2013年10月7日月曜日

戦国南伊勢国人名事典

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【あ】

浅井石見守【あさいいわみのかみ(15??~15??)】

多気郡大杉谷館主。北畠具教家臣。  

潮田長助【あさだながすけ(15??~15??)】

四五日森(松坂)城主。潮田角助の男。北畠具教家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。1569年、北畠具房は織田信長と和睦するが、潮田長助は、岸江又三郎、星合左衛門尉と共に四五日森城を築城して、織田信長勢に反旗を翻した。四五百の森は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と詠まれていた。これにより織田信長は伊勢南方の城をひとつも破壊することができなかった。

阿曽弾正少弼【あそだんじょうしょうゆ(15??~15??)】

一志郡丹生俣館主。波瀬家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

安保大蔵大夫【あほおおくらだいふ(15??~15??)】

北畠具教家臣。五箇篠山城主野呂越前守、野呂伊予守が討死した後、安保式部少輔、安保大蔵大夫が城主となった。1564年、織田信長勢と戦った。

天川下総守【あまかわしもつけのかみ(15??~15??)】

一志郡波瀬宇呂館主。波瀬家臣。

石丸有次【いしまるありつぐ(15??~15??)】

北畠具教家臣。中村の豪族衆。

石丸有定【いしまるありさだ(1547~1631)】

石丸有次の男。通称孫次郎。別名斎号半斎。北畠具教に従い、長野家との争い戦功を挙げた。織田信雄が北畠家に入ってからは、それに属した。1591年、織田信雄が所領を没収されて、秋田へ転住を命じられた時、これに従った。1592年、松平元康に仕えて500石を領した。

家城之清【いえきゆききよ(15??~1577)】

一志郡家城城主。北畠具教家臣。官途は主水頭。槍の名手。長野藤定が北畠家領を侵した「垂水鷺山の戦い」では、豊田五郎左衛門、垂水釈迦坊らと共に奮戦し勇名を轟かせた。1543年「垂水鷲山の戦い」に参陣した。長野藤定との戦いでも戦功を挙げた1569年、織田信長勢が大河内城主北畠具房を囲んだ際は、織田家勢の池田恒興が攻め寄せると、日置大膳亮らと共こ迎え撃ち、家城之清は槍働きで戦功を挙げた。池田恒興、丹羽長秀、稲葉良通らの夜襲を受けた際も日置大膳亮、長野左京亮らと共に撃退した。その後、北畠具房は織田信長の次男織田信雄を養子に迎え和睦した。1570年、曽原城主天花寺広高が反旗を翻すと、家城之清も加勢すべく曽原城内に入城した。1571年、北畠具房が参陣し曽原城を囲むと、家城之清は城を出て北畠具房家勢に合流し曽原城を攻略した。1577年、北畠具親が挙兵すると家城之清も参陣しするが、日置大膳亮や船江衆らに攻められ討死した。

池山伊賀守【いけやまいがのかみ(15??~15??)】

度会郡山岡砦主。田丸顕晴家臣。官途は修理亮。田丸顕晴に謀反し、山岡党を率いて反乱を起こし田丸城を制圧し自刃に追い込んだ。北畠晴具の侍大将舟木兵部少輔によって討たれた。

磯田彦右衛門【いそだひこえもん(15??~15??)】

北畠具教家臣。安保大蔵太夫と共に「秋山宗丹討伐戦」に参陣した。宇陀郡の沢房満、秋山宗丹は北畠具教に従わず三好家と誼を結んだ。秋山宗丹の嫡男秋山直国は、三好長慶の娘を娶った。北畠具教は神楽岡城を攻撃した際、安保大蔵少輔、磯田彦右衛門尉が討死した。その後秋山宗丹は降伏し、秋山宗丹を人質とした。北畠具教はこ秋山宗丹を大内山但馬守に預けたが間もなく病没した。

井上専正【いのうえせんしょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。通称味兵衛。織田信長との戦いでは、数々の戦功をあげるが北畠家の劣勢を覆すことは出来なかった。鳥屋尾満栄と共に、田丸城の鶴女救出した。その後吉田家に逗留して北畠昌教誕生を見届けた。鳥屋尾満栄から北畠家の家老の地位を譲り受けて北畠家家老に就いた。織田信長から北畠昌教の行方を追及されると芝山秀時、大宮吉守ら近臣と共に大和飯貝門跡に落延びた。その後、本願寺顕如から「教順」という法名を賜った。石山本願寺城が陥落すると羽後国鹿角にうつり専正寺を建立、住持となり北畠昌教をかくまいつつ自らの娘を北畠昌教の室とし、北畠家再興のための武士をあつめた。北畠昌教らが大湯折戸館に移ると、隠居して家老職を芝山秀時に譲った。その後北畠昌教の次男折戸昌近の側近として住持をしながら折戸家の家老格となった。1600年、津軽家の客将となった北畠昌教に従って「関ヶ原の役」に参陣した。その後は完全隠居して専正寺住持として過ごした。

岩内鎮慶【いわうちかねよし(15??~15??)】

多気郡岩内城主。北畠材親の男。北畠家枝連衆。岩内家を再興した。木造俊茂から白粉代官職を奪った。久我家木造庄の年貢未納に対し大御所具教とともに対応した。

岩内国茂【いわうちこくしげ(15??~15??)】

岩内鎮慶の男。

岩内具俊【いわうちよしとし(15??~1576)】

岩内国茂の男。官途は主膳正。別名岩内光安。1569年、織田信長勢の侵攻に備えた。1576年、織田信長の伊勢攻めのときに田丸城に拘禁され謀殺された。その子の岩内光吉は北畠具親に養われ、度会郡山田に移り住んだ。

遠藤五郎左衛門【えんどうごろうざえもん(15??~15??)】

大宮含忍斎家臣。1569年、阿坂城にて織田信長勢の侵攻に備えた。羽柴秀吉の調略に呼応し、阿坂落城した。

大久保清左衛門【おおくぼきよざえもん(15??~1576)】

北畠具親家臣。

大河内親忠【おおこうちちかただ(15??~15??)】

多気郡大河内城主。北畠材親の男。官途は相模守。別名大河内御所。木造御所は北畠家庶流の筆頭であったが、木造御所は度々幕府側に付き、宗家と対立した。その為、田丸御所(田丸城)、坂内御所(坂内城)、大河内御所、(大河内城)の三家が北畠家三御所となり、なかでも大河内御所は代々筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場であった。

大河内頼房【おおこうちよりふさ(1510~1557)】

北畠材親の三男。官途は権中納言。室は北畠晴具の娘。星合館を築いて星合家を称した。父北畠材親の命を受けて伊勢国各地を転戦した。1526年、兄大河内親忠の跡をついで大河内城主となった。

