2014年2月2日日曜日

戦国相模国人名事典

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【あ】

安藤良整【あんどうよしなり(15??~15??)】

後北条氏康家臣。官途は豊前守。北条氏康、北条氏政、北条氏直の三代に仕え、勘定奉行人として活躍した。1569年、北条家奏者を務めた。公事請取や扶持、公用などの支出を担当するなど行政面の中心的家臣。著書に「小田原衆所領役帳」の「小田原衆」「玉縄衆」「御馬廻衆」。北条家の公用枡「榛原枡(安藤枡)」は安藤良整の考案した。

石巻家貞【いしまきいえさだ(15??~1568)】

北条氏綱家臣。官途は下野守。奉行衆、評定衆や相模西郡郡代などを務めた。御馬廻衆の筆頭として321貫を領した。1533年、虎印判状が初見。以降約35年間に渡り北条家が発給した文書に署名した。「河越城の戦い」「小弓城の戦い」に参陣した。1558年、古河公方足利義氏の小田原城訪問の際、評定に列席した。1568年、石巻家の家督を嫡男石巻康保に譲り隠した。

石巻康保【いしまきやすもり(15??~1579)】

石巻家貞の男。評定衆。官途は下野守。通称勘解由左衛門尉。1568年、父石巻家貞の隠居により石巻家の家督を相続した。石巻家は、伊勢盛時(北条早雲)の時代から後北条家に仕える最古参の家柄のひとつ。小田原城の重要な評定に列席するようになり後北条家の様々な政策に関与した。玉縄城主などを歴任した。「第二次、第三次小田原城の戦い」に参陣し、小田原城の井細田口を守備した。

石巻康敬【いしまきやすまさ(1534~1613)】

石巻家貞の次男。官途は下野守。通称彦六郎。武田晴信との戦いに備え、北条綱成に属して、駿河国方面の築城材料、兵糧、船などを徴発しする管理者として足柄城で指揮を執った。1572年、由良国繁と北条氏政が同盟した際は、由良国繁と交渉を担当した。1579年、兄石巻康保が病没により石巻家の家督を相続した。1582年「天正壬午の乱」では、長尾顕長と共に館林城を守備した。1589年「名胡桃事件」の弁明のため上洛するが、弁明は聞き入れられなかった。その帰路で石巻康敬は捕らえられて駿河国三枚橋城に軟禁された。北条家滅亡後は身柄を松平元康に預けられて相模国鎌倉郡中田村に蟄居したが、後に本多正信の推挙で松平元康に仕え111石を領した。

井上源三郎【いのうえげんざぶろう(15??~15??)】

内藤綱秀家臣。1590年「白根の戦い」で戦功を挙げた。

相模小笠原元続【おがさわら もとつぐ(15??~1573)】

後北条氏綱家臣。小笠原元清の男。官途は兵部少輔。祖父小笠原政清の娘は、伊勢盛時に嫁いで北条氏綱を産んだ。将軍足利義澄や管領細川高国が共に没落した後に従兄弟北条氏綱を頼った。北条氏康と足利義晴及び政所執事伊勢貞孝との交渉役を務め、北条氏綱の関東地方平定が室町幕府の利益に適うことを説明した。1539年、足利義晴の使者である大舘晴光が、北条氏綱の幕府への忠節を賞するために鷹を持って小田原城を来訪した際には、これを迎えた。

相模小笠原康広【おがさわらやすひろ(1531~1598)】

小笠原元続の男。官途は播磨守。通称六郎。室は北条氏康の娘(種徳寺殿)。武家故実に精通して、武者奉行や飯泉奉行を務めた。1559年、相模国西郡矢畑郷180貫を領した。1574年、嫡男小笠原長房に家督を譲った。1580年、浜松城主松平元康の元に使者として派遣された。1583年、松平元康の娘(督姫)の北条氏直への輿入れの際には浜松城まで督姫を迎えるための使者として派遣された。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」後、北条氏直に従って高野山に入り出家した。1592年、北条氏直が病没すると、加々爪政尚の勧めで上洛して松平元康に仕えた。

相模小笠原長房【おがさわらながふさ(15??~1655)】

小笠原康広の男。1590年「小田原の役」の際、籠城して北条氏直近習を率いて奮戦した。落城後は北条氏直に従って父小笠原康広と共もに高野山に入った。1596年、北条氏直の病没後、松平元康に仕えて多摩郡三田郷で350石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、松平秀忠に属して真田昌幸の上田城を攻撃した。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。1623年、大番組頭となった。後に下総国香取郡に200石の加増を受けた。

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【か】

笠原信為【かさはらのぶため(15??~1557)】

伊勢盛時家臣。笠原信隆の男。官途は越前守。武蔵国橘樹郡小机城代を務め白備え旗頭を率いた。文化的教養もあり、和歌、漢詩に精通して造詣が深かった。伊勢盛時、北条氏綱、北条氏康の三代にわたって仕え、伊豆二十一家の筆頭家老職として重用された。1526年「鶴岡八幡宮の戦い」の際に里見義豊によって鶴岡八幡宮が焼き討ちを受けた為、再建の為に大道寺盛昌と共に造営総奉行に任じられた。

笠原康勝【かさはらやすかつ(15??~15??)】

笠原信為の男。官途は能登守。通称弥太郎。1546年、父笠原信為から所領の一部を譲られた。「松山城の戦い」に参陣した。1554年「加島の戦い」では、松田憲秀と共に先鋒を務め、戦功を挙げた。

笠原政堯【かさはらまさたか(15??~1590)】

松田憲秀の男(笠原康勝の養子)。通称新六郎。別名松田政晴。笠原康勝の養子となり笠原政堯と称した。1579年、武田勝頼と北条氏政の同盟関係が解消されると、駿河国と相模国が接する防衛線には譜代衆が配されたが、中でも要害とされた武田勝頼に属する沼津城に隣接している戸倉城の守備を任された。他の諸城では武田勝頼勢との小競り合いが続き、戦功を挙げた武将も多かったが、戸倉城は、武田勝頼勢が攻められることがなく、家中では「臆病者」との風説が広がった。1581年、沼津城主曾根昌長から内応の誘いを受け、武田勝頼に内応した。武田勝頼勢の支援を受け、義弟の笠原照重を討取った。1582年、武田勝頼が「天目山の戦い」で討死すると、駿河国は松平元康領となり戸倉城を失った。父松田憲秀の取り成で、北条氏直に帰参した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、父松田憲秀と共に羽柴秀吉勢に降ろうとした事が露見、父松田憲秀は監禁され、笠原政堯は城内で謀殺された。

笠原照重【かさはらてるしげ(15??~1581)】

笠原康勝の男。1581年、武田勝頼勢に内応し、後北条氏直から離反した義兄笠原政堯の攻撃を受け討死した。

笠原康明【かさはらやすあき(15??~15??)】

笠原康勝の次男。官途は越前守。通称藤左衛門。小田原城の御馬廻衆の一員で、奉行衆、評定衆を務める内務官吏として活躍した。のち岩槻城代を務めた。

狩野泰光【かのうやすみつ(15??~1590)】

大石北条氏照家臣。官途は飛騨守。評定衆筆頭で御馬廻衆として513貫430文を領した。北条氏照が大石家に養子に入る際、その後見人となった。北条氏照の外交を担当した。1538年「第一次国府台の戦い」で戦功を挙げた。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」の際、八王子城で討死した。

狩野照宗【かのうてるむね(15??~15??)】 

狩野康光の男。官途は主膳。通称源七郎。

川村秀重【かわむらひでしげ(15??~15??)】

遠山綱景の四男。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、江戸城に籠城したが羽柴秀吉勢(浅野長政、前田利家、戸田忠次など)の大軍に包囲され開城した。

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【さ】

佐藤豊成【さとうとよなり(15??~15??)】

内藤綱秀家臣。通称伝左衛門。1590年「白根の戦い」で戦功を挙げた。

篠窪民部丞【しのくぼみんぶのじょう(15??~15??)】

北条氏綱家臣。篠窪民部丞は西郡篠窪などを所領としていた。

関為清【せきためきよ(15??~15??)】

北条氏康家臣。官途は信濃守。1559年、北条氏康の指示により「北条氏所領役帳」を太田豊後守、松田康定らと共に作成し、安藤良整が編集した。

関新次郎【せきしんじろう(15??~15??)】

玉縄北条為昌家臣。1526年、小弓公方足利義明は里見実堯に命じて多数の兵船を用意させ海を渡って鎌倉に侵入、八幡宮を焼き払い、多くの寺社仏閣を荒らしまわり、玉縄城下で激戦を演じて引き上げた。北条氏綱は江戸湾沿岸の守備する為、間宮信元久良岐郡笹下城主に任じ朝倉右馬助(224貫375文)、関新次郎(169貫100文)、行方与次郎(361貫24文)、渋谷又三郎(65貫84文)らを寄騎衆に配した。

