2014年3月4日火曜日

戦国筑前国人名事典

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秋月種時【あきづきたねとき(1490~1531)】

夜須郡古処山城主。秋月種朝の男。秋月家は後漢霊帝の後裔を称する渡来系古代氏族の大蔵家を遠祖とした。大蔵家は北九州に鞍手家、岩門家、別府家、秋月家、原田家、高橋家、田尻家、三原家等の庶家を形成し、大蔵家は九州地方の大氏族となった。筑前国では、原田、秋月、高橋の三家が有力で大蔵家三大豪族と称された。1512年、父秋月種朝が討死した為、秋月家の家督を相続した。秋月種時は、大友義鑑からの自立を目論み、大内義興に接近したが、大友義鑑の攻撃を受けて、大内義興の仲介を受けて和睦した。

秋月文種【あきづきふみたね(1512~1557)】

秋月種時の男。官途は中務大輔。室は原田義種の妹。1531年、父秋月種時の病没により秋月家の家督を相続した。秋月文種は大内義隆に属して、大友義鑑と大内義隆の和睦に尽力した。1551年、陶晴賢の謀反により大内義隆が自刃すると、大友義鎮に属した。1557年、毛利元就の勢力が北九州にまで及んでくると、秋月文種は毛利元就の調略に応じて大友義鎮から離反した。大友義鎮が派遣した戸次鑑連、臼杵鑑速、志賀親度の軍勢20,000余りの攻撃を受けた。秋月文種は古処山城で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、嫡男秋月晴種と共に城中にて自刃した。

秋月晴種【あきづきはるたね(15??~1557)】

秋月文種の男。1557年、父秋月文種が毛利元就と通じて大友義鎮から離反したため、大友義鎮が派遣した大友義鎮家臣の戸次鑑連、臼杵鑑速、志賀親度の軍勢20,000余りの攻撃を受けた。古処山城で、父秋月文種と共に大友義鎮勢と戦ったが、衆寡敵せず秋月文種と共に自刃した。

秋月種実【あきづきたねざね(1548~1596)】

秋月文種の次男。官途は修理大夫。室は田原親宏の娘。1557年、父秋月文種や兄秋月晴種が大友義鎮勢の攻撃を受けて自刃すると、秋月種実は落城寸前の古処山城から脱出し毛利元就を頼って落延びた。1559年、秋月家臣深江美濃守は毛利元就の支援を得て、秋月種実と共に古処山城を奪還して秋月家領を回復した。秋月種実の弟秋月種冬は豊前国小倉城主高橋鑑種の養子、秋月種信は豊前国馬ヶ岳城主長野義俊の養子、秋月元種は香春岳城主となり、それぞれ大友義鎮に対抗した。1567年、高橋鑑種が大友義鎮から離反すると秋月種実は「休松の戦い」で、夜襲を行い大友義鎮勢を討ち破った。1568年、立花鑑載が大友義鎮から離反すると、反大友家勢力が優勢になった。しかし筑前国の要所立花山城が大友義鎮勢によって落とされると形勢が逆転した。1569年、毛利元就が「多々良浜の戦い」で、大友義鎮勢に大敗した為、秋月種実は大友義鎮に降伏した。1578年「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると再度離反した。秋月種実の攻撃は悉く戸次鑑連によって潰された。1584年、龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で討死すると、島津義久に属した。島津義久と大友義鎮の争いの中で秋月種実は大友家領を次々に攻略して筑前国、豊前国、筑後国北部に360,000石にも及ぶ所領を築きいた。1586年、島津義久の「岩屋城の戦い」に参陣した。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、島津義久方に属して敗北した。秋月種実は剃髪し『楢柴肩衝』と『国俊の刀』を羽柴秀吉に献上し、娘の龍子を人質に出したことにより秋月家は存続を許された。秋月家は、日向国高鍋城30,000石に減移封された。

秋月種長【あきづきたねなが(1567~1614)】

秋月種実の男。官途は長門守。室は彦山座主舜有の娘。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」では父秋月種実と共に羽柴秀吉勢と戦ったが、敗れて父秋月種実と共に降伏した。父秋月種実が羽柴秀吉に対して剃髪して謝意を示し、さらに隠居した為、秋月家の家督を相続した。羽柴秀吉の命で日向国高鍋城30,000石に減移封された。1592年「文禄、慶長の役」に参陣した。1598年「蔚山城の戦い」で戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大垣城を守備した。「関ヶ原の戦い」で、石田三成勢が壊滅すると、松平元康勢に内応して、大垣城をs熊谷直盛、垣見家純、木村由信らを城中で謀殺して降伏した。これにより松平元康から所領を安堵された。

秋月種貞【あきづきたねさだ(15??~1628)】

長野鑑良の男(秋月種長の養子)。通称釆女。室は秋月種長の娘(於蝶姫)。1607年、秋月種長の養子になった。1613年、病弱を理由に廃嫡された。代わって、秋月種貞の嫡男秋月種春が後継者となった。

秋月種春【あきづきたねはる(1610~1659)】

秋月種貞の男(秋月種長の養子)。官途は長門守。室は佐久間勝之の娘。秋月家の家督は、秋月種長の後は秋月種長の娘婿である秋月種貞が相続することになっていたが、秋月種貞が病弱であったために廃嫡され、秋月種長の外孫である秋月種春が代わって養子となった。1614年、秋月種長の病没により秋月家の家督を相続した。

秋月種至【あきづきたねよし【(1576~1605)】

秋月種実の三男。官途は石見守。別名秋月種守。1592年「文禄の役」では、六十六の頸級を挙げる戦功を挙げた。

芥田悪六兵衛【あくたあくろくべい(15??~1587)】

秋月種実家臣。1587年、羽柴秀吉の「九州討伐」では、豊前国田川郡岩石城に兵3,000と共に籠城したが、城将隈江越中守を欠く秋月種実は、蒲生氏郷勢2,000余り、前田利長勢3,000余り、羽柴秀勝勢5,000余りの攻撃を受け、芥田悪六兵衛以下城兵400余りと共に討死した。

麻生弘家【あそうひろいえ(15??~15??)】

遠賀郡花尾城主。麻生家春の男。官途は上総守。 父麻生家春と共に周防の大内政弘に仕えた。明応年間に麻生家春が山口で病没した為、麻生宗家の家督相続をめぐり麻生家信と対立した。大内政弘の支援を受けて三年の攻防のすえに麻生惣領家の家督を勝ち取った。

麻生家信【あそういえのぶ(15??~15??)】

麻生家春の次男。遠賀郡岡城主。官途は遠江守。兄麻生弘家と共に大内政弘に仕えた。しかし父の没後に大内氏から家督を弘家に譲るように命じられた家信は、抵抗して三年間に渡り大内勢と戦った。のちに調停を受けて家督を麻生弘家に譲り、自身は遠賀荘吉木の岡城主に封ぜられ、麻生惣領家に属した。

麻生隆守【あそうたかもり(15??~1546)】

麻生家信の男。麻生隆守は遠賀郡花尾城主麻生弘家の間に麻生宗家の相続争いが起きた。大内政弘は家督を麻生弘家に譲るように命じたが、麻生家信は抵抗して三年間にわたって大内政弘勢と戦った。大内政弘の調停により家督を麻生弘家に譲り、麻生隆守は惣領家に属するようになった。同族の遠賀郡帆柱山城主麻生家延が、大友義鑑と結び大内義隆に謀反を起こした。1546年、大友義鑑は、麻生家延の大内政弘への謀反を岡城攻略の好機として瓜生貞延を派遣した。麻生隆守は瓜生貞延の攻撃を受け、内海の海蔵寺で妻子と共に自刃した。

麻生鎮里【あそうしげさと(15??~15??)】

麻生家信の次男。官途は左衛門大夫。花尾城主だったが、大内義隆勢の相良武任に城を追われた。相良武任が討死すると、花尾城に復帰した。1567年、遠賀郡山鹿城主麻生隆実とが対立して戦った。麻生鎮里は宗像氏貞の支援を得た麻生隆実に敗れ、薩摩国の島津義久を頼って落延びた。

池園四郎兵衛【いけぞのしろへいべい(15??~1568)】

原田隆種家臣。1568年、原田親秀を大将に近藤左近、波多江甚助、原田秀種、太田弥平左衛門、池園四郎兵衛、原田伊豆守、笠新八、上原新左衛門ら3,000余りと共に大友義鎮勢と生松原で戦ったが討死した。

石井家次【いしいいえつぐ(15??~15??)】

原田隆種家臣。官途は備後守。通称内膳。1567年、大友義鎮に寝返った西鎮兼の籠城する宝珠岳城を攻落した。1571年「山崎の戦い」で戦功を挙げた。1575年「うなきれが辻の戦い」で、戦功を挙げた。