大河内具良【おおこうちもとよし(15??~1576)】

大淀城主。大河内頼房の次男。官途は左少将。別名大河内教通。剣の達人。1576年、病で田丸城に滞在していた大河内具良は、見舞いと偽って訪れた柘植保重、小川久兵衛尉に謀殺された。

大嶋讃岐守【おおしまさぬきのかみ(15??~15??)】

北畠具教家臣。武勇の人物。北畠家が織田信雄に乗っ取られた後、伊勢長島一向一揆に加担した。枝連衆の大嶋豊後守と共に伊勢長島城で一向一揆と共に織田信長勢と戦った。伊勢長島の一向一揆では、織田信広、織田信次、織田信成、織田秀成ら大将五人を討取り、雑兵700人を討取る戦功を挙げた。その後、枝連衆の大嶋内蔵頭が北畠の家臣帳を残した。

大多和兵部少輔【おおたわひょうぶしょうぶ(15??~15??)】

一志郡八田城主。北畠具教家臣。1569年、北畠具教は、麾下の諸将を八つの城に配置した、安濃郡今徳山には奥山常陸介、一志郡小森上野には藤方入道慶由、八田城には大多和兵部少輔、阿坂城には大宮入道含忍斎、曾原城には天花寺広高、飯高郡岩内城には岩内主膳光安、船江には本多親康、木造城には木造具政が拠っていた。織田信長は、今徳山城の奥山常陸介、岩内城の岩内主膳、阿坂城の大宮入道含忍斎を降し、北畠具教父子の籠城する大河内城を目指した。大河内城を包囲された北畠具教は、織田信長次男織田信雄を養子にすることで織田信長と和睦した。

大宮含忍斎【おおみやがんにんさい(15??~1569)】

阿坂城主。北畠具教家臣。北畠家四家老のひとり。大宮家も北畠家に代々仕えた枝連衆で、南北朝時代の北畠顕能の「長野家討伐」などにも大宮枝連衆が参陣した。織田信長勢を迎え撃つ最前線である阿坂の城を守り、徹底的に抗戦した。1569年、羽柴秀吉の攻撃を受け、謀略により内応者が続出、ついに阿坂城は陥落させられ、捕らえられて羽柴秀吉に謀殺された。

大宮景連【おおみやかげつら(15??~1576)】

大宮含忍斎の男。通称大之丞。剛勇無双の猛者で弓の名手。1576年、父大宮含忍斎や弟大宮吉守たちと共に織田信長勢から阿坂城を守り、攻撃大将の羽柴秀吉を狙撃し、羽柴秀吉に傷を負わせた。これは羽柴秀吉生涯においてたったひとつの戦傷であった。そして得意の弓をもって織田信長勢の兵士を多数討ち取るが、謀略の前に屈して城は落城し、父大宮含忍斎と共に捕らえられて羽柴秀吉により謀殺された。

大宮吉守【おおみやよしもり(15??~15??)】

大宮含忍斎の次男。通称主膳。1576年、北畠具教が謀殺されると、芝山秀時と共に三瀬館に、北畠具教の頸をもった加留左京の家臣の伊藤重内を斬り捨てて頸を奪還、北畠政成の家老芝山秀定に頸を預け、北畠具親に急変を伝え、共に落延びた。井上専正と共伊勢国を脱して大和国から本願寺そして羽後国鹿角郡に至った。1600年、津軽家に仕えた北畠具親に従った。芝山秀時が病没すると北畠家老職に就任した。

大内山但馬守【おおうちやまたじまのかみ(15??~15??)】

度会郡阿曽城主。北畠具親家臣。1582年、北畠具親の挙兵に呼応した。

岡村修理亮【おかむらしゅりのすけ(15??~15??)】

一志郡福田山城。

萩原隠岐守【おぎわらいきのかみ(15??~15??)】

多気郡萩原館主。北畠具教家臣。

奥山知忠【おくやまともただ(15??~1576)】

安芸郡今徳城主。北畠具教家臣。官途は常陸介。本田美作守と並ぶ軍奉行。今徳城は、中伊勢国に覇を唱えた長野家と国司家の勢力圏との中間にあったが、長野家が北畠家と和睦し北畠具教の次男長野具藤を養子に迎え入れてからは長野家領も北畠家の馬打ち同然となっていた。この状況が変わったのが、長野家の家臣団が長野具藤を放逐し、織田信長の弟織田信包を養子に入ると再び今徳城が最前線になった。織田信長勢の織田信昌に城を攻められるが撃退した。その後、織田信長から北畠具教を討つことを命じられるが拒否した。領地加増の朱印などを受け取るが仮病を使って離脱して織田信長に朱印を返還後、出家した。

奥山信濃守【おくやましなののかみ(15??~15??)】

小森上野城主。北畠具教家臣。

小倉帯刀将監【おぐらたてわきしょうげん(15??~15??)】

度会郡曽野館主。園家家臣。

小原冷泉【おばられいせん(15??~15??)】

北畠具教家臣。船江城に籠城する本田美作守を助けるべく小原冷泉、北村仁蔵、西岡団之助などの手勢が応援に駆けつけていた。京の関白近衛公の枝連衆に連なる冷泉家の一族。北村仁蔵と西岡団之助は伊賀の国名張の地侍であり彼らとともに近隣の百姓らも一揆を組んで船江城に入り織田信長勢の襲来に備えた。織田信長の先鋒に夜襲を掛けこれを散々撃ち破った。

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【か】

海津喜三【かいずよしぞう(15??~15??)】

木造具政家臣。鉄砲衆。1568年、秋山直国、沢房満の攻撃を撃退した。

方穂民部少輔【かたほみんぶしょうゆ(15??~15??)】

北畠具教家臣。一志郡多気館主。方穂家は枝連衆というよりも親族家臣で、御所とは称されなかった。八下御所と森本俊信と共に軍役500人を課せられた。方穂民部少輔は織田信長の伊勢攻めのときに国司と共に大河内城に入った。

方穂久長【かたほひさなが(15??~15??)】

方穂民部少輔の男。官途は采女正。

加藤民部少輔【かとうみんぶしょうゆ(15??~15??)】

北畠具教家臣。公事奉行。

川方隼人佐【かわかたやなとのさ(15??~15??)】

川方城主。北畠具教家臣。1584年「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

河村新左衛門【かわむらしんざえもん(15??~15??)】

度会郡慥柄浦館主。

加留左京【かるさきょう(15??~15??)】

藤方朝成家臣。1576年、織田信長の働きかけで織田家に寝返った滝川雄利、柘植保重と旧臣の長野左京進と藤方刑部の家臣の加留左京が三瀬館を訪れ、北畠具教の謀殺を図った。北畠具教は武道の達人、とっさに槍を避け太刀を抜こうとしたが、織田家に寝返った家臣佐々木四郎左衛門により太刀がさやから抜けないように細工がしてあり、北畠具教は四男徳松丸と五男亀松丸の子と共に謀殺された。また北畠具教の室(北の方)と娘で織田信雄の室(千代御前)まで謀殺された。他に北畠家臣十四人の武将が殺害され、三十人余りの家人もそれに殉じた。

