいんぜんちゅう(15??~15??)】

神護院徳陽の男。

神護院祐陽【しんごいんゆうよう(15??~15??)】  

益田宗兼の三男(神護院全忠の養子)。益田藤兼の祐筆、様々な手紙や策書を書いた。益田藤兼の命令で吉見正頼に偽文書を偽造した。

水津清家【すいづきよいえ(15??~15??)】

吉見正頼家臣。1557年、吉見正頼から阿武郡内で三五石を与えられた。

水津頼勝【すいづよりかつ(15??~16??)】

吉見家臣。通称半右衛門。吉見家改易後、落合正信らと共に毛利輝元に仕えた。

須懸忠朝【すがけただとも(15??~15??)】

四ッ山城主。三隅家臣。1538年、須懸忠朝は、益田家と三隅家との紛争調停を大内義隆が行った際、四ッ山城を三隅家の領有とし、城主として須懸忠朝が入城した。

須懸忠高【すがけただたか(15??~15??)】  

須懸忠朝の男。官途は備中守。1570年、三隅隆繁が益田家(毛利元就)へ反旗を翻すと三隅領として高城、茶臼山城と共に三隅三城の名を誇った四ッ山城は、毛利方、熊谷伊豆守、大友豊後守、佐々田盛時等の率いる4,500余りの猛攻を受けた。須懸忠高の家臣加藤氏広と佐々田盛時との一騎打ちを行うなど善戦した。須懸忠高は、防戦むなしく500余りの将兵と共に討死した。

杉森氏久【すぎもりうじひさ(15??~1571)】  

美濃郡馬高嶽城主。1570年、四ッ山城主田川源八を攻撃して、毛利元就に反旗を翻した。領家定行と児玉小三郎の攻撃を受け、徹底交戦した。最後は、二騎になり領家定行の伏兵と戦い討死した。

周布武兼【すふたけかね(15??~15??)】

周布鳶巣城主。大内家に属して朝鮮交易で富をなした国人衆周布家。1524年、益田系豪族衆を纏めて仲裁するなど外交力に目を見張るものがあった。1540年、尼子晴久が周布井野村へ攻めて来た時は石見豪族を一致団結させ自身は周布の地を案内し撃退した。1548年、周布家の家督を周布元兼に譲り隠居した。

周布元兼【すふもとかね(15??~1578)】

周布武兼の男。官途は左近将監。室は冷泉隆豊の娘。1548年、父周布武兼から家督を相続。1551年、益田藤兼に従い大内義長に属した。都野長保と争い益田藤兼へ仲裁を仰いだ。1558年、周布元兼は吉川元春勢に属して小笠原長雄と戦った。1561年、吉川元春勢に属し大友義鎮勢と戦った。1570年、周布元兼が「出雲侵攻」に出陣中に周布家を従兄周布晴氏に乗っ取られた。その後、周布晴氏は吉川元春に討取られた。周布鳶巣城は廃城になるものの、謀叛へ関わっていなかったので、吉川元春に仕えた。1578年、吉川家勢として尼子残党が籠城する上月城を攻撃した際に討死した。

周布元城【すふもとしろ(15??~15??)】

周布元兼の男。1578年、父周布元兼の討死により、周布家の家督を相続した。1586年「九州征伐」に参陣した。吉川元春が陣中死すると酷く悲しみ、哀悼の意を表した。1600年「関ヶ原の役」後、周布家枝連衆は毛利家の移封と共に山口に移り住んだ。

周布晴氏【すふはるうじ(15??~1570)】  

周布武兼の次男。1569年、毛利領内が乱れると三隅国定に謀叛を促され、周布元兼が「出雲侵攻」に出陣中に周布家を乗っ取り家臣団を纏める。
1570年「浜田石川の戦い」で吉川元春へ惨敗を喫った。周布鳶巣城に籠城するも家臣の三宅備中守俊行が内応したため、周布晴氏一族三十八人は自刀した。

澄川秀成【すみがわひでなり(15??~15??)】  

益田宗兼家臣。那賀郡匹見澄川土居に住む土豪衆。1499年、吉見領の須川村へ侵略して敵対している三谷一統の三名を弓で射殺した。

澄川助賢【すみがわすけかた(15??~15??)】  

澄川秀成の枝連衆。匹見澄川に住む豪族衆。

澄川惣左衛門【すみがわそうざえもん(15??~15??)】  

益田元祥家臣。1586年「九州征伐」で戦功を挙げた。

祖式友兼【そしきともかね(15??~15??)】

邑智郡祖式城主。小笠原兼長の次男。官途は式部少輔。別名祖式識見兼。小笠原兼長の次男であるが、祖式に居住して、祖式姓を称した。1555年「厳島の戦い」後、毛利元就に降った。1561年、北九州に参陣した。石見銀山の押さえを主要任務とされた。

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【た】

石見高橋久光【たかはしひさみつ(1460~1521)】

邑智郡上出羽城主。高橋朝貞の男。通称大九郎。大内義興、尼子経久と時勢を見極めながらどちら勢力を拡大した。高橋久光も力量に優れていた。娘が毛利興元の室になり、毛利家の嫡男毛利幸松丸が生む。毛利興元が病没して幸松丸が毛利家の家督を相続すると、高橋久光は外祖父として毛利家の実権も掌握し、石見高橋家の全盛期を築き上げた。1515年、嫡男高橋元光が討死すると、孫の高橋興光に家督を相続させた。1517年、安芸武田元繁に在京中の隙を衝かれて攻め込まれたが毛利元就、吉川元経が武田元繁を討取った。高橋久光は毛利元就は、毛利元就の長女を養女に迎えた。1521年、備後国三吉隆亮の青屋加井妻城を攻めるも討死した。

石見高橋元光【たかはしもとみつ(15??~1515)】

高橋久光の男。1515年、備後国に攻め込むも討死した。

石見高橋弘厚【たかはしひろあつ(1481~1529)】

高橋久光の次男。松尾城主。1515年、兄高橋元光が備後国で討死すると、父高橋久光の命令で嫡男高橋興光が高橋家の家督を相続した。1521年、高橋久光が討死すると、高橋興光の後見人として高橋家の存続に尽力した。1529年、毛利元就は、大内義隆の許しを得て、弘中隆兼らの援軍と共に松尾城を攻撃したが高橋弘厚は討死した。

石見高橋興光【たかはしおきみつ(1503~1529)】

高橋弘厚の男。1515年、伯父高橋元光の討死により、祖父高橋久光の後見を受けて家督を相続した。大内義興は、安芸国人一揆の結束を弱め、高橋興光との接近を図った。毛利興元とは、友好関係にあった。1516年、毛利興元の早世を機に外戚として毛利家に干渉した。1521年、毛利幸松丸の外祖父として権力を振るった高橋久光が討死した。毛利元就は、毛利家に干渉する高橋興光と敵対するようになった。松尾城主高橋弘厚は攻撃を受け討死した。毛利元就は高橋興光の叔父高橋盛光に、高橋興光を謀殺させ、高橋家の領地を併呑した。後に高橋盛光も謀殺された。