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【た】

大道寺盛昌【だいどうじもりまさ(1495~1556)】

後北条氏綱家臣。大道寺重時の男。官途は駿河守。内政手腕に長けていたことから重用された。里見義豊に焼かれた鶴岡八幡宮の再建のための造営総奉行に任じられて笠原信為と共に再建事業にあたった。北条為昌が玉縄城主になると、その後見役となり鎌倉の代官を務めた。1546年「河越城の戦い」では、北条氏康に属して、扇谷上杉朝良、扇谷上杉朝興を相手に奮闘して戦功を挙げ、戦後は河越城の城代を務めた。1550年、鎌倉浄智寺に寺領を寄進した。

大道寺重興【だいどうじしげおき(15??~1562)】

大道寺盛昌の男。官途は駿河守。通称源六。別名大道寺周勝。河越城代となった父大道寺盛昌に代わって鎌倉代官となった。1556年、父大道寺盛昌が病没すると、大道寺家の家督を相続して、河越城代に任じられた。鎌倉の寺社領の検地を行うと共にその再建にも尽くした。1553年、武田晴信による「駿河侵攻」では、北条氏康が今川義元に北条氏繁、松田憲秀、大道寺周勝らを援将として派遣した。1558年、古河公方足利義氏の鶴岡八幡宮参詣の際にこれを迎える準備を行った。1561年、長尾景虎から河越城を防衛する戦功を挙げた。

大道寺政繁【だいどうじまさしげ(1533~1590?)】

大道寺重興の男。官途は駿河守。 通称孫九郎。室は遠山綱景の娘。大道寺政繁は北条氏康、北条氏政、北条氏直の三代に仕えた。内政手腕に優れ、河越城代を努めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行った。河越衆を率い「三増峠の戦い」や「神流川の戦い」などに参戦して戦功を挙げた。1582年「甲州討伐」で、武田勝頼が討死すると、上野国に織田信長勢が侵攻した。「本能寺の変」後、北条氏直は「神流川の戦い」で滝川一益勢を打ち破り上野国を勢力下に置いた。信濃国(佐久郡、小県郡)へ侵攻すと大道寺政繁は小諸城主となり、信濃国に侵攻した松平元康勢と戦った。北条氏直と松平元康との間で和議が結ばれると、大道寺政繁らは、信濃国より撤退した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」が始まると、大道寺政繁は上野国の松井田城を守備しが、前田利家、長尾景勝、真田昌幸らの羽柴秀吉勢の攻撃を受け、開城降伏した。降伏後、羽柴秀吉勢に属して忍城、武蔵松山城、鉢形城、八王子城の攻撃に加わった。小田原城の落城後、羽柴秀吉から北条氏政、北条氏照、松田憲秀らと共に自刃を命じられ、河越城下の常楽寺で自刃した。

大道寺直次【だいどうじなおつぐ(1571~1651)】

大道寺政繁の男。官途は内蔵助。室は高城胤辰の娘。北条氏直に仕えた。1590年「小田原の役」で、後北条氏直が領地を失い、父大道寺政繁が自刃すると、母方の姓を名乗り、遠山長右衛門と称し黒田孝高に仕え、その後羽柴秀次に仕えた。1595年「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が自刃すると、福島正則に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、福島正則に属して戦功を挙げた。1619年、福島正則が改易されると、黒田長政、京極忠高らの家臣を経て松平家光に仕えた。

大道寺直英【だいどうじなおひで(1552~1642)】

舎人経忠の男(大道寺政繁の養子)。通称大道寺隼人。1563年「第二次国府台の戦い」で、父舎人経忠が討死すると、大道寺直英の母は大道寺政繁と再婚し、大道寺直英はその養子になった。その後、四人の異父兄弟(嫡男大道寺直繁、次男大道寺直重、三男弁誉上人、四男大道寺直次)が産まれたが、大道寺直英は五男された。1582年、北条氏直は松平元康の次女(督姫)との婚礼を機に同盟を結ぶ。大道寺直英が河越城の城代、大道寺政繁と次男大道寺直重が松井田城の城代、嫡男大道寺直繁と四男大道寺直次が小田原城に在番した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、大道寺政繁ら河越衆は松井田城を守備したが、羽柴秀吉勢の猛攻を受け降伏開城した。大道寺政繁は北条氏政、北条氏照、松田憲秀らと共に自刃を命じられ、河越城下の常楽寺で自刃した。大道寺直英は、北条氏直や督姫と共に松平元康に預けられた。大道寺直英は、尾張松平義直に仕えた。1614年「大坂冬の陣」では、尾張松平義直に属した。1616年、大道寺直英は尾張家を退去し津軽信枚に仕え家老職として1,000石を領した。

大藤信基【だいとうのぶもと(15??~1552)】

中郡田原城主。北条氏綱家臣。通称金石斎。1537年、上総国の真里谷武田信隆が内紛により追放されると、援軍として派遣された。小弓公方足利義明と里見義堯が真里谷武田信隆を攻撃すると、武蔵国金沢城に匿った。1538年「第一次国府台の戦い」では、大藤信基の献策により、北条氏綱が小弓公方足利義明、里見義堯、真里谷武田信応の連合軍を撃破した。1541年、北条氏綱が病没すると、扇谷上杉朝定が河越城奪還の兵を挙げた。河越城将であった大藤信基は枝連衆と共に防戦してこれを退けた。嫡男大藤景長は、大藤信基に先だって病没していた為、末子の大藤秀信が大藤家の家督を相続した。

大藤秀信【だいとうひでのぶ(15??~1572)】

大藤信基の男。官途は式部少輔。通称与七。室は山角康定の娘。1552年、父大藤信基の病没後、大藤家の家督を相続した。足軽衆を率いて各地を転戦した。1561年、長尾景虎を撃退する戦功を挙げた。1567年、武田晴信が「駿河侵攻」を行うと、今川義元の元に援軍として派遣された。「掛川城の戦い「韮山城の戦い」では、籠城して抗戦した。1571年「甲相同盟」により、武田晴信の「遠江侵攻」に協力し「二俣城の戦い」に参陣した。1572年、落城直前に討死した。

大藤政信【だいとうまさのぶ(15??~1586)】

大藤秀信の男。通称式部少輔。1572年、父大藤秀信が武田晴信による「二俣城の戦い」で討死した為、大藤家の家督を相続した。足軽衆を率いて各地を転戦した。1581年、長尾景勝勢の上野国天神山城攻略と続く武田勝頼による駿河国興国寺城攻撃に対する防衛戦で戦功を挙げた。1582年「天正壬午の乱」にも参陣して松平元康と交戦した。

多目元興【ためもとおき(15??~1577)】

北条氏綱家臣。官途は周防守。御由緒衆のひとりで北条五色備の「黒備」を率いた。武田晴信勢に備え駿河国泉頭城に大森長門守と共に守備した。1546年「松山城の戦い」に参陣した。

多目元忠【ためもとただ(1519~1590)】

多目元興の男。官途は周防守。通称六郎。1546年、北条氏康勢と山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍が戦った「河越城の戦い」で戦功を挙げた。北条氏康が戦場で敵中に突出した際に独断で退却の号令をかけ、北条氏康を救った。北条家中で北条綱成と双璧をなした北条綱高も、多目元忠に軍学を学んだ。武田晴信の駿河からの侵攻を防ぐなど、北条家の中核として関東各地を転戦した。

多目長定【ためながさだ(15??~15??)】

多目元忠の男。官途は周防守。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、松井田城は、前田利家の北国勢の攻撃を受けた。支城の西牧城を守備していた多目長定は、依田康国の攻撃を受け落城、小田原城に落延びる途中、羽柴秀吉勢に追われ自刃した。

遠山直景【とおやまなおかげ(15??~1533)】

伊勢盛時家臣。遠山景保の男。官途は丹波守。通称四郎左衛門。御由緒家の六家および伊豆衆二十家のひとつと数えられ、松田盛秀、大道寺盛昌と並ぶ三家老家と称された。1524年、北条氏綱は、扇谷上杉朝興の拠点であった武蔵江戸城を攻略し、遠山直景を城代に任じた。江戸城代は三人が任じられ、本丸城代富永直勝、二の丸城代遠山直景、三の丸城代江戸太田資顕となった。古河公方足利高基に対して北条氏綱が敵対しない旨の起請文を掲げた。1530年、川越城主扇谷上杉朝興と戦い敗北、小沢城と世田谷城を攻略され、江戸城に攻め寄せられ設備を焼かれた。

遠山綱景【とおやまつなかげ(1513~1564)】

遠山直景の男。官途は甲斐守。室は北条綱成の娘(浄光院殿)。江戸衆筆頭で西郡松田約1,242貫を領した。1533年、父遠山直景の病没により、遠山家の家督を相続して江戸城代となった。1544年、連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催した。1558年、古河公方足利義氏の小田原城訪問の際には、北条家老衆として松田盛秀、遠山綱景、笠原綱信、清水康英、石巻家貞と共に拝礼を行った。1564年、江戸城代の江戸太田康資が離反すると、それを支援する里見義堯との間で「第二次国府台の戦い」が起った。遠山綱景は、富永直勝と共に、北条綱成が率いる本隊よりも先行して江戸川を渡河するが、里見義堯の反撃にあい、嫡男遠山隼人佐や娘婿舎人恒忠と共に討死した。遠山綱景と、嫡男遠山隼人佐が討死にした後、遠山家の家督は出家していた三男遠山政景が還俗して相続した。

