2014年12月8日月曜日

戦国北尾張国人名事典

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葉栗浅井高政【あざいたかまさ(15??~15??)】

葉栗郡苅安賀城主。通称新八郎。1559年、「岩倉城の戦い」で、岩倉城が落城すると山内一豊を頼り落延びた。

葉栗浅井長時【あざいながとき(1569~1584)】

浅井高政の男。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、葉栗浅井家の家督を相続した。織田信雄に仕えた。羽柴秀吉の計略により、羽柴秀吉に内通したと疑われ、織田信雄と不和となった。織田信雄から和議のため、同じく織田信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬とともに長島城に呼び出され、岡田重孝、津川義冬らとともに誘殺された。

葉栗浅井玄蕃【あざいげんば(15??~15??)】

浅井高政家臣。毛受城主。

浅井兵部【あざいひょうぶ(15??~1600)】

前田利家家臣。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣しが討死した。

浅野久蔵【あさのきゅうぞう(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1555年、「安食の戦い」で柴田勝家勢を迎撃するが討死した。

飯尾定宗【いいのおさだむね(15??~1560)】

中島郡奥田城主。織田敏宗の男。官途は近江守。室は細川晴元の娘。奥田城主飯尾家の養子となった。1556年、「守山城の戦い」では、織田信長勢に属して、嫡男飯尾尚清とともにに参陣した。1560年、「桶狭間の戦い」では、飯尾尚清、織田秀敏らとともに今川義元勢の備えで鷲津砦を守備した。朝比奈泰朝勢の猛攻をうけ討死した。

飯尾尚清【いいおひさきよ(1528~1591)】

飯尾定宗の男。通称茂助。官途は隠岐守。室は織田信秀の娘。赤母衣衆のひとり。1556年、「守山城の戦い」では、父飯尾定宗とともに参陣した。1560年、「桶狭間の戦い」では、飯尾定宗、織田秀敏らとともに鷲津砦を守備した。朝比奈泰朝勢の猛攻を受けて父飯尾定宗が討死したが
飯尾尚清は敗走した。以後は織田信長の馬廻衆として仕えた。「石山本願寺城の戦い」「三木城の戦い」では、検視役を務めた。1574年、「第二次長島城の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」で嫡男飯尾敏成が討死した。その後は、織田信雄に仕えた。

生駒家宗【いこまいえむね(15??~1556)】

犬山織田信清家臣。丹羽郡小折城主。生駒豊政の男。通称蔵人。生駒家は灰、油の商いと馬借で冨を築き、小折城と称される家屋敷を構えた。その後、出戻りの娘(吉乃)が織田信長の側室に迎えられたことにより、織田信長と縁戚関係を結び織田信長へ仕えた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。

生駒家長【いこまいえなが(15??~1607)】

生駒家宗の男。通称八右衛門。妹の吉乃が織田信長に見初められ側室に迎えられ、縁戚関係を結んだため、父生駒家宗ともに織田信長に仕えた。1560年、「桶狭間の戦い」などで戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」後は、織田信雄に仕えた。織田信雄追放後は浪人した後に羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣した。のちに松平忠吉に仕え1,954石を領した。

生駒利豊【いこまとしとよ(1575~1670)】

生駒家長の四男。官途は因幡守。室は津田藤右衛門の娘。継室は遠山友政の娘。羽柴秀次に小姓として仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が自刃後は、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、福島正則勢に属して戦った。1603年、松平忠吉に仕えた。

生駒親重【いこまちかしげ(15??~1570)】

土田政久の男(生駒豊政の養子)。官途は出羽守。通称甚助。はじめ織田信康に仕え、後に織田信長に仕えた。

生駒親正【いこまちかまさ(1526~1603)】

生駒親重の男。官途は雅楽頭。1566年、織田信長に仕えた。その後、羽柴秀吉の寄騎衆に任じられ各地を転戦した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕え、「山崎の戦い」、「賤ヶ岳の戦い」、「小田原の役」、「文禄の役」などに参陣して戦功を挙げた。1595年、讃岐国171,800石を領した。十河存保の嫡男十河千松丸を預かっていたが、その遺領20,000石を横領するため甥大塚采女に命じて謀殺した。中村一氏、堀尾吉晴らとともに羽柴秀吉の中老職に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、嫡男生駒一正は松平元康勢に属し、生駒親正は石田三成勢に属して「丹後田辺城の戦い」に陣代を派遣した。生駒親正は剃髪し、高野山に入った。役後、生駒家の所領は安堵された。

生駒一正【いこまかずまさ(1555~1610)】

生駒親正の男。官途は讃岐守。室は堀秀重の娘。生駒親正の男。室は堀秀重の娘。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属して各地を転戦した。1600年、「関ヶ原の役」では、父生駒親正の陣代として参陣して戦功を挙げた。生駒親正は石田三成勢に参陣したが、生駒一正の戦功により罪を問われなかった。1601年、父生駒親正の隠居により生駒家の家督を相続した。

生駒正俊【いこままさとし(1586~1621)】

生駒一正の男。官途は讃岐守。室は藤堂高虎の養女。1610年、父生駒一正の病没により生駒家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して参陣した。

生駒正信【いこままさのぶ(15??~1615)】

生駒一正の次男。通称甚助。1600年、「関ヶ原の役」では、祖父生駒親正とともに石田三成勢に属した。兄生駒一正より東讃岐を分知され、枝連衆筆頭として高録を領した。羽柴秀頼に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で、大坂城が落城すると、讃岐国に落延びたが、阿波と讃岐の国境近くの銀杏の下で自刃した。

生駒吉乃【いこまきつの(1528~1566)】

織田信長の側室。生駒家宗の娘。馬借を家業としていた生駒家宗の娘。1556年、夫土田弥平次が討死し実家に戻っていたところを織田信長に見初められ側室となった。織田信忠、織田信雄、織田徳姫を生んだ産後の肥立ちが悪く病没した。織田信長から香華料として660石が贈られた。その後、石高は減るものの羽柴秀吉、松平元康らも朱印状し、重要人物視した。柏原織田家を招待し、200回忌、300回忌法要が営まれた。織田信長の正室(濃姫)には子がないため、その養子となった生駒吉乃の子織田信忠が嫡男とされた。

稲葉左近【いなばさこん(15??~15??)】

前田利家家臣。使番衆。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。前田利常の命により 稲葉左近が責任者となり辰巳用水を作事した。小松の街人板屋兵四郎が請け負った この用水工事は一年で仕上がった。

稲田修理亮【いなだしりのじょう(15??~15??)】

岩倉織田信賢家臣。織田信賢は、稲田修理亮と謀り嫡男織田信安を美濃国に追放して岩倉城主となった。

稲田貞祐【いなださだすけ(15??~1533)】

稲田修理亮の男。通称大炊助。室は前野彦四郎の娘。稲田貞祐は、岩倉城主織田信安に仕えていた。稲田家はその北部尾張守護代織田家の家老を代々勤めていた。織田信長と稲田貞祐は内通しているという讒言を城主の織田信安が信じたため、自刃を命じられた。嫡男稲田景元も自刃した。

稲田景元【いなだかげもと(15??~15??)】

稲田貞祐の男。1533年、父稲田貞祐が織田信長への内通を疑われ自刃すると、稲田景元も後を追って自刃した。

稲田景継【いなだかげつぐ(15??~1558)】

稲田貞祐の次男。1558年、伊勢国での戦いで討死した。

稲田植元【いなだたねもと(1545~1628)】

稲田貞祐の三男。通称左馬亮。室は織田信賢の娘。父稲田貞祐が自刃すると、三男稲田植元は蜂須賀正勝に預けられ養育された。その後、稲田植元は蜂須賀正勝に属して各地を転戦、数々の戦功を挙げた。蜂須賀正勝が播磨国龍野城53,000石を領した際、羽柴秀吉は稲田植元に河内国20,000石を与えようとしたが稲田植元は蜂須賀正勝に従う旨を言上してそれを辞退した。1585年、蜂須賀家政が阿波国180,000石を領すると、蜂須賀正勝は、稲田植元を後見役に任じ10,000石を領した。

稲田示稙【いなだもとたね(15??~15??)】

稲田稙元の男。官途は修理亮。淡路国脇城を領し脇城下街を独自に発展させた。阿波国内の諸将の中には未だ生駒家に属さず、山間部で野武士化していた。「祖谷山騒動」や「大栗山一揆」には脇城から制圧に参陣した。 経済面では、織田信長以来の楽市楽座を行い、地子銭も諸役も免除し、商人の自由な出入りを許可し、生国も問わなかった。そのため、四国内はもとより、中国地方からも商人達がやって来るようになり、脇街は栄えた。その中でも藍商が特に栄え、現在でもこの地方の藍染めは有名になった。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して感状を賜った。稲田示稙、林能勝、山田宗澄、樋口正長、森村重、森氏純、岩田政長の七名は「大坂冬の陣」の戦功から松平元康から感状を賜った。

乾丹波守【いぬいたんごのかみ(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

井上勘左衛門【いのうえかんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽長重勢と交戦した。

今枝直恒【いまえだなおつね(15??~15??)】

前田利家家臣。1600年、「大聖寺城の戦い」では、城を出て御幸塚に布陣した。木場潟への進軍で五番手を務めた。

岩田伝左衛門【いわたでんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。足軽大将。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽長重勢と交戦した。

宇野宗右衛門【うのそうざえもん(15??~15??)】

佐々成政家臣。刀利城主。1586年、前田利家に仕えた。

海老半兵衛【えびはんべい(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

遠藤千代【えんどうちよ(1557~1619)】

山内一豊の室。美濃国八幡城主遠藤盛数の娘。母は東常慶の娘、兄遠藤慶隆。見性院の幼時は戦に明け暮れる日々で母とともにあちらこちらの家を転々とした。嫁入りの持参金で山内一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、織田信長の馬揃えの際に織田信長の目につき加増された話やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えた。1600年、石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」も有名。山内一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが「天正大地震」により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれなかった。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われた。山内一豊は弟康豊の子忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。1605年、夫山内一豊が病没すると見性院は、山内康豊に忠義を後見させて土佐を引き払って、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んでそこで余生を過ごした。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では仲間由紀恵が演じた。

遠藤とも【えんどうとも(15??~15??)】

千代(見性院)の母。戦で一家の住む集落が夜盗に襲われ、その際千代を庇って命を落した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

大井直泰【おおいなおやす(15??~15??)】

前田安勝家臣。通称久兵衛。小丸山城守将。1582年、三輪吉宗とともに能登国統治して1,250石を領した。

岡島一吉【おかじまかずよし(1559~1619)】

前田利家家臣。官途は備中守。通称帯刀左衛門。1575年、100石を領した。1585年、大峪城築城した。「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1598年、呉服山城を守備した。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣した。役後加増され11,750石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で先陣を務めた。1615年、「大坂夏の陣」では高岡城を守備した。

岡田長右衛門【おかだちょうざえもん(15??~1619)】

前田利家家臣。1575年、前田利家の右筆、御算用奉行となり70石を領した。前田利家の家臣新川儀太夫と争い隻眼となった。後に4,000石を領した。

奥村永福【おくむらながとみ(1541~1624)】

前田利春家臣。官位は伊予守。通称助右衛門。別名奥村家福。室は加藤安。1569年、前田利家が前田家の家督を相続した際、荒子城代を務めていた奥村永福は、前田利久の命が無い限り城は明け渡さないと抵抗した。改めて前田利久の明け渡しの命により、前田家を辞し浪人した。1573年、前田利家が越前国府中城30,000石を領すると帰参した。その後は前田利家に属して各地を転戦して戦功を挙げた。前田利家が加賀国を領した際、末森城主となった。1584年、佐々成政勢に15,000余りの攻撃を受け末森城に籠城した。「末森城の戦い」では、二の丸まで落ちたものの、奥村永福は寡兵で前田利家勢の到着まで耐えぬき、佐々成政勢を撃退した。奥村永福の室である安の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を見舞った。その後も、村井長頼とともに前田利家に仕えた。「九州の役」「小田原の役」にも参陣した。

奥村栄明【おくむらはるあき(1568~1620)】

奥村永福の男。官位は河内守。通称孫十郎。室は山崎長徳の娘(亀姫)。継室は高畠定吉の娘。父奥村永福が佐々成政への押さえとして末森城を任されると弟奥村易英とともに同城の守備についた。1584年、「末森城の戦い」では奥村永福とともに城を守った。1589年、「小田原の役」に参陣した。1599年、奥村永福の隠居により奥村家の家督を相続して10,650石を領した。1600年、「浅井畷の戦い」で戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣し戦功を挙げ3,000石の加増を受けた。1615年、弟奥村栄頼が、前田利常と対立して前田常利を退身した際には、奥村永福の制止で同調しなかった。

奥村易英【おくむらやすひで(1571~1644)】

奥村永福の次男。官途は因幡守。通称主殿。室は横山長隆の娘。1584年、「末森城の戦い」では父奥村永福や兄奥村栄明と共に城を守った。前田利常に仕え1,000石を領した。1589年、「八王子城の戦い」で戦功を挙げた。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げ2,000石を加増された。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利常に従い参陣し戦功を挙げ4,500石を加増された。1615年、「大坂夏の陣」では父奥村永福とともに金沢城の留守居を務めた。父奥村永福の没後その遺領3,300石を相続した。

奥村栄頼【おくむらはるより(15??~15??)】

奥村永富の三男。奥村栄頼は政敵の横山長知との対立により、奥村栄明、奥村易英や本多政重とともに家臣が一斉に出奔する計画を実行しようとしたところ、「家臣団の出奔を理由に前田家を取り潰されては困る」と隠居していた奥村永福が説得にあたり、奥村栄頼が出奔するに留まった。

清洲織田達勝【おだたつかつ(15??~15??)】

春日井郡清洲城主。斯波義達家臣。織田寛定の男。尾張下四郡の守護代。官途は大和守。1513年、兄織田達定が尾張守護職の斯波義達と争い謀殺された後、清洲織田家の家督を相続した。1530年、尾張国守護職斯波義統の代理として兵を率いて上洛したが、軍事目的ではなかったのでそのまま帰還した。1532年、織田信秀と争い、織田達勝は同じ三奉行家の織田藤左衛門とともに織田信秀と戦ったが敗れ和議を結んだ。

清洲織田信友【おだのぶとも(15??~1555)】

織田達広の男(織田達勝の養子)。官途は大和守。通称彦五郎。斯波義統を傀儡の守護として擁立したが、家中の主導権は坂井大膳や河尻重俊が握っていた。織田信秀と度々争ったが後に和議を結んだ。織田信秀の病没後は織田信行の家督相続を支持し、織田信長と対立した。鳴海城主山口教継の謀反を起こすと、兵を挙げ織田信長と敵対した。1552年、「萱津の戦い」では、織田信長勢に大敗して坂井甚介らを失った。織田信長の謀殺を企てたが露見して失敗した。1554年、織田信友は家臣の坂井大膳と図り、斯波義銀が家臣とともに清州城から出かけた隙に尾張国守護職の斯波義統を謀殺した。斯波義銀を擁した織田信長の反撃を受け、「安食の戦い」で大敗して河尻左馬丞、織田三位らを失った。1555年、坂井大膳の進言により織田信光の調略をするも、織田信光の謀略にかかり坂井大膳は駿河国に落延びた。織田信友は織田信光に謀殺された。

清洲織田三位【おださんい(15??~1554)】

清洲織田信友家臣。清洲家四家老のひとり。清洲三奉行のひとり織田信秀は、主家の織田信友を凌ぐ勢力を伸ばした。1551年、織田信長が家督を相続すると、織田信友の家臣坂井大膳、坂井甚助、河尻左馬丞、織田三位らは織田信長に敵対した。1552年、「萱津の戦い」で大敗して、坂井甚介が討死した。1554年、「安食の戦い」で斯波義銀の家臣由宇喜一に討取られた。

岩倉織田信安【おだのぶやす(1518~1591)】

丹羽郡岩倉城主。織田敏信の男。尾張上四郡の守護代。官途は伊勢守。通称三郎。室は織田信秀の妹(秋悦院)。中島郡を除く尾張上四郡(丹羽郡、春日井郡、海西郡と山田郡の大半)に勢力を支配下に置いた。父織田敏信の病没後、岩倉織田家の家督を相続したが、幼少のため、犬山織田信康の補佐を受けた。1551年、織田信秀が病没すると、犬山城主織田信清と所領問題で争い、織田信長とも疎遠となった。1553年、家臣の稲田大炊助が織田信長と内応している疑い、稲田大炊助を謀殺した。1555年、清州織田信友が守護斯波家への謀反で織田信長に討たれた。1556年、「美濃長良川の戦い」で長井規秀が嫡男斎藤義龍に討たれると、織田信安は斎藤義龍と結び織田信長と敵対した。「稲生の戦い」では末森城主織田信行勢に属して、織田信長と戦った。嫡男織田信賢を廃し次男織田信家を後継にしようとしたため、織田信賢から追放された。1558年、「浮野の戦い」で織田信賢が敗れたため、織田信安も岩倉城に復帰する機会を失った。その後、斎藤義龍に仕え、斎藤義龍の病没後もその嫡男斎藤龍興にも仕え織田信長に抵抗した。

岩倉織田信賢【おだのぶかた(15??~15??)】

織田信安の男。官途は伊勢守。通称は左兵衛。父織田信安が次男織田信家を寵愛し岩倉織田家の家督を継がせようとしたため、織田信安と織田信家を岩倉城から追放して岩倉城主となった。末森城主織田信行、美濃の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった織田信長と戦った。1558年、「浮野の戦い」では、織田信長勢に大敗した。1559年、「岩倉城の戦い」でも、数ヶ月の籠城戦ののちに織田信長に降伏した。

岩倉織田信家【おだのぶいえ(15??~1582)】

織田信安の次男。別名津田信家。父織田信安が兄織田信賢を廃嫡し、織田信家に家督を継がせようとしたため、織田信賢によって織田信安とともに追放処分となった。1558年、「浮野の戦い」で兄織田信賢が織田信長に敗れると、織田信長勢に属して織田信忠付きの家臣となった。1582年、「信濃高遠城の戦い」で討死した。

岩倉織田七郎左衛門【おだしちろうざえもん(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。1558年、織田信長勢は浮野表を攻撃するが、城兵は守りを固め城外には撃って出なかった。山内盛豊と織田七郎左衛門は兵を率いて城外ると、織田信長は撤退した。

岩倉織田源左衛門【おだげんざえもん(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。1558年、「浮野合戦」で、織田信長勢に大敗を喫した。1559年、織田信長勢の攻撃を受け、織田源左衛門、山内盛豊、織田七郎左衛門らは岩倉城を織田信長に明け渡し城から退去した。

犬山織田信康【おだのぶやす(15??~1544)】

丹羽郡犬山城主。織田信定の次男。通称与次郎。1533年、兄織田信秀が織田達勝と和議を結ぶと、織田信秀の代理として清洲城に出向いた。1537年、犬山城主となり、岩倉織田信安の後見役を務めた。1542年、「第一次小豆坂の戦い」で戦功を挙げ、政戦両面で活躍した。1544年、「加納口の戦い」で長井規秀勢と戦い討死した。

犬山織田信清【おだのぶきよ(15??~15??)】

織田信康の男。官途は下野守。別名津田十郎左衛門。室は織田信秀の娘(犬山殿)。1547年、父織田信康の討死により犬山織田家の家督を相続した。1548年、楽田城主織田寛貞と結び織田信秀と抗争した。織田信長の領地を押領して疎遠となったが、織田信長より妹を貰い受け、弟織田広良とともに織田信長に仕えた。1558年、織田信長勢に属して織田信安と戦った。1561年、「軽海の戦い」で弟織田広良が討死した。1562年、斎藤義龍と結び織田信長から離反した。1564年、竹中重治の稲葉山城占領の混乱に乗じた織田信長勢により黒田城、小口城を奪取された。和田新介、中島豊後守の離反により犬山城も陥落、織田信清は甲斐国へ落延びた。中島豊後守、和田新介は織田信長に仕えた。

犬山織田広良【おだひろよし(15??~1562)】

織田信康の次男。官途は勘解由左衛門。通称源三郎。別名は織田信益。尾張上四郡の守護代への対抗のため兄織田信清とともに織田信長に属した。「浮野の戦い」、「岩倉城の戦い」でも織田信長を支援した。1562年、織田信長が美濃国に侵攻すると、前線である美濃十九条城主織田広良は、斎藤義龍勢の攻撃を受けた。「十四条の戦い」では、先陣として活躍するが、斎藤義龍の家臣野々村正成に討取られた。

犬山織田信益【おだのぶます(15??~1533)】

織田信清の男。官途は左衛門佐尉。通称源十郎。別名津田信益。父織田信清は生涯を通して織田信長に反抗したが、織田信益は織田信長に罪を許された。1581年、連枝衆として馬揃に加った。1582年、「本能寺の変」では、蒲生賢秀らとともに安土城留守役を務めた。のち羽柴秀吉に仕えた。

守山織田信光【おだのぶみつ(1516~1556)】

春日井郡守山城主。織田信定の三男。通称孫三郎。別名津田信光。室は松平信定の娘。小豆坂七本槍のひとり。1542年、「第一次小豆坂の戦い」に参陣し戦功を挙げた。織田信秀に対抗した松平清康に内応して、松平清康を居城の守山城に呼び寄せた。松平清康と反目していた松平信定の娘を室にしていたことから、松平清康の家臣からは疑惑を持たれもした。織田信秀の病没後は、家督を継いだ甥織田信長を支持した。「萱津の戦い」「村木砦の戦い」などで戦功を挙げた。1555年、織田信長と敵対する織田信友の家臣坂井大膳の誘いに応じるふりをし清洲城に入城。織田信友を謀殺して清洲城を奪った。坂井大膳は駿河国に落延びた。1556年、織田信光は織田信長に清洲城を渡すと、自身は那古屋城に入ったがまもなく謀殺された。

守山織田信成【おだのぶなり(15??~1574)】

織田信光の男。室は織田信秀の七女(小幡殿)。1555年、父織田信光が謀殺された後、織田信長勢に属して小幡城主となった。1571年、「第一次長島城の戦い」「槙島城の戦い」「浅井、朝倉家討伐」に参陣した。1574年、「第二次長島城の戦い」で一揆勢の反撃を受け討死した。

守山織田信昌【おだのぶまさ(15??~1574)】

織田信光の次男(織田信実の養子)。通称四郎三郎。織田信包勢に属した。1574年、「第二次長島城の戦い」で討死した。

小田井織田常寛【おだつねとお(15??~15??)】

春日井郡小田井城主。織田久長の次男。官途は丹波守。通称弾正左衛門。清洲三奉行のひとり織田藤左衛門家。兄織田敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築き城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、その城主となった。

小田井織田寛故【おだとおもと(15??~1550)】

織田常寛の男。官途は兵部大輔。通称藤左衛門尉。父織田常寛の後を継ぎ小田井城主となった。嫡男の織田寛維に後を譲るが、織田寛維の死後、再び城主になる。後に次男織田信張に譲った。

小田井織田寛維【おだとおふさ(15??~1542)】

織田寛故の男。通称藤左衛門尉。父織田寛故の後を継ぎ小田井城主となった。1542年、「大垣城の戦い」で討死した。小田井織田家の家督は一時的に父織田寛故が相続して、後に弟織田信張が継いだ。

小田井織田信張【おだのぶはる(1527~1594)】

織田寛故の次男。官途は左兵衛佐。別名織田寛廉。室は織田信康の娘。1556年、織田信長が盆踊りの祭を主催した際には、織田信張の家来衆が地蔵に扮した。「小谷城の戦い」「比叡山の焼討ち」などに参陣した。1577年、「雑賀攻め」など、紀伊方面を転戦した。紀伊国佐野砦を任されていたが、その後岸和田城へ移り和泉半国を領した。1582年、「本能寺の変」後、紀伊国人たちが蜂起、蜂屋頼隆と鎮圧に努めた。その後小田井城に戻り、織田信雄に仕えた。

小田井織田信直【おだのぶなお(1546~1574)】

織田信張の男。通称左衛門。室は織田信秀の娘(小田井殿)。小田井殿は織田信長の妹であり、池田恒興の異父妹。父織田信張ととも紀伊方面を転戦した。1574年、「長島一向一揆攻め」に参陣したが一揆勢の捨て身の攻撃にあい討死した。

小田井織田信氏【おだのぶうじ(15??~1584)】

織田信直の男。通称角蔵。1574年、父織田信直の討死により、小田井織田家の家督を相続した。美濃国飯場城主遠山友賢が病没した際、子がいなかったため、織田信氏は命を下し遠山友勝に後を継がせた。1581年、「京都馬揃え」では連枝衆として参陣した。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に属した。1584年、祖父織田信張よりも先に病没した。

小田井織田忠辰【おだただたつ(15??~1613)】

織田信直の次男。官位は兵部大輔。別名津田忠辰。室は村上頼勝の娘。織田信忠、織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」の後、羽柴秀吉によって小田井城を追われた。のちに罪を許され、羽柴秀吉、羽柴秀頼に仕えた。

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【か】

梶原源左衛門【かじわらげんざえもん(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。申丸砦の足軽大将。

加藤朝重【かとうともしげ(15??~15??)】

前田利家家臣。1600年、前田利長によって大聖寺城二の丸に配備された。

金岩与次之助【かねいわよじのすけ(15??~15??)】

前田安勝家臣。荒子七人衆のひとり。越前国府中で200石を領した。

神尾甚右衛門【かみおじえもん(15??~15??)】

佐々成政家臣。神尾之直の養父。後に前田利家に仕え2,000石を領した。

神尾之直【かみおゆきなお(1565~1643)】

堀田安休の男(神尾甚右衛門の養子)。通称五郎八。前田利長に仕えて9,000石を領した。1586年、佐々成政との戦いに参陣した。1600年、「大聖寺城の戦い」では、城を出て三堂山城に布陣した。前田利長の隠居に従い、高岡城に移った。同じ家老職の横山長知と不和になり、家中は両者の対立のため二分するほどだった。前田利長はこれを解消するため、遺戒として両家に婚姻を命じた。

神谷守孝【かみやもりたか(15??~1623)】

前田利家家臣。官途は信濃守。室は中川光重の娘。1591年、前田利家の近侍として1,200石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に在城した。前田利家没後、高野山に墳墓を造営した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

河尻重俊【かわじりしげとし(15??~1554)】

清洲織田信友家臣。官途は左馬丞。通称与一。清洲家四家老のひとり。1547年、美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵した。1552年「松葉城の戦い」に参陣した。1554年、「安食の戦い」で討死した。川尻家の惣領職は織田信長の命で川尻秀隆が相続した。

木崎長左衛門【きざきながざえもん(15??~15??)】

山崎長門守家臣。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣した。敵将山口修弘を討取った。

木村三蔵【きむらさんぞう(15??~15??)】

前田安勝家臣。荒子七人衆のひとり。前田利家の小姓として仕え、越前国府中で180石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で前田利家が戦線を離脱した際、殿となって討死した。嫡子が無く、一代で絶家した。

木村景行【きむらかげゆき(15??~1599)】

前田利家家臣。通称三郎兵衛。8,000石を領した。

黒部源助【くろべげんすけ(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

小塚藤右衛門【こづかとうえもん(15??~1583)】

前田安勝家臣。荒子七人衆のひとり。1573年、朝倉攻めの「刀根山の戦い」戦功を挙げた。能登国で3,700石を領した。1583年、羽柴勢との「賤ヶ岳の戦い」で前田利家が戦線を離脱した際、殿軍となって討死した。

小塚秀正【こづかひでまさ(15??~1618)】

前田安勝家臣。官途は淡路守。通称八右衛門。「加賀国討伐」「能登国討伐」「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げた。1602年、太田長知が謀殺されると大聖寺城主。前田利長の隠居に従い高岡城へ移った。1614年、「大坂冬の陣」では、金沢城代を務めた。

小塚権太夫【こづかごんだいふ(15??~1603)】

前田利家家臣。1602年、太田長知が謀殺されると御幸塚城守将となった。

五藤為浄【ごとう ためきよ(1553~1583)】

尾張国葉栗郡黒田館主。五藤浄基の男。通称は吉兵衛。父五藤浄基が山内盛豊に仕えた。1573年、「刀禰坂の戦い」などで戦功を挙げた。1583年、「る伊勢亀山城の戦い」で山内一豊の城内一番乗りを助けるが討死した。五藤家の家督は前野泰道の男、五藤浄清が継ぐ事になった。弟五藤為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。

五藤為重【ごとうためしげ(1558~1629)】

五藤浄基の次男。通称吉蔵。兄五藤為浄とともに山内一豊に仕え各地を転戦した。1583年、「伊勢国亀山城の戦い」で五藤為浄が討死した。五藤家の家督は前野泰道の男牛右衛門浄清が相続、自身は家老職を務めた。1585年、「天正大地震」には、近江国長浜城にいた山内一豊室を救い出した。1589年、「伊豆国山中城の戦い」に参陣して、頸級二つを挙げる戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、山内一豊が土佐国に転封になると安芸郡安芸城代として1,100石を領した。1615年、「一国一城令」により安芸城が廃城になっても代官として安芸に陣屋を置いた。

五藤浄清【ごとう きよよし(15??~15??)】

前野泰道の男(五藤為浄の養子)。通称牛右衛門。

近藤長広【こんどうながひろ(15??~1611)】

前田利家家臣。官途は大和守。通称善右衛門。1575年、200石を領した。末森城救援に参陣した。横山長秀没後、御幸塚城守将となった。1606年、大聖寺城代に任じられ11,000石を領した。

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【さ】

雑賀修理【さいがしゅり(15??~1555)】

清洲織田信友家臣。傭兵衆のひとり。1555年、「安食の戦い」で清洲城下で柴田勝家勢と戦い討死した。

坂井大膳【さかいだいぜん(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。尾張国小守護代。清洲家四家老のひとり。坂井甚介、河尻重俊、織田三位らとともに清洲織田大和守家の実権を握っていた。1544年、「加納口の戦い」で織田信秀が出陣するとその隙を突いて、坂井大膳らが織田信秀の古渡城を攻撃した。その後、坂井大膳は織田信秀と和議を結んだ。1552年、坂井大膳は松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次を人質に取って、織田信秀の跡を継いだ織田信長に反旗を翻した。それに対して織田信長は叔父織田信光の支援も得て清洲城を奪取した。1552年、「萱津の戦い」で坂井大膳らは織田信長勢によって撃破され、坂井甚介は討死に。松葉城、深田城は奪回された。1554年、坂井大膳は河尻重俊、織田三位らと謀って、傀儡であった守護職斯波義統と枝連衆を自刃させた。斯波義統の遺児斯波義銀の要請を受けた織田信長の反撃を受けて大敗し、河尻重俊、織田三位らは討死した。1555年、坂井大膳は再起を期して織田信光を調略に取りかかるが、逆に織田信光の謀略にかかって織田信友は自刃させられ清洲城も奪われた。坂井大膳は今川義元のもとに落延びた。

坂井甚介【さかいじんすけ(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。坂井大膳の弟。清洲家四家老のひとり。1547年、美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵した。1552年、松葉城攻略。織田信光の家臣赤瀬清六に切り負け退却した。柴田勝家、中条家忠に討たれた。

坂井彦左衛門【さかいひこざえもん(15??~1552?)】

坂井大膳家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

坂井秀忠【さかいひでただ(15??~1529)】

春日井郡品野城主。尾張国と三河国の境目では織田信秀と松平清康の争いが激化しており国境の小豪族である坂井秀忠は織田信秀か三河の松平清康、どちらにつくか選択を迫られた。1529年、織田信秀についた坂井秀忠は、松平清康の攻撃を受け、坂井秀忠は自刃、品野城は落城した。

酒小藤太【さかこへいた(15??~15??)】

中島豊後守家臣。1562年、於久地城の守将であった酒小藤太と寺沢藤左衛門は、織田信長勢の岩室長門守、市橋伝衛門、伊藤夫太夫らによって長槍で叩き伏せられた。

佐脇良之【さわきよしゆき(15??~1572)】

前田利春の五男(佐脇興世の養子)。通称藤八郎。室は浅井長政の娘。織田信長に小姓として仕えた。1558年、「浮野の戦い」に参陣した。兄前田利家とともに赤母衣衆となった。1560年、「桶狭間の戦い」では、急遽出陣した織田信長に岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎とともに真っ先に従った。その後、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎とともに織田信長の勘気をこうむったため、勘当されれ、ともに松平元康のもとに身を寄せた。1572年「三方ヶ原の戦い」に参陣し、長谷川ら三人とともに討死した。嫡男佐脇久好は、佐脇良之の室が前田利次の乳母になった関係から前田利次に仕えた。