石見高橋忠光【たかはたただみつ(15??~15??)】

高橋弘厚の次男。生田城主。

石見高橋勝久【たかはしかつひさ(15??~15??)】

高橋元光の男。通称万千代。
 
石見高橋清光【たかはしきよみつ(15??~15??)】

高橋朝貞の次男。官途は土佐守。
 
石見高橋盛光【たかはしもりみつ(15??~1529)】

高橋清光の男。鷲影城主。室は高橋弘厚の娘。1529年、毛利元就が高橋弘厚を攻撃すると、高橋宗家の家督相続を条件に高橋興光を謀殺した。戦後、毛利元就は約束を反故にして高橋盛光を討取った。

吉田高橋頼忠【たかはしよりただ(15??~15??)】

高橋頼永の男。

吉田高橋頼恭【たかはしよりたか(15??~15??)】 

高橋頼忠の男。益田元祥家臣。戦巧者と評され益田元祥の側近に抜擢された。1578年「播磨上月城の戦い」では、尼子勝久勢と戦った。1579年、伯耆羽衣石城主南条元続との戦いで戦功を挙げた。1586年「九州征伐」では、益田元祥勢の切り込み隊長を指揮した。1592年「文禄の役」でも戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」にも、参陣した。

高津頼満【たかつよりみつ(15??~15??)】  

高津小城主。益田藤兼の男。1546年、高津頼満は吉見正頼に共闘する文を送り、益田藤兼から吉見正頼に寝返った。1552年、吉見正頼勢が虫追大嶽城の領家恒定を攻めると、高津頼満は、益田家方の周布権次郎を討取った。

高畠遠言【たかはたとうげん(15??~15??)】

邑智郡高畑城主。佐波家臣。1558年、毛利元就が石見国に侵攻すると本城常光と戦った。吉川元春の指示を受け、山県春勝と供に決死隊を組織し、城将刺賀長信、高畠遠言が籠城中の山吹城への兵糧搬入を行った。

田川源八【たがわげんぱち(15??~1570)】

四ッ山城主。1570年、杉森氏久の攻撃を受け四ッ山城は落城、田川源八は討死した。

宅野兼実【たくのかねさね(15??~15??)】 

益田元祥家臣。1586年「九州征伐」で戦功を挙げ、益田元祥から黄金の太刀を貰った。

竹内弘時【たけうちひろとき(15??~1554)】

吉賀郡萩尾城主。吉見正頼家臣。官途は豊後守。吉見家五家老のひとり。1554年、陶晴賢勢の江良房栄、江良正信らの攻撃を受け討死した。

竹内頼継【たけうちよりつぐ(15??~15??)】

吉見隆頼家臣。1540年、吉見隆頼が陶光長と刺し違えると、友倉長元と共に急ぎ津和野に戻り、この事を伝えた。

多胡忠重【たこただしげ(15??~15??)】

邑智郡余勢城主。尼子経久家臣。1508年、多胡忠重は、尼子経久が願主となって出雲大社の造営に着手したとき、普請奉行となった。1520年、出雲大社が落成した。1540年、毛利元就の吉田郡山城攻めに尼子晴久に属して参陣した。娘は尼子国久の室で、尼子誠久の母。

多胡辰敬【たこときたか(1494~1562)】

多胡忠重の男。通称左衛門。1540年「吉田郡山の戦い」に参陣した。1543年、多胡辰敬は弟多胡正国に余勢城を任せて、自身は石見国刺賀岩山城主となった。1554年、尼子晴久が連歌師宗養を招いて挙行した歌会に参加して「ゆくと来と契や花に深見草」と詠んだ。1588年、温湯城主小笠原長雄救援に派遣されたが毛利家勢に撃退された。毛利元就の侵攻を受けこれと戦うが落城討死した。十七ヶ条から成る「多胡辰敬家訓」では、学問、算術、弓馬などの項目があり、多胡辰敬の多彩な才能が垣間見れた。特に「命は軽く、名は重く」の一節は有名。

多胡正国【たこまさくに(15??~15??)】

多胡忠重の次男。1559年、余勢城は、吉川元春勢により度々攻撃を受けるようになった。多胡正国、沖弾正忠の活躍により守りきった。1561年、多胡正国勢が吉川元春勢の陣に夜討ちをかけ、児玉興三郎と雑兵500余りを討取った。1562年、毛利元就は、多胡正国の家臣別所宗晴を内応させた。別所宗晴は多胡正国の嫡男多胡秀光を謀殺して、城門を開き吉川元春を城内に招き入れた為、余勢城は落城した。多胡正国ら七騎は郡山城に落延び、沖弾正忠は余勢城に火を放って自刃した。

多胡重盛【たこしげもり(15??~15??)】

多胡辰敬の男。1562年、父多胡辰敬が討死により多胡家の家督を相続した。のち亀井茲矩(母は多胡辰敬の娘)に仕えて家老を務めた。一般に江戸時代の亀井家家老多胡家は「多胡主水」で登場することが多い。

多根友武【たねともたけ(15??~1569)】 

益田藤兼家臣。1569年、「豊前三岳合の戦い」で、大友義鎮勢と戦い討死した

都治隆行【つじたかゆき(15??~15??)】

邇摩郡福光物不言城主。毛利元就に属した。1561年、毛利元就から離反した福屋隆兼から攻撃を受けるも、吉川経安、吉川経家、冷泉元豊らと共に守り抜いた。

都治兼行【つじかねゆき(15??~15??)】

今井城主。大内義隆家臣。官途は駿河守。1521年、尼子経久勢の攻撃を受け、都治兼行と嫡男都治興行は籠城した。下都治の拠点である今井城には、都治兼行と嫡男都治興行以下の兄弟が守っていた。尼子経久の襲来に備えて福屋正兼の家臣も派遣された。都治兼行は自刃し、都治隆行は、福屋正兼もとに逃れた。後に尼子経久と福屋正兼の和睦が結ばれた結果、自刃に追い込まれ、都治家は断絶した。

都治隆行【つじたかゆき(15??~15??)】

都治興行の男。官途は三河守。1542年、大内義隆と大内晴持に属して「月山富田城の戦い」に参陣した。枝連衆大内照弘、家臣杉重政、陶晴賢、内藤守興盛他、石見国の国人衆は、益田藤兼、福屋隆兼、佐波隆連、小笠原長雄、本城経光、羽根弾正忠、都野駿河守、岡本大蔵大輔、利清太兵衛、吉川和泉守、都治隆行らが参陣した。1558年、都治隆行は毛利元就に属した。1561年、物不言城に吉川経安と共に籠城して、本明城主福屋隆兼による攻撃を退けた。1591年、都治経行は出雲中郡猪尾へ移され、今井城は廃城となった。