遠山隼人佐【とおやまはやとのさ(15??~1564)】

遠山綱景の男。1564年、江戸太田康資が離反し、長尾景虎に救援を求めたことにより、里見家との間に「第二次国府台の戦い」が起った。遠山隼人佐は父遠山綱景、富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが、里見家の反撃にあい、父遠山綱景とともに討死した。

遠山政景【とおやままさかげ(15??~1580)】

遠山綱景の三男。官途は甲斐守。通称右衛門大夫。三男であった為、僧籍に入った。1564年「第二次国府台の戦い」で、父遠山綱景と兄遠山隼人佐が討死した為還俗し、遠山家の家督を相続した。江戸城代と古河公方足利義氏との取次ぎ役の職務も継承した。1567年、古河公方足利義氏が遠山政景に相馬治胤の対抗する為、江戸城からの援兵300余りの派遣を依頼した。長尾景虎に関東に侵攻すると、江戸城代を北条氏秀に譲り葛西城主として常総方面を軍政と民政を担当した。

遠山直景【とおやまなおかげ(15??~1587)】

遠山政景の男。通称左衛門大夫。北条氏政、北条氏直の二代に仕えた。武蔵国葛飾郡葛西城主として、常総方面の軍政と民政を担当した。1580年、父遠山政景が病没により遠山家の家督を相続した。遠山直景が家督を相続した時期は、北条家と里見義頼との和睦により遠山直景は大きな戦功を挙げることができなかった。葛西城主として江戸城主北条氏秀を補佐した。

遠山康光【とうやまやすみつ(15??~1579)】

遠山直景の次男。通称左衛門。相模国新庄城541貫を領した。1569年「越相同盟」の際、取次役と奉行を務めた。1570年、武田晴信勢が伊豆国韮山城に侵攻した際、城兵を指揮した。1570年、長尾景虎との同盟により長尾三郎景虎の附家老として、越後国に赴いた。1579年「御館の乱」では、長尾三郎景虎に属して討死した。

遠山康英【とおやまやすひで(15??~1579)】

遠山康光の男。1560年、相模国三浦郡の代官を務めて伯父遠山綱景と共に対里見義堯の最前線を守った。1567年、太田氏資が討死すると、岩槻城に入って同城の城番を務めた。その後、武田晴信が駿河国に侵攻すると、駿河国に参陣した。長尾景虎との「越相同盟」際、父遠山康光と共に交渉を行った。1570年、伊豆国韮山城が武田晴信勢から攻撃を受けた際、父遠山康光と共に籠城した。その後、父遠山康光は長尾三郎景虎の附家老として越後国に赴いた。遠山康英は北条氏政の側近としてそのまま関東に残って長尾景虎との取次役を務めた。1579年「御館の乱」の際、父遠山康光と共に長尾三郎景虎を守って討死した。

富永政直【とみながまさなお(15??~15??)】

伊勢盛時家臣。富永実吉の男。通称四郎左衛門。伊豆衆二十一家のひとり。1491年、伊勢盛時に属した。1493年、興国寺城代。1524年、遠山直景と共に江戸城代を務めた。

富永直勝【とみながなおかつ(1509~1564)】

北条氏綱家臣。富永政直の男。通称四郎左衛門。伊豆国西土肥など1,383貫を領し、後北条五色備の青備えを率い五家老に列せられた。また遠山
綱景、太田康資らと共に江戸城代を務めた。1556年、三崎沖で里見義堯勢との海戦に参陣した。1563年、江戸城代太田康資が北条氏康から長尾景虎に寝返りを図るが失敗した。1564年、長尾景虎より太田康資の支援要請を受けた里見義堯は国府台に侵攻して「第二次国府台の戦い」が起こった。富永直勝は、遠山綱景と共に、北条綱成が率いる本隊に先行して江戸川を渡河するが、里見義堯勢の反撃を受けて討死した。

富永政家【とみながまさいえ(1554~1607)】

富永直勝の男。官途は山城守。通称孫四郎。1564年、父富永直勝の討死より富永家の家督を相続して江戸城本丸城代となった。1584年、韮山城主。嫡男富永直則は松平家に仕えた。

富永家政【とみながいえまさ(15??~15??)】

富永直勝の次男。1564年、父富永直勝の討死により、富永家の家督を相続した。

富永政辰【とみながまさたつ(15??~15??)】

富永直勝の男。

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【な】

内藤景定【ないとうかげさだ(15??~15??)】

津久井郡津久井城主。伊勢盛時家臣。官途は左近将監。伊勢盛時は、内藤景定を津久井城に送り込み整備「津久井衆」と称される家臣団を組織して甲斐国からの侵攻に備えた。1524年、北条氏綱が江戸城を攻撃する為に高輪原でに布陣し扇谷上杉朝興と対峙した際、扇谷上杉朝興の援軍として武田信虎が津久井城を攻撃した。その後も武田信虎に度々の侵攻を受け「敵半地」と称され、奥三保は武田信虎勢の支配下に置かれた。1536年、津久井光明寺の寺領安堵した。

内藤綱秀【ないとうつなひで(15??~15??)】

内藤景定の男。官途は大和守。通称孫四郎。別名内藤景豊。津久井衆筆頭で、津久井領は甲斐と国境を隣接する為、重要地域された。1569年「三増峠の戦い」の際、北条氏照、北条氏邦らはこの津久井城側から進出して三増峠に配し、武田晴信勢を挟撃しようとした。武田晴信は小幡信定ら1,200の兵を迂回させ、津久井城の押さえとして城兵の動き塞いだ為、内藤景豊は籠城を余儀なくされた。1590年「小田原の役」では、内藤景豊は小田原城に籠城し、津久井城には老臣ら150騎が籠城した。羽柴秀吉勢の本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞ら11,000余りの攻撃を受け落城した。

内藤直行【ないとうなおゆき(15??~15??)】

内藤綱秀の男。通称助右衛門。室は松田憲秀の娘。1590年「小田原の役」では、松田憲秀とともに行動し謀議に関わった。北条氏直が高野山に蟄居するときは内藤直行も同行した。その後、前田利家に仕えて200石を領した。

南条昌治【なんじょうまさはる(15??~15??)】

北条氏邦家臣。官途は因幡守。1584年、長尾顕長に代わり上野国館林城主を務めた。

二曲輪猪助【にのくるわいすけ(15??~15??)】

風魔忍者。二曲輪猪助は風魔五代目頭目風魔小太郎率いる忍衆のひとり。「河越城の戦い」では、足の速さを見込まれて、敵情偵察にあたった忍衆であった。1537年、北条氏綱が河越城主扇谷上杉朝定と入間郡で戦い、松山城に敗走させて河越城を攻略した。北条氏綱は三男北条為昌を入れて守らせた。北条氏綱が病没し、北条氏康が北条家の家督を相続すると、河越城主北条為昌も病没し養子北条綱成が城主となった。1545年、扇谷上杉朝定は、古河公方足利晴氏、関東管領の山内上杉憲政と結び、河越城を包囲したが、北条綱成は籠城して激しく抵抗した。北条氏康は兵8,000余りを率いて金窪に着陣したが、扇谷上杉朝定らに和睦を申し出た。その間、北条氏康は風魔一党に扇谷上杉朝定らの情勢を探らせた。風魔一党と北条氏康の繋ぎを務めのが二曲輪猪助だった。1546年、扇谷上杉朝定方の情報を把握した北条氏康は、十分の一の兵力で扇谷上杉朝定の陣営に夜襲をかけ連合軍を打ち破り河越城を守った。

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【は】

垪和氏堯【はがうじたか(15??~15??)】

後北条氏綱家臣。中郡沼部館主。官途は伊予守。後北条氏綱家臣垪和氏堯は美作国の国人で幕府奉公衆であった垪和家枝連衆。松山衆筆頭として1,028貫675文を領した。

垪和氏続【はがうじつぐ(15??~15??)】

垪和氏堯の男。通称又太郎。官途は伊予守。松山衆として1028貫675文を領した。1557年、父垪和氏堯から垪和家の家督を相続した。1569年、武田晴信の「駿河侵攻」では、駿河興国寺城主に任じられ守備にあたった。1571年、興国寺城が武田晴信勢から攻撃を受けるが枝連衆の垪和善次郎と共に城を守り切った。

垪和康忠【はがやすただ(15??~15??)】

垪和氏続の男。官途は伯耆守。通称刑部丞。垪和康忠は北条家の奉行人、評定衆として内政面、外交面で活躍した。1569年、遠山康光と共に「越相同盟」締結の為、長尾景虎との交渉にあたった。1571年「甲相同盟」の交渉にも関わった。その後、下総関宿領や武蔵岩槻城領の支配に関わり、上野国厩橋城に在番して東上野の統治に活躍した。1582年、北条氏直に従い「神流川の合戦」に参陣した。1590年「小田原の役」で、小田原城が開城後の動向は不明。

