2014年1月11日土曜日

戦国薩摩国人名事典

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【あ】

相徳新左衛門尉【あいとくさえもんのじょう(15??~1527)】

薩州島津実久家臣。1527年、島津忠良の攻撃を受け、城将の大寺資安、鎌田加賀守は共に落延びたが、大山宮内少輔、平田豊前守、相徳新左衛門尉は討死した。

石谷梅久【いしだにうめひさ(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。石谷梅吉の嫡男。島津忠良の誘いで寝返った。鹿児島を脱出して伊集院に向かう途中に、島津実久勢に囲まれて討死した。

石谷忠成【いしだにただなり(15??~1561)】

石谷梅久の次男。官途は因幡守。島津貴久の命で島津忠将の家老職となった。1561年「廻城の戦い」で島津忠将に属して、竹原山の味方を救援に向かう途中、馬立坂で討死した。

石谷久徳【いしだにひさとく(15??~15??)】

石谷忠栄の男。

伊地知重貞【いじちしげさだ(15??~1527)】

薩州島津実久家臣。官途は周防守。1527年、島津貴久の宗家家督相続に反対し挙兵したが、島津忠良によって自刃に追い込まれた。

伊集院忠朗【いじゅういんただあき(1501~15??)】

日置郡市来城主。伊集院忠公の男。官途は大和守。通称源四郎。1539年、苦辛城主平田宗秀を降した。1541年、大隅国別府城主樺山幸久を支援して本田薫親と戦った。1548年、本田薫親が八幡宮を攻めた際は咲隈城を守備した。1549年、島津忠親と共に日向伊東家を攻め、大隅加治木城主肝属兼演を攻略した。1554年「岩剣城の戦い」で戦功を挙げた。

伊集院忠倉【いじゅういんただあお(1525~15??)】

伊集院忠朗の男。官途は大和守。通称右衛門大夫。1549年、父伊集院忠朗と共に樺山幸久と菱刈隆秋、北原兼守の和睦交渉にあたった。加治木城主肝付兼演が入来院重朝、東郷重らと謀って挙兵したため、父伊集院忠朗と共に「黒川崎で戦い」で肝属兼演を撃破して鎮圧した

伊集院忠棟【いじゅういんただむね(1550~1599)】

伊集院忠倉の男。官途は右衛門大夫。通称源太。室は島津久定の娘。島津義久に仕え、島津家筆頭家老として島津家の政務を取り仕切った。1582年、島津義久の「肥後国平定戦」に参陣した。「堅志田城の戦い」「肥前五箇浦の戦い」など、肥後、筑後国の計略に戦功を挙げた。1587年「九州征伐」後に、人質として羽柴秀吉もとへ赴いた。1595年、領内で検地が行われ、北郷家に代わり日向諸県郡庄内80,000石を領した。この後、権勢を誇るようになったため、島津宗家と対立した。1599年、伊集院忠棟は伏見の島津家邸で島津家久
によって謀殺された。

伊集院忠真【いじゅういんただざね(1568~1602)】

伊集院忠棟の男。通称源次郎。室は島津義弘の娘。1599年、父伊集院忠棟が島津家久に謀殺された際、日向都城で「荘内の乱」を起した。1600年、松平元康の仲介で降伏、薩摩国頴娃10,000石、大隅国帖佐で20,000石を領した。しかし、その後も反抗的な態度を取った。1602年、島津家久上洛の際に、日向国諸県郡野尻で謀殺された。

伊集院忠胤【いじゅいんただたね(15??~15??)】

伊集院倍久の次男。官途は周防守。通称重助。島津久豊と争って敗れ降伏した。伊集院倍久のとき島津忠良に属した。

伊集院久宣【いじゅいんひさのぶ(1530~1587)】

伊集院忠胤の三男。官途は美作守。「蒲生城の戦い」「馬越城の戦い」「高原城の戦い」などで戦功を挙げ、清武地頭となった。1582年「肥後国討伐」吉利忠澄、新納忠元と共にに戦功を挙げた。1587年、豊後国侵攻では、島津家久勢に属して、野村文綱、白浜重政らと豊後国鶴崎城攻めに参陣したが、撤退中に討死した。

伊集院忠許【いじゅういんただもと(15??~15??)】

伊集院久宣の男。通称吉右衛門尉。1592年「文禄の役」に参陣した。

伊集院山城守【いじゅういんやましろのかみ(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。1539年、杉崎丹後守、河野太郎左衛門、谷山駿河守、勝目兵庫允、市来縫殿助、高城右衛門、永井大炊介らと共に神前城守将となった。島津忠良勢の攻撃を受け討死した。

伊集院久盈【いじゅういんひさみつ(15??~15??)】

伊集院久景の男。島津忠昌に仕え、犬追物の射手を務めた。島津勝久を他の家臣とともに諌めたが、聞き入れられなかったため出奔し、島津忠良に仕えた。

伊集院久慶【いじゅういんひさよし(15??~1567)】

石谷忠栄の三男。伊集院久盈の養子。1567年「菱刈家討伐」の際、西之原での菱刈家勢との戦いで、市来家利、平田加賀らと共に討死した。

伊集院忠光【いじゅういんただみつ(15??~15??)】

伊集院久慶の男。伊集院久宣が清武地頭となったのに伴い清武へ赴く。伊集院久宣が豊後国で討死すると清武城を守った。大姶良で病死した。

伊集院久武【いじゅういんひさたけ(15??~15??)】

伊集院忠光の子。官途は刑部少輔。父伊集院忠光の病没K後、富隈へ赴き島津義久の小姓となった。1600年「庄内の乱」に参陣した。「関ヶ原の役」では、島津義弘に属して戦功を挙げた。

入来院重聡【いりきいんしげさと(15??~15??)】

薩摩郡隈之城主。入来院重豊の男。娘は島津貴久に嫁入りし、島津義久、島津義弘、島津歳久の島津家三兄弟を産んだ。奥州島津勝久の勢力が衰えると薩州家島津実久が川内地方に侵入、入来院重聡と戦った。島津実久と抗争を続ける入来院重聡は島津忠良に属したが、北薩摩国の東郷、祁答院、菱刈、南薩国の川上、新納、平田、頴娃、大隅国の肝付、禰寝、日向国の伊東らは島津実久に属するか中立を保った。1535年、島津勝久は島津実久に鹿児島城を攻略され、帖佐城の祁答院を頼って落延びた。1537年、入来院重聡は島津貴久を援けて伊集院の竹山城を攻略した。1539年、市来城を攻め落とした。入来院重聡の嫡男入来院重朝は市来城を攻撃して、島津実久の弟島津忠辰を討取り城将新納忠苗を降した。

