2013年8月3日土曜日

戦国兵法家人名辞典

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【あ】

愛洲久忠【あいすひさただ(1452~1538)】

伊勢国の兵法家。官途は日向守。通称太郎左衛門。別名愛洲移香斎。愛州陰流の始祖。伊勢の熊野海賊衆の枝連衆。1483年、第六次遣明貿易で愛洲久忠は堺から北京に赴いた。紫禁城で成化帝の近衛兵である「御林軍」に「影流」を伝授した。その後、諸国を遍歴し、日向鵜戸権現に祈願した折り、神が猿の形となって夢に現れ奥義を授けた。愛洲陰流を開き、上泉信綱も師事した。

愛州宗通【あいすむねみち(15??~15??)】

愛州久忠の男。官途は美作守。通称小七郎。別名愛州元香斎。1564年、佐竹義重に陰流の奥義を伝授、これより父愛洲久忠と共に常陸久慈郡太田城にあった佐竹義重の元で剣術師範として仕えた。のち従来称していた「陰流」を「猿飛陰流」と改めた。晩年は常陸那珂郡平沢村に所領に領した。

足利義輝【あしかがよしてる(1536~1565)】

室町幕府第十三代将軍職。塚原高幹や上泉信綱などの一流の剣の達人の教えを受けて「剣聖」「剣豪将軍」と称されるまでになった。将軍としては積極的に各地の大名間の紛争の調停に関わり、将軍家の権威の回復に努めた。足利家再興のため邁進し、後ろ盾という名目で将軍家を牛耳ろうとする三好長慶やその手先の松永久秀、政所の伊勢貞孝ら幕臣との対立した、三好長慶の家臣松永久秀らに御所を急襲され、後まで語り継がれる奮戦の後大勢によってたかって討取られた。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」。

荒木元清【あらきもときよ(1546~1610)】

荒木流馬術の祖。荒木村重家臣。斎藤好玄の弟子。同族の荒木村重に属して戦功を挙げ摂津国花隈城18,000石を領した。1580年、荒木村重が織田信長に謀反を起したため、花隈城も攻撃を受け落城した。荒木元清は羽柴秀吉に仕えたが「羽柴秀次事件」に連座して遠流された。

伊東景久【いとうかげひさ(1540~1623)】

伊豆国の兵法家。通称弥五郎。別名伊東一刀斎。一刀流を創意した。塚原卜伝、柳生宗厳と並び称される剣豪でありながら、生国については伊豆大島説、西国説、近江堅田説、加賀金沢説などがありはっきりしない。中条流の名手鐘捲通宗から同流の小太刀及び通宗工夫の中太刀を学び、鐘捲通宗より中条流の極秘剣ある妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点すべて伝えられた。諸国修行中、33度の勝負(うち7度は真剣という)に無敗を誇った。ただふたりの弟子であった小野善鬼と御子神典膳(小野忠明)に下総小金原で勝負させ、勝った御子神典膳に一刀流秘伝を相伝した。

稲富祐直【いなどめすけなお(1551~1611)】

稲富直秀の男。官途は伊賀守。通称弥四郎。丹後忌木城主の一色家臣で稲富流砲術の祖。祖父直時に鉄砲術を学び、稲富流(一夢流)を創始した。一色家没落により新たに丹後領主となった細川藤孝に属した。1598年「慶長の役」に参陣して「蔚山城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では大坂の細川邸にあってガラシャ夫人の警護に当たったが、西軍の襲撃を受けてガラシャ夫人を守れずに逃げかえり、細川忠興の激怒を買った。執拗に奉公構えをされたが、稲富祐直の鉄砲術を惜しむ松平元康の取り成しを受けて、松平忠吉、松平義直に仕えた。

井上正継【いのうえまさつぐ(15??~1646)】

播磨国の砲術家。通称九十郎外記。砲術井上流の祖。1614年、松平元康に鉄炮術師として仕え、大坂城の砲撃に参陣した。銃器の改良工夫を特技とし、十六連発、二十連発などの機関銃や連城銃と呼ばれる軽便な砲架を考案した。1646年、砲術の技量をめぐる口論がきっかけとなり、刃傷におよんで落命した。

岩間小熊【いわまおぐま(15??~1593)】

常陸国の兵法家。江戸崎で根岸兎角、土子泥之助と共に諸岡一羽に神道流を学んだ。諸岡一羽のもとを去った根岸兎角を追って江戸へ行き、常磐橋上での果たし合いを行い勝利した。敗れた兎角は江戸を去り、代わって小熊は兎角の道場に居座り多数の門人を抱えるようになるが、兎角の門人達に騙し討ちに遭い謀殺された。

小笠原長治【おがさわらながはる(1570~15??)】

遠江高天神城主小笠原長忠の弟。真新陰流剣術の開祖。高天神城落城後は小田原北条氏の庇護下にあったが、北条氏滅亡後は武者修行の放浪の旅に出る。上泉信綱・奥山休賀斎らに新陰流を学び、真新陰流を興した。 奥山公重より神影流を学び、真新陰流を開く。羽柴秀吉に仕え「小田原の役」「大坂の役」では西軍に参陣した。落城後に明に渡り、矛を習得して「八寸の延金」術を編み出したとされる。 帰国後は剣客と多く立合い、敵う者は無かった。「八寸の延金」は不敗の技といわれたが失伝し、後世の白井亨は自力でこれを復元した。門下に針ヶ谷夕雲、神谷伝心斎がいた。