都野経良【つのつねよし(15??~15??)】

大内義隆家臣。通称刑部少輔。二宮多鳩神社社家。1555年「厳島の戦い」後、毛利元就に降った。のちに吉川家寄騎手衆となり上月尼子攻め参陣した。

都野家頼【つのいえより(15??~1597)】

都野経良の男。1597年、末次元康に属して「慶長の役」に参陣した。蔚山城で病没した。

都野保通【つのやすみち(15??~15??)】

大和田城主。通称将監。

都野就勝【つのなりかつ(15??~1592)】

那賀郡都野城主。1592年「文禄の役」に参陣し、討死した。

寺井信之【てらいのぶゆき(15??~15??)】   

三隅茶臼山城主。三隅隆繁家臣。1570年、益田藤兼勢に攻められ防衛する。三隅家の本城三隅高城が落城した為、寺井信之も降伏した。

寺井重義【てらいしげよし(15??~15??)】   

寺井信之家臣。1570年、寺井信之が益田藤兼勢へ降参するとほとんどの者が逃走するが、高齢の為城に残り毛利家の承諾を得てそのまま居住した。

寺戸資清【てらどすけきよ(15??~1569)】  

那賀郡澄川叶松城主。益田藤兼家臣。官途は和泉守。澄川叶松城2,500石を領した。陶晴賢に加担して吉見家の津和野城攻撃に参陣した。益田藤兼に属して数々の合戦に参陣して戦功を挙げた。その後、毛利元就に属して対尼子家戦で戦功を挙げた。益田藤兼から200貫の領地を澄川に与えられた。

寺戸資能【てらどすけのう(15??~1599)】  

寺戸資清の男。室は渡辺左内の娘。1592年、益田元祥に属して「文禄の役」に参陣した。1600年、益田元祥に従い長門須佐に移転した。

寺戸惣右衛門【てらどようえもん(15??~1575)】 

益田元祥家臣。1575年、大谷盛英と一族を滅殺する為、100余りを率い道谷笹山城と東村龍山城と三葛屋敷を同時に急襲し大谷盛英、大谷平内を攻め大谷盛英を討取ったが大谷平内に討取られた。

寺戸兼勝【てらどかねかつ(15??~15??)】  

益田藤兼家臣。通称大学介。匹見寺戸家の枝連衆。長門国須佐水海懸城の城主。1554年、日原下瀬城へ諜略等を仕掛けるが失敗した。

寺戸左近【てらどさこん(15??~15??)】  

須佐益田兼貴家臣。1562年「須佐磯城の戦い」で、戦功を挙げた。

寺本伊賀守【てらもといがのかみ(15??~15??)】

邑智郡金刀比羅山城主。小笠原家臣。1557年、井原の雲井城攻略に成功した吉川元春は、そのまま中野から日和侵攻を試みました。この時、日和城を守っていた寺本伊賀守は果敢に戦い、吉川元春勢の日和侵攻を食い止めたが後に降伏した。

遠田兼相【とおだかねすけ(15??~15??)】 

遠田嶽城主。官途は治部丞。1493年、益田貞兼に属して大内義興勢に入り戦功を挙げた。

東光院周信【とうこういんしゅうしん(15??~15??)】

吉見頼興の四男。1540年、吉見隆頼が家督を相続のした際は、一部重臣に推される有能な人物であった。吉見正頼が津和野不在時は吉見正頼に変わり外交や内政を指示した。津和野鷲原八幡宮別当及び、東光院住職となる。

富永元保【ともながもとやす(15??~15??)】

要害山城主。尼子家臣。官途は山城守。1556年、富永元保は毛利元就に降伏した。

友倉長元【ともくらながもと(15??~15??)】

吉見隆頼家臣。官途は因幡守。吉見隆頼が山口で死去した時、その知らせを津和野にもって帰った。

豊原貞秋【とよはらさだあき(15??~15??)】  

益田藤兼家臣。益田家の別動隊を率い、三隅の仙人丘に陣を張った。

豊田宗勝【とよたむねかつ(15??~15??)】  

豊田二本松城主。豊田宗堯の男。官途は常陸介。父豊田宗堯は益田貞兼に攻められ討死した。1528年、豊田宗勝は益田家に完全服従し城を明け渡した。

鳥井伊豆守【とりいいずのかみ(15??~15??)】

鹿足郡抜舞城主。1554年、陶晴賢勢の攻撃を受けたが撃退した。

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【な】

中津江重美【なかつえしげよし(15??~15??)】

吉見家臣。吉見家滅亡後一時禄を離れた。後に毛利秀就に召抱えられ、中山姓を称した。

長野竜頼【ながのたつより(15??~15??)】 

長野御嶽城主。官途は下野守。1551年「津和野三本松城の戦い」では、陶晴賢勢に包囲されるも城を守り抜いた。日原下瀬山と長野御嶽城が持ち堪えたため、陶晴賢は津和野三本松城の攻略を断念した。

長野頼勝【ながのよりかつ(15??~15??)】

吉見家臣。通称右近大夫。1583年、長門阿武郡の上徳佐八幡宮を再建した。

長野頼幸【ながのよりゆき(15??~15??)】

吉見家臣。通称惣右衛門。室上領頼規の娘。

永久元祐【ながひさもとすけ(15??~15??)】

吉見家臣。近藤清友の次男で、永久家の養子に入った。毛利隆元の娘が吉見広頼の元へ嫁ぐ時、これに従い、吉見家に仕えた。

永見新左衛門【ながみしんざえもん(15??~1571)】  

杉森氏久家臣。1571年、久々茂の土居砦を築き守備するも乃美家臣児玉小治郎に敗れ、鹿ヶ瀬で討死にした。

長嶺政信【ながみねまさのぶ(15??~15??)】

吉見家臣。官途は河内守。吉見家改易後、松岡頼利、後藤行友らと共に毛利輝元に仕えた。

中村康之【なかむらやすゆき(15??~15??)】

邑智郡源太ヶ城主。福屋隆兼家臣。1561年、福屋隆兼は福光城攻めに失敗し、中村康之の守備する源太ヶ城は吉川元春の攻撃を受けた。中村康之は防ぎきれず敗走した。

中屋雅楽頭【なかやうた(15??~15??)】  

青原尾中山城主。官途は雅楽頭。中屋家は豪族衆あったが、吉見家の勢力が日原青原に進出すると、吉見家と婚姻関係を結び枝連族として益田家との境界線を守った。

中屋善四郎【なかやぜんしろう(15??~1593)】  

中屋雅楽頭の男。官途は右京進。1592年「文禄の役」に参陣した。1593年、戸崎彦右衛門と共に京城の西三里で討死した。

永安兼政【ながやすかねまさ(15??~1559)】

永安矢掛城主。官途は大和守。益田家の氏族三隅家の庶家。益田惣領家をはじめ、支族である三隅、福屋、周布、永安を含めた枝連族は「石見四家」の源流をなすようになった。益田藤兼から離反繰り返す庶家が多い中、永安兼政は益田藤兼に対し恭順の態度を取り続けた。