石松典宗【いしまつのりむね(15??~15??)】

宗像氏貞家臣。官途は但馬守。1551年、宗像正氏の室の山田局と宗像氏貞の間で対立が起き、陶晴賢の指示で、石松典宗が宗像氏男の室菊姫、山田局、四人の侍女が謀殺した。

石松摂津守【いしまつせっつのかみ(15??~15??)】

宗像氏貞家臣。1561年、大友義統の家臣、都甲十郎、矢野隼人、毛利鎮実らの軍勢が許斐山城を攻撃したが、許斐氏則、占部右馬助、石松摂津守らの奮戦により大友義統勢を撃退した。

板波実理【いたなみさねすけ(15??~15??)】

秋月種実家臣。通称平兵衛。1587年、秋月種実家臣への知行宛行状に内田実清、税田宗雲と共に筆頭として連署した。

板波忠成【いたなみただなり【(15??~1603)】

秋月種実家臣。通称左京亮。対大友義鎮勢との戦いには、ほぼ参陣した。1579年、大友義鎮から離反して、毛利元就勢に属する際、毛利元就に属していた、宗像氏貞の重臣衆に、宗像氏貞に対して疎略ないことを誓う誓紙を木村種玄、坂田実久、桑原種清と共に連署した。

板波長常【いたなみながつね【(15??~1617)】

板波忠成の男。通称清左衛門。室は秋月種実の娘。1617年、反秋月種盛派だった為「不義」があったとして討伐を受けた。高鍋城内の屋敷に一族郎党と共に籠城したが、多数の兵に囲まれ討死した。

入江親茂【いりえちかしげ(15??~1623)】

秋月種実家臣。官途は主水。室は秋月種長の娘(辰姫)。辰姫は城井義綱に嫁ぐも、宇都宮家が改易された為、実家に戻り入江親茂に嫁いだ。1608年、駿府城普請に派遣された。

岩隈政直【いわくままさなお(15??~1571)】

原田隆種家臣。遠賀郡加布里城主。官途は河内守。1567年、大友義鎮勢に寝返った西鎮兼の籠城する宝珠岳城を攻落した。1571年「吉井浜の戦い」では、吉井隆光の援軍として駆けつけたが、草野鎮永勢の夜襲を受け家臣の野島勘介と共に討死した。戦いは草野鎮永の実父原田隆種の仲裁により和睦した。

臼杵重察【うすきしげ(15??~15??)】

臼杵鎮続家臣。臼杵端城主。臼杵重察は柑子岳城主で志摩郡代であった。

臼杵鎮続【うすきしげつぐ(15??~15??)】

志摩郡柑子岳城主。大友義鎮家臣。通称新助。大友義鎮に志摩郡代職に任じられ柑子岳城に入った。1568年、臼杵鎮続が宝満山城の高橋鑑種を攻撃する為、大宰府へ参陣した隙に、高祖山城主原田隆種の攻撃を受け柑子岳城は落城した。臼杵鎮続は反撃を行い柑子岳城を取り戻した。1571年、志摩郡代職を辞して豊後国に戻った。1572年、臼杵鎮氏が「池田河原の戦い」で討死すると、木付鑑実と共に柑子岳城を守備した。1579年、原田の攻撃を受けた。臼杵鎮続、木付鑑実は柑子岳城に籠城して立花城に援軍を求めたが、支えきれずに立花城に落延びた。

臼杵鎮氏【うすきしげうじ(15??~15??)】

大友義鎮家臣。1571年、臼杵鎮続が志摩郡代職を辞して豊後国に帰国すると、志摩郡代に任じられた。1572年、臼杵鎮氏は今津毘沙門天を参拝した原田了栄を待ち伏せして襲撃したが失敗した。「池田河原の戦い」では、臼杵鎮氏勢は敗退、泊城へ落延びる途中、平等寺で自刃した。

内田実久【うちださねひさ【(1535~1617)】

秋月種実家臣。通主善兵衛。内田壱岐守の弟。秋月種実が毛利元就の元へ落延びだ際も安芸国に同行した。山口で蟄居している間に内田壱岐守が秋月種実の屋敷を建て介抱した。1583年、秋月種実の隠居と共に家督を長男の四郎右衛門に譲った。秋月家の高鍋減封にも従い、高鍋では隠居料として500石を領した。

内田実清【うちださねきよ(15??~15??)】

内田家枝連衆。官途は土佐守。1587年、秋月家臣への知行宛行状に下記の税田宗雲、板波実理と共に署名した。
 
内田種正【うちだたねまさ(1585~1693)】

内田実久の七男。別名秋月種正。室は秋月種長の娘。秋月種長、秋月種春の二代に仕えた。1600年「関ヶ原の役」の「大垣城の戦い」に参陣した。1614年「大坂冬の陣」では、秋月種春の名代として参陣した。1627年「上方下方騒動」で出奔した。1638年「島原の乱」では、戦功を挙げた。その後、紀州徳川家に仕官したが、大坂に向かったところで病没した。

占部尚安【うらべなおやす(15??~15??)】

宗像正氏家臣。別名占部豊安。宗像家の筆頭家老職。1529年、許斐岳城の改修を行った。1532年、大友義鑑に属した宗像氏延が許斐城を攻撃するが占右尚安はこれを撃退した。立花城を攻撃して戦功を挙げた。1538年、宗像正氏から所領の加増を受けた。1540年、占部尚安、嫡男占部尚持と共に立花城を攻撃した。1542年、大内義隆勢に属して、富田城主尼子晴久を攻撃したが、外様衆の離反により大内義隆勢は敗退した。城代占部十郎の守る岡田城が大友義鑑勢の攻撃を受け落城した。1555年、陶晴賢の「厳島の戦い」に、毛利元就勢として嫡男占部尚持と共に参陣した。占部尚安、家臣占部賢安を田代館主に任じに。1556年、占部尚安、河津民部少輔と占部幸安との所領争いを仲裁した。占部尚安、占部尚持と共に室木で杉連緒勢と戦い、杉連緒の家臣河内山六郎を討取る戦功を挙げた。1561年、大友義鎮勢の攻撃を受け許斐山城から宗像氏貞が大島に落延びた後も、籠城を続け宗像氏貞の本領復帰に尽力した。

占部尚持【うらべなおもち(1496~1561)】

占部尚安の男。父占部尚安と共に北九州各地を転戦した。1555年、宗像氏貞は陶晴賢に属したが、占部尚安、占部尚持は、毛利元就に属して安芸国厳島に参陣して陶晴賢勢と戦った。占部尚持、多賀隆忠の許斐岳城に夜襲をかけて落した。1560年、占部尚持は、宗像氏貞の命で西郷党三十六人衆の頭領河津隆家を、戸次鑑連との和睦の条件として明湛寺で謀殺した。1557年、多賀隆忠勢の攻撃を受けたが、占部尚持は許斐城を守り河原で多賀隆忠を討取った。1558年、占部尚安、占部尚持、立花鑑載勢を古賀原で迎え討ち撃退した。占部尚持、杉連緒勢を生見で迎え討ち撃退した。1561年、許斐山城は、白岳城主怒留湯鎮氏の攻撃を受け、宗像氏貞、占部尚安、占部尚持らは大島に落延びた。宗像氏貞は許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝と共に許斐山城を奪回するが、大友義鎮勢の戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、怒留湯鎮氏ら兵20,000余りの攻撃を受けた。嫡男占部貞保、許斐氏則、石松摂津守らの奮戦により、大友義統勢を撃退したが、占部尚持は大友義鎮勢の伏兵に遭い討死した。1561年、父占部尚持の菩提寺(建興院)を創建した。

占部貞保【うらべさだやす(1548~1632)】

占部尚持の男。官途は右馬助。宗像氏貞は、吉田良喜を大将に許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝の三人を大島警固衆に任じた。1561年、許斐山城は、白岳城主怒留湯鎮氏の攻撃を受け、宗像氏貞勢は大島に落延びた。宗像氏貞は許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝と共に許斐山城を奪回するが、再び義統勢の戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、怒留湯鎮氏、都甲十郎、矢野隼人、毛利鎮実ら兵5,000余りの攻撃を受けた。許斐氏則、占部貞保、石松摂津守らの奮戦により、大友義統勢を撃退した。1565年、祖父占部尚安の隠居より、占部家の家督を相続した。1566年、宝満山城主高橋鑑種が大友義鎮から離反して毛利元就に属すると、北九州で反大友義鎮勢力が次々離反した。占部尚安、立花鑑載、奴留湯鎮氏と飯盛山下で戦って戦功を挙げた。1567年、麻生鎮里が大友義鎮勢に属して麻生隆実と戦うと、宗像氏貞は麻生隆実を支援して遠賀郡竹ノ尾城主麻生鎮里を攻撃した。占部貞保は、麻生隆実を支援して竹ノ尾城を攻落した。