奥山公重【おくやまきみしげ(1526~1602?)】

三河国の兵法家。通称孫次郎。別名奥山休賀斎。亀山城主奥平貞能の家臣奥平貞久の七男。三河国では奥山公重に及ぶ腕前の持ち主はいないほどに達人。上泉信綱が甲府に立ち寄ったことを聞いて出かけていき入門した。上泉信綱が甲府から高山に移って滞在した間に随従し、新陰流の的伝を得た。高山から戻ると、奥山郷に入り、日夜奥山明神に祈願をつづけた。1565年、神託によって奥義を極め、研鑽工夫を重ねて新陰支流の奥山流を興した。1570年「姉川の戦い」で戦功を挙げ、松平元康にも剣術を指南したとされる剣豪。

小野善鬼【おのぜんき(15??~1592)】

摂津国の兵法家。大坂淀川の船頭だったが、伊東景久との勝負に敗れて彼の一番弟子となった。諸国遍歴の旅では、伊東景久に挑む者を小野善鬼が相手した。上総国で弟子となった小野忠明と、一刀流秘伝書の継承をかけて下総国小金原で決闘するが、敗れて落命した。

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【か】

梶原長門守【かじわらながとのかみ(15??~15??)】

下総国の薙刀家。刃渡り一尺四、五寸の薙刀を自由に操り、飛び交う燕を斬りおとすことができた。梶原長門守は塚原高幹は立ち会うことになったが、梶原長門守は、塚原高幹に薙刀を真っ二つに切り落とされ、踏み込まれ二の太刀を浴びせられ討死した。

片山久安【かたやまひさやす(1575~1650)】

抜刀術心貫流。官途は伯耆守。林崎甚助と並んでんで居合の達人。別名片山伯耆守。伯父松庵から居合十八刀と一子相伝の秘太刀を伝授されたという。竹内中務大夫久盛の弟でもある。1596年、京の愛宕神社にこもって祈願し、貫の一字を夢に見て悟った。これにより、心貫流と称した。または神流、真流、片山伯耆流と称す。伯耆守となったのは、羽柴秀次が彼の剣名を聞き、師範として招いた。1610年、後陽成天皇の御前で「磯波」を披露した。晩年は周防国玖珂郡祖生村に居をかまえ、吉川広正から客分として十人扶持を与えられた。息子の、片山久勝は片山心働流を開き、片山久隆が片山伯耆流を継承した。片山久隆は吉川家に仕え、岩国藩の剣術師家のひとつとして廃藩まで仕えた。

鐘捲通家【かねまきみちいえ(15??~15??)】

越前国の兵法家。別名鐘捲自斎。鐘捲流剣術の開祖。一刀流剣術の伊東景久の師。越前朝倉家の剣術指南で、富田流の富田景政の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。鐘捲通家の弟子には、前原弥五郎がおり「一刀斎」の名跡を譲り受け、以後、伊東景久と称して「一刀流剣術」を興した。鐘捲通家は伊東景久に奥義「高上極意五点」を伝えた。

上泉秀綱【かみいずみひでつな(1508~1573)】

上泉城主。上泉憲綱の男。長野家臣。新陰流兵法流祖、小笠原流軍学伝承者。官途は伊勢守。新陰流の剣聖として知られる。常陸の松本備前守の愛洲(移香斎)久忠から剣の指導を受けた。長野業正とともに武田家、北条家の上野侵攻を防いだ。1555年、北条氏康に攻められ、開城降伏。長尾景虎に協力して大胡城を奪回、箕輪城主長野信濃守業正の麾下となって戦功があり、長野十六人槍に数えられ、さらに上野一本槍の感状を受けた。長野業正の死後、嫡子右京進業盛が城主となったが武田晴信のため箕輪落城した。上泉秀綱は箕輪城士200余とともに武田勢に編入されたが、新陰流兵法並氏隆流軍学の修行弘流の希望を述べ、武田家を辞した。上泉秀綱は兵法を松本備前守政元または塚原ト伝高幹に、それぞれに新道流、新当流など香取、鹿島系の兵法を学んだとも、念阿弥慈恩にはじまる念流を学んだとも伝えられているが、その流名新陰流でも察せられるように、愛洲久忠にはじまる陰流を中心に諸流を勘案して新流を立てた。

上泉秀胤【かみいずみひでたね(1530~1564)】

上泉秀綱の男。兵法家としても名を残し、上泉流軍法を大成した。1557年、武田晴信が長野業正の箕輪城に攻撃しようとした際に碓氷峠で武田義信の軍を破った。長野業正の病没後、南方からの北条氏康からの圧迫に苦しんだ上泉信綱は上泉秀胤を人質として小田原に送り圧力の緩和を策した。その後、上泉秀胤はそのまま後北条家に仕えた。1564年「国府台の戦い」で重傷を負い死去した。

川崎時盛【かわさきときもり(15??~15??)】

剣術東軍流の祖。通称は鑰之助。一説には東軍流開祖は東軍権僧正という天台僧で、時盛は二代目とも伝えられる。朝倉家御用人の子に生まれ、はじめは鞍馬八流の達人であった父に、後に小太刀を富田勢源のもとで剣と槍を学んだ。

岸和田重房【きしわだしげふさ(15??~15??)】

越後長尾家砲術指南役。官途は肥前守。薩摩の商人であったが、豊後国の猟師が鉄炮を打つ様を見て、これを学んだ。やがて岸和田流砲術を興した。岸和田流は後北条家でも興隆した。長尾景虎から足利義輝より伝授された「鉄放薬方並調合次第」を拝領した。1594年、岸和田流砲術秘伝書は信濃守田神社に伝来した。