垪和刑部丞【はがぎょうぶのじょう(15??~15??)】

垪和康忠の男。

垪和豊繁【はがとよしげ(15??~15??)】

垪和康忠の次男。

風魔小太郎【ふうまこたろう(15??~1603)】

足柄下郡箱根山に勢力を持つ関東忍衆「風魔衆」の頭領。風魔一族は大陸から来た渡来人。風魔党の結束は固く容易に他所者を受け入れなかった。五代目風魔小太郎は、体躯は七尺(約2m)を超える大男で、手足の筋骨荒々しくそこかしこにむら瘤がり、眼は極端に吊り上がり、黒髭の口は両脇へ広く裂け、牙が四本出ていたという。さらに頭は福禄寿に似て鼻が高く、声を出せば五十町(約5㎏以上)四方に届き、低く出せば乾いた声が波のように響き渡り不気味だった。後北条家に仕えていた。羽柴秀吉の「小田原の役」により後北条家が滅亡し、松平元康を治めると盗賊として江戸の街を騒がせた。松平元康は懸賞金をかけて盗賊の長である五代目風魔小太郎を探索した。1603年、高坂甚内の密告により捕らえ処刑された。

北条氏綱【ほうじょううじつな(1487~1541)】

足柄下郡小田原城主。伊勢盛時の男。官途は左京大夫。通称新九郎。室は養珠院。継室は近衛尚通の娘(近衛殿)。1518年、父伊勢盛時の隠居により後北条家の家督を相続した。1524年、北条氏綱は、河越城主扇谷上杉朝興が山内上杉憲房と和睦交渉を行って最中、扇谷上杉家臣江戸太田資高を寝返らせて江戸城を攻略後、板橋城主板橋大夫、岩槻城主岩槻太田備中守らを討取り、毛呂城主毛呂太郎、岡本将監らが北条氏綱に属した。扇谷上杉朝興からの要請により武田信虎が岩槻城を攻略した。1530年、北条氏康と共に扇谷上杉朝興との「小沢原で戦い」で大勝した。1537年、扇谷上杉朝興が病没すると、扇谷上杉朝定が家督を相続したが家中混乱の隙を付いて、河越城を攻略した。古河公方足利晴氏と和睦して娘を嫁がせた。1538年、小弓公方足利義明と里見義堯らとの「第一次国府台の戦い」では、足利義明を討取り、里見義堯勢にも打撃を与え勝利した。武田信虎とは甲相国境で争いを続けていた。1536年、今川義元が家督を相続すると「相駿同盟」を破棄して、武田信虎と「甲駿同盟」を結んだ。

北条氏時【ほうじょううじとき(15??~1531)】

伊勢盛時の次男。官途は佐馬助。通称新六郎。1513年、鎌倉郡玉縄城主に任じられた。玉縄城は、柏尾川と直結し相模湾の海賊衆を統括する重要拠点となった。更に鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面でも重要な役割を果たした。1526年、安房の里見義豊が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃した。戦後両陣営で頸を交換し、それを埋め弔うために供養塔を建てた。

北条氏広【ほうじょううじひろ(15??~1539)】

伊勢盛時の三男(葛山氏元の養子)。官途は中務少輔。別名葛山氏広。駿河国東部の国人領主葛山家の養子となって葛山家の家督を相続した。1524年、家臣関孫九郎に所領を与えた。葛山家は今川義元に従属しており、北条氏広も駿府に屋敷を構え今川家に出仕していた。1537年、北条氏綱と今川義元が争った「河東一乱」の際には、北条氏綱に属した。

北条長綱【ほうじょう ながつな(1493~1589)】

伊勢盛時の四男。官途は駿河守。通称三郎。別名北条幻庵。1523年、箱根権現別当第四十世。僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した。還俗せずに相模国中郡と武蔵小机領の領地支配を担当した。1560年、嫡男北条時長が夭折したため、次男北条綱重が家督を相続した。北条氏綱の三男北条氏尭を小机城主とした。1569年、武田晴信との「蒲原城の戦い」で、次男北条綱重、三男北条長順が討死すると、北条氏康の七男北条景虎を養子に迎えて家督と譲り、隠居して幻庵宗哲と称した。1569年「越相同盟」の成立により、北条景虎が長尾景虎の養子となった後は、北条氏光に小机城を継がせ、家督は北条氏隆に継がせた。

北条氏康【ほうじょううじやす(1515~1571)】

北条氏綱の男。官途は相模守。通称新九郎。室は今川氏親の娘(瑞渓院)。諸学に広く通じ足利学校の復興などにも努め、詩歌は三条西実隆に学んだ。1538年「第一次国府台の戦い」では父北条氏綱が総大将だったが、北条氏康も参陣し足利義明を討取る戦功を挙げた。1541年、父北条氏綱の病没によって北条家の家督を相続した。1545年、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が同盟を結び、北条方の河越城を包囲した。1546年「河越城の戦い」で北条氏康は兵8,000余りを率いて両上杉、足利連合軍数万に夜襲をかけ勝利した。北条氏康は武田晴信、今川義元との三国同盟を結び、関東の諸家を攻略した。次男北条氏照に滝山城主大石定久の家督を相続させ、三男北条氏邦に鉢形城主藤田康邦の家督を相続させ、四男北条氏規を韮山城主、六男北条氏忠を唐沢山城主佐野宗綱の家督を相続させ、北条氏堯を小机城と隙間なく協力体制を築いた。北条氏秀は長尾景虎との同盟の際に人質となり、北条三郎景虎となった。1561年、長尾景虎勢100,000余りに小田原城を包囲されるが籠城を続け長尾景虎勢を撤退に追い込んだ。1562年、武田晴信と同盟し松山城を攻め落とした。1564年「第二次国府台の戦い」で里見勢に勝利すると南関東にも勢力を拡大した。北条氏康は、小田原城を中心に重要拠点に、河越城主大道寺政繁、山中城主松田康長、岩槻城主太田氏房、松山城主上田憲定、津久井城主内藤綱秀、江戸城主遠山綱景を配し強固な防御態勢を構築した。

玉縄北条為昌【ほうじょうためまさ(1520~1542)】

北条氏綱の三男(北条氏時の養子)。通称彦九郎。側室は養勝院。1531年、養父北条氏時が病没すると、玉縄北条家の家督を相続した。若年のため大道寺盛昌、北条綱成らが補佐にあたった。以後、河越城、小机城、三崎城などの城主を務めた。鎌倉鶴岡八幡宮の再建も行ったが、まもなく病没した。

北条氏堯【ほうじょううじたか(15??~1590)】

北条氏綱の三男。通称左衛門佐。北条氏綱と武田信虎が和睦した際、人質として甲斐国府中に赴いた。1555年、兄北条為昌の病没後、叔父北条長綱の後見を受けながら、上野国平井城の城将を務めた。1560年、北条長綱の嫡男北条三郎が病没死去した為、小机城主となった。1561年、長尾景虎の関東に侵攻すると河越城に入り、長尾景虎勢からの攻撃を押え、河越城を守り切った。

北条氏政【ほうじょううじまさ(1538~1590)】

北条氏康の次男。官途は相模守。通称新九郎。室は武田晴信の娘(黄梅院)。1554年、「三国同盟」の成立後、武田晴信の娘(黄梅院)を室とした。1559年、父北条氏康の隠居により北条家の家督を相続した。疫病や飢饉が続いた為「徳政令」や「撰銭令」を実施した。1561年、長尾景虎が関東管領山内上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら100,000余りを擁して小田原城を包囲し、蓮池門へ突入するなど攻勢をかけたが、これを撃退した。1564年「第二次国府台の戦い」で、里見義弘勢を撃破した。岩槻城主太田氏資が北条氏政に寝返り武蔵国を制圧した。1568年、武田晴信勢12,000余りが今川義元が討死して弱体化した駿河国に侵攻すると、今川氏真を助け駿河国に兵を出した。1569年「相越同盟」を結ぶと、武田晴信が小田原城を包囲した。撤退する武田晴信勢を追撃するが「三増峠の戦い」で敗北した。1571年、父北条氏康が病没すると「相甲同盟」を結び「相越同盟」を破棄した。1578年、長尾景虎が病没して長尾三郎景虎と長尾景勝の後継者争い「御館の乱」が起こった。武田勝頼が長尾景勝を支援すると、北条氏政は「相甲同盟」を破棄した。1579年、松平元康と結んで、駿河の武田勝頼を攻撃した。北条家の家督を嫡男北条氏直に譲り隠居した。