岸江又三郎【きしえまたさぶろう(15??~15??)】

北畠具教家臣。1569年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。その後、北畠は織田信長と和睦するが、岸江又三郎は、潮田長助、星合左衛門尉と共に四五日森城を築城して、織田信長勢に反旗を翻した。四五百の森は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と詠まれていた。これにより織田信長は伊勢南方の城をひとつも破壊することはできませんでした。

北岡右衛門督【きたおかうえもんのじょう(15??~15??)】

多気郡笠木館主。笠木家臣。

北畠晴具【きたばたけはるとも(1503~1563)】

大河内城主。北畠材親の男。伊勢国司。官途は左近衛中将。室は細川高国の娘。文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌をよくし能書家でもあった。1511年、父北畠材親の隠居により北畠家の家督を相続した。1521年、細川高国らと共に歌合せを多気御所で行った。1531年、北畠晴具の支援を受けた細川高国は摂津国まで侵攻し、細川晴元や三好元長と「天王寺の戦い」で敗北し、大物浦で討死した。志摩国鳥羽城を攻撃し、支配下に収めた。そして小浜景忠ら国人衆を掌握して志摩国をほぼ制圧した。その後、大和国に侵攻して吉野郡を制圧し、支配下に収めた。この侵攻により、大和諸国人衆と対立し、筒井順賢、越智家教、十市遠忠、久世遠治らと戦った。紀伊国へも侵攻し、熊野地方から尾鷲、新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。1543年、伊勢国南部の領有をめぐり、長野藤定との対立した。1543年「垂水鷺山の戦い」では、長野藤定の主力細野藤光、分部光嘉と戦いうが、決着はつかずに双方退却した。1553年、隠居して北畠家の家督を嫡男北畠具教に譲った。

北畠具教【きたたけ とものり(1528~1576)】

北畠晴具の男。官途は左近衛中将。室は六角定頼の娘。「剣聖」塚原卜伝の弟子。1553年、父北畠晴具の隠居により北畠家の家督を相続した。1558年、北伊勢の豪族、安濃郡を支配していた長野藤定の養子に長野具藤を送った。1560年、三好長慶家臣、松永久秀、松山新介の侵攻を受けた。1563年、嫡男北畠具房に北畠家の家督を譲って隠居したが、北畠家の実権は依然として北畠具教が握っていた。1568年、織田信長が北伊勢国に侵攻し、神戸具盛、長野具藤など豪族衆を支配下に置いた。1569年、織田信雄を嫡男北畠具房の養子に迎え織田家と和睦した。1572年、多気郡三瀬館に隠居した。1576年、織田信雄の命を受けた、長野左京亮、加留左京進(藤方刑部小輔の名代)らの襲撃を受けて、四男徳松丸、五男亀松丸、および家臣大橋長時、松田之信、上杉頼義らと共に謀殺された。北畠具教の頸級は加留左京進の家臣伊藤重内らにより運び出されたが、駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、芝山秀定により御所尾山に埋葬された。

北畠具親【きたばたけともちか(15??~1586)】

飯南郡川俣谷館主。北畠晴具の三男。官途は宮内少輔。室は六角義賢の娘。1576年、はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位にあったが、兄北畠具教が織田信雄によって謀殺されると、伊賀国に潜入し、還俗して伊勢国に戻り、伊勢南部の北畠家の旧臣をかき集めた。1577年、三瀬谷、河俣谷、多気、小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄勢の日置大膳によって鎮圧された。伊賀国豪族衆の吉原家が北畠具親を後援したことにより、織田信雄の「伊賀国侵攻」の原因を作った。1582年「本能寺の変」後に、安保直親と共に五箇篠山城に蜂起。津川義冬の率いる織田信雄勢敗北した。1584年、蒲生氏郷の伊勢入封後は蒲生家に客将として仕えた。

北畠具房【きたばたけともふさ(1547~1580)】

北畠具教の男。官途は右近大夫将監。別名中の御所。室は鈴木家重の娘。1563年、父北畠具教の隠居により北畠家の家督を相続した。1569年、父北畠具教と共に織田信長に降伏し、織田信長の次男織田信雄を養嗣子として迎えた。1572年、織田信雄に北畠家の家督を奪われ隠居した。1576年「三瀬の変」後、北畠具房は幽閉の身となり、その身柄を滝川一益に預けられて安濃郡河内に幽閉された。

北畠昌教【きたばたけまさのり(1577~1616)】

北畠具房の男。祖父北畠具教ら枝連衆が謀殺され、父北畠具房が滝川一益に預けられて幽閉されたとき、家臣に連れられて脱出し、織田信長の追及から逃れた。その後、本願寺を頼り、その降伏後は津軽為信の客分となった。井上専正は都に隠れ住んでいた北畠昌教を保護し、北畠昌教は折戸と改姓し、死に臨んで代々折戸姓を名乗ること、他家に仕えないことを遺言して亡くなった。

北畠親成【きたばたけちかなり(1560~1576)】

北畠具教の三男。通称式部少輔。興福寺東門院の僧から還俗した。北畠具教が織田信長の侵攻に屈伏し、織田信長の次男織田信雄を養子に迎えることになった際、強硬に反対した。このため、反織田勢力のひとりと見なされた。1576年、父北畠具教が織田信雄らの命令で旧臣によって「三瀬の変」で謀殺された際、北畠親成も兄長野具藤と共に田丸城において謀殺された。

北畠政成【きたばたけまさなり(15??~1576)】

一志郡美杉館主。北畠政郷(政勝)の男。通称左衛門督。別名東御所。室は松永久秀の養女。妹は北畠具房の室(鶴女)。1569年、織田信長勢の襲撃を受けるが多気御所の霧山城に城代として籠城して抗戦した。1576年「三瀬の変」で北畠具教はじめ北畠家枝連衆が織田信雄勢に討たれた後、多気御所に攻め込んできた織田信雄勢に対し、霧山城に籠城したが敗れて自刃した。