入来院重朝【いりきいんしげとも(15??~15??)】

入来院重聡の男。官途は石見守。通称又五郎。1539年、島津忠良、島津貴久父子と薩州家島津実久が争った際には、島津忠良に属した。「市来城の戦い」「百次城の戦い」に参陣し戦功を挙げた。その後も島津忠良、島津貴久に属して薩摩国、大隅国を転戦し、戦功を挙げた。入来院重朝は、川内地方に勢力を広げ、莫禰、串木野、姶良から錦江湾に到る所領を領した。入来院重朝の勢力が拡大すると、加治木城主肝付兼演、帖佐城主祁答院良重、蒲生範清らと結んで、再び島津貴久と対立した。1549年、加治木城が落城し肝付兼演、祁答院良重らが島津貴久に降伏した。1553年、入来院重朝、祁答院良重、蒲生範清らは再び島津貴久に叛き「岩剣城の戦い」「蒲生城の戦い」が起こった。1557年、蒲生範清は、島津貴久に降伏して、祁答院良重の元に落延びた。

入来院重嗣【いりきいん しげつぐ(15??~15??)】

入来院重朝の男。官途は加賀守。通称又五郎祁答院良重と結び島津貴久に対抗した。1554年「岩剣の合戦」で、祁答院良重が敗北すると反島津家勢力が急速に衰えた。1569年、東郷重尚と共に島津義久に降伏した。

入来院重豊【いりきいんしげとよ(15??~1583)】

入来院重嗣の男。官途は弾正少弼。通称又五郎。1574年、島津義久に対しての謀反の噂が流れたため、島津義久に起請文を認め異心なきを示し、所領の山田、天辰、田崎、寄田を献上、島津義久は寄田を返付し本領入来院七十五町を安堵した。1576年、島津義久の「日向国平定戦」に参陣して「高原城の戦い」で戦功を挙げた。その後も「肥後国平定戦」でも戦功を挙げた。1583年、入来院重豊には、嫡男がなかったため、島津以久の子入来院重時が養子として入り入来院家の家督を相続した。

入来院重時【いりきいんしげとき(15??~1600)】

島津以久の次男。入来院重豊の養子。官途は弾正少弼。通称又六。室は島津歳久の娘。室は島津忠隣の室だったが、島津忠隣が討死したため入来院重時と再婚した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」では島津歳久、新納忠元らと共に戦功を挙げた。1592年、島津義弘に属して「文禄の役」に参陣した。1599年「庄内の乱」では、入来院重時は島津義久に属したものの、伊集院忠真側に入来院家臣が参陣していた事から、松平元康に釈明するため上京した島津忠恒に同行した。1600年「関ヶ原の役」では、島津義弘に属して参陣していたが、撤退戦で島津義弘とはぐれてしまい、松平元康勢に発見され、家臣七名と共に討取られた。

入来院重高【いりきいんしげたか(1579~1647)】

島津義虎の五男。官途は石見守。通称弥一郎。別名島津忠富。室は入来院重時の娘。兄島津忠辰が羽柴秀吉の怒りを買って改易されると、兄達と共に小西行長の元で幽閉された。1594年、小西行長に属して「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。1597年、島津義弘に属して「南原城の戦い」「泗川の戦い」で戦功を挙げた。1599年「庄内の乱」では、吉利忠張、新納忠在と共に山田城を攻撃した。また、白石永仙が伏兵を用いて攻撃した際も、敵を打ち破って味方を助けた。1600年「関ヶ原の役」では、島津義弘と共に薩摩国へ撤退した。頴娃久音の名跡を相続し、頴娃久秀と称した。1605年「関ヶ原の役」で、討死した入来院重時の娘を娶り入来院家の家督を相続し入来院重高と称した。1637年「島原の乱」に参陣、島津久賀、喜入忠政、北郷久加、山田有栄と共に島津忠恒の馬廻衆となった。

頴娃兼心【えいかねけんしん(1454~1532)】

頴娃城主。頴娃兼郷の男。官途は山城守。島津忠昌に属し禰寝重清らとともに指宿城を攻略した。当初、島津忠昌の三男頴娃(島津)忠兼を養子に迎えていた。その後、頴娃忠兼は島津家を相続したため、本家肝付家から頴娃兼洪そ養子に迎えた。

頴娃兼洪【えいかねひろ(1506~1538)】

肝属兼久の次男。頴娃兼心の養子。官途は左馬允。1525年、頴娃兼心に嗣子が無かったために養子となった。父肝属兼久は家臣萩原兼宗等を附属させた。指宿地方は、島津忠良、知覧、祢寝、肝付の諸家の間で争奪戦が繰り返された要地で、頴娃兼洪は「指宿城の戦い」などの抗争に明け暮れた。1525年、頴娃兼洪は家臣津曲若狭守に命じて指宿城を攻撃させ、これを落すと津曲を地頭に命じて守らせた。島津勝久と島津貴久とが対立すると、頴娃兼洪は義兄島津勝久に加担していた。1531年、島津忠良が、頴娃兼洪に出府を命じてきたが、頴娃兼洪はこれに応じなかった。その結果、島津家は頴娃兼洪を攻撃、頴娃城は落城寸前に追い込まれた。家臣の津曲若狭守に降伏を勧められ、嫡男頴娃稲千代を人質に差出し降伏した。1533年、頴娃家は島津貴久派につき、島津勝久派の田代民部介は追放した。

.頴娃兼友【えいかねかねとも(1529~1548)】

頴娃兼洪の男。1538年、頴娃兼洪の嫡男頴娃兼友が十歳で家督を継いだが頴娃兼友も二十歳で早世したため、叔父頴娃兼堅が頴娃家の家督を相続した。

頴娃兼堅【えいかねかねかた(1531~1569)】

頴娃兼洪の次男。甥頴娃兼友の早世により頴娃家の家督を相続した。島津家との関係を強化し、友好関係を進めることで、頴娃家の地位は安定し、頴娃兼堅の代に頴娃家の最盛期を現出させた。頴娃兼堅は信仰心があつく、領内各地の指宿野神社、新宮掖宮、開聞神社西宮、指宿御崎権現社などの修理を行った。頴娃家は津曲若狭守を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島宗勝、竹内伊豆守らの家老がいて、領内もよく統治され、頴娃郡、指宿両郡の地頭として47,000石を領した。

頴娃兼有【えいかねかなあり(15??~1571)】

頴娃兼堅の男。父頴娃兼堅の死後、側室の子である頴娃久虎と家督を巡って対立した。開聞宮に立て籠もり、頴娃の農民や開聞宮の社家、衆徒と共に戦ったが討死した。

頴娃久虎【えいかねひさとら(1558~1587)】

頴娃兼堅の次男。1571年、兄頴娃兼有が討死すると頴娃家の家督を相続した。1576年、島津義久が伊東義祐を三之山に攻めたとき、島津義久に属して戦功を挙げた。以後、島津義久、島津義弘らの九州統一戦に参陣し「耳川の戦い」「水俣城の戦い」「肥後千々輪城の戦い」「沖田畷の戦い」「日向侵攻」などの戦いにおいて数々の戦功を挙げた。1584年、島津義久の談合衆を務め、島津義弘をして「豊肥戦はすべて頴娃久虎によった」と称した挿話は有名。居城である頴娃城に三層五階の天守閣を造営、さらに、指宿新宮の東宮の修築、開聞神社の造営など、領主としての力も誇示した。1587年、二十五歳の若さで病没してしまった。頴娃家の家督は、わずか五歳の嫡男頴娃久音が相続した。

