2014年4月2日水曜日

戦国南近江国人名事典

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【あ】

青木筑後守【あおきちくごのかみ(15??~15??)】

甲賀郡丸岡城主。甲賀五十三家のひとり。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、青木筑後守は織田信長に降った。1585年、羽柴秀吉の「甲賀破儀」により領地を召し上げられた。

青地長綱【あおちながつな(15??~15??)】

栗太郡青地城主。六角定頼家臣。通称道徹。1507年、京を逐われた細川澄元が近江国へ落延びた際、青地長綱は、細川澄元を青地城に迎えた。細川澄元は、まもなく甲賀の山中為俊を頼った。青地長綱は蒲生定秀の次男青地茂綱を養子とし迎えた。

青地茂綱【あおちしげつな(15??~1570)】

蒲生定秀の次男(青地長綱の養子)。官途は駿河守。1563年、青地茂綱は兵1500余りを動員した。1568年、織田信長が上洛するとこれに降った。以降、兄蒲生賢秀と共に織田信長勢として北畠具教との戦いなどに参陣した。後に浅井長政、朝倉義景が織田信長と敵対すると宇佐山城に森可成、織田信治らと共に籠城した。1570年、浅井長政、朝倉義景勢30,000余りの攻撃を受け森可成、織田信治と共に城を出て迎撃したが、敗れて討死した。

青地元珍【あおちもとたか(1560~1633)】

青地茂綱の男。官途は内匠助。通称四郎左衛門尉。1570年、父青地茂綱が「志賀の陣」で討死すると青地家の家督を相続した。青地元珍は幼少であったが領地や寄騎衆、家臣はそのまま安堵された。1571年、織田信長の家臣佐久間信盛の寄騎衆となった。1573年「槇島城の戦い」に参陣した。1580年、佐久間信盛が十九条の折檻状により織田信長に追放されると、織田信長の馬廻衆となった。1581年「第二次天正伊賀の乱」に参陣した。1582年「本能寺の変」で織田信長が討死すると、織田信孝に属した。1583年「賤ヶ岳の戦い」で織田信孝が自刃すると羽柴秀吉に所領を召し上げられた。

猪飼宣尚【(いかいのぶのぶ15??~15??)】

志賀郡堅田海賊衆の首領。官途は佐渡守。1560年、猪飼孫右衛門尉と共に、織田信長より志賀郡の木場役を安堵された。

猪飼昇貞【いかいのぶさだ(15??~1582)】

猪飼宣尚の男。通称甚介。1570年「志賀の陣」後は、堅田海賊衆の居初又次郎、馬場孫次郎と共に織田信長に属した。以後は逆に浅井長政勢と対峙した。坂井政尚らと共に物流を押さえるために堅田を守備したが、前波景当率いる朝倉義景勢の攻撃を受け坂井政尚が討死にたが、猪飼昇貞らは落延びた。明智光秀が志賀郡惣領職を得た後も、猪飼昇貞、居初又次郎ら竪田衆は琵琶湖の水運、漁業を統轄するな権限を保持した。明智光秀や他の竪田衆らと共に、湖岸および島に拠って蜂起した一揆の鎮圧に努めた。朽木元綱らと共に高島郡の織田信長蔵入地の代官も務めていた。1572年、明智光秀勢として浅井長政勢の沿岸拠点へ向けて放火、銃撃を行った。1582年「本能寺の変」では、明智光秀に属して討死した。

猪飼秀貞【いかいひでさだ(1555~15??)】

猪飼昇貞の男。通称半左衛門。別名明智秀貞。室は明智光秀の娘。1580年、津田宗及茶会に明智掃部と共に列席した。1582年、父猪飼昇貞が明智光秀に属して討死すると丹羽長秀に仕えた。