北畠具就【きたばたけともなり(15??~15??)】

北畠具教の男。別名小原具就。1569年、織田信長勢の侵攻に備えた。藤方朝成と共に小森上野城を守備した。

吉川平吉【きっかわへいきち(15??~1580)】

伊勢神宮の門前湊として栄えた大湊の船奉行。1580年「鳥取城の戦い」で活躍した。「防己尾城の戦い」で討死した。

吉川平助【きっかわへいすけ(15??~15??)】

吉川平吉の弟。1580年、鳥取城攻囲に一軍の将。1582年「本能寺の変」に際しては松平元康を三河国へ落延びる手助けを行った。

吉川三蔵【きっかわさんぞう(15??~15??)】

吉川平助の弟。紀伊国新宮北山の代官。1588年、一揆に攻撃された堀内氏善を救援した。

久世因幡守【くぜいなばのかみ(15??~15??)】

飯南郡上仁柿館主。園家臣。

蔵田行俊【くらたゆきとし(15??~15??)】

北畠具教家臣。通称喜右衛門。1569年「大河内城の戦い」に参陣した。織田信長勢を撃退する戦功を挙げた。和議に反対する抗戦派。

小坂兵部少輔【こさかひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

飯南郡上仁柿館主。  

木造俊茂【こづくりとしげ(1495~1548)】

木造城主。木造政宗の男。北畠家臣。官途は左中将。1526年、正四位下参議に任じられた。1533年、出家した。

木造康親【こづくりやすちか(15??~15??)】

木造政宗の次男。川方城主。1495年、木造政宗が木造城の支城として築城し、次男木造康親を居城させた。1584年「戸木城の戦い」では、蒲生氏郷の来攻を受けて落城した。

木造具政【こづくりともまさ(1530~15??)】

北畠晴具の三男。木造俊茂の養子。官途は左少将。別名戸木御所。父北畠晴具の命で木造家の家督を相続した。1554年、戸木城を築城した。1568年、多気御所の馬揃えにて田丸具忠、坂内、大河内の下位に席次を置かれ、叛心した。1569年、織田信長が南伊勢国に侵攻して来ると、北畠具教に背いて織田信長に属した。北畠家の養嗣子となった織田信長の次男織田信雄の家老となった。織田信長没後も織田信雄に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では戸木城に籠城して羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、織田信雄が羽柴と和議を結ぶと、城から退去した。
 
木造長政【こづくりながまさ(15??~1604)】

木造具政の男。官途は左衛門尉。通称大膳。織田信雄に仕えた。1574年、織田信雄の侍大将として、伊勢国海賊衆を率いて伊勢長島城攻めに参陣した。1584年、津川義冬が織田信雄に疑われ、謀殺されると、その家臣が籠城した松ヶ島城を攻撃した。羽柴秀吉と織田信雄が和睦し「小牧、長久手の戦い」が終結すると、織田信雄と共に尾張国へ退いた。1590年、織田信雄が転封を拒んで失領すると、羽柴秀吉に召しだされて、織田秀信の家老として25,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、織田秀信に松平元康勢につくように進言するが容れられず、織田秀信は岐阜城にて石田三成勢に属して、松平元康勢の福島正則や池田輝政と戦い、降伏した。木造長政はその後、福島正則に20,000石で仕えた。

小牧薩摩守【こまきささつまのかみ(15??~15??)】

一志郡小川城主。矢下家臣。

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【さ】

榊原氏経【さかきばらうじつね(15??~15??)】

榊原城主。永禄年間に大和国で討死した。

榊原刑部少輔【さかきばらぎょうぶしょうゆ(15??~15??)】

榊原氏経の男。北畠具教家臣。1576年、北畠家の滅亡後は織田信長に属した。

榊原三左衛門【さかきばらさんざえもん(15??~15??)】

榊原刑部少輔の男。長野信包寄騎衆。

坂内房郷【さかないふささと(15??~15??)】

北畠教具の三男。度会郡坂内御所主。別名坂内御所。次兄北畠親忠は大河内家を相続し、北畠房郷が坂内家を継承した。伊勢神宮と所領問題を起こした。大和国宇陀郡の豪族衆沢房満沢と抗争した。

坂内具種【ふさないともたね(15??~15??)】

大河内親忠の男。坂内房郷の養子。別名星合親能。

坂内教房【さかないよしふさ(15??~15??)】

坂内具種の男。

坂内教賢【さかないよしかた(15??~15??)】

坂内具種の次男。

坂内具泰【さかないともやす(15??~15??)】

坂内具種の三男。

坂内具房【さかないともふさ(15??~15??)】

坂内具種の四男。官途は右近将監。

坂内具義【さかないともよし(1558~1576)】

坂内具房の男。官途は兵庫頭。室は北畠具教の娘。1574年、北畠信雄に属して、北畠家警固衆の大将として「長島城の戦い」に参陣した。1576年、織田信長が北畠家枝連衆を粛清した際、田丸城で謀殺された。遺児北畠亀寿(亀千代)は大叔父北畠具親を頼って落延びた。

芝山秀定【しばやまひでさだ(15??~1576)】

一志郡多気館主。官途は出羽守。北畠政成家老職。北畠家四家老のひとり。大宮と並び政務奉行。1569年、北畠政成の命をうけて急変の起こった三瀬に急行中に野々口で子の芝山秀時と大宮吉守に出会って、北畠具教の謀殺を知り、両人から北畠具教の頸を受取った。両人に興福寺東門院の北畠具親に急変を報告するように命じた。北畠具教の頸を葬って単身織田信長勢に突入、敵を蹴散らすが力つき、太刀をくわえたまま滝壺に馬もろとも飛び込んで壮絶な討死を遂げた。

芝山秀時【しばやまひでとき(15??~15??)】

芝山秀定の男。通称小次郎。大宮吉守と共に北畠具教の謀殺の報を聞いて三瀬に急行、途中で北畠具教の頸をもった加留左京の家臣伊藤重内を討取り頸を奪還、北畠政成の家老芝山秀定に頸を渡し、柴山秀定より北畠具教の弟北畠具親に急変の報告を命じられた。北畠具親に急変を伝えたあと、北畠具親と共に伊勢国に入り、芝山秀時と鳥屋尾石見守への使者になり、井上専正と共に北畠昌教の護衛を命じられた。織田信長が北畠昌教の探索を始めると伊勢国を脱して和泉国に渡り、羽後国鹿角郡で津軽為信に客将として仕えた。