恵利暢堯【えりのぶたか(1550~1587)】

秋月種実家臣。通称内蔵助。1587年、羽柴秀吉の「九州侵攻」を前に、安芸国で羽柴秀吉に謁見した。羽柴秀吉方の勢力を確認した恵利暢堯は、戦になれば敗れると考え、秋月種実に和睦を勧めた。秋月種実は、徹底抗戦の考えを変えず籠城を支度を急いだ。恵利暢堯は秋月家中で孤立して家族と共に自刃した。

恵利暢武【えりのぶたけ【(1563~1587)】

恵利暢堯の弟。秋月家領の前線である岩屋城に羽柴秀吉を迎え撃つために在城していたが、兄恵利暢堯の自刃を聞き自身も自刃した。

大村興景【おおむらおきかげ(15??~15??)】

大内義隆家臣。大村重継の男。官途は讃岐守。1530年、早良郡代及び安楽平城代を勤めた。

大村重継【おおむらしげつぐ(15??~15??)】

大村興景の男。1544年、早良郡代及び安楽平城代を勤めた。

大鶴宗秋【おおつるむねあき(15??~15??)】

大友義鎮家臣。早良郡鷲ヶ岳城主。官途は上総守。別名大鶴宗雲。大鶴宗秋は器量才覚に優れいた為、大友義鎮から命じられ、都で三年間逗留して、伊勢貞丈に師事し礼儀作法を学び、猿楽、刀剣の目利きなども習い得て帰参した。大友義鎮は、恩賞として那珂郡の内、岩戸、河内の300町を与えた。大鶴宗秋は岩戸に入部し、地形険阻な高山を選んで鷲ヶ岳城を築城した。鷲ヶ岳城は柑子岳城、安楽平城と並び大友義鎮の筑後国五城のひとつとなった。1579年、龍造寺隆信勢が三瀬を越えて早良郡へ侵攻すると、小田部鎮元は安楽平城へ籠城した。鷲ヶ岳城主大鶴宗雲は援軍を差し向け、立花山城主戸次鑑連も援軍を送ったが落城した。小田部鎮元は曲淵信助に討取られた。龍造寺隆信は、大田兵衛を大将に筑紫広門ら4,000余りで鷲ヶ岳城を囲んだ。岩屋城主高橋鎮種が大鶴宗秋の後詰に現れると陣を引いた。秋月種実は留守となった岩屋城を江利内蔵助、長谷山民部、内田善兵衛、板並左京ら5,000余りで攻撃した。岩屋城代屋山中務が籠城する間、高橋鎮種は撤退した。筑紫広門勢の追撃を受けたが成富左衛門、土岐大隈守、荒川隠岐守、萩尾麟可らの活躍で撤退に成功した。1581年、龍造寺隆信勢4,500余りの攻撃を受け落城した。

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【か】

笠木盛明【かさぎもりあき(15??~15??)】

原田隆種家臣。1571年「山崎の戦い」で戦功を挙げた。1572年「池田川原の戦い」にも参陣した。

河津隆業【かわづたかなり(15??~15??)】

糟屋郡亀山城主。河津興光の男。大内義隆家臣。西郷党三十六人衆の筆頭。1532年、大友義鑑勢に属する宗像氏延が亀山城を攻撃、河津隆業はこれをよく防ぎ、宗像氏延らを討取り、畦町まで追撃して宗像氏延勢を撃退した。以後も河津隆業は、大内義隆勢の部将として「立花山城の戦い」や「肥前宮尾城の戦い」などに参陣した。

河津隆家【かわづたかいえ【(1533~1570)】

河津隆業の男。官途は掃部介。室は占部尚安の娘。大内義隆が陶晴賢によって討取られると、父河津隆業の出家により、河津家の家督を相続した。1557年、大内義隆の後を継いだ、大内義長が毛利元就勢に討取られると、筑前国内の諸勢力は他勢力や従属するか独立するかの選択に迫られた。河津隆家は、毛利元就と結んだ宗像氏貞と同盟する道を選んだ。1559年、大友義鎮の支援を受けた宗像鎮氏が宗像郡へ侵攻すると、宗像氏貞は支えきれず大島に落延びた。大友義鎮勢に許斐城、飯盛山城を明け渡し、河津家枝連衆、深川氏俊らと共に亀山城に籠城した。その際、大友義鎮勢は賀郡の麻生隆守を討取り、鞍手郡の杉連緒を中国地方に追落した。1560年、宗像氏貞は、許斐山城へ夜襲をかけ、宗像鎮氏を討取り宗像郡を奪回した。1562年、宗像氏貞は蔦ヶ岳城を築き、本城とした。1569年、毛利元就が立花山城を攻略した際、河津隆家も参陣して感状を受けた。大友義鎮が、大内輝弘を周防国に侵攻させると、毛利元就勢は北九州から撤退した。毛利元就勢から支援を失った宗像氏貞は、大友義鎮との和睦を余儀なくされた。1570年、大友義鎮は和睦の条件として河津隆家の頸を要求、河津隆家は宗像氏貞に謀殺された。宗像氏貞は、河津隆家の嫡男晴気氏澄、次男小倉貞広として養育させた。

喜津瀬因幡守【きつえいなばのかみ(15??~15??)】

秋月種実家臣。麻底良城主。麻底良城は、秋月種実が大友義鎮に備えて日田街道を押さえる要衝に築いた城で、喜津瀬因幡を城主に任じた。喜津瀬因幡守は喜津瀬主水と共に守備した。

木村甲斐守【きむらかいのかみ(15??~15??)】

秋月種実家臣。長尾城主。1580年、木村甲斐守が端午の賀礼の為、古処山城へ出仕している隙を付いて大友勢が侵攻してきたが、甲斐守の夫人が城兵を下知して防戦し撃退した。

神代勝安【こうじろかつやす(15??~15??)】

秋月種貞家臣。秋月種貞が家督相続を断念して大坂に赴いた際に従った。

小田部鎮隆【こたべしずたか(15??~15??)】

早良郡安楽平城主。大友義鎮家臣。官途は隼人佐。鷲ヶ岳城主大鶴宗雲の次男小田部鎮元を養子に迎えた。

小田部鎮元【こたべしずもと(15??~1579)】

大鶴宗雲の次男(小田部鎮隆の養子)。別名小田部紹叱。1553年、養父小田部鎮隆の隠居により小田部家の家督を相続した。1578年、大友義鎮勢が「耳川の戦い」で大敗を喫して筑前国の大友義鎮勢の勢力が弱まると、龍造寺隆信勢の執行種兼が兵5,000余りを率いて早良郡に侵攻し城下街を焼き払い安楽平城を包囲した。小田部鎮元は、執行種兼の降伏勧告を拒否、兵1,000余りと共に籠城した。半年余りの攻防戦の後、兵糧が尽きた小田部鎮元は、鷲ヶ城主大鶴宗雲、立花城主戸次鑑連に援軍を要請を要請するも各城も援軍を出す余裕はなく、小田部鎮元は嫡男小田部鎮元と嫡男小田部統房と共に執行種兼勢に突撃をかけ討死した。小田部統房は小田部鎮元の兄である北松浦郡平戸島の大鶴鎮信を頼って落延びた。

許斐氏任【このみうじとう(15??~1557)】

宗像氏貞家臣。許斐山城主。官途は左馬頭。許斐氏鏡の兄。1551年、大内義隆が陶晴賢に討取られると、宗像家は陶晴賢に属したが、宗像家内部での勢力争いがあり宗像氏貞派は白山城に、宗像千代松派が蔦ヶ岳城に籠もって争った。許斐氏任は宗像宗家を我物とする為、謀反を企てるが謀が漏れ討伐を受け討死した。

許斐氏備【このみうじとも(15??~15??)】

許斐氏任の男。官途は左馬亮。弘治年間と天正中期に宗像氏貞家臣として署名した。

許斐氏鏡【このみうじあき(15??~15??)】

宗像氏貞家臣。官途は宮内少輔。室は占部尚安の妹。宗像氏貞の詰城である大島に占部貞保、吉田貞勝と共に遣わされて守備を務めた。1560年、許斐山城は、白岳城主怒留湯鎮氏の攻撃を受け、宗像氏貞勢は大島に落延びた。宗像氏貞は許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝と共に許斐山城を奪回した。1561年、大友義鎮勢の戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、怒留湯鎮氏ら兵5,000余りが許斐山を攻撃するが、嫡男許斐氏則と共に撃退したが、占部尚持が討死した。

許斐氏則【このみうじのり(15??~15??)】

許斐氏鏡の男。1561年、大友義鎮勢の戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、怒留湯鎮氏ら兵5,000余りが許斐山を攻撃するが、父許斐氏鏡と共に撃退した。大友義統の家臣、都甲十郎、矢野隼人、毛利鎮実らの軍勢が許斐山城を攻撃したが、許斐氏則、占部右馬助、石松摂津守らの奮戦により、大友義統勢を撃退した。宗像氏貞が跡継ぎがなく断絶すると、許斐氏備は筑後国上妻郡領主筑紫広門に仕えた。