大石北条氏照【ほうじょううじてる(1540~1590)】

北条氏康の三男(大石定久の養子)。官途は陸奥守。通称源三。別名大石氏照。室は大石定久の娘(比佐姫)。1559年、武蔵国滝山城主大石定久の娘(比佐姫)を娶り、大石氏照と称して、大石家の家督を相続した。主に東関東方面の戦いを担当して後北条家の勢力拡大を助けた。1569年、北条氏邦と共に長尾景虎との「越相同盟」を成立させ、伊達輝宗との外交関係を構築した。1568年、小山田信茂勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。北条氏照は中山家範、横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗での戦いで敗北、滝山城も三の丸まで攻め入られるが、北条氏照の奮戦により撃退した。1569年、小田原城から撤退する武田晴信を、三増峠で北条氏照、北条氏邦勢が迎え撃ったが本隊の到着が遅れ敗北した。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、北条氏直は空白地になった甲斐国、上野国に侵入して、北条家領を拡大した。1590年「小田原の役」では、徹底抗戦を主張し、八王子城には家臣を置いて守らせ、小田原城に籠城した。役後、羽柴秀吉から自刃を命じられた。辞世の句は「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」。

藤田北条氏邦【ほうじょううじくに(1541~1597)】

北条氏康の四男(藤田康邦)。官途は安房守。通称新太郎。別名藤田氏邦。室は藤田康邦の娘(大福御前)。武蔵国天神山城主藤田康邦の娘を娶り、藤田氏邦を称して、藤田家の家督を相続した。武勇、統治に優れ、北関東方面の戦いを担当して各地を転戦して戦功を挙げ、後北条家の領土拡大を助けた。内政面では、養蚕、林業などの殖産興業に尽力し、生糸の一大拠点を築き上げた。1578年「御館の乱」が起こると弟長尾三郎景虎を支援する為、北条氏照と共に越後国坂戸城を攻撃した。長尾景勝勢の守りは固く、冬の到来と共に撤退した。支援を失った長尾三郎景虎は自刃した。1582年「本能寺の変」後の「神流川の戦い」では、北条氏直を補佐し滝川一益を上野国から追い落した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、籠城に反対して野戦を主張したが容れられず鉢形城に籠城した。前田利家勢の攻撃を受け降伏した。役後、前田利家に仕え能登国津向で1,000石を領した。

北条氏規【ほうじょううじのり(1545~1600)】

北条氏康の五男。官途は美濃守。通称助五郎。室は朝比奈泰以の娘。継室は北条綱成の娘(高源院)。幼少時は今川義元の人質として駿河国駿府に送られ、同じく人質であった松平元康と親交を結んだ。北条氏規は外交面における活躍が顕著で、長尾景虎、武田勝頼、織田信長、松平元康、伊達輝宗、芦名盛氏らの取次役を務めた。1569年、武田晴信の「伊豆侵攻」の際、韮山城を守備して武田晴信勢を撃退した。羽柴秀吉が畿内を制圧すると、羽柴秀吉との外交交渉を開始するが、北条氏政の反対により失敗に終わった。1590年「小田原の役」では、韮山城に籠城して羽柴秀吉勢40,000余りの攻撃を僅か300余りで四ヶ月以上抗戦した。松平元康の説得を受けて開城後、北条氏政、北条氏直親子に降伏を勧める役割を果たした。役後、北条氏直に従って高野山に赴く。1594年、河内国河内郡狭山城6,980石を領した。

佐野北条氏忠【ほうじょうじただ(15??~1593)】

北条氏康の六男(佐野宗綱の養子)。通称左衛門佐。別名佐野氏忠。室は佐野宗綱の娘(乗讃院)。1582年「本能寺の変」後、北条氏直が甲斐国、信濃国の領有権を巡って、松平元康と争った際、北条氏光らと共に兵8,000余りを率いて甲信地方を転戦した。1585年、下野国佐野城主佐野宗綱が足利長尾顕長との戦いで討死すると、北条氏忠が佐野宗綱の養子として佐野家の家督を相続した。北条氏忠の家督相続に反対して、佐野宗綱の弟佐野房綱が出奔した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、小田原城に籠城した。北条氏直が高野山に蟄居すると、伊豆国河津で隠遁生活を送ったが間もなく病没した。その後、佐野宗綱の弟佐野房綱が佐野家の家督を相続して、毛利輝元に仕えて1,000石を領した。

北条氏秀【ほうじょううじひで(1554~1579)】

北条氏康の七男(長尾景虎の養子)。通称三郎。別名長尾三郎景虎。室は北条長綱の娘。継室は長尾政景の娘(清円院)。1569年、武田晴信の「駿河侵攻」により、北条氏政は「甲相同盟」破棄して、長尾景虎と「越相同盟」を結んだ。同盟に際しては、北条氏康の七男北条氏秀が養子として長尾景虎の元に送られた。長尾景虎の姪(華姫)を娶り、長尾三郎景虎(養父と同名)と称した。「越相同盟」に対し、武田晴信は足利義昭を仲介として、長尾景虎と和睦して、佐竹義重ら北関東の勢力を迎合して北条氏政への牽制を行った。北条氏康と北条氏政の間で「越相同盟」の維持か「甲相同盟」の回復かで対立路線があった。1571年、北条氏康が病没して、北条氏政が家督を相続すると「甲相同盟」を結び「越相同盟」を破棄した。1578年、長尾景虎が病没すると、長尾景勝との家督を巡る「御館の乱」が起きた。長尾三郎景虎は、長尾景信、本庄秀綱、北条高広らの他、北条氏政、同盟国である武田勝頼の支援を受け優勢であった。長尾景勝は、春日山城本丸の金蔵を押えた。長尾三郎景虎は、室と道満丸を連れて春日山城から落延びて、御館(上杉憲政の屋敷)に籠城した。北条氏政は、佐竹義重、宇都宮勢と戦っていた為、武田勝頼に越後国への派兵を依頼した。武田勝頼は、信越国境まで兵を進めるが、長尾景勝と和睦して「甲越同盟」を結んだ。武田勝頼は、長尾景勝と長尾三郎景虎の和睦を進めるが、松平元康が駿河国に侵攻すると、越後国はら兵を撤収させた。1579年、北条氏政からの援軍もなく御館は落城した。長尾三郎景虎は、華姫と共に小田原城に落延びる途中、鮫ヶ尾城主堀江宗親の謀反により自刃した。

久野北条氏光【ほうじょううじみつ(15??~1590)】

北条氏康の九男(北条長綱の養子)。官途は右衛門佐。通称四郎。室は北条長綱の娘。相模足柄城の守備をするなど相模と駿河の国境防衛に努めた。戸倉城主となり、隣接する口野五ヶ村を領した。長尾三郎景虎が「越相同盟」により長尾景虎の養子となった為北条長綱の娘を離縁させ、北条氏光に嫁ぎ、長尾三郎景虎が城主だった小机城を領した。1581年、北条氏光に替わって戸倉城を守備した松田憲秀の嫡男笠原政堯が武田勝頼に謀反したため、駿河東郡が武田勝頼領になった。1582年、武田勝頼の討死後は松平元康が領した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、足柄城を兵600余りで守備したが、後に小田原城に移って籠城を続けた。北条氏直や兄北条氏規らと共に高野山に蟄居した。

北条氏直【ほうじょううじなお(1562~1591)】

北条氏政の次男(今川氏真の養子)。官途は左京大夫。通称新九郎。室は松平元康の娘(督姫)。1569年、父北条氏政の元に落延びた今川氏真の養子となり、駿河国、遠江国の領有権を譲られた。1580年、北条氏政の隠居により、北条家の家督を相続した。1582年「本能寺の変」後、織田信長の関東管領であった滝川一益を上野国から駆逐した。信濃国小県郡、佐久郡を攻略して甲斐国に侵攻した。「若神子の戦い」で、松平元康と戦った。松平元康の娘督姫との婚姻を条件に和議が結ばれた。1589年「名胡桃城事件」を起こした。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、小田原城に籠城するも支城が次々と陥落したことにより降伏した。高野山に蟄居されられたが、後に赦免され10,000石を領した。

北条源五郎【おおたげんごろう(1563~1582)】

北条氏政の三男。別名太田源五郎。1567年、岩槻城主太田氏資が「三船山の戦い」で、里見義弘勢に討取られた。太田氏資には嫡子がおらず、北条氏康の娘との間に産まれた女子がいるのみであった。岩槻太田家は家臣の太田輝資や宮城政業ら合議制で運営された。1575年、北条源五郎は、父北条氏政の支援を受けて太田氏資の娘と婚儀を行い岩槻城に入った。1582年、若くして病没した。1585年、太田氏資の娘との間には子供がいなかったため、北条氏房が兄の未亡人と再婚して、岩槻太田家の家督を継承した。

北条氏房【ほうじょううじふさ(1565~1592)】

北条氏政の四男。通称源五郎。別名岩槻太田氏房。室は太田氏資の娘。1582年、兄北条源五郎が若くして病没すると、兄の未亡人と婚儀を行い、岩槻太田家の家督を相続した。岩槻衆への軍事指揮権や領内裁判権は隠居の北条氏政が掌握していた。1587年、太田氏房が与野郷周辺の堤防築造を建設した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、岩槻城は家臣に守らせ、自身は小田原城に籠城した。太田氏房は蒲生氏郷勢に夜襲をかけるなど、積極的な行動を行った。役後は、兄北条氏直と共に高野山で蟄居した。