池田景雄【いけだかげかつ(1528~1597)】

六角義治家臣。蒲生郡小井城主。官途は伊予守。通称孫次郎。別名池田秀雄。1560年、浅井長政との「野良田の戦い」では先鋒を務めた。1563年、六角義治が家臣後藤賢豊を謀殺すると、織田信長勢に属した。明智光秀に属して近畿各地を転戦した。1582年「山崎の戦い」で明智光秀が討死すると、羽柴秀吉に属した。1584年「小牧、長久手の戦い」では第二陣として参陣した。その後も戦功を挙げ伊予国大洲城20,000石を領した。1597年「慶長の役」では、六番隊2,800余りを率いて朝鮮に渡海した。全羅道黄山城攻略では、加藤清正と共に感状を受ける戦功を挙げたが、まもなく安骨海で病没した。 

池田秀氏【いけだひでうじ(15??~15??)】

池田景雄の男。官途は伊予守。通称孫二郎。1595年、羽柴秀次の自刃の際、福島正則、福原長堯と共に検視役を務めた。1597年、父池田景雄と共に「慶長の役」のため渡海した。1598年、父池田景雄が病没たため池田家の家督を相続した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属し「伏見城の戦い」などで戦功を挙げた。石田三成勢の敗北後は美濃国駒野城に籠城するも松平元康勢の徳永寿昌に降伏、所領を没収された。

池田貞雄【いけださだお(15??~15??)】

池田秀氏の男。

居初又次郎【いそめまたじろう(15??~15??)】

竪田海賊衆のひとり。1569年、織田信長は竪田中宛てに五カ条の定書を発し、竪田衆の持っている旧来の特権を安堵した。以後も織田信長、浅井長政との間にあって去就を定めなかった。以後は逆に浅井長政勢と対峙した。1570年、猪飼昇貞、馬場孫二郎ら他の竪田衆と共に、織田信長に属すると坂井政尚らと共に物流を押さえるために堅田を守備したが、前波景当率いる朝倉義景勢の攻撃を受け坂井政尚が討死したが、猪飼昇貞、居初又次郎らは落延びた。明智光秀が志賀郡惣領職を得た後も、猪飼昇貞、居初又次郎ら竪田衆は琵琶湖の水運、漁業を統轄するな権限を保持した。明智光秀や他の竪田衆らと共に、湖岸および島に拠って蜂起した一揆の鎮圧に努めた。

伊庭行隆【いばゆきたか(15??~1520)】

神崎郡伊庭城主。1502年、六角高頼は、勢力を拡大する伊庭行隆を攻撃した。伊庭行隆、伊庭貞隆父子は、管領細川政元の支援を受け、青地城、馬淵城、永原城を攻落した。六角高瀬は、観音寺城を落とされ、音羽城主蒲生貞秀の元に落延びた。1507年、管領細川政元が家臣に謀殺されると、足利義澄は、大内義興に擁立された足利義稙によって京都を追落された。1514年、水茎岡山城主九里信隆が六角高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆、伊庭貞説父子は九里浄椿と結んで六角定頼に再び謀反を起こした。1516年、伊庭行隆らは浅井亮政の支援を受け、観音寺城を攻撃したが敗走した。1520年、六角定頼勢の攻撃を受け、伊庭行隆、伊庭貞隆は九里浄椿と共に水茎岡山城に籠城したが敗れて没落した。九里浄椿、伊庭貞説の残党は、九里三重郎を擁立して再び水茎岡山城に籠城した。1525年「黒橋の戦い」で六角定頼に敗れ、滅亡した。

伊庭貞隆【いばさだたか(15??~1520)】

伊庭行隆の男。1502年、六角高頼は、勢力を拡大する伊庭行隆を攻撃した。伊庭行隆、伊庭貞隆父子は、管領細川政元の支援を受け、青地城、馬淵城、永原城を攻落した。六角高瀬は、観音寺城を落とされ、音羽城主蒲生貞秀の元に落延びた。1507年、管領細川政元が家臣に謀殺されると、足利義澄は、大内義興に擁立された足利義稙によって京都を追落された。1514年、水茎岡山城主九里信隆が六角高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆、伊庭貞説父子は九里浄椿と結んで六角定頼に再び謀反を起こした。1516年、伊庭行隆らは浅井亮政の支援を受け、観音寺城を攻撃したが敗走した。1520年、六角定頼勢の攻撃を受け、伊庭行隆、伊庭貞隆は九里浄椿と共に水茎岡山城に籠城したが敗れて没落した。九里浄椿、伊庭貞説の残党は、九里三重郎を擁立して再び水茎岡山城に籠城した。1525年「黒橋の戦い」で六角定頼に敗れ、滅亡した。