北畠具教【きたばたけよしのり(15??~15??)】

多芸御所と呼ばれた伊勢最後の国司。塚原高幹門下の剣豪大名として名高く、足利義輝とも交わりがあった。後に織田信長の侵攻に抗しきれず、和睦したものの織田信雄に家を譲らされ、程なく織田信長の命で送り込まれた旧家臣達の手により居館の三瀬館において謀殺された。

城戸弥左衛門【きどやざえもん(15??~15??)】

伊賀豪族衆。伊賀豪族十二人衆のひとり。別名音羽ノ城戸。1579年、膳所の街道筋で織田信長狙撃した。1581年、織田信長が伊賀平定の視察の折に、伊賀一ノ宮敢国神社で休息中のところを、原田杢右衛門、服部甚右衛門と共に狙撃を試みるが失敗に終った。

木村友重【きむらともしげ(15??~15??)】

柳生宗矩家臣。通称助九郎。柳生宗矩に師事して新陰流を学び、奥義に達したとされる柳生宗矩の筆頭高弟。のち駿河大納言松平忠長に仕え、続いて紀伊松平頼宣に仕えた。

毛谷村六助【けやむらろくすけ(15??~15??)】

豊前国の兵法家。加藤清正家臣。別名貴田孫兵衛。神伝無双流。加藤家十六将のひとりで900石を領した。豊前国の彦山のふもとに住む百姓であったが、武芸にすぐれ老母に対する孝行でも知られた。1592年「文禄、慶長の役」では、鉄炮衆四十名を率いて参陣した。毛谷村六助は、吉岡一味斎から八重垣流の剣法を伝授された。吉岡一味斎がその娘於菊に横恋慕した京極内匠に謀殺されたため、吉岡一味斎の室於幸、娘於園、於菊の子弥三松を助けて敵討を果した。

古藤田俊直【ことうだとしなお(1564~15??)】

北条氏政家臣。伊東景久の二番弟子。1590年、後北条家の滅亡後は美濃国大垣城主戸田氏信に仕えた。後に古藤田一刀流の祖となった剣豪武将。

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【さ】

斎藤勝秀【さいとうかつひで(1550~1587)】

常陸国真壁郡の兵法家。別名斎藤伝鬼房。塚原高幹に新当流を学び、天流剣術を創始した。1581年、鎌倉の鶴岡八幡宮で参籠中に修験者と出会い、ともに術について語り合い、実際に試合して吟味などするうちに一夜が明けた。斎藤勝秀が修験者の刀術、流名を尋ねると、修験者は黙って太陽を指さして立ち去り、覚えた秘剣に「天流」と称した。後に郷里に戻り下妻城主多賀谷重経に天流剣術を教授した。霞流の桜井霞之助と試合に及びこれを倒したことから同流の門人たちに遺恨を残した。後に霞流の門弟たちから不意の襲撃を受け、大勢に囲まれて矢で射殺された。

佐々木小次郎【ささきこじろう(15??~1612)】

豊前国田川郡の兵法家。厳流の達人で秘技「燕返し」を持つ剣豪。厳流島の対決で宮本武蔵に敗れた。

佐野房綱【さのふさつな(15??~15??)】

下野国唐沢山城主豊綱の次男。剣術の達人で無双の強将と恐れられた。甥の唐沢山城主宗綱が長尾昭長に討ち取られたとき、後北条家から跡継ぎをと考えた家中と対立し出奔、羽柴秀吉の御咄衆となった。1590年「小田原の役」では、羽柴秀吉に属して唐沢山城を落とし、それにより、同城39,000石を領した。

草深時信【さぶかときのぶ(15??~15??)】

加賀国の兵法家。別名草深甚四郎。百姓の子であったが、幼少の頃から剣術を独学で学んだ。家出して剣術修行に出、冨田流を学んだ。塚原高幹の来遊の際に立ち会い、剣では敗れたが槍では勝った。

清水秀政【しみずひでまさ(15??~15??)】

長尾景虎の砲術家。官途は式部少輔。唐人式部少輔から砲術を学び「鉄放薬方並調合次第」を譲り受けた。
 
清水重政【しみずしげまさ(15??~15??)】

長尾景虎の砲術家。官途は造酒丞。清水秀政から「鉄放薬方並調合次第」を譲り受けた。

信太朝勝【しのだよりかつ(15??~15??)】

師岡一羽の門人。官途は大和守。別名根岸兎角。新当流塚原ト伝の高弟師岡一羽に剣を学んだが、一羽が晩年に病を得て再起がおぼつかなくなると見るや突如小田原へ逐電、自ら剣術微塵流を興す。しかし江戸常磐橋で旧弟子の岩間小熊との決闘に敗れ、改名して西国へ赴いて黒田長政の家臣となり大和守を称した。

荘田教高【しょうだのりたか(15??~15??)】

柳生家四天王のひとり。通称喜左衛門。大和柳生家の家臣で新陰流を学び、奥義に達したとされる遣い手。やがて自ら新陰支流である荘田心流を創始し、後に越後高田城主榊原忠次に仕えた。

神後宗治【じんごむねはる(1530~15??)】

箕輪城主長野業政家臣。官途は伊豆守。上泉信綱に新陰流の剣を学び、後に母方の実家の姓をとって鈴木意伯と称した。長野業盛の箕輪落城後、上泉信綱に従い廻国した。疋田文五郎と共に上泉信綱門下の双璧であり、相伝の「化羅(くゎら、袈裟)」を授けられた。足利義輝やに指南した。上泉信綱と別れた後に神後流の祖となり羽柴秀次の剣術指南役となった。