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【た】

高嶋次郎左衛門【たかしまじろうざえもん(15??~15??)】

北畠具教家臣。本田家寄騎馬衆。1555年、飯高郡の豊田五郎右衛門尉、多気郡の野呂三郎の一揆鎮圧に参陣した。

滝川雄利【たきがわかつとし(1543~1610)】

木造具康の三男。通称星合三郎兵衛。別名源浄院主玄。室は滝川一益の娘。僧侶として木造家に仕えていた。織田信長と北畠具教の戦いでは、滝川一益に属して、木造具政を寝返らせ、織田信長勢の勝利に貢献した。この時、還俗し滝川一益の娘婿として迎えられ滝川雄利と称した。北畠家に養子入りした織田信雄の付家老となった。1576年、北畠具教を謀殺する際は、小姓を買収し、刀を鞘から抜けないようにして謀殺した。1581年「天正伊賀の乱」の際には伊賀の豪族を調略して結束力を弱め、伊賀上野城を築城した。1582年「本能寺の変」後に北畠具親が一揆を起こした際は、これを鎮圧し「大剛之者也」と評価された。1583年「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉の内応勧誘を断って松ヶ島城に籠城したが、織田信雄が羽柴秀吉との和睦を図ると、滝川一益を仲介として羽柴秀吉と織田信雄の和睦を実現させた。滝川雄利は羽柴秀吉秀吉から北伊勢国を任された。「九州討伐」では、石田三成、長束正家。小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行に任じられた。織田信雄改易後もそのまま領国を安堵、神戸城20,000石を領した。1595円「羽柴秀次事件」に連座したが処分は受けなかった。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して400名余りで神戸城に籠城した。このため、役後に改易されたが、後に松平元康に仕えて、常陸国片野城20,000石を領した。

滝川正利【たきがわまさとし(1590~1625)】

滝川雄利の男。官途は壱岐守。室は青山忠俊の娘。1610年、父滝川雄利の病没により滝川家の家督を相続した。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。1625年、病弱で嗣子がなく、幕府の公務に耐えられないという理由から所領20,000石のうち、18,000石の所領を幕府に返還して2,000石の旗本となった。滝川家の家督は、摂津国高槻藩主土岐定義の次男で娘婿の土岐利貞が末期養子として継ぎ、その子の土岐利錦は御側衆に昇進、加増され4,000石の馬廻衆として存続した。

田上玄番正【たのうえげんばのじょう(15??~15??)】

木造具政家臣。木造家老職。

玉井定義【たまいさだよし(15??~15??)】

野呂実高の四男。官途は兵部。

玉井清秀【たまいきよひで(15??~15??)】

玉井定義の男。通称新次郎。

玉井是義【たまいこれよし(15??~15??)】

玉井定義の三男。通称新三郎。

田丸顕晴【たまるあきはる(15??~15??)】

度会郡田丸城。北畠政郷の四男。官途は左中将。別名田丸御所、北畠顕晴。池山伊賀守の謀反よって討死した。

田丸具忠【たまるともただ(15??~15??)】

渡会郡田丸城主。北畠家枝連衆。のち織田信雄の直臣。北畠信雄の命で北畠具教の弟北畠具親を討取った。蒲生家に仕えて55,000石を領した。

田丸直昌【たまるなおまさ(15??~1609)】

田丸具忠の男。室は蒲生賢秀の娘。父田丸具忠の隠居により田丸家の家督を相続した。1574年、織田信雄に属して、伊勢国海賊衆を率いて「長島城の戦い」に参戦した。1576年、織田信雄の命により、長野具藤、北畠親成ら北畠家枝連衆を謀殺した。1582年「本能寺の変」後も織田信雄に属したが、織田信雄と羽柴秀吉が対立すると羽柴秀吉に属した」。1584年「小牧、長久手の戦い」には、蒲生氏郷の寄騎衆として参陣した。蒲生氏郷が会津城に転封になると、田丸直昌は須賀川城30,000石を領した。蒲生秀行が宇都宮城に転封されると、田丸直昌は信濃国海津城主に封ぜられた。
1600年「関ヶ原の役」の「小山会議」で、諸将が松平元康に属すことを約束したのに対し、この後ただ独り羽柴秀吉の恩顧を思い石田三成に属した。田丸直昌は大坂城の守備に就き、役後は助命された。

垂水釈迦坊【たるみしゃかぼう(15??~15??)】

北畠晴具家臣。1543年、長野藤定が北畠家領を侵した「垂水鷺山の戦い」において、垂水釈迦坊、家城之清、豊田五郎左衛門らと共に奮戦し勇名を轟かせた。  

柘植保重【つげやすしげ(15??~1579)】

福地宗隆の男。木造具政家臣。通称三郎左衛門。室は木造俊茂の娘。1569年、織田信長の南伊勢国の侵攻の際、木造具政を調略して北畠具房から離反させた。滝川雄利らと共に織田信長に降ったが、柘植保重が北畠具房に人質に出していた妻子は磔とされた。織田信長勢が北畠家領に侵攻すると、共に大河内城主北畠具房を攻撃した。北畠具房は織田信長に降伏し、織田信雄を養子迎え和睦した。これ以降 柘植保重は茶筅丸付きの家老となった。1577年、織田信長の命をを受け、柘植保重は長野左京亮、藤方慶由の家臣加留左京らと共に、北畠具教の枝連衆を三瀬御所で謀殺した。1579年「第一次天正伊賀の乱」では、織田信雄に属して日置大膳亮らと共に伊賀国に侵攻するが、退却する殿軍の最中に植田光次に討たれた。

柘植宗能【つげむねよし(15??~15??)】

柘植宗家の男。

柘植清広【つげきよひろ(1540~1629)】

柘植宗家の次男。通称三之丞。1581年「第二次天正伊賀の乱」では、兄柘植宗能の指示で、松平元康に属することを申し出たが、松平元康が織田信長と同盟関係にあった事から、三河国に移住して来るなら召抱える旨の返事を受けた。1582年、松平元康の「伊賀越え」では、枝連衆を率いて、信楽から伊勢白子への道を嚮導した。「加太越え」に及んでは、柘植一族が鹿伏兎一族と仲が悪いので暇を賜り、面体が知られておらず道を良く知る米地九左衛門政次が代わりを務めた。1600年「関ヶ原の役」では、鉄砲足軽隊20人を率いて参陣した。甲賀郡300石を領した。1603年、伏見の番を勤めた。1614年「大坂冬の陣」では、松平正綱に属して鉄砲足軽隊を率いて参陣した。

天花寺小次郎【てんげんじこじろう(15??~1569)】

曽原城主。北畠具教家臣。1569年、織田信長の攻撃を受け、防戦し撃退しました。「大河内城の戦い」で戦功を挙げた。その後も織田信長に抵抗し、枝連衆の天花寺蔵人佐と共に伊賀侍に下知もした。織田信長の圧力により北畠具房が参陣したが、敗退、討死した。