頴娃久音【えいかねひさね(1583~1598)】

頴娃久虎の次男。1587年、父の死後頴娃久音は頴娃、指宿、山川の本領を没収されて、谷山郷山田に転封させられた。頴娃、指宿、石高30,000石余に対して、谷山郷山田は300石で、実に百分の一に減封という厳しいものであった。その理由は、島津家が羽柴秀吉の「九州征伐」に敗れて、領地不足をきたため、改易に近い処分を受けたことで、頴娃家の頴娃、山川、指宿の所領も減封の処分を受けた。1593年、頴娃久音は日置郡満家院西俣村に750石を与えられたが、代々の家臣も従っていた頴娃家の財政はかなり苦しかった。1597年、頴娃久音は島津義弘に従って「文禄の役」に参陣した。このとき、頴娃久音は島津義弘から「つつがなく帰国できれば、本領を復し、公姫をもって配すべし」と約束された。1598年、島津義弘勢は「泗川の戦い」において、明軍200,000余りを撃退し、兵38,000余りを討取った。頴娃久音もこの戦いで戦功を挙げたが負傷し、その傷がもとで亡くなってしまった。頴娃久音には嫡男がなかったため、頴娃家は断絶した。頴娃久音のあとは、島津義虎の五男頴娃(島津)久秀が入嗣して頴娃家の家督を相続した。

頴娃久政【えいかねひさまさ(1584~1649)】

鎌田政近の四男(頴娃久音の養子)。官途は左馬頭。頴娃久秀(島津義虎の五男)が入来院家を継いだため、頴娃家を継いだ。

頴娃左近将監【えいさこんのしょうえ15??~15??)】

頴娃兼洪家臣。頴娃家は津曲兼任を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島宗勝、竹内伊豆守らの家老衆がおり、領内をよく統治した。

大寺資安【おおでらすけやす(15??~1536)】

薩州島津実久家臣。官途は越前守。1527年、鎌田加賀守と共に加世田城主大山内蔵介の救援に向かうも、島津忠良勢に敗れた。1536年、石谷城に派遣されるが副将石谷忠栄に謀殺された。

大山内蔵介【おおやまくらのすけ(15??~1527)】

加世田城主。薩州島津実久家臣。1527年、島津忠良の攻撃を受け、城将の大寺資安、鎌田加賀守は共に落延びたが、大山宮内少輔、平田豊前守、相徳新左衛門尉は討死した。

小川有季【おがわありすえ(15??~15??)】

甑島領主。小川季輝の男。官途は中務大輔。室は島津義虎の娘。1595年、田布施郷高橋村に移封された。小川有季は郎党200騎余りを率いて新知行地、田布施へと移住した。甑島は島津家の直轄地となり代官が治めるところとなった。田布施へ移り住んだ小川有季は吹上浜で憤死した。

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【か】

柏木源藤【かしわぎもとふじ(15??~15??)】

川上忠兄家臣。1600年「関ヶ原の役」での敵中突破の退却戦で、島津義弘を戦場から離脱させるため、捨て奸となり井伊直政を狙撃して負傷させた。

鎌田加賀守【かまたかがのかみ(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。別名鎌田政真。1527年、大寺越前と守共に加世田城主大山内蔵介の救援に向かうも、島津忠良勢に敗れた。1528年、島津忠良に降伏した。

鎌田治部左衛門【かまたじぶざえもん(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。1528年、島津忠良に妻子を人質に差出し降伏した。

樺山広久【かばやまひろひさ(15??~15??)】

奥州島津勝久家臣。樺山長久の男。別名樺山信久。室は本田兼親の娘。1525年、大隅国清水城主本田薫親により大隅姶良郡小浜などを奪われ、姶良郡長浜城に移った。1527年、本田兼親らと対立する島津忠良に属した。島津勝久に攻撃されるも、島津忠秋を仲介にして和睦した。

樺山善久【かばやまよしひさ(1513~15??)】

樺山広久の男。官途は安芸守。通称助太郎。室は島津忠良の次女。和歌を好み、近衛稙家に拝褐して古今伝授を受け、飛鳥井雅綱から蹴鞠を習うなどする一方、武勇にも優れた武将であった。1539年、島津貴久に属して参陣した「湯田口の戦い」では、敵将小野左近を討取る戦功を挙げた。1548年、本田薫親が領内で争乱を起こすと、清水城を攻め落とした。本田薫親の書き残した「立訓し 槇の柱もわすれなよ 帰り来てあふ 世あるやと」を見つけると、樺山善久は「流れ出て 浮ふ瀬もなき 水茎の あとはかなくも 頼をくかな」と返歌を読み、それを書いた短冊を本田薫親へ送った。1592年「文禄の役」では、樺山善久は老年の為に参陣が許されず、「君か為 名のため取りし 梓弓 八十余りの 身こそつらけれ」との歌を詠んだ。

樺山幸久【かばやまさちひさ(15??~15??)】

奥州島津勝久家臣。1529年、島津勝久に島津忠良、島津貴久親子との和睦を申し入れた。1541年、島津忠広、北郷忠相と戦った。1549年、菱刈、北原と戦ったが島津貴久の仲介により和睦した。

川上忠克【かわかみただかつ(1507~1592)】

薩州島津実久家臣。川上栄久の次男。官途は上野守。通称源三郎。島津家庶流川上家の枝連衆で、兄川上道堯が病身であったために家督を相続し串木野30町を領した。1526年、島津貴久の宗家家督相続に反対した。1527年、島津勝久への使者となり守護復帰を求めた。島津実久の説得により、島津勝久は守護職に復帰した。しかし、島津実久が島津貴久と争って没落すると島津貴久に降伏した。甑島に流刑に処されたが、三年後に罪を許されて島津貴久の家老となった。

川上久朗【かわかみ ひさあき(1536~1568)】

川上忠克の男。官途は左近将監。通称は源三郎。若い頃から智勇兼備の誉れが高く、その才能は島津忠良や島津義久にも高く評価され、島津義久から島津家の家老職、並びに守護代にまで任じられた。1555年、蒲生家攻略、肝付兼続との「廻城の戦い」などの戦いで戦功を挙げた。1568年、相良義陽との戦いで赤池長任の守る大口城攻めのとき、島津義弘を守るために孤軍奮闘して深手を負い、鹿児島に帰還したが死去した。

桑波田栄景【くわばたひでかげ(15??~1533)】

日置郡南郷城主。桑波田景元の男。奥州島津勝久家臣。通称孫六。1526年、島津忠良から南郷城を与えられた。1533年、島津実久に寝返る。南郷城が堅城であるため、島津忠良は了公という盲僧を派遣して、桑波田栄景が狩猟に出た情報を入手、城攻めを行い、南郷城を攻め落とした。その際、島津忠良勢の先鋒は猟師の姿をすることで城兵を欺き、桑波田栄景の帰城と思って門を開けたところを攻めた。桑波田栄景栄景が居城奪回のため兵を挙げた。島津実久勢が野久尾原に布陣したところを五十騎で側面攻撃した。正面から島津貴久が突撃し、島津実久勢は撤退した。
 