北条直重【ほうじょうなおしげ(15??~1627)】

北条氏政の五男(北条氏照の養子)。別名千葉直重。室は千葉邦胤の娘。継室は市原如雪の妹。初めは叔父北条氏照の養子になったが、千葉邦胤の病没後、下総千葉家の家督を相続した。1580年「小田原の役」では、小田原城に籠城した。小田原城が開城すると、兄北条氏直と共に高野山に蟄居した。蟄居が解かれると蜂須賀家政に仕え500石を領した。蜂須賀家政の家臣益田豊正の三男を婿養子に迎え、大石重昌と称して家督を相続させた。

北条直定【ほうじょうなおさだ(15??~15??)】

北条氏政の六男。室は北条氏規の娘。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、小田原城に籠城した。小田原城が落城すると、兄北条氏直と共に高野山にて蟄居した。後に松平元康に仕えた。

北条氏盛【ほうじょううじもり(1577~1608)】

北条氏規の男。官途は美濃守。通称助五郎。室は船越景直の娘。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」で、北条氏直が高野山に蟄居すると、父北条氏規と共に同行した。1591年、北条氏直が病没すると下野国4,000石を領した。1592年「文禄の役」では、肥前名護屋に参陣した。1600年、北条氏規が病没すると、河内北条家の家督を相続した。松平元康から、父北条氏規の遺領河内国狭山城7,000石を安堵された。北条氏盛は、自領を含め11,000石を領して諸侯に列した。「関ヶ原の役」では、松平元康勢の西尾吉次隊に属して、本領を安堵された。

北条綱重【ほうじょうつなしげ(15??~1584)】

北条長綱の次男。通称新三郎。別名北条氏信。室は西園寺公朝の娘。北条氏康が和歌の添削を依頼するほど、和歌の造詣が深かった。1560年、兄北条三郎が早死にした為、父北条長綱より家督を譲られ、小机城主となった。1568年、武田晴信の「駿河侵攻」では、北条氏康は今川氏真を支援して駿河国に兵を入れ、北条綱重は興国寺城の守備に付いた。1569年、興国寺城は、武田勝頼を総大将、武田信豊、山県昌景らの攻撃を受けた。北条綱重は、弟北条長順と共に兵1,000余りで籠城するが、武田勝頼、武田信豊の猛攻により落城した。北条綱重、北条長順、それに狩野新八郎、清水太郎左衛門、笠原為継、荒川長宗ら城将は悉く討死した。北条綱重は、真田幸隆勢に討取られた。

北条長順【ほうじょうちょうじゅん(15??~1569)】

北条長綱の三男。1569年、1569年、興国寺城は、武田勝頼を総大将、武田信豊、山県昌景らの攻撃を受けた。北条綱重は、弟北条長順と共に兵1,000余りで籠城するが、武田勝頼、武田信豊の猛攻により落城した。北条綱重、北条長順、それに狩野新八郎、清水太郎左衛門、笠原為継、荒川長宗ら城将は悉く討死した。

玉縄北条綱成【ほうじょうつなしげ(1515~1587)】

福島正成の男(北条為昌の養子)。官途は左衛門大夫。通称孫九郎。室は北条氏綱の娘(大頂院殿)。黄備え旗頭。1521年「飯田河原の戦い」で、父福島正成ら枝連衆が武田信虎勢の原虎胤に討取られ北条氏綱の元に落延びた。1542年、北条為昌が病没すると、北条綱成が玉縄北条家の家督を相続した。1537年、北条家の五色備の黄備えを担当して関東各地を転戦した。1541年、北条氏綱が病没して北条氏康が北条家の家督を相続した後も黄備えを担当した。1546年「河越城の戦い」では、半年余りを籠城戦で耐え抜いた上に本隊と呼応して、山内上杉憲政、扇谷上杉上杉朝定、古河公方足利晴氏勢80,000余りを突き崩すなど、北条氏康勢を勝利に導く戦功を挙げた。その後も、河越城主、北条家中随一の猛将として活躍した。1557年「第三次川中島の戦い」では、武田晴信勢の援軍として参陣して長尾景虎勢を撤退させた。1563年、里見義弘、太田資正との「第二次国府台の戦い」では、奇襲部隊を率いて里見義弘勢を撃破した。1569年、武田晴信との「三増峠の戦い」では、浅利信種を討取った。1570年「深沢城の戦い」では、寡勢でありながら武田晴信勢を苦しめた。1571年、北条氏康が病没すると、北条綱成も玉縄北条家の家督を嫡男北条氏繁に譲って隠居した。

玉縄北条綱房【ほうじょうつなふさ(15??~15??)】

福島正成の男(北条為昌の養子)。官途は刑部少輔。通称孫二郎。1546年「河越城の戦い」では、兄北条綱成が城将を勤める河越城が山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏らの連合軍に包囲されると、急を知らせるため敵陣を突破して、北条氏綱の元に知らせた。その後も北条綱成を補佐した。「深沢城の戦い」では、松田憲秀らと共に戦功を挙げた。

玉縄北条氏繁【ほうじょううじしげ(1536~1578)】

北条綱成の男。官途は左衛門大夫。通称善九郎。 別名北条康成。室は北条氏康の娘(七曲殿)。1554年「加島の戦い」では、松田憲秀、笠原康勝と共に先鋒を務め戦功を挙げた。1561年、長尾景虎が関東勢100,000余りを率いて小田原城を攻めた際も、玉縄城に籠城して守り切った。1569年、武田晴信が兵20,000余りを率いて小田原城を包囲した際も、玉縄城に籠城して守り抜いた。1563年、里見義弘との「第二次国府台の戦い」では、父北条綱成や松田憲秀と共に奇襲をかけて里見義弘勢を打ち破った。外交面では、白河結城義顕や芦名盛氏との取次ぎ役を務めた。軍事面でも外交面に長けた北条氏繁は北条氏康からの信任も厚く、下総国方面の軍権を任された。1571年、父北条綱成の隠居により玉縄北条家の家督を相続した。1578年、父北条綱に先立って、下総国飯沼城中にて病没した。

玉縄北条氏秀【ほうじょううじひで(15??~1583)】

北条綱成の次男。官途は治部少輔。通称孫次郎。別名沼田康元。1559年、上野国の沼田顕泰の家督を相続した。1560年、長尾景虎の南下政策により沼田城から撤退した。1574年、武蔵国江戸城代を勤めた。1574年、兄北条氏繁の参陣中は岩槻城留守役を務めた。1582年、下総国関宿城代を務めた。

玉縄北条氏舜【ほうじょううじとし(15??~1582)】

北条氏繁の男。官途は左衛門大夫。父北条氏繁が病に倒れている間は、北条氏政に属して関東各地を転戦した。1577年、鬼怒川にて佐竹義重、宇都宮広綱、那須資晴と戦った。1580年、岩槻城代を務め、北条氏政の四男北条氏房が岩槻城主に任じられると、玉縄城主となった。玉縄城主になると東郡内での鳥猟を禁ずる法度を発布した。

玉縄北条氏勝【ほうじょううじかつ(1559~1611)】

北条氏繁の次男。官途は左衛門大夫。室は上田朝直の娘。1582年、兄北条氏舜の病没により玉縄北条家の家督を相続した。1582年「本能寺の変」後、甲斐国、信濃国の領有を巡って北条氏直と松平元康が争った際、北条氏忠と共に御坂峠に侵攻したが、鳥居元忠、三宅康貞勢に撃退された。1584年、下野国皆川城や太平山城での戦いに参陣した。1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、伊豆山中城に籠城したが羽柴秀吉勢の猛攻の前に落城した。北条氏勝は、弟北条直重、北条繁広と共に玉縄城へ戻り籠城した。玉縄城は、松平元康勢に包囲されると、松平元康の家臣松下三郎左衛門と龍寶寺住職からの説得により開城降伏した。以後、北条氏勝は下総方面の羽柴秀吉勢の案内役を務めて、北条氏直に属する諸城の無血開城の説得に尽力した。以後、松平元康に仕え下総国岩富城10,000石を領し、領内の基盤整備を進めた。

玉縄北条氏成【ほうじょう うじなり(15??~15??)】

北条氏繁の三男。官途は左馬助。通称新八郎。次兄北条氏勝に属して玉縄城を守備した。1590年「小田原の役」では、北条氏勝に属して伊豆国山中城を守備していた。羽柴秀吉勢の大軍に城を落とされて北条氏勝、北条直重、北条繁広と共に玉縄城に落延びた。

玉縄北条氏常【ほうじょううじつね(15??~15??)】

北条氏繁の四男(千葉胤宗の養子)。武蔵国石浜城主。室は千葉胤宗の娘。別名千葉直胤。1574年、下総国関宿城攻めで石浜城主武蔵千葉胤宗が討死した。千葉胤宗に嫡子がなかったため北条直胤が婿養子となり武蔵千葉家の家督を相続した。