岩室貞俊【いわやさだとし(15??~15??)】

甲賀郡岩室城主。官途は大学介。甲賀五十三家で北山九家ひとり。羽柴秀吉に属した。1585年、紀伊川治水に関して罪をおかし領地を没収された。

小川伯耆守【おがわほうきのかみ(1558~15??)】

六角義治家臣。神埼郡小川城主。1563年、六角義治が最有力家臣の後藤賢豊を観音寺城内で謀殺すると、多くの家臣が六角義治から離反した。布施公雄も浅井長政に内応して布施山城に籠城した。布施山城主布施三河守と共に小川孫三郎が参陣したが討死した。布施山城は三雲賢持らの攻撃を受けたが、六角義治は蒲生定秀の調停により和睦した。後に六角義治の権限を大きく制限する「六角式目」が制定された。

小川祐忠【おがわすけただ(15??~15??)】

小川伯耆守の男。官途は土佐守。通称左平次。室は一柳直高の娘。1571年、織田信長勢の佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀らの攻撃を受け、人質七人を差し出して降伏した。吉田重勝、池田景雄、後藤喜三郎、多賀新左衛門、阿閉貞征父子、久徳六左衛門らと共に赦されて、織田信長の馬廻衆となった。1579年、安土城の築城に際、堀部佐内、青山助一と共に瓦奉行に任じられた。1582年「本能寺の変」では、明智光秀に属したが敗北、羽柴秀吉に降伏した。「清洲会議」で北近江国が柴田勝家に属すると、柴田勝家の養子柴田勝豊の家老職となった。「賤ヶ岳の戦い」では、大谷吉継の調略で柴田勝豊が羽柴秀吉に寝返った為、羽柴秀吉勢として戦った。柴田勝豊が病没すると、羽柴秀吉に直臣となった。「小牧、長久手の戦い」では、兵250余りを率いて参陣した。1590年「小田原の役」に参陣し戦功を挙げた。1592年「文禄の役」では、肥前名護屋城に在陣した。「金海の戦い」では、伊達政宗と共に浅野長政を救援する戦功を挙げた。1598年、朝鮮安骨浦で討死した池田景雄の後を受けて伊予国今治70,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢の属して小川祐滋と共に兵2,500余りを率いて北国口守備にあった。「関ヶ原の戦い」では、小早川秀秋の寝返りに呼応して脇坂安治、朽木元綱、赤座直保と共に松平元康方に寝返り、家臣小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討取る戦功を挙げた。役後、改易処分を受けた。

小川光氏【おがわみつうじ(15??~1610)】

小川祐忠の男。官途は壱岐守。1600年「関ヶ原の役」では、父小川祐忠が石田三成勢の属して改易処分となった。1601年、豊後国日田城20,000石を領して諸侯に列した。1610年、病没し無嗣断絶となった。1616年、日田城は、石川忠總が60,000石で入部するまでの間、城地は枝連衆の小川喜助と小川又右衛門が管理した。1639年、小川光氏は石川家の転封のまで小川藤左衛門正長、小川九左衛門氏行が代官となり、両名の子の小川藤左衛門正久、小川又左衛門行広と二代にわたり日田代官を務めた。