鳥屋尾満栄【とりやみつひで(1508~1577)】

飯南郡富永城主。官途は石見守。北畠家四家老のひとりで筆頭家老。智勇兼備の名将で軍事会計などにもつ通じた。1569年、織田信長との戦では大河内城の兵糧攻めを予測しての糧食備蓄などを行った。伊勢国大湊の代官職を務めた。北畠家が織田信長に降伏すると、北畠具豊の家臣として付けられた。1574年「伊勢長島城の戦い」では織田信長勢に属して北畠家警固(海賊)衆を率いて戦った。北畠家には最後まで忠誠を尽くし、北畠家一族が田丸城に監禁されると井上味兵衛専正と共に北畠具房の室の鶴姫と嫡男北畠昌教を救出し茂原城主吉田大悪才兵庫頭もとで保護した。1577年、北畠具教の弟北畠具親が伊勢国で挙兵すると、それに従って北畠家遺臣を集め挙兵するが「川俣の戦い」で討死した。

鳥屋尾右近将監【とりやおうこんしょうげん(15??~15??)】

鳥屋尾満栄の男。1572年、上洛する武田晴信勢と呼応し、田丸城から北畠具房の男北畠昌教を救出した。1577年「川俣谷の戦い」では、織田信雄の家臣日置大膳亮らによって、赤桶城、九曲城がまず落とされ、続いて峯城が攻め取られ、鳥屋尾右近将監が守る富永城も落ちて、ついに森城に拠った北畠具親は毛利輝元を頼って落延びた。

豊田五郎右衛門尉【とよたごろうえのんのじょう(15??~1555)】

北畠晴具家臣。飯高郡の豪族衆。1543年「垂水鷲山の戦い」に参陣した。垂水釈迦房とともに長野藤定との戦いで戦功を挙げた。1555年、斎宮城、智積寺城を奪取した。本田美作守勢に敗北、討死にした。

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【な】

長野左京大夫【ながのさきょうだいふ(15??~1584)】

北畠具教家臣。小倭の豪族衆。日置と並び寺社奉行。長野家枝連衆から北畠家に仕えた。織田信雄に仕えた。1579年「第一次伊賀乱」では、侍大将を務めた。1583年「小牧、長久手の戦い」では、家所氏に討たれる。山田野城主。

中西清右衛門【なかにしきよえもん(15??~15??)】

北畠具教の家臣。本田家寄騎馬衆。1555年、飯高郡の豊田五郎右衛門尉。多気郡の野呂三郎の一揆鎮圧に参陣した。

中西甚太夫【なかにしじんだいふ(15??~15??)】

北畠具教家臣。本田家寄騎馬衆。1568年、北畠具教の命で、織田信長に通じた柘植三郎左衛門の娘を処刑した。

中西図書頭【なかにしずしょのかみ(15??~15??)】

多気郡西山城主。一之瀬家臣。

波瀬具之【なみせともゆき(15??~15??)】

一志郡波瀬城主。一志郡惣領職。官途は蔵人。北畠家枝連衆。1559年、神戸利盛と抗争する長野具藤と結び赤堀具之を攻撃したが敗退した。だが長野具藤から援軍を受けて赤堀具之を再度攻めて滅ぼした。

波瀬具祐【なみせともすけ(15??~1576)】

波瀬具之の男。官途は蔵人。別名波瀬具之。1576年、三瀬御所に隠居していた北畠具教が織田信雄の放った刺客により館を急襲され謀殺された。次男長野具藤、三男北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に謀殺され、坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代北畠政成、及び波瀬具通が謀殺された。北畠具房はその身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に三年間幽閉された。

波瀬具通【なみせともみち(15??~1576)】

波瀬具之の次男。通称内膳正。

波瀬雅通【なみせまさみち(15??~1576)】

波瀬具通の男。波瀬城にこもって織田信雄の攻撃を受けて落城、波瀬雅通は嫡男波瀬康親と共に討死した。

波瀬康親【なみせやすちか(15??~1576)】

波瀬雅通の男。

野呂左近将監【のろさこんのしょうげん(15??~1569)】

北畠具教家臣。1562年、織田家との和議に応じるよう北畠具教に説得を行った。1569年「大河内城の戦い」に参陣した。織田信長に呼応し誅殺された。

野呂三郎【のろさぶろう(15??~1555)】

多気郡の豪族衆。1555年、斎宮城、智積寺城を豊田五郎右衛門尉と共に奪うが、本田美作守勢に敗北、討死した。

野呂実高【のろさねたか(15??~1568)】

多気郡五箇篠山城主。北畠家海賊衆。官途は越前守。北畠家から離反した志摩海賊衆を討伐勢を指揮大将。1568年、志摩国海賊衆との戦で討死した。

野呂伊予守【のろいよのかみ(15??~1568)】

野呂実高の男。1568年、志摩国海賊衆との戦で討死した。

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【は】

長谷川藤直【はせがわ(15??~15??)】

一志郡豪族衆。北畠家臣。通称三十郎。娘の於夏(清雲院)は松平元康に嫁いだ。

長谷川重吉【はせがわ(15??~15??)】

長谷川藤直の男。通称波右衛門。

長谷川藤広【(1566~1617)】

長谷川藤直の三男。通称左兵衛。北畠家臣。のち長崎奉行、堺奉行。

長谷川藤継【はせがわ(15??~1665)】

長谷川藤直の次男。通称忠兵衛。1599年、兄長谷川門重吉が佐渡国金山鉱山に派遣されたとき同行した。その後、松平元康より長崎奉行に任じられ、外交および外国貿易の管理、キリシタンの動静調査などを担当した。茶屋又四郎と共に,長崎の役所に派遣され、ポルトガル船「マードレ・デ・デウス号爆沈事件」を担当した。1614年「大坂の両陣」では、松平元康勢の軍需物資の調達を担当した。多田銀山を奉行も担当した。

波多瀬実高【はたせさねたか(15??~15??)】

多気郡波多瀬城主。野呂実高の男。北畠具親家臣。官途は伊予守。

波多瀬実徳【はたせしげとき(15??~15??)】

波多瀬実高の男。通称三郎。1582年、北畠具親は、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、伊勢国に戻って安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。波多瀬実徳は十五歳だったが叔父山副実有、六呂木実忠兄弟と共に五箇篠山城に参陣した。しかし、北畠具親は、津川義冬率いる織田信雄勢に敗れ、伊賀国に落延びた。波多瀬実徳は捕えられ、船江城で磔にされた。

波多瀬光竹【はたせみつたけ(15??~15??)】

波多瀬実高の次男。

服部民部少輔【はっとりみんぶしょうぶ(15??~15??)】

七栗一色城主。北畠具教家臣。勇士と称された。1569年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

馬場土佐守【ばばとさのかみ(15??~15??)】

波瀬家臣。

田原元綱【はらだもとつな(15??~1569)】

浜田城主。北畠具教家臣。1569年、織田信長勢の滝川一益の攻撃を受け討死した。

原田重綱【はらだしげつな(15??~1584)】

田原元綱の男。1569年、織田信長勢の滝川一益の攻撃を受け父田原元綱が討死、原田重綱も奮戦するが敗れて城を脱出して美濃国に落延びた。のちに織田信雄に属して「小牧、長久手の戦い」で、羽柴秀吉勢と戦ったが、美濃国加賀野井城で討死した。