桑波田駿河守【くわばたするがのかみ(15??~15??)】

桑波田栄景の男。島津忠良の次男島津尚久に仕えた。
 
桑波田河内守【くわばたかわちのかみ(15??~15??)】

桑波田栄景家臣。1533年、桑波田栄景が狩猟に出たところを島津忠良に攻められ、落城した。

桑波田式部少輔【くわばたしきぶしょうゆ(15??~15??)】

桑波田栄景家臣。1533年、桑波田栄景が狩猟に出たところを島津忠良に攻められ、落城した。

祁答院重武【けどういんしげたけ(15??~1538)】

薩摩郡虎居城主。祁答院重貴の男。官途は伊勢守。1529年、島津忠良と結んで島津勝久方の伊地知重辰を討取り、姶良郡帖佐本城、山田城を攻略した。1535年、薩州島津実久に鹿児島を追われた奥州島津勝久は、祁答院重武の元に落延びた。祁答院重武は菱刈隆秋、蒲生範清らと共に島津勝久の復帰を図ったが失敗した。

祁答院良重【けどういんよししげ(15??~1566)】

祁答院重武の男。官途は河内守。室は島津義虎の娘。天性の強力で弓射の達人で、乗馬にも長けていた。1538年、父祁答院重武の病没により祁答院家の家督相続した。1549年、肝付兼演が島津忠良勢の伊集院忠朗、菱刈隆秋らに攻められると祁答院良重は蒲生茂清らと共に肝属兼演を援けたが、島津忠良勢の火矢によって肝付兼演が敗走、祁答院良重も島津忠良に降伏した。1554年、島津貴久に属した加治木城主肝付兼演を攻撃したが、島津貴久勢に岩剣城を攻められ嫡男祁答院重経が討死し、祁答院良重は帖佐平安城に落延びた。1555年、島津義弘、喜入季久らに帖佐平安城を攻められ祁答院城に落延びた。1557年、島津貴久に降った蒲生範清、蒲生為清の父子に祁答院松尾城を与えた。1566年、室の島津義虎の娘に謀殺された。

祁答院重経【けどういんしがつね(15??~1554)】

祁答院良重の男。通称又次郎。1554年、父祁答院良重が島津忠良、島津貴久に岩剣城を攻められると蒲生茂清と共に救援に赴いたが敗れて討死した。

祁答院重種【けいどいんしげたね(15??~1600)】

祁答院良重の次男。1569年、島津義久に永野城を攻められ降伏した。1600年「庄内の乱」に参陣し討死した。

河野太郎左衛門【こうのたろうざえもん(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。1539年、伊集院山城守、杉崎丹後守、谷山駿河守らと共に神前城守将となった。島津忠良勢の攻撃を受け討死した。

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【さ】

佐多忠成【さたただなり(1498~1549)】

給黎郡知覧城。佐多忠和の男。別名半門斎。室は島津運久の娘。敷根、百次、串良の地頭。「一宇治城の戦い」「市来平城の戦い」「本田薫親討伐」などで戦功を挙げた。

佐多忠将【さたただまさ(1517~1596)】

佐多忠成の男。病身のため弟佐多忠真が陣代を勤めた。1556年「蒲生城の戦い」で戦功を挙げた。

佐多忠真【さたただざね(15??~15??)】

佐多忠成の次男。官途は兵部少輔。室は伊地知重康の娘。山門地頭。兄佐多忠将が幼少の頃より病身のため代わって陣代を勤めた。

佐多忠増【さたただます(1562~1614)】

佐多忠真の男。官途は宮内少輔。通称又六。1576年「高原城の戦い」で初陣を果たした。1578年「耳川の戦い」で一番槍の戦功を挙げた。1580年「肥後国矢崎城の戦い」では、一日に四度の合戦が行われたが、佐多忠増はその内二度の一番槍の戦功を挙げた。島津義久が羽柴秀吉に降伏した後は、島津義久の降伏後の初上洛に同行した。1589年「小田原征伐」の参陣した。その際に忍城まで軍労し、石田三成より兵糧米や酒肴などを贈られた。1604年、島津義久が国分新城へ屋敷を移す際に、陰陽博士である賀茂在信へその地へ移る善悪を問う為に上洛するなど使い役も果たした。1609年「琉球国討伐」に参陣した。1614年「大坂冬の陣」にも参陣した。

鮫島宗勝【さめじまむねかつ(15??~15??)】

頴娃兼洪家臣。官途は因幡守。頴娃十二町の地頭で、頴娃家四家老のひとり。頴娃家は津曲兼任を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島宗勝、竹内伊豆守らの家老衆がおり、領内をよく統治した。頴娃家四家老のひとり。

鮫島宗政【さめじまむねまさ(15??~1658)】

川辺郡小松原館主。1592年「文禄の役」に参陣した。帰国後、家督を弟鮫島宗行に譲り、万之瀬川河口に近い小松原港を拠点に貿易を始め、小松原繁栄の基礎を築いた。

奥州島津勝久【しまづかつひさ(1503~1573)】

鹿児島郡清水城主。奥州島津忠昌の三男。薩摩、大隅、日向国守護職。官途は修理大夫。通称又八郎。室は禰寝重就の娘。1519年、二人の兄島津忠治、島津忠隆の病没により奥州(宗家)島津家の家督を相続した。薩摩国守護島津家は、内乱や当主の相次ぐ急死により弱体化した。1526年、薩州島津実久が自らを嗣子にするよう強要してきたため、島津勝久は夫人を離縁し、伊作島津忠良の長男島津貴久を養子に迎えた。1527年、島津貴久に守護職を譲り、自らは伊作城に隠居した。薩州島津実久は島津忠良が出兵中に清水城を急襲、島津貴久を敗走させた。島津勝久は島津実久に説得され、再び国政を執ろうとした。島津勝久は島津貴久との養子関係を解消、守護職と家宝を返上するよう求めたため、島津忠良と対立した。事態を憂えた枝連衆の島津忠朝らが清水城を訪ね島津勝久の説得にあたるが失敗した。島津勝久は佞臣を討った家臣川上昌久を誅殺するなど失政を重ね、島津実久に攻められ豊後国に落延びた。

薩州島津実久【しまづ さねひさ(1512~1553)】

出水郡出水城主。薩州島津忠興の男。官途は薩摩守。通称八郎左衛門尉。室は島津忠昌の娘。1535年、奥州島津家の家督を相続しようと画策し、島津勝久と対立した。島津勝久は伊作島津忠良から島津貴久を養子にして、島津実久と対抗しようとした。1526年、姶良帖佐の領主辺川忠直が島津勝久、島津忠良に対し挙兵すると、島津実久は辺川忠直に加勢した。島津忠良は帖佐に出兵し辺川忠直を滅ぼしたため、島津勝久は恩賞として伊集院の地を島津忠良に与え、改めて島津貴久が三州守護職を相続した。1527年、島津実久は帖佐領主となった島津昌久に挙兵を勧め、島津昌久は加治木領主伊知地重貞と共に挙兵した。島津忠良が出陣した隙に、串木野領主川上忠克、東市来長里領主島津忠辰、そして自らの領地である出水と加世田の兵を率い清水城を攻略、島津貴久を追い落とした。島津忠良は加治木、帖佐の反乱を平定したものの清水城には戻れず伊作城へ帰還した。島津実久は島津勝久を清水城に招き守護に復帰させ、自身は守護代として権勢を振った。1539年「加世田の戦い」や「市来の戦い」で島津忠良父子に敗れ、以後も「紫原の戦い」などで敗戦を続けて、弟島津忠辰が討死すると遂に島津貴久に降伏し、出水城に隠棲した。薩州島津家の家督は嫡男島津義虎が相続した。