薦野宗鎮【こものむねしげ(15??~1568)】

糟屋郡薦野城主。官途は河内守。 薦野宗鎮は糟屋郡米多比城主米多比大学と共に立花鑑載に属した。1568年、立花城主立花鑑載が大友義鎮勢から離反する際、これに反対した薦野宗鎮と米多比大学は立花鑑載によって謀殺された。

薦野増時【こものますとき(15??~15??)】

薦野宗鎮の男。別名立花増時。1568年、立花鑑載が大友義鎮勢から離反する際、米多比大学と共に謀殺された。薦野増時は、戸次鑑連に属した。立花宗茂が柳川城主に任じられると城島城4,000石を領した。1600年、松平元康勢に属するように進言するも、立花宗茂は石田三成勢に属した。嫡男薦野成家は立花宗茂の妹を室とした。

木村種玄【きむらたねはる(15??~15??)】

秋月種実家臣。官途は日向守。1579年、大友義鎮から離反して、毛利輝元勢に属する際、毛利輝元に属していた宗像氏貞の重臣衆に、宗像氏貞に対して疎略ないことを誓う誓紙を板波忠成、坂田実久、桑原種清と共に連署した。

桑原種清【くわばらたねきよ(15??~15??)】

秋月種実家臣。官途は丹後守。1579年、大友義鎮から離反して、毛利輝元勢に属する際、毛利輝元に属していた宗像氏貞の重臣衆に、宗像氏貞に対して疎略ないことを誓う誓紙を筆頭家老として、板波忠成、坂田実久、木村種玄と共に連署した。

権藤種盛【ごんどうたねもり(15??~1600)】

高橋元種家臣。通称平左衛門尉。1600年「関ヶ原の役」では、伊東祐慶が松平元康に属すると、清武城主稲津重政に命じて、石田三成勢に属する高橋元種の宮崎城主権藤種盛を攻撃した。城には権藤種盛は城兵500余りと共に籠城、延岡城に援軍を要請するが拒否され、稲津重政勢3,000余りの攻撃を受け弟権藤種利、権藤種公と共に討死した。

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【さ】

税田宗雲【さいたそううん(15??~15??)】

秋月種実家臣。官途は伊豆守。1589年、秋月種実が高鍋城に移封後、家臣団への知行宛行状を内田実清、板波実理と共に署名した。

税田玄尚【さいたはるなお(15??~15??)】

税田宗雲の男。官途は民部丞。1597年、秋月種長の家臣への知行宛行状に筆頭として署名した。

坂田諸正【さかたもろまさ(15??~1567)】

秋月種実家臣。1567年、毛利元就の支援を受けた高橋鑑種が大友義鎮から離反すると、秋月種実も挙兵した。大友義鎮は戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速ら兵20,000を古処山城に侵攻させた。大友義鎮勢は支城休である松城を攻撃、坂田諸正は大友義鎮勢の猛攻の前に落城し自刃した。

坂田実久【さかたさねひさ(15??~1581)】

秋月種実家臣。1581年、官途は勘解由左衛門尉。1579年、大友義鎮から離反して、毛利輝元勢に属する際、毛利輝元に属していた宗像氏貞の重臣衆に、宗像氏貞に対して疎略ないことを誓う誓紙を板波忠成、木村種玄、桑原種清と共に連署した。1581年、大友義鎮との戦で先陣を務め、勝利するが、翌日の大友義鎮勢の反撃により討死した。板波忠成、恵利内蔵助が追撃した。

重富正盛【しげとみまさもり(15??~1596)】

原田隆種家臣。官途は中務少輔。大内義隆家臣。後に原田隆種に仕えた。1571年「山崎の戦い」で戦功を挙げた。枝連衆は臼杵方志摩七党の一家として活躍した。

重富種賢【しげとみたねかた(15??~15??)】

原田隆種家臣。1572年「池田川原の戦い」では、大友義鎮勢に属したが、大友義鎮勢が敗退すると再び原田隆種に属した。

白井種盛【しらいたねもり(1581~1643)】

内田実久の六男。通称権之助。別名秋月種盛。白井家に養子に入り秋月種長、秋月種春の二代に仕えた。秋月種長の病没後、秋月種貞でなくその嫡男秋月種春に秋月家の家督を相続させる為に奔走した。秋月種春を家督に据えた後は反対勢力を次々に粛正、失脚させ、また粛正に直接関わった一門すら排除するなど権勢独占に邁進した。白井家の権勢は、嫡男白井種重の代まで続いたが晩年、謀反の流言を流され、神水の誓いで他心ないことを誓ったが白井種重が病没すると、秋月種信によって白井家派の粛清が行われた。

杉興長【すぎおきなが(15??~15??)】

糟屋郡高鳥居城主。大内義興家臣。官途は太宰少弐。筑前国守護代。1555年、大内義隆が陶晴賢に討たれると高鳥居城は陶晴賢勢の攻撃により落城、杉興運は糟屋浜で自刃した。

杉興連【すぎおきつら(1506~1551)】

杉興長の男。官途は豊後守。1530年、北九州の大内義隆勢を率いて勢福寺城主少弐資元と田手畷で戦った。龍造寺家兼、馬場頼周、鍋島清久らの機略の前に敗北、横岳資貞、筑紫尚門らが討死した。その後も大友義鑑などと交戦し、北九州地方の大内義隆勢の指揮を執った。1551年、陶晴賢が謀反を起こした際、大内義隆に属した。大内義隆が大寧寺で討死すると、陶晴賢勢と戦い討死にした。

杉隆景【すぎたかかげ(15??~1551)】

糟屋郡若杉山城主。杉興運の男。官途は弾正忠。1551年、大内義隆の討死後、陶晴賢勢が豊前国に侵攻。杉隆景は父杉興連と共に抗戦するも、国人衆の寝返りにより、糟屋浜にて討取られた。

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【た】

高橋長種【たかはし ながたね(15??~1549)】

御笠郡宝満城主。高橋統種の次男。兄高橋高種が出奔し、室町幕府第九代将軍足利義尚に仕えた為、高橋家の家督を相続した。高橋長種には男子がなく、高橋氏重臣の伊藤氏や福田氏は近隣の強国大友氏の当主である大友義鑑(義長の子)に養子を要請した。義鑑は、一萬田親宗に高橋氏の名跡を継承させ、鑑種と名乗らせた。長種の死により大蔵系高橋氏は途絶えることとなるが、その名族の名前は利用され続け、高橋鑑種が謀反し処罰されると、今度は吉弘鑑理の次男である吉弘鎮種(高橋紹運)が跡を継いだ。

高橋鑑種【たかはしあきたね(1529~1579)】

一万田親泰の次男(高橋長種の養子)。官途は左衛門尉。通称五郎。別名一万田親宗。1553年、大友義鎮は吉岡長増らの反対を押し切って、一万田鑑相、宗像鑑久、服部右京亮の討伐を行った。この戦いで一万鑑相、一万田鑑久らが討死した。大内義長が大内家の家督を相続すると、橋爪鑑実と共に大内義長の附家老として山口に渡った。1557年、大内義長が毛利元就に討取られると、再び大友義鎮に仕えた。小原鑑元が本庄統綱、中村長直、佐伯惟教らと共に反乱を起こすと、小原鑑元が籠城する南関城を攻略する戦功を挙げた。1560年、伊予国の西園寺公広を討伐した際、西園寺家臣土居清宗を討取る戦功を挙げた。1557年、秋月文種が毛利元就の支援を受け謀反を起こすと、戸次鑑連、臼杵鑑速らと共に兵20,000余りを率いて古処山城を攻撃した。その際、秋月文種を討取る戦功を挙げた。高橋家の本貫である宝満城と岩屋城の両城20,000石と筑前国守護代職に任じられ三笠郡、早良郡、嘉摩郡を支配した。1562年、筑前国六郡の領有を条件に毛利元就の調略を受け寝返った。高橋鑑種は直接兵を動かさずに、反大友義鎮勢の宗像氏貞や秋月種実と結び謀反の準備を行った。1566年、高橋鑑種の謀反が明らかになった後も大友義鎮は高橋鑑種の謀反を信じなかった。高橋鑑種が秋月種実、龍造寺隆信と結び兵を挙げると宗像氏貞、筑紫惟門、筑紫鎮恒、原田隆種、原田親種も兵を挙げた。1567年、大友義鎮勢(朽網鑑康、蒲池鑑盛、田尻鑑種ら)は戸次鑑連を大将に高橋鑑種領に侵攻した。1569年、尼子義久の家臣山中幸盛が出雲国に侵攻した為、毛利元就勢は北九州から撤退した。後ろ盾を失った高橋鑑種は進退窮まり大友義鎮に降伏して宝満城を明け渡し、毛利元就が支配する豊前国小倉城主となった。秋月種実の男高橋元種を養子とした。1578年、大友義鎮勢が「耳川の戦い」で、島津義久勢に大敗すると、秋月種実と共に兵を挙げた。1579年、蓑島城主杉重良を討取り、田川郡の要衝香春岳城を守る千手鑑元を攻略した。田川郡を切り取り、京都郡馬ヶ岳城主長野重勝を攻略して秋月種実の弟長野種信を入れて長野家を継がせたが間もなく病没した。