斯波義統【しばよしむね(1513~1554)】

斯波義達の男。尾張国、遠江国守護職。官途は左兵衛佐。足利家枝連衆で室町幕府三管領筆頭の斯波家の嫡流。父斯波義達は、守護国のひとつであった遠江国を隣国の今川家に奪われていたため、守護代の織田達定が反対するのも意に介さず、逆に反対派の守護代織田達定を合戦で討つなど遠江国奪還になみなみならぬ意欲を見せ、遠江国に出兵を繰り返していた。1515年、今川氏親に大敗し捕虜になる屈辱を受けると、わずか三歳の斯波義統に守護職を譲り、失意のうちに病没した。斯波義達に合戦で敗れて鳴りを潜めていた織田家はこれを機会に勢力を拡げ、斯波家はこうして織田家の傀儡に成り下がった。応仁の乱以降、守護代である織田家一族が上四郡を支配する「伊勢守家」(岩倉織田家)と下四郡を支配する「大和守家」(清洲織田家)の二派に分裂していたが、さらに庶流の台頭もあり一族内で抗争をくりかえしていた。下四郡の守護代であった織田信友は、上四郡の守護代である織田信安や庶家を抑えるため、尾張国守護職の斯波義統を傀儡として擁した。1554年、斯波義統は織田信友が織田信長の暗殺計画を企てたとき、斯波義統は織田信長にその計画を密告して助けを求めた。織田信友は、斯波義統嫡男の斯波義銀が手勢を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代坂井大膳とともに守護所に攻め入り、斯波義統を謀殺した。

斯波義銀【しばよしかね(1540~1600)】

斯波義統の男。官途は左兵衛佐。別名津川義近。1554年、父斯波義統は、斯波義銀が手勢を率いて川狩りに出かけている隙を衝かれて、織田信友と坂井大膳によって謀殺された。斯波義銀は織田信長に支援を求め、織田信友を討たせた。これにより織田信長は勢力を拡大した。斯波義銀は斯波家の権勢を取り戻そうと吉良義昭と結んで織田信長の追放を画策するが失敗、斯波義銀は尾張国を追放された。のちに信長と和解し、名を津川義近と改めた。娘の一人を織田信長の弟織田信包の男に嫁がせ、織田家との縁を深め、織田政権下でも織田家親族中の貴種として遇された。1582年「本能寺の変」の後は、織田信雄の麾下に属した。「小牧、長久手の戦い」では松ヶ島城に籠城したが、羽柴秀吉勢に降伏した。羽柴秀吉のもとでは足利義昭や山名豊国とともに御伽衆となり、東北に分家が点在する斯波庶家の外交を担当した。

関長重【せきながしげ(15??~15??)】

葉栗郡一宮城主。通称十郎左衛門。真清田神社の神主。

関長安【せきながやす(15??~1584)】

関長重の男。織田信長に仕えた。1582年、「武田家討伐」では、恵林寺焼討ちの奉行であった。1585年、「本能寺の変」後、関長安は尾張の国主となった織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では義兄森長可に従って、羽柴方に組みし、森長可共々討死を遂げた。

篠崎清了【しのざきせいりょう(15??~15??)】

前田利秀家臣。通称織部。1586年、城生城代に任じられた。1592年、前田利秀が没すると篠崎清了は代わりにこの地の奉行となった。嫡男の篠崎清政、孫の篠崎清長も同地の奉行職と務めた。

篠原一孝【しのはらかずたか(1561~1616)】

前田利家家臣。篠原長重の養子。官途は肥前守。通称勘六。室は佐脇良之の娘。前田利家に仕え「北陸平定戦」「末森城の戦い」「小田原の役」「大坂の役」などに侍大将として参陣した。大坂で死去した前田利家の棺を加賀に帰すなどよく付き従った。石垣普請の名人でもあり、金沢城の河北門などの普請を行なった。人持組頭となり、横山長知、奥村栄明と共に執政として国政を司り15,650石を領した。嫡男篠原主膳は早世。次男篠原出羽が家督と10,250石を領した。三男篠原重一は1,000石で分家し、兄出羽の死後2000石を加増された。四男篠原虎之助は1,000石で分家するも早世した。

祖父江勘左衛門【そふえかんざえもん(15??~15??)】

尾張国津島神社の神職を務めていた家系の出身。祖父江家は「応仁の乱」以降土着した織田家、山内家に仕えた。1559年、祖父江村に隠退していたが、山内一豊が流浪の身になると、それを出迎えて、五藤浄基と共に家老となった。羽柴秀次家臣であった筧源右衛門の未亡人を室に迎え、その子祖父江一秀に祖父江家の家督を譲った。

祖父江一秀【そふえかつひで(15??~15??)】

筧源右衛門の男(祖父江勘左衛門の養子)。通称新太郎。浅井家旧臣で羽柴秀次の家臣だった父筧源右衛門が没すると、母の再婚先である祖父江家の家督を相続した。山内一豊が土佐藩主となると1000石を知行、幡多郡中村に居る。1614年、「大坂冬の陣」では大坂には従わずに土佐にとどまり、呼応して中村を攻めようとした、長宗我部遺臣の反乱を奇計を持って鎮圧し、首領奥宮伝兵衛を捕え渡川河原にこれを磔とした。

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【た】

高橋九郎兵衛【たかはしくろうびょうへ(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。申丸砦の足軽大将。

高畠定吉【たかばたけさだよし(1536~1603)】

高畠吉光の男。官途は石見守。通称孫十郎。室は前田利家の妹(津世姫)。荒子七人衆のひとり。前田利家に仕え戦功を重ねた。前田利家の妹津世姫を夫人に迎えた。七尾城、加賀劔城、越中宮崎城などの守将を務め、前田利家股肱の臣として戦功を挙げた。前田利家の病没後は嫡男前田利長に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」の際、金沢城の留守を任された。1602年、致仕し、剃髪して京都に隠棲した。

高畠定良【たかばたけさだよし(1537~1601)】

高畠吉光の次男。通称平右衛門。1584年、木舟城5,000石を領した。1589年、「八王子城の戦い」に参陣した。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣した。

高畠茂助【たかはたもすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。前田利家能登入国後、宇野十兵衛とともに二穴城を守った。

竹田宮内【たけだくない(15??~15??)】

前田利家家臣。佐々成正が肥後に移されると、越中升形山城を守備した。

田中二郎左衛門【たなかにろうざえもん(15??~15??)】

中島豊後守家臣。黒田城守備隊の足軽大将。

津川義冬【つがわよしふゆ(1545~1584)】

斯波義統の三男。官途は玄蕃允。室は北畠具教の娘。織田信長に仕えたが、器量を見込まれて次男織田信雄の家老に任じられた。1582年、「本能寺の変」後、松ヶ島城主を預けられ、南方の奉行に任じられた。織田信雄が羽柴秀吉と対立するようになると、秀吉は津川義冬、岡田重孝、浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた織田信雄によって三人共謀殺された。羽柴秀吉は津川義冬らの謀殺を契機に「小牧、長久手の戦い」が勃発した。

津田武永【つだたけなが(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。官位は遠江守。通称は与十郎。別名織田寛近。父は木ノ下城主織田広近。兄に尾張上四郡守護代の織田寛広。1475年、父織田広近の隠居により、家督を相続して小口城主となった。1487年、「六角高頼征伐(長享、延徳の乱)」に参陣した。1495年、兄織田寛広と織田広遠らとともに石丸利光を攻撃した。後に川村北城を築き居城とするが男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田時常に譲った。1544年、織田信秀の要請で援軍を送った。

津田重久【つだしげひさ(1549~1634)】

津田高重の男。官途は遠江守。通称与三郎。足利義昭に仕えたのち明智光秀に仕えた。1582年「本能寺の変」で先鋒を務めた。明智光秀が敗死した後は高野山逃れたが赦されて羽柴秀吉、羽柴秀次に仕えた。1596年、羽柴秀次の自刃後、に前田利長に召し出され6,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦たる「大聖寺城の戦い」で武功を挙げて、役後に大聖寺城代を務めた。

津田刑部【つだぎょうぶ(15??~15??)】

前田利家家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、富山城留守居役を務めた。 

土田作右衛門【つちださくざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。

堤伊予守【つつみいよのかみ(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

寺沢藤左衛門【てらさわとうざえもん(15??~15??)】

中島豊後守家臣。1562年、於久地城の守将であった寺沢藤左衛門と酒小藤太は、織田信長方の岩室長門守、市橋伝衛門、伊藤夫太夫らによって長槍で叩き伏せられた。

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【な】

中川清六【なかがわせいろく(15??~15??)】

前田利家家臣。1586年、山崎庄兵衛とともに越中国増山城の守備についた。

中島左衛門【ながしまさせもん(15??~15??)】

犬山織田信清家臣。小口(於久地)城主。

中島豊後守【なかじまぶんごのかみ(15??~1574)】

中島左衛門の男。1562年、「小口城の戦い」織田信清謀反のきっかけともなった於久地城主中島左衛門は、犬山城主織田信清が謀反をした際、織田信長はこの人物を惜しみ、中島左衛門と昵懇の間柄にある丹羽長秀を仲介役に立てて調略を謀ろうとしました。 しかし中島左衛門は、病と称して面会しなかった。その後、蜂須賀正と昵懇の間柄にあった犬山の家老和田新介を味方に付け、丹羽長秀とともに再び中島左衛門の説得に当たらせた。以後和田新介とともに織田信長に仕えた。1569年、「大河内城の戦い」「長島一向一揆攻め」に参陣した。1574年、和田新介とともに織田信忠に従い「長島城の戦い」に参陣するが、和田新介とともに討死した。

中島小七郎【なかじまこしちろう(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。申丸砦の足軽大将。

中島主水尉【なかじまもんどのじょう(15??~15??)】

犬山織田信清家臣。堀秀重の娘婿。1557年、織田信清とともに織田信長勢に属して参陣した。岩倉衆と「浮野の戦い」で戦功を挙げた。犬山城落城後は織田信長に仕え黒幌衆のひとりなった。

長田権右衛門【ながたごんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。小塚藤十郎と同じく足軽大将。

名古屋弥五郎【なごやよごろう(15??~1542)】

斯波家臣。1542年、「第一次小豆坂の戦い」に参陣し討死した。

野村与市右衛門【のむらよいちざえもん(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

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【は】

原田又右衛門【はらだまたざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。

橋爪縫殿助【はしづめぬいどのすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。

林勝久【はやしかつひさ(1581~1651)】

林一吉の男。通称右近。父林一吉が山内一豊に仕え度々戦功があり、山内家の土佐国転封後は、土佐国窪川で5,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して、羽柴秀頼勢の偵察を行い山内忠義に報告をした。

東野幸政【ひがしのゆきまさ(15??~1640)】

山内一豊家臣。官途は将監。通称伊織。父東野行信は長浜で山内一豊に仕えた。「小田原の役」「関ヶ原の役」で戦功で挙げた。東野幸政も山内一豊に仕え1,400石を領した。江戸城や丹波篠山城の普請に関わった。1614年、「大坂冬の陣」には中備えの大将として戦功を挙げた。

深尾重良【ふかおしげよし(1557~1632)】

山内一豊家臣。官途は和泉守。通称次郎兵衛。深尾重良の祖父深尾重列が足利家に仕え戦功により、美濃国太郎丸城を領した。深尾重良はその跡を継いで太郎丸城主となり、土岐家に属して長井規秀と戦った。1577年、織田信忠に属し松永久秀の籠もる信貴山城を攻め戦功を挙げた。1582年「甲州征伐」でも織田信忠に属し信濃高遠城を攻めたが、重傷を負った。1582年、「本能寺の変」で織田信忠が自刃すると、美濃の諸将と共に岐阜城主神戸信孝に抵抗し、太郎丸城を攻めてきた神戸信孝勢を撃退してた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では神戸信孝が自刃すると、加賀大聖寺城主溝口秀勝を頼った。1585年、山内一豊に仕えた。1589年、「小田原城の役」では、山内一豊に属して「山中城の戦い」で戦功を挙げた。山内一豊が遠江国掛川城に転封されると3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後に山内一豊が土佐国に転封されると、山内康豊に従って先発隊に属し土佐国の状況を報告した。1603年、高岡郡佐川城10,000石を領して筆頭家老となった。慶長年間の江戸城修築、丹波篠山城築城、名古屋城築城に関わり、幕府から賞された。「大坂の陣」では山内家全軍の指揮官を務めた。安芸広島城主福島正則が改易される際に兵を率いて広島に行き有事に備えた。広島からの帰国後、主君の忠義に隠居を申し出たが許可されなかったため、和泉堺に退去した。

古沢七郎左衛門【ふるさわしちろうざえもん(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1555年、「安食の戦い」で清洲城下で柴田勝家勢と戦い討死した。

堀尾泰政【ほりおやすまさ(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。丹羽郡御供所館主。家老職を務めた。堀尾家は丹羽郡御供所の豪族で高階家を称した。

堀尾泰晴【ほりおやすはる(1517~1599)】

堀尾泰政の男。通称忠助。堀尾泰晴は織田信長の主筋清洲織田家(織田大和守家)の嫡流である尾張半国守護代岩倉織田家(織田大和守家)当主織田信安に仕え、山内盛豊らとともに重臣の地位にあった。1559年、「岩倉城の戦い」で主家が滅亡した後の浪人した。嫡男堀尾吉晴が羽柴秀吉に仕えた後に引き取られた。

堀尾吉晴【ほりおよしはる(1544~1611)】

堀尾泰晴の男。官途は帯刀。通称小太郎。室は津田家の娘(大方殿)。1559年、「岩倉城の戦い」で一番頸を取る戦功を挙げた。のちに羽柴秀吉に仕え各地を転戦した。1567年、「稲葉山城の戦い」では、稲葉山城に通じる裏道の先導役を務めた。1573年、羽柴秀吉が近江国長浜城主に任じられると、100石を領した。その後も戦功を重ね、播磨国姫路内で1,500石、後に丹波国黒江内て3,500石に加増された。1583年、若狭国高浜城17,000石を領した。1585年、田中吉政、中村一氏、山内一豊、一柳直末らとともに羽柴秀次の附家老に任命され、近江国佐和山城40,000石を領した。1589年、「山中城の戦い」では、羽柴秀次に属して参陣したが、嫡男堀尾金助が討死した。役後、遠江国浜松城120,000石を領した。

中村一氏、生駒親正とともに中老職に任命された。1598年、羽柴秀吉の病没後は松平元康勢に属した。1599年、堀尾家の家督を次男堀尾忠氏に譲って隠居した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。三河刈谷城主水野忠重、美濃国加賀野井城主加賀井重望らと三河国池鯉鮒において宴会中、加賀井重望が水野忠重を謀殺、堀尾吉晴も槍傷を負ったが、加賀井重望を討取った。本戦には参加できなかったが、代わって出陣した堀尾忠氏が戦功を挙げ出雲国富田城240,000石を領した。1604年、堀尾忠氏が病没すると、堀尾家の家督は孫の堀尾忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた。

堀尾忠氏【ほりおただうじ(1578~1604)】

堀尾吉晴の次男。官途は出雲守。室は前田基勝の娘。1590年、長兄堀尾金助が「小田原の役」で討死したため、堀尾吉晴の世子となった。1599年、父堀尾吉晴の隠居に伴い、遠江国浜松城120,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康方の東軍に組して山内一豊と城提供の策を謀議し、また戦前に加賀井重望による殺傷事件に遭遇して負傷した父堀尾吉晴に代わって東軍側として関ヶ原前哨戦に戦功を挙げた。本戦にも参陣したが、長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで戦功を挙げていない。役後、前哨戦における武功を松平元康から賞されて、出雲国富田城240,000石に加増転封された。

堀尾忠晴【ほりおただはる(1599~1633)】

堀尾忠氏の男。官途は山城守。室は奥平家昌の娘(松平秀忠の養女)。1604年、父堀尾忠氏が病没したため、堀尾家の家督を相続した。祖父堀尾吉晴が堀尾忠晴に代わって執政を行なった。筆頭家老の堀尾河内守による家督横領の陰謀が発覚し、堀尾河内守と堀尾掃は自刃を申し付けられた。1615年、「大坂の陣」では戦功を挙げたほか、軍令違反を咎めた松平家の軍奉行を器量で圧倒して黙らせている。1619年、福島正則が幕命によって信州川中島城に減転封された際には、広島城の城受け取りを務めた。1633年、病没するが嗣子が無く、従兄弟の堀尾宗十郎を末期養子に立ててたが認められず堀尾宗家は断絶した。

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【ま】

前田利春【まえだとしはる(15??~1560)】

尾張国海東郡荒子城主。前田利隆の男。官途は縫殿助。別名前田利昌。室は竹野氏の娘(長齢院)。尾張国で林秀貞の寄騎衆として、織田家に仕え4,000石を領した。1560年、「桶狭間の戦い」後に病没した。

前田利久【まえだとしひさ(15??~1587)】

前田利春の男。室は滝川益氏の娘。1560年、父前田利春が病没したため前田家の家督を相続した。嫡子がいなかったため弟前田安勝の娘を養女とし、その養女の婿に自身の室の甥前田利益を迎えた。1569年、織田信長の命により前田家の家督を弟前田利家に譲った。前田利家との仲が不和になったため、前田家から退去した。1581年、織田信長の元で能登国一国を領する大名となった前田利家を頼り仕え前田利久、前田利益親子は7,000石を領した。

前田利益【まえだとします(1533~1612)】

滝川益氏の男(前田利久の養子)。別名前田慶次。室は前田安勝の娘。前田利久が室の実家である滝川家から娘の婿として前田利益を引き取り養子にした。1567年、前田利久は織田信長から隠居を命じられ、弟の前田利家が荒子城4,000石を領した。このため前田利益は養父前田利久とともに荒子城から退去した。1581年、織田信長のもとで能登国を領する諸侯となった前田利家に仕え、前田利久、前田利益は7,000石を領した。1584年、「末森城の戦い」では、奥村永福の救援に向い戦功を挙げた。その際に、前田利家より阿尾城代に任じられた。阿尾城は神保氏張勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。1589年、「小田原の役」では、前田利家とともに参陣した。1590年、前田利家のもとを退去したが、嫡男前田正虎と妻子一同は随行しなかった。その後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴、昌叱父子や九条稙通、古田織部ら多数の文人と交流した。その後、長尾景勝と直江兼続の知遇を得た。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢に属して、組外衆筆頭として1,000石を領した。「長谷堂城の戦い」の撤退戦で戦功を挙げた。長尾景勝が米沢城300,000石に減封された後も、長尾景勝に仕えた。

前田正虎【まえだまさとら(15??~15??)】

前田利益の男。

前田安勝【まえだやすかつ(15??~1594)】

前田利春の三男。父前田利春の死後、織田信長の命で兄前田利久が隠居、弟前田利家が家督を継ぐが、前田安勝が前田利家に仕えるのは前田利家が越前府中に城を構えてからであった。前田利家が能登国を領すると七尾城代に任じられ13,500石を領した。1582年「棚木城の反乱」「石動山の戦い」で戦功を挙げた。1584年、「末森城の戦い」では、数々の戦功を挙げた。前田利家が九州へ出陣の際には、物資の補給を担当した。

前田秀継【まえだひでつぐ(15??~1585)】

前田利春の六男。1576年、越前国府中で1,000石を領した。1583年、加賀国津幡城の守将に任ぜられ7,000石を領した。この時期より徐々に前田利家と隣国の越中国を治める佐々成政との関係が緊張し始め、両者は相争って加賀、越中国境周辺に数十箇所の城砦を設置、あるいは改修を施すのだが、その防衛線は国境を越えて加賀領内に入り込んでおり「末森城の戦い」以後には津幡城の至近にまで迫る事態へと推移していく。以降没するまでの数年間、前田秀継は常に対佐々家との戦いに従事した。1584年、能登国末森城を攻撃した佐々成政勢との戦いに参陣した。救援に向かう利家の軍勢を津幡城に迎え入れて軍議にも加わっている。嫡男前田利秀と共に越中国境にある倶利伽羅峠の防衛拠点である龍ヶ峰城を攻略、佐々平左衛門を敗走させる戦功を挙げた。1585年、越中攻略の重要拠点として築城された今石動城へと入城。佐々勢500余りが今石動城へと攻め寄せると前田秀継は寡兵ながら前田利秀とともに今石動城を死守した。援軍が到着するまで持ち堪えて神保氏張、佐々平左衛門らを敗走させる戦功を挙げた。羽柴秀吉の「越中討伐」で佐々成政が降伏して越中平定されると前田利家は新たに越中三郡を与えられ、前田秀継は越中国木舟城主に任ぜられ40,000石を領した。1585年、「天正大地震」により木舟城が全壊。前田秀継は室や多数の部下とともに死亡した。

前田利秀【まえだとしひで(1568~1594)】

前田秀継の次男。通称又次郎。1582年、「石動山城の戦い」に参陣した。なおこの戦いにおいて麾下の山田勘右衛門が山頂への一番乗りを果たした。1584年、能登国末森城を攻めた佐々成政軍を前田利家軍が破った「末森城の戦い」で第二陣の侍大将として加わった。父前田秀継と共に加賀国龍ヶ峰城を攻め、守将佐々平左衛門を撤退させた。1585年、前田利家が越中国蓮沼城を攻めた時に第四陣として加わった。1585年「天正大地震」によって木舟城が倒壊し、父前田秀継が圧死により前田家の家督を相続した。1586年、木舟城並びに城下の被害は甚大で復旧は困難であると判断して行政機能を今石動城に移し、町割りを行い近隣から寺院を集めるなど城下の整備に努めた。1589年、「小田原の役」に参陣し諸城の攻略にあった。1592年、「文禄の役」に参陣するがまもなく病没した。

前田利家【まえだとしいえ(1537~1599)】

前田利春の四男。官途は左近衛権少将。通称又左衞門。室は篠原一計の娘(松姫)。はじめ小姓として織田信長に仕え、赤母衣衆として織田信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」と称された。その後、柴田勝家勢に属して北陸転戦して戦功を挙げ能登国240,000石を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、はじめ柴田勝家に属するが、後に羽柴秀吉に属した。羽柴秀吉に属して加賀国、能登国、越中国の三ヶ国を領した。1598年、羽柴秀吉より五大老に列せられ、羽柴秀頼の傳役を任じられた。1598年、羽柴秀吉の死後、武断派、文治派が争うと仲裁役として働き、松平元康を牽制することに尽力するが、まもなく病没した。

前田利長【まえだとしなが(1562~1614)】

前田利家の男。官途は肥前守。通称孫四郎。室は織田信長の娘(永姫)。1581年、父前田利家の旧領を与えられ、織田信長の娘永姫を室に迎えた。1582年、「本能寺の変」は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田で聞き、永姫を前田の尾張国荒子城へ逃がし織田信雄勢に加わった。織田信長没後は前田利家と共に柴田勝家に寄騎した。「賤ヶ岳の戦い」に参陣して戦後は父前田利家とともに越前国府中城へ撤退した。1585年、羽柴秀吉により佐々成政が支配していた越中国が制圧されると、射水郡、砺波郡、婦負郡320,000石を領した。「九州の役」「小田原の役」などに参陣し各地を転戦して戦功を挙げた。1598年、前田利家より前田家の家督と金沢領260,000石を相続した。1599年、松平元康による「加賀国征伐」に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった前田利長は細川藤孝、宇喜多秀家を通じて羽柴秀頼に救援を求めた。横山長知を弁明に三度派遣し、実母の芳春院を人質として江戸城の松平元康に差し出し交戦を回避した。1600年、松平元康出陣中に石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、前田利長は弟前田利政の軍務放棄といった問題に悩まされながらも北陸で大聖寺城や小松城など石田三成勢に属した諸城を落とした。さらに「浅井畷の戦い」では丹羽長重軍と激戦に及び、勝利した。「関ヶ原の役」後には、弟前田利政の能登七尾城225,000石と西加賀国の小松領120,000石と大聖寺領63,000石が加領され、加賀国、越中国、能登国の三ヶ国合わせて約1,200,000石を領した。嫡男がなかったので、異母弟の前田利常(利家の四男)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した。

前田利政【まえだとしまさ(1578~1633)】

前田利家の次男。官途は能登守。通称孫四郎。室は蒲生氏郷の娘。1593年、能登国七尾城の城主となった。1599年、父前田利家より能登国216,000石を分与された。1600年、石田三成らが毛利輝元を擁立して松平元康に対して挙兵すると、兄前田利長とともに松平元康勢に属し北陸の西軍方大聖寺城主山口宗永を攻落した。金沢城へ引き返したあと前田利長が再出陣した際、前田利政は能登国に留まった。「関ヶ原の戦い」には参陣しなかった。役後、前田利政は能登国の所領を没収され、京都の嵯峨に隠棲した。1614年、「大坂冬の陣」では、両陣営から誘いを受けたが中立を維持した。役後、松平元康は10,000石の諸侯に取り立てる打診をしたが、前田利政は「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、松平元康への忠節を尽くす行動ではない。」と辞退した。

前田利常【まえだとしつね(1594~1658)】

前田利家の四男。官途は筑前守。室は松平秀忠の娘(珠姫)。側室は家臣鈴木権佐の娘(古和姫)。幼少の時は前田長種のもとで育てられた。1600年、「浅井畷の戦い」後、小松城主丹羽長重と和議が結ばれた際、人質として丹羽長重のもとに送られた。跡継ぎのいなかった兄前田利長の養子となり、松平秀忠の娘(珠姫)を室に迎えた。1605年、前田利長の隠居により、前田家の家督を相続した。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣して、真田信繁勢と戦った。1631年、謀反の嫌疑をかけられるも、嫡男前田光高とともに江戸に下り懸命に弁明した。

前田種定【まえだたねさだ(15??~1599)】

下之一色城主。

前田長種【まえだながたね(1550~1631)】

前田種定の男。官途は対馬守。通称は甚七郎。室は前田利家長女(幸姫)。加賀八家のひとり。織田信長の家臣で「本能寺の変」後「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉につき尾張国蟹江城を守備した。松平元康、織田信雄勢に敗れ父前田種定は討死した。兄前田定利も自刃した。本拠の下之一色城にいた前田長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり七尾城を守備した。その後、越中国守山城代となり前田利常を養育した。1605年、加賀国小松城代となり20,000石を領した。

前田直知【まえだなおとも(1586~1630)】

前田長種の男。官途は美作守。室は前田利長の養女(祖心尼)。継室は前田利長の養女(長連龍の娘)竹姫。前田利長に仕え5,000石を領した。後に父前田長種の禄を合わせて10,000石を領した。小松城代を務めた。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣した。病のため、隠居して家督を嫡男直正に譲り、京都で療養した。

前野宗康【まえのむねやす(1489~1560)】

岩倉織田信安家臣。葉栗郡松倉城主。通称小次郎。室は小坂家の娘。1559年、岩倉城が織田信長に降る前に織田信長勢に属して所領を安堵された。

前野長康【まえのながやす(15??~1595)】

前野宗康の次男。官途は但馬守。別名坪内光景。羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。1582年、織田信長の黄死後、羽柴秀吉が政権を把握する過程で、蜂須賀正勝とともに羽柴秀吉を支えた。1584年「小牧、長久手の戦い」「四国征伐」に参陣して戦功を挙げた。但馬国出石城53,000石を領した。羽柴秀吉が政権下では聚楽第造営の奉行を務め、後陽成天皇行幸の際には饗応役を務めた。1590年「小田原の役」「文禄の役」にも参陣して戦功を挙げ110,000石に領した。羽柴秀次の附家老となった。1595年、「羽柴秀次事件」で謀反の疑いをかけられた羽柴秀次を弁護したため、連座として罪に問われて自刃を命じられた。

前野景定【まえのかげさだ(15??~1595)】

前野長康の男。官途は出雲守。別名坪内景定。室は細川忠興の娘(御長姫)。父前野長康とともに羽柴秀次の附家老となった。1595年、l「羽柴秀次事件」で羽柴秀次を弁護したため、羽柴秀吉から謀反の疑いをかけられ前野長康とともに捕縛され、中村一氏に預けられた。前野長康とともにそこで羽柴秀吉の命で自刃した。前野景定の内室(御長姫)にも捕縛命令が出されたが、細川忠興の長女であったため、松井康之などが奔走しにより、前野景定から離縁後出家させて捕縛を免れた。

牧長義【まきながよし(15??~1570)】

津川義長の男(岡田常時の養子)。官途は下野守。室は織田信定の娘(長栄寺殿)。父は斯波庶家の津川家で、岡田時常の婿となるも母方の姓である牧家を称した。織田信秀に仕え、牧長義は織田信秀の娘(信徳院)を嫡男牧長清の室に迎えた。岳父岡田時常に川村城を譲られ居城した。1548年、愛知郡に小林城を築き4,000石を領した。織田信秀の病没後は牧長清とともに織田信長にも仕えた。

牧長清【まきながきよ(15??~15??)】

牧長義の男。1570年、牧長清の病没後、牧家の家督を相続した。

牧虎蔵【まきとらくら(15??~15??)】

牧長義家臣。

水越縫殿助【みずこしぬいどのすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。足軽大将。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽勢と交戦した。

村井長頼【むらいながより(1543~1605)】

前田利久家臣。官途は豊後守。通称又兵衛。前田利家が織田信長のもとを辞した際にも従い、常に戦場でも前田利家とともにあった。「越前手筒山の戦い」「摂津天満の戦い」「金ヶ森城の戦い」「長篠の戦い」等に参陣して250石を領した。「石動山城の戦い」では先陣を努めた。1584年、佐々成政勢が前田利家領に攻め込むと、朝日山城を築き守備についた。1585年、神保氏張が阿尾城を攻めるとこれを撃退した。この戦功により11,245石を領した。「末森城の戦い」でも戦功を挙げた。前田利家の病没後に隠居するが「加賀征伐」を行おうとした松平元康に、前田利長が実母の芳春院を人質に差し出した時は芳春院に従って江戸に下り、その地で没した。

村井長次【むらいながつぐ(1568~1613)】

前田利久家臣。室は前田利家の娘(七女)。1611年、細川忠隆と離縁した前田千世を正室として村井家に迎え入れた。村井家は16,500石余を領した。

村井長明【むらいながあき(1582~1644)】

村井長頼の次男。通称勘十郎。1594年、前田利家の小姓となる。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦傷を負ったが役後450石を領した。1602年、前田家の禄を離れるが再び仕官した。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げ300石を領した。

毛利秀頼【もうりひでより(15??~1593)】

斯波義統の次男(毛利敦元の養子)。官途は河内守。父斯波義統が謀殺されると、毛利敦元に引き取られ養育された。その後、織田信長に仕えた。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げ、赤母衣衆に抜擢された。1569年「伊勢大河内城の戦い」「石山本願寺との戦い」で戦功を挙げた。尾張、美濃衆を率いて軍団を編成した織田信忠の配下になり「武田家討伐」に参陣した。武田家の滅亡後、織田信長から伊那郡高遠城主に任じられた。1582年、「本能寺の変」で、織田信長が討死すると所領を捨て尾張国に帰還した。以後は羽柴秀吉に仕えた。「小牧、長久手の戦い」「九州征伐」「小田原の役」などに参陣して戦功を挙げたため、伊那郡飯田城70,000石を領した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋に在陣するも、渡海はしなかった。

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【や】

山内盛豊【やまうち もりとよ(1510~1559)】

岩倉織田信安家臣。葉栗郡黒田城主。山内久豊の男。官途は但馬守。通称猪之助。室は法秀尼(梶原氏の娘)。黒田城代。父山内久豊は尾張羽栗郡黒田の郷侍で、尾張上四郡守護代岩倉織田信安により、尾張黒田城代を命じられた。1559年、織田信長の攻撃を受け岩倉城が落城した際討死した。

山内十郎【やなのうちじゅうろう(15??~1557)】

山内盛豊の男。1557年、黒田城を襲撃した盗賊と戦い討死した。

山内一豊【やまのうちかずとよ(1545~1605)】

山内盛豊の三男。官途は対馬守。1557年、兄山内十郎が盗賊に黒田城を襲撃された際に討死した。1559年、岩倉城が落城した際、父山内盛豊が討死した。山内一豊は苅安賀城主浅井政貞、松倉城主前野長康、牧村城主牧村政倫、勢多城主山岡景隆らに仕えた。1568年、織田信長に仕え、羽柴秀吉の寄騎衆となった。1573年、「刀禰坂の戦い」では重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討取る戦功を挙げた。羽柴秀吉の直臣となり近江国浅井郡内で400石を領した。1577年、播磨国内2000石を領した。1583年、「伊勢国亀山城の戦い」で一番槍の戦功を挙げた。1585年、田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末らとともに羽柴秀次の附家老となり、近江国長浜城20,000石を領した。1585年、「天正の大地震」でひとり娘の与祢姫を失った。1589年、「山中城の戦い」で戦功を挙げ、遠江国掛川城51,000石を領した。掛川城では城の修築と城下街の整備、大井川の堤防の建設や流路の変更を駿府城主中村一氏とともに行った。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、掛川城を松平元康に提供した。本戦では、大きな戦功を挙げることはなかったが土佐国240,000石を領した。

山内康豊【やまうちやすとよ(15??~15??)】

山内盛豊の四男。1572年、織田信長の嫡男織田信忠に仕えた。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠が自刃後に山内康豊は落延びた。その後は溝口秀勝に仕えたものの、後に山内一豊に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」の後、山内一豊が土佐藩主となると、山内康豊は土佐国中村城20,000石に封ぜられた。1605年、山内一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男山内忠義が土佐藩第二代藩主に就任する。しかし若年だった山内忠義のため、山内康豊が二年間ほど後見人を務めた。1625年、山内康豊の家督は次男の山内政豊が継いだ。