永安兼徳【ながやすかねとく(15??~15??)】  

永安兼政家臣。通称式部少輔。「井野村の戦い」で、毛利家勢と戦い狩倉新右衛門を討取った。永安兼徳は益田藤兼の信頼の厚い武士であった。1555年、毛利元就勢の攻撃を受け、永安兼徳は益田藤兼の元へ落延びた。1559年、益田藤兼は吉川元春の仲介によって毛利元就に降り、永安兼徳は自刃した。

野田兼誠【のだかねさね(15??~15??)】   

三隅興信家臣。1505年、三浦兼春と共に益田方の宇治城に猛攻を加え攻略した。

野村就好【のむらなりよし(15??~15??)】

吉見家臣。吉見家没落後は毛利輝元に仕え、社務代を勤めた。

野村之次【のむらゆきつぐ(15??~15??)】

吉見家臣。通称又左衛門。馬廻衆のひとり。防長移封の際に禄を離れた。

野村頼春【のむらよりはる(15??~15??)】

吉見家臣。1557年、阿武郡内に所領を給された。

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【は】

波田堯近【はだたかちか(15??~1626)】 

波田愛宕山城主。益田元祥家臣。1600年「関ヶ原の役」後、益田元祥と共に須佐へ移った。

羽原道兼【はばらみちかね(15??~15??)】  

周布元兼家臣。1561年、繁沢元氏(吉川元春次男)へ属し出陣したが、合戦中に矢が三本衝き刺り重症を負った。僧道智の手当てによって助けられた。

羽根弾正忠【はねだんじょうちゅう(15??~15??)】

石見国豪族衆。大内義隆家臣。1542年、大内義隆と大内晴持に属して「月山富田城の戦い」に参陣した。枝連衆大内照弘、家臣杉重政、陶晴賢、内藤守興盛他、石見国の国人衆は、益田藤兼、福屋隆兼、佐波隆連、小笠原長雄、本城経光、羽根弾正忠、都野駿河守、岡本大蔵大輔、利清太兵衛、吉川和泉守、都治三河守らが参陣した。1546年、羽根弾正忠が波根東神子地小谷山麓に奉斎した。

羽根泰次【はねやすつぐ(15??~15??)】

羽根館主。官途は遠江守。羽根泰次は尼子家に属していたが、毛利元就勢の石見侵攻の際、本城常光と共に毛利元就勢に降った。これにより尼子家勢力は石見国から一掃された。

羽隅壱岐守【はねずみいきのかみ(15??~15??)】

鹿足郡木部谷城主。吉見隆頼家臣。吉見家五家老に次ぐ地位の武将で吉見隆頼亡き後も活躍した。1550年「吉見正頼暗殺未遂事件」では、吉見正頼方へ貢献した。1554年、陶晴賢の攻撃を受け籠城した。

原屋盛実【はらやもりざね(15??~1608)】  

益田藤兼家臣。通称神左衛門。1549年、津毛八幡の大夫になった。1592年「文禄の役」に参陣した。

原新右衛門【はらしんえもん(15??~15??)】  

須佐益田兼貴家臣。1554年、吉見正頼との戦いで坪尾城の搦め手を攻め、敵の兵力を散々と打ち破った。

肥塚忠久【ひづかただひさ(15??~15??)】   

三隅興信家臣。1515年、益田領から撤退する三隅勢の殿を務める、負傷しながらもどうにか撤退した。1515年、古和城を守っていたが益田尹兼勢の草野鎮正に攻められ落城し敗北を喫する。

肥塚正久【ひづかまさひさ(15??~15??)】   

三隅興信家臣。1499年、益田尹兼勢を三子山で撃退した。

広田重秀【ひろたしげひで(15??~15??)】

吉見家臣。1557年、福井郷三石余、川島庄八石余を加増された。

広田吉重【ひろたよししげ(15??~15??)】)

落合兼氏の男(広田重秀の養子)。1581年、吉見広頼より所領を安堵された。

福富晴方【ふくとみはるかた(15??~15??)】

四ッ地蔵城主。通称七郎右衛門。四ッ地蔵城は、戦国期末、福富晴方が築城した。

福屋正兼【ふくやまさかね(15??~15??)】

那賀郡本明乙明城主。1522年、尼子経久が本明城を攻撃、福屋正兼は本明城を落ち延びて細腰城に籠城した。1524年、福屋正兼は三隅兼隆と永年抗争を続けていたが、大内義興と益田尹兼の仲介で和睦した。1542年、大内義隆が尼子晴久の月山富田城を攻撃した際は、大内義隆方に参陣した。

福屋隆兼【ふくやたかかね(15??~15??)】

福屋正兼の男。室は吉川国経の娘。大内家の滅亡後は毛利家に属した。1559年、川本温湯城主小笠原長雄攻めに参陣した。しかし毛利家の命により所領の一部が敵対関係にあった小笠原長雄に与えられたた。1561年、松山城において毛利家に背いた。1562年、松山城は落ち、次いで本拠の本明城も落城したため尼子家を頼って落延びるが拒絶され、やむなく松永久秀を頼った。最後は阿波蜂須賀家に客分として仕え、後には「上月城の戦い」に敗れた女婿立原久綱が福屋隆兼を頼って落延びた。

福屋彦太郎 【ふくやひこたろう(15??~15??)】

福屋隆兼の男。1562年、父福屋隆兼と共に石見を逃れた。その後1580年初頭には、彦太郎は豊臣秀吉に仕え因幡いなばと伯耆ほうきに居た。
1580年、羽柴秀吉は福屋彦太郎、亀井茲矩、武田源五郎、赤井五郎忠家に鹿野城を守らせた。

福屋隆任【ふくやたかとう(15??~1561)】

福屋隆兼の次男。通称次郎。1562年、松山落城して福屋隆任は討死した。この折、家臣神村下野守も討死した。

福屋宮丸【ふくやみやまる(15??~15??)】

福屋隆兼の三男。

福屋兼通【ふくやかなみち(15??~15??)】

丸原城主。通称民部大輔。

藤井宗友【ふじいむねとも(1489~1524)】

藤井将重の男。1524年、弟藤井清友が謀反を起こし、藤井宗友の謀殺された。藤井家の勢力は次第に衰えた。

藤井清友【ふじいきよとも(15??~15??)】

藤井将重の次男。1524年、兄藤井宗友を謀殺して、藤井家の簒奪を図るが失敗、藤井家から追われた。

藤井宗貞【ふじいむねさだ(1524~1570)】

藤井宗友の男。1570年、益田藤兼勢に従って「三隅壊滅戦」に参陣したが討死した。

藤井宗久【ふじいむねひさ(1568~1649)】 

藤井宗貞の男。1570年、父藤井宗貞が討死すると、宇津川に落ち延びた。1592年「文禄の役」に、益田元祥に属して参陣した。1596年、朝鮮から帰国の際に「聖石」を持ち帰った。朝鮮に在陣中は、加藤清正の姿勢に共鳴し日蓮宗を熱心に学んだ。1602年、益田元祥に妙法寺へ寄進してくれるよう懇願し願いが聞き入れられ4反7歩の寄進を受けた。