杉之坊照算【すぎのぼうしょうざん(15??~1585)】

紀伊国根来寺の院主。津田算長の次男。自由斎流の祖。叔父杉ノ坊明算の養子になり杉ノ坊院主となる。根来寺僧兵「根来衆」を率いた。算長創始の津田流砲術を継承し、羽柴秀吉を苦しめたが、紀州征伐において討死した。

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【た】

高田為長【たかだためなが(15??~15??)】

尾張国の兵法家。織田秀信家臣。通称三之丞。別名足達庄蔵。武者修行中に駿府で柳生利厳と立ち会い、その技量に圧倒され即時入門随身した。立ち会い時の「おいとしぼう」という掛け声が癖で、これを言い終わらぬうちに相手は皆打たれていた。柳生利厳の高弟のひとりで後に甫斎と号し、兵法をもって尾張家国家老成瀬隼人正に仕え犬山城下に住した。

高田吉次【たかたよしつぐ(1590~1671)】

伊賀国白樫村の槍術家。宝蔵院流高田派槍術の祖。通称又兵衛。高田吉春の男。宝蔵院胤栄の弟子の中村尚政に入門した後、宝蔵院胤栄の直門となった。宝蔵院胤栄の死後は中村尚政に再入門した。1615年、宝蔵院流槍術の印可を授かった。その後は、廻国しながら宝蔵院流に新陰流の剣術、穴沢流の薙刀術、五坪流の槍術(素槍)を融合して宝蔵院流高田派槍術を完成させた。1614年「大坂冬の陣」に父高田吉春と共に羽柴秀頼方として参陣した。1615年「大坂夏の陣」で父高田吉春が討死しが高田吉次は落延びた。1623年、久世家の斡旋により播磨国明石城主小笠原忠真に馬廻衆と仕え400石を領した。1638年「島原の乱」で戦功を挙げ700石を領した。

竹内久勝【たけうちひさかつ(1567~15??)】

美作国塀和郡の兵法家。一ノ瀬城主竹内久盛の次男。官途は常陸介。通称藤一郎。一ノ瀬城が落城したときはまだ幼少であった。宇喜多秀家に仕えたが、後に父竹内久盛と共に垪和庄に帰り兵法に専念した。1586年、必勝五件を体認、兵法自在の奥旨を極めた。その後、西国を武者修行し、時には雇われて真剣の勝負も行い、負けを知らなかった。1618年、京都西山に稽古場を設け、表に「捕手、腰廻り小具足組討師範」、「日本武道宗道、予に勝つ者あらば尋ね来るべし。竹内常陸介久勝」と記した看板をあげた。柳生宗厳の作った兵法百首と、竹内久勝伝来の竹内流心要歌が、酷似していた。竹内久勝と柳生宗厳とは、共に京都、奈良と近くに居たために兵法交換したと考えられた。

田付景澄【たつけかげすみ(1556~15??)】

近江国神崎郡の砲術家。田付景定の男。通称兵庫助。砲術田付流の祖。種子島で砲術を学んだ。1613年、松平元康に仕え下総国香取郡内で500石を領した。鉄砲術は名人と謳われた。著書に「求中集」「鉄炮打方」。

田宮重政【たみやしげまさ(15??~15??)】

田宮流。林崎夢想流を東元治から受け継いだ。常に長柄の刀を差して諸国を武者修業し、工夫と創意を加えて、田宮流抜刀術をあみだした。田宮重政の出現以後、長柄の刀をみな争ってさすようになった。池田信輝に仕官し、対馬守となった。高弟では長野無楽斎と三輪源兵衛が傑出しており、長野は井伊家に召し抱えられ、三輪は水戸に仕えそれぞれ抜刀術田宮流を残した。これを後世、古田宮、新田宮、紀州田宮と称した。

田宮長勝【たみやながかつ(15??~15??)】

田宮重政の男。官途は対馬守。田宮流父の剣法を全て受け継ぎ、剣名高く、入門者も多かった。元は池田利隆の家臣で、1614年「大坂冬の陣」で池田信輝のもとで戦功をげ、松平元康に気に入られた。松平元康は田宮長勝を池田家からもらいうけた。御三家の一つ紀州松平頼宣に仕え800石を領した。嫡男宮田平兵衛長家も達人で、松平家光に招かれて抜刀術を演武した。以後代々紀州家の師範をつとめた。

塚原高幹【つかはらたかもと(1490~1572)】 

吉川覚賢の次男。塚原安幹の養子。通称塚原ト伝。鹿島家四家老の一人吉川城主吉川覚賢の次男のとして生まれ塚原安幹の養子として、塚原城城主となった。塚原高幹は実父吉川覚賢から鹿島中古流の剣法を学び、養父塚原安幹からは香取神道流を学び、鹿島家四家老の一人松本政信から鹿島神陰流を学んだ。弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽や真壁氏幹、斎藤勝秀(伝鬼房)ら一派を編み出した剣豪がいた。足利義輝や北畠具教にも剣術を指南した。この両者には奥義である「一の太刀」を伝授した。

津田算長【つだかずなが(1499~1568)】

紀伊国吐前城主。通称監物。別名杉ノ坊算長。根来寺僧兵の長。「津田流砲術」の祖。種子島に渡り、種子島時尭から一丁の種子島銃を買い、職人芝辻清右衛門に鉄砲を複製させた。鉄砲技術を津田算長が畿内に持ち込んだ事によって、紀伊、堺などは鉄砲の大量生産国となった。