薩州島津忠辰【しまづただたつ(15??~1539)】

薩州島津忠興の次男。官途は中務大輔。兄島津実久に属して薩摩国各地を転戦した。1539年、島津忠良との「市来城の戦い」で、島津久定に討取られた。

薩州島津忠兼【しまづただかね(15??~1565)】

薩州島津忠興の三男。官途は常陸守。室は玉衣姫。紫尾山近辺を支配していた渋谷家、東郷家との戦いで戦功を挙げ、兄島津実久から野田城を与えられた。1565年、島津義虎の命を受け、家臣吉満久張らと共に肥後国天草の長島へ出兵。堂崎城主天草越前守を打ち破って長島、獅子島の両島を攻め取り、薩州島津家の領とした。長島城主として治世にあたった。1565年、天草越前守の旧臣らにの讒言を信じた島津義虎によって亀ヶ城へ登城してきたところを謀殺された。夫人である玉衣の方、娘の与里姫は悲嘆のあまり後を追って自刃した。

薩州島津義虎【しまづよしとら(1536~15??)】

島津実久の男。官途は薩摩守。通称三郎太郎。室は島津義久の長女(於平)。父島津実久は、島津忠良、島津貴久親子と対立したが、島津義虎は、島津忠良の娘(於平)を室に迎え和睦した。1547年、東郷の領主である東郷重治とは、島津義虎の家臣湯田兵庫の秘蔵の飼犬が盗まれた事に端を発す諍いにより20年間に渡り合戦を繰り返した。1565年、叔父島津忠兼に肥後国天草の長島攻略を命じ、長島領主天草越前守を攻め殺し薩州島津家領とした。1567年、羽月城を守備し、相良義陽の備えた。1569年、相良忠房が島津義久の和睦の使者を謀殺し、菱刈重任が挙兵すると、島津義虎は羽月城を退去し、本領の出水城に退却し、島津義久の怒りを買った。1578年「高城川の戦い」の際には大友義鎮に呼応する相良忠房への備えとして、出水城を守備した。1581年、相良忠房討伐の先鋒となり遂に相良忠房を降した。1584年、龍造寺隆信との「沖田畷の戦い」にも参陣して戦功を挙げた。島津家枝連衆では最大の領地を持ち出水城、高城城、水引城、山野城など31,905石を領した。

薩州島津忠辰【しまづただとき(1565~1593)】

島津義虎の男。官途は薩摩守。通称又太郎。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では肥後口にあり八代南方の高田城を守備していたが、肥前国島原城主有馬晴信の裏切りによって出水城に撤退した。1587年、羽柴秀吉に降伏し本領を安堵された。1593年「文禄の役」では、島津義弘に属して参陣したが、島津義弘と陣立を別にしてくれるよう羽柴秀吉に直訴した。羽柴秀吉は島津忠辰の願いを聞き入れなかったため、やむなく島津義弘とともに玄界灘を渡ったものの病気と称して上陸しなかった。島津忠辰の行動は羽柴秀吉の激怒をかい、肥後国宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易を申し渡された。

薩州島津忠隣【しまづただちか(1569~1587)】

島津義虎の次男。島津歳久の養子。室は島津歳久の娘(湯之尾)。1584年、男子のいなかった大叔父島津歳久の養嗣子となり、島津歳久の長女と結婚した。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」において島津義久勢は防戦となり、戦略拠点である日向国の根白坂を宮部継潤に占拠された。島津忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、島津家久に反対された。「根白坂の戦い」では、宮部継潤勢の反撃により島津忠隣勢のほぼ全員が討死する大敗を喫した。鉄砲傷を被り、家臣鎌田囚獄左衛門が差し出した青梅を食べながら絶命した。

薩州島津忠清【しまづ ただきよ(1571~1620)】

島津義虎の三男。官途は備前守。通称又助。1593年、長兄島津忠辰が改易されると、弟島津重富(五男)、島津忠豊(義虎六男)と共に小西行長に身柄を預けられた。そこで小西行長の家臣皆吉続能の娘を娶り、長女と長男を授かった。この室は再婚であり、連れ子として娘がおり、喜入忠政の後室となった。1600年「関ヶ原の役」後に小西行長が処罰され、宇土城が開城すると、島津忠清は加藤清正に仕えた。1609年、薩摩国に戻った。その後、長男新納久元の後継となり新納忠影と称した。長女は島津家久の側室となり、島津光久、北郷久直、島津忠紀らを生んだ。島津忠清の死後、しは隠れキリシタンとして連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘共々種子島に流刑となった(堅野カタリナ)。

薩州島津常久【しまづ つねひさ(1587~1614)】

薩州島津忠隣の男。1587年「根白坂の戦い」で父島津忠隣が討死したため、島津常久は祖父島津歳久によって養育された。1592年、島津歳久も羽柴秀吉の命により自刃に追い込まれた。島津歳久夫人と長女はこの処分を不服とし、島津常久を擁して祁答院宮之城に籠城した。この事態を重く見た細川藤孝と島津義久は新納忠元を使者としてつかわすなど説得を行い、島津常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城した。成人後は日置に所領を賜り、島津義久、島津忠恒の信任厚い家臣として活躍した。

薩州島津忠房【しまづただふさ(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。島津成久の庶男。官途は越前守。内通の疑いがあった市来地頭多田頼益を謀殺して、市来城に入った。1539年、島津忠良、島津貴久の攻撃を受け、市来鶴丸城に新納忠躬と共に籠城したが降伏した。

相州島津運久【しまづゆきひさ(1468~1539)】

亀ヶ城主。島津忠昌家臣。島津友久の男。官途は相模守。通称三郎左衛門尉。室は常盤(新納是久の娘)。1494年、伊作島津善久が下男により謀殺されると、その室の常盤を娶った。この時常盤が出した条件が島津善久の遺児島津忠良を相州家の後継ぎとするというものであった。1512年、島津運久は約定通り相州島津家の家督を島津忠良に譲って、阿多に隠居した。その後島津運久は宗家の領内平定戦にも参陣した。