別所宗晴【べっしょむねはる(15??~15??)】

多胡正国家臣。通称小三郎。1562年、毛利元就の諜略を受け、多胡秀光を謀殺して城門を開き吉川元春を城内に招き入れ、余勢城は落城した。
多胡正国を裏切った別所宗晴は、主君を裏切ったことから毛利元就の信頼を得られず、その後謀殺された。

堀重利【ほりしげとし(15??~1561)】

邑智郡桜尾城主。通称小太郎。吉川興経家臣。1549年、吉川興経が毛利元就によって謀殺されると、吉川元春から離反して福屋隆兼に仕えた。1561年、堀重利は毛利元就勢を迎え撃ち敗北、桜尾城で討死した。

本城常光【ほんじょう つねみつ(1513~1562)】

邑智郡山吹城主。高橋久光の三男。官途は越中守。尼子経久に仕えた。1540年、尼子晴久が「吉田郡山城の戦い」で、毛利元就との戦いに敗れると、大内義隆に属した。1543年、大内義隆が出雲国に侵攻して大敗を喫すると、再び尼子晴久に属した。本城常光は武勇に優れ「忍原崩れ」「降露坂の戦い」等で数々の戦功を挙げた。1561年、尼子晴久が病没して毛利元就が石見国に侵攻すると、尼子義久が毛利元就と和睦した。尼子義久と毛利元就が和議を結ぶと、石見国の反毛利家の国人衆(福屋隆兼、本城常光)は動揺し、各個に攻撃を受け降伏した。1562年、本城常光の武勇と性格への猜疑から毛利元就によって誅殺された。本城常光を謀殺したことにより、毛利家側に寝返っていた石見国の国人衆が再び尼子家側へと寝返り、毛利元就の出雲国平定は四年を費やすことになった。

本城隆光【ほんじょうたかみつ(15??~1562)】

本城常光の男。1562年 本城常光が毛利元就に謀殺した際、本城隆光は要路城に居たが、天野隆重の兵300余りの攻撃を受け討死にした。

本城春政【ほんじょうはるまさ(15??~15??)】

本城常光次男。吉川元春に仕えた。

本城家臣団【ほんじょうけかしんだん】

調査中。

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【ま】

増野祥護【ましのよしもり(15??~15??)】  

益田元祥家臣。1592年、益田元祥に属して「文禄の役」に参陣した。

増野護吉【ましのもりよし(15??~15??)】  

益田元祥家臣。1583年、益田元祥の命で三宅御土居を改修した。

増野祥治【ましのよしはる(15??~15??)】  

益田藤兼家臣。炎上した「滝蔵山勝達寺」を益田藤兼の命で再建した。

益田宗兼【ますだむねかね(15??~1544)】

美濃郡益田七尾城主。益田貞兼の男。官途は治部少輔。通称孫次郎。室は益田貞兼の娘。1483年、父益田貞兼の隠居により益田家の家督を相続した。石見国西部の領土を巡って吉見頼興や三隅興兼と争った。1497年、大内義興に属して「少弐政資討伐」に参陣した。1508年、大内義興が足利義稙を擁立して上洛すると嫡男益田尹兼と共に上洛、在京して外様の有力国人となった。1511年「船岡山の戦い」にも参陣して戦功を挙げた。1518年、大内義興の帰国に伴い石見国へ帰還、崇観寺塔頭医光寺を建立した。

益田尹兼【ますだただかね(15??~1565)】

益田宗兼の男。官途は越中守。通称又次郎。1508年、大内義興の上洛ではに父益田宗兼と共に上洛して在京した。1511年「船岡山の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1516年、三隅興兼が石見国西部への攻撃を開始した為、父益田宗兼に先立って帰国した。1526年、出雲から攻めてきた尼子経久を迎え撃った。1527年、安芸国鳥子城を毛利元就、天野興定と共に攻撃した。1530年、吉見頼興と高津川の支流匹見川の水域に関する協定を結んだ。1544年、嫡男益田藤兼に益田家の家督を譲り、それを後見した。

益田藤兼【ますだふじかね(1529~1597)】

益田尹兼の男。官途は治部大輔。通称次郎。室は杉興重の娘。継室は石津経頼の娘(礼仏)。1543年「第一次月山富田城の戦い」に初陣した。1544年、祖父益田宗兼が病没して、益田家の家督を相続して、父益田尹兼の後見を受けた。益田藤兼は吉見正頼と所領を巡って争い、三隅兼隆を討伐し、周布元兼を従え、勢力拡大にを図った。1551年、陶晴賢が大内義隆に謀反を起こすと、益田藤兼は陶晴賢に加担して大内義隆を自刃に追い込んだ。大内義長に外交手腕を評価され重用された。1555年、益田藤兼は吉見家領に侵攻したが、吉見正頼によって撃退された。1554年、陶晴賢勢が三本松城を攻撃したが、三本松城を落とすことができず和睦した。1555年「厳島の戦い」で、陶晴賢が討死すると、益田藤兼は、大内義長と共に毛利元就の攻撃を受けるようになった。1556年、吉見正頼が益田家領へと侵攻し、諸城を攻撃した。1557年、益田藤兼は毛利元就に降伏した。1561年、福屋隆兼が反乱を起こすと討伐に赴いた。1565年「月山富田城の戦い」では、品川勝盛が山中幸盛と一騎打ちを行い、討死した。1567年、尼晴久氏や大友義鎮との戦いで出雲、伯耆、豊前を転戦して戦功を挙げた。1570年、益田家の家督を嫡男益田元祥に譲った。

益田元祥【ますだもとなが(1558~1640)】

益田藤兼の男。官途は右衛門佐。通称又兵衛。室は吉川元春の娘。1568年、毛利元就を烏帽子親として元服した。1578年「上月城の戦い」では、吉川元春に属して参陣した。1580年、反旗を翻した伯耆羽衣石城主南条元続を攻めで戦功を挙げた。1582年「備中高松城の戦い」では、吉川元春に属して参陣した。1585年「四国討伐」に参陣して「伊予高尾城の戦い」で、戦功を挙げた。1586年「九州征伐」にも参陣して「豊前宇留津城の戦い」で、戦功を挙げた。1590年「小田原の役」には、毛利家海賊衆を率いて三沢為虎、熊谷元直、吉見広頼らと共に伊豆下田城を攻落とした。1592年「文禄の役」では、吉川広家に属して参陣して「碧蹄館の戦い」でも、戦功を挙げた。1597年「慶長の役」にも参陣して「蔚山城の戦い」においても吉川広家と共に戦功を挙げた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、松平元康への接近を吉川広家、熊谷元直、宍戸元続と共に図った。1600年「関ヶ原の役」では、毛利輝元は石田三成勢にに属して役後、周防国、長門国の二ヶ国に減封され、益田元祥の領地であった石見国も没収された。以後は、福原広俊と共に毛利輝元から政治を任された。