林備後守【はやしびんごのかみ(15??~15??)】

北畠具教家臣。宇陀郡の豪族衆。1569年、船江城一揆に参陣した。

日置大膳亮【ひおきだいぜんのじょ(15??~15??)】

松ヶ島細首城主。官途は大膳亮。北畠具教家臣。北伊賀国柘植三方衆。長野と並び寺社奉行。兄高松左兵衛督は大河内城旗頭。1569年、織田信長の攻撃には細首城を焼き捨てて大河内城に入り家城主水らと共に戦功を挙げた。織田信雄が養子として入ると織田信長の家臣となり、田丸城内で、長野具藤、北畠房兼、坂内兵庫を討取った。北畠具親の挙兵には鎮圧軍として二回も退けた。その後も織田信雄の家臣として「第一次伊賀攻め」などに参陣した。のちに松平元康に属するが、まもなく病没した。

藤方慶由【ふじかたよしゆき(15??~1576)】

藤方城主。北畠具教家臣。別名藤方御所。藤方慶由は家中でも剛の者として知られていましたが大河内開城後、人質として織田信雄の元に監禁されていた。1576年、織田信長の命を受けて男藤方朝成が家臣加留左京進を名代として参陣させ、北畠具教の謀殺した。この知らせを聞いた藤方慶由は不忠を詰って自刃した。

藤方朝成【ふじかたともなり(1530~1597)】

藤方慶由の男。通称は刑部少輔。1569年、織田信長が侵攻して来ると、北畠具教を裏切って織田信長に属した。1576年、織田信長の命を受けて家臣である加留左京進を名代として参陣させ、北畠具教の謀殺した。この知らせを聞いた父藤方慶由は不忠を詰って自刃した。織田信長の討ちに後は織田信雄、羽柴秀吉に仕え鈴鹿郡庄野で1,000石を領した。

藤方安正【ふじかたやすまさ(1571~1622)】

藤方朝成の男。織田信包に仕え、次いで羽柴秀次に仕えた。1595年、羽柴秀次が自刃すると浪人となるが、後に松平元康に仕えて馬廻衆となった。 1597年、下総国に500石を領して、松平秀忠に属した。

舟木光経【ふなきみつつね(15??~15??)】

北畠具教家臣。1569年「大河内城に戦い」では、織田信長勢を撃退する戦功を挙げた。

舟木光教【ふなきみつよし(15??~15??)】

舟木光経の男。

舟木光春【ふなきみつはる(15??~15??)】

一志郡久米城主。北畠具教家臣。

舟木光長【ふなきみつなが(15??~15??)】

舟木光春の男。通称仁右衛門。別名中村光長。室は本田左京亮の娘。

朴木隼人正【ほうのきまさとのじょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。1569年、織田信長勢は大挙して南勢の北畠家領への侵攻した。北畠具教は枝連衆精鋭を集め、迎撃の態勢を整えた。北畠具教は16,000余りを動員できたが、八城に分散してしてしまったため、各城に配置された兵力は2,000余りになってしまった。対する織田信長は、畿内、尾張美濃の兵70,000余りを動員した。北畠具教は大河内城に籠城、今徳城に奥山常陸介、小森上野城には藤方朝成と枝連衆の北畠小原具就、八田城に大多和兵部少輔を、阿坂城には大宮入道含忍斎、船江城に本田美作守、曽原城には天花寺小次郎、岩内城には岩内具俊、木造城には木造具政をおき、織田信長の侵攻に対抗した。北畠具教は、北畠政成、森本飛騨守、林備後守ら枝連衆、家老の鳥屋尾石見守、水谷刑部少輔、侍大将の朴木隼人正、下村仁助、潮田長助らを手勢とした。

星合親泰【ほしあいちかやす(15??~15??)】

星合城主。官途は式部大輔。別名北畠親泰。北畠政郷の三男北畠親泰が、永正年間、星合城を構えて星合家を称した。星合親泰は北畠材親に属して、国司家伝の天蓋の馬印を授けられた。伊賀国の諸士を寄騎衆として戦功を挙げた。矢野、星合、村松、生津、伊沢らの地を領した。1526年、大河内城に移り、北畠家の政務を執行した。

星合具種【ほしあいともかず(15??~1572)】

星合具種の男。官途は長門守。別名北畠具祐。父星合具種が大河内城に移ったあとの星合城を守備した。北畠晴具より遍諱を与えられ、数々の戦功を挙げた。1539年、従五位上に叙し、参議に任じられた。

星合教房【ほしあいよりふさ(15??~1562)】

星合具種の男。星合教房は星合城主となった。1562年、病没した。

星合教賢【ほしあいよりかた(15??~15??)】

星合具種の次男。別名堀江教賢。北畠具教の遍諱を受けて星合教賢と称した。北畠具忠に従って度々戦功を挙げた。

星合具泰【ほしあいともやす(15??~15??)】

星合具種の次男。星合具泰が父星合具種に養われて、星合家の家督を継いだが、幼少により星合賢教が代わって軍役を勤めた。

星合直藤【ほしあいなおふじ(15??~15??)】

北畠具教家臣。通称左衛門尉。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。その後、北畠は織田信長と和睦するが、星合左衛門尉は、潮田長助、岸江又三郎と共に四五日森城を築城して、織田信長勢に反旗を翻した。四五百の森は名山であり古歌にも「伊勢の国 四五百の森の時鳥 名乗り捨てたる去年の古声」と詠まれていた。これにより織田信長は伊勢南方の城をひとつも破壊することはできませんでした。

本田美作守【ほんだみさくのかみ(15??~15??)】

船江城主。北畠具教家臣。奥山知忠と並ぶ軍奉行。1555年、飯高郡の豊田五郎右衛門尉、多気郡の野呂三郎の一揆を鎮圧した。1569年「船江城の戦い」では、織田信長勢との戦いで戦功を挙げた。北畠具教の命を受け柘植三郎左衛門の娘みえを雲津川の堤で処刑した。

本田康親【ほんだやすちか(15??~15??)】

本田美作守の男。官途は左京亮。別名本田親泰。父本田美作守の後を継ぎ軍奉行家。織田信長の属して、大宮家と対立した。

本田右衛門尉【ほんだうえもんのじょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。本田美作の叔父。1569年、船江城にて織田信長勢の侵攻に備えた。1569年「船江城一揆」に参陣した。討伐勢の稲生勘解由を討取った。