高橋元種【たかはしもとたね(1571~1614)】

秋月種実の次男(高橋鑑種)。官途は右近大夫。通称九郎。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」で降伏し、日向国延岡城53,000石に減封された。1600年「関ヶ原の役」では、兄秋月種長と共にして大垣城に籠城した。「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が敗れると、水野勝成の勧めで松平元康勢に寝返った秋月種長に従った。同じく籠城していた相良頼房を誘って、熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統らを城中で謀殺した。大垣城守将の福原長堯を降伏させ、松平元康から所領を安堵された。その後、延岡城の改修などを行なって財政基礎を固めることに尽力した。1613年、富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ改易処分を受け、高橋元種と嫡男高橋左京は、磐城国棚倉城主立花宗茂に預けられた。

高橋鎮種【たかはししげたね(1548~1586)】

大友義鎮家臣。吉弘鑑理の次男。官途は主膳正。通称孫七郎。別名吉弘鎮理、高橋紹運。室は斎藤鎮実の娘(宋雲院)。1567年、高橋鑑種が秋月種実、龍造寺隆信と結び兵を挙ると宗像氏貞、筑紫惟門、筑紫鎮恒、原田隆種、原田親種も兵を挙げた。高橋鎮種は、父吉弘鑑理や兄吉弘鎮信と共に参陣して北九州各地を転戦して戦功を挙げた。高橋鑑種が敗れ豊前国に落延びると、高橋家の家督を相続して岩屋城と宝満城を領した。北九州の軍権を任されていた戸次鑑連の補佐役を務めながら筑前国支配に貢献した。1578年「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久に大敗すると、龍造寺隆信、筑紫広門、秋月種実らが大友義鎮領へ侵攻した。大友義鎮は日向国で島津義久勢、筑後国で龍造寺隆信と対峙していた為、筑前国に援軍を送ることができなかった。高橋鎮種は戸次鑑連と連携して秋月種実や筑紫惟門らを打ち破った。1581年、嫡男立花宗茂((高橋統虎))を戸次鑑連の養子に送り、戸次鑑連との連携をさらに深めた。1584年「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が島津義久勢に討取られると、戸次鑑連と共に筑後国の侵攻した。高橋鎮種と戸次鑑連は、龍造寺隆信勢や島津義久勢を破って筑後国を回復した。1585年、戸次鑑連が病没すると、筑後国の反大友義鎮勢が蒲池鑑盛を中心に勢力を伸ばした。筑紫広門に宝満城が奪われると、高橋鎮種は筑後国遠征を中止して宝満城の奪回し筑紫広門の娘を次男高橋統増の室に迎え和睦した。1586年、島津義久勢50,000余りが岩屋城に侵攻すると、高橋鎮種勢は763名と共に籠城して城兵と共に討死した。

高橋統増【たかはしむねます(1572~1617)】

高橋鎮種の次男。官途は民部少輔。通称弥七郎。別名立花直次。室は筑紫広門の娘(加袮)。兄立花宗茂(高橋統虎)が戸次鑑連の養子となった為、次男高橋統増が高橋家の家督を相続した。1586年、島津義久勢50,000余りが岩屋城、宝満城に両城に侵攻すると、父高橋鎮種は岩屋城に、高橋統増は宝満城に籠城した。高橋鎮種の岩屋城が落城すると、高橋統増は城兵の助命を条件に開城した。羽柴秀吉の「九州征伐」後、兄立花宗茂と共に羽柴秀吉に属して18,000石を領した。立花宗茂に共に「肥後国人衆一揆」「文禄、慶長の役」など参陣して戦功を挙げた。1600年「関ヶ原の役」では、立花宗茂と共に石田三成勢に属して「伏見城の戦い」「大津城の戦い」などで戦功を挙げたが役後に改易処分を受けた。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して戦功を挙げ、常陸国筑波郡内5,000石を領して馬廻衆となった。

高橋左京【たかはしさきょう(15??~15??)】

高橋元種の男。1613年、父高橋元種が富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ改易処分を受けると、高橋元種と共に磐城国棚倉城主立花宗茂に預けられた。高橋左京は、はじめ立花宗茂、次いで二本松城主丹羽光重に仕えた。

武内清秀【たけうちきよしで(15??~15??)】

原田政種家臣。出身は薩摩国だったが筑前国に流れ着き、原田信種に仕えた。15??年、嫡男武内源蔵は、高祖城が落城して原田政種が筑後国に転封になると、法正寺に身を寄せていた。海賊衆の襲来を村に知らせる鐘を鳴らした逆恨みで海賊衆に謀殺された。

立花鑑光【たちばなあきみつ(15??~15??)】

粕屋郡立花城主。通称新五郎。立花家は大友貞載の子孫の一族であり、大友家の庶家。永禄年間、大友義鑑に誅殺された。

立花鑑載【たちばなあきとし(15??~1568)】

立花鑑光の男。永禄年間、父立花鑑光が大友義鑑に謀殺された為、立花家の家督を相続した。1565年、大友義鎮に対し謀叛を起こしたが、吉弘鑑理勢の攻撃を受け立花城から落延びた。後に大友義鎮から許され、再び立花山城を領した。1568年、毛利元就から調略を受け、高橋鑑種と共に再び大友義鎮に謀反を起こした。戸次鑑連勢の攻撃を受け再び降伏したが斬頸された。

立花親善【たちばなちかよし(15??~15??)】

立花鑑載の男。1568年、養父立花鑑載が大友義鎮に二度目の謀反を起こし処刑されると浪人した。戸次鑑連に不義を詫び、知行の安堵を願った。戸次鑑連は立花親善の復権を大友義鎮に願うが許されず、領内に捨扶持を与えられた。立花親善は立花家の家名断絶を憂い、戸次鑑連に立花家を継承するように懇願し、戸次鑑連に重代の家宝を進上した。1571年、戸次鑑連が立花家の家督を継承した。

中願寺将鑑【ちゅうがんじしょうかん(15??~15??)】

秋月種実家臣。三日月城主。通称左近。

富田備前守【とみたびぜんのかみ(15??~15??)】

原田隆種家臣。1586年「九州征伐」では、長垂山を兵500余りで守備したが撃退された。

富田家持【とみたいえもち(15??~15??)】

原田隆種家臣。1572年「池田川原の戦い」に参陣した。

泊種家【とばりたねいえ(15??~15??)】

原田隆種家臣。官途は丹後守。通称加兵衛尉。志摩泊家枝連衆。1578年、原田隆種に属した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」では日向峠を鬼木氏と守り、撃退された。

富永四郎左衛門尉【とみながしろうさえもんのじょう(15??~15??)】

麻生元重家臣。猫城主。1578年、山鹿城主麻生元重と岳山城主宗像氏貞が度々戦ったが決着がつかず、遠賀川を境として東が麻生家領、西が宗像家領となり、猫城は宗像氏貞に明け渡された。

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【な】

中島盛政【なかじまもりまさ(15??~15??)】

原田隆種家臣。通称治郎左衛門。1572年「池田川原の戦い」では、枝連衆の中島主計助、中島長泉らと共に大友義鎮勢の馬場越後守を討取る戦功を挙げた。

中島盛央【なかじまもりおう(15??~15??)】

原田隆種家臣。1571年「山崎の戦い」で戦功を挙げた。

中村喜太郎【なかむらよしたろう(15??~15??)】

原田隆種家臣。松浦中村家枝連衆。僧籍に入り末永西光寺を開いた。

中牟田元正【なかむろたもとまさ(15??~15??)】

小田部鎮元家臣。官途は紀伊守。1578年、大友義鎮勢が「耳川の戦い」で大敗を喫して筑前国の大友義鎮勢の勢力が弱まると、龍造寺隆信勢の執行種兼が兵5,000余りを率いて早良郡に侵攻し城下街を焼き払い安楽平城を包囲した。中牟田元正は落城後、売薬から呉服を商い商家として繁栄した。
              
楢崎永祐【ならさきながすけ(15??~15??)】

吉井城主吉井隆光家臣。吉井城主吉井隆光に仕えていたが、その死後原田隆種に仕えた。

西重国【にししげくに(15??~1567)】

大内義隆家臣。筒城城主。原田隆種に属する豪族衆であったが、大内義隆の討死後、大友義鎮勢に属した。1567年、納富越後守、深江種秀両将を大将にした軍勢の攻撃を受け、筑後国高良山の麓で大神甚太夫、清原左近に討たれた。