津田妙算【つだたえかず(15??~15??)】

根来寺の僧坊の一つである杉の坊の有力者。津田算行の弟。兄に命じられて、火縄銃による武装化を手がけた。これが紀州鉄砲集団根来衆の始まりとされる。

津田算正【つだかずまさ(15??~1585)】

津田算長の男。官途は監物。根来寺西口の旗頭。通称太郎左衛門。1568年、父津田算長の病没により津田家の家督を相続した。1577年、織田信長に仕えて和泉国佐野城主として雑賀衆の備えを任えた。1584年「小牧、長久手の戦い」に松平元康方として参陣し、羽柴秀吉方の背後を脅した。
1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」に対して抗戦するも根来寺が陥落し、その逃走中に討死した。

土子泥之助【つちこどろのすけ (15??~15??)】

常陸国江戸崎の兵法家。別名土呂之助。諸岡一羽門下の剣豪で同門に岩間小熊、根岸兎角がいた。諸岡一羽の没後は江戸崎でそのまま道場を続け、やがて門弟の水谷八弥に後を任せて、自らは遠江国横須賀城主大須賀康高に仕えた。門人に家所伊右衛門がいた。

天寧寺善吉【ていねいじぜんきち(15??~15??)】

天寧寺住職。官途は雅楽助。別名赤坂弥九郎。天真正自顕流皆伝。鹿島の神官だった天寧寺善吉は、天真正自顕流十瀬長宗から剣を学び、その皆伝を受け、天真正自顕流三世嫡伝となった。父の仇討ちの本懐を遂げた後出家して京都天寧寺に入り善吉和尚を称した。1588年、島津義久に従って上洛した東郷重位に秘伝を伝授した。後に東郷重位は薩摩示現流の祖となった。

東郷重位【とうごうしげかた(1561~1643)】

島津義久家臣。通称藤兵衛。官途は肥前守。薩摩坊泊地頭で剣術薩摩日天真正自顕流の開祖。島津義久に従って上洛した際、京で天寧寺の善吉和尚と出会って剣の奥義を学び、薩摩国へ帰って修練に励み日天真正自顕流(後に示現流)を創始した。島津義久、島津家久に仕え、島津家び島津家久の剣術指南役になった剣豪。

東元治【とうもとはる(15??~15??)】

下総国香取郡の兵法家。官途は下野守。抜刀居合術の神夢想林崎流の祖林崎重信の門人。のち神明無(夢)想東流をひらいた。

富田重政【とだしげまさ(1564~1625)】

山崎越前守の男。富田景政の養子。室は富田景政の娘。官途は越後守。通称は治部左衛門。別名山崎景邦。父山崎越前守は朝倉義景に仕え、富田流の門人。富田流剣術の達人で「名人越後」の異名を持つ加賀藩の剣術指南役。前田利家、前田利長、前田利常三代に仕え、武将としても優れた人物。1583年「末森城の戦い」では一番槍の戦功を挙げた。剣豪武将としては破格の13,670石を領した。その後老齢のため、前田利長が隠居して前田利常が家督を継いだ頃に隠居した。1614年、前田利常に従って「大坂冬の陣」に参陣して、頸級を十九挙げる戦功を挙げた。

富田勢源【とだせいげん(1523~15??)】

越前国の兵法家。冨田景家の男。通称五郎左衛門。大橋勘解由左衛門高能より中条流を学んだ。弟子に一刀流の流祖伊藤一刀斎の師である鐘捲自斎、東軍流の流祖川崎鑰之助等がいた。美濃の朝倉成就坊のもとに寄寓していたおり、神道流の達人、梅津某に仕合を挑まれ、皮を巻いた一尺二、三寸の薪を得物とし、一撃で倒した。眼疾のため家督を義理の弟富田景政に譲り、富田流を創始した小太刀の名人。美濃に立ち寄った際、斎藤義龍の剣術師範、梅津某との立ち会いを行った。

豊野繁政【とよのしげまさ(15??~15??)】

長尾景虎の砲術家。通称庄兵衛尉。清水重政から「鉄放薬方並調合次第」を譲り受けた。後に長尾景虎に「鉄放薬方並調合次第」を献上した。

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【な】

中村尚政【なかむらなおまさ(1577~1652)】

大和国の槍術家。通称市右衛門。宝蔵院胤栄に十文字槍を学んだ。1631年、越前国福井城主松平忠昌に仕え,槍術師範をつとめた。

根来照算【ねごろしょうさん (15??~15??)】

河内国交野郡津田城主津田正信の男。根来杉之坊明算の養子。別名杉之坊照算。紀州根来寺の行人衆(僧兵)の棟梁。算長が種子島より鉄砲の技術を持ち帰り、弟で根来寺の衆徒を束ねる杉之坊明算に鉄砲を与えたのが、根来鉄砲武装集団の興り。「天正伊賀の乱」で伊賀を追われた百地丹波守が根来に逃げ込んだので、忍術の要素が混ざり込んだ。根来の僧兵たちは、僧といっても背中まで髪を伸ばした有髪の僧であった。算長は根来寺の門前町である西坂本に住む鍛冶屋の芝辻清右衛門に鉄砲の製法技術を教え、根来衆は大量の鉄砲を所有する事となった。行人衆の棟梁格は西口の旗大将 杉之坊と、東口の旗大将、岩室坊泉識坊の三人がいて、それぞれに数百人から千人以上の僧兵を抱え僧坊ごとに独立した行動をとっていた。中でも泉識坊は雑賀党の土橋家から院主を据えており、雑賀衆と密接に繋がっていたのである。杉之坊には、智明院坊、蓮池坊、三番鳥坊の三人が次将格として照算を補佐した。根来衆と交じった百地党の忍者は、「根来塗り」の行商を装い全国の情勢を探っていた。