山内忠義【やまうちただよし(1592~1656)】

山内康豊の男。伯父の山内一豊の養嗣子。1592年、山内康豊の男として遠江国掛川城に産まれた。1603年、叔父山内一豊の養嗣子となり、松平元康、松平秀忠に拝謁し、松平姓を下賜され、山内家の家督相続したが、年少のため、実父康豊の補佐を受けた。1610年、居城の河内山城の名を高知城と改めた。1614年、「大坂冬の陣」に参戦した。この時、預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走するという珍事が起きている。1615年、「大坂夏の陣で」は、暴風雨のために渡海できず、参戦はしていない。1612年、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。1631年、野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。

山内於美【やまのうちおみ(15??~15??)】

山内康豊の室。別名「妙玖院」。山内康豊の妾として山内忠義を生みながら、生母として扱われることはなかった。

和田定利【わださだとし(15??~1574)】

犬山織田信清家臣。葉栗郡黒田城主。通称新介。1558年、中島豊後守とともに織田信長に内通した。織田信清に従い織田信長勢として、北尾張守護代織田信安との「浮野の合戦」に参陣した。1569年、伊勢「北畠家征伐」に参陣した。1571年、織田信忠勢として「伊勢長島一向一揆攻撃」に参陣した。1574年「長島城の戦い」で討死した。

和田定教【わださだのり(15??~15??)】

和田定利の弟。通称八郎。1574年、兄和田定利の討死により、和田家の家督を相続した。

山口勘兵衛【やまぐちかんべい(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

横山長隆【よこやまながたか(1539~1583)】

前田利長家臣。横山時隆の男。加賀八家のひとり。室は杉弥左衛門の娘。父横山時隆は美濃国多芸郡の豪族衆。多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となり、清水城主稲葉良通に仕えるも、同僚と争い、相手を殺害して越前国に落延びた。大野城主金森長近に仕えた。1582年、前田利長に仕えて旗奉行に任じられた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣して殿を務めて討死した。

横山長知【よこやまながちか(1568~1646)】

横山長隆の次男。通称大膳。室は前田長種の妹。丹波円通寺で修練に励み、父横山長隆とともに前田利長に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で父横山長隆が討死すると、横山家の家督を相続して200石を領した。1584年、「末森城の戦い」で戦功を挙げた。1599年、前田家に謀反の噂が流れた時、五大老筆頭の松平元康と謁見し事細かに申し開きし危機を救っている。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げた。1602年、太田長知を前田利長の命で謀殺した。しかしその後、、前田利長と折り合いが悪くなり致仕し京都の山科に移り住んだがまもなく帰参した。1615年、「大坂夏の陣」では、前田利長勢の先陣を務めた。役後、戦功により30,000石を領した。

横山長秀【よこやまながひで(15??~1605)】

前田利家家臣。官途は因幡守。1602年、御幸塚城守将に任じられた。

吉田孫兵衛【よしだまごべい(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。

四井主馬【よついしゅめ(15??~15??)】

前田利家臣。はじめ武田晴信に仕えていたが、後に前田利家に仕え、加賀忍者を率いた。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣して城中に火を放った。

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【資料Ⅰ】

北尾張国(5郡/240,000石)

丹羽郡:岩倉城、犬山城、楽田城、小折城。
羽栗郡:黒田城、松倉城。
中島郡:刈安賀城、奥田城。
西春日井郡:清洲城、小田井城。
東春日井郡:品野城、守山城。

※北尾張国という国は存在しません。個人的趣味として尾張国を北尾張国と南尾張国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

尾張国守護代家【おわりしゅごだいけ】

清洲織田達勝、岩倉織田信安。※清洲織田家(大和守家)と岩倉織田家(伊勢守家)の二家。清洲織田家が尾張の下四郡を治め、岩倉織田家が尾張の上四郡を治めた。

清洲三奉行【きよすさんぶぎょう】

織田常寛(藤左衛門家)、織田広信(因幡守家)、織田信秀(弾正忠家)。※尾張国守護代清洲織田家(大和守家)に仕える奉行三家。

清洲家四家老【きよすよんかろう】

河尻重俊、坂井大膳、坂井甚介、織田三位。※尾張国守護代清洲織田家(大和守家)に仕える家臣。

荒子七人衆【あらこななにんしゅう】

村井長頼、高畠定吉、小塚藤右衛門、金岩与次之助、原田又右衛門、木村三蔵、吉田孫兵衛。

鏡栗毛【かがみくりげ】

山内一豊の愛馬。織田信長の馬揃えの際、山内一豊の室千代(見性院)は貯えていた持参金を夫に渡し、名馬鏡栗毛を購入させた。馬を買った経緯は、ある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方なく帰ろうとしたところを山内一豊が買った。それを聞いた織田信長が「高い馬だから、織田信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながら良く買ってくれた。織田信長の家も恥をかかなくてすんだ」と喜んだ。

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【資料Ⅲ】

尾張国【おわりのくに】

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康で名前を統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2014年11月3日月曜日

戦国北肥後国人名事典

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【あ】

赤星親家【あかほしちかいえ(1514~1562)】

菊池義武家臣。隈部親永、城親冬とともに菊池家三家老職のひとり。1550年、菊池義武が挙兵では、菊池義武勢に属さず大友義鎮勢に属した。この戦功により菊池義武の本拠地であった隈府城主となった。1559年、隈部親永と対立し、隈部親永勢の猿返城を攻撃したが、反撃を受け「合瀬川の戦い」で大敗して勢力が衰えた。

赤星統家【あかほしむねいえ(1530~1619)】

赤星親家の男。1562年、父赤星親家の病没後、隈府城主となった。龍造寺隆信の肥後国侵攻で龍造寺隆信に降った。二人の子を人質に出すが、後に隈部親永が肥後国で勢力を伸ばすと、これを龍造寺隆信が支援する事となったため、隈部親永と敵対関係になった。1582年、赤星統家は、龍造寺隆信から命じられた佐賀城への出仕を渋ったために疑心ありとされ、龍造寺隆信に預けていた人質が謀殺された。これを恨んだ赤星統家は、島津義久勢に属した。1584年、「沖田畷の戦い」では先陣を務め、島津家久勢に赤装束に縄襷という出で立ちで兵50余りとともに参陣して戦功を挙げた。1586年、「九州討伐」後に、所領を没収された。

赤星親武【あかぼしちかたけ(15??~1615)】

赤星統家の男。通称は太郎兵衛。加藤清正十六将のひとり。羽柴秀頼に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「天王寺口の戦い」で討死した。

赤星道重【あかぼしみちしげ(1602~1636)】

赤星親武の男。通称は内膳。天草十七人衆のひとり。1614年、「大坂冬の陣」では、父赤星親武とともに、大坂城へ入城した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼が自刃すると、落延びて天草に潜伏した。1636年、「島原の乱」では一揆勢の評定衆として本丸付近を守備した。原城が落城する際、寺沢広高の家臣三宅籐右衛門と一騎討ちの末、討死した。

池松貞胤【いけまつさだたね(15??~15??)】

大野親祐家臣。玉名郡高道城主。1582年、龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した。

石原吉利【いしはらよしとし(15??~1585)】

菊池郡今石城主。1585年、島津義久勢の攻撃を受けた際、石原吉利はわずか兵50余りで戦い討死した。

板楠景貞【いたくすかげさだ(15??~15??)】

玉名郡岡原城主。官途は豊後守。

板楠景次【いたくすけげつぎ(15??~15??)】

板楠景貞の男。

芋生親友【いもおちかとも(15??~15??)】

辺春親行家臣。山鹿郡苧生館主。官途は摂津守。

岩崎恵林【いわさきえいりん(15??~15??)】

鹿子木親員家臣。赤水城主。

有働兼元【うどうかねもと(15??~1588)】

隈部親永家臣。官途は志摩守。1587年、隈部親永、隈部親泰父子とともに城村城に籠城した。肥後国人衆は隈部親泰を総大将、有働兼元を総物頭とし、原口の大手や西之枡形など六つの部署に分けて鉄砲830挺、弓500張と兵18,000余りが籠城した。隈部親永は防戦の表には立たなかったが、佐々成政が攻城を始めると各方面で激戦が展開された。籠城勢が佐々成政を引き付けている間に別の国人衆が本城の隈本城を包囲したため、佐々成政は救援に引き上げたが立花宗茂、小早川隆景らが加勢、一揆勢は鎮圧された。開城後、隈部親永らは柳川城で謀殺された。

内空閑重載【うちくがしげのり(15??~15??)】

山本郡内村城主。菊池武経家臣。内空閑為載の男。官途は備前守。1505年、内空閑重載は枝連衆の内空閑朝誠、内空閑運直、内空閑朝貞らとともに、菊池政隆を追放し、阿蘇惟憲の男菊池武経を迎えて肥後国守護職に推戴した。菊池武経は阿蘇宮大宮司職を弟阿蘇惟豊に譲り、隈府城に入ると菊池武経と称した。菊池政隆は、内空閑重載のもとに落延びた。1511年、その菊池武経も菊池家臣団と対立して肥後守護職の追われた。内空閑重載、隈部親氏らは、菊池家枝連衆の詫磨武安から菊池武包を養子に迎えて肥後国守護職とした。1518年、大友義鑑は、菊池武包を追放すると弟菊池義武を入れ、肥後国守護職とし鹿子木親員、田島重賢の支持を得て隈本城に入った。菊池義武も菊池家臣団の支持を失い、相良晴広を頼って隈本城から落延びた。

内空閑為秋【うちくがためあき(15??~15??)】

内空閑重載の男。

内空閑長載【うちくがながとし(15??~15??)】

内空閑重載の次男。官途は伊賀守。通称刑部少輔。

内空閑佐載【うちくがさねとし(15??~1533)】

内空閑長載の男。官途は備前守。別名内空閑親貞。1533年、島津貴久勢と戦い討死した。

内空閑鎮真【うちくがしげざね(15??~1574)】

内空閑佐載の男。官途は式部少輔。1550年、「二階崩れの変」で大友義鑑が家臣によって謀殺されると、鹿子木親員、田島重賢らに擁立され再び隈本城に入った。1551年、大友義鎮は肥後国に侵攻して菊池義武を謀殺し、守護代として志賀親守を配し、大津山城主に小原鑑元を任じ筑後国方面に備えた。

内空閑鎮資【うちくがしげすけ(15??~1575)】

内空閑鎮真の男。官途は但馬守。別名内空閑親資。室は隈部親家の娘(菊姫)。

内空閑親房【うちくがちかふさ(15??~1588)】
 
隈部親永の男(内空閑鎮資の養子)。山本郡霜野城主。官途は式部大輔。別名内空閑鎮房。1566年、内空閑鎮資は嫡男に恵まれず隈部親家の次男内空閑鎮房に迎えたが、後に内空閑鎮照が生まれたことにより、家中が内空閑鎮房派と内空閑鎮照派に分かれて争うことになった。隈本城主城親賢の仲介により、和議が結ばれ、内空閑鎮房が霜野城2,750石、内空閑鎮照が内村城2,750石を領した。1575年、内空閑鎮資の病没により内空閑家の家督を相続した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久に大敗すると、城親賢は島津義久勢に属し、隈部親永は龍造寺隆信勢に属した。1579年、龍造寺隆信は小代親泰を攻撃した。1580年、隈府城主赤星統家が降伏したことにより北肥後国は龍造寺隆信勢の支配下に置いた。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、隈部親泰らとともに島津義久勢に降伏した。1587年、「九州討伐」では羽柴秀吉勢に属して、所領安堵を受けるものの、佐々成政の入国後に起きた「肥後一揆」に参陣した。1588年、柳川城で安国寺恵瓊に謀殺された。

内空閑鎮照【うちくがしげてる(15??~1588)】

内空閑鎮房の男。山本郡内村城。官途は備前守。1566年、内空閑鎮資は嫡男に恵まれず隈部親家の次男内空閑鎮房に迎えたが、後に内空閑鎮照が生まれたことにより、家中が内空閑鎮房派と内空閑鎮照派に分かれて争うことになった。隈本城主城親賢の仲介により、和議が結ばれ、内空閑鎮房が霜野城2,750石、内空閑鎮照が内村城2,750石を領した。1588年、柳川城で安国寺恵瓊に謀殺されたが、嫡男内空閑鎮員が落延び大津山家稜の嫡男大津山祐直とともに立花宗茂に仕えた。

大津山資冬【おおつやますけふゆ(15??~15??)】

玉名郡神尾城主。官途は美濃守。大友義鎮に謀反を起こしたが、大友義鎮勢の攻撃を受け大津山城は落城し大津山資冬は落延びた。 小原鑑元が大津山城に入ったが、小原鑑元も大友義鎮に叛旗を翻したため、大津山資冬が攻落して城主に復帰した。1579年、龍造寺隆信は肥後国に侵攻した和仁城、長坂城を攻落した。交通の要衝である大津山資冬を攻撃した。大津山城を捨てて神尾城へ退いて龍造寺隆信勢と対峙し、攻めあぐねた龍造寺隆信は南関を確保できたこともあり撤退した。

大津山家稜【おおつやまいえかど(15??~1587)】

大津山資冬の男。別名大津山家直。1586年、「九州征伐」では羽柴秀吉勢に属して本領を安堵された。1587年、佐々成政による検地に反対して起こった国人一揆では大津山家稜も一揆勢に参陣した。佐々成政は大津山家稜を謀殺した。

大津義種【おおつよしたね(15??~15??)】

菊池郡西嶽城主。

大野親祐【おおのちかすけ(15??~1581)】

玉名郡上村城主。1581年、島津義久勢に内応したことにより、龍造寺隆信勢に属した小代親忠の攻撃を受けた。「焼石原の戦い」で敗れ、大野親祐は上村城に撤退したが、支えきれずに日嶽開田城に籠城した。大野親祐は小代親忠勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず、城内の女性を逃がした後、全員が討死した。

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【か】

鹿子木親員【かのこぎちかかず(15??~1549)】

菊池義武家臣。飽田郡隈本城主。鹿子木重能の男。官途は三河守。大友義鎮の次男菊池義武を菊池家の養子に迎え、田島重賢らとともにこれを補佐した。1516年、阿蘇山衆徒と彦山衆徒が対立するとこれを仲裁し、相良晴広、名和武顕の対立の際も和議の仲介を行った。1535年、菊池義武と大友義鎮が対立すると、菊池義武を離れて大友義鑑勢に属した。藤崎宮を修築して後奈良天皇の勅願の下賜を奏請するほか、焼亡した大慈寺の再建などを行った。和歌を好み、三条西実隆より「源氏物語」を購入した。
 
鹿子木親俊【かのこぎちかとし(15??~15??)】

鹿子木親員の男。1539年、父鹿子木親員とともに上代城に移った。

鹿子木鑑有【かのこぎかねあり(15??~15??)】

鹿子木親俊の男。通称次郎。祖父鹿子木親員の病没後、鹿子木家の家督を相続した。1550年、田島重賢とともに菊池義武に協力、大友義鎮勢の侵攻を受け没落した。鹿子木鑑有は小代実忠から玉名郡小田村に領地を受け、国人衆としては復帰したが、隈本城を支配する勢力への復帰はかなわなかった。

鹿子木鎮国【かのこぎあきくに(15??~15??)】

鹿子木鑑有の男。

亀井光総【かめいみつふさ(15??~1550)】

亀井城主。1550年、菊地義武勢の攻撃を受け討死した。

亀井吾助【かめいごすけ(15??~15??)】

亀井光総の男。1550年、父亀井光総が討死すると、菩提を弔うため光照寺を建立した。

菊池武経【きくちたけつね(1480~1537)】

菊池郡隈府城主。阿蘇惟憲の男(菊池政隆の養子)。官途は肥後守。別名阿蘇惟長。菊池武経は阿蘇家の大宮司を継いでいたが、阿蘇惟長は菊池家の衰退に付け込み肥後国守護職の簒奪を図った。阿蘇惟長は肥後国への勢力拡大を図る豊後国の大友義長と結んだ。城親冬、赤星親家、隈部親永らの菊池家臣団は、肥後守護職の菊池政隆を排除して阿蘇惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。1507年、阿蘇惟長は大友義長の支援を得ると隈府城へ侵攻し菊池政隆を隈府城から追放した。阿蘇惟長は隈府城に入り菊池武経と名乗り、肥後守護職の簒奪に成功した。この時、阿蘇大宮司職を弟の阿蘇惟豊に譲っている。肥後守護職となったが、名目だけの肥後守護職であり、家臣団との関係も悪化した。1513年、菊池武経は阿蘇惟豊側を攻撃し、阿蘇惟豊は日向国に落延びた。菊池武経は嫡男の阿蘇惟前を大宮司職に据えると、阿蘇惟長の名に復して実権を掌握した。1517年、甲斐親宣らの支援を得た阿蘇惟豊は逆襲に転じ、敗北を喫した阿蘇惟長、阿蘇惟前父子は薩摩国へと落延びた。

菊池武包【きくちたけかね(15??~1532)】

詫磨武安の男(菊池武経の養子)。1513年、菊池武経が菊池家臣団と対立し阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を奪還した。菊池家の後継者として、大友義長の男大友重治(菊池義武)が迎えられ、菊池武包が菊池家の家督を相続した。1520年、菊池武包の元服後家督を譲った。1532年、大野城で病没した。

菊池義武【きくちよしたけ(15??~15??)】

大友義長の男(菊池武包の養子)。肥後国守護職。官途は左兵衛佐。室は名和武顕の娘。別名菊池重治。大友義鑑は肥後国に勢力を拡大するため、肥後国に大きな影響力を持つ菊池家の簒奪を図り、菊池武経の跡を詫摩家出身の菊池武包に継がせ、弟菊池重治の成長後に菊池家の家督を継がせる密約を結んだ。1520年、菊池武包から菊池家の家督を相続した。菊池義武は菊池家の家督を相続すると、大内義隆や相良晴広と結んで大友義鑑に反抗した。大友義鑑との争いに敗れ、相良晴広を頼って落延びた。1550年、大友義鑑が「二階崩れの変」で横死すると再び領地を奪還した。1554年、甥大友義鎮の帰国の誘いに乗り、豊後国へ向かう途上で大友義鎮勢に包囲され自刃した。

菊池高鑑【きくちたかあき(15??~1554)】

菊池義武の男。官途は備前守。1538年、八代白木社にて元服した。父菊池義武に従い行動し、主家筋の大友家から独立した行動を取ったため、従兄弟である大友義鎮の討伐勢に敗れ、相良家の下へ落延びた。1554年、大友義鎮の甘言によって帰国する途上、父菊池義武とともに誘殺された。

菊池則直【きくちのりなお(15??~15??)】

菊池義武の次男。通称は十郎。父菊池義武が大友義鎮に追討を受けて殺害された際、菊池則直は幼少の為か母と辰若(菊池義武の娘)とともに姻戚関係である相良晴広に預けられていたため、難を逃れた。

木野親則【きのちかのり(15??~15??)】

菊池武経家臣。木野相直の男。菊池義武の振る舞いに対して、度々諫言を行ったが、それを疎んだ菊池義武は木野親則を謀殺した。木野親則の娘は大友親冶に嫁いで、嫡子大友義長を生んだ。

草野宗晴【くさのむねはる(15??~15??)】

和仁親続家臣。通称隼人。

久保田重兼【くぼたしげかね(15??~15??)】

山鹿郡方久保城主。

久木野備前守【くにのびぜんのかみ(15??~1585)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡駒返城主。1585年、島津義弘勢の攻撃を受け討死した。

隈部親家【くまべちかいえ(15??~1550)】

山鹿郡永野城主。隈部貞明の男。官途は式部大輔。

隈部親永【くまべちかなが(15??~1588)】

隈部親家の男。官途は但馬守。1550年、父隈部親家が病没すると大友義鎮勢に属する旧菊池家臣団の中心人物となった。隈部親永と赤星親家が菊池家の主導権を争い、領土問題も絡んで対立が深まった。1559年、赤星親家を「合勢川の戦い」で撃破った。赤星親家が大友義鎮に属すると、対抗して龍造寺隆信と結んだ。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信の肥後国侵攻を支援した。1580年、城親賢らととに大友義鎮勢に属する阿蘇惟憲を攻めたが、阿蘇惟憲の家臣甲斐宗運によって撃退された。江上家種率いる龍造寺隆信勢とともに赤星統家の家臣星子廉正が拠る長坂城を攻撃した。赤星統家の叔父合志親賢勢を撃破り星子廉正を自刃させて長坂城を攻略し有働兼元を城番とした。本拠を永野城から隈府城に移し、嫡男隈部親泰を城村城に入れ、菊池郡、山鹿郡。山本郡に勢力を広げ、菊池家家臣団と婚姻関係を結んで勢力を拡大させた。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、肥後国における龍造寺隆信勢の勢力が衰え、島津義久勢が肥後国北部に侵攻してくると、人質を出して降伏した。1587年、「九州征伐」では、他の肥後国人衆とともに羽柴秀吉勢に降伏するが、所領の減封処分を受けた。佐々成政の検地に反対して、他の肥後国人衆とともに隈府城に籠城した。羽柴秀吉勢の攻撃を受け安国寺恵瓊の仲介により開城したが謀殺された。

隈部親安【くまべちかやす(15??~1588)】

隈部親永の男。官途は式部大輔。通称源次郎。別名隈部親泰。肥後国人衆一揆では有働兼元、山鹿重安らとともに佐々成政、立花宗茂らに抵抗した。1587年、父隈部親永とともに降伏した。豊前小倉で毛利吉成に謀殺された。

合志隆峯【こうしたかみね(15??~15??)】

合志郡竹迫城主。官途は蔵人少輔。別名合志隆岑。1511年、竹迫城主竹迫公種が豊後国に転封したのち、合志隆峯が竹迫城に入った。

合志隆房【こうしたかひさ(15??~15??)】

合志隆峯の男。官途は三河守。

合志高久【こうしたかひさ(15??~15??)】

合志隆房の男。官途は兵庫頭。

合志重遠【こうししげとう(15??~15??)】

菊池重安の次男(合志高久の養子)。官途は丹波守。

合志親為【こうしちかため(15??~1585)】

赤星重隆の次男(合志高久の養子)。官途は伊勢守。別名合志親賢。1550年、菊池義武に協力して大友義鎮勢と戦った。1561年、相良、名和との対立を仲裁した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗した後も、大友義鎮勢に属した。1580年、島津義久、城親賢らとの「久保田の戦い」に敗れた。1581年、龍造寺隆信勢が肥後に侵攻すると赤星統家、隈部親永らとともに降った。1584年、島津義久勢にと内応したため、龍造寺隆信勢の攻撃を受け降伏して、合志家の家督を弟合志親重に譲って隠居した。

合志隆重【こうしたかしげ(15??~15??)】

合志高久の男。官途は隼人佐。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信勢が筑後国、肥後国へ侵攻した。竹迫城も攻撃を受けたが、合志隆重は奮戦し城を守りぬいた。1580年、龍造寺政家勢が江上家種を大将として長坂城を攻撃した。長坂城には赤星統家の家臣星子廉正が守っていた。赤星統家の叔父合志親為は星子廉正に援軍を送った。合志親為の嫡男合志親重は、龍造寺政家、隈部親永らと戦ったが、合志親為家臣の大津藤左衛門が内応したため敗退して、合志親重は竹迫城へ退却した。長坂城は落城、星子廉正は自刃した。

合心親重【こうしちかしげ(15??~1586)】

合志高久の次男。別名志親泰。1582年、合志親為は出家し家督を合志親重へ譲った。合志親泰は島津義久と和平交渉を行ったが、交渉は成立しなかった。1585年、島津義久勢の攻撃を受け落城した。合志親泰は開城し、新納忠元、稲田新助に城を明け渡した。1586年、合志親泰は薩摩の羽月に送られ謀殺された。

合志千代松丸【こうしちよまつまる(15??~15??)】

合志親重の男。1586年、「九州征伐」後、所領安堵された。

小島遠江守【こじまとおとうみのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡湯浦城主。1584年、島津義久勢の侵攻により落城した。

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【さ】

下田惟政【しもだこれまさ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡下田城主。1585年、島津義弘勢の攻撃を受け、長野城主長野惟久とともに戦い討死した。

小代重忠【しょうだいしげただ(14??~1540)】

玉名郡筒ヶ嶽城主。菊池武包家臣。官途は刑部少輔。1523年、菊池武包は小代重忠の支援を受け筒ヶ嶽城に籠城して兵を挙げた。大友義鑑は、阿蘇惟豊に筒ヶ嶽城攻撃を命じた。阿蘇惟豊は甲斐親宣を大将として兵を送り、小代重忠との間で激戦が展開されたが筒ヶ嶽城は落城、菊池武包は肥前国に落延びた。1533年、大内義隆勢の陶興房が筑後国に侵攻すると、小代重忠は大友義鑑に属した。1540年、菊池義武、相良晴広、名和武顕らの南部衆との戦において、肥後国北部の国人衆らととも参陣したが「犬淵の戦い」で、多くの枝連衆とともに討死した。

小代実忠【しょうだいさねただ(15??~15??)】

小代重忠の男。官途は加賀守。1550年、菊池義武が筑後国人衆の支援により隈本城に復帰したが、小代実忠は大友義鎮勢に属した。三池親員、大津山重経、辺春薩摩守、和仁親続、大野上総介、田嶋宮内少輔、吉弘但馬守、東郷衆らの攻撃を受けたがこれを撃退した。大友義鎮の家臣小原鑑元とともに大津山重経を攻撃した。大友義鎮とともに三池城主三池親員を攻撃し、三池右衛門大夫を討取る戦功を挙げた。大友義鎮勢の攻撃により菊池義武も隈本城から島原に落延びた。1554年、大友義鎮が肥後国の押えとして大津山主に任じた小原鑑元が本庄、中村、佐伯らとともむ謀反を起こした。大友義鎮は田原親賢を大将に小代実忠、三池鎮実、田尻鑑種、蒲池鎮並らとともに小原鑑元を攻撃した。1556年、小原鑑元が討死すると大津山城には小代実忠の尽力により大津山資冬が復帰した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、龍造寺隆信が筑後国に侵攻し、蒲池鎮並ら筑後国人衆は龍造寺隆信に降った。1579年、龍造寺隆信は田尻鑑種、蒲池鑑広らを降し、今山城主三池鎮実を攻撃した。小代実忠は援軍を送ったが鍋島直茂勢の攻撃を受け敗退した。三池鎮実は龍造寺隆信勢の攻撃を受け今山城は落城した。小代実忠、小代親泰親子は筒ヶ嶽城に籠城して鍋島直茂勢と戦ったが落城、小代実忠は龍造寺隆信に降伏した。

小代親忠【しょうだいちかただ(15??~15??)】

小代実忠の男。官途は伊勢守。龍造寺隆信の肥後国侵攻に際して、隈本城主の城親賢は島津義久と結んで対抗しようとしたため、小代親泰は大津山資冬、合志隆重らとともに「窪田の戦い」で島津義久勢と戦った。1581年、小代親忠は島津義久勢の上村城主大野親祐を攻撃し、大野親祐は城内にいた女たちを落すと、小代親泰勢を迎かえ撃ち全員討死した。

小代親秀【しょうだいちかひで(15??~15??)】

小代実忠の次男。官途は阿波守。

小代鎮泰【しょうだいあきやす(15??~15??)】

小代実忠の三男。通称藤内兵衛尉。

小代親泰【しょうだいちかやす(15??~15??)】

小代親忠の男。官途は下総守。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、北肥後国人衆の多くは島津義久勢に降伏した。1587年、「九州討伐」では、他の国人衆とともに羽柴秀吉勢に参陣して旧領安堵の朱印状を与えらえれた。肥後国の領主として佐々成政が入部すると、検地に反対して「肥後国人一揆」が起こるが、小代親泰は城久基、名和顕孝らとともに大坂にあったため、多くの国人衆が没落する中で所領を守ることができた。その後、一揆の責任を取り佐々成政が自刃すると、北肥後国を加藤清正が、南肥後国を小西行長が領した。小代親泰は加藤清正に仕え、小代親泰は芦北郡津奈木城に転封された4,135石を領した。

小代実長【しょうだいさねなが(15??~15??)】

小代親忠の次男。

小代重定【しょうだいしげさだ(15??~15??)】

小代親泰の男。官途は下総守。

城為冬【じょうためふゆ(14??~15??)】

山鹿郡城村城主。城冬時の男。菊池重朝家臣。官途は右京亮。菊池家三家老のひとり。隈部忠直とともに菊池重朝を補佐した。1481年、万句連歌では第二亭の席主(隈部忠直は第三亭の席主)。1503年、菊池氏の家督を簒奪した宇土為光討伐に協力し、乱後宇土城に在番した。1504年、菊池能運が病没すると、名和顕忠勢の攻撃を受け宇土城は落城した。

城為親【じょうためちか(15??~15??)】

城冬時の次男。官途は伊豆守。

城敏岑【じょうとしみね(15??~15??)】

城為冬の男。官途は大蔵大輔。

城重岑【じょうよりみね(15??~15??)】

城為冬の男。官途は越前守。1503年、菊池能運復帰戦に協力した。1505年、阿蘇惟長(菊池武経)迎立や菊池義武を菊池家の後継に擁立した立役者。1518年、大友義鑑の介入で菊池武包が菊池家臣団によって追放され、大友義鑑が弟菊池義武を菊池家に入れ肥後守護とした。菊池義武は城重岑、赤星親家、隈部親永ら菊池家三家老の強い権限を嫌い、鹿子木親員、田島重賢らの支持を得て、城為冬、赤星親家、隈部親永らは中枢から遠ざけられた。

城親冬【じょうちかふゆ(15??~1581)】

城重岑の男。官途は越前守。通称十郎太郎。別名城親賢。室は鹿子木親員の娘。大友義鑑勢に属して、菊池義武と対立した。1536年、菊池義武勢に属した鹿子木鎮有は大友義鎮に隈本城を追われ、城親冬が城主となり、菊池義武は大友義鑑から肥後国守護職を追われ大友義鑑みずからが肥後国守護職となった。1550年、「二階崩れの変」で大友義鑑が討死すると、菊池義武は鹿子木親員、田島重賢らの支持を得て隈本城に入った。大友義鎮は肥後国に侵攻して菊池義武を攻撃した。大友義鎮勢に属くして戦功を挙げ、菊池義武は相良晴広を頼って落延びた。大友義鎮は、隈府城に赤星親家を入れ、隈本城に城親冬を配した。隈本城主として飽田郡、託麻郡を支配した。

城重照【じょうしげてる(15??~15??)】

城重岑の次男。官途は下野守。

城政冬【じょうまさふゆ(15??~15??)】

城重岑の三男(井田重綱の養子)。

城親賢【じょうちかかた(15??~15??)】

城親冬の男。官途は越前守。1558年、父城親冬の隠居により、城家の家督を相続した。岳林寺を再建し、荒れ果てた領地を回復するため領民に植樹を勧め、京都の楽市を真似て庭師を招いて植木市を興行し産業育成を図った。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、大友義鎮の肥後国への影響力が低下した。城親賢は名和顕孝らとともに島津義久勢に属した。1580年、島津義久勢に属して甲斐宗運勢と白川旦過ノ瀬に戦ったが敗退した。1582年、龍造寺隆信が肥後国に侵攻すると降伏し、まもなく病没した。

城久基【じょうひさもと(1562~1588)】

城親賢の男。通称十郎太郎。1582年、父城親賢の病没により、城家の家督を相続したが、若年であったため叔父城親基の補佐を受けた。「九州征伐」後、大坂に呼び出されており、国人一揆には参陣しなかったため失領は免れたが筑後国石垣山に転封させられた。1588年、病没した。1582年、城親基は島津義久と結んで、龍造寺家政勢を「安楽寺の戦い」に撃破した。1586年、「九州征伐」では羽柴秀吉勢に属して島津義久勢と戦った。島津義久が降伏したのち、城久基は羽柴秀吉から8,000石をを所領安堵を受けたが、隈本城は収公された。「肥後国衆一揆」では、国衆一揆に関与することなく所領安堵を得たが、後に筑後国石垣山城に転封となった。1588年、石垣山城で病没した。

城親基【じょうちかもと(15??~1593)】

城親冬の次男(出田重基の養子)。官途は讃岐守。通称十郎太郎。別名出田一要。1581年、兄城親賢が病没すると、若年の城久基を補佐した。1582年、島津義久勢に属して龍造寺勢を肥後玉名安楽寺に撃破。「九州征伐」では島津義久と行動を異にし、本領安堵された。「肥後一揆」の際は大坂におり、失領は免れたが筑後国石垣山城に転封となった。1588年、城久基が病没すると、城家の家督を相続した。1593年、 城親基も病没したため、城家は断絶となった。

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【た】

高森惟直【たかもりこれなお(15??~1586)】

阿蘇郡高森城主。阿蘇惟将家臣。南郷七家の筆頭である高森惟居が一帯を治めた。1586年、「阿蘇の戦い」で、阿蘇惟将が島津義久勢に属したことに反発し、大友義鎮勢と結んだ。そのため、高森城は新納忠元勢の攻撃を受けた。高森惟直は大友義鎮に援軍を要請したが、それより前に新納忠元勢と決戦に臨んだが敗北。兵200人以上の討死を出し、高森惟直も討死した。