鹿籠島津忠将【しまずただまさ(1500~1540)】

鹿籠城主。吉利島津秀久の男。1540年、東郷重清との「中郷椙島の戦い」に弟島津忠起、家老町田忠林と共に討死した。

鹿籠島津久定【しまづひささだ(1519~1557)】

鹿籠島津忠将の男。鹿籠城を領有していたが、吉利城に移封された。弓の名人。「伊集院城の戦い」「加世田城の戦い」「市来城の戦い」などで戦功を挙げた。

鹿籠島津忠澄【しまづただずみ(15??~15??)】

鹿籠島津久定の男。1558年、島津貴久の命で吉利に改姓した。「日向高原の戦い」「耳川の戦い」「肥後日比良城の戦い」など数々の戦いに参陣した。

大田島津昌久【しまづまさひさ(15??~1527)】

帖佐城主。薩州島津実久家臣。官途は下野守。室は島津運久の娘。1527年、島津貴久の宗家家督相続に反対し伊地知重貞と共に挙兵したが、島津忠良に討たれた。

大田島津忠続【しまづただつぐ(15??~15??)】

島津昌久の次男。官途は周防守。1537年、島津忠良に属して「加世田城の戦い」で戦功を挙げた。

姶良島津安久【しまづやすひさ(15??~1526)】

島津忠光の男。島津実久家臣。通称善左衛門。1526年、帖佐城主辺川忠直が島津忠良の攻撃を受けると、加勢として300余騎を率い帖佐城に派遣された。 島津忠良が攻め寄せた際、岩本寿斉に討取られた。
 
姶良島津忠友【しまづただとも(15??~15??)】

島津安久の男。室は北郷国久の娘。島津忠兼を生んだが島津忠兼は伯母に当たる島津忠友姉に養子に出された。

杉崎丹後守【すぎざきたんごのかみ(15??~1539)】

薩州島津実久家臣。1539年、伊集院山城守、河野太郎左衛門、谷山駿河守らと共に神前城守将となった。島津忠良勢の攻撃を受け討死した。

園田実明【そのださねあき(15??~1569)】

小野城主。奥州島津勝久家臣。官途は筑後守。通称清左衛門。別名園田実祐。1527年、島津貴久が島津実久により清水城を攻められた際、討死を覚悟して城を守ろうとする島津貴久に落延びるように進言した。島津貴久はじめ山田伊代守、木脇祐兄、川越重実、長井善左衛門、鎌田政心、井尻祐宗、乳母の宇多と共に、夜陰に紛れて城を落延びた。敵勢50騎に追尾されるも、小野城に島津貴久を匿いながら、無事に田布施の亀ヶ城まで島津貴久を送り届けた。1537年「小野城の戦い」では、島津実久勢を撃破する戦功を挙げた。娘(実窓院)は島津義弘の後室となった。その際、いったん娘を広瀬助宗の養女とした上で嫁がせた。その子は薩摩藩初代藩主島津忠恒。

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【た】

高城重隆【たかじょうしげたか(15??~15??)】

高城妹背城主。東郷重治家臣。東郷重理の庶男。永正年間、甥東郷重朗が薩摩高城郡高城郷を併合した際、これを与えられて高城妹背城に入り高城家を称した。

高城重誠【たかじょうしげまさ(15??~15??)】

高城重隆の男。東郷宗家に逐われ、高城を奪われたため、入来院家臣となった。

竹内伊豆守【たけうちいずのかみ(15??~15??)】

頴娃兼洪家臣。頴娃家は津曲兼任を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島宗勝、竹内伊豆守らの家老衆がおり、領内をよく統治した。頴娃家四家老のひとり。

田代民部【たしろみんぶ(15??~15??)】

頴娃兼洪家臣。1533年、頴娃兼洪が島津貴久に属すると、島津勝久派の田代民部介は追放された。

多田頼益【ただよります(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。別名多田義治。島津実久に属するが、弟日高義秋が島津忠良の家老伊集院忠朗の調略に落ち、謀反を疑われ島津実久によって謀殺された。

谷山駿河守【たにやまするがのかみ(15??~1539)】

薩州島津実久家臣。1539年、伊集院山城守、杉崎丹後守、河野太郎左衛門、松崎丹波守、勝目兵庫允、市来縫殿助、高城右衛門、永井大炊介らと共に神前城守将となった。島津忠良勢の攻撃を受け討死した。

津曲兼任【つまがりかねこれ(15??~15??)】

指宿郡指宿城主。津曲俊宗の男。頴娃兼洪家臣。官途は若狭守。頴娃家四家老の筆頭家老。頴娃家は津曲兼任を筆頭に、頴娃左近将監、鮫島宗勝、竹内伊豆守らの家老衆がおり、領内をよく統治した。1531年、島津忠良の攻撃を受け、頴娃城は落城寸前に追い込まれた。津曲兼任は、頴娃兼洪を説いて、嫡男頴娃稲千代を伴い島津忠良の元を訪れ和議を結んだ。1535年、津曲兼任を内地頭に任した。頴娃兼洪が没すると菩提を弔うため源忠寺を建立した。

渋谷東郷重治【とうごうしげはる(15??~15??)】

鶴ヶ岡城主。東郷重朗の男。官途は大和守。別名渋谷重治。1549年、肝付兼演、入来院重朝、蒲生範清、東郷重治が連合して吉田城の攻略を企図したため、島津貴久は新納忠元、山田有徳を派遣して吉田城を堅守した。以後、祁答院良重が反島津家勢力の中心になっていった。島津忠良は祁答院良重、蒲生範清らに与して加治木城主肝付兼演を攻撃、加治木城を攻略した。肝属兼演は島津忠良に降伏し祁答院良重、入来院重朝、東郷重治の渋谷一族も守護職に降伏した。 1554年、祁答院良重を中心に入来院重嗣、蒲生範清、菱刈隆秋、北原兼守らが結んで、姶良で反島津家の兵を挙げた。連合軍は島津家に降った加治木城主肝付兼演を攻撃したが、島津貴久は祁答院良重の拠る岩剣城攻撃をした。岩剣城を攻撃すると、蒲生範清は加治木城の囲みを解いて岩剣城の救援に駆け付け、島津貴久勢と戦うも敗走して、岩剣城は落城した。

渋谷東郷重尚【とうごうしげなお(15??~15??)】

菱刈重州の三男。東郷重治の養子。東郷家20,000石の家督を相続した。1568年、東郷重尚は島津貴久と戦いを繰り返すようになった。1569年「深迫の戦い」で、東郷重尚は大敗を喫した。 反島津家であった相良義陽、菱刈隆秋らもは島津家と和議を結び、薩摩で島津家に抗するものは東郷重尚、入来院重嗣ばかりとなった。1570年、東郷重尚と入来院重嗣は共に、島津貴久に降伏した本領のみを安堵され、他領は没収された。

渋谷東郷重虎【とうごうしげとら(1574~1621)】

島津家久の次男。東郷重尚の養子。通称又八郎。別名島津忠仍、島津忠直。1577年、東郷重尚の養子となった。1580年「水俣城の戦い」の際、実父島津家久に属して参陣した。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、高城が落城すると東郷重虎は日向国佐土原城に退却した。1592年、実兄島津豊久に属して「文禄、慶長の役」に参陣した。島津義弘の命により東郷家から島津家に復姓、島津忠直と称した。1600年「関ヶ原の役」で、兄島津豊久が討死すると、島津豊久家領を領したが、病身を理由に自身の娘婿喜入忠続の男喜入忠栄を迎えて家督を継がせ、自らは大隅国三躰堂村1,000石を領して隠棲した。