野中成常【のなかなりつね(15??~15??)】

新神影一円流。通称新蔵。 新陰流は上泉伊勢守信綱を流祖とし、足利時代末期戦国の世に創始された日本の剣術を代表する流派。上泉信綱の師弟として、疋田景兼、神後宗治、柳生宗厳、丸目長恵の四天王を筆頭に、松田清栄、野中成常、駒川国吉などがいた。

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【は】

橋本一巴【はしもといっぱ(15??~15??)】

尾張国の砲術家。織田信長の鉄砲指南役の砲術一巴流の祖。織田信長は青年期、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位から学んだ。1549年、織田信長の命で国友村の鉄砲鍛冶国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文した。1558年「浮野の戦い」では、橋本一巴は弓の達人林弥七郎と二つ玉を用いて鉄砲対弓矢の戦いを行い林弥七郎を討取った。

林崎重信【はやしざきしげのぶ(15??~15??)】

楯岡城主最上豊前守の家臣浅野数馬の男。通称甚助。抜刀術神夢想林崎流の開祖。父浅野数馬が坂上主膳に謀殺されたため、仇を討つために林崎神社に願をかけ剣の修行に明け暮れた。その時に抜刀術を創始した。林崎重信は、坂上主膳を追い摂津国で対戦、一流の使い手である坂上主膳に刀を抜かせる暇もなく一刀のもとに切り伏せ、本懐を遂げた。その後、神夢想林崎流を立てた。

疋田景兼【ひきたかげかね(15??~1605)】

上泉秀綱家臣。疋田陰流槍術の開祖。通称文五郎。疋田文五郎は「剣聖」上泉信綱の最古参の門弟であった。上泉信綱は見知らぬ強敵の技量を見極める際には必ず疋田景兼を立ち合わせた。その際、相手が木刀であろうと真剣であろうと竹刀で立ち向かった。疋田景兼の技法は実戦的であり、しかしそれ故に、彼の剣技を見た松平元康に「彼の剣技は優れているが、所詮足軽程度の技で、大将の習う剣技ではない」と師範役を断られてしまう事も有った。畿内随一と評判だった柳生宗厳と三度立ち会い全て勝った。羽柴秀吉に重用され、羽柴秀次の槍術師範に任命されたが、羽柴秀次の失脚によって出家。京洛を引き払って九州に移り、栖雲斎と称して細川家、加藤家の家臣に槍術を伝えた。1600年「関ヶ原の役」後大坂城に入り、羽柴秀頼の師範を勤めた。※「剣の天地」by池波正太郎。

樋口定次【ひぐちさだつぐ(1554~1600)】

上野国多胡郡の兵法家。山内上杉家臣。通称又七郎。慈音を祖とする馬庭念流宗家八世。樋口定次は家伝の新刀流を修めた後、友松偽庵に剣術仲間の串田清兵衛が試合に負けたため、弟子入りした。1598年、伝書を受けて念流8世として、こののち馬庭村で道場を開き、馬庭念流の祖となった。1598年、村上天流を名乗る村上権右衛門と木剣試合をし、脳天を割って勝った。後、念流九世として弟樋口頼次に譲り、西国に旅に出たが上方で右京という者に謀殺された。

人見宗次【ひとみむねつぐ(15??~15??)】

佐竹家臣。通称弁斎。切支丹であったため佐竹家を追放され、長尾景勝に仕えた。馬術指南役となり、直江兼続に人見流馬術を教授した。1611年、馬場造営した。

日置正次【へきまさつぐ(1444~1502)】

伊賀国柘植郷の弓術家。通称弾正。日置流弓術の祖。 逸見流を学び、諸国をめぐり,遊戯化していた古流弓術を改革した。弟子に吉田流をおこした吉田重賢がいた。晩年には剃髪して瑠璃光坊と称した。その弓術をもって諸国を歴遊し近江六角家の内戦にも参陣した。

宝蔵院胤栄【ほうぞういんいんえい(1521~1607)】

山城国の槍術家。中御門胤永の男。別名伊勢伊賀守。宝蔵院流槍術の祖。僧名覚禅坊の奈良興福寺塔頭宝蔵院院主で、十文字鎌槍を独自に考案した宝蔵院流槍術の祖。刀術も柳生宗厳と共に上泉信綱に師事し新陰流剣術を学んだ。その後、天真正伝香取神道流大西木春見に学んだ。素槍に比べ槍としての攻防を多様にする十文字鎌槍の創始は当時の槍術には画期的なものであった。晩年は僧侶が殺生を教える矛盾を悟り槍術から離れ、全ての武具は高弟の中村尚政に与え僧籍に戻った。門下に「笹の才蔵」の異名をとる可児吉長、高田又兵衛、中村尚政、下石三正、礒野信元がいた。

宝蔵院胤舜【ほうぞういんいんしゅん(1589~1648)】

山城国の槍術家。奈良興福寺の子院宝蔵院の院主。宝蔵院胤栄が創始した十文字鎌槍を用いる宝蔵院流槍術を完成させ、江戸時代における宝蔵院流の繁栄の基を築いた。

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【ま】

真壁氏幹【まかべうじもと(1550~1622)】

真壁久幹の男。官途は安房守。通称小次郎。武勇が優れていることから、近隣の豪族から「鬼真壁」と恐れられた。塚原高幹に剣を学び大力無双といわれた剣豪で、一丈もの長さの鉄鋲を打ち付けた六角棒を振り回し戦場を駆け巡った。父真壁久幹から家督を譲られてからは、佐竹家の武将と主要な合戦にはほとんど参加した。文録の役にも従軍した。世継には恵まれず、弟真壁義幹の男真壁房幹に家督を譲った。佐竹家の羽後国移封の際には、真壁房幹を従わせ、本人は次女の娘婿の水谷正勝の菩提寺の常林寺に隠居した。