高森惟居【たかもりこれ(15??~15??)】

高森惟直の男。1586年、島津義久勢の攻撃を受け城主高森惟居が自刃し、高森城は落城した。高森惟居の娘(柏姫)が島津義久勢に斬られた。

多久宗員【たくむねかず(15??~15??)】

隈部親永家臣。山鹿郡鵠の巣城主。隈部親永の次席家老職。

多久宗貞【たくむねさだ(15??~15??)】

隈部親永家臣。山鹿郡熊入城主。

竹崎筑後守【たけさきちくごのかみ(15??~15??)】

本山惟久家臣。

田島重賢【たじましげかた(15??~15??)】

菊池義武家臣。1550年、鹿子木鑑有らとともに菊池義武を擁立した。

富田氏続【とみたうじつぐ(15??~15??)】

隈部親永家臣。山鹿郡日渡城主。

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【な】

長野惟久【ながのこれひさ(15??~1585)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡長野城主。1585年、島津義弘の攻撃を受け際、長野惟久は南郷城に入って討死した。

中村治部少輔【なかむらじぶしょうゆ(15??~15??)】

和仁親続家臣。

中村出羽守【なかむらでわのかみ(15??~15??)】

大津山家稜家臣。

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【は】

原野親宣【はらのちかのぶ(15??~15??)】

和仁親続家臣。通称藤弥太。

辺春親貞【へばるちかさだ(15??~15??)】

玉名郡坂本城主。官途は薩摩守。1582年、龍造寺隆信勢に属していた鷹尾城主田尻が謀反を起こすと、それに同調して、龍造寺隆信に謀反を起こした。龍造寺隆信勢は鷹尾城攻めに苦戦した。龍造寺隆信は、田尻攻めの手を緩め、小代実忠、大津山資冬に命じて、坂本城を攻撃した。辺春親貞勢は、酒井田統連、稲員安守勢の支援を受けて戦うが、鍋島直茂の知略により落城した。

辺春親行【へばるちかゆき(15??~1587)】

辺春親貞の男。官途は能登守。室は和仁親実の娘。1587年、「肥後国人一揆」では、和仁親実とともに田中城に籠城した。小早川秀包、安国寺恵瓊、立花宗茂、鍋島直茂、筑紫広門らの攻撃を受けてもよく守備したが、大津山資冬の内応により落城した。和仁親実、辺春親行らは斬頸になった。

辺春盛道【へばるもりみち(15??~1584)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡内牧城主。1584年、島津義久勢が侵攻すると、辺春盛道は内牧城に籠城したが、支えきれずに自刃した。

星子廉正【ほしこかどまさ(15??~1579)】

赤星統家家臣。長坂城主。官途は中務丞。1579年、龍造寺隆信、隈部親永らの攻撃を受けた。数日間の攻防の結果、城は落とされ、星子廉正は自刃した。

堀切種藤【ほりきりたねふじ(15??~15??)】

小代実忠家臣。玉名郡平山城主。

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【ま】

松尾親種【まつおちかたね(15??~15??)】

和仁親続家臣。官途は日向守。

松尾市正【まつおいちまさ(15??~15??)】

松尾親種の男。

光永宗甫【みつながそうほ(15??~1584)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡津森城主。1584年、「阿蘇の戦い」で、島津義久勢に徹底抗戦した。島津義久に降伏するがその後、再び反旗を抗った。島津義久勢の攻撃により、城親賢と合志隆重の手勢が崩れたのを見て総崩れに陥り、高森惟直、合志隆重、木山惟久らとともに討死した。

本山惟久【もとやまこれひさ(15??~15??)】

木山城主。別名本山惟貞。

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【や】

山鹿重安【やまげしげやす(15??~1587)】

隈部親永家臣。山鹿郡山鹿城主。1584年、島津義久勢が侵攻し、山鹿重安は降伏した。1587年、「肥後国衆一揆」が起こると、山鹿重安は隈部親永が籠城する城村城に入城した。開城後に自刃した。

吉田主水頭【よしだもんどのしょう(15??~1585)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡吉田城主。

吉田高房【よしだたかふさ(15??~15??)】

山鹿郡下山田城主。

和仁親続【わにちかつぐ(15??~15??)】

玉名郡田中城主。別名和仁弾正忠。肥後国五二人衆のひとり。菊地義武に仕えていたが、菊地義武が大友義鎮に滅ぼされると大友義鎮勢に属した。龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城、その後島津義久の支援を受け本領を回復した。

和仁親実【わにちかざね(15??~1587)】

和仁親続の男。通称勘解由。父和仁親続の病没後に田中城主となった。1587年、佐々成政の検地に対して、隈部親永らとともに「肥後国人一揆」を起こした。弟和仁親範と和仁親宗および姉婿辺春親行とともに田中城に籠城した。佐々成政は肥後国の各地で発生した国人一揆を単独で鎮圧できず援兵を求めた。羽柴秀吉は、小早川秀包、安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門ら兵10,000余りを肥後国に派遣した。和仁親実らは攻め手からよく城を守ったが、安国寺恵瓊による内応工作により落城、討死したした。

和仁親範【わにちなのり(15??~15??)】

和仁親続の次男。

和仁親宗【わにちかむね(15??~1587)】

和仁親続の三男。別名和仁人鬼。人相風体は身の丈七尺六寸もある大男。顔は真っ赤、目は光り輝き、手足は熊並だが動作は機敏で早いその風貌から 「人鬼」と称された。1587年、佐々成政の検地強行に抵抗して[肥後国人一揆」を起こした兄和仁親実とともに居城に籠城した。約二ヶ月抵抗したのち落城し討死した。

和仁統実【わにむねざね(15??~15??)】

和仁親実の次男。室は小野鎮幸の妹。1587年、「肥後国人一揆」では、立花宗茂にった。小野鎮幸を娶り、小野久右衛門と称した。

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【資料Ⅰ】

北肥後国(8郡/246,000石)

玉名郡:筒ヶ嶽城、田中城、坂本城。
山鹿郡:城村城、山鹿城。
菊池郡:隈府城。
阿蘇郡:高森城。
合志郡:竹迫城。
山本郡:内村城。
飽田郡:楠原城。
託麻郡:

※北肥後国という国は存在しません。個人的趣味として肥後国を北肥後国と南肥後国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

菊池家三家老【きくちけさんかろう】

赤星親家、隈部親永、城親冬。

菊池家五家老【きくちけごかろう】

赤星親家、隈部親永、鹿子木鑑有、田島重賢、木野親則。

和仁五人衆【わにごにんしゅう】

和仁親実、和仁親範、和仁親宗、中村治部、辺春親行。

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【資料Ⅲ】

北肥後国【きたひごのくに】

九州中央部に位置する西海道の国。北は筑肥山地を境に筑後国に接し、東北は阿蘇山の外輪山系で豊後国、東南は九州山地で日向国との国境を形成する。南は国見山山地の山々が薩摩国、大隅国と境を隔て、西は南北に有明海、島原湾、不知火海が続き、島原湾と不知火海を分ける宇土半島の先には。、大矢野島、天草諸島など数多くの島々が浮かぶ。三方を山に囲まれ、残る一方が海に面した地形で、豊後国、日向国との境界の山岳地帯から流れる球磨川、菊池川、緑川などの河川は、中流域の小国、阿曾、矢部、甲佐などの盆地地帯を通って、下流域の八代、菊池、熊本などの平野部を潤し、有明海、不知火海に注ぐ。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は、羽柴秀吉、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、高橋紹雲は高橋鎮種、陶晴賢は陶隆房の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「九州戦国合戦記」海鳥社、「大宰府戦国史」海鳥社、「筑前戦国史」葦書房、「筑後戦国史」葦書房、「九州戦国史」葦書房。「筑後争乱記(蒲池一族の興亡)」海鳥社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2014年10月7日火曜日

戦国隠岐国人名事典

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【あ】

青清資【あおきよすけ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。1499年、寺本清真とともに田地寄進状に署名した。

青清次【あおきよつぐ(15??~15??)】

隠岐豊清家臣。通称新次郎。1544年、文書に署名した。

稲葉信重【いなばのぶしげ(15??~15??)】

隠岐豊清家臣。1568年、国府尾神社の修造の作事奉行となった。

隠岐宗清【おきむねきよ(15??~1544)】

隠岐郡国府尾城主。隠岐清秀の男。隠岐国守護代。別名隠岐清政。父隠岐清秀の病没後、隠岐家の家督を相続して尼子政久に仕えた。1512年、村上右京亮に所領を安堵した。1514年、宝定寺重尊、村上清景らを奉行として隠岐国分寺を再興した。1523年、国府尾城を築いて宮田城から居城を移した。1530年、水若酢神社の忌部衆との対立から隠岐国の諸豪族が反乱を起こした。1541年、尼子晴久勢の援軍を得て都万城主都万宗林を攻撃した。都万宗林は、反尼子晴久である出雲国神西城主神西久通に援軍を求めたが、暴風雨のため渡海できず都万宗林は討死した。隠岐宗清は、那具城主桃井清信、小路城主箕面十郎、中村城主河渡、前島の福瀬ら諸豪族を討取り、隠岐国内を統一した。

隠岐豊清【おきとよきよ(15??~15??)】

隠岐宗清の男。1544年、父隠岐宗清菩提のため寺領を出雲清安寺に寄進した。

隠岐為清【おきためきよ(15??~1569)】

隠岐豊清の男。官途は隠岐守。1560年、尼子晴久の支持で本城常光を支援するなど、尼子晴久に属して山陰各地を転戦した。毛利元就が出雲国を支配すると毛利元就に属した。1569年、尼子家再興を図って来島した尼子勝久、山中幸盛‎らを支援して出雲国千酌に上陸したが、後尼子勝久、山中幸盛から離反したが、隠岐国に追われ自刃した。

隠岐清家【おききよいえ【(15??~1582)】

隠岐豊清の次男。1569年、兄隠岐為清が尼子勝久によって自刃させられた後、尼子勝久の支援により隠岐家の家督を相続した。1574年、毛利輝元から隠岐国を安堵された。1582年、隠岐家の家督を甥隠岐経清に譲り、隠岐経清と共に惣社大明神の修造をおこなった。1582年「本能寺の変」後の去就を巡って羽柴秀吉を支持する甥隠岐経清と対立して謀殺された。

隠岐景房【おきかげふさ(15??~15??)】

隠岐豊清の三男。1568年、兄隠岐為清らと共に国府尾神社の修造を行った。尼子勝久に属して参陣するも討死した。

隠岐経清【おきつねきよ(15??~1582)】

隠岐為清の男(隠岐清家の養子)。1582年、養父隠岐清家を謀殺して隠岐家の家督を相続して、羽柴秀吉に通じようとしたが、吉川元春から攻撃を受け自刃した。

隠岐為政【おきためまさ(15??~15??)】

隠岐経清の次男。官途は隠岐守。

隠岐清泰【おききよやす(15??~15??)】

隠岐経清の三男。官途は大和守。

隠岐幸清【おきゆききよ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。通称左衛門尉。1544年、隠岐豊清が、父隠岐宗清の遺言により清安寺に六町六反余を寄進した際に寄進状副状に署名した。1563年、焼火社に尼子義久の戦勝を祈願した。

隠岐清慶【おききよやす(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。通称右衛門尉。1544年、隠岐豊清が、父隠岐宗清の遺言により清安寺に六町六反余を寄進した際に寄進状副状に署名した。

飛鳥井雅賢【あすかいまさかた(1585~1626)】

飛鳥井雅庸の男。1608年、女官との密通事件により、隠岐国に流された。

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【か】

笠置宗右衛門【かさぎむねざえもん(15??~15??)】

三沢為清家臣。1484年、三沢為清から田二段の恩賞を得た。

笠置与三右衛門【かさぎよざえもん(15??~15??)】

笠置宗右衛門の男。1565年、「出雲白鹿の戦い」で、戦功を挙げ尼子義久より恩賞を受けた。

笠置宗右衛門【かさぎむねざえもん(15??~15??)】

笠置与三右衛門の男。1583年、簾吉政から所領を安堵された。1587年、簾吉章から隠岐道蓮名屋敷を安堵された。

笠置善左衛門【かさぎぜえもん(15??~15??)】

笠置宗右衛門の男。1590年、広島城主毛利輝元に謁見、美多荘公文職を安堵された。

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【さ】

斎藤重基【さいとうしげもと(15??~15??)】

高尾城主。官途は刑部少輔。

簾吉政【すだれよしまさ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。1583年、笠置宗右衛門に所領を安堵した。

簾忠昌【すだれただまさ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。1585年、隠岐焼火権現に社田を寄進した。

簾吉章【すだれよしあき(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。1587年、笠置宗右衛門に隠岐道蓮名屋敷を安堵した。

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【た】

都万義秀【つまむらよしひで(15??~15??)】

都万城主。都万豊前守の男。通称弥次郎。別名都万宗林。1532年、隠岐宗清勢と戦い敗北した。1541年、尼子晴久勢の援軍を得て都万宗林を攻撃した。都万宗林は、反尼子晴久である出雲国神西城主神西久通に援軍を求めたが、暴風雨のため渡海できず都万宗林は討死した。

寺本清真【てらもときよさだ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。1499年、青清資とともに、隠岐総社八幡宮に神田を寄進した。

寺本歳昌【てらもととしまさ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。通称助右衛門尉。1544年、文書に署名した。

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【な】

調査中。

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【は】

宝定寺重尊【ほうじょうじ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。1514年、村上清景とともに奉行衆として隠岐国分寺を再興した。

宝定寺慶久【ほうじょうじよしひさ(15??~15??)】

宝定寺重尊の男。通称与三右衛門尉。1544年、家臣連署副状に署名した。隠岐宗清の功に記した。

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【ま】

身代又六左衛門【みのしろろくざえもん(15??~15??)】

村上右京亮家臣。1566年、但馬国、丹後国の海賊が、海士郡因屋城を襲撃したが、村上右京亮、村上次郎三郎、村上助右衛門尉、村上孫次郎、今藤承一、今藤与次郎、伊藤孫六、田中運助、田平勘四郎、吉田助右衛門、吉田忠兵衛尉らが因屋城で防戦して、敵を敗走させた。

隠岐村上右京亮【むらかみうきょうのじょう(15??~15??)】

海士郡因屋城。隠岐国海賊衆。1512年、隠岐守護代隠岐宗清、海士郡公文職の田畠、八幡田新屋の所領安堵を受けた。1566年、但馬国、丹後国の海賊が、海士郡因屋城を襲撃したが、村上右京亮、村上次郎三郎、村上助右衛門尉、村上孫次郎、今藤承一、今藤与次郎、伊藤孫六、田中運助、田平勘四郎、吉田助右衛門、吉田忠兵衛尉、身代又六左衛門らが因屋城で防戦して、敵を敗走させた。

隠岐村上清景【むらかみきよかげ(15??~15??)】

隠岐宗清家臣。隠岐国海賊衆。1514年、宝定寺重尊とともに奉行衆として隠岐国分寺を再興した。

桃井清信【ももいきよのぶ(15??~1541)】

那具城主。1541年、隠岐宗清勢の攻撃を受け討死した。

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【や】

吉田助右衛門【よしだすけさえもん(15??~15??)】

村上右京亮家臣。1566年、但馬国、丹後国の海賊が、海士郡因屋城を襲撃したが、村上右京亮、村上次郎三郎、村上助右衛門尉、村上孫次郎、今藤承一、今藤与次郎、伊藤孫六、田中運助、田平勘四郎、吉田忠兵衛尉、身代又六左衛門らが因屋城で防戦して、敵を敗走させた。

吉田忠兵衛尉【よしだちゅうべいのじょう(15??~15??)】

村上右京亮家臣。1566年、但馬国、丹後国の海賊が、海士郡因屋城を襲撃したが、村上右京亮、村上次郎三郎、村上助右衛門尉、村上孫次郎、今藤承一、今藤与次郎、伊藤孫六、田中運助、田平勘四郎、吉田助右衛門、身代又六左衛門らが因屋城で防戦して、敵を敗走させた。

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【資料Ⅰ】

隠岐国(4郡/12,000石)

知夫郡
海部郡(海士郡)
周吉郡
隠地郡(穏地郡)

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【資料Ⅱ】

調査中。

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【資料Ⅲ】

隠岐国【おきのくに】

調査中。

水若酢神社【みずわかすじんじゃ】

島根県隠岐郡五箇村に鎮座。水若酢命を主神とし中言神、鈴御前を配祀した。海から上陸してきた航海の神。社伝では崇神天皇のとき、伊後の海岸に水若酢命が上陸、捧羽山を経て現在地よりやや西北の地に移り、当地方を開発、のち奉斎されたが洪水にあい現社地に遷座した。

西郷【さいごう】

隠岐国の国府、守護所に直属する港湾として隠岐国の水運の中心を占めた隠岐国島後の湊街。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、高橋紹雲は高橋鎮種、陶晴賢は陶隆房の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「九州戦国合戦記」海鳥社、「大宰府戦国史」海鳥社、「筑前戦国史」葦書房、「筑後戦国史」葦書房、「九州戦国史」葦書房。「筑後争乱記(蒲池一族の興亡)」海鳥社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2014年9月14日日曜日

伊達晴宗家臣団事典

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【あ】 

網代伯耆守【あじろほうきのかみ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。置賜郡長手古城主。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封に従った。その際、弟網代奥右エ門をこの地に残し天満宮の宮守として奉仕させた。

栗野右衛門【あわのうざえもん(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡二色根館主。梨郷、関根、中山などに所領を安堵された。枝連衆の栗野弥八郎も中丸に所領を安堵された。

粟野秀用【あわのひでもち(15??~1595)】

栗野右衛門の男。官途は木工頭。通称喜左衛門。伊達輝宗の次男伊達政道の傅役であったが、伊達政道が伊達政宗に謀殺されたため伊達家を出奔した。その後、羽柴秀次に仕え伊予国松前城150,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して自刃した。

鮎貝盛宗【あゆかいもりむね(15??~15??)】

置賜郡鮎貝城主。官途は兵庫頭。1542年、「天文伊達の乱」では、伊達植宗勢に属し、最上義守の支援を受けて南下した。、伊達晴宗勢を一旦は破ったが、伊達晴宗勢は、宮村館主片倉伊賀守を中心に力を盛り返した。伊達晴宗勢は野川を越え鮎貝盛宗を攻め、成田の飯沢館、五十川の諸館を攻落し、鮎貝盛宗勢を蚕桑村まで押し戻した。伊達晴宗は「今般の忠節により宮一円、小山一円、火神台一円三ヶ所を之に下賜す。永代相違あるべからざるものなり」と安堵状を与えた。乱後は、所領安堵と「守護不入」の特権が認められた。

鮎貝宗重【あゆかいむねしげ(1555~1624)】

鮎貝盛宗の男。官途は安房守。通称日傾斎。別名鮎貝盛次。1574年、「芋川の戦い」で戦功を挙げた。家督を伊達政宗に譲った伊達輝宗を、隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えた。1587年、嫡男鮎貝宗信が、最上義光の勧めで謀反を企て鮎貝城で謀反を起こした。鮎貝宗重は鮎貝宗信を説得したが聞き入れられず、弟高玉茂兵衛が城主を勤める高玉城に退出した。鮎貝宗重は直ちに事態を伊達政宗に告げてこれを攻めてもらうよう要請した。伊達政宗は、湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。鮎貝宗信は最上義光に援軍を要請したが、援軍を得られなかった。鮎貝宗信は籠城を諦め、最上義光のもとに落延びた。1591年、「奥州再仕置き」により、伊達政宗が岩出山城に転封しる際、鮎貝宗重もこれに従った。

鮎貝宗信【あゆかいわむねのぶ(15??~15??)】

鮎貝宗重の男。通称藤太郎。別名鮎貝忠旨。室は最上義守の娘。1587年、最上義光の勧めで謀反を起こした。父鮎貝宗重は伊達政宗にこれを密告した。伊達政宗は、湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。鮎貝宗信は最上義光に援軍を要請したが、援軍を得られず、鮎貝宗信は籠城を諦め、最上義光のもとに落延びた。鮎貝城に残された家臣100余りは伊達政宗勢に討取られた。

鮎貝宗益【あゆかいむねます(15??~15??)】

鮎貝宗重の次男。官途は兵庫頭。通称長七郎。1587年、兄鮎貝宗信が伊達政宗に謀反を起し没落すると、鮎貝家の家督を相続した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封になるとそれに従い一家の家格の筆頭となった。本吉郡松崎で1,000石を領し、泊浜唐船番所の海防警備を務めた。

鮎貝忠宗【あゆかいただむね(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。1585年、伊達政宗の家督相続を猪苗代盛国が祝賀したため、返礼の書状を送った。

飯田小十郎【いいだこじゅうろう(15??~15??)】

片倉景重家臣。片倉景綱の母方の叔父。猛将で、片倉景綱の名は飯田小十郎にあやかった。

石田興純【いしだおきずみ(1589~1636)】

伊達政宗家臣。通称石田将監。石田家は伊達家の庶家。石田興純は伊達政宗の近習として仕えた。1614年、「大坂冬の陣」は伊達政宗勢の左翼を指揮した。伊達政宗が病没すると他の家臣十四名とともに殉死した。

石田常信【いしだつねのぶ(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称八郎兵衛。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

伊藤宗良【いとうむねよし(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。1536年、伊達稙宗とともに政事式目百七十九条である『塵芥集』を定めた。

伊藤肥前守【いとうひぜんのかみ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」では、高倉城を守備した。戦後、次男伊藤利蔵が加増された。1588年、片倉景綱邸で伊達政宗を招いての能興行があった。能が終わると伊藤肥前らは片倉景綱とともに獅子躍りを踊った。1588年、芦名義広との「郡山城の戦い」の評定に出席した。

氏家直通【うじいえなおみち(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称藤左衛門。1614年、「大坂冬の陣」には参陣した。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

遠藤基信【えんどうもとのぶ(1532~1585)】

中野宗時家臣。官途は山城守。通称文七郎。遠藤基信は信夫郡八丁目城下西光寺の住職の男。諸国を巡り、その後米沢を訪れ中野宗時に仕えた。後に中野宗時が伊達輝宗に謀反を起こしたとき、中野宗時の謀反を直前に知らせて、伊達輝宗に取り立てられた。外交手腕に優れており、織田信長、松平元康、北条氏照、柴田勝家らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行った。織田信長と積極的に交誼するよう伊達輝宗に進言し、織田信長へ鷹や馬などの奥羽の特産を頻繁に贈った。後に伊達政宗の片腕となる片倉景綱を若年のうちに見い出し小姓に推挙した。1585年、伊達輝宗が畠山義継により拉致されて、伊達政宗に畠山義継もろとも銃撃されて討死すると伊達輝宗の墓前で殉死した。

遠藤宗信【えんどうむねのぶ(1572~1593)】

遠藤基信の男。通称文七郎。1585年、父遠藤基信が伊達輝宗に殉じて殉死したため遠藤家の家督を相続した。1588年、佐竹義重、岩城常隆連合との戦いでは田村城を死守するなど戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」でも伊達政宗に従い渡海し戦功を挙げた。一時出奔するが後に帰参した。1593年、京都で病没した。

遠藤玄信【えんどうげんしん(15??~15??)】

遠藤基信の次男。1593年、兄遠藤宗信の病没により遠藤家の家督を相続した。

遠藤盛利【えんどうもりとし(15??~15??)】

伊達政宗家臣。置賜郡志田館主。1591年、伊達政宗の岩出山城への転封には従わず置賜郡に残留した。1600年、「関ヶ原の役」では、越後長尾景勝に属して、上山方面軍の別働隊を指揮した。柏木峠と小穴峠を越えて塩崎の丘に陣を置いたが、この時に既に上山方面軍の本隊は最上義光勢の奇襲を受けて壊滅しており、遠藤盛利はこれ以上進軍できずに撤退した。二井宿まで撤退した遠藤盛利は、湯原の国人達が伊達家旧臣が寝返ったことを伝えられ、急いで街道の峠を抑えるために進軍し、玉ノ木原で湯原の軍勢と合戦となった。遠藤盛利は敗れて撤退するが、峠を越えて追撃してきた軍勢を静田橋で撃退した。

大立目右衛門【おおたちめうえもん(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。1553年、舟生彦五郎、中野常陸介、湯目式部、今野新左衛門らとともに横越郡の所領を安堵された。他に舟生式部の旧領も安堵され、舟生彦五郎、平大学助、鎌田与惣衛門も同様の処遇を受けた。枝連衆に大立目伊勢鶴、大立目彦江門らがいた。

大塚下総守【おおつかしもふさのかみ(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡大塚城主。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した。この戦功により嫡男大塚将監と共に「守護不入」の特権を得った。

大塚縄頼【おおつかつなより(15??~15??)】

大塚下総守の男。官途は将監。林崎館を安堵された。

大塚宗頼【おおつかぬねより(15??~15??)】

大塚縄頼の男。通称左衛門佐。1589年、伊達政宗の岩出山城への転封に従った。

大町三河守【おおまちみかわのかみ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」で、嫡男大町源四郎とともに討死した。

岡和田昌真【おかわだまさざね(15??~1615)】 
 
片倉景綱家臣。通称太郎左衛門。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

小原縫殿助【おばらぬいのすけ(15??~1589)】

伊達政道家臣。1589年、伊達政道が伊達政宗に謀殺されると、伊達政道の遺体を長谷寺に埋葬し、その五十間離れた場所に埋葬するよう遺言し、殉死した。

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【か】

片倉景時【かたくらかげとき(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡小桜城主。官途は伊豆守智勇兼備の名将。片倉家は加藤判官景廉を祖とし、その末裔が信州片倉村に住んでいた。建武年中大崎持詮に従って奥羽栗原郡に定住した。その後、片倉景時は伊達晴宗に仕え羽州置賜長井荘小松郷を領した。1542年、「伊達天文の乱」では伊達晴宗勢に属した。伊達稙宗勢の鮎貝盛宗、大立目朝安、最上義守の連合軍の南下を抑え、置賜郡内での伊達晴宗勢の勝利に貢献した。

片倉景親【かたくらかげちか(15??~15??)】

片倉景時の男。官途は壱岐守。通称意休斎。別名片倉頼高。父片倉景時の跡を継いで小桜城主となる。伊達輝宗、伊達政宗の二代に仕え、大内定綱への使者を務めた。伊達政宗が米沢城にいた頃、軍奉行として数々の戦に参陣した。弟片倉景重は米沢成島八幡神社の神職となった。嫡男片倉頼久が討死した後に、馬印を弟片倉景重の次男片倉景綱に譲った。

片倉景重【かたくらかげしげ(15??~15??)】

片倉景時の次男。官途は式部少輔。米沢八幡神主職。室は本沢真直の娘。先に鬼庭良直に嫁いでおり、鬼庭良直の娘を連れ子にしていた。

片倉景継【かたくらかげつぐ(15??~15??)】

片倉景重の男。

片倉景綱【かたくらかげつな(1557~1615)】

片倉景重の次男。官途は備中守。通称小十郎。室は矢内重定の娘。側室は上原五兵衛の娘。笛の名手。片倉景綱は遠藤基信に見出されて伊達輝宗の小姓に抜擢された。1575年、伊達輝宗の嫡男伊達政宗の近侍となった。疱瘡で片目を失った伊達政宗を補佐し、その知略で伊達政宗の参謀として活躍した。1585年、「人取橋の戦い」では伊達政宗を守り奮戦した。1589年、「摺上原の戦い」では第二陣を受け持ち、戦見物をしている農民たちに発砲して逃げさせた。これを味方の敗走と勘違いした芦名盛重勢は浮き足立ち敗走した。羽柴秀吉からの小田原参陣要求に伊達家では臣従するか、一戦交えるか揉めたが、片倉景綱は羽柴秀吉を蝿に例えて追い払ってもまた来ると言い、伊達政宗に参陣を決意させた。1592年、「文禄の役」でも活躍した。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝の白石城を攻略した。伊達成実や茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と称された。

片倉重長【かたくらしげつな(1585~1659)】

片倉景綱の男。通称小十郎。室は針生盛直の娘。継室は真田信繁の娘(阿梅姫)。生まれた時、片倉景綱はまだ子が無い伊達政宗を慮って幼い重長を殺そうとした。片倉重長は美丈夫で評判であったために、想いを寄せる小早川秀秋に追い掛け回された。勇猛果敢で「鬼の小十郎」の異名をとった。1600年、「白石城の戦い」で父片倉景綱とともに参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では奮戦し、後藤又兵衛や薄田隼人など名だたる勇将の軍を撃破し討取った。父片倉重長に劣らぬ知勇兼備の武将として活躍した。

片倉藤左衛門【かたぎりとうざえもん(15??~16??)】

片倉景重家臣。1588年、「郡山の戦い」に参陣した。

北川宣勝【きたがわのぶかつ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。浜田景隆の男。通称治郎兵衛。諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と称して羽柴秀頼に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では大坂城八町目口を守って奮戦した。羽柴秀頼より長宗我部盛親を指揮下に置くよう命ぜられるが「私が長宗我部盛親の下に付くのが道理」と固辞した。1615年、「大坂夏の陣」では「道明寺の戦い」「天王寺、岡山の戦い」で奮戦するも力及ばず。大坂城落城後は山川賢信とともに八幡滝本坊に隠れたがのちに投降した。

木幡四郎右衛門【きはたしろうざえもん(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1600年、「松川の戦い」で、挙げた頸級を、位牌の描かれた敵の軍旗に包んで持ち帰った。その戦功により、位牌の軍旗は木幡四郎右衛門の軍旗として使用された。

国分景広【こくぶかげひろ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。金谷館主。通称左衛門尉。1537年、『塵芥集』制定を任された。1542年、「伊達天文の乱」で伊達稙宗勢に属したため、伊達晴宗によって改易された。

国分民部少輔【こくぶみんぶしょうゆ(15??~15??)】

置賜郡萩生城主。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属して、萩生郷の南方は浜田左馬助、北方は国分民部少輔他七名の在地領主に安堵された。

国分行信【こくぶゆきのぶ(15??~15??)】

国分民部少輔の男。1591年、伊達政宗の転封に従って奥州柴田郡成田邑に移住した。

虎哉宗乙【こさいそういつ(1530~1611)】

臨済宗の僧。美濃国の出身で快川紹喜の門下として首座を務めた。伊達輝宗の叔父康甫が住職を勤める東昌寺に寓居していた。1572年、伊達輝宗の要請で資福寺の住持となり、伊達政宗の師を勤めた。1575年、明人の翰林学士楊一龍が東昌寺に寄寓した際、宗乙と詩を唱和した。京都妙心寺の住持にもなった。1587年、討死を遂げた伊達輝宗のため、伊達政宗を開基として米沢の郊外遠山に覚範寺を開いた。1600年、覚範寺を仙台に移転し、松島瑞巌寺の再興を伊達政宗に勧め再建させた。

後藤信康【ごとうのぶやす(1555~1614)】

伊達輝宗家臣。湯目重弘の次男(後藤信家養子)。官途は肥前守。通称孫兵衛。知勇兼備の将で黄色の母衣を背負って戦ったことから「黄後藤」と称された。1585年、芦名盛隆勢を攻略の別働隊として米沢城から桧原峠を越え、桧原城を攻略し守備した。1591年、「佐沼城の戦い」で敵将山上内膳を一騎打ちで倒し「宮崎城の戦い」では夜襲をかけ落城させたが軍令違反で知行没収となった。仙台城築城では普請総奉行を勤めた。1614年、「大坂冬の陣」では参陣を命ぜられなかったことに抗議するため愛馬「五島」にまたがり城の本丸から飛び降りて死んだ。

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【さ】

佐久間義直【さくまよしなお(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称与惣右衛門。別名作間与惣右衛門。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

桜田資親【さくらだすけちか(15??~15??)】

桜ノ倉城主。1584年、家臣の安田勘左衛門は河股城普請奉行となり、巨大な城郭を完成させた。桜田資親は河股城付近の館を整備し、伊達政宗の大内定綱の攻略戦を支援した。1590年、「奥州仕置」により玉造郡吉岡館に転封した。

桜田基親【さくらだもとちか(15??~1632)】

桜田資親の男。1589年、「摺上原の戦い」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、伊達政宗に属して「白石城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1602年、仙台城の築城に伴って賦役している百姓らが暴動を起こしたことがあったが、鬼庭綱元とともにこれを鎮圧した。1602年、仙台城の築城の際、農民が暴動を起こした鬼庭綱元とともにこれを鎮圧した。1615年、伊達秀宗の附家老となり、伊予国宇和島城主伊達秀宗を補佐して1,900石を領した。宇和島城に転封する際、伊達政宗から30,000両を借用していたが、この返済に税収の3割があてられ家臣の多くが減俸を余儀なくされた。これに反対する桜田基親は惣奉行の山家公頼と対立した。1620年、大坂城石垣修築を命じられた伊達秀宗は山家公頼と桜田基親を奉行として派遣した。工事の進捗状況に関しての伊達秀宗に対する報告で桜田基親は伊達秀宗に山家公頼が不正をしていると讒言し、疑われた山家公頼は伊達秀宗に弁明して帰国し謹慎した。山家公頼は桜田基親勢により襲撃されて謀殺された。