益田広兼【ますだひろかね(1576~1595)】

益田元祥の男。通称七兵衛。室は吉見広頼の娘(珠光院)。1589年、毛利輝元の加冠で元服し、益田広兼と称した。1595年、疱瘡に罹り病没した。

益田景祥【ますだかげよし(1577~1630)】

益田元祥の次男。宗像氏景の養子となるはずだったが、兄益田広兼が早死した為、益田家に残った。父益田元祥と共に毛利輝元へ仕えた。1592年「文禄の役」では、小早川隆景に属して戦功を挙げた。朝鮮から帰国する折に高麗の土を日本へ持ち帰り「高麗焼」なる茶碗を作った、その後も萩転封の時、父益田元祥と共に奔走し毛利宗家の経済を立て直した。

匹見益田兼任【ますだかねとう(15??~15??)】

小松尾城主。益田宗兼の次男。官途は三河守。1554年、日原下瀬城へ降伏勧告を促した。1555年、益田兼任は、兄益田尹兼から吉見、三隅家に備えるため、小松尾城主に任じられ3,500石を領した。益田藤兼に従い石見国内を転戦して戦功を挙げた。合戦の時は甥益田藤兼と共に益田藤兼に軍師役を務めた。

匹見益田兼治【ますだかねはる(15??~15??)】

益田兼任の男。室は益田尹兼の娘。1575年、益田元祥の命で、主家に対して横暴な振舞いが多かった大谷内蔵丞を宴会に招き謀殺した。1600年「関ヶ原の役」後、防長二カ国に減封となった毛利輝元に従い、須佐へ移った。

赤雁益田兼綱【(15??~15??)】

赤雁日向山城主。益田兼治の男。

赤雁益田兼順【ますだかねそう(15??~1559)】

益田兼綱の男。官途は伊豆守。1511年、赤雁益田家の家督を相続した。1530年、益田家の奉公を務め、三隅家との合戦で度々、先陣を務めた。1548年2月28日には木部東伝寺を建設、開祖となった。

赤雁益田兼豊【ますだかねとよ(15??~1617)】

益田兼順の男。三隅隆繁との戦いで軍師として戦功を挙げた。1574年、東伝寺へ3石を寄進した。1585年、赤雁八幡宮を勧請した。1592年「文禄の役」では、益田元祥勢と共に野軍の第一陣を務めた、1597年、第二次朝鮮出兵の時は棟梁・元祥と共に渡り、益田軍の二番隊として活躍、その時、近くに居た黒田長政の陣へ入り、長政と「囲碁」を打った、1598年には竹山善棹から薬学を学び、赤雁地方を中心に約1000石の領地を持っていた武将。

益田兼勝【ますだかねかつ(15??~15??)】

益田貞兼の四男。兄・益田宗兼の軍師、1518年の三隅胴明寺周辺の合戦で大活躍、三隅信興の戦力をほぼ壊滅寸前まで追い込むも状況判断を円滑に行ない戦場から離脱した。

須佐益田兼貴【ますだかねたか(15??~15??)】

長門国須佐磯城主。益田兼勝の男。通称刑部大輔。益田藤兼、益田元祥の二代につかえた軍師。1542年「第一次月山富田城の戦い」では、毛利元就と共に石見国豪族衆を旗頭として参陣した。1552年、大内義長から、町野隆風と協力し吉見正頼の領土を切り取り次第との命令を受けた。益田兼貴は益田家の枝連衆を集め、陶晴賢の補佐に回り吉見正頼勢の軍切り崩しを画策した。1554年、益田兼貴は長門国阿武郡諸城を攻略し益田家の支配領域を広げた。1562年、吉見正頼が須佐磯城を攻撃すると、益田兼貴は家臣市原丹後守を失うも城を死守した。1579年「南条の戦い」で、戦功を挙げた。1586年「九州征伐」でも、戦功をで活躍、その後、本家の元祥が須佐へ移住してきた。

松岡頼利【まつおかよりとし(15??~15??)】

吉見家臣。通称三郎兵衛。吉見惣領家改易後、水津頼勝、落合正信らと共に毛利輝元に仕えた。

松永左衛門【まつながさえもん(15??~1571)】  

杉森氏久家臣。1571年、久々茂の土居砦を築き守備するも乃美家臣児玉小治郎に敗れ、流れ弾に当り討死した。

三浦兼実【みうらかねさね(15??~15??)】   

三隅兼隆家臣。1540年「第一次井野村の戦い」で活躍した。

三浦兼寧【みうらかねやす(15??~15??)】  

三隅兼隆家臣。1555年「第二次井野村の戦い」に攻めてきた毛利元就勢に一番槍として切り込み、益田藤兼から感状を貰った。

三浦兼春【みうらかねはる(15??~15??)】   

三隅興信家臣。三浦兼貞の男。1505年、益田方の宇治城に猛攻を加え攻め落とした。

三浦兼実【みうらかねさね(15??~15??)】   

三隅隆兼家臣。1540年「第一次井野村の戦い」では、尼子晴久の攻撃を受けたがこの時は大内家方へ組した為、西石豪族衆は一致団結しこの尼子晴久勢を撃退した。三隅隆兼家臣三浦兼実は尼子晴久勢へ切り込み苅紬口において快勝し、尼子晴久勢の士気を大きく削ぎ三隅家の武勇を轟かした。

三島清右衛門【みしまきよざえもん(15??~15??)】

石見国銅山師。大内義興は、採掘を中断していた石見銀山を再開し、博多の商人神谷寿貞に開発された。1526年、海上から山が光るのを見た神谷寿貞は大内義興の支援と銅山主三島清右衛門の協力を得て、銀峯山の中腹で銀山開発を開始した。1530年、小笠原長隆が大内義隆から石見銀山を奪いったが三年後、再び大内義隆に奪還された。大内義隆は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。1533年、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになった。

三隅興兼【みすみおきかね(15??~1587)】  

那賀郡三隅高城主。三隅興信の男。1524年、福屋正兼と戦った。1526年、尼子経久が石見国侵攻を本格化させると、尼子家の威嚇に絶えきれず尼子家の麾下に治まる。1538年、益田尹兼と戦った。1539年、石見国へ侵略して来た尼子晴久と同盟して戦うが大敗した。1548年、益田藤兼に三隅領を攻められた。三隅興兼は耐えきれず紀伊国高野山に逐電してこの地で病死した。