玉縄北条繁広【ほうじょうしげひろ(1576~1612)】

北条氏繁の五男(北条氏勝の養子)。通称新左衛門尉。1590年「小田原の役」では、兄北条氏勝と共に伊豆国山中城で奮戦するが、敗退して相模国玉縄城で松平元康に降伏した。嫡男を失った北条氏勝に乞われてその養子となり、下総国岩富城に入った。1611年、北条氏勝が病没すると、北条繁広の家督相続に反対する家臣が、北条氏重を養子に迎え、玉縄北条家の家督を相続させた。北条繁広は、松平秀忠に訴え出るがまもなく病没した。松平元康は北条繁広の嫡男北条氏長を500俵取の馬廻衆に取り立てた。

玉縄北条氏重【ほうじょううじしげ(1595~1658)】

保科正直の四男(北条氏勝の養子)。官途は出羽守。通称久太郎。室は杉原長房の娘。1611年、北条氏勝の養子となり、下総国岩富城10,000石を領した。その後、下野国富田城に転封した。1614年「大坂冬の陣」では、榊原康勝勢に属し、岡崎城の守備にあたった。その後、伏見城番を務め、遠江国久野城に転封され、下総国関宿城で20,000石の加増を受けた、駿河国田中城5,000石の加増を受け、最終的に遠江国掛川城30,000石を領した。

久野北条氏隆【ほうじょううじたか(15??~1609)】

北条綱重の男。久野城主。室は東光院殿。通称彦太郎。1569年、父北条綱重が、武田晴信の「駿河侵攻」で討死した為、長尾景虎の養子となった長尾三郎景虎に代わり、北条長綱から小机北条家の家督を相続した。1590年「小田原の役」では、小田原城が落城すると北条氏直に従って高野山へ赴いた。その後、讃岐国丸亀城主生駒親正に仕えた。

堀内勝光【ほりうちかつみつ(15??~15??)】

玉縄北条氏勝家臣。1582年、松平元康に家臣鳥居元忠との「御坂峠の合戦」で、北条氏勝と共に戦功を挙げた。

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【ま】

松田盛秀【まつだもりひで(15??~15??)】

伊勢盛時家臣。官途は尾張守。室は福島正成の娘(北条為昌の養女)。伊勢盛時、北条氏綱、北条氏康の三代に仕え、譜代家老として足柄郡松田2,798貫を領した。小田原城の奉行と評定衆、北条家の直轄地である下総国関宿の代官を兼務した。1558年、古河公方足利義氏が鶴岡八幡宮に参拝した後、小田原城内で招かれた北条氏康主催の宴会では最初に挨拶をして、足利義氏に馬と太刀を贈呈した。

松田憲秀【まつだのりひで(15??~1590)】

松田盛秀の男。官途は尾張守。通称左衛門佐。北条氏康に仕え、内政政策や千葉家、里見家などの諸勢力との外交面で辣腕を振るった。1569年、駿河国深沢城に北条綱成と共に籠城して武田晴信勢を撃退した。「第二次国府台の戦い」「神流川の戦い」などの関東各地を転戦した。1590年「小田原の役」では徹底抗戦を主張したが、羽柴秀吉方の堀秀政等の誘いを受けて嫡男笠原政堯と共に羽柴秀吉に内通した。次男松田直秀はこのことを北条氏直に伝えた。松田憲秀は軟禁され、笠原政堯は謀殺された。後北条家が滅亡すると、羽柴秀吉に自刃を命じられた。

松田直秀【まつだなおしげ(15??~1614)】

松田憲秀の次男。通称左馬助。兄笠原政堯が笠原家の家督を相続した為、弟の松田直秀が松田家の家督を相続して小田原衆筆頭家老職を務めた。女と見まがうほどの容姿で北条氏直の寵童であった。1590年「小田原の役」では小田原城に籠城したが、羽柴秀吉勢に内通した父松田憲秀と兄笠原政堯を密告して北条氏直から賞された。小田原城が落城すると、高野山に北条氏直と共に赴いた。北条氏直が病没すると、前田利家に仕えた。

松田康定【まつだやすさだ(15??~15??)】

松田盛秀の次男。

松田康長【まつだやすなが(1537~1590)】

松田康定の男。通称右兵衛大夫。北条氏康、北条氏政、北条氏直の三代に仕えた。奏者や奉行衆として政務に関わり、寺社関連や楽市制度などに携わった。1559年、御馬廻衆として約700貫文を領した。1587年、羽柴秀吉との対戦に備えて山中城の構築した。1589年「小田原の役」では、山中城主として。羽柴秀次勢約70,000余りの攻撃受け城は落城し城兵と共に討死した。

松田康郷【まつだやすさと(1540~1609)】

松田康定の次男。官途は肥後守。通称六郎左衛門。智勇に優れ、後北条家の勢力拡大に貢献した。1566年、長尾景虎が後北条家の下総国臼井城へと侵攻して来た際、大和田城の守備した松田康郷は、100騎余りを率いて千葉胤富、白井胤治らが籠もる臼井城へと駆け付け、奮戦の末に長尾景虎本陣まで切り込み、長尾景虎勢を撃破した。1582年、北条氏直に属して「神流川の戦い」に参陣した。1590年「小田原の役」で、後北条家が滅亡すると結城秀康に仕えた。

松田定勝【まつださだかつ(15??~15??)】

松田康郷の男。

松田照基【まつだてるもと(15??~15??)】

松田康定の次男(大石定基の養子)。通称源七郎。別名大石照基。北条氏照に属して小山領に侵攻した。

間宮信元【まみやのぶもと(15??~15??)】

久良岐郡笹本城主。間宮信盛の男。官途は豊前守。伊勢盛時が伊豆国を平定すると、間宮信盛氏は伊勢盛時に属して「相模討伐」の先鋒を務めた。1510年「権現山の戦い」では、間宮信盛は伊勢盛時に呼応して扇谷上杉朝良から離反して、上田政盛と共に権現山城に籠城して戦功を挙げた。以後、間宮信元は相模衆十四家の筆頭となり笹下城主になった。笹下城の周囲には、杉田館、森館、氷取沢館、松本城、青砥山城などを構え東京湾の対岸に位置する里見義堯の海賊衆から鎌倉や蒔田城(蒔田御所)を守る任にあたった。

間宮康俊【まみややすとし(1518~1590)】

間宮信元の男。官途は豊前守。玉縄北条綱成、北条氏繁、北条氏舜、北条氏勝に仕えた。1532年、北条氏綱がはじめた鶴岡八幡宮の造営工事に奉行衆のひとりとして参加した。里見義堯と対立するようになると、伊豆衆海賊衆を統括し江戸湾の監視警備も担当した。1559年、698貫を領した。
1590年、羽柴秀吉の「小田原の役」では、松田康長が守る山中城へ援軍として赴き、松田康俊勢は一柳直末を討取るなど奮戦したものの衆寡敵せず、最後は「白髪頸を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して討死した。

間宮康次【まみややすつぐ(15??~15??)】

間宮康俊の男。官途は武兵衛。武田晴信は、近隣諸国との戦いのなかで海賊衆の必要性を感じ、志摩海賊衆の小浜景隆(安宅船一艘、小舟十五艘)、向井正綱(船五艘)、今川家海賊衆の伊丹康直(船五艘)、伊豆海賊衆から間宮康次(船十艘)、間宮信高(船五艘)兄弟らを招聘して、土屋貞綱(船十二艘、寄騎衆五十騎)を武田家海賊衆の大将に据え武田家海賊衆を編成した。1580年、武田勝頼は駿河浮島ヶ原に出陣すると、北条氏政も三島に兵を進めて両軍が対峙した。武田家海賊衆と北条家海賊衆は、伊豆国重須沖に戦ったが、両軍とも大した戦果のあげずに終わった。

間宮康信【まみややすのぶ(15??~1582)】

間宮康俊の次男。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると甲斐国は松平元康と北条直の間で争奪戦となった。新府城に本陣を置いた松平元康に対し、北条氏直は若神子城に本陣を置き、備えとして御坂峠に御坂城を築いた。北条氏直は、松平元康勢を若神子の本隊と御坂城の北条氏光らの別働隊で挟撃しようとしたが、別働隊は鳥居元忠勢との戦いで敗退し、間宮康信、田中吉利、中野友宗、内藤大和守らが討死した。