松岡則方【まつおかのりかた(15??~15??)】

鹿島神宮の大祝職、鹿島新当流の剣豪。通称兵庫助。松岡家は鹿島神宮において大宮司、大禰宜に次ぐ大祝の家柄である。大祝は祭礼のときの祝詞奏上役。剣術の師は諸説あり塚原卜伝の養子塚原幹重と卜伝の弟子である川島卜平の二人に学んだ。『天真正伝新当流兵法伝脈』によると則方は子の時備とともに松平元康に唯授一人を含む新当流の兵法を残るところなく伝授し、「御直紙、御誓紙、御腰刀、御時服」といった褒賞と田野辺の松岡屋敷近辺に知行130石を領した。

松田清栄【まつだきよえい(15??~15??)】

新影幕屋流。通称織部之助。曾孫が福井藩に道統を残す。その伝承者は横山記章。後は横山家が伝えた。

松本政信【まつもとまさのぶ(1468~1524)】

鹿島家臣。官途は備前守。別名松本尚勝。常陸国の剣術家。鹿島神宮の祝部で、小神野、吉川、額賀と並ぶ鹿島家の四宿老のひとり。飯篠長威の門人であったが,鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書を手に入れ,鹿島神流を、開創した。鹿島神流は飯篠長威斎家直に天真正伝神道流を学び、陣鎌、薙刀、十文字(槍)、片鎌などにおける術技は松本政信が完成したもので、合戦用の総合武術であった。鹿島家は一族、支族間の内訌が起った。1524年、廃立問題で鹿島義幹勢と争い「高間ヶ原の戦い」で津賀大膳と相討ちになった。生涯で二十三回も遣り合せをして、大将頸を二十五級、追頸を七六級を挙げた。

丸田盛次【まるたもりつぐ(15??~15??)】

武田晴信家臣。通称九左衛門。文禄年間、京に在住していた際、直江兼続の招きに応じ長尾景勝に仕えた。鉄炮百挺を長尾家に売ろうとしたが、長尾家臣が試射したところ、大半が壊れてしまった。この件は不問にされ、米沢城に扶持を賜り、上杉家の鉄炮鍛冶となる。砲術種子島流を学んでおり、砲術指南役となった。後に丸田流砲術を興し、丸田流は霞流と称された。

丸目長恵【まるめながよし(1540~1629)】

丸目与三右衛門の男。相良家臣。官途は石見守。剣術を本渡城主天草伊豆守より中条流を学び、上泉信綱について師事し新陰流の印可を得た。上泉信綱が足利義輝に招かれてその技を披露したとき、打太刀を勤めた。1569年「大口城の戦い」において敗因を生ぜしめたとして相良義陽の不興を買い、三年間逼塞した。1581年、相良義陽が討死して相良忠房、ついで相良頼房の代になると赦免され、丸目石見守と称して兵法師範を務めた。後に「タイ捨流」を編み出した。武芸に長じるほか、和歌、笛などにも優れ、また肥後球磨郡一武霧の原を開拓するなど政事にも関わった文武両道の人。

神子上典膳【みこがみてんぜん(1569~1628)】

安房国朝夷郡の兵法家。神子上重の男。別名小野忠明。1535年、祖父神子上庄藏は里見家臣で100石を領したが「犬掛の戦い」で、木曽新吾と相打ちで討死した。1589年、里見義康に仕え「万喜城の戦い」に参陣した。正木時堯と一騎討ちをしたが引き分けに終った。里見義康から出奔して伊東景久に弟子入りした。兄弟子に当たる小野善鬼を打ち破り、伊東景久一刀流の継承者に選ばれた。1593年、伊東景久の推挙で松平元康に仕え200石を領した。松平秀忠付となり柳生新陰流と並ぶ松平将軍家剣術指南役となった。

宮本武蔵【みやもとむさし(1584~15??)】

播磨国印南郡の兵法家。田原家貞の次男。二刀流剣法の祖。宮本武蔵は幼い時に両親と死別し、叔父新免無二(平尾無二之助)の養子となった。1600年「関ヶ原の役」。1614年「大坂の両陣」。1638年「島原の乱」に参陣したが戦功を挙げることが出来なかった。神当流の有馬喜兵衛や吉岡清十郎を倒した。1612年、巌流島の戦いで有名な生涯無敗の剣豪佐々木小次郎と決闘して勝つ。奇矯かつ傲慢な性格と伝えられ、風呂嫌いで身だしなみに欠けていたことから仕官先が見つからなかった。著書に「五輪書」。

夢想勝吉【むそうかつよし(15??~15??)】 

常陸国の棒術家。通称権之助。杖術の神道夢想流杖術の祖。霞流の桜井吉勝に学び神道流の奥義を究め、鹿島神流の「一の太刀」の極意も授かった。慶長年間の頃に江戸へ出、剣客と数多くの試合をして一度も敗れたことがなかったが、宮本武蔵に敗北した。それ以来修行に専念し、ある時、夢の中に現れた神童より棒術の奥義を伝えられた。これに工夫を重ね、ついに宮本武蔵を破った。その後、新道無想流の棒術をもって、福岡城黒田長政に仕えた。弟子は小首吉重。