佐藤九郎右衛門【さとうくろううざえもん(15??~1615)】

片倉景綱家臣。白石城下に居住。1603年、片倉景綱は新たに居城となった白石城に入城。その際、門に近い神宮寺村から入ると方位が悪いため、宮村の佐藤九郎右衛門宅に入り、吉日を選んで入城した。以後、佐藤九郎右衛門は片倉景綱に仕えた。

渋谷右馬充【しぶやううまのじょう(15??~15??)】

片倉景綱家臣。1615年、「道明寺の戦い」で薄田兼相を討取る戦功を挙げた。伊達政宗からその戦功を賞され、黄金二枚を賜った。

白岩義広【しらいしごしひろ(1554~1591)】

伊達輝宗家臣。一本柳館主。1588年、「大崎の戦い」では陣代として参陣した。1590年、「摺上原の戦い」では後備を務めるなど、各地の戦いで活躍した。1591年、「宮崎城の戦い」で鉄砲に撃たれ討死した。

鈴木元信【すずき もとのぶ(1555~1620)】

伊達政宗家臣。官途は和泉守。通称七右衛門。京都の茶人であったが、その縁で伊達政宗と知り合い家臣となった。行政能力、財務能力に優れた才能を持っていたことから、伊達政宗の厚い信任を受けて古川城1,500石を領した。伊達政宗が仙台を留守中には国家老として政務を執った。分限帳では2,464石ながら家臣団の筆頭となった。鈴木元信は、伊達政宗が天下人になること、伊達幕府ができることを夢見て、伊達政宗が天下を取ったときのための「憲法」や「条々」などを用意した。1620年、伊達政宗が天下を取ることもないだろうと悟ってそれらを全て焼き捨てさせた。

鈴木重信【すずきしげのぶ(15??~16??)】

鈴木元信の男。

須田親信【すだちかのぶ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。官途は伯耆守。1582年、伊達輝宗が畠山義継に謀殺されると殉死した。

須田伯耆守【すだほうきのかみ(15??~15??)】

須田親信の男。官途は伯耆守。1582年、父須田親信が殉死したにも関わらず重用されなかったために出奔した。会津に移り、伊達政宗が一揆を扇動し蒲生氏郷暗殺を企んでいると訴えた。

須田良邦【すだよしくに(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称弥平左衛門。1615年、片倉景綱との殉死を願い「大坂夏の陣」への参陣を辞退しようとしたが、片倉重綱から参陣を懇願され参陣し討死した。須田良邦の跡目は、大和田常元の嫡男須田良持を婿養子にして継がせた。

制野高義【せいのたかよし(15??~1615)】

片倉景綱家臣。官途は下総介。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

瀬上中務【せがみなかつかさ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」では、中島伊勢守、桜田右兵衛とともに本宮城を守備した。

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【た】

大有康甫【だいゆうこうほ(1534~1618)】

伊達稙宗の十三男。東昌寺十四世住職。六歳で出家し、伊達家の外交僧として活躍した。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を伊達輝宗に伊達政宗の教育係として推挙した。1600年、千代北山に東昌寺を移した。伊達政宗が建立した東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と称された。観音寺と興福寺は長井家が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になった。

大林坊俊海【だいりんぼうしゅんかい(1567~15??)】

伊達政宗家臣。羽黒山の修験者。1585年、伊達政宗は諜報を担当する黒脛巾組を結成し首領に大林坊俊海に任じた。出羽三山は東北に大きな力を持ち、情報源として活用するには最適であった。1586年、「人取橋の戦い」において、圧倒的な数的不利に立たされた伊達政宗勢を救うため、敵の佐竹重義や芦名盛重の陣営に潜入し、流言飛語を用いて撤退させることに成功した。1589年、「摺上原の戦い」においても諜報活動に暗躍し、芦名盛重の備蓄状況や、戦場の天気などを伊達政宗へ進言することで戦況を有利に導いた。他にも最上義光の動向を伊達政宗に報告するなど優秀な間者であった。

高倉近江守【たかくらおおみのかみ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」で、高倉城を守備した。桑折摂津守らも同様に布陣した。大町高綱らは高倉で討死した。

高玉茂兵衛【たかたもへいえい(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。置賜郡高玉城主。

高橋秀行【たかはしひでゆき(15??~15??)】

置賜郡高橋館主。伊達輝宗家臣。官途は筑前守。

伊達晴宗【だてはるむね(1519~1577)】

置賜郡米沢城主。伊達稙宗の男。官途は左京大夫。奥州探題職。室は岩城重隆の娘(久保姫)。1542年、弟伊達実元の越後上杉家養子問題が起こると中野宗時、桑折景長に擁立され、父伊達植宗を西山城に幽閉した。伊達稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、伊達稙宗が奥州諸侯を糾合して伊達晴宗に対抗した。1542年、「伊達天文の乱」が勃発した。伊達晴宗勢は劣勢であったが、伊達稙宗勢であった芦名盛氏、田村清顕、二階堂照行が寝返ったことから形勢が逆転した。1555年、奥州探題就任。懸田俊宗、懸田義宗父子を滅ぼした。奥州諸侯の二階堂盛義、岩城親隆、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗に養子に入れ、阿南姫(二階堂盛義室)、女子(伊達実元室)、女子(小梁川盛宗室)、彦姫(芦名盛興室)、女子(佐竹義重室)を輿入れさせた。中野宗時はじめ七人の家老衆に特権を与えたため守護権が弱体した。1564年、次男伊達輝宗に伊達家の家督を譲って隠居したが、実権は依然として伊達晴宗と中野宗時らが保持した。

伊達輝宗【だててるむね(1544~1585)】

伊達晴宗の次男。官途は左京大夫。室は最上義守の娘(義姫)。長兄岩城親隆は母方の祖父岩城重隆の養子となったため次男伊達輝宗が伊達家の家督を相続した。家中の実権を中野宗時、牧野久仲父子に握られていた。1570年、伊達輝宗は、中野宗時、牧野久仲を討伐した。この際、非協力的だったとして、小梁川盛宗、白石宗利、宮内宗忠らが処罰し、遠藤基信を登用した。1565年、芦名盛氏と戦ったが、和睦した。相馬盛胤に「金山城」「小斎城」を奪取された。1570年、最上義光と最上義守との「天正最上の乱」では、最上義守に属して派兵したが、義姫が伊達輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた。鬼庭良直や中野宗時の家臣遠藤基信を登用した。1575年、遠藤基信に命じて織田信長に鷹を贈り、北条氏政、柴田勝家と頻繁に書簡、進物をやりとりして友好関係を構築した。1578年、「御館の乱」では、芦名盛氏とともに長尾三郎景虎勢に属したが、新発田長敦、新発田重家に阻まれて北越後国に侵入することができなかった。1581年、新発田重家が長尾景勝に叛旗を翻すと、伊達輝宗は芦名盛隆とともに新発田重家を支援し、柴田勝家とも連携して北越後国への介入を続けた。伊具郡では、叔父亘理元宗が指揮を執り、相馬盛胤、相馬義胤父子と対抗したが劣勢に立たされた。1579年、田村清顕の娘(愛姫)を伊達政宗の室に迎えた。1582年、小斎城主佐藤為信の調略し、丸森城を奪還後相馬盛胤と和議を結んだ。1584年、伊達家の家督を伊達政宗に譲り隠居した。1585年、伊達政宗が小浜城主大内定綱、二本松城主畠山義継を攻略、大父定綱は芦名盛氏のもとに落延び、畠山義継は伊達政宗と和議を結んだが所領問題から畠山義継に謀殺された。

伊達政宗【だてまさむね(1567~1636)】

伊達輝宗の男。官途は左京大夫。通称藤次郎。室は田村清顕の娘(愛姫)。幼少の頃、疱瘡を患い隻眼になったことから「独眼龍」と称された。名僧虎哉宗乙に教育され、片倉景綱らの補佐を受けた。1584年、父伊達輝宗の隠居により伊達家の家督を相続した。1585年、小浜城主大内定綱、二本松城主畠山義継を攻略し畠山義継と和議を結ぶが、畠山義継に伊達輝宗を謀殺された。伊達政宗は、再度二本松城を攻撃すると、佐竹義重、佐竹義宣、芦名亀王丸、二階堂阿南姫、岩城常隆、石川昭光、結城義親、結城義広、相馬義胤らを中心とする南奥州諸侯が援軍に駆けつけ伊達政宗勢と人取橋で激突した。伊達政宗勢は危機的状況に陥ったが鬼庭良直勢の奮戦により退却に成功した。小野崎義昌が謀殺され、水戸城主江戸重通や安房国里見義頼らが佐竹家領に侵入したという報により、佐竹義重勢が退却すると連合軍は瓦解した。1588年、大崎義隆の内紛に介入して兵10,000余りを侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎義隆勢の頑強な抵抗に遭い敗北した。最上義光が兵5,000余りを率いて大崎義隆を支援して、黒川郡、志田両郡の伊達政宗勢の諸城を攻略した。最上義姫の仲介により和議が成立した。1589年、芦名義広を磐梯山麓の「摺上原の戦い」で破った。芦名義広は佐竹義重のもとに落延びた。1590年、「小田原の役」では、羽柴秀吉に参陣した。仙道南部を没収されたが、置賜郡及び伊達郡など仙道北部諸郡、宮城郡など南部の諸郡は安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では松平元康勢に属して、長尾景勝勢の甘粕景継が守る白石城を攻略し、本庄繁長が守る福島城も攻撃した。1615年、「大坂夏の陣」では、騎馬鉄砲隊を率いて羽柴秀頼勢の後藤又兵衛基次を討取る戦功を挙げた。伊達政宗は新領地で北上川など河川改修や治水に努め新田開発、石巻港整備を進めた。

伊達政道【だてまさみち(1568~1590)】

伊達輝宗の次男。通称小次郎。芦名家の養子候補となったが芦名家は佐竹家から芦名義広を養子として迎えた。1590年、「小田原の役」に参陣して羽柴秀吉に恭順するかどうかを巡って、伊達政宗が窮地に陥った。義姫はこの機をとらえて伊達政道を伊達宗家を継がせようと画策したが失敗、伊達政道は謀殺された。義姫(保春院)は兄最上義光のもとに戻り、附家老の小原定綱は殉死した。

伊達秀雄【だてひでお(15??~1642)】

伊達輝宗の三男。通称鶴若。仏門に入り大悲願寺住職。1623年、伊達政宗は鮎漁の帰りに大悲願寺に立ち寄り、庭の見事な白萩を気に入り、後日所望した。そして、大悲願寺から伊達政宗に一本の白萩が献上された。

伊達秀宗【だてひでむね(1591~1658)】

伊達政宗の男。官途は遠江守。通称兵五郎。室は井伊直政の娘(亀姫)。1594年、人質として伏見城で養育された。1595年、「羽柴秀次事件」では、伊達政宗も罪に問われ、石川義宗、伊達成実、留守政景、亘理重宗、国分盛重、泉田重光、大條宗直、桑折宗長、白石宗実、石母田景頼、大内定綱、中島宗求、原田宗資、富塚信綱、遠藤玄信、片倉景綱、山岡重長、湯目景康、湯村親元らの連署による起請文提出を命じられた。1596年、羽柴秀吉の猶子となった。1600年、石田三成勢が松平元康に対して挙兵すると、石田三成勢の宇喜多秀家の邸で人質となった。1602年、松平元康に人質として差し出された。1611年、弟伊達忠宗が伊達宗家を相続することとなった。1614年、「大坂冬の陣」には、父伊達政宗とともに参陣した。役後、伊予国宇和島城100,000石を領した。宇和島城入部の際には侍大将、足軽他1,200名余りが従った。その際、伊達政宗より60,000両を借財した。1620年、山家公頼は、対立していた桜田元親に襲撃されて枝連衆とともに謀殺された。1653年、嫡男伊達宗時が早世したため、三男伊達宗利が宇和島伊達家の家督を相続した。

伊達忠宗【だてただむね(1600~1658)】

伊達政宗の次男。官途は左近衛権少将。通称総次郎。室は池田輝政の娘(振姫)。1607年、池田輝政の娘(振姫)が松平秀忠の養女として嫁いだ。1614年、兄伊達秀宗は「大坂冬の陣」に伊達政宗とともに参陣し、役後伊予国宇和島城100,000石を領した。1536年、父伊達政宗の病没により伊達家の家督を相続した。伊達忠宗は、家老衆六人(石母田宗頼、中島意成、茂庭良綱、奥山常良、津田頼康、古内重広)と奉行衆五人(津田景康、遠藤玄信、片倉重綱、古内義重、鴇田周如)を任じた。「寛永総検地」を実施して家臣団の知行地の再編を行った。1639年、仙台城に二の丸を造営したほか、寺社建築も幅広く行った。1637年、伊達政宗を祀るため瑞鳳殿、瑞鳳寺を建立した。嫡男伊達光宗が早世していたため、伊達家の家督は六男伊達綱宗が相続した。

伊達宗清【だてむねきよ(1600~1634)】

伊達政宗の三男(飯坂宗康の養子)。官途は河内守。別名飯沼宗清。黒川郡吉岡城38,000石を領した。1604年、飯坂宗康の養嗣子となり、後に伊達姓を賜り伊達河内守宗清と称した。1634年、病没したが嫡子がなく桑折重長の男桑折定長が家督を相続した。

伊達宗泰【だてむねや(1602~1638)】

伊達政宗の四男。官途は三河守。室は伊達宗利の娘(池照院)。傅役として山岡重長、安積重遠の二人が任じられた。1603年、岩出山城13,000石を領した。1626年、弟伊達宗高とともに江戸城へ上る兄伊達忠宗に随行し、松平元康に拝謁した。伊達政宗は伊達宗泰が松平秀忠に新恩給与によって大名へ取立られることを願い出たが実現しなかった。

伊達宗綱【だてむねつな(1603~1618)】

伊達政宗の五男。傅役として茂庭綱元が任ぜられた。1613年、伊達宗綱が養育されていた茂庭綱元邸に伊達政宗が出向いて元服式を行った。栗原郡岩ヶ崎城30,000石を領した。1616年、江戸城に登城し松平秀忠に拝謁した。岩ヶ崎伊達家の家督は伊達宗信が相続した。

手塚源右衛門【てづかげんえもん(15??~15??)】

鮎貝盛宗家臣。置賜郡平吹館主。1542年、「伊達天文の乱」では、鮎貝盛宗とともに伊達植宗勢に属した。1591年、伊達政宗の岩出山城転封には従わず帰農した。

富塚仲綱【とみづかなかつな(15??~1542)】

置賜郡洲島城主。官途は近江守。伊達稙宗のもとで評定衆として『塵介集』や『蔵方の掟』に連署した。1542年、「伊達天文の乱」では伊達稙宗勢に属して、戦いに敗れて討死した。洲島周辺は冨塚仲綱他七名により統治されいたが、乱以後は乱で勝利を収めた伊達晴宗勢に属した湯目雅樂允他五名により統治された。

富塚宗綱【とみづかむねつな(1543~1613)】

富塚仲綱の男。1542年、「伊達天文の乱」で、父富塚仲綱が伊達稙宗に属して討死したため伊達晴宗により所領を没収された。懸田俊宗の取り成しにより所領の一部を復して、伊達晴宗に仕えた。伊達輝宗の代になって再び宿老職に取立てられた。1589年、「人取橋の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で伊達政宗が肥前名護屋城に向かった後は岩出山城の留守役を務めた。和漢連句にも長じていた。

富塚信綱【とみづかのぶつな(15??~1627)】

富塚宗綱の男。1586年、「人取橋の戦い」で戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」でも戦功を挙げた。1622年、最上義俊が改易された際、伊達政宗の命を受け、伊達政宗の母保春院を仙台に連れて帰った。

富塚宗総【とみづかむねふさ(1583~16??)】

富塚宗綱の次男。1600年、直江兼続勢との戦いでは弟山川賢信ともに敵将を討ったが認められず、後に出奔した。1614年、「大坂冬の陣」では、柴田五左衛門と称して山川賢信とともに羽柴秀頼勢に属した。

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【な】

長倉彦兵衛【ながくらひこべい(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。長倉館主。1542年、「伊達天文の乱」で、枝連衆の長倉信濃守、長倉伊賀守らが伊達稙宗に属したため、伊達晴宗側に属した長倉彦兵衛が長倉家惣領職を継承し所領を安堵された。

中野宗時【なかのむねとき(1501~1571)】

伊達稙宗家臣。智謀に優れ、参謀として伊達稙宗、伊達晴宗、伊達輝宗の三代に仕えた。伊達稙宗の拡張政策に不満を持ち、越後上杉家への養子問題をきっかけに伊達晴宗を擁立して反逆「伊達天文の乱」を引き起こし、数年の抗争の末に勝利し、伊達稙宗を隠居に追い込んだ。中野宗時は伊達晴宗から特権を与えられ権勢を振るった。1564年、伊達輝宗は伊達晴宗を隠居させ実権を握るが、これは伊達晴宗が野心家である中野宗時の権勢を掣肘しきれなかったことが原因ともされている。1570年、中野宗時は牧野久仲とともに伊達輝宗に背いて反逆する「元亀の変」が敗北し、相馬家を頼って落ち延びた。その後、帰参を願ったが許さないまま病没した。

中野親時【なかのちかとき(15??~15??)】

中野宗時の男。室は桑折景長の娘。1536年、伊達稙宗とともに分国法である『塵芥集』の制定にあたって、父中野宗時とともに家老評定人として連署した。

錦織即休斎【にしきおりそくきゅうさいい(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「二本松城の戦い」の陣中で、伊達政宗より書を送られた。それ以後、茶会や料理の席に相伴した。佐竹義重と和議を結ぶと検使役を務めた。1589年、義姫が伊達政宗を毒殺しようと毒を盛った際、伊達政宗に薬を調進した。

新田景綱【にったかげつな(15??~15??)】

置賜郡館山城主。官途は遠江守。新田景綱の嫡男新田義直は中野宗時の孫娘を室にしていた。1570年、中野宗時の謀反に加担し、それを知った新田景綱は遠藤基信らと伊達輝宗に訴え、新田義直を館山城に滅ぼし、中野宗時らの追討勢を率いて小松城を攻め落とした。

新田義直【にったよしなお(15??~1570)】

新田景綱の男。館山城主。官途は遠江守。室は中野親時の娘。1570年、中野宗時、牧野久仲らが伊達輝宗に謀反を起こした際、中野宗時勢に属した。父新田景綱がこれを伊達輝宗に訴え出て、新田景綱に討伐された。

新田義綱【にったよしつな(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1588年、後藤信康とともに檜原城在番の功を賞された。

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【は】

浜田宗景【はまだむねかげ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。置賜郡一本柳城主。1536年、伊達稙宗とともに分国法である『塵芥集』の制定した。伊達郡と置賜郡で5,000石を領した。1536年、伊達稙宗が大崎義直を攻めた際に第二陣の大将を務めた。1546年、「伊達天文の大乱」では伊達晴宗に属して宿老職となった。

浜田景隆【はまだかげたか(1554~1591)】

浜田宗景の男。官途は伊豆守。伊達政宗からの信頼は厚く「摺上原の戦い」「人取橋の戦い」「中新田城の戦い」「二本松城の戦い」などで留守政景や泉田重光らとともにしばしば陣代を務めた。1591年、「葛西大崎一揆」では、加美郡宮崎城攻めの最中に被弾、討死した。

浜田景国【はまだかげくに(15??~15??)】

浜田景隆の男。通称四郎兵衛。4,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、敵将の頸級をあげるも伊達政宗の不興を買い出奔した。

浜田左馬助【はまださえもんのすけ(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。萩生郷南を安堵された。萩生郷北は国分民部少輔の他七名が安堵された。

原田宗政【はらだむねまさ(15??~1582)】

置賜郡原田城主。桑折宗長の次男。通称大蔵。原田家の家督を相続した。1582年、討死した。

原田宗時【はらだむねとき(1565~1593)】

山嶺源一郎の男(原田宗政の養子)。官途は左馬助。1582年、伯父原田宗政の討死により原田家の家督を相続した。1585年、牢人平田を派遣して芦名亀王丸勢の武将を内応させ、会津を攻めたが平田自身が敵方に走ったため敗北した。原田は後藤信康が自分を笑ったことを怒り、決闘を申し入れた。1585年、刈松田に参陣し、大内定綱に備えた。続いて本宮に参陣した。1588年、「郡山の戦い」では評定衆として活躍した。1592年、「文禄の役」に参陣する際、大太刀を背負い、金の鎖で結び、駿馬にまたがり現れた。1593年、対馬国で病没した。

原田宗資【はらだむねすけ(1582~1623)】

桑折宗長の四男(原田宗時の養子)。官途は甲斐守。室は伊達政宗の娘(津多姫)。1593年、「文禄の役」に参陣していた、従兄原田宗時が病没したため、伊達政宗の命により原田家を相続して牡鹿郡大瓜領を治めた。1595年、「羽柴秀次事件」に際し、連判状には父原田宗長とともに署名した。松平元康に帰国を命じられ、伊達政宗が相馬家領を通過する際、使者として赴き水谷胤重と会談して家中の説得を依頼し、相馬義胤から領内通過の許可を得ることに成功した。1606年、伊達政宗の娘(五郎八姫)と松平忠輝との婚礼の際には、貝桶渡しの役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、柴田郡船岡城主となった。原田家の家督は嫡男原田宗輔が家督を相続した。この原田宗輔が「伊達騒動」で有名な原田甲斐。

布瀬備後守【ふせびんごのかみ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」で、嫡男布施弥七郎とともに討死した。

舟山伊賀守【ふなやまいがのかみ(15??~15??)】

山岡重長家臣。1600年、「白石城の戦い」に参陣した。南門脇の堀を登り、城内に入って斧で閂を破壊する戦功を挙げた。

本沢真直【ほんざわまさなお(15??~15??)】

片倉景重家臣。官途は刑部。片倉景綱の母方の祖父。娘は鬼庭良直に嫁ぐが離婚、片倉景重と再婚した。片倉景重との間に片倉景綱が生まれた。

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【ま】

牧野宗興【まきのむねおき(15??~1542)】

伊達稙宗家臣。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属したが、伊達稙宗勢の攻撃を受け嫡男牧野景仲とともに討死した。中野宗時の次男が家督を継いだ。

牧野久仲【まきのひさなか(1529~15??)】

中野宗時の次男。父中野宗時は伊達晴宗の重臣として権勢を振るった。牧野久仲は伊達家の守護代を務める名族である牧野家の養嗣子となった。
1570年、伊達晴宗を継いだ伊達輝宗に不満な中野宗時は反乱を起こし、牧野宗時もこれに同調したが失敗し、ともに流浪の身となる。父中野宗時の病没後、帰参を望んだがその望みは牧野久仲の孫の代まで叶えられる事はなかった。

真山式部【まやましきぶ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1591年、伊達政宗は岩出山城に移った。その際、伊達家の氏神である米沢成島八幡宮を岩出山城に分祀した。大崎八幡宮を岩出山城に遷座し、両社を合祀した。1604年、伊達政宗は真山式部を大崎八幡宮造営奉行に任命し、仙台に神社を創建した。1607年、大崎八幡宮を仙台に遷座した。

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【や】

屋代閑盛【やしろそうもり(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。置賜郡屋代館主。

屋代修理【やしろしゅり(15??~15??)】

屋代閑盛の男。罪を受け所領は没収された。嫡男の鹿股源六郎は鹿股家に養子に入ったため、次男の屋代景頼が屋代家を継いだ。

屋代景頼【やしろかげより(1563~1608)】

屋代修理の次男。通称勘解由兵衛。屋代景頼は伊達政宗に仕えて旧領を回復した。1590年、「葛西、大崎一揆」では一揆を起こした物頭衆をだまし討ちで皆殺しにした。1592年、「文禄の役」では、岩出山城の留守を預かり、国政を取り仕切った。1596年、伊達成実が伊達政宗の命に背き、高野山へ出奔すると伊達成実の居城角田城を攻撃して、伊達成実の妻子や家臣を討取った。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光への援軍として直江兼続率いる長尾景勝勢と戦った。「福島城の戦い」でも第二陣も務めた。1607年、驕った振る舞いが多いという理由で所領を没収された。

矢内重定【やないしげさだ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。米沢城下大街の検断職に任じられた。娘が片倉景綱に嫁ぎ、嫡男片倉重綱をもうけた。伊達政宗が仙台城に移った際、仙台大街の検断職を務めた。

柳原戸兵衛【やなぎはら とへえ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。伊達政宗が安部重定に命じて編成した黒脛巾組の組頭となった。組頭は柳原戸兵衛と世瀬蔵人が勤めた。陸奥国南方の調略活動を担当していた安部重定の指揮下で、世瀬蔵人とともに下忍50人を率いて諜報、流言任務に携わった。

山村矩義【やまむらかねよし(15??~1615)】 

片倉景綱家臣。通称六右衛門。片倉景綱と殉死と約束をするほど結束が深かった。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して、殉死が出来なくなることを心配していたが、片倉景綱から嫡男片倉重長とともに戦うよう求められ参陣した。「道明寺の戦い」で討死したため、殉死こそ果たせなかったが、片倉家では山村矩義を殉死者のひとりとした。

山川賢信【やまかわかねのぶ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。富塚宗綱の次男。官途は帯刀。別名富塚小平二。伊達政宗に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢と戦い戦功を挙げたが、その戦功を認められず伊達政宗のもとを出奔した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢の後藤基次に属して八丁目口の守備を守備した。1615年、「道明寺の戦い」で奮戦するも及ばず、北川宣勝とともに八幡滝本坊に落延びた。松平元康に罪を許され、その後松浦隆信に仕えた。

山家公頼【やんべきみより(1579~1620)】

伊達秀宗家臣。通称清兵衛。伊達政宗に仕えて頭角を現し、伊達秀宗が伊予国宇和島城100,000石を領した際、筆頭家老として附けられた。伊達政宗や松平元康との関係調節に苦慮した。伊達政宗から借入れた60,000両の返済のために、伊達政宗に隠居料として30,000石を割くことで借財返済を繰り延べをおこなった。この行為が伊達秀宗や桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた。1620年、伊達秀宗の命を受けた家臣達が山家邸を襲撃、山家公頼は討取られた。

結城治部【ゆうじじぶ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。置賜郡深沼西館主。1591年、伊達政宗の岩出山城の転封には従わず、長尾景勝に仕えた。米沢城に樋口兼続が入ると、春日元忠に属して、結城治部は、安部右馬之助、石岡丹波守らとともに白龍湖周辺を開墾した。

湯目重康【ゆのめしげやす(15??~15??)】

置賜郡筑茂城主。室は大津光本の娘。湯目家は置賜郡の在地豪族で、南北朝時代に伊達家が置賜郡を攻略するとその家臣となった。

湯目景康【ゆのめかげやす(1564~1638)】

湯目重康の男。官途は豊前守。別名津田景康。室は高泉隆景の娘(西姫)。1577年、伊達政宗が元服するとその側近となり「人取橋の戦い」「摺上原の戦い」「葛西大崎一揆」鎮圧戦などに参陣した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封されると栗原郡佐沼城主となり1,500石を領した。1595年、伊達政宗が「羽柴秀次事件」に関与したとして謹慎を命じられた際には、中島宗求とともに伏見の津田が原にて羽柴秀吉に直訴し、処分を解くことに成功した。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。

湯目重旧【ゆのめしげひさ(15??~1600)】

伊達輝宗家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、最上義光の援軍として送られていた。石田三成勢の敗北により撤退を開始した樋口兼続勢への追撃戦で討死した。

世瀬蔵人【よせ くらんど(15??~15??)】

伊達政宗家臣。伊達政宗の諜報機関として安部重定により作られた黒脛巾組の組頭に就任した。柳原戸兵衛とともにこれを務めた。安倍重定が伊達の諜報を取り仕切っていたので、そのまま彼の指揮下に戸兵衛とともに入った。太宰金助、大林坊俊海ら下忍50人を率いて伊達政宗の戦を裏で支えた。

立石寺円海【りゅうしゃくじえんかい(15??~15??)】

最上郡立石寺住職。1521年、伊達家と最上、寒河江家らと諸族の戦乱がおこり、立石寺が伊達家に味方したことにより天童頼長が立石寺を攻撃し、寺領を侵略し寺中はことごとく破滅した。1543年、立石寺円海(沙門一相坊円海)がその荒廃をなげき、最上義守の実母春還芳公禅尼を大檀那に、比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に諸堂を修築した。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより延暦寺の法灯が焼失したさい、逆に分灯した。

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【資料Ⅰ】

羽前国(4郡/320,000石)

田川郡:鶴ヶ岡(大宝寺)城、松根城。
最上郡:清水城、鮭延城。 
村山郡:山形城、寒河江城、延沢城。
置賜郡:米沢城、高畠城、鮎貝城。

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【資料Ⅱ】

黒脛巾組【くろはばきぐみ】

伊達政宗が信夫郡鳥屋の城主安部対馬重定に命じて、鼠になれたる者50人をえらみ扶持を与へこれを黒脛巾組と称した。柳原戸兵衛、世瀬蔵人、佐々木左近、気仙沼左近、横山隼人、逸物惣右衛門を首長とした。

伊達家四十八館【だてけよんじゅうはったて】

館山城主:伊達晴宗、米沢城主:伊達輝宗、兵庫館主:遠藤兵庫信秋、赤坂館主:遠藤丹後守、高橋館主:高橋筑前守秀行、大桐館主:多田木左馬頭、土肥単館主:土肥単備中守、白旗館主:小梁川泥藩、戸内館主:山鷺氏、戸坂山館主:大津土佐守、三沢館主:富沢飛騨守高祖、蛇口館主:須藤備中守夏館、樋口館主:須藤備中守冬館、原田館主:原田典膳、錦戸館主:遠藤三右衛門、橋本館主:橋本区蔵人、本郷館主:本郷入道教信、栖島館主:湯野目肥前守宗厚、元館主:遠藤氏、館ノ山館主:網代伯耆守、笹館主:佐々若狭守友清、館ノ崎館主:後藤孫兵衛信康、後藤館主:二宮万五郎恒宗、新宿館主:遠藤吉兵衛、高畠館主:伊達氏主城、塩森館主:塩森兵庫頭、熊坂館主:熊坂宇右衛門、深沼西館主:結城治部、一本柳館主:浜田伊豆守、館ノ山館主:飯坂佐衛門蔵人、小豆館主:舟橋頼母重宗、中島館主:安藤東次郎照明、入生田館主:入生田三左衛門、糠野目館主:伊達周防守、夏刈館主:伊達氏夏館、筑茂館主:小梁川泥藩、中瀬館主:中瀬和泉守、大橋館主:湯ノ目資綱、小塚館主:小野武豊、中山館主:中山弥太郎、二色根館主:粟野喜左衛門、蒲生田館主:大津土佐守、矢ノ目館主:矢野目市三郎、落合館主:落合堂伊賀守好盛、和泉館主:吉田冠者惟益、増田館主:梨郷館主:増田摂津守輿隆、大塚城主:大塚左衛門佐宗頼、林崎館主:林崎氏、治兵衛館主:那須治兵衛、桑島館主:桑島信左衛門信国、大石館主:太宰信九郎、粘町館主:山田主殿、中小松城:中野常陸介、藤ヶ森館主:原田甲斐守、片倉館主:片倉小十郎、大舟館主:兵庫頭康長、京ヶ森館主:二階堂駿河守、谷地館主:佐藤筑前守、石川館主:石川氏、鳴島館主:遠藤丹後守、荒砥城主:桑島和泉守、鮎貝城主:鮎貝太郎盛宗、高玉城主:高玉茂兵衛、小桜城主:片倉小十郎景綱、萩生城主:国部源三行信、添川館主:大立目遠江守、黒沢館:阿久津氏、手ノ子館主:遠藤四郎左衛門、小国城主:上郡山民部盛為、轟館主:遠藤宗寿。

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【資料Ⅲ】

羽前国【うぜんのこく】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2014年8月2日土曜日

戦国東肥前国人名事典

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【あ】

赤崎伊予守【あかざきいよのかみ(15??~15??)】

松浦郡佐世保城主。相神浦松浦親家臣。通称伊代。室は遠藤盛胤の娘。遠藤盛胤とともに佐世保城を守備した。松浦親が飯盛山城退去すると、松浦隆信に仕えた。松浦親が遠藤盛胤を謀殺した際には、松浦親勢に属した。 

悪太左市【あくたさいち(15??~1586)】

松浦隆信家臣。松浦隆信の命をうけ佐々清左衛門、佐志方杢兵衛、中倉甲右衛門とともに遠藤盛胤の嫡男遠藤右近を討取った。1572年、「佐志方城の戦い」では、大村純忠に寝返った針尾三郎衛門を討取る戦功を挙げた。

朝日頼貫【あさひよりつぐ(15??~15??)】

養父郡朝日山城主。少弐資元家臣。東肥前国十九城将のひとり。1528年、大内義興勢の攻撃を受け落城した。1530年、大内義隆は少弐資元を討伐するため杉興運らを派遣し、朝日頼貫、筑紫尚門らを降伏させた。