西鎮兼【にしよしかね(15??~1567)】

大内義隆家臣。宝珠岳城主。通称左近。1553年、原田隆種に属する豪族衆であったが大友義鎮、陶晴賢連合軍の攻撃を受け落城、以後大友義鎮勢に属した。1567年、原田隆種勢800余りの攻撃を受け宝珠岳城が落城、旗振嶺城に落延びさらに抵抗するが力尽き弟西豊国と共に自刃した。

西豊国【にししげくに(15??~1567)】

西鎮兼家臣。波呂城主。官途は長門守。原田隆種に属する豪族衆であったが、大内義隆の討死後は、大友義鎮勢に属した。1567年、原田隆種勢の攻撃を受けて波呂城が落城、兄西鎮兼の宝珠岳城に落延びた。その後、宝珠岳城、旗振嶺城と転戦するが力尽き西鎮兼と共に自刃した。

西高重【にしたかしげ(15??~15??)】

原田隆種家臣。1572年「池田川原の戦い」に参陣した。

西原興政【にしはらおきまさ(15??~15??)】

原田隆種家臣。別名西原俊長。1572年「池田川原の戦い」に参陣した。

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【は】

波多江種利【はたえなねとし(15??~15??)】

原田隆種家臣。志摩郡波多江城主。官途は丹波守。1578年、羽柴秀吉の九州征伐の時、高祖城の城主原田種信が徹底抗戦主張したことから高祖城に篭城、しかし、秀吉軍の圧倒的武力には勝てず降伏し、その後佐々成政の家臣となった。

波多江鎮種【はたえしげたね(15??~15??)】

原田隆種家臣。舞岳城主。1571年、領地争いしていた草野鎮永に攻め込まれた。「吉井浜の戦い」では、草野鎮永の夜襲を受け討死、多くの犠牲を出した。

原田興種【はらだおきたね(14??~15??)】

怡土郡高祖山城主。1496年、大内義興に逐われて対馬に逃れていた少弐政資が筑前国に侵攻し、高祖城を包囲した。原田興種は大内義興に支援をたのみ、よく少弐政資の攻撃を防戦、大内義興の援軍を受け撃退した。1497年、大内義興の攻撃により少弐政資が自刃すると、原田興種は筑前守護代に任じられた。1507年「第二次水崎の戦い」では、嫡男原田隆種と共に水崎盛正と戦い家臣西次郎左衛門が討死した。1529年、大内義興が病没すると大内義隆が大内氏の家督となった。大内義隆は原田興種と家臣杉興連に命じて少弐資元を攻撃して肥前国に追い落した。1530年、原田興種は原田隆種に家督を譲って隠居した。

原田隆種【はらだたかたね(1513~1588)】

原田興種の男。官途は弾正忠。別名了栄。室は大内義隆の娘。1553年、高祖城を陶晴賢、大友義鎮連合軍に攻められ毛利元就を頼り落ち延びた。1555年「厳島の戦い」で、陶晴賢が討死すると、毛利元就の支援で高祖城に復帰した。毛利元就が病没すると、北九州には再び大友義鎮が侵攻した。家中は毛利輝元派と大友義鎮派に分裂、争いの中で嫡男原田種門と三男原田種繁を失った。後は終生反大友義鎮を貫き、数々の戦功を挙げた。1574年、孫の原田信種を龍造寺隆信に人質に差し出した。隠居し原田家の家督を原田親種に譲り了栄と称した。1568年、原田親種とその嫡男原田秀種が「第一次生の松原の戦い」と「池田川原の戦い」で討死した為、草野家の家督を相続していた草野鎮永(原田種吉)の次男原田信種が原田家の家督を相続した。

原田種門【はらだたねかど(1533~1557)】

原田隆種の男。官途は越前守。本木道哲の策略により謀反の罪を着せられ、岐志の南林寺で討死した。

原田種吉【はらだたねよし(15??~1587)】

原田隆種の次男。官途は中務大輔。別名草野鎮永。肥前の鏡神社宮司も兼ねて、鏡庄を支配し、鬼岳城を本城した。1571年、領地境界の争いで父原田隆種と対立するが、その後は同盟関係を強化させた。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」の際、深江岳城に籠城して原田親種を援護した。その後、草野家清と共に羽柴秀吉に謀殺された。

原田繁種【はらだしげたね(1539~1557)】

原田隆種の三男。弓の達人。1557年、本木道哲の策略により謀反の罪を着せられ、岐志の南林寺で討死した。弓の達人であったと伝えられる。

原田親種【はらだちかたね(1543~1574)】

原田隆種の四男。官途は上総介。通称五郎左衛門。1557年、本木道哲の策略により兄原田種門、原田繁種が謀反の罪を着せられ、岐志の南林寺で討死した為、原田家の家督を相続した。1565年、立花鑑載の謀反に属したが、立花鑑載が敗れた為降伏した。1568年、再び立花鑑載が謀反を翻した際、父原田隆種は、原田鑑載討伐へ出立した臼杵鎮続の留守を狙って柑子岳城を攻略した。原田親種は立花鑑載の支援する毛利元就勢に属して大友義鎮勢と戦った敗れ敗走した。追撃する大友義鎮勢を原田親秀勢と共に迎え撃った「第一次生の松原の戦い」では、嫡男原田秀種が討死したが、自ら援軍に駆けつけ大友義鎮勢を撃退した。1570年「池田川原の戦い」では、臼杵鎮氏を討取った。1574年、大友義鎮は「池田川原の戦い」の首謀者として、父原田隆種の頸を要求した。勝機のないことを悟った原田親種は櫓へ駆け上がり大友家の使者の前で、腹を一文字に切り裂き「我が頸を大友に渡せ」と叫ぶや、髷を掴み自らの頸を斬って投げ落とした。

原田信種【はらだのぶたね(1560~1598)】

草野鎮永次男。官途は下野守。通称五郎右衛門。室は鴨打左馬大夫の娘。1574年、人質として龍造寺隆信へ送られた。原田親種の病没後、原田宗家の家督を相続した。1584年「鹿家の戦い」では、波多親の軍勢を打ち破る戦功を挙げた。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、徹底抗戦を主張し、島津義久勢に属して高祖城に籠城した。その後降伏し、佐々成政寄騎衆として筑後国に300町歩を領した。1592年「文禄の役」では、加藤清正に属して戦ったが「蔚山の戦い」で負った傷が元で病没した。

原田嘉種【はらだかねたね(1583~1660)】

原田信種の男。官途は伊予守。原田信種の病没後、肥後国の領地を継ぐが加藤清正と折が合わず出奔した。唐津城主寺沢広高に仕え2,000石を領した。1637年「島原の乱」の責を負って寺沢家が改易されると、天海僧正の仲介で保科正之に仕え2,000石を領した。また、次男原田種房は500石を領し、三男原田種保は筑前国で帰農した。

原田秀種【はらだひでたね(1558~1568)】

原田親種の男。通称小次郎。1568年、毛利元就勢の「立花城の戦い」に参陣した。「第一次生の松原の戦い」で討死した。

原田親秀【はらだちかひで(15??~15??)】

原田隆種家臣。通称中務少輔。別名波多江親秀。「第一次の松原の戦い」では、原田隆種勢を指揮して戦い勝利を収めた勇将。1579年「第二次生の松原の戦い」では、大友義鎮勢を撃退した。大友義鎮勢は志摩郡を放棄して撤退した。龍造寺隆信に協力し、早良安楽平城を攻略した。1584年「鹿家の戦い」では、波多親勢を打ち破った。

原田種守【はらだたねもり(15??~1579)】

原田隆種家臣。通称兵部少輔。1579年「第二次生の松原の戦い」では、兵1,500余りを妙立寺に配置し大友義鎮勢と戦うが討死した。

原田藤種【はらだふじたね(15??~15??)】

原田隆種家臣1579年「第二次生の松原の戦い」では、有田因幡守と共に兵400余りを率いて白石峠を守備した。

原田政種【はらだまさたね(15??~15??)】

原田隆種家臣。通称了清。各地を転戦した勇士。高祖城落城と共に糸島郡に法正寺を創建した。

原田輝姫【はらだてるひめ(15??~15??)】

原田信種の娘。高祖城が落城する際、輝姫は父原田信種と共に自刃することを望んだが、原田信種にしたがい、乳母の里である野北の里に落延びた。野北の里では、里の者が野菜や魚を届け輝姫の生活を支えた。幾年かを過ぎると、輝姫は自ら魚の行商をはじめ、土地の者と結婚して幸せな生活を送った。