諸岡常成【もろおかつねなり(1533~1593)】

常陸国の兵法家。通称平五郎。別名師岡一羽。土岐家四天王師岡家の父から神道流を受け継いだ。それとは別に塚原高幹の直弟子となり、自ら一羽流を創設した。晩年に癩風を病み、これを見限った弟子の根岸兎角が逐電、追った岩間小熊と江戸常磐橋で行われた決闘は有名。

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【や】

柳原戸兵衛【やなぎはら とへえ(15??~15??)】

安部重定に仕えた忍衆。伊達政宗が安部重定に命じて編成した黒脛巾組の組頭となった。組頭は柳原戸兵衛と世瀬蔵人が勤めた。陸奥国南方の調略活動を担当していた安部重定の指揮下で、世瀬蔵人とともに下忍50人を率いて諜報、流言任務に携わった。

吉岡直賢【よしおかなおかた(1540~1604)】

吉岡直光の男。吉岡流の兵法家。祖父の吉岡直元が将軍足利義晴に仕え、父吉岡直光が足利義輝の兵法指南となった。京都今出川に道場を開き「兵法所」と言われた。 吉岡直賢は上洛した足利義昭に出仕し、兵法指南を務めた。小倉碑文で宮本武蔵の父新免無二と義昭の御前試合で戦った。

吉岡重堅【よしおかしげかた(15??~15??)】

清十郎直綱の弟で通称清次郎。1613年、禁裏での祝宴の能の最中に普段から不仲の役人只見弥五左衛門に態度をたしなめられたことに逆上、彼をはじめ多数の人々を殺傷し、駆けつけた京都所司代板倉勝重家臣の太田忠兵衛兼氏に斬られた。

吉岡直綱【(15??~15??)】

通称清十郎。吉岡憲法直元を祖とし、京にあって「けんぽうの家」と呼ばれ、代々将軍家の剣術師範を務める剣術京八流の名門吉岡家の四代目当主。宮本武蔵に試合を挑まれ、受けて立つが重傷を負ったとも打ち殺されたとも伝えられる。

吉岡直重【(15??~15??)】

清十郎直綱の弟で通称伝七郎。兄を破った宮本武蔵に京八流家元の威信をかけて挑戦状を送りつけるが、逆に蓮華王院三十三間堂で武蔵に打ち殺されたと伝えられる。

吉岡源左衛門【よしおかげんざえもん(15??~1604)】

別名壬生源左衛門。足利将軍家の剣術師範を務めた吉岡憲法の3代目直賢の弟で、京都壬生に住していたことから壬生源左衛門とも呼ばれていたとされている。1604年、甥の吉岡清十郎・伝七郎兄弟が宮本武蔵に敗れた後、子の源次郎を立てて京都一乗寺下り松で武蔵を迎え討とうとしたが、敗れて武蔵に討たれたという。

京八流吉岡道場の門弟で、宮本武蔵との間で戦われた史上に名高い洛北「一乗寺下り松の決闘」の吉岡側名目人。わずか11歳では武蔵にかなうはずもなく、一撃で首を飛ばされたと伝えられる。

吉田重賢【よしだしげかた(1463~1543)】

近江国蒲生郡の弓術家。官途は上野守。通称太郎左衛門。弓術に優れた六角定頼家臣。吉田重賢は、逸見流、武田流、小笠原流などの古流弓術を学び、続いて日置正次が創始した射法を修めた。日置正次の射法は従来のものに比べ革新的であったことから、日置正次以前の流派を「古流」、日置正次以降を「新流」と称した。吉田重賢により大いに世に広まり、日置流または吉田流と称され、吉田重賢は吉田流の祖とされた。近世以降の弓術流派はほぼ全てこの日置、吉田流の系統に属した。

吉田重政【よしだしげまさ(1485~1569)】

吉田重賢の男、官途は出雲守。通称は助左衛門。弓術吉田流を引き継ぎ、出雲派吉田流の祖となる。六角義賢に仕えたが、弓術の伝授をめぐってもめ、越前国の朝倉義景に仕えた。後、六角義賢に弓術の秘伝を伝授した。

吉田重高【よしだしげたか(1509~1586)】

吉田重政の男。官途は出雲守。通称助左衛門。父吉田重政から奥義をつたえられた六角義賢に学び、吉田流出雲派の祖となった。

吉田重勝【よしだしげかつ(1514~1590)】

吉田重政の四男。通称六右衛門。祖父吉田重賢や父吉田重政から弓術を学んだ。六角義賢と吉田重政の間で争いがおきた際、吉田重賢から奥秘真伝をさずけられ京都に落延びた。後に細川藤孝に仕え、弓術雪荷派吉田流雪荷(せっか)派の祖となった。門下には蒲生氏郷、羽柴秀長、羽柴秀次、宇喜多秀家、細川藤孝らがいた。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】

調査中。

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【資料Ⅲ】

新陰四天王【しんかげしてんのう】

疋田景兼、丸目長恵、奥山公重、神後宗治。

柳生四天王【やぎゅうしてんのう】

天下五剣【たんかのごけん】

室町時代に特に業物として名高かった、刀剣五振りを天下五剣(鬼丸国綱、童子切安綱、大典太光世、三日月宗近、数珠丸恒次)と称した。いずれも足利将軍家が代々所有しており、足利義輝の末期の戦いにもいくつかを使用して奮戦した。足利は比較的長期にわたって治世を行った将軍家だけあって、多くの高名な刀剣を多数収蔵していたが、そのほとんどは足利家没落後、織田信長、羽柴秀吉、松平元康、天皇家などに散逸した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社、「信濃須田一族」総合出版社歴研。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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