朝日宗贇【あさひむねよし(15??~15??)】
  
朝日頼貫家臣。官途は近江守。

姉川惟安【あねかわこれやす(15??~15??)】

神崎郡姉川城主。少弐資元家臣。官途は中務大輔。東肥前国十九城将のひとり。1545年、馬場頼周が水ヶ江城主龍造寺家兼を妬んでその枝連衆を謀殺するという事件を起こした。その際は少弐冬尚に属して参陣して戦功を挙げた。1546年、馬場頼周はに龍造寺家兼の反撃を受け討死し、少弐冬尚も龍造寺家兼と対立することとなった。1555年、少弐冬尚が龍造寺隆信の攻撃を受け自刃すると、姉川惟安も龍造寺隆信に降伏した。1570年、「今山の戦い」では、大友義鎮勢に属したが大敗後、再び龍造寺隆信に属した。

姉川信安【あねがわのぶやす(15??~15??)】

姉川惟安の男。官途は中務大輔。1570年、龍造寺隆信の「少弐政興討伐」に参陣して戦功を挙げ、三根郡米田に1,000石を領した。土肥家実らとともに三根郡米田を守備した。1581年、龍造寺政家の「肥後国討伐」に参陣した。

姉川信秀【あねがわのぶひで(15??~15??)】

姉川惟安家臣。通称兵庫助。1581年、龍造寺政家の「肥後国討伐」に参陣した。1583年、肥後玉名郡横島の城に転封し大野別府の太田家豊らとともに横島城を守備した。

綾部鎮幸【あやべ しげゆき(15??~15??)】

三根郡綾部城主。綾部泰幸の男。官途は備前守。東肥前国十九城将のひとり。1551年、村中城主龍造寺隆信の本家の家督相続に反対して、龍造寺鑑兼に属して龍造寺隆信と対立した。1558年、龍造寺隆信は江上武種が少弐各尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻撃した際は、龍造寺隆信勢に属した。1565年、「少弐政興討伐」に参陣した。

綾部茂幸【あやべしげゆき(15??~15??)】

綾部鎮幸家臣。鷹取山城主。

安住家能【あんじゅういえよし(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。安住秀能の兄。官途は安芸守。1570年、「今山の戦い」では、納富信安、成松信勝、秀島信純、諸岡信良、成富信種、西村家秀、倉町信吉、倉町信光、円城寺信胤らとともに参陣した。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。

安住秀能【あんじゅうひでよし(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。安住家能の弟。官途は石見守。室は鍋島清房の娘(次女)。1569年、「多布施口の戦い」に参陣した。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。

出雲氏忠【いずもうじただ(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。官途は民部大輔。通称太郎次郎。東肥前国十九城将のひとり。1581年、龍造寺政家の「肥後国討伐」に参陣した。

東犬塚鎮直【いんつかしげなお(15??~1569)】

神埼郡崎村城主。犬塚鑑直の男。1569年、大友義鎮が龍造寺隆信を攻撃した際、龍造寺隆信勢に属して、大友義鎮勢に属した犬塚尚重と戦ってともに討死した。

東犬塚家広【いんつかいえひろ(15??~15??)】

犬塚鎮直の男。通称三郎右衛門。1572年、龍造寺隆信が東肥前国に侵攻すると、養父郡に転封した。姉川信安、土肥家実らとともに養父郡、三根郡を守備した。
西犬塚家重【いんつかいえしげ(15??~15??)】

神埼郡蒲田江城主。犬塚家貞の次男。官途は伯耆守。東肥前国十九城将のひとり。少弐冬尚と龍造寺隆信が対立すると龍造寺隆信勢の属した。

西犬塚尚重【いんつかなおしげ(15??~1569)】

犬塚家重の男。官途は民部大輔。室は龍造寺家和の娘。1569年、大友義鎮が龍造寺隆信を攻めた際、大友義鎮勢に属した。龍造寺隆信勢に属した犬塚鎮直と戦ってともに討死した。

西犬塚茂続【いんつかしげつぐ(15??~15??)】

犬塚尚重の男。通称与右衛門。別名龍造寺信尚。1569年、大友義鎮が龍造寺隆信を攻めた際、大友義鎮勢に属した犬塚尚重は、龍造寺隆信勢に属した犬塚鎮直と戦ってともに討死したため、龍造寺隆信に養育されて龍造寺信尚と称した。のちに父の遺領を継いで犬塚茂続と改めた。

小松犬塚鎮家【いぬづかしげいえ(15??~15??)】

犬塚家重家臣。神埼郡小松城主。犬塚家清の男。官途は播磨守。別名犬塚盛家。龍造寺隆信の武勇優れた四人(大村弾正、犬塚弾正、百武志摩守、上瀧志摩守)を藤津両弾二島と称した。1530年、「田手畷の戦い」では父犬塚家清とともに少弐資元に属して大内義隆勢と戦った。1569年、東犬塚鎮直と西犬塚尚重の抗争では西犬塚尚重に属した。1576年、「横澤城の戦い」では先鋒を務めた。1581年、龍造寺政家の「肥後侵攻」に参陣した。

小松犬塚鎮盛【いぬづかしげもり(15??~15??)】
犬塚鎮家の男。通称掃部助。

石井忠義【いしいただよし(15??~15??)】

佐嘉郡飯盛城主。千葉胤連家臣。嫡男石井忠清、次男石井忠繁らとともに、龍造寺家兼に仕えた。

石井忠清【いしいただきよ(15??~15??)】

石井忠義の男。官途は和泉守。室は飯盛肥前守の娘。継室は龍造寺家純の娘。父石井忠義や盟友鍋島清久とともに龍造寺家兼に属した。1530年、「田手畷の戦い」では鍋島清久、鍋島清房とともに、赤熊の面を被った奇襲部隊を指揮して、龍造寺家兼勢を支援し、その勝利に貢献した。これを契機に、鍋島清房とともに龍造寺家兼に重く用いられるようになった。龍造寺家兼および龍造寺隆信が、肥前国人衆や家臣の謀反により、佐賀城を追われ筑後国に落ち延びた際にも、鍋島清房とともに、龍造寺家兼の復権を目指し挙兵するなどした。実弟石井忠繁、石井義昌、石井忠本、石井兼清とともに石井党を形成した。

石井忠繁【いしいただしげ(15??~15??)】

石井忠義の次男。官途は石見守。室は大乗坊長勝の娘。龍造寺家兼、龍造寺隆信二代に仕えた。龍造寺家兼が佐賀城から筑後国に落延びた際、、再起のために奮闘した。石井忠高、石井忠次、石井忠尊の龍造寺隆信勢の勇将だったが三人とも討死した。石見守家の嫡家は後に断絶したが、曾孫石井茂里、石井茂賢兄弟はそれぞれ横岳鍋島家、深堀鍋島家を興し、家老職となった。

石井忠高【いしいただたか(15??~15??)】

石井忠繁の男。

石井忠次【いしいただつぐ(15??~1565)】

石井忠繁の次男。官途は石見守。通称新右衛門。室は牛島家泰の娘。1565年、龍造寺隆信が、三根郡中野城主馬場鑑周を攻撃した際、嫡男石井忠修、次男石井信忠とともに先鋒に任じられた。石井忠修は一番槍の戦功を挙げたが討死にし、石井忠次もまた忠修に続いて敵陣に突入し討死した。父子の奮闘が中野城攻略の突破口を開いた。

石井忠尊【いしいただのり(15??~15??)】

石井忠繁の三男。通称孫三郎。1570年、肥前国に侵攻した大友義鎮勢への備えのため、龍造寺隆信の命を受けて高尾村に布陣した。田尻鑑種の勢と交戦した。劣勢の石井忠尊らは討死したが、田尻鑑種勢は攻略を諦め撤兵した。

石井正国【いしいまさくに(15??~15??)】

石井忠尊の男。

石井義昌【いしいよしまさ(15??~15??)】

石井忠義の三男。

石井忠本【いしいただもと(15??~15??)】

石井忠義の四男。

石井兼清【いしいかねきよ(15??~1557)】

石井忠義の五男。官途は尾張守。通称藤兵衛尉。別名石井忠房。室は於保宗益の娘。晴気城主千葉胤連に仕えていたが、父石井忠義や兄石井忠清らとともに龍造寺家兼に仕えた。龍造寺家兼が病死すると、石井兼清は龍造寺隆信の擁立に主導的な役割を果した。石井兼清は、龍造寺隆信が出家していた宝琳院に手勢を率いて出迎え、佐賀城内の自邸を御座所として迎え、還俗、元服の儀式の一切を取り仕切った。龍造寺隆信が佐賀城を追われて筑後国に落延びた際も、旧領回復に貢献した。龍造寺隆信が、村中龍造寺宗家を相続する際、水ヶ江龍造寺家の家督を弟龍造寺長信に譲ったが、石井兼清は龍造寺長信の執権を命じられた。1557年、「鉄布峠の戦い」では、石井兼清も小河信安とともに参陣したが、神代勝利勢の山伏阿含坊に狙撃され討死した。

石井忠修【いしいただみち(15??~15??)】

石井忠次の男。通称源次郎。武道に優れ、義兄石井常忠や馬渡刑部少輔、倉町太郎五郎とともに、龍造寺隆信の馬廻衆を務め、「無双の荒武者」と称された。戦陣にあっては、龍造寺隆信の身辺を守護した。1565年、龍造寺隆信は、三根郡中野城主馬場鑑周を攻撃、石井忠修は先鋒を務め、敵陣に斬り込むが奮戦及ばず討死した。

石井信忠【いしいのぶただ(15??~1584)】

石井忠次の次男。官途は安芸守。室は石井忠俊の娘(大宝院)。父石井忠次、兄石井忠修らとともに龍造寺隆信に仕えた。嫡男鍋島茂里を鍋島直茂の養子に出すが、鍋島勝茂が生まれたため養子縁組を解消しようとしたが、鍋島直茂が応じず、鍋島茂里の家系は横岳鍋島家、深堀鍋島家として栄えた。1584年、龍造寺隆信の馬廻衆として「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。

石井常忠【いしいつねただ(15??~1583)】

石井常延の男。官途は和泉守。室は石井忠次の娘。武道に優れていたため、龍造寺隆信の馬廻衆として戦功を挙げた。馬渡刑部少輔、倉町太郎五郎、石井源次郎とともに「無双の荒武者」と称された。戦いの際は、龍造寺隆信の身辺を警護した。

石井信易【いしいのぶやす(15??~15??)】

石井常忠の男。官途は大膳亮。室は川副宮内の娘。1583年、父石井常忠の病没により石井家の家督を相続した。1584年、「沖田畷の戦い」では、馬廻衆として出陣し、龍造寺隆信を守ったが、本陣壊滅により龍造寺隆信とともに討死した。嫡男がなかったため、石井忠易の次男石井信易の娘を娶り、家督を相続した。

石井忠易【いしいただやす(15??~15??)】

石井忠時の次男(石井信易の養子)。通称三右衛門。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣し、敵将を討取る戦功を挙げた。その後、「沖田畷の戦い」で討死した宗家の石井信易の娘を室に迎え、その跡を継いだ。鍋島直茂が羽柴秀吉に降ると、鍋島茂里や鍋島茂賢とともに人質として、小早川隆景のもとに差し遣わされた。

石井重次【いしいしげつぐ(15??~15??)】

石井忠時の男。通称孫左衛門。室は石井忠清の娘。1584年、「沖田畷の戦い」では、宗家の石井信易とその弟石井信忠が討死したため、和泉守家の家勢が衰える一方、庶家の石井忠時、石井重次父子が重用された。後に鍋島直茂より蓮池城を与えられ、本丸城代となった。

石井義元【いしいよしもと(15??~1602)】

龍造寺隆信家臣。石井彦十郎の次男。別名石井生札。1590年、蓮池城の天守を名護屋城大手櫓に移築した際、鍋島直茂のもとで石井茂里、久納茂俊とともに奉行を務めた。1584年、「島原の役」に参陣した。鍋島生三、下村生運とともに「三生」と称された。1592年、「文禄の役」では石井忠種とともに後方支援部隊を指揮して、物資運送の奉行を務めた。1600年、「柳川城の戦い」では、石井茂利とともに船大将をつとめ、鍋島家海賊衆を率いた。

一部大和守【いちぶやまとのかみ(15??~1564)】

松浦弘定家臣。生月島城主。籠手田安昌とともに松浦弘定の勢力下に入った。松浦親との戦いで討死した。娘婿の松浦信賢が一時家督を相続するが、まもなく病没した。 
 
一部勘解由【いちぶかげゆ(15??~15??)】
 
籠手田安昌の次男。一部大和守の娘が松浦信賢に嫁いでいたが、一部大和守が松浦親との戦いで討死にすると、松浦信賢に一部家の家督を相続させようとしたが、松浦信賢が病没したため、その未亡人を室とし、一部家の家督を相続した。兄籠手田安経とともに基督教を信仰した。籠手田安経の病没後も信仰を続けた。1599年、松浦家から他の基督教信者とともに追放された。

伊東祐俊【いとうすけとし(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。官途は兵部少輔。別名伊東家秀。1570年、「今山の戦い」では佐嘉郡新荘から兵を率いて龍造寺隆信勢を支援した。

伊万里純【いまりすみ(15??~15??)】

松浦郡伊万里城主。

伊万里治【いまりおさむ(15??~1623)】

伊万里純の男。官途は兵部大輔。室は後藤貴明の娘。1560年、少弐冬尚を滅ぼした龍造寺隆信が肥前国の諸勢力を征圧して勢力を拡大し、高来郡の有馬義貞を攻撃した。1572年、松浦地方に侵攻して松浦党の諸家を降した。1573年、武雄城主後藤貴明、須古城主平井経治を攻撃した際、伊万里治は将兵を引き連れて後藤貴明勢に参陣した。1581年、龍造寺隆信は伊万里城主伊万里治を攻撃した。伊万里治は要害を頼みに応戦したが及ばず、家臣の前田、立川、大河内と兵200余人の将兵とともに後藤貴明のもとに落延びた。伊万里治は後藤貴明に300石で仕えた。伊万里治には男子が無かったため、甥にあたる伊万里静を養嗣子として伊万里家を相続させた。

宇久盛定【うくもりさだ(15??~1549)】

松浦郡江川城主。宇久囲の男。通称次郎三郎。宇久家は宇久島から五島列島全域に支配権を持つ国人衆。1507年、「玉之浦納の反乱」により、宇久盛定は乳母に抱かれて平戸に逃れ、平戸松浦弘定を頼った。1524年、松浦弘定のあとを継いだ松浦興信の援助を受け、宇久盛定は兵235余りを率いて久島を出発した。久賀島の田之浦瀬戸で隊を二分し、岐宿の西津上陸後陸路で大宝を目指す部隊と宇久盛定自身が率いる直接海路で大宝をつく部隊にわけた。両隊とも夜陰に紛れ大宝に接近し同時に討ち入った。玉之浦大宝勢は地の利をもって頑強に抵抗したがやがて敗走した。玉之浦納は側近と三井楽へと落ち自刃した。1526年、宇久盛定は平戸松浦興信の援助により江川城を築し、福江島の奈留盛信、大浜、貞方、玉之浦家を麾下におき、福江島の田尾、中通島の青方、奈摩らの諸領主層を従属させ、職制に整備して、浦中五人衆、六名字、その他福江四人衆、上三頭、下三頭といった家臣団を編成した。所領支配では、平戸松浦興信の干渉を受けたが、宇久盛定は五島の頭領として地位を強固なものにした。

宇久純定【うくすみさだ(15??~1586)】

宇久盛定の男。官途は淡路守。通称左衛門尉。洗礼名は「ドン・ルイス」。室は宇久盛重の娘(マリー)。1549年、父宇久盛定死後に家督を継いだ。1550年、奈留盛信が松浦家に降ったため討伐した。宇久純定はポルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダに熱病を治療してもらった縁で、アルメイダ、ロレンソ了斎を招いて島民にキリスト教を布教させたり、教会に寄付するなど布教活動を援助し、1568年、夫婦で入信した。

宇久盛重【うくすもりしげ(15??~15??)】

宇久盛定の次男。

宇久盛長【うくもりなが(15??~15??)】

宇久盛重の男。通称八郎兵衛。室は宇久純堯の娘(細御寮)。父宇久盛重は五島を平定した宇久盛定の次男で、父の代より幾久山を治める。朝鮮の役のときは、城代留守役となる。室の細子姫は美貌の持ち主で、五島を訪れた羽柴秀吉の家臣の目に留まり、このことを聞き及んだ羽柴秀吉は名護屋城の陣中への出仕を命じた。しかし、細子姫は、出仕の道中に貞節を守り自刃した。

宇久細子姫【うくさいししめ(15??~15??)】

宇久盛長の室。宇久純尭の娘。別名細御寮。絶世の美女。1592年、「文禄の役」で、肥前名護屋に参陣した羽柴秀吉はこの評判を聞いて、使者を送って名護屋城に呼び寄せようとしました。細御寮は宇久盛長へ貞節の心を示すために自ら小指と髪を切って自刃した。

内田兼智【うちだかねとも(15??~15??)】

龍造寺家兼家臣。佐嘉郡道免城主。官途は美作守。室は龍造寺康家の娘。佐嘉郡道免館に転封した。1553年、龍造寺隆信の佐嘉奪還戦に参陣した。諫早攻めでは第四陣を務めた。

内田兼能【うちだかねよし(15??~15??)】

内田兼智の男。官途は肥後守。1583年、肥後国玉名郡大野別府に転封して肥後方面の警備に当たった。

江上興種【えがみおきたね(15??~15??)】

神崎郡勢福寺城主。少弐資元家臣。大内義興に内応したため、勢福寺城を追われた。

江上武種【えがみたけたね(1526~1575)】

江上興種の男。官途は伊豆守。通称太郎。室は龍造寺胤久の娘。東肥前国十九城将のひとり。少弐冬尚を馬場頼周とともに支えた。馬場頼周が龍造寺家兼に謀殺されると、少弐冬尚は劣勢に陥った。1558年、龍造寺隆信勢の小田政光から攻撃を受けるが、少弐冬尚と神代勝利とともに迎撃して小田政光を討取る戦功を挙げた。1559年、神代勝利と和議を結んだ龍造寺隆信の攻撃を受けると支え切れず江上武種は降伏、少弐冬尚は自刃した。1570年、「今山の戦い」では、大友義鎮勢に属したが大敗、江上武種は窮地に立たされた。鍋島信昌勢の攻撃を受け、これを撃退するも、家臣の執行種兼の進言を受け、龍造寺隆信の次男江上家種を養子に迎え和議を結んだ。

江上家種【えがみいえたね(15??~1593)】

龍造寺隆信の次男(江上武種の養子)。官途は武蔵守。通称又四郎。別名龍造寺家胤。室は大村純忠の室。江上家を相続して伝家の銘刀「小胸切」を継いだ。武勇を以って鳴り、沖田畷では弟の後藤家信とともに左翼を形成して有馬晴信と戦った。父龍造寺隆信の討死を聞くと有馬晴信勢に突攻したが必死の反撃を受けて撤兵した。1589年、鍋島直茂が佐嘉城に移ると江上家種は蒲池城に入り、鍋島直茂の嫡男鍋島勝茂を養子に迎えた。1592年、「文禄の役」に参陣したが釜山で病没した。

江上勝種【えがみかつたね(1590~1676?)】

江上家種の次男。別名勝山大蔵。龍造寺伯庵を推して松平秀忠に龍造寺家復興を訴えるも敗訴し保科家預かりとなりった。後に江上家に復姓して名跡を復活させ、保科正之に仕えた。

江副家久【えぞえいえひさ(15??~1545)】

佐嘉郡蠣久館主。通称又八郎。1545年、龍造寺周家に属して参陣したが、江上武種、神代勝利勢の攻撃を受けて討死した。

江副信英【えぞえのぶひで(15??~1556)】

江副家久の男。通称新八郎。1556年、「鉄布峠の戦い」に参陣して討死した。

江副信俊【えぞえのぶとし(15??~1584)】

江副信英の男。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して、討死した。

枝吉種浄【えだよしたねきよ(15??~15??)】

江上武種家臣。神埼郡日吉城主。1571年、江上武種と龍造寺隆信が和議を結ぶと、以後は龍造寺隆信に属した。

枝吉種次【えだよしたねつぐ(15??~1584)】

枝吉種浄の男。1571年、父枝吉種浄が龍造寺隆信に属すると、枝吉種浄とともに北九州各地を転戦して戦功を挙げた。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して討死した。

江里口信常【えりぐちのぶつね(1548~1584)】

千葉胤連家臣。小城郡江里口館主。通称藤兵衛。龍造寺家四天王のひとり。はじめ鍋島信房に仕え、その弟鍋島直茂が養子入り先の千葉家から実家に戻る際、鍋島直茂に付けられた十二名の家臣のうちのひとり。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣した。龍造寺隆信の討死の報を受けると、味方の頸を掻き落として島津義久勢と偽り、島津家久に近づいて左腿を切りつけたが討取られた。

円城寺信胤【えんじょうじのぶたね(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。嘉瀬連乗院住持増誾の男。官途は美濃守。室は鹿江兼明の娘。成松信勝、江里口信常、百武賢兼、木下昌直とともに龍造寺家四天王と称された。龍造寺隆信に属して北九州各地を転戦した。1570年、「今山の戦い」で戦功を挙げた。1584年、「沖田畷の戦い」では龍造寺隆信と同じ熊毛の鎧を着して自ら龍造寺隆信を名乗って敵勢を引きつけ有馬晴信、島津義久勢と戦ったが討死した。

大島輝家【おおしまてるいえ(15??~1566)】

松浦隆信家臣。官途は筑前守。別名大島照屋。1550年、大島輝家は「飯盛山城の戦い」で、兵500余りの部隊の内鉄砲隊100余りを率い参陣した。弟加藤澄月とともに松浦親攻めで活躍した。大村純忠、西郷純隆らが龍造寺家に属して、潮見城に侵攻した。後藤貴明も離反し、潮見城を攻撃、後藤純隆は松浦隆信を頼り落延びた。その際大島輝家が指揮を取り城兵約1,500余りを退去させた。1566年、「半坂、中里の戦い」で討死した。辞世の句は「定めなき雲かくれとは思えども見へすは惜しき有明の月」。

大島澄月【おおしますみついき(15??~1566)】

松浦隆信家臣。官途は民部。兄大島輝家とともに対相神浦松浦家との戦いでは中心になって戦った。松浦隆信は交易によって葡萄牙人から入手した鉄砲100挺余りを大島輝家に与え、鉄砲隊を組織させた。鉄砲隊は「相神浦松浦家との戦い」では、北野源蔵らを討取る働きを示した。1566年「半坂、中里の戦い」では、松浦親の伏兵により松浦隆盛勢は壊滅、奈留三郎左衛門、宮崎蔵人、中山治部兄弟、山田忠左衛門兄弟、柴加田市之丞、南蔵人、佐々刑部、太田弾正忠らが討死した。大島輝家、大島澄月も殿で、松浦親勢の追撃を受け討死した。辞世の句は「澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明」。

太田資元【おおたすけもと(15??~15??)】 

佐嘉郡田中城主。官途は美濃守。龍造寺家兼に仕えて戦功を挙げた。

太田源舜【おおたげんしゅん(15??~15??)】

太田資元の男。1570年、大友義鎮勢の攻撃を受けたが撃退した。

太田家豊【おおたいえとよ(15??~15??)】

太田源舜の男。官途は右衛門大夫。1583年、龍造寺隆信が肥後国に侵攻すると内田兼能らと肥後玉名郡大野別府に転封して、肥後国方面の警備に当たった。

小河為純【おがわためずみ(15??~15??)】

春日山城主。菊池為安の男。父菊池為安は肥後国の豪族衆であったが、小河為純のとき東肥前国に移封して小河家と称して龍造寺家兼に仕えた。龍造寺隆信の村中龍造寺本家相続に尽力した。

小河信安【おがわのぶやす(15??~1557)】

小河為純の男。官途は筑後守。別名小河武純。龍造寺隆信が村中龍造寺宗家を相続すると納富信景、福地信重とともに家老職を務めた。龍造寺隆信は、龍造寺胤栄の室を迎えて村中龍造寺宗家を相続したが、夫婦仲がよくなかったため、小河信安は龍造寺胤栄との間に生まれた姫(秀の前)に刃を当てて夫人に対し龍造寺隆信との夫婦仲を改めるよう諫言した。神代勝利との戦いで居城の春日山城を攻落され枝連衆の多くが討死した。1558年、「鉄布峠の戦い」に参陣して神代勝利勢と戦うが討死した。

小河信俊【おがわのぶとし(15??~1584)】

小河為純の次男。官途は武蔵守。別名小河信友。1557年、兄小河信安が神代勝利と戦い討死すると、小河家の家督を相続した。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣したが討死した。

小田資光【おだすけみつ(15??~15??)】

神埼郡蓮池城主。少弐資元家臣。少弐資元が自刃すると、その嫡男少弐尚は小田資光を頼って落延びた。

小田政光【おだまさみつ(1509~1558)】

小田資光の男。官途は駿河守。通称新九郎。東肥前国十九城将のひとり。少弐冬尚が少弐家を再興すると小田政光もこれに仕えた。龍造寺隆信の佐嘉城を攻撃したが、龍造寺隆信勢に敗退した。1553年、龍造寺隆信勢に降伏した。1558年、龍造寺隆信の「江上武種討伐」に参陣したが、「長者林の戦い」で討死した。龍造寺隆信は小田政光からの援軍要請を黙殺し小田政光が討死すると、居城蓮池城を攻落した。小田政光のこどもらは老臣深町理忠の働きにより無事に落延びた。小田家は大友義鎮の支援により再興したが、小田鎮光、小田賢光はり龍造寺隆信によって非業の死をとげた。

小田鎮光【おだしげみつ(15??~1571)】

小田政光の男。官途は弾正少弼。通称新九郎。龍造寺隆信の攻撃を受け筑後国に落延びた。大友義鎮勢の支援を受けて旧領に復帰した。のち龍造寺隆信に属して多久城を領した。1571年、弟小田賢光とともに佐嘉城で龍造寺隆信に謀殺された。

小田賢光【おだもとみつ(15??~1558)】

小田政光の次男。1558年、龍造寺隆信勢の攻撃を受け討死した。

小田増光【おだますみつ(15??~1585)】

小田政光の三男。父小田政光が龍造寺隆信と和議を結んだ後も龍造寺隆信に対抗した。1558年、龍造寺隆信が江上武種を攻撃した際、蓮池城も奇襲され、筑後国に落延びた。その後、龍造寺隆信と和議を結んで服属した。

於保胤宗【おほたねむね(15??~1545)】

龍造寺家臣。於保宗繁の男。官途は備前守。1545年、馬場頼周の謀略により、肥前杵島郡志久峠で討死した。

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【か】

金子九右衛門【かねこきゅうざえもん(15??~15??)】

松浦鎮信家臣。松浦鎮信が戦機と見て、進撃をしようとしても金子九右衛門は轡を離さず、松浦鎮信がいくら命じても「まだ、潮時ではありません」 と離さない。金子九右衛門が頃合を計り轡を離すと松浦鎮信勢の勝利となった。

鹿江兼明【かのえかねあき(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。官途は遠江守。1553年、龍造寺隆信の「肥前復帰戦」で戦功を挙げた。娘は神代長良に嫁いだ。

鴨打胤宗【かもうちたねむね(15??~15??)】

千葉胤繁家臣。室は千葉胤繁の娘。松浦党あったが、千葉胤繁に招かれて仕えたが後に龍造寺家兼に属した。1545年、「佐賀城の戦い」に参陣した。馬場頼周、馬場政員親子の征伐戦に参陣した。

鴨打胤忠【かもうちたねただ(15??~15??)】

鴨打胤宗の男。官途は陸奥守。1545年、龍造寺家兼による馬場頼周攻めに参陣して、以後龍造寺家兼に仕えた。1558年、「江上武種討伐」に参陣した。1562年、有馬義貞の小城郡侵攻を迎撃した。1570年、「今山の戦い」では鍋島直茂とともに夜襲を敢行して大友義鎮勢を撃破した。

蒲原信俊【かんばらのぶとし(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。通称源左衛門。龍造寺隆信に仕えて北九州各地を転戦した。1584年、「沖田畷の戦い」で討死した。

北野直勝【きたのなおかつ(15??~1567)】

相神浦松浦親家臣。通称源蔵。松尾与三郎、丸田源蔵と並んで強弓の名手。1563年、松浦隆信との「飯盛山城の戦い」では、山の中腹から松浦家の軍船めがけ矢を放ち、二町を越え船の目印に命中させた。さらに続け、武者二人を串刺しにし、船の船神様も射抜いた。その後も「半坂の戦い」でも弓を使って戦功を挙げた。松浦隆信の家臣奈留三郎左衛門を弓で討取った。1567年、松浦隆信との「飯盛山城の戦い」で松浦家鉄砲隊の攻撃により討死した。

木塚直喜【きつかなおよし(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。官途は尾張守。佐嘉郡大宝村を領した。1581年、龍造寺政家の「肥後侵攻」の際、高木胤秀らとともに佐嘉城に留守居した。

木下覚順【きのしたえいじゅん(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。官途は伊予守。

木下昌直【きのしたまさなお(1534~1584)】

木下覚順の男。通称四郎兵衛。1584年、「沖田畷の戦い」では鍋島直茂勢に属して戦った。鍋島直茂を落とした後、殿を務めて討死した。

倉町信俊【くらまちのぶとし(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。官途は左衛門大夫。通称新太郎。室は龍造寺隆信の娘。1570年、「今山の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1582年、「肥後国侵攻」でも戦功を挙げ、筑前国侵攻後は筑前の守備に就いた。1584年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信を守って討死した。

籠手田安昌【こてだやすまさ(1508~1557)】

松浦興信家臣。北松浦郡籠手田城主。受洗名「ドン・ジェロニモ」。松浦興信の死後、松浦家で家督争いが起きると松浦隆信を支持し、松浦隆信を擁立反対派を抑え、擁立に尽力した。松浦隆信を助け、相神浦松浦家攻めなどを立案指揮し松浦隆信の勢力拡大に尽力した。1557年、嫡男の籠手田安経とともにキリシタンとなった。

籠手田安経【こてだやすつね(1532~1581)】

籠手田安昌の男。通称左衛門尉。洗礼名「ドン・アントニオ」。葡萄牙との貿易の条件に父籠手田安昌とともに基督教に入信した。領主として多くの領民に慕われていたため、自身の領地である生月島を中心に多くの領民も入信した。1566年、松浦家の本家との争い、波多興との戦いや宇久純定との戦いでは、松浦隆信の代わりに総大将となり松浦隆信勢の指揮をした。父籠手田安昌からの筆頭家老としての地位ではあったが、後年キリスト教に問題により松浦隆信や他の家臣との対立が深くなり孤立した。 

籠手田栄【こてだえい(15??~15??)】

籠手田安経の男。受洗名「ドン・ジェロニモ」。1582年、父籠手田安経の跡を引き継いだが、籠手田栄には籠手田安経程の権力基盤はなく、松浦隆信のキリスト教嫌いも相まって生月島における基督教保護の力も衰えた。1587年、羽柴秀吉の「伴天連追放令」に際して、松浦鎮信の教会破壊と十字架撤去の命令に対し、殉教するか澳門へ出国する決意を宣教師に述べ、賞賛された。1599年。松浦信実の諌言にあって、家臣を引き連れて長崎に退去した。1614年、籠手田栄は黒田長政に仕え長崎で殉教した。

五島純玄【ごとうすみはる(1562~1594)】

の男。室は西郷純尚の娘(松浦鎮信の養女)。福江城10,530石を領した。1587年、家督を継ぐと羽柴秀吉に属して「九州討伐」に協力したため、所領を安堵された。1592年、「文禄の役」に参陣した。この前後に名字を宇久から五島に改めた。1594年、天然痘により病没した。家督は叔父大浜玄雅が相続した。

五島玄雅【ごとうはるまさ(1548~1612)】

宇久純定の三男。官途は淡路守。通称孫右衛門。室は大久保家次の娘。別名大浜玄雅。五島純玄の叔父。1594年、甥五島純玄が「文禄の役」に参陣中、天然痘にかかって病没したため、五島家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では中立を保ち、松平元康から所領を安堵された。1612年、養子五島盛利に家督を譲った。

五島盛利【ごとうもりとし(1591~1642)】

宇久盛長の男(五島玄雅の養子)。1603年、松平元康に拝謁した。1612年、養父五島玄雅が病没したため、五島家の家督を相続した。1613年、権力強化のため、在郷の家臣団を城下に移住させて兵農分離を進めた。1614年、江川城が焼失、「大坂冬の陣」の参陣したため、失敗に終わった。1619年、五島玄雅の実子角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と五島盛利の失政を松平秀忠に対して直訴した。松平秀忠は五島盛利の正統性を認め、五島盛利は大浜主水らを処刑した。1634年、農兵分離を完成させて権力を確立し、長子相続制の確立や検地の実施なども行なって基礎固めた。

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【さ】

執行兼貞【しぎょうかねさだ(15??~15??)】

執行頼久の男。官途は治部大輔。櫛田宮の執行別当職。1523年、本告頼景とともに櫛田宮の修復に務めた。1530年、大内義隆の侵攻に際、少弐資元を支援して「田手畷の戦い」の勝利に貢献した。