深江美濃守【ふかえみののかみ(15??~15??)】

秋月種実家臣。隈江城主。1559年、深江美濃守は、毛利元就からの軍用金80貫と援兵2,000余りを率いて、門司に上陸した秋月種実を隈江城を迎えると、古処山城を占拠していた大友義鎮勢を破り、秋月家の旧領をほぼ回復した。

深江種秀【ふかえたねひで(15??~15??)】

原田隆種家臣。深江城主。通称孫次郎。官途は豊前守。別名深江良治。1567年「筒城の戦い」では、納富越後守と共に大将を務め、城主西重国を旗振嶺城まで追い詰め討取る戦功を挙げた。「吉井浜の戦い」では、夜襲を受けて敗走した原田隆種勢を立て直し、草野鎮永勢100余りの頸を挙げる戦功を挙げた。1584年「鹿家の戦い」では、海賊衆を率いて侵攻して来た波多親勢の横合いから突かせて勝利に貢献した。1586年「九州征伐」では、原田信種と供に高祖城に籠城した。

福武美濃守【ふくたいけみののかみ(15??~15??)】

秋月種実家臣。福嶽城主。秋月家二十四城のひとつ。秋月種実は、降伏の使者として福武美濃守を羽柴秀吉に遣わせた。

星野吉実【ほしのよしざね【(15??~1581)】

糟屋郡高鳥城主。官途は中務少輔。1581年、立花家臣薦野三河守らが城を攻撃し、防戦するも矢に当たって討死した。

都地細川光行【ほそかわみつゆき(15??~1558)】

早良郡都地城主。官途は若狭守。通称蔵人。1532年、細川光行は大内義興に支援を受け都地城を築城した。1558年、細川光行は安楽平城主小田部鎮元と戦い討死した。嫡男細川左近助は、龍造寺隆信に属した。1579年、龍造寺隆信の軍勢が早良郡へ侵攻すると、細川左近助も参陣して、安楽平城に籠城する小田部鎮元と戦った。

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【ま】

曲淵房助【まがりぶちふさすけ(15??~15??)】

早良郡曲淵城主。官途は河内守。 曲淵房助は鍬作りの鍛冶屋であった甚五兵衛が曲淵城主となり、曲淵房助と称して高祖山城主原田隆種に仕えた。1579年、龍造寺隆信勢が早良郡へ侵攻すると、原田隆種もこれに属すると、曲淵河内守が龍造寺隆信勢を先導して安楽平城主小田部鎮元を攻撃した。嫡男曲淵信助が小田部鎮元を討取った。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、高祖山城が落城すると、曲淵房助は浪人となった。

曲淵信助【まがりぶちのぶすけ(15??~15??)】

曲淵房助の男。室は神代勝利の娘。1579年、龍造寺隆信勢が早良郡へ侵攻すると、原田隆種もこれに属すると、父曲淵房助と共に龍造寺隆信勢を先導して安楽平城主小田部鎮元を攻撃した。曲淵信助が小田部鎮元を討取った。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」では、高祖山城が落城すると、父と共に曲淵房助は浪人となった。

松尾大善【まつおだいぜん(15??~15??)】

小田部鎮元家臣。1578年、大友義鎮勢が「耳川の戦い」で大敗を喫して筑前国の大友義鎮勢の勢力が弱まると、龍造寺隆信勢の執行種兼が兵5,000余りを率いて早良郡に侵攻し城下街を焼き払い安楽平城を包囲した。松尾大善は、小田部鎮元と共に籠城した。半年余りの攻防戦の後、安楽平城が落城すると次郎丸に隠れ住み早良郡の名産の瓜をつくり評判になった。

松隈種正【まつくまたねまさ(15??~15??)】

原田隆種家臣。官途は越中守。原田信種に従って筑後国、肥後国を転々としたが最後は、松隈で帰農した。

松隈将監【まつくましょうげん(15??~15??)】

原田隆種家臣。1572年「池田川原の戦い」後、原田隆種に属した。

米多比大学【ねたみだいがく(15??~15??)】

糟屋郡米多比城主。薦野城主薦野宗鎮と米多比城主主米多比大学は立花城主立花鑑載に属した。1568年、立花鑑載が大友義鎮勢から離反する際、薦野宗鎮と共に謀殺された。

米多比鎮久【ねたび しげひさ(15??~1636)】

米多比大学の男。官途は丹波守。通称三左衛門。別名立花鎮久。室は戸次鑑連の養女(吉子)。戸次鑑連が立花城主に任じられると、薦野増時と共に戸次鑑連に仕えた。戸次鑑連、立花宗茂の二代に仕え、戦陣に臨み殊勲あり常に驍勇絶倫を以って称せられたが、彼は生涯その戦功を人に語ることが無かった。1592年「文禄の役」に参陣した際、鉄砲で虎を仕留め、その鉄砲に「大虎」「小虎」と命名した。1600年「関ヶ原の役」の後、立花家が改易処分を受けると、米多比鎮久は加藤清正に仕え、立花宗茂の室誾千代姫とその母宝樹院を引き取り長く孝養を尽くした。1615年「大坂夏の陣」後、立花宗茂が柳河城主に任じられると1,000を領した。

宗像正氏【むなかたまさうじ(1500~1547)】

宗像郡許斐城主。宗像神社の大宮司職。大内義興家臣。宗像氏佐の男。別名黒川隆尚。1508年、宗像神社大宮司であった従兄弟宗像興氏が「船岡山の戦い」で、討死により宗像家の家督を相続した。大内義興に属して尼子経久などとの戦いの為、中国地方各地を転戦した。1527年、弟宗像氏続に、大宮司の家督を譲った。1528年、大内義興の病没後は大内義隆に仕え周防国黒川郷を領し黒川隆尚と称した。家督を譲っていた弟宗像氏続を除いて、再び宗像家の家督に復帰した。1547年、宗像正氏には庶男宗像氏貞がいたが、病没の直前の家督を猶子の宗像氏男(黒川隆像)に譲って隠居した。

宗像氏続【むなかたうじつぐ(15??~1553)】

宗像氏佐の次男。官途は民部少輔。兄宗像正氏と大宮司職をめぐり争った。1527年、大内義隆の裁定で、宗像正氏が黒川隆尚と改名して山口に出仕することで大宮司職に就いた。1547年、宗像正氏は病没の直前、宗像氏続の子宗像氏男を養子として宗像家の家督を相続させた。1551年、大内義隆が自刃して、宗像氏男(黒川隆像)が討死すると、宗像家内部で家督相続の争いが再燃した。1553年、宗像正氏の庶男、宗像氏貞が陶晴賢の支援を受けて、反宗像氏貞派を討伐した為、子宗像千代松丸と共に豊前国の彦山に落延びるが、甥土橋氏康に謀殺された。

宗像氏男【むなかたうじお(15??~1551)】

宗像氏続の男(宗像正氏の養子)。別名黒川 隆像。室は宗像正氏の娘(菊姫)。1551年「大寧寺の変」では、大内義隆と共に討死した。

宗像氏隆【むなかたうじたか(1549~1642)】

宗像氏男の男。1551年、父の宗像氏男が「大寧寺の変」で自刃すると、陶晴賢に謀殺されかかるが長門国に落延び帰農した。

宗像氏貞【むなかたうじさだ(1545~1586)】

宗像正氏の庶男。室は臼杵鑑速の娘。1547年、父宗像正氏が病没すると、宗像家の家督は猶子宗像氏男が相続した。1551年、宗像氏男が大内義隆を守り討死すると、宗像家内部で家督争いが起った。宗像氏貞派は白山城に、宗像千代松派が蔦ヶ岳城に籠もって、家督を巡って争った。陶晴賢が宗像氏貞の家督相続を支持した為、宗像氏貞が宗像家の家督を相続した。1551年、宗像正氏の室の山田局と宗像氏貞の間で対立が起き、陶晴賢の指示で、石松典宗が宗像氏男の室菊姫、山田局、四人の侍女が謀殺されると、宗像氏続は英彦山に落延びたが土橋氏康によって謀殺された。1554年、宗像氏貞は陶晴賢に属して、石見三本松城主吉見正頼との戦いに参陣した。1555年「厳島の戦い」で陶晴賢は自刃すると、宗像氏貞は筑前国内で勢力を拡大した。1558年、鞍手郡龍ヶ岳城主杉連緒と戦った。宗像郡内の河津隆家(西郷党)が宗像氏貞に降った。その後は大友義鎮勢に属した。毛利元就が北九州に侵攻すると、秋月種実らと共に大友義鎮勢から離反した。1559年、大友義鎮の支援を受けた宗像鎮氏が謀反を起こすと、宗像氏貞は宗像郡を失うが毛利元就の支援を得て旧領を奪還した。1567年、高橋鑑種が大友義鎮から離反すると、秋月種実、筑紫惟門、立花鑑載らと共に挙兵した。1569年、毛利元就勢が北九州から撤退すると、大友義鎮に降伏した。1570年、大友義鎮の命で河津隆家を謀殺した。戸次鑑連が立花家の家督を継ぎ、立花山城主となると、妹(色姫)を側室に差し出した。1578年「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると筑前国の大友義鎮の勢力減退した。1581年、戸次鑑連勢と争うが、最終的に宗像郡を失った。1585年、戸次鑑連が病没すると、反撃を開始し旧領を回復した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」を前に病没した。