鳥原掃部助【とりはらかもんのすけ(15??~15??)】

坊津天神丸の船頭。1584年、島津義久から琉球渡海朱印状を発給された。

鳥原宗安【とりはらむねやす(15??~15??)】

坊津の商人。1584年、島津義久から琉球渡海朱印状を発給された坊津の代表的な海商。島津義久が川内の泰平寺で羽柴秀吉に降伏した際、島津義久から羽柴秀吉への礼品「銀子壱貫目、白糸五拾五斤、沈香九拾二斤」を、鳥原宗安が用立てた。鳥原宗安は、羽柴秀吉の「文禄の役」の際、人質として日本へ送られた明人らを、明と日本との国交回復を図る松平元康の意向を受けた島津義弘の命により、明国へ送還する任務を果たした。明人の送還を終えた島原宗安は、明の福州で「拾二万斤船」を入手し、この船で泊の山下志摩丞が呂宋へ渡った。

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【な】

新納忠苗【にひろたゞたね(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。官途は武蔵守。室は島津忠衡の娘。1539年、島津忠良、島津貴久の攻撃を受け、市来鶴丸城に籠城したが島津実久の弟島津忠辰が討死すると島津忠良に降伏した。降伏後は島津尚久に仕えた。

新納忠躬【にいろただみ(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。官途は常陸守。島津忠房と共に兵300余りを率いて市来城に向かい、多田頼益を殺して城に入った。島津貴久に攻められ降伏した。

禰寝播磨守【ねじめはりまのかみ(15??~1539)】

薩州島津実久家臣。1527年、島津実久は宗家の千々輪城を落とし、寝禰播磨を守将とした。1539年「紫原の戦い」で島津忠良に討たれた。

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【は】

肥後盛治【ひごもりはる(15??~1536)】

薩州島津実久家臣。1536年、島津実久は、石谷城主石谷梅久、石谷忠栄が島津忠良に内応すると、石谷梅久を人質にして、大寺資安を城将に任じた。石谷忠栄は、島津忠良の兵を入れて、大寺資安を謀殺した。島津実久は、肥後盛治、肥後盛家を派遣して石谷城を攻撃した。石谷忠栄は島津忠良の元に落延びた。島津忠良の攻撃を受け自刃した。

肥後盛真【ひごもりざね(15??~15??)】

肥後盛治の男。官途は駿河守。

肥後盛家【ひごもりいえ(15??~15??)】

肥後盛治の三男。官途は周防守。島津実久に属したが、島津貴久に降り、鹿児島郡花棚村、鳥越村、磯村を領した。「豊後国侵攻」では、島津歳久に属した。

肥後盛秀【ひごもりひで(1560~1611)】

肥後盛真の男。通称権之丞。1592年、肥後家の家督を従弟山城守の継嗣である肥後盛吉に譲り渡した。1611年、島津義久の病没に際して、殉死した十五人のうちのひとり。

肥後盛吉【ひごもりよし(15??~15??)】

肥後山城守の男。通称助太郎。1592年、肥後家の家督を叔父肥後盛秀から相続した。

平田宗秀【ひらたむねひで(15??~15??)】

苦辛城主。薩州島津実久家臣。通称式部少輔。1527年、島津実久の命で苦辛城を守備した。

平田宗茂【ひらたむねしげ(15??~15??)】

平田宗秀の男。通称新左衛門。官途は安房守。1538年、苦辛城を献じて島津家忠良に降伏臣従し、のち島津忠良の家老職を務めた。薩摩川辺、同加世田地頭。

樋脇因幡守【ひわきいなばのかみ(15??~15??)】

伊佐郡樋脇城主。入来院家臣。家中でも第二番目の給地高を持っていた。

辺川忠直【へがわただなお(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。川上継久の男。加治木久平の攻撃を帖佐平山城に拠って防ぎ、島津忠昌より帖佐地頭に任じられた。島津実久に属し島津安久からの援軍を受けたが島津忠良に討たれた。

別府忠親【べっぷただちか(1467~1539)】

薩州島津実久家臣。加世田別府城の戦いで島津忠良に敗退したが、島津忠良とは歌友の誼であったため、別府家を継ぐことを許された。

本田親尚【ほんだちかなお(15??~15??)】

奥州島津勝久家臣。本田宗親の男。島津忠良派で、薩州島津実久と対立。1525年、大隈守護代本田兼親を討ち橘木城を奪取した。1526年、島津忠良の下に赴き叛将討伐を要請した。

本田親貞【ほんだちかさだ(15??~1596)】

本田親尚の男。官途は下野守。通称弥六右衛門。大隅の国人で守護代を務めた本田家枝連衆本田親尚の男で薩摩吉田、加世田地頭。島津義久の奏者、のち家老職を務めた。1583年、遊行上人と交渉した。1585年、琉球国と交渉を行った。「緒方城の戦い」「根白坂の戦い」などに参陣して戦功を挙げた。

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【ま】

.町田忠栄【まちだただえい(15??~15??)】

石谷梅久の男。官途は長門守。別名石谷忠栄。1536年、島津実久方の武将であったが、島津貴久の誘いで寝返り、監視役の大寺資安を討った。石谷城の拡張整備を行った。以降、島津忠良に仕えた

.町田久徳【(まちだひさとく1521~15??)】

町田忠栄の男。室は伊集院久盈の次女。

町田久倍【まちだひさます(1553~1600)】

町田久徳の男。官途は伊賀守。通称助太郎。1580年「菱刈家討伐」に戦功を挙げた。1587年、島津義久が泰平寺で、羽柴秀吉と和睦して上洛する際、町田久倍は嫡男町田忠綱と次男町田久幸を連れ島津義久の供をした。島津義久の命で島津歳久を襲撃した。島津義久の下で島津忠長らとともに老中職を務めた。

町田久幸【まちだひさゆき(1572~1624)】

町田久倍の男。庶子であったが、兄町田忠綱が早世したため町田家の家督を相続した。1600年「庄内の乱」では山田城を攻撃した。島津家久の六男を養子とした。町田家は樺山家、新納家と並んで島津家の三大権門のひとつ。

町田久用【まちだひさむね(15??~15??)】

川辺郡一宇治城主。町田盛久の男。薩州島津実久家臣。島津家枝連衆。天文年間初期、島津実久は一宇治城を落とすと、町田久用を守将に任じた。1536年、島津忠良から内通を受けるが拒否した。城を留守にした隙に島津忠良勢1,000余りの攻撃を受け落城した。

町田忠林【まちだただとき(15??~1561)】

町田久用の男。島津忠将家臣。1561年「廻城の戦い」で、島津忠将が味方の加勢に向かおうとするのを制止したが、町田忠将は聴かなかったため、ともに突撃し討死した。

宮里正聡【みやさとまさとし(15??~15??)】

入来院重聡家臣。樋脇塔之原の地頭。島津忠良に協力して戦功を挙げた。父宮里正興から孫宮里正乗までの四代にわたり宮里家は塔之原の地頭であった。

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【や】

八木信貞【やぎのぶさだ(15??~15??)】

奥州島津勝久家臣。八木信盛の男。島津勝久の没落で流浪するが、島津貴久によって鹿児島に知行を得た。1567年、菱刈重豊との戦いで戦功を挙げた。1573年、島津義久の内意を受けて八木正信と共に禰寝重長に降伏を促し、大隅国平定に貢献した。