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【ま】

牧野豊後守【まきのぶぜんのかみ(15??~15??)】

度会郡。田丸家臣。

牧康信【まきやすのぶ(15??~15??)】

木造具政家臣。伊勢牧城主。1584年、蒲生氏郷が松ヶ島城に入ると攻撃した。

松井新九郎【まついしんくろう(15??~1576)】

北畠具教家臣。1576年、弟松井新次郎と共に討死した。

三浦兵部少輔【みうらひょうぶしょうゆ(15??~15??)】

一志郡八田城主。

水谷俊之【みずたにとしゆき(15??~15??)】

立野城主。官途は刑部少輔。北畠家四家老のひとり。織田信長勢が大河地城を攻撃した際、織田信長の次男織田信雄を北畠具房の養子とすることで、北畠親成らの和議反対派の抗議を退けて、織田信長からの人質をとったものと説明し、北畠具教、北畠具房を説得して同意させ、織田信雄を国司の養子に迎えた。

三瀬蔵人【みせくらうど(15??~15??)】

北畠具教家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

森本俊信【もりもととしのぶ(15??~15??)】

森本城主。木造具政家臣。官途は飛騨守。木造顕俊の次男木造俊重が多気城の支城として築城し、森本飛騨守と称した。その後、代々飛騨守を世襲した。1569年、織田信長による「大河内城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1569年「船江城一揆」に参陣した。織田信長に寝返る北畠家臣が多い中、最後まで北畠家を守った。

森本具俊【もりもとともとし(15??~1584)】

森本俊信の男。官途は飛騨守。叔父の森本俊成の跡職を継承した。1584年「小牧、長久手の戦い」の「松ヶ島城の戦い」で、討死した。

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【や】

矢川下野守【やがわしもつけかみ(15??~15??)】

波瀬家臣。1559年、赤堀景治の攻撃に参陣した。

山崎大炊亮【やまざきだいぜんのじょう(15??~15??)】

北畠具教家臣。1564年、大河内城は、織田信長の家臣滝川一益と蒲生氏郷の攻撃を受けた。蒲生氏郷勢は搦手(魔虫谷)から攻撃した。手薄だった搦手から攻撃を受けた大河内城勢は、女子、子供を動員して蒲生氏郷勢の攻撃を防いだ。総崩れとなった蒲生氏郷勢は、潮田長助勢100余りの追撃を受け撤退を余儀なくされた。

山崎左馬助【やまざきさうまのすけ(15??~1563)】

北畠具教家臣。長野家との抗争に大将として派遣された。分部与三衛門、分部光高を討取るが、細野藤敦に討たれた。

山副実有【やまふくしげあり(15??~15??)】

野呂実高の次男。波多瀬家臣。通称十六兵衛。波多瀬実徳の叔父。1582年、北畠具親の挙兵に呼応した。

山本右京【やまもとうきょう(15??~15??)】

一之瀬家臣。

渡辺守信【わたなべもりのぶ(15??~15??)】

一志郡須ヶ瀬城主。木造具政家臣。官途は筑後守。

吉田兼房【よしだかねふさ(15??~1595)】

茂ヶ原城主。笠木御所家臣。官途は兵庫頭。通称大悪才。勇猛な武将。吉田兼房は、茂原城に籠城して、鳥屋尾石見守、井上専正によって田丸城から脱出した鶴女を匿い、北畠昌教らを大和国飯貝門跡のところまで落延びさせた。その後は北畠具親の挙兵にも参陣した。

吉田兼宗【よしだかねむね(15??~15??)】

吉田兼房の男。通称兵庫頭。通称小悪才。北畠具教から剣術の手ほどきを受け、伊勢新刀流の創始に尽力した。北畠具教が謀殺され、三瀬御所が攻撃されると善戦したが、落城落延びた。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死した際は、明智光秀勢に属していた。その後は全国各地を放浪した。1600年「関ヶ原の役」では、九鬼嘉隆の客将として戦功を挙げた。

六呂木実忠【ろくろぎさねただ(15??~15??)】

野呂実高の三男。波多瀬家臣。通称十之右衛門。山副実有の弟。1582年、北畠具親の挙兵に呼応した。

六呂木義時【ろくろぎよしとき(15??~15??)】

六呂木実忠の男。

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【資料Ⅰ】

南伊勢国(5郡/32万石)

一志郡:
飯高郡:
飯野郡:
多気郡:
度会郡:

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【資料Ⅱ】

北畠家四家老家【きたばたけよんけかろう】

飯南郡福本城主:鳥屋尾石見守、松尾立野城主水谷刑部少輔、宇陀郡松山城主:秋山右近将監、宇陀郡沢城主:沢隼人正。

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【資料Ⅲ】

南伊勢国【みなみいせのくに】

調査中。

安濃津【あのつ】

伊勢湾に注ぐ安濃川や潟湖に囲まれた砂堆上に展開した湊街。南の「藤潟」に面する湊を核に形成され、外部とはいくつかの橋によって結ばれていた。中世、伊勢海および東太平洋における海運の要湊として繁栄し、「日本三津」の一つとして国内外にその名を知られた。安濃津は伊勢街道と伊勢別街道が合流して伊勢へ至る交通の要衝にあった。特に京都とは東海道ー伊勢別街道によって約90kmの距離にあり、京都の東国への玄関口としての機能も担った。この安濃津に中世を通じて影響力を行使したのが伊勢神宮だった。安濃津御厨の神人たちは活発な商業活動を展開した。安濃津神人たちは諸国を遍歴して交易を行っていた。安濃津における物資集散地の機能としては「安乃津市」が存在したことが確認される。また安濃津の遺跡からは、中世前期において尾張産の瀬戸や常滑、山茶碗が安濃津に集積され、ここで選別、商品化された後に全国に流通した。津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭に謡われた。

伊勢神宮【いせじんぐう】

御神体を別の本殿に移す「遷宮」が二十年に一度行われることになっている。記録上最初の遷宮は690年で、伊勢神宮で最も重要な伝統行事。
「応仁の乱」に端を発した戦国時代の訪れによって、伊勢神宮も荒廃。その影響で遷宮も途絶えてしまった。戦国時代の影響で荒廃した伊勢神宮。この状況を憂えたのが慶光院守悦という女性でした。守悦は遷宮復活のために、伊勢神宮を復興させようと自ら資金活動に奔走。その後も彼女の志に共感した女性たちが、朝廷の許しを得て全国を渡り歩いて資金活動を行った。

伊勢神宮御師【いせじんぐうおんし】

平安時代の御師には、石清水、賀茂、日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師であった。熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師であった。当初は参詣のつど契約していたが、次第に御師を「師」とし参詣者を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。鎌倉時代には武家にも広まり、室町時代には農民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、特に有名な伊勢神宮や富士講の御師が活躍したほか、松尾、三嶋、白山、大山の御師も活躍した。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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