執行直明【しぎょうなおあき(15??~15??)】

執行兼貞の男。官途は摂津守。

執行頼兼【しぎょうよりかね(15??~15??)】

執行直明の男。官途は内蔵介。

執行種兼【しぎょうたねかね(1530~1584)】

執行直明の次男。官途は越前守。勢福寺城主江上武種に属した。1570年、「今山の戦い」では、江上武種に属して龍造寺隆信勢と戦った。鍋島直茂を総大将とした龍造寺隆信勢が勢福寺城に攻め寄せると、執行種兼は城原衆を率いて鍋島直茂を撃退した。江上武種が龍造寺隆信に屈し、龍造寺隆信の次男江上家種を養子に迎えると江上家種に仕え、龍造寺隆信の勢力拡大に尽力した。1572年、「朝日山城の戦い」では、江上家種勢のみで朝日山城を攻落した。1584年、「沖田畷の戦い」では江上家種に属して戦い、嫡男執行種直、次男執行種国、三男執行信直、城原衆らとともに討死した。

執行種直【しぎょうたねなお(15??~1584)】

執行種兼の男。通称新介。1584年、「沖田畷の戦い」では、江上家種に属して戦い、父執行種兼、次弟執行種国、三弟執行信直、城原衆らとともに討死した。

執行種国【しぎょうたねくに(15??~1584)】

執行種兼の次男。通称新九郎。1584年、「沖田畷の戦い」では、江上家種に属して戦い、父執行種兼、兄執行種直、三弟執行信直、城原衆らとともに討死した。

執行種貞【しぎょうたねさだ(15??~1584)】

執行種兼の三男。通称。1584年、「沖田畷の戦い」では、江上家種に属して戦い、父執行種兼、兄執行種直、次兄執行種国、城原衆らとともに討死した。

執行種俊【しぎょうたねとし(15??~15??)】

執行直明の三男。通称四郎兵衛尉。

執行種忠【しぎょうたねただ(15??~15??)】

執行種俊の次男。通称五郎左衛門。1588年、「九州征伐」後に、肥前国主に任じられた佐々成政の検地に反発した肥後国衆が一揆を起した。この討伐に龍造寺政家勢して執行種忠も城原衆とともに参陣したが「大田黒城の戦い」で、執行種忠は枝連衆、被官とともに討死した。

渋川義長【しぶかわよしなが(15??~1534)】

養父郡朝日山城主。渋川尹繁の男。室町幕府の九州探題職。1504年、父渋川尹繁より九州探題職を譲り受けた。1533年、長年の庇護者であった大内義隆から離反し、逆に長年の宿敵であった少弐資元に通じたため、大内義隆勢の攻撃を受けた。1534年、大内義隆勢によって肥前朝日山城を攻落とされ自刃した。渋川義長の討死によって、渋川家嫡流は滅亡した。

渋川堯顕【しぶかわたかあき(15??~1534)】

渋川尹繁の次男。1534年、九州探題を称して挙兵したが筑前国姪浜の興雲山で大内義隆勢に敗れ討死した。

下村長光【しもむらながみつ(15??~15??)】

小弐政資の次男。別名少弐長光。佐嘉郡巨勢郷に移住し、龍造寺周家に仕えた。

下村信光【しもむらのぶみつ(15??~1545)】

龍造寺周家家臣。下村長光の男。父長光は少弐政資の次男。神埼郡祗園原で馬場頼周により龍造寺周家、龍造寺家泰、龍造寺頼純らが討たれたとき、龍造寺周家とともに討死した。

少弐資元【しょうにすけもと(1491~1536)】

神崎郡勢福寺城主。少弐政資の次男。官途は大宰少弐。室は大友親治の娘。1497年、父少弐政資、兄少弐高経の大内義興勢の陶興房と戦い討死した後は、枝連衆の三根郡西島城横岳資貞に養育された。その後、神崎郡勢福寺城を拠点に勢力を広げた。1524年、筑紫満門と馬場頼周との対立すると、筑紫満門を綾部城に誘い出し謀殺した。1530年、大内義隆は杉興運らを派遣して、少弐資元勢の筑紫尚門、朝日頼貫らを攻撃するが、少弐資元は龍造寺家兼、龍造寺家重、龍造寺家門、小田政光、犬塚家清、犬塚尚家、馬場頼周、江上元種らを結集させて、大内義隆勢と戦った。鍋島清久の奇襲により大内義隆勢は大敗した。1532年、杉興運は陶興房らの援兵を得て再び勢福寺に迫ったがこれを撃退した。1533年、大内義隆と和議を結んだ。そのとき大内義隆は少弐資元の東肥前領有を許さずにこれを奪い、多久城に減封した。1536年、大宰大弐の官途を得た大内義隆の家臣陶興房の攻撃を受け少弐資元は自刃した。

少弐冬尚【しょうにふゆひさ(1529~1559)】

少弐資元の男。1535年、父少弐資元が自刃すると、少弐冬尚は小田資光もとに落延びた。1540年、少弐冬尚は龍造寺家兼ら家臣団や大友義鑑の助けを受けて勢福寺城に復帰した。龍造寺家兼は嫡男龍造寺家門を少弐冬尚の後見にするなど勢力の拡大をはかったため、外様衆である龍造寺家兼の勃興をよしとしない譜代衆はこれに危惧を抱き、その筆頭馬場頼周は龍造寺家兼を少弐冬尚に諫言した。1545年、家臣の馬場頼周が龍造寺家兼を妬んでその枝連衆を謀殺するという事件を起こした。1546年、馬場頼周は龍造寺家兼の反攻にあって討死した。少弐冬尚も龍造寺家兼と対立した。1547年、少弐冬尚も村中龍造寺胤栄、水ヶ江龍造寺隆信らに追放されたが、弟少弐政興、千葉胤頼、大友義鎮の援助を得て、養父郡軍綾部城に籠城して龍造寺隆信、大内義隆に抵抗した。1557年、江上武種、神代勝利らも龍造寺隆信の攻撃を受け降伏した。1559年、少弐冬尚は龍造寺隆信と戦い勢福寺城で自刃した。

少弐政興【しょうにまさおき(1534~15??)】

少弐資元の三男。1559年、兄少弐冬尚が龍造寺隆信と戦って討死すると、馬場鑑周に匿われ、大友義鎮と結んで少弐家の再興を図った。1563年、馬場鑑周、有馬晴純、波多鎮、大村純忠、多久宗利、西郷純尚らとともに、龍造寺隆信勢と戦った。1564年、龍造寺隆信勢の猛攻を受け肥前中野城に籠城するも、馬場鑑周とともに降伏した。

少弐元盛【しょうにもともり(1535~15??)】

少弐資元の四男。横岳資誠に養育された。

少弐資宗【しょうにすけむね(15??~1584)】

少弐元盛の男。1584年、「沖田畷の戦い」では、龍造寺隆信勢に属して、兄弟全員討死した。

宗本盛【(15??~1547)】

少弐資元の男。官途は筑後守。1547年、「米田原の戦い」に龍造寺胤栄、龍造寺隆信の連合軍に敗北した。

宗尚夏【そうなおなつ(15??~15??)】

少弐政興家臣。三根郡。1563年、龍造寺隆信は少弐政興と戦うたため、弟龍造寺信周、納富但馬守、福地長門守らを率いて東肥前国に参陣した。三根郡中野城主馬場鑑周を攻撃した。馬場頼周家臣の手田、川波、薬王寺らが奮戦したが力及ばず、馬場鑑周は弟馬場周鎮を人質に出して降伏した。三根郡内の少弐政興勢の宗尚夏、横岳頼続、防所尾張守も龍造隆信に降った。

重松頼幸【しげまつよりゆき(15??~15??)】

三根郡続命院城主。官途は中務大輔。1533年、復帰をはかる龍造寺隆信は重松頼幸と結び、以後龍造寺信ぬ仕えた。1582年、「有馬晴信討伐」で戦功を挙げた。

勝屋勝一軒【しょうやしょういっけん(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。1584年、「沖田畷の戦い」では、軍監として参陣したが、龍造寺隆信とともに討死した。

副島左近允【そえじまさこんのじょう(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。1562年、「有馬討伐」では先陣を務めた。杵島郡須古高城攻めに参陣した。また杵島郡福母南大橋で苦境にあった鍋島信昌を救出した。

副島光家【そえじまみついえ(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。官途は長門守。龍造寺隆信の「筑前侵攻」後は、筑前国の守備に就いた。

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【た】

高木胤秀【たかぎたねひで(15??~1572)】

高木胤家の男。官途は肥前守。東肥前国十九城将のひとり。枝連衆の高木鑑房とともに、龍造寺胤信の龍造寺宗家の家督相続に反対した。1570年、鍋島信昌と争った。1572年、島津義久勢の攻撃を受け討死した。

東高木鑑房【たかぎあきふさ(15??~15??)】

高木満兼の孫。官途は能登守。東肥前国十九城将のひとり。枝連衆の高木胤秀とともに、龍造寺胤信の龍造寺宗家の家督相続に反対した。龍造寺胤信の筑前国追放に協力した。1553年、東肥前国復帰を図る龍造寺胤信と本庄岩村において戦って敗れ、肥前杵島郡佐留志にに落延びたが、龍造寺胤信の家臣前田家定に討たれた。

多久安順【たくやすとし(1563~1641)】

龍造寺長信の男。官途は長門守。室は鍋島直茂の娘(千鶴姫)。1584年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が討死すると、鍋島直茂が龍造寺家の家政を担った。鍋島直茂が東肥前国を治めると、鍋島直茂勢に属した。1592年、「文禄の役」に参陣し、帰国の際に連れ帰った陶工の李参平らを起用して、磁器(伊万里焼)を製作した。1600年、「関ヶ原の役」では、鍋島直茂に属した。1607年、龍造寺高房が病没し、龍造寺宗家が断絶すると、鍋島直茂に重く用られた。1634年、龍造寺高房の男龍造寺季明(伯庵)が、松平家光に龍造寺宗家の相続権を訴えでたが、多久安順の主張により松平家光は鍋島勝茂の正当制を認めた。

多久茂辰【たく しげとき(15??~15??)】

後藤茂富の男(多久安順の養子)。官途は美作守。室は鍋島勝茂の娘(鶴姫)。1635年、鍋島勝茂の嫡男鍋島忠直が早世し、遺児鍋島光茂が幼かったため、鍋島勝茂は次男鍋島直澄を後継にしようとした。多久茂辰はこれに反対し、鍋島光茂に継がせるよう主張し、鍋島光茂が鍋島家の家督を相続した。1637年、「島原の乱」が起こると、鍋島茂辰は諫早茂敬、鍋島茂綱と協議し松平家光の指示を待った。1646年、返済不能な私借銀を作ったとして罷免されたが、家老職に留め置かれた。

西千葉胤勝【ちばたねかつ(15??~1535)】

横岳資貞の男。1506年、高田城主千葉胤繁が筑紫満門らの攻撃を受け城から落延びると、西千葉家の家督を相続した。1513年、龍造寺胤家、龍造寺盛家らとともに東尚盛を上松浦郡に追落した。1530年、大内義隆勢の侵攻では、朝日頼貫や父横岳資貞らが大内義隆勢に内通したため千葉胤勝もこれに属した。「田手畷の戦い」で大内義隆勢が敗退すると、少弐資元に降伏した。1533年、少弐資元と大内義隆が和議を結ぶと、千葉胤勝と千葉興常も和議を結んだ。1535年、大内義隆勢が筑前国に侵攻すると、少弐資元とともには敗れて自刃した。

西千葉胤連【ちばたねつら(15??~1593)】

千葉胤勝の男。小城郡晴気城主。龍造寺隆信に属した。1559年、千葉胤頼、少弐冬尚兄弟の撃滅に協力した。その後所領を鍋島直茂に譲った。

祇園千葉興常【ちばおきつね(15??~1540)】

千葉胤盛の男(千葉胤朝の養子)。別名千葉胤棟。千葉胤朝の病没後、千葉宗家に少弐教頼から千葉胤資が入ると、反発して大内義興と結んだ。父千葉胤盛が亡くなったことから大内義興のもとで養育された。1486年、千葉胤資と少弐政資との対立により千葉家は分裂し、千葉興常は千葉城を本拠とした祇園千葉家を興した。1497年、大内義興が少弐政資を攻め滅ぼした後、肥前守護代に任じれ威勢を振るった。

祇園千葉喜胤【ちばよしたね(1507~1542)】

千葉興常の次男。官途は丹波守。1540年、父千葉興常の病没により東千葉家の家督を相続した。1541年、高来郡の有馬賢純が武威を張り、彼杵郡から小城郡、佐賀郡に侵攻を企てた。大内義隆勢に属する晴気城主千葉介胤勝と少弐冬尚勢に属する千葉胤連は対立しており、有馬賢純はこれに乗じたものであった。有馬賢純の侵攻に危機感を強めた少弐冬尚勢の龍造寺家門は、祇園山城主千葉喜胤、晴気城主千葉胤勝、千葉城主千葉胤連を説得し、少弐冬尚との同盟を結ばせることに成功した。少弐冬尚は弟千葉喜胤の娘を娶らせて千葉喜胤の婿養子(千葉胤頼)とし、祇園山城に入れた。また、千葉胤連の養子として龍造寺党の鍋島清房の子彦法師丸を入れて、千葉喜胤、少弐冬尚、龍造寺家門の連携を強めた。この連携を察した有馬賢純は侵攻を断念した。

祇園千葉胤頼【ちばたねより(1532~1559)】

少弐資元の次男(千葉喜胤の養子)。室は千葉喜胤の娘。1542年、養父千葉喜胤の自刃により、千葉胤頼が祇園千葉家を相続することになった。千葉胤頼は兄少弐冬尚が龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。分裂以来対立関係であった西千葉胤連は龍造寺隆信の家臣鍋島直茂を養子に迎えて対抗した。1559年、龍造寺隆信、千葉胤連の攻撃を受け勢福寺城で少弐冬尚とともに自刃した。

祇園千葉胤誠【ちばたね(15??~1593)】

千葉胤頼の男。官途は千葉介。別名千葉胤政。1559年、父千葉胤頼が龍造寺隆信、千葉胤連の攻撃を受け勢福寺城で少弐冬尚とともに自刃すると、神代勝利、神代長良を頼って落延び、家宝である「妙見ノ太刀」などを長良に伝えた。

祇園千葉胤信【ちばたねのぶ(1551~1632)】

少弐胤連の男。官途は右馬助。別名鍋島忠右衛門。東千葉家は千葉胤頼の女婿神代勝利の嫡男神代長良が治めた。のち龍造寺作左衛門と称した。1592年、「文禄の役」では、鍋島直茂に属して神代家良とともに渡海した。継嗣なく、鹿江茂次の次男鹿江常貞(鍋島玄蕃)を女婿に迎えた。

千布家利【ちふいえとし(15??~15??)】

土生島城主。官途は因幡守。彼杵郡から佐嘉郡千布に転封して土生島城を築いて千布と改めた。1545年、龍造寺兼家との戦いでは反龍造寺家に属した。しかしやがて龍造寺隆信に属し、肥前藤津攻めに活躍した。

筑紫満門【つくしみつかど(15??~1524)】

養父郡勝尾城主。筑紫教門の男。少弐政資に属して綾部城の九州探題渋川万寿丸が家臣により謀殺されると、少弐政資の命で馬場経周らとともに渋川万寿丸の弟渋川刀禰王丸を攻撃して筑後国に追放した。大内義興勢が北九州に侵攻してくると、少弐政資は劣勢にたたされた。1497年、少弐政資が自刃し少弐家は滅亡した。筑紫満門は東尚盛らとともに大内義興に降伏し許され、大内義興勢に属した。少弐政資、少弐高経父子が敗死した後は筑紫満門は三根郡、神埼両郡の郡代に任じられた。1524年、少弐資元の家臣馬場経周の寝返りの誘いを筑紫満門が拒否し、逆に馬場経周の大内義隆への帰順をうながそうとしたため馬場経周に謀殺された。

筑紫尚門【つくしなおかど(15??~15??)】

筑紫満門の男。官途は能登守。1528年、少弐資元の復興に危機感を抱いた大内義隆は、筑前守護代杉興運を大将として肥前に侵攻させた。横岳資貞、筑紫尚門らの少弐一族や千葉勝胤らはなだれをうって大内義隆に寝返り、大内義隆勢は少弐資元の拠る勢福寺城に迫った。龍造寺家兼は龍造寺家純、龍造寺家門ら枝連衆と江上武種、小田政光、犬塚家重、馬場鑑周、出雲氏忠、姉川惟安、本告信景などの国人とともに大内義隆を迎え撃ち、「田手縄の戦い」で大内義隆勢の先陣を敗り、朝日頼貫を敗死させた。杉興運、筑紫尚門らが龍造寺家兼勢を攻撃するが、横合いから鍋島清久勢が突入すると、浮き足立った横岳資貞、筑紫尚門らが討死、杉興運は大宰府に敗走した。

筑紫惟門【つくしこれかど(1531~1567)】

筑紫尚門の男。官途は下野守。通称四郎。1551年、大内義隆の討死後、大友義鎮に属したが、毛利元就と結び反大友義鎮陣営を形成した。毛利元就が北九州に侵攻すると、秋月文種とともに挙兵したが失敗に終わり、秋月文種は自刃し、筑紫惟門は嫡男筑紫広門らとともに山口に落延びた。後に毛利元就の支援により旧領に復帰した。1567年、高橋鑑種、原田了栄、秋月種実、宗像氏貞らとともに挙兵し、再び大友義鎮勢と戦うものの、斎藤鎮実勢の攻撃を受け自刃した。

筑紫照門【つくしてるかど(15??~15??)】

筑紫惟門の次男。官途は筑後守。

筑後春門【つくしはるかど(15??~15??)】

筑紫惟門の三男。官途は左衛門大夫。

筑紫広門【つくしひろかど(1556~1623)】

筑紫惟門の男。官途は左馬頭。1567年、父筑紫惟門が大友義鎮勢に降伏し自刃したため筑紫家の家督を相続した。1586年、高橋紹運の次男高橋統増に娘を嫁がせて縁戚となり、再び大友義鎮勢に属した。「岩屋城の戦い」でも、大友義鎮勢に属し島津義久勢と戦った。弟筑紫晴門は島津義久勢の川上忠堅と一騎討ちを演じて相討ちとなり、自身も島津義久勢に捕縛された。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、家臣を糾合して羽柴秀吉勢に属して島津義久勢と戦い戦功を挙げ、筑後国上妻郡で18,000石を領した。1592年、「文禄の役」では小早川隆景に属して参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「伏見城の戦い」「大津城の戦い」で戦功を挙げた。役後に所領を没収しれた。加藤清正に招かれ寄食した。

筑紫茂成【つくししげなり(1575~1646)】

筑紫広門の男。官途は主水正。通称善吉郎。1600年、「関ヶ原の役」では、父筑紫広門とともに石田三成勢に属したため役後失領した。1627年、嫡男筑紫茂成は、「大坂夏の陣」の戦功により3,000石を領した。

徳島盛秀【とくしまもりひで(15??~15??)】

龍造寺家兼家臣。小城郡芦刈小路館主。

順【とくしまたねより(15??~15??)】

徳島盛秀の男。官途は土佐守。1553年、龍造寺家兼の「佐嘉城奪還戦」及び「馬場頼周討伐」に参陣した。1579年、龍造寺政家から桐日光紋を許された。

徳島信忠【とくしまのぶただ(15??~1584)】

徳島盛秀の次男。官途は甲斐守。室は鍋島信定の娘。1584年、「沖田畷の戦い」で討死した。

徳島信盛【とくしまのぶもり(15??~1584)】

徳島盛秀の三男。官途は筑後守。1584年、「沖田畷の戦い」に参陣して、兄徳島信忠とともに討死した。

徳島胤純【とくしまたねずみ(15??~15??)】

千葉胤連家臣。1562年、大友義鎮は少弐家を復興しようと有馬晴純とともに少弐政興を擁立した。1563年、有馬晴純は杵島郡に侵攻すると、千葉胤連は龍造寺隆信に援軍を要請して、鴨打胤忠、徳島胤時、持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠に参陣した。龍造寺隆信も鍋島信房、鍋島直茂らとともに小城郡高田に参陣した。徳島胤純は島原弥七郎を柳津留の入江に誘み撃破った。この戦い後東肥前国の豪族衆の多くが龍造寺隆信に属した。千葉胤連は龍造寺隆信に属して小城郡高田城を領した。徳島胤純らも龍造寺隆信に属した。

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【な】

名護屋経勝【なごやつねかつ(15??~15??)】

波多親家臣。北松浦郡垣添城主。

名護屋経述【なごやつねつじ(15??~15??)】

名護屋経勝の男。名護屋城が築城された勝男山には、波多信時の家臣名古屋経述が居城した垣添城があった。1592年、羽柴秀吉は「文禄の役」の拠点として、黒田孝高、加藤清正、小西行長、黒田長政による縄張り、九州の諸大名による天下普請によって名護屋城を築城した。

名護屋広子【なごやひろこ(1573~1637)】

羽柴秀吉の側室。名護屋経勝の娘。別名広沢局。1592年、「文禄の役」のため、名護屋城に来た羽柴秀吉の側室になった。その後、羽柴秀吉は山里丸の一角に広沢寺を建立した。1593年、羽柴秀吉は大坂にに帰り、名護屋城には二度と戻ってこなかった。名護屋城の山里丸に住んでいたが、羽柴秀吉が病没すると仏門に帰依した。

鍋島清久【なべしまきよひさ(1490~1542)】

佐嘉郡本荘館主。鍋島経房の男。通称平右衛門。室は野田大隈守の娘。1530年、「田手畷の戦い」で大内義隆勢の杉興連の猛攻を受けて窮地にあった龍造寺家兼を、鍋島清久は鍋島清房とともに赤熊の面を被った兵を率いて杉興連勢を攻撃した。態勢を立てなおした龍造寺家兼は大内義隆勢を撃破した。鍋島清久は、龍造寺家重の娘を室に迎えた。鍋島清久は龍造寺家兼の筑後国流浪も助け、水ヶ江城奪取にも尽力した。

鍋島清泰【なべしまきよやす(15??~15??)】

鍋島清久の男。官途は左近将監。1557年、神代勝利を攻撃した。1569年、「多布施の戦い」で戦功を挙げた。

鍋島清房【なべしまきよふさ(1513~1585)】

鍋島清久の次男。官途は駿河守。通称孫四郎。室は龍造寺家純の娘(華渓姫)。1530年、「田手畷の戦い」では父鍋島清久、野田清孝らとともに赤熊隊を率いて龍造寺家兼の支援して、大内義隆勢の杉興連を撃破した。龍造寺家純の娘を迎え、嫡男鍋島直茂を設けた。龍造寺家兼の信任も厚く、龍造寺家兼が水ヶ江城を奪還する際は、少弐冬尚が馬場頼周を支援できないように一揆を煽動した。龍造寺家兼の病没後は龍造寺隆信を補佐した。1548年、村中龍造寺が病没すると龍造寺隆信が還俗して龍造寺宗家を相続するとその後見役となった。1556年、龍造寺家純の娘である正室が病没していたため龍造寺隆信の母慶誾尼が押し掛ける形で後室に入った。「沖田畷の戦い」では筑後国柳河にあって留守居を務めた。

鍋島直茂【なべしまなおしげ(1538~1618)】

鍋島清房の次男(西千葉胤連の養子)。官途は加賀守。通称孫四郎。別名鍋島信生。室は高木胤秀の娘(慶円)。継室は石井常延の娘(彦鶴姫)。1545年、少弐尚冬に龍造寺家純らが謀殺され、龍造寺家兼が筑後国に落延びると父鍋島清房は千葉胤連との鍋島直茂の養子縁組を解消した。1558年、小田鎮光を謀殺して、その居城蓮池城に入って筑後国の領国経営を行った。1569年、「佐嘉城の戦い」では戸次鑑連の猛攻を凌いで和議に持ち込んだ。1570年、「今山の戦い」では、夜襲を指揮して大友親貞を討取る戦功を挙げた。1578年、西肥前国の有馬、大村を降す戦功を挙げた。1581年、蒲池鎮漣を謀殺すると田尻鑑種を使って蒲池鎮漣の枝連衆を謀殺した。1584年、「沖田畷の戦い」では島津義久勢の猿渡信光と戦った。龍寺造隆信が討死すると龍造寺隆信勢を指揮して佐嘉城まで退却した。島津義久勢には抗しえず降伏した。羽柴秀吉の「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に内通した。1587年、龍造寺政家の陣代として参陣して佐嘉城357,000石を領した。1592年、「文禄の役」に参陣して、加藤清正とともに朝鮮王子の捕囚にした。1598年、羽柴秀吉が病没すると、松平元康と結ぼうとした。1600年、「関ヶ原の役」では、鍋島勝茂が石田三成勢に属し、自身は東海道の穀物を買い占めて松平元康に献上し、石田三成勢の久留米城主毛利秀包や柳川城主立花宗茂を攻撃した。龍造寺高房は松平元康に対して龍造寺家の実権の回復をはたらきかけたが、松平元康は鍋島直茂、鍋島勝茂の東肥後国の領有を支持した。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣した。

鍋島勝茂【なべしまかつしげ(1580~1657)】

鍋島直茂の男(江上家種の養子)。官途は信濃守。通称伊勢松。室は戸田勝隆の娘。継室は岡部長盛の娘(菊姫)。1598年、「慶長の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したが、父鍋島直茂の進言により松平元康勢に寝返り久留米城主毛利秀包、柳河城主立花宗茂を攻撃した。石田三成勢が敗退した後に黒田長政の仲裁で松平元康に謝罪し、本領安堵を認められた。その後「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」「島原の乱」にも参陣した。龍造寺季明により龍造寺領返還問題が起きて家中動揺するも、多久安順ら龍造寺家枝連衆が龍造寺家の名跡が鍋島家に移ったことを証言した。

鍋島忠茂【なべしまただしげ(1584~1624)】

鍋島直茂の次男。官途は和泉守。別名小川直房。室は江上家種の娘。1592年、「文禄の役」に参陣した。1597年、「慶長の役」にも参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄鍋島勝茂が石田三成勢に属したため、父鍋島直茂の命で石田三成勢の立花宗茂を攻撃して、鍋島家の存続に尽力した。1601年、松平元康への人質として江戸に赴いた。1602年、松平秀忠の近習として仕え、下総国矢作で5,000石を領した。1609年、鍋島勝茂から常広城20,000石を分知されて25,000石の諸侯に列した。1614年、「大坂冬の陣」では、病身を押して参陣したため、松平秀忠に激賞された。その後は矢作で療養したが、まもなく病没した。

鍋島信房【なべしまのぶふさ(15??~1609)】

鍋島清房の三男。官途は豊前守。通称三郎兵衛、別名鍋島房義。1576年、藤津郡横沢城の戦いに参陣した。その後藤津郡鹿島城に入って有馬晴信に対抗した。1584年、「沖田畷の戦い」では藤津衆を率いて殿を務めた。鍋島勝茂の代になって鹿島城は鍋島勝茂の弟鍋島忠茂が入り、鍋島信房は高来郡神代城に転封したがまもなく病没した。

鍋島茂昌【なべしましげまさ(15??~15??)】

鍋島信房の男。

鍋島茂治【なべしましげはる(15??~15??)】

鍋島信房の次男。

鍋島清虎【なべしまきよとら(15??~15??)】

官途は周防守。

鍋島為俊【なべしまためとし(15??~15??)】

鍋島清虎の男。

鍋島種房【なべしまたねふさ(15??~15??)】

鍋島清虎の次男。

鍋島道虎【なべしまみちとら(1553~15??)】

鍋島清虎の三男。別名鍋島生三。兄の鍋島為俊、鍋島種房が早逝したので、父鍋島清虎の跡を継いだ。佐嘉郡高楊庵の住職。1572年、鍋島直茂の懇願によって、還俗させ、鍋島家の家政を担った。家老職として老として、「関ヶ原の役」後の本領の確保、普請、城下街建設、三部上知などの山積する問題の処理にあたった。

鍋島種房【なげしまたねふさ(15??~15??)】

江上武種家臣。官途は丹後守。江上武種が龍造寺隆信に降伏すると、龍造寺隆信に属して、軍奉行を務めた。

成富信種【なりとみのぶたね(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。通称新九郎。官途は甲斐守。1570年、「今山の戦い」で、戦功を挙げた。

成富久蔵【なりとみきゅうぞう(15??~15??)】

成富信種の男。成富信種から成富家の家督を相続したがまもなく討死した。

成富茂安【なりとみしげやす(1560~1634)】

成富信種の次男。官途は遠江守。通称吉衛門。別名成富賢種。兄成富久蔵の討死により成富家の家督を相続した。1576年、「藤津郡の戦い」に参陣した。1587年、「九州征伐」では、龍造寺隆信勢として参陣した。「肥後天草一揆」では加藤清正を支援した。1592年、「文禄の役」では、鍋島直茂勢に属して参陣した。千歳川沿いの千栗土居の築造、芦刈水道の開削、杵島郡三法潟の干拓など治水、新田開発や興業を進めた。

成松信勝【なりまつのぶかつ(1540~1584)】

龍造寺隆信家臣。官途は刑部少輔。通称新十郎。龍造寺家四天王のひとり。1569年、「多布施口の戦い」に参陣して鍋島直茂、小河信安、百武賢兼らとともに大友義鎮勢を撃破した、さらに援軍の戸次鑑連勢も撃退した。1570年、「今山の戦い」では、夜襲に参陣して大友親貞を討取る戦功を挙げた。1573年、「草野城の戦い」にも百武賢兼、円城寺信胤らととも参陣した。1576年、「肥前藤津城の戦い」では鍋島信房、鍋島信生兄弟が苦戦にあったのを百武賢兼、小河信安らとともに救援した。「沖田畷の戦い」にも軍奉行として参陣した。龍造寺隆信の討死の知らせを受けると名乗りを上げて敵中突攻して討死した。

納富栄房【のうとみみつふさ(15??~15??)】

納富則貞の男。官途は石見守。龍造寺家兼に仕え活躍した。藤津郡納富分村及び三根郡下津毛村など700余町を領した。

納富信景【のうとみのぶかげ(15??~1584)】

納富栄房の男。官途は但馬守。文武両道の名将。龍造寺隆信が龍造寺家を継ぐと、小河信安、福地信重とともに家老職となった。1558年、江上武種との「勢福寺の戦い」に参陣した。1562年、「杵島郡の戦い」に参陣した。1570年、「今山の戦い」では夜襲戦に参陣し、追撃戦を行った。戦後に行われた鍋島信生の「小田鎮光討伐」にも参陣した。1580年、家老職を辞し、家督を嫡男納富賢景に譲った。

納富信純【のうとみのぶずみ(15??~1565)】

納富信景の男。官途は治部大輔。別名納富信澄。室は陽泰院(のち鍋島直茂後室)。神代長良の計略にはまり討死した。

納富賢景【のうとみともかげ(15??~1584)】

納富信景の次男。官途は常陸介。室は鍋島直茂の娘(天林姫)。兄納富信純が討死したため、納富家の家督を相続し2,000石を領した。

納富長昭【のうとみながあき(15??~15??)】

龍造寺信周の四男(納富賢景の養子)。通称九兵衛。室納富賢景の娘。龍造寺政家の御側定詰番として2,000石を領した。

納富家繁【のうとみいえしげ(15??~15??)】

納富栄房の次男(納富信景の養子)。

納富信門のうとみ【のぶかど(15??~1584)】

納富栄房の三男。1584年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信らとともに討死した。

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【は】

馬場頼周【ばばよりちか(15??~1546)】

養父郡綾部城主。馬場頼員の男。少弐資元家臣。官途は肥前守。室は筑紫満門の娘。少弐資元は、九州探題渋川尹繁の綾部城を奪取し、馬場頼周を綾部城主とした。1524年、少弐政資を滅ぼした筑紫満門を謀殺した。1530年、「田手畷の戦い」では杉興連率いる大内義隆勢の撃退に貢献した。1535年、少弐資元が大内義隆の攻撃を受けた際、援軍を出すことができず、少弐資元は自刃した。1545年、少弐冬尚と図って、龍造寺家兼の枝連衆を謀殺した。馬場頼周は討取ったし龍造寺家兼の枝連衆六人の頸級を踏み付けるなど不敬な扱いをした。馬場頼周、馬場政員は龍造寺家兼を追放し、祇園岳城を築き支配体制を固めた。1546年、筑後国の蒲池鑑盛のもとに落延びていた千葉胤連の支援を受けて龍造寺家兼が挙兵した。祇園岳城から綾部城へ帰還しようとした際、千葉胤連勢の攻撃を受け、馬場政員が野田家俊に討取られた。馬場頼周は落延びる途中、加茂弾正に討取られた。

馬場政員【ばばまさかず(15??~1546)】

馬場頼周の男。室は龍造寺家純の娘。1545年、少弐冬尚と図って父馬場頼周とともに龍造寺家兼の枝連衆を謀殺した。馬場頼周、馬場政員は龍造寺家兼を追放し、祇園岳城を築き支配体制を固めた。1546年、筑後国の蒲池鑑盛のもとに落延びていた千葉胤連の支援を受けて龍造寺家兼が挙兵した。祇園岳城から綾部城へ帰還しようとした際、千葉胤連勢の攻撃を受け野田家俊に討取られた。