八木正信【やぎまさのぶ(15??~15??)】 

八木信貞の男。官途は越後守。日向国真幸吉田地頭。青蓮院尊朝親王に師事して書を学び、祐筆として島津義久に仕えた。1573年、禰寝重長攻めに際しては宝持院とともに禰寝重長に降伏を勧告して成功させた。1578年「耳川の戦い」に参陣した。1585年、肥後表へ参陣した。1586年「戸次川の戦い」に参陣した。「九州征伐」では島津義久と共に剃髪して降伏の意を示した。蹴鞠にも堪能であった。

山崎成知【やまざきなりとも(15??~15??)】

薩州島津実久家臣。島津忠良と同盟関係にあった入来院重聡はこの城を何度も攻撃したが、山崎成知は守り通した。1537年、薩州島津実久が島津忠良の攻撃を衰退すると次第に劣勢に立たされてた。1539年、入来院重聡の攻撃を受け落城した。

山崎重有【やまざきしげあり(15??~15??)】

入来院重豊家臣。官途は伯耆守。伊佐郡山崎の領主。入来院重豊に仕えて家老職を務めた。

山田有親【やまだありちか(15??~1533)】

日置郡日置城主。薩州島津実久家臣。1533年、島津忠良の説得により島津貴久に属したが島津忠良の誤解で誅殺された。のち潔白が証明された。

山田有徳【やまだありとく(15??~15??)】

山田有親の男。通称蔵人。市来地頭。川上氏との抗争に軍功。串木野地頭。.父山田有親は島津忠良に降ったが、異心ありと見られ討ち取られた。のち、潔白が証明され、山田有徳が日置城代となった。

山田有信【やまだありのぶ(1544~1609)】

山田有徳の男。官途は民部少輔。島津貴久、島津義久の二代に仕えた。武勇に優れた勇将。1578年、大友義鎮勢が日向国に侵攻すると、わずか兵500余りで日向高城に籠城し、大友義鎮勢を苦しめた。「耳川の戦い」でも戦功を挙げた。1586年、羽柴秀吉による「九州征伐」でも、高城にわずかな兵と籠城して羽柴秀吉勢を苦しめた。島津義久が降伏しても、山田有信は島津義久への忠義を尽くすために降伏勧告をはねつけたが、島田義久が説得したため、嫡男山田有栄を人質に差し出し降伏した。

山田有栄【やまだありなが(1578~1668)】

山田有信の男。官途は民部少輔。通称弥九郎。1587年、父山田有信が高城で羽柴秀長に降伏したとき、その人質として差し出された。その後、「文禄の役」み参陣して戦功を挙げた。1598年、福山地頭に任じられた。1600年「関ヶ原の役」などに参陣した。敗れた西軍についた島津軍が退却する際、島津義弘を逃がすため戦ったが、一行が路銀に窮した為、純金の愛刀を売って凌いだ。1629年、出水地頭に就任。出水兵児と称される気風を造った。島津家臣団の教育や産業開発に努めた。「島原の乱」においては島津家中の名代となり総大将として参陣した。

吉満久張【よしみつひさはる(15??~1565)】

島津安久の次男。薩州島津実久の弟島津忠兼の家老を勤めた。1565年、島津忠兼が、肥後国天草郡堂崎城を攻撃した際に討死した。

渡辺三郎五郎【わたなべさぶろうごろう(15??~15??)】

坊津宮一丸の船頭。1574年、島津義久から琉球渡海朱印状を発給された。

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【資料Ⅰ】

薩摩国(14郡/320,000石)

出水郡:出水城、高尾野城、野田城、阿久根城、長島城。
高城郡:高城城、水引城。
薩摩郡:東郷城、平佐城、永利城、隈之城城、高江城、入来城、樋脇城。
伊佐郡:
甑島郡:甑島城。
日置郡:串木野城、市来城、伊集院城、郡山城、日置城、吉利城、永吉城。
伊作郡:
阿多郡:
谿山郡:
河辺郡:
給黎郡:
揖宿郡:
頴娃郡:
鹿児島郡:





山野(伊佐郡[22])
大口(伊佐郡[22])
羽月(伊佐郡[22])
鶴田(伊佐郡[23])
佐志(伊佐郡[23])
黒木(伊佐郡[23])
大村(伊佐郡[23])
宮之城(伊佐郡[23])
山崎(伊佐郡[23])
藺牟田(伊佐郡[23])

伊作[24](阿多郡)
田布施(阿多郡)
阿多(阿多郡)
谷山(谿山郡)
加世田(河辺郡)
久志秋目(河辺郡)
坊泊(河辺郡)
川辺(河辺郡)
勝目(河辺郡)
鹿籠(河辺郡)
喜入(給黎郡)
知覧[25](給黎郡)
指宿(揖宿郡)

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【資料Ⅱ】

渋谷三家【しぶやさんけ】

東郷重治、祁答院良重、入来院重聡。

渋谷五家【しぶやけんけ】

東郷重治、祁答院良重、入来院重聡、鶴田、高城重隆。

頴娃家四家老衆【えいかねけよんかろうしゅう】

津曲兼任、頴娃左近将監、鮫島宗勝、竹内伊豆守。

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【資料Ⅲ】

薩摩国【さつまのくに】

調査中。

坊津【ぼうのつ】

リアス式海岸と後背の山地によって守られた良湊を持つ九州西南端の湊街。地勢的条件から、琉球国、明国に対する貿易拠点を担って栄えた。坊津は加世田や鹿篭などの平野部と陸路で結ばれていたが、16世紀中頃、坊津は薩摩半島西南部地域を拠点として勢力を拡大した相州家島津家の強い影響下におかれた。1539年、伊作島津忠良が加世田別府城を攻略して、本拠地としたことが坊津の重要性を高めた。1546年、島津忠良が保護した一乗院は後奈良天皇の勅願所となっており、島津忠良の隆盛にともない、坊津もまた繁栄した。坊津沖の硫黄島で産出された硫黄は日本の主要な輸出品であり、坊津は硫黄の集積港でもあった。1587年、島津義久が国人衆頴娃久虎を排除し、鹿児島湾の出入り口に位置する湊街・山川を掌握すると、相対的に坊津の地位は低下した。

薩摩硫黄【いおう】

薩摩国河辺郡硫黄島において産出れる鉱石で黒色火薬の原料に用いられた。李氏朝鮮、明国にも大量に輸出された。硫黄は日明貿易においても日本側の主要商品であったが、この多くは島津家の調達によるものだった。1468年、遣明船舶載の硫黄四万斤が大友家と島津家によって調達され、門司や博多、赤間関、平戸、奈留などで積み込まれた。1547年、度遣明船では坊津で硫黄一万斤が積み込まれ、硫黄島で採掘された硫黄がいったん坊津に集積されて、船運で各地に運ばた。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に活躍した国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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