小川祐滋【おがわすけしげ(15??~15??)】

小川祐忠の次男。官途は左馬助。羽柴秀吉の馬廻衆となった。1598年「慶長の役」では蔚山に在陣した。1600年「関ヶ原の役」では、父小川祐忠と共に石田三成勢から松平元康勢に寝返り、戦功を挙げたが改易処分とされた。茶道は、千道安に師事、兼々庵と称した。改易後、京に出て萬屋平右衛門として両替商となり成功を収め、二条陣屋を預けられるほどの豪商となった。西国諸侯の御用達として活躍した。

小倉実重【おぐらさねしげ(15??~15??)】

蒲生郡佐久良城主。小倉実澄の男。室は蒲生高郷の娘。室町中期に小倉家は三家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城,鳥居平城,長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城と小倉城を居城とし、神埼郡御園庄を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾山城等の支城を設けた。1505年、父小倉実澄の病没により小倉家の家督を相続した。

小倉実光【おぐらさねみつ(15??~15??)】

小倉実重の男。1557年「伊勢征伐」に参陣した。小倉実光が実子無く死亡した為、蒲生定秀の三男小倉実隆が婿養子として小倉家の家督を相続した。

小倉実隆【おぐらさねたか(15??~1564)】

蒲生定秀の三男(小倉実光の養子)。官途は左近将監。小倉家は庶流家との内訌状態が続き、小倉西家は独立志向が強く、お互いの領の用水の権利などを巡り、小規模な武力衝突を繰り返し、小倉西家の兵に永源寺が焼かれるなどした。1564年、小倉西家の山上城主小倉右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領すると六角義治は小倉宗家の小倉実隆に小倉右京大夫の討伐を命じた。小倉実隆は速水勘六左衛門尉、寺倉半左衛門、など蒲生郡の諸家を動員して小倉右京大夫の討伐を行った。小倉右京大夫は山田城、和南城、八尾城、相谷城ら支城の小倉西家枝連衆の支援を受け、小倉宗家と小倉西家全体の戦に発展した。小倉実隆勢の速水勘六左衛門尉が和南城主小倉源兵衛を討取る戦功を挙げたが逆に小倉実隆が「和南山の戦い」で西家側の兵に討取られ小倉宗家方は敗北した。蒲生定秀が介入、小倉西家の所領へ侵攻し小倉右京大夫を討伐した。この内訌は小倉家の力を大幅に衰退させた。

小倉実資【おぐらさねすけ(15??~15??)】

小倉実隆の男。

小倉行春【おぐらゆきはる(15??~1615)】

小倉実隆の次男。通称作左衛門。室は蒲生賢秀の娘。内訌によって衰退した小倉家は小倉実隆の討死後、蒲生定秀の旗下となった。1582年「本能寺の変」では、日野城を守備した。1584年「小牧、長久手の戦い」では、伊勢方面で戦った。1590年、蒲生氏郷が伊勢国から岩城国会津若松城420,000石に転封されると鴫山城6,300石を領した。蒲生氏郷が病没して蒲生秀行が宇都宮城180,000石に減封になった後も引き続き仕えた。1600年「関ヶ原の役」後、蒲生秀行が会津若松城600,000石に復帰すると、再び鴫山城6,000石を領した。1609年、蒲生郷成と岡重政が対立して、蒲生郷成が蒲生家から出奔すると小倉行春も蒲生家を退去した。岡重政が失脚し、蒲生郷成などが蒲生家に復帰した後も、蒲生家には戻らず、羽柴秀頼に仕えた。1615年「大坂夏の陣」の「道明寺の戦い」などで戦功を挙げた。「天王寺、岡山の戦い」では、明石全登と共に松平元康の本陣に突撃するが、戦場を離脱した。