間宮信高【まみややすたか(15??~15??)】

間宮康俊の四男。官途は造酒丞。武田晴信は、近隣諸国との戦いのなかで海賊衆の必要性を感じ、志摩海賊衆の小浜景隆(安宅船一艘、小舟十五艘)、向井正綱(船五艘)、今川家海賊衆の伊丹康直(船五艘)、伊豆海賊衆から間宮康次(船十艘)、間宮信高(船五艘)兄弟らを招聘して、土屋貞綱(船十二艘、寄騎衆五十騎)を武田家海賊衆の大将に据え武田家海賊衆を編成した。1580年、武田勝頼は駿河浮島ヶ原に出陣すると、北条氏政も三島に兵を進めて両軍が対峙した。武田家海賊衆と北条家海賊衆は、伊豆国重須沖に戦ったが、両軍とも大した戦果のあげずに終わった。1582年、武田勝頼滅亡後、武田家海賊衆はそのまま松平家海賊衆に吸収され、城も松平元康の持城となった。間宮信高、小浜景隆、向井正綱らは、武田家海賊衆の編成のまま、土屋貞綱(岡部貞綱)配下の海賊衆としての地位を認められた。間宮信高(1,200石)、向井正綱(6,000石)、小浜景隆(5,000石)、千賀重親らと共に松平家海賊四人衆に任じられた。

間宮元重【まみやもとしげ(15??~15??)】

間宮康俊の五男。

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【や】

柳下右馬助【やぎしたうまのすけ(15??~15??)】

大道寺政繁家臣。1582年、小泉藤右衛門を始めとする鎌倉山ノ内の街人と百姓は門屋敷の棟別について鎌倉代官に訴え出た。柳下右馬助は芹沢讃岐守と共に奏者を務めた。

矢野憲俊【やののりとし(15??~15??)】

長尾顕方家臣。1510年「権現山の戦い」では、上杉憲房勢に属した長尾顕方の陣代として参陣した。

山角定吉【やまかくさだよし(15??~15??)】

伊勢盛時家臣。伊豆衆二十一家のひとり。

山角康定【やまかくやすさだ(15??~1590)】

山角定次の男。官途は上野守。通称四郎左衛門。1555年、御馬廻衆として200貫を領した。虎朱印状の奉者を務め、評定衆としても活躍した。検使や伊豆国代官を務め、長尾景虎との「越相同盟」の交渉にも関わった。小田原城の御馬廻衆の筆頭として300騎余りを率いる侍大将。1564年、父山角定吉と共に「第二次国府台の戦い」に参陣した。父山角定吉の討死により山角家の家督を相続した。1570年、武田晴信の「伊豆侵攻」では、韮山城の後詰に参陣した。1590年「小田原の役」では小田原城に籠城したがまもなく病没した。

山角定次【やまかくさふぁつぐ(15??~1564)】

山角定吉の次男。通称主殿助。1564年「第二次国府台の戦い」で討死した。

山角定勝【やまかどさだかつ(1529~1603)】

山角定吉の三男。通称刑部左衛門尉。官途は紀伊守。北条氏政の側近、北条氏直の代に奉行人、評定衆として活躍した。1571年、相模足柄城の普請奉行を務めた。1582年、松平元康と北条氏直が講和し、松平元康の娘督姫が北条氏直と婚姻する際に媒酌を務めた。1586年、松平元康への使者として派遣された。1590年「小田原の役」の後、北条氏直と共に高野山で蟄居した。1591年、北条氏直が没した後は松平元康に仕えて相模国で1,200石を領した。

山角政定【やまかどまささだ(15??~15??)】

山角定勝の男。

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【資料Ⅰ】

相模国(5郡/194,000石)

足柄郡:小田原城、松田城、刈野城、箱根、大雄山神社。
愛甲郡:七沢城、早川城、深見城。
津久井郡:津久井城。
鎌倉郡:玉縄城、大庭城、鎌倉(鎌倉五山、鶴岡八幡宮)。
三浦郡:三崎城、衣笠城、浦賀城。

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【資料Ⅱ】

後北条家三家老【ほうじょうけさんかろう】

駿河国興国寺城主:松田憲秀、上野松枝城主大道寺政繁、武蔵国江戸城主遠山綱景。

北条家五色備色(五家老)【ほうじょうけごしょくびしょく】

河越城主:北条綱成(黄備)、甘縄城主:北条綱高(赤備)、栗橋城主:富永直勝(青備)、下田城主:笠原康勝(白備)、平井城:多目元忠(黒備)。

後北条家二十将衆【ほうじょうけにじゅうしょう】

荒川豊前、山中主膳正、荒木右衛門尉、在竹又太郎、福島伊賀守、横井越前、清水上野介、南条九衛門尉、山角四郎左衛門尉、石巻勘ヶ由、佐藤左衛門尉、板部岡右衛門尉、中条出羽、伊丹右衛門尉、行方弾正、間宮豊前、朝倉右京亮、大藤式部丞、大谷帯刀、安藤左近太夫。

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【資料Ⅲ】

相模国【さがみのくに】

相模灘に面した東海道の国。東から北にかけては、武蔵国、北西は甲斐国、西は駿河国、南は伊豆国と国境と接し、三浦半島からは浦賀水道を挟んで、上総国、安房国両国と対峙する。国内は関東平野の広がる東部と関東山地が連なる西部に二分されている。その西部の山中には古代に足柄山と称された箱根山があり、東海道の難所のひとつとなっている。この峠は、律令制で遠国とされた関東諸国との境であり、この峠坂から東を坂東と称した。三浦半島の付け根に位置する鎌倉は、鎌倉時代の政治、経済、文化の中心地であり、室町幕府が成立した後も重要視され、幕府は鎌倉御所(鎌倉公方)をおいて最盛期には関東十ヶ国を管轄させ、東国支配の拠点とした。戦国期に、鎌倉公方の権威が衰えると、伊勢時盛(北条早雲)が関東に侵攻したが、伊勢時盛は小田原を関東経営の中心とした。

鎌倉【かまくら】

三方が山に囲まれ、一方が海に面する地形が天然の要害でもあり、鎌倉郡の郡衙が設置された。「平忠常の乱」の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の戦功により、その子源頼義の頃に畿内の河内国石川郡壷井を本拠地とした河内源家の所領となった。源頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の四代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備された。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となった。戦国時代には小田原の伊勢盛時(北条早雲)が侵攻、玉縄城を築いて東相模の拠点とした。北条氏綱の治世時代に安房の里見義堯との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。長尾景虎、武田晴信、里見義堯らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退した。後北条家滅亡後は松平元康の直轄地となった。

浦賀【うらが】

三浦半島東岸の入江に臨む(江戸湾)水運の要港であり、北条家海賊衆の基地ともなった湊街。1560年、北条氏康は、芝浦の代官と百姓に対し、浦賀において愛洲、山本、近藤の三家に毎月、船方番銭を納めることを命じており、浦賀に内海沿岸部から船方、もしくはその代銭が集められていた。北条家海賊衆は、北条家領を襲う里見家海賊衆から守る重要拠点として位置づけらえた。

足柄峠【あしがらとうげ】

足柄峠は駿河国と相模国の国境の峠る。古くは足柄坂と称され、ここより東を坂東と称して足柄峠はその入り口であった。この峠を越える道は古代に東海道として整備され、足柄路(矢倉沢往還)と称された。

鶴岡八幡宮【つるがおかはちまんぐう(15??~15??)】

坂東の八幡宮といえば鶴岡八幡宮のことを指ことが多い。1180年、源頼朝は、伊豆国で挙兵するが敗れて、石橋山から安房国に落延び、関東八ヶ国の武士の協力を求めた。源頼朝は鎌倉に拠点を置き、武家により政治を開始した。鎌倉は海は海道として開け、三方が山に囲まれた要害の地。それに先祖が既に社を経てて東国源氏の本拠でもあった。源頼朝は大軍とともに鎌倉に入り、二日後には鶴岡八幡宮を現在地に遷し、源平池、若宮大路等を造成し、境内および神職らの居住地を定た。鶴岡八幡宮は、源家嫡流が奉斎する氏神で、家祖以来の鎌倉殿の正統の職務であった。源頼朝は、その後京都の藤原家を通じ、和平を図るが、八幡宮に七夜を籠って手紙を書いた。京都では八幡神は春日社とともに絶大な霊験の神であったから、その意義は大きかった。草創期十年を経て関東以西の治安は源頼朝の掌握するところとなった。1191年、上宮を建て、改めて京都から石清水八幡宮を勧請し、下宮の若宮と両社を中心にした社殿が創成され整えられた。

建長寺【けんちょうじ】

鎌倉郡にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。1253年、創建で本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。

円覚寺【えんがくじ】

鎌倉郡にある寺院。山号を瑞鹿山と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺と称した。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元。1282年、鎌倉幕府執権北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条家に保護された。

寿福寺【じゅふくじ】

鎌倉郡にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山第三位の寺院。亀谷山と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山は栄西である。鎌倉三十三観音第24番。鎌倉二十四地蔵第18番。

浄智寺【じょうちじ】

鎌倉郡山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。鎌倉五山第四位。山号を金峰山と称する。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。

浄妙寺【じょうみょうじ】

鎌倉郡にある臨済宗建長寺派の禅宗寺院。稲荷山。稲荷山浄妙廣利禅寺。本尊は釈迦如来。開基は足利義兼、開山は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音第9番。寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※武田信玄は武田晴信で、上杉謙信は長尾景虎、北条早雲は伊勢盛時、北条秀氏は、長尾三郎景虎で統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「武田信玄、上杉謙信、北条氏康(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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