三隅隆兼【みすみたかかね(1510~1562)】

三隅興兼の男。1540年、尼子晴久が周布武兼を攻めたときは、三隅隆兼は大内方へ組し、西石見の豪族は一致団結しこの尼子勢を撃退した。三隅隆兼の家臣三浦兼実は尼子勢へ切り込み苅紬口において快勝し尼子勢の士気を大きく削ぎ三隅勢の武勇を轟かした。1548年、父三隅興兼が紀伊国に逐電した為当主へなる。三隅隆兼は陶晴賢と折り合いが悪く、反陶派との噂が流れていた。1551年、益田藤兼の猛攻を抑える事ができず益田家麾下に治まる。1552年、益田藤兼の計らいで隠居した。益田藤兼とは友好関係を維持した。

三隅隆繁【みすみたかしげ(15??~15??)】

三隅隆兼の次男。1552年、父三隅隆兼の隠居より三隅家の家督を相続した。1562年、父三隅隆兼が病死すると、父三隅隆兼の外交政策に不満を感じていた三隅隆繁、三隅国定兄弟は益田藤兼と戦い滅亡した。

三隅隆信【みすみたかのぶ(15??~15??)】   

三隅隆兼の三男。室は益田尹兼の娘。三隅隆繁、三隅国定が益田家へ悪意を抱いていたが三隅隆信は益田藤兼と義兄弟にあるので、父三隅隆兼と共に益田家へ友好的に接した。父三隅隆兼が亡くなると、三隅家中に反益田家の勢力が強くなり三隅高城から逐電した。

三隅国定【みすみくにさだ(15??~1570)】

三隅隆兼の四男。通称悪五郎。父三隅興兼と対立して、諸国を放浪し尼子勝久や大内輝弘などと手を組み暗躍した。福屋隆兼に謀叛後の斡旋を進めた。周布元兼の従兄周布晴氏に謀叛の手筈を整えさせるなど智将ぶりを発揮した。1570年、毛利元就が動く前に那賀星城、鷹巣城を攻め落とした。援軍に来た繁沢元氏(吉川元春の次男)によって撃退され、最後は吉川元春の騎馬突撃を受け討死した。

三宅俊行【みやけとしゆき(15??~15??)】

三宅城主。周布家臣。官途は備中守。1570年、周布晴氏が周布城で謀反を興した際、毛利元就勢に内応、周布城陥落の因を作った。

村上長喜【むらかみ ながよし(1596~1666)】

吉見家臣。通称安右衛門尉。吉見家改易後、毛利秀就に仕えた。

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【や】

安田清茂【やすだきよしげ(15??~1570)】  

益田藤兼家臣。益田家の別働隊を率い三隅国定と一騎打ちを行ない討取られた。

矢富成定【やどみなりただ(15??~15??)】  

益田元祥家臣。1592年、益田元祥に属して「文禄の役」に参陣した。その際、加藤清正から鈴を貰った。

山田氏助【やまだうじすけ(15??~15??)】  

見島福戸城主。官途は長門守。萩の見島地頭、元々見島を収めていた長富氏を滅ぼし、地頭に確立、異国との貿易の中間地点として島は潤った、大内義隆の死後は益田家臣となった。1560年、海賊と交戦を繰り広げる、その後益田元祥の代に「所務代官」となった。

矢部頼次【やべよりつぐ(15??~16??)】

吉見広頼家臣。吉見広頼、吉見元頼、吉見広長の三代に仕えた。1598年、阿武郡大井、椿、川島、石見国吉賀に知行を給された。吉見家没落後は禄を離れた。

山県長茂【やまがたながしげ(15??~16??)】

石見吉川家臣。吉川経家の小姓として因幡鳥取城に入城。吉川経家の最後を見届けた。1644年、鳥取城籠城の様子や、吉川経家の最期を書き写した『山県長茂覚書』を提出した。

有倉頼助【ゆうくらよりすけ(15??~15??)】

吉見家枝連衆。官途は式部大輔。通称右衛門尉。連歌に堪能であり、毛利輝元が防長に減封されると、御伽衆として800石を領した。1604年、萩城の本丸が仮竣工した際に、本丸御門の傍に松を植えた。この松は後に『有倉松』と称された。

横田頼助【よこたよりすけ(15??~15??)】

吉賀郡柿木能美山城主。官途は越後守。別名吉見越後守。吉見隆頼、吉見正頼の元で家老を勤め、吉見家五家老のひとり。吉見正頼が挙兵し、陶晴賢勢が侵攻してくると、嫡男横田頼綱らと共に吉賀郡柿木能美山城に籠城し、江良房栄に偽りの降伏をもって敵将江良正信(端土太郎)、江良弾正を討取った。

横田頼綱【よこたよりつな(15??~15??)】

横田頼助の男。通称与四郎。1550年「吉見正頼暗殺未遂事件」では父横田頼助と共に吉見成廉を監視する、六日市一掃戦においては江良房栄勢300騎余りが能美山城を攻める頃には800騎まで増幅した。1554年、陶晴賢勢の侵攻に際し、奇策を持って陶晴賢勢を打ち破った。

横田壱岐守【よこたいきのかみ(15??~15??)】

鹿足郡政国城主。横田家枝連衆。

横山正重【よこやままさしげ(15??~16??)】

吉見家臣。吉見惣領家改易後、毛利輝元に仕えた。

吉賀興光【よしがおきみつ(15??~15??)】

吉賀郡陣賀城主。吉見家臣。官途は掃部助。天文年間、長嶺宗久らと共に陣賀城将を勤めた。

吉賀元貞【よしがもとさだ(15??~15??)】

吉見家臣。通称惣左衛門。吉見家に仕えていたが、吉見広長が謀殺され吉見家が滅亡すると、赤木頼定、伊藤元利と共に毛利輝元に仕えた。

吉賀頼貞【よしがよりさだ(15??~15??)】

吉見家臣。通称惣左衛門。1556年、上領頼兼と共に益田家の黒周原城を攻撃中に、喜島宗勝の奇襲を受け捕縛された。大内輝弘が山口に侵入した際、吉見家を率いて援軍に向かうも敗戦し負傷した。1564年、因幡国鹿野に参陣した。

吉田興種【よしだおきたね(15??~1569)】

大内義隆家臣。官途は若狭守。通称左兵衛尉。1533年、大森銀山奉行に任じられた。1537年、尼子晴久の攻撃を受け大森銀山を奪われた。1539年、再奪取した。1540年、尼子家方の小笠原長隆が再奪還した。のち毛利元就に属した。大内輝弘の周防挙兵に呼応するが討死した。