小倉実房【おぐらさねふさ(15??~1570)】

愛知郡高野城主。小倉賢治の男。官途は右京亮。室は高畑源十郎の娘(於鍋の方)。宗家は蒲生郡佐久良庄の佐久良城を本拠とし、神崎郡御園庄を支配する小倉西家は山上城を本拠として周りを八尾城を始めとする支城で固め、愛知川小倉庄を支配する小倉東家は高野城並びに小倉城を本拠とした。1559年、織田信長が京都からの帰路、美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉実房領から鈴鹿山脈を越えて伊勢国へと抜ける八風峠越える際、小倉実房が道案内を務めた。1570年「金ヶ崎の戦い」では、千種越えに協力して織田信長勢の岐阜城帰還を助けた。小倉家の内訌により攻め滅ぼされた。於鍋の方は、尾張国に落延び、織田信長の側室となり、織田信高、織田信吉、於振をもうけた。

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【か】

加藤重次【かとうしげつぐ(1560~1613)】

六角義賢家臣。官途は大和守。通称與左衛門尉。別名渋谷重次。六角義賢が観音寺城を追われると、佐々成政に仕えた。佐々成政が隈本城主として肥後国に入封すると、弟井上吉弘と共に肥後国に入った。佐々成政が肥後国人一揆への不手際により自刃すると、加藤清正に仕えた。加藤清正から、佐敷城代に任じられ加藤の姓を賜った。1592年「文禄の役」では、加藤清正に属して戦功を重ねた。1598年「慶長の役」では、加藤清正は、加藤重次、飯田直景、森本一久、井上吉弘ら500余りを率いて未完成の蔚山城に入城。乏しい食料の中、明軍の大軍を撃破した。加藤清正の病没後は、加藤忠広を支える五大老のひとりとなった。

蒲生秀紀【がもうひでのり(15??~1525)】

蒲生郡音羽城主。蒲生秀行の男。六角高頼家臣。官途は刑部大輔。通称藤兵衛尉。室は蒲生高郷の娘。1513年、父蒲生秀行が病没すると叔父蒲生高郷が蒲生惣領家の家督の相続を望んだが、祖父蒲生貞秀の意向で蒲生秀紀が家督を相続した。蒲生秀紀は、叔父蒲生高郷の娘を娶り、関係を改善を図った。1522年、蒲生高郷は六角定頼の支援を受け、蒲生秀紀が籠城する音羽城を攻撃した。蒲生秀紀は八ヶ月の籠城の末に降伏した。
六角定頼の仲介で蒲生秀紀と蒲生高郷の間で和議が結ばれたが、蒲生秀紀は蒲生惣領家の家督を蒲生高郷の嫡男蒲生定秀に譲り音羽城からも退去させられ鎌掛城に移った。1525年、鎌掛城内で、蒲生高郷の手勢謀殺された。

蒲生高郷【がもうたかさと(15??~1530)】

蒲生郡日野城主。蒲生貞秀の次男。六角高頼家臣。官途は左兵衛大夫。通称小次郎。兄蒲生秀紀は六角高頼とは同盟に近い形で属したのに対し、蒲生高郷は六角高頼に馬廻衆として仕えた。1513年、兄蒲生秀行が病没すると、蒲生高郷は蒲生惣領家の家督の相続を望んだが、父蒲生貞秀の意向で蒲生秀行の嫡男蒲生秀紀が宗家の家督を相続した。1522年、六角定頼の支援を受けて、甥蒲生秀紀が籠城する音羽城を攻撃した。蒲生秀紀は八ヶ月の籠城の末に降伏した。六角定頼の仲介で蒲生高郷と蒲生秀紀の間で和議が結ばれたが、蒲生秀紀は蒲生惣領家の家督を蒲生高郷の嫡男蒲生定秀に譲り音羽城からも退去させられ鎌掛城に移った。1525年、蒲生高郷は、鎌掛城内で蒲生秀紀を謀殺した。蒲生高郷の枝連衆が蒲生惣領家を継いで行くことになった。室の実家である青木家に青木梵純を養子として送り込むなど婚姻関係を生かした外交で影響力を増した。