馬場鑑周【ばばあきちか(15??~15??)】

馬場政員の男。官途は肥前守。通称太郎四郎。東肥前国十九城将のひとり。後に龍造寺隆信に仕えた。1577年、「諫早城の戦い」では第四陣を務めた。1582年、龍造寺政家の「肥後討伐」にも参陣した。

東尚久【ひがしなおひさ(15??~15??)】 

松浦親家臣。1516年、東尚久は晴気城主千葉胤勝家臣であったが、内紛により主家を追われ松浦親に仕えた。

東時忠【ひがしときただ(15??~1574)】 

東尚久の男。通称甚助。父東尚久は晴気城主千葉胤勝家臣であったが、内紛により主家を追われ松浦親に仕えた。1543年、松浦隆信勢との抗争において父東尚久とともに戦功を挙げた。相神浦松浦家の守護者的存在で「飯盛山城の戦い」「半坂の戦い」でも寡兵ながら勝ちを収め二十年以上に渡る松浦隆信の攻勢を凌いだ。1572年、「飯盛城の城」で、松浦隆信に降った。相神浦松浦家の家督を相続した松浦九郎親と諍いが起き、謀殺されそうになるが逆に松浦九郎親を謀殺したが自身も討取られた。

東斉時【ひがしなりとき(15??~15??)】 

東尚久の次男。1565年、「蜂の久保砦の戦」で松浦隆信勢を撃ち破った。

深町理忠【ふかまちまさただ(15??~1558)】

小田政光家臣。1550年、龍造寺鑑兼との龍造寺隆信が龍造寺宗家の家督争いに敗れ際、筑後国の蒲池鑑盛を頼るように勧め、龍造寺隆信はこの言を容れて蒲池鑑盛のもとへ落延びた。1558年、龍造寺隆信は小田政光を攻め、このとき深町理忠も討死した。

持永盛秀【もちながもりひで(15??~15??)】

千葉家臣。佐嘉郡新庄館主。1545年、龍造寺家兼に属して馬場頼周勢と戦った。以後龍造寺家兼に仕えた。

本告信景【もとおいのぶかげ(15??~15??)】

神埼郡本告牟田城主。官途は左馬允。櫛田神社の神職。1570年、「今山の戦い」後、龍造寺隆信に仕え、神埼郡本告牟田領を安堵された。

藤崎盛義【ふじさきもりよし(15??~15??)】

東肥前国十九将のひとり。官途は筑前守。1570年、大友義鎮は肥前国において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、大友親貞を大将に60,000余りが龍造寺隆信領に侵攻した。藤崎盛義は、高木胤秀、江上武種、犬塚鎮家、横岳鎮貞、馬場鑑周、筑紫鎮恒、綾部賢幸、本告頼景、姉川惟安ら東肥前国の城主とともに大友義鎮勢に属して参陣した。

秀島茂景【ひでしましげかげ(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。納富信景の男( 秀島信純の養子)。官途は河内守。通称四郎左衛門。

秀島家周【ひでしまいえちか(15??~1584)】

納富信景の男(秀島茂景の養子)。通称孫五郎。1569年、「多布施口の戦い」で戦功を挙げた。1584年、「島原の戦い」で討死した。

百武賢兼【ひゃくたけともかね(15??~1584)】

龍造寺隆信家臣。戸田兼定の男。官途は志摩守。通称藤次郎、別戸田兼通。龍造寺家四天王のひとり。武勇が百人に勝るとして龍造寺隆信より「百武」の姓を与えられた。また大村弾正、犬塚弾正、上瀧志摩守、百武志摩守を総じて藤津の両弾二島とも称された。1569年、「植木の戦い」及び「多布施口の戦い」で戦功を挙げた。1570年、「今山の戦い」でも戦功を挙げた。その後、北九州各地を転戦した。1584年、「沖田畷の戦い」では有馬軍と戦って討死した。

広橋信了【ひろはしのぶとう(15??~1574)】

龍造寺隆信家臣。別名田中信等。1561年、龍造寺隆信勢の先陣を務め神代勝利と戦った。1564年、「第一次須古城の戦い」では、龍造寺家就、納富信景らとともに先陣を務めた。1574年、「第二次須古城の戦い」では、鍋島直茂と先陣を争い、突出して討死した。

福地家盈【ふくちいえみつ(15??~15??)】

龍造寺家兼家臣。官途は周防守。1536年、水ヶ江城が小田

に攻められた際、佐嘉郡川副郷木原で撃退した。

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【ま】

松園休也【まつぞのきゅうや(15??~1542)】 

松浦親家臣。梶谷城主。松浦親より梶谷城に任じられた。1542年、松浦隆信による梶谷城攻めにおいて枝連衆とともに城を守るも一日で落城し、落延びる途中、松浦隆信勢に討取られた。

松浦興信【まつらおきのぶ(15??~1541)】

北松浦郡平戸城主。田平峯昌の男(松浦弘定の養子)。官途は肥前守。平戸松浦家は、松浦家の庶家であったが、松浦興信の曽祖父松浦義の時に宗家の相神浦松浦家をしのぐ勢力を持った。松浦興信の祖父松浦豊久には六人の子があり、平戸松浦家の家督を次男松浦弘定に継がせ、嫡男松浦昌は田平峯家へ養子に出した。田平峯昌は後に田平家を追われ、平戸松浦家の家督を巡り松浦弘定と対立した。志佐家と敵対すると松浦弘定と和議を結び、大内義興の援助を受け志佐家を滅ぼし、志佐領主となり志佐純元と称した。松浦弘定は和議の証として田平峯昌の実子である松浦興信を後継とした。相神浦松浦家との関係は険悪であり、松浦弘定はたびたびこれと争った。1498年、相神浦の竹辺城を攻め、松浦政を攻め滅ぼした。1515年、松浦弘定が病没により松浦家の家督を相続した。大内義興、大内義隆に属して李氏朝鮮や明と交易し、利益を上げたが少弐家や有馬家、後には龍造寺家と結んだ相神浦松浦親の勢力は衰えることはなく、平戸松浦家の基盤は脆弱であった。

松浦隆信【まつらたかのぶ(1529~1599)】

松浦興信の男。室は杉隆景の娘。1541年、父松浦興信が病没しても家中が混乱もあり家督を相続出来なかった。1543年、家中の混乱を抑えて松浦家の家督を相続した。1550年、南蛮貿易を開始して、鉄砲や大砲を購入。平戸城下に明の商人を住まわせるなどして、交易により富を蓄えた。北松浦半島を制圧して、有馬晴純や龍造寺隆信に対抗しつつ、志佐家や波多家などを制圧した。長年対立してきた相神浦松浦親も勢力下に置いた。相神浦松浦家には有馬晴純の男の松浦盛が養子になっていたが、平戸松浦家より松浦隆信の男の松浦九郎親(養父と同名)が入り、親(養父の方)を隠居させて松浦盛を他家(有田家)に追いやった。武雄城主後藤貴明へ養子に送った後藤惟明は龍造寺隆信の三男後藤家信により後藤家を追われた。1568年、松浦鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けた。1584年、龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津義久勢の支援を受けた有馬信晴に敗れ討死したため松浦家も独立を保つことができた。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」に参陣して所領安堵を許された。

松浦鎮信【まつらしげのぶ(1549~1614)】

松浦隆信の男。室は西郷純堯の娘。官途は肥前守。側室に「小麦様」と称される朝鮮の女性がいた。1568年、父松浦隆信の隠居により家督を相続したが実権は松浦隆信が持ち続けた。1584年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が島津義久の支援を受けた有馬晴信に敗れ討死したため松浦家も独立を保つことができた。1586年、「広田城の戦い」で大村純忠らの軍勢を撃退した。1587年、父松浦隆信とともに羽柴秀吉の「九州討伐」に参陣して所領を安堵された。1592年、「文禄の役」に参陣し、朝鮮に在陣し続けた。1600年、「関ヶ原の役」では、松浦鎮信の嫡男松浦久信が石田三成勢に属して畿内各地を転戦した。松浦鎮信は松平元康勢に属したため役後、所領を安堵された。

松浦久信【まつらひさのぶ(1571~1602)】

松浦鎮信の男。官途は肥前守。室は大村純忠の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、松浦久信は石田三成勢に属して畿内各地を転戦した。室が棄教しないので離縁すると脅したが、屈せず、脅す事を断念した。

松浦信賢【まつうらのぶかた(1541~1563)】

松浦興信の次男。別名平戸信賢。室は一部大和守の娘 相神浦松浦家との戦いで一部大和守が討死にしたため、一部家の家督を相続するがまもなく病没した。

松浦信実【まつうらのぶざね(15??~1621)】

松浦隆信の四男。官途は豊後守。別名平戸信実。室は日高喜の娘(次女)。壱岐国日高喜が平戸松浦家に属した際、平戸家の壱岐における代官として壱岐亀岡城代に任じられた。羽柴秀吉のもとに人質として赴いた。1592年、「文禄の役」に参陣するが病を得て帰国した。回復後も朝鮮に戻らず臆病者と称された。

松浦信正【まつうらのぶまさ(15??~15??)】

松浦鎮信の次男。通称蔵人。松浦家重臣となる西口松浦家の祖となった。

相神浦松浦親【まつうらちか(1497~1577)】

松浦郡飯盛山城主。松浦政の男。官途は丹後守。室は多美野姫。1498年、父松浦政が松浦弘定勢の攻撃を受け自刃した。松浦親は母親共々人質として平戸城に送られた。1499年、平戸城を脱出して有田唐船城に入城した。1512年、松浦弘定と松浦興信が大内義興に従って上洛すると、大内義興と抗争を続ける少弐資元を後ろ盾に挙兵し、大智庵城、武辺城等を奪還して旧領を回復した。1516年、小城郡の東尚盛が、千葉胤勝に破れて松浦親を頼ってくると、厚遇を持って召し抱えた。1542年、松浦隆信勢の攻撃を受けるが東尚盛、東時忠の活躍により撃退した。少弐冬尚との同盟を確実にするため、養子松浦(少弐)鎮を迎えた。1559年、勢福寺城主少弐冬尚が龍造寺隆信と戦い自刃すると、有馬晴信を頼り、有馬家から養子を迎えた。1564年、松浦隆信勢の度重なる侵攻を何度も退けたが、兵糧攻めにより降伏した。

相神浦松浦鎮【まつうらしげ(15??~15??)】

少弐資元の五男(松浦親の養子)。1541年、松浦親が飯盛山城を奪還したのち、少弐冬尚との同盟を確実にするためた松浦鎮を養子に迎えた。1559年、少弐冬尚が龍造寺隆信に滅ぼされると廃嫡され菰田に幽閉された。

相神浦松浦盛【まつうらもり(15??~15??)】

有馬晴純の四男(松浦親の養子)。官途は丹後守。室は松浦親の娘。少弐冬尚が討死すると、松浦親は松浦鎮を廃嫡にして有馬晴信から松浦盛を養子に迎えた。有馬晴純が病没すると勢力が衰え支援を受ける事が出来なくなった。1563年、有馬晴信を頼って飯盛山城から落延びた。有田唐船城主となった。「広田城の戦い」で、飯盛山城の守りが手薄になった所に狙い攻め込むが、家臣の山本右京の内通により敗退した。1576年、龍造寺隆信に唐船城を攻められた際、籠城中に病没した。

相神浦松浦九郎親【まつうらくろうちか(15??~1574)】

松浦隆信の三男。官途は丹後守。通称九郎。室は後藤貴明の次女。養父と同名。1564年、相神浦松浦家の飯盛山城落城すると松浦親の養子となった。有田唐船城から飯盛山城に向けて進撃した養父松浦盛を山本右京の内通により柚木にて撃破した。相神浦松浦家の重臣遠藤胤盛の娘、白縫姫を婚約者である赤碕伊予守から奪おうと画策、娘を渡さない遠藤胤盛を謀殺した。その後、相神浦家臣である東斉忠の謀殺を図るが、逆に謀殺された。

相神浦松浦定【まついらさだむ(1571~1593)】

松浦九郎親の男。官途は丹後守。室は秋月種実の娘。松浦九郎親が東斉忠に謀殺されたため、五歳で相神浦松浦家の家督を相続した。羽柴秀吉の「九州征伐」に参陣した。その後、相神浦家の人質として大坂で送られた。1592年「文禄の役」では、松浦鎮信、松浦久信、松浦信実、日高喜、志佐純高らと共に参陣した。1593年、平壌で討死した。これにより相神浦松浦家は実質滅亡した。

丸田源蔵【まるたげんぞう(15??~1563)】

相神浦松浦家臣。通称源蔵。松尾与三郎、丸田源蔵と並んで強弓の名手。1563年、松浦隆信との「飯盛山城の戦い」では、飯盛山城に籠城するも松浦隆信が用いた大砲(ハラカン砲)により討死した。

宮村通定【みやむらみちさだ(15??~15??)】

小峰城主。小峰城は松浦家、大村家双方から侵攻の的となった。1521年、宮村通定は家臣の謀叛によって城を追われ、嫡宮村男悪四郎は討死した。

三瀬宗利【みせむねとし(15??~15??)】

三瀬城主。官途は土佐守。神代三人衆のひとり。没落した神代宗元をこの城に迎え、この地で神代家を再興させた。神代宗元の嫡男神代勝利と称して、周辺の豪族衆をまとめ、龍造寺家兼と対抗した。神代勝利が討死すると、龍造寺隆信と和議んだ。

諸岡信良【ものろかのぶよし(15??~15??)】

龍造寺家兼家臣。200町を領した。

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【や】

八戸宗暘【やえむねてる(15??~15??)】

少弐冬尚家臣。佐嘉郡八戸城主。於保宗益の男。官途は下野守。室は龍造寺周家の娘。1551年、龍造寺宗家の家督を巡って龍造寺鑑兼と龍造寺隆信が争うと、龍造寺鑑兼勢に属して龍造寺胤信を攻撃した。

横岳資貞【よこだけしけさだ(15??~15??)】

少弐資元家臣。三根郡西島城主。三根郡郡代職。官途は兵庫頭。1508年、足利義稙と大内義興の上洛勢を少弐資元勢を率いて参陣した。1563年、少弐政興を擁立し龍造寺隆信と戦った。1570年、龍造寺隆信と所領を巡り抗争したが、大友義鎮に仲介により和議を結んだ。のち龍造寺隆信に降伏した。1581年、「筑後討伐」に参陣した。

横岳資誠【よこだけすけまさ(1521~1570)】

横岳資貞の男。官途は讃岐守。通称彦四郎。室は少弐冬尚の娘。幼少の頃から少弐資元を助けて、その補佐役に当たっていた。後に少弐冬尚の娘を娶って重用された。

横岳頼継【よこだけよりつぐ(15??~15??)】

横岳資貞の次男。官途は掃部助。通称源三郎。り龍造寺隆信に属した。1575年、「西島城の戦い」では、横岳家実を説得して和議に導いた。1579年、「筑後討伐」で戦功を挙げた。

横岳家実【よこだけいえざね(15??~15??)】

横岳資誠の男。官途は中務大輔。通称弥十郎。少弐冬尚の討死後は大友義鎮勢に属した。その後も龍造寺隆信の侵攻をたびたび受けたがすべて退けた。1575年、叔父横岳頼継らを仲介として龍造寺隆信と和議を結び、以後龍造寺隆信勢に属した。1583年、肥前高来郡深江城の守備に就いた。龍造寺政家からも感状を得た。

横岳家房【よこたけいえふさ(15??~15??)】

横岳鎮貞の男。

横岳親次【よこたけちかつぐ(15??~15??)】

龍造寺隆信家臣。1569年、安武家教の退去後、海津城主。
 
村中龍造寺家和【りゅうぞうじいえかず(15??~1528)】

龍造寺康家の次男。別名龍造寺家員。兄龍造寺胤家が家中に争いを起こして出奔したため、家督を相続した。1502年、千葉興常より肥前小城郡、佐嘉郡において所領を得た。1507年、大内義興が中国、四国、九州の諸将を率いて上洛した際、大内義興に従って上洛した。その後は千葉興常や大内義興に従いながら東肥前に勢力を保持した。
 
村中龍造寺胤和【りゅうぞうじたねかず(15??~15??)】

龍造寺家員の男。官途は刑部大輔。別名龍造寺胤員。室は龍造寺家弘の娘(賀昌院)。娘(慶誾尼)は龍造寺周家に嫁ぎ、龍造寺隆信を生んだ。父龍造寺家員の隠居により早くから家督を相続したが早世しため、弟龍造寺胤久が龍造寺宗家家督を相続した。

村中龍造寺胤久【りゅうぞうじたねひさ(1500~1539)】

龍造寺家員の次男。官途は民部大輔。通称新次郎。1528年、兄龍造寺胤員没後、その室を妻に迎えた。枝連衆の叔父水ヶ江龍造寺家兼の補佐を受けたが、実権は龍造寺家兼のもとにあった。1530年、千葉胤勝より肥前佐嘉郡与賀荘に所領を与えられた。1530年、「田手畷の戦い」にも参陣した。1536年、大友義鑑から筑後生葉郡において100町を与えられた。
 
村中龍造寺胤栄【りゅうぞうじたねみつ(1524~1548)】

龍造寺胤久の男。肥前守護代。官途は宮内大輔。通称新次郎。別名龍造寺胤光。室は龍造寺家門の娘。1545年、龍造寺家兼とともに少弐資元を攻撃した。1546年、龍造寺家兼と対立して少弐資元に村中城を攻落され、大内義隆もとに落延びた。龍造寺家兼と結んで馬場頼周を討取った。1547年、大内義隆の支援を得て少弐資元勢を破り、村中城を奪回し佐嘉郡5,000町、神埼郡西郷500町、三根郡200町など併せて6,000町を領した。た。嗣子がなく病没すると分家の水ヶ江龍造寺隆信が龍造寺宗家を相続した。1551年、龍造寺隆信の家督相続に不満を持つ家臣団は達も少なくなく、龍造寺鑑兼を担いだ龍造寺胤栄旧臣の土橋栄益らによる内紛が起った。龍造寺胤栄の未亡人は龍造寺隆信と再嫁した。娘の於安は小田政光の嫡男小田鎮光に嫁ぎ、小田鎮光が龍造寺隆信に背いたために謀殺されると、波多親と再嫁した。

村中龍造寺家就【りゅうぞうじいえなり(15??~15??)】

龍造寺胤久の次男。官途は越前守。通称新次郎。1544年、龍造寺家兼に属して多久

戦った。1554年、土橋栄益が龍造寺隆信に謀反した際、土橋栄益に属した。1558年、龍造寺隆信勢に属して江上武種と戦った。1572年、「朝日山城の戦い」に参陣した。1579年、龍造寺家親に代わって家老職を務めた。1582年、「肥後侵攻」に参陣して、益城郡で島津義弘勢と戦った。龍造寺隆信の討死後は龍造寺政家の補佐を務めた。「肥後天草一揆」において龍造寺政家の参陣に異を唱えて羽柴秀吉の不興を受け隠居させられた。

水ヶ江龍造寺家兼【りゅうぞうじいえかね(1454~1546)】

少弐資元家臣。龍造寺康家の五男。官途は山城守。通称孫九郎。龍造寺宗家は兄龍造寺家和が相続したので、龍造寺家兼は水ヶ江龍造寺家を興した。龍造寺家和の病没後は、龍造寺胤和、龍造寺胤久を後見して、少弐資元の家臣として龍造寺勢を率いて各地を転戦した。1530年、少弐資元を支援した「田手畷の戦い」では、鍋島清久、鍋島清房父子の協力により大内義隆勢の杉興運を撃破した。1534年、少弐資元と大内義隆の和議を成立させた。1536年、少弐資元は和議を破棄して直前に侵攻したが、大内義隆勢の攻撃を受け討死した。馬場頼周は龍造寺家の排除を画策した。1545年、肥前国に参陣中の龍造寺家兼の留守を突いて馬場頼周が水ヶ江城を攻撃した。龍造寺家兼は蒲池鑑盛を頼って筑後国に落延びた。龍造寺家純、龍造寺家門、龍造寺周家ら水ヶ江龍造寺家枝連衆は謀殺された。龍造寺家兼は蒲池鑑盛、鍋島清房らの助勢を得て水ヶ江城を奪還し、更に小城郡に侵攻して馬場頼周を討取った。1546年、僧籍にあった円月(龍造寺隆信)の還俗をさせ、水ヶ江龍造寺家の家督を相続させた。

水ヶ江龍造寺家純【りゅうぞうじいえずみ(1479~1545)】

龍造寺家兼の男。官途は兵庫助。通称右衛門大夫。別名龍造寺家重。父龍造寺家兼とともに少弐資元に仕えた。1530年、「田手畷の戦い」では少弐資元勢として奮戦し、大内義隆勢を破る戦功を挙げた。1535年、大内義隆との戦いで少弐資元が自刃すると、大内義隆勢との内通を疑われたが、少弐冬尚は龍造寺家兼の次男龍造寺家門を少弐家の執権と据えて少弐家再興を果たした。弟龍造寺家門を養子とし水ヶ江龍造寺家の相続させた。また、嫡男龍造寺周家を龍造寺家門の養子として送り込み、本家村中龍造寺家から姫(のちの慶闇尼)を龍造寺周家を室に迎えた。1545年、龍造寺家の増長を恐れる少弐冬尚の家臣馬場頼周に弟龍造寺家門らとともに河上社境内で謀殺された。

龍造寺家門【りゅうぞうじいえかど(15??~1545)】

龍造寺家兼の次男(龍造寺家純の養子)。官途は和泉守。水ヶ江龍造寺家の家督を相続して、龍造寺家純の嫡男龍造寺周家を養子として後継者とした。父龍造寺家兼は凋落する少弐資元の家臣として数々の戦功を挙げた。1535年、大内義隆との戦いで少弐資元が自刃すると、大内義隆勢との内通を疑われたが、少弐冬尚は龍造寺家兼の次男龍造寺家門を少弐家の執権と据えて少弐家再興を果たした。1545年、馬場頼周らによって、龍造寺家純、龍造寺周家、龍造寺家泰らとともに河上社境内で謀殺された。龍造寺家門の頸を見た馬場頼周は憎しみのあまり足蹴にして侮辱した。

龍造寺周家【りゅうぞうじちかいえ(1504~1545)】

龍造寺家純の男(龍造寺家門の養子)。1545年、父龍造寺家純、養父龍造寺家門、弟龍造寺純家、龍造寺頼純、義弟龍造寺家泰等、他の多くの枝連衆とともに、馬場頼周に謀殺された。

龍造寺家親【りゅうぞうじいえちか(15??~15??)】

龍造寺胤家の男。官途は播磨守。1544年、杵島郡長島に参陣し、藤津郡冬野原で有馬晴純と戦って負傷した。

龍造寺家直【りゅうぞうじいえなお(15??~15??)】

龍造寺盛家の男。官途は伊賀守。1558年、「城原城の戦い」に参陣した。また龍造寺隆信の村中龍造寺家相続の評定に列席した。

龍造寺家晴【りゅうぞうじいえはる(15??~1613)】

龍造寺鑑兼の男。官途は兵庫頭。通称七郎左衛門。別に信重。1570年、蓮池小曲城を守備した。1580年、蒲池鎮連との「柳河城の戦い」に参陣した。1581年、「肥後国討伐」に参陣した。龍造寺隆信の討死後、柳河城にあった鍋島直茂が佐嘉城に入るとこれに代わって柳河城に入り、戸次鑑連、高橋紹運らの攻撃を受けるがこれを撃退した。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」後、柳河城を失って龍造寺政家預かりとなり、のち肥前高来郡諫早城主となった。

龍造寺家泰【りゅうぞうじいえやす(15??~1545)】

龍造寺家門の男。通称三郎。1545年、龍造寺周家とともに少弐冬尚のもとへ謝罪に向かった。その途中肥前神埼郡祗園原で馬場頼周により謀殺された。

龍造寺鑑兼【りゅうぞうじあきかね(15??~15??)】

龍造寺家門の次男。官途は左衛門佐。通称孫九郎。1548年、龍造寺胤栄が病没すると、土橋栄益らに擁されて龍造寺隆信と宗家の家督を巡って争った。龍造寺胤信を筑後国に追放した。1551年、龍造寺隆信が鍋島清房らの援助を受けて肥前に侵攻し、龍造寺鑑兼はこれと戦って敗れて捕虜となった。のち許されて、水ヶ江龍造寺家を相続した。

龍造寺宗珍斎【りゅうぞうじそうちんさい(15??~15??)】

龍造寺家門の男。肥前佐嘉郡川副郷太田宝光院の住持。還俗して三村家を称した。

龍造寺隆信【りゅうぞうじたかのぶ(1529~1584)】

龍造寺周家の男。官途は山城守。別名円月。室は龍造寺家門の娘。仏門に入り宝琳院にあって円月と称した。1546年、祖父龍造寺家兼の病没後還俗し、水ヶ江龍造寺家の家督を相続した。1548年、宗家の家村中龍造寺胤栄が病没すると龍造寺胤栄の室を娶って宗家の家督を相続して佐嘉城主となった。「大寧寺の変」で大内義隆が討死すると、土橋栄益らが龍造寺鑑兼を擁して龍造寺隆信を攻撃した。龍造寺隆信は小田政光の家臣深町理忠の進言を受け蒲池鑑盛のもとに落延びた。1553年、佐嘉城に侵攻し土橋栄益らぼ討取り、龍造寺鑑兼を追放した。1560年、少弐冬尚、千葉胤頼らを滅ぼし馬場鑑周、横岳鎮貞、神代勝利らとも争った。1556年、毛利元就と結んで大友義鎮に対抗した。1570年、大友義鎮勢の攻撃を受けたが「今山の戦い」で大友親貞を討取る戦功を挙げ、東肥前国から大友義鎮勢力を一掃した。1578年、有馬晴信を降して西肥後国を勢力下に置いた。1578年、大友義鎮勢が「日向耳川の戦い」で大敗すると龍造寺隆信勢の勢力が増大した。1579年、筑後国、筑前国、北肥後国に侵攻し、大友義鎮勢と戦った。1583年、益城郡堅志田城に龍造寺政家を入れて島津義久勢の侵攻に備えた。1584年、有馬信晴が龍造寺隆信から離反して島津義久に属した。「沖田畷の戦い」で、釣り野伏にかかり龍造寺隆信以下多くの勇将が討死した。

龍造寺長信【りゅうぞうじながのぶ(15??~1603)】

龍造寺周家の次男。官途は和泉守。通称六郎次郎。別龍造寺家信。室は小田政光の娘。1558年、龍造寺隆信は小田政光を滅ぼしたが小田政光の嫡男小田鎮光を龍造寺長信に預けた。1559年、龍造寺隆信は少弐冬尚を滅ぼしたが、少弐冬尚の弟少弐政興が梶峰城主多久宗利の支援を受けて兵を挙げた。1563年、龍造寺隆信は、梶峰城主多久宗利を討取り、小田鎮光を城主に任じて、龍造寺長信は蓮池城を居城した。1571年、久梶峰城主。1570年、「今山の戦い」後、大友義鎮勢に属した、小田鎮光を鍋島信生とともに攻撃し、後藤家信を奪取した。1581年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が討死すると、鍋島直茂とともに龍造寺政家を補佐した。1590年、龍造寺高房も補佐した。龍造寺長信の嫡男龍造寺賢康は多久安順と称して、鍋島直茂の娘(千鶴)を娶った。

龍造寺信周【りゅうぞうじのぶちか(1535~1608)】

龍造寺周家の三男。官途は阿波守。通称新次郎。別名龍造寺周光。兄龍造寺隆信に従って、杵島郡方面の戦域を担当した。1570年、「今山の戦い」で勝利した、龍造寺隆信であったが、国内情勢は不安定であったため、大友義鎮と和議が結ばれ人質として豊後国に送られた。豊後国では、大友家の諸将と親交を結び、大友義鎮の勢力の切り崩しを図った。1580年、筑前国、豊前国方面の戦域を担当して、宇都宮鎮房、長野鎮辰らを降した。1582年、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が討死にすると、龍造寺政家、龍造寺高房を補佐して領国安堵に努めた。鍋島直茂の勢力拡大を抑えることができず、龍造寺高房の病没後は鍋島直茂に仕えた。次男龍造寺信昭のとき須古鍋島家(龍造寺四家のひとつ)を称した。

龍造寺政家【りゅうぞうじまさいえ(1566~1607)】

龍造寺隆信の男。官途は肥前守。1579年、筑後国高良山麟圭に対し、父龍造寺隆信と連名で座主職を安堵した。1580年、蒲池鎮並を討取った。父龍造寺隆信の隠居により龍造寺家の家督を相続した。1582年、筑後国山門郡の田尻鑑種が謀反を起こすとこれを討取った。1583年、肥後国で島津義久勢と戦った。玉名郡南関で島津義弘と和議を結び領域を確定した。1584年、父龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で討死すると、鍋島直茂を柳河城から呼び戻し、叔父龍造寺長信、龍造寺信周らとともに島津義久勢に対抗した。島津義久と和議を結んだ。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、羽柴秀吉勢に属して島津義久勢と戦った。1590年、龍造寺宗家の家督を龍造寺高房に家督を譲り、統治は鍋島直茂に委任した。

龍造寺高房【りゅうぞうじたかふさ(15??~1607)】

龍造寺政家の男。1590年、父龍造寺政家の隠居により龍造寺宗家の家督を相続した。龍造寺家の家政は鍋島直茂が握っていた。1600年、「関ヶ原の役」後は、龍造寺家内においても鍋島直茂に対抗する勢力もなくなった。1607年、自刃した。

龍造寺常家【りゅうぞうじつねいえ(15??~1545)】

龍造寺胤直の女婿。1544年、龍造寺家門らとともに杵島郡長島に参陣し、藤津郡において有馬晴純勢と戦ったが、「冬野原の戦い」で討死した。

龍造寺盛家【りゅうぞうじもりいえ(15??~1544)】

髙木満兼の男(龍造寺胤家の養子)。官途は伯耆守。1544年、龍造寺家兼に属して、多久と戦ったが、松浦郡大小野立川で討死した。

龍造寺胤直【りゅうぞうじたねなお(15??~1545)】

龍造寺胤家の男。官途は右京亮。通称勝太郎。別名龍造寺家賢。1544年、龍造寺家兼勢に属して肥前杵島郡長島に参陣した。藤津郡に侵攻して有馬晴純勢と戦った。1545年、藤津郡冬野原で討死した。

龍造寺康房【りゅうぞうじやすふさ(15??~1584)】

鍋島清房の四男(龍造寺純家の養子)。官途は下総守。通称太郎五郎。別名鍋島康房。多久女山城主。1584年、「沖田畷の戦い」で討死した。

龍造寺宗春【りゅうぞうじむねはる(15??~15??)】

八戸宗暘の男。通称助兵衛。

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【資料Ⅰ】

北肥前国(10郡/356,000石)

基肄郡:勝尾城。
養父郡:朝日山城。
三根郡:綾部城。
神埼郡:三瀬城。
佐嘉郡:蓮池城、佐嘉城。
小城郡:梶峰城、芦刈城。
杵島郡:武雄城、須古城。
北松浦郡:名護屋城、伊万里城。
南松浦郡:唐船城、里城。
平戸島:勝尾獄城。

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【資料Ⅱ】

龍造寺家四天王【りゅうぞうじしてんのう】

成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤。

東肥前国十九城将【ひがしひぜんこくじゅうきゅうしょう】

朝日山城主:朝日宗贇、姉川城主:姉川惟安、白虎山城主:綾部鎮幸、出雲氏忠、蒲田江城主:犬塚家重、崎村城主:東犬塚鎮直、直鳥城主:犬塚鎮家、勢福寺城主:江上武種、蓮池城主:小田政光、三瀬城主:神代勝利、宗尚夏、西高木胤秀、東高木鑑房、勝尾城主:筑紫惟門、中野城主:馬場鑑周、藤崎盛義、本告牟田城主:本告信景、西島城主:横岳資誠、八戸城主:八戸宗暘。

龍造寺家三家老【りゅうぞうじけさんかろう】

土肥家実、小河信貫、納富家理。

鍋島三生【(15??~15??)】

石井生札、鍋島生三、下村生運

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【資料Ⅲ】

東肥前国【ひがしひぜんこく】

九州の北西部に位置する西海の国。北東部は背振山地で筑前国で境を接し、東南部では筑後川沿いに筑後国との国境を作り、筑後川から西に有明海を臨む。西は西海に面し、平戸島、五島列島など多くの島嶼を抱える。南は西彼杵、長崎、島原などの半島が天草灘に突き出し、遠く東シナ海へと続いている。北方の玄界灘には壱岐水道を隔てて壱岐国、さらにその北の対馬国を臨む。三方を海に囲まれた半島の多い国で、数多くの島嶼と半島を持ち、複雑に入り組んだ長い海岸線のために海産物に恵まれている。湊に適した場所も多く、大陸に近い国であることから、大陸への交通路として重視され、沿岸は遣唐使船の寄湊地となり、大陸、朝鮮半島との交易が盛んに行われた。地理的条件により、北松浦半島の松浦党らの海賊衆が発達し、鎌倉時代から倭寇の根拠地になった。


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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、豊臣秀吉は羽柴秀吉の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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