宗像塩寿丸【むなかたしおじゅまる(15??~15??)】

宗像氏貞の男。宗像氏貞の唯一の男子であったが夭折した。宗像家の嫡流は宗像氏貞の死をもって断絶した。室の臼杵鑑速の娘も病没した為、大宮司職は、枝連衆の深田氏栄が引き継いだ。羽柴秀吉の「九州征伐」によって、宗像大社の大宮司の権限は、祭礼のみに限定されることとなった。
 
宗像千代松丸【むなかたちよまつまる(15??~15??)】

宗像正男の男。宗像正氏、宗像正男が没すると、宗像家中は宗像千代松丸派と、宗像氏貞派に分裂して争った。宗像氏貞は白山城を拠点とし、宗像千代松丸は蔦ヶ岳城を拠点とした。宗像千代松丸は宗像氏貞に敗れ討死した。

宗像氏延【むなかたうじのぶ(15??~1532)】

宗像正氏家臣。1539年、大友義鑑に属して、大内義興の家臣西郷党三十六人衆の頭領河津隆業を攻撃して討死した。

宗像鎮氏【むなかたしげうじ(15??~1559)】

宗像氏延の男。1559年、大友義鎮の支援を受け宗像氏貞に謀反を起こすが、毛利元就の支援を受けた宗像氏貞の反撃を受け討死した。

宗像民部【むなかたみんぶ(15??~15??)】

宗像氏貞家臣。1583年、宗像氏貞は戸次鑑連、高橋鎮種ら3,000余りの攻撃を受けると、兵2,000余りを率いて吉原で迎え撃った。宗像氏貞は敗れ、宗像民部は許斐山城に籠城するも、許斐山城も攻撃を受け落城、宗像民部は闇夜に紛れて落延びた。

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【や】

吉井隆光【よしいたかみつ(15??~15??)】

原田隆種家臣。吉井城主。官途は左京亮。1571年、領地争いしていた草野鎮永に攻め込まれた。「吉井浜の戦い」では、両軍とも多くの犠牲を出した。後に原田隆種の命で和睦した。

吉田重致【よしだしげむね(15??~15??)】

宗像氏貞家臣。官途は伯耆守。宗像社の神官。永禄期から天正期にかけ活動した。1552年、宗像氏貞の家督継承における争いで、宗像氏続についた嫡流が誅伐されたので、吉田重致が惣領家となった。しかし枝連衆に吉田守致や吉田秀時などが服せず、大内義隆の裁断により着した。

吉田貞棟【よしださだむね(15??~15??)】

吉田重致の男。

吉田貞昌【よしだりょうき(15??~15??)】

吉田重致の四男。通称弥太郎。別名吉田良喜。宗像正氏、宗像氏貞の二代に仕え奉行職を務めた。吉田良喜は僧侶だったが宗像正氏が才覚を見込んで召し抱えられた。宗像氏貞は吉田良喜を大将に許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝に大島の在番を命じた。宗像氏貞の枝連衆占部貞保を差し置いて大将に任じられた。

吉田貞勝【よしださだかつ(15??~15??)】

吉田良喜の男。官途は兵部少輔。室は占部尚安の娘。宗像氏貞は吉田良喜を大将に許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝に大島の在番を命じた。1560年、許斐山城は、白岳城主怒留湯鎮氏の攻撃を受け、宗像氏貞勢は大島に落延びた。宗像氏貞は許斐氏鏡、占部貞保、吉田貞勝と共に許斐山城を奪回するが、再び大友義鎮勢の戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、怒留湯鎮氏ら兵5,000余りの攻撃を受けた。許斐山城は守り切ったが、占部尚持が討死した。

吉田秀時【よしだひでとき(15??~15??)】

宗像家臣。通称和泉守。1560年「許斐城の戦い」に参陣した。

吉田秀辰【よしだひでたつ(15??~15??)】

吉田秀時の男。1575年、父吉田秀時が保持していた内浦郷(宗像郡と遠賀郡を結ぶ交通の要衝)と白浜郷の代官職を安堵された。

吉田宗栄【よしだそうえい(15??~1552)】

宗像氏貞家臣。官途は佐渡守。宗像氏続の嫡男宗像千代松丸の擁立を企てた為、宗像氏貞の討伐を受け、嫡男吉田内蔵允らと共に討取られた。

吉田倫行【よしだりんこう(15??~15??)】

宗像氏貞家臣。天正年間、猫城に在番した。

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【資料Ⅰ】

筑前国(14郡/524,000石)

遠賀郡:  
鞍手郡:木屋瀬城、宮田城、若宮城、笠松城、吉川城、植木城、芦屋津街、劔神社。
宗像郡:津屋崎城、赤間城、吉武城、神湊城、池野城、神興城、宗像大社、福間街。  
糟屋郡:宇美城、新宮城、勢門城、仲原城、多々良城、志免城、香椎街、筥崎八幡宮。
席田郡:立花城
穂波郡: 
嘉麻郡:碓井城、穂波城、大谷城、二瀬城、桂川城、大隈城。
朝座郡(上座、下座):朝倉城、浮羽城、福成城、大庭城、三奈木城、立石城。  
夜須郡:古処山城。
御笠郡:大野城、大宰府、宝満城、岩屋城、水城城、筑紫城、三笠城、席田城、二日市城、博多街。
那珂郡:名島城
早良郡:福岡城
志摩郡:  
怡土郡:高祖山城、福吉城、一貴山城、加布里城、雷山城、元岡城、姪浜街、周船寺。

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【資料Ⅱ】

原田家四天王【はらだけしてんのう】

笠大炊助、波多江種賢、石井内膳、池園左京。

原田家七臣【はらだけななしん】

池園左馬之助、深江少輔、浦志大和守、鬼木修理、中園駿河守、水上丹後守、窪内記。

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【資料Ⅲ】

筑前国【ちくぜのくに】

調査中。

芦屋【あしや】

遠賀川河口部に位置し、北九州にあった門司湊や博多湊との中継地として栄えた湊街。芦屋には「紙衣屋」「桶屋」「念珠屋」の他に「船番匠」といった湊街特有の職人街、も形成され造船も盛んに行われた。また、芦屋釜の鋳物師を多く住んだ。芦屋商人もまた日明貿易で活躍しており、芦屋が麻生家のもとで博多湊や門司湊、赤間関といった大内家の対外貿易も担う港湾都市と連携した海運で栄えていた。

博多【はかた】

博多湾に面する湊街で、博多津などとも称され、交易都市として栄えた。堺が足利将軍家や三管領細川高国らの日明貿易の拠点として台頭すると、博多商人や大内義興と利害が衝突するようになった。1523年、大内義興と細川高国の交易船が明国の寧波で、交易を独占しようと争った。1536年、大内義隆がに遣明船を再開した。大内義隆は、博多祇園山笠の舁き山十二本のうち六本を周防国山口に分け移した。1551年、大内義隆が家臣陶晴賢の謀反で自刃すると、博多の街は大友義鎮が統治した。1559年、大友義鎮が室町幕府より九州探題に任じらえた。博多商人の神屋宗湛の祖父神屋寿禎は大内義興の支援で石見銀山の開発を行った。この時期、博多の商人は、日明貿易船や葡萄牙船、阿蘭陀船などに、無担保で買付用の銀を融資し、航海後に3割から11割の高利子を付けて返済させる「抛銀(なげがね)」というリスクの高い商売を行い、莫大な利益を上げた。1580年、龍造寺隆信が筑前国に侵攻、博多の街のほぼ全土が焼失した。1586年、島津義久勢が博多を占領するも、羽柴秀吉勢の侵攻により、博多の街を焼き払い撤退した。1587年、博多の街に入った羽柴秀吉は。石田三成を博多奉行に任じ神屋宗湛や嶋井宗室と共に博多の街を整備し、博多の街の発展の基礎を作った。

大宰府【だざいふ】

大宰とは、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、地方行政長官職。外交と防衛を主任務とすると共に、西海道九ヶ国(筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、肥後国、日向国、薩摩国、大隅国)と三島(壱岐国、対馬国、大隅諸島)の行政、司法を所管した。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、高橋紹雲は高橋鎮種、陶晴賢は陶隆房の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「九州戦国合戦記」海鳥社、「大宰府戦国史」海鳥社、「筑前戦国史」葦書房、「筑後戦国史」葦書房、「九州戦国史」葦書房。「筑後争乱記(蒲池一族の興亡)」海鳥社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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