蒲生定秀【がもうさだひで(1508~1579)】

蒲生高郷の男。官途は下野守。通称藤十郎。室馬淵山城守の娘。六角家の重臣馬淵山城守の娘を室を迎え、六角家中での地位を固めた。1522年、六角定頼の支援を受けて、甥蒲生秀紀が籠城する音羽城を攻撃し八ヶ月の籠城の末に降伏した。六角定頼の仲介で蒲生高郷と蒲生秀紀の間で和議が結ばれたが、蒲生秀紀は蒲生惣領家の家督を蒲生定秀に譲り音羽城からも退去させられ鎌掛城に移った。1525年、父蒲生高郷は、鎌掛城内で蒲生秀紀を謀殺した。1531年、六角定頼に従って蓑浦で浅井亮政と戦い二十九の頸級を挙げる戦功を挙げた。六角定頼に属して畿内各地を転戦して戦功を挙げた。1552年、六角定頼の病没後は六角義賢に仕え、伊勢国攻略の陣代を任されるなど活躍した。1559年、浅井久政の属城であった佐和山城を攻撃した。次男青地茂綱を青地家へ、三男小倉実隆を小倉家に養子に入れ、娘を伊勢の関盛信、神戸具盛に嫁がせるなど、婚姻政策によって独自の勢力を築いた。内政面にも優れ、城下街の形成や商業対策などを行なった。鉄砲の重要性を早くから認識しており、日野城下に鉄砲職人を招聘した。1563年、六角義治が「観音寺騒動」を起こすと、後藤高治、六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。1564年、小倉実隆が小倉西家との抗争の中で討死すると、蒲生定秀は小倉西家の拠点である山上城や八尾城を報復攻撃し、小倉西家を滅ぼして所領を拡大した。1567年、六角義治の支配を制限する「六角氏式目」に連署した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、蒲生定秀は織田信長に属した。

蒲生賢秀【がもう かたひで(1534~1584)】

蒲生定秀の男。官途は左兵衛大夫。室は後藤但馬守の娘。1563年、六角義治が「観音寺騒動」を起こすと、父蒲生賢秀と共に後藤高治、六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。1567年、六角義治の支配を制限する「六角氏式目」に連署した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、蒲生定秀と共には織田信長に属した。織田信長は蒲生賢秀、蒲生氏郷父子を気に入り、蒲生氏郷に娘の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えた。織田信長に属して、畿内各地を転戦して戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」では、、安土城の留守居を務めていた蒲生賢秀は織田信長の家族を保護して日野城に籠城した。

蒲生氏郷【がもううじさと(1556~1595)】

蒲生賢秀の三男。官途は左近衛少将。通称忠三郎。洗礼名「レオン」。室は織田信長の娘(冬姫)。織田信長の娘(冬姫)を娶り、織田信長の枝連衆として厚く遇された。1568年、北畠具教との戦いでは、結解十郎兵衛と種村伝左衛門を従えて初陣を飾り、兜頸を挙げる戦功を挙げた。その後も織田信長の戦いに参陣して、父蒲生賢秀と共に参陣して数々の戦功を挙げた。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、父蒲生賢秀と共に日野城に織田信長の妻子を保護して籠城、明智光秀に対抗した。明智光秀勢(明智光春、武田元明、京極高次ら)は、長浜城、佐和山城、安土城の各城を攻略、日野城を攻略中に明智光秀が「山崎の戦い」で討死した為、攻略勢は敗退した。その後、羽柴秀吉に属して、伊勢国松ヶ島城120,000石を領した。1588年、飯高郡に松坂城を築城、城下街を整備した。1590年、伊勢国松坂城から、会津若松城920,000石に転封になった。蒲生氏郷は、日野、松阪の商人を呼び寄せ、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、会津若松城下の基礎を築いた。1591年「大崎、葛西一揆」「九戸政実の乱」を鎮圧した。1592年「文禄の役」では、肥前名護屋に参陣した。1595年、伏見城下の蒲生屋敷で病没した。