吉田式部少輔【よしだしきべしょうすけ(15??~15??)】  

益田元祥家臣。1586年「宇留津城の戦い」で戦功を挙げた。

吉見頼興【よしみ よりおき(1460~1532)】

鹿足郡津和野三本松城主。官途は式部少輔。通称彦三郎。室は内藤弘矩の娘。1482年「大内山口事件」で兄吉見信頼が陶弘護を謀殺して自らも内藤弘矩によって謀殺されたため、吉見家の家督を相続した。本来ならば吉見家は改易されてもおかしくなかったが、大内政弘が「応仁の乱」で動揺する領国の安定を最優先したため、吉見家は所領の減封を受けただけで済んだ。吉見頼興は大内家の信頼回復のため、大内義興に属して山陰地方の各地を転戦した。1511年、大内義興が足利義稙を擁して上洛した際も「船岡山の戦い」で戦功を挙げた。吉見頼興は、嫡男吉見頼隆の室に大内義興の娘を娶ることを許され、さらに没収されていた吉賀郷などの所領を取り戻した。

吉見隆頼【よしみたかより(15??~1540)】

吉見頼興の男。1532年、父吉見頼興の死を受けて家督を相続した。

吉見正頼【よしみまさより(1513~1588)】

吉見頼興の五男。官途は出羽守。通称式部四郎。室は大内義隆の娘(宮姫)。1540年、津和野興源寺の僧となって周鷹と称していたが、兄吉見頼隆の病没により還俗して吉見家の家督を相続した。1551年、陶晴賢が大内義隆を討取りると、陶晴賢対立した。1553年、陶晴賢や益田藤兼と戦った。1554年、陶晴賢勢に三本松城を包囲されると、毛利元就に援軍を要請したが、間に合わず和睦した。1555年、陶晴賢が「厳島の戦い」で討死すると、再び挙兵して毛利元就勢に属して、大内義長勢と戦った。1557年、毛利元就の「防長計略」では数々の戦功を挙げ、長門国阿武郡指月城で15,000石を領した。

吉見広頼【よしみひろより(15??~15??)】

吉見正頼の男。1588年、父吉見正頼が病没するまで、父の後見を受けた。吉見広頼は病弱で、それ以後は嫡男吉見元頼が政務を行った。

吉見元頼【よしみもとよ(15??~1593)】

吉見広頼の男。通称次郎兵衛。祖父吉見正頼の病没後、病弱な父吉見広頼に代わり政務に携わった。1592年「文禄の役」では、末次元康隊に属して参陣した。各地で朝鮮軍を撃破する戦功を挙げた。また慶尚北道礼安の民政、民心鎮撫を行うなど、内政面でも活躍した。1594年、病没した。

吉見広長【よしみひろなが(1582~1618)】

吉見広頼の次男。官途は大蔵大夫。通称長次郎。1593年、兄吉見元頼が「文禄の役」で討死したため、吉見家の家督を相続した。毛利輝元の扱いを不満に思い、毛利輝元と対立した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康に属した。役後、毛利輝元の防長移封により吉見広長も萩へ移った。最後は毛利輝元暗殺を企てたとして謀殺された。

吉見隆宗【よしみたかむね(15??~15??)】

鹿足郡五反畠蕣城主。吉見頼員の男。官途は越後守。吉見正頼が陶晴賢に反旗を翻した際、父吉見頼員と共に五反畠蕣城に籠城した。落城時に落延びた。その後出家した。1581年、還俗し、吉見頼員と共に重臣として署名を行った。

吉見範弘【よしみのりひろ(15??~1553)】

吉見家枝連衆。官途は備前守。1553年、陶晴賢勢が石見国に侵攻した際、波多野滋信、波多野秀信親子と共に長門国嘉年城に籠城して、陶晴賢勢を迎撃するも、討死した。

吉見頼盛【よしみよりもり(15??~1614)】

吉見家枝連衆。官途は兵庫介。吉見正頼の従弟。1582年、吉見正頼、吉見広頼親子が備中高松城の援軍として参陣した際、留守居として下瀬山城に在城した。

渡辺左内【わたなべさない(15??~15??)】  

城ヶ浦城主。益田元祥家臣。益田家の命を受け憎んでいた大谷主水を江の川の渡船場へ誘い出し謀殺した。

渡辺宗入【わたなべそうにゅう(15??~1561)】  

烏帽子山砦城主。益田兼順家臣。通称隼人。1555年、三隅隆兼の援軍として三隅鐘尾城で毛利家方の弥重右衛門を討取った。1558年「田万郷の戦い」では、吉見家勢の武将を討取った。1561年「門司城の戦い」において大友義鎮勢と戦い討死した。

渡辺小三郎【わたなべこざぶろう(15??~15??)】  

益田尹兼の家臣。1515年、三隅興信との戦いで戦功を挙げた。三隅家勢の大賀与四郎を討取った。

領家基恒【りょうけもとつね(15??~1550)】 

虫追大嶽城主。領家基行の男。益田家に属して軍師を務めた。1550年、三隅家との戦いで討死した。

領家恒定【りょうけつねただ(15??~15??)】 

領家基恒の男。1552年、虫追大嶽城へ攻めてきた津和野三本松城主吉見正頼の先鋒隊と戦い、この戦いで住城が隣接していた高津頼満が益田家を裏切り吉見家方として攻めて来た為苦戦するものの益田家勢が掛け付けどうにか落城は免れた。領家恒定は三隅家と戦いにも戦功を挙げた。

領家定行【りょうけただゆき(15??~15??)】

領家恒定の男。通称勘兵衛。1570年、毛利家領内に尼子勝久、大内輝弘等が乱入すると、美濃郡馬高嶽城主杉森氏久を攻撃した。兵300余りで攻め杉森氏久を討取る戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」後は、益田元祥と共に須佐へ移った。

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【資料Ⅰ】

石見国(6郡/188,000石)

安濃郡:刺賀城。
邇摩郡:福光城。
那賀郡:三隅高城。
邑智郡:川本温湯城、上出羽城、琵琶甲城、山吹城。
美濃郡:益田七尾城。
鹿足郡:津和野三本松城。

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【資料Ⅱ】

吉見家五家老【よしみけごかろう】

竹内弘時、横田頼助、竹内弘時、

益田家三奉行【ますだけさんぶぎょう】

大谷章昌、

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【資料Ⅲ】

石見国【いわみのくに】

調査中。

三隅湊【みすみみなと】

三隅川河口部に位置し、同河川流域の物資積出湊と共に、三隅家の外湊として日本海水運、朝鮮貿易の拠点を担った湊街。1552年、三隅家臣で三隅湊針藻城主大賀兵部左衛門は、大内家奉行人より、保障されてきた大内家分国中における「津々浦々諸関役」の免除特権を八端帆一艘、六端帆二艘分について更新された。室町期より三隅湊が日本海水運に関わる重要な湊街となっていた。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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