蒲生秀行【がもうひでゆき(1583~1612)】

蒲生氏郷の次男。官途は飛騨守。通称藤三郎。室は松平元康の娘(振姫)。1595年、父蒲生氏郷の病没より蒲生家の家督を相続した。この際、羽柴秀吉は近江国20,000石への減封する裁定を下したが、羽柴秀次が相続を認めた為、920,000石の相続と松平元康の娘(振姫)との婚儀が結ばれた。若年の蒲生秀行は家中を統制できず、重臣同士の対立を招いて「蒲生騒動」が起った。1598年、羽柴秀吉の裁定で会津若松城920,000石から宇都宮城180,000石に減封された。蒲生秀行は宇都宮城下街の整備を行ない日野からやって来た商人を日野街に住まわせ商業を発展させた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して宇都宮城で長尾景勝勢に備えた。役後、その戦功により会津若松城600,000石に復帰した。復帰後、再び重臣同士が対立が再燃、心労により病没した。

蒲生忠郷【がもうたださと(1602~1627)】

蒲生秀行の男。官途は下野守。室は藤堂高虎の娘。1612年、父蒲生秀行が病没した為、若年の為、母振姫の後見を受け会津若松城600,000石を相続した。松平元康の娘(振姫)の政治的介入を許した為、重臣同士の主導権争いが続きいた。1615年「大坂夏の陣」では、江戸城留守居を命じられた。治世において、会津若松城の改修、恵隆寺の再建、領内の安定化を図った。この間も重臣間の主導権争いは続いたが大事に至たることはなかった。疱瘡に罹患して病没した。蒲生家の家督は弟蒲生忠知が伊予国松山城240,000石に減封のうえ相続した。

蒲生忠知【がもうただとも(1604~1634)】

蒲生秀行の次男。官途は中務大輔。室は内藤政長の娘(七女)。家臣蒲生郷治によって養育された。1626年、羽前国村山郡上山城40,000石を領した。1627年、兄蒲生忠郷が嗣子なくして早世した為、蒲生忠知が蒲生惣領家の家督を相続したが、会津若松城600,000石から伊予国松山城240,000石に減封された。蒲生忠知は善政を行い、寺院の建築、移築を行うなどの治績を残した。未完成の松山城の整備に力を注ぎ、二之丸を整備した。1630年、再び家臣団の抗争を裁い際、福西、関、岡、志賀らの老臣が流罪、追放されるだけでなく、家老蒲生郷喜の弟蒲生郷舎も追放された

蒲生郷成【がもうさとなり(15??~1614)】

坂勝則の男。通称は源左衛門。別名坂源次郎。父坂勝則と共に関成政、柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家が自刃すると、蒲生氏郷に仕えた。1587年「九州征伐」での「岩石城の戦い」で戦功を挙げた。後に蒲生姓を許され、蒲生郷成と称した。1590年、蒲生氏郷の会津若松城の転封に従い、二本松城40,000石を領した。1592年、蒲生氏郷が「文禄の役」に参陣中に起こった蒲生郷可と蒲生郷安の対立を仲裁した。1595年、蒲生氏郷の病没すると、蒲生郷安が蒲生秀行の寵臣蒲生亘理八右衛門を謀殺した為、蒲生郷成も蒲生郷安と対立した。1598年、羽柴秀吉の裁定により、蒲生秀行は「蒲生騒動」を治めることができず下野国宇都宮城180,000石に減封された。それにより、蒲生郷成も常陸国笠間城主30,000石に減封にされたが、蒲生郷安が追放された為、蒲生家筆頭家老となった。1600年「関ヶ原の役」の戦功により、蒲生秀行が会津若松城600,000石に復帰すると須賀川城45,000石を領した。その後、岡重政と対立したことにより、蒲生家を出奔し、嫡男蒲生郷舎と共に藤堂高虎に仕えた。1614年、岡重政が失脚する蒲生家への帰参を許されるが、会津へ向かう途中で病死した。

蒲生郷舎【がもうさといえ(15??~15??)】

蒲生郷成の次男。別名坂源兵衛/横山喜内。父蒲生郷成と共に関成政、柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家が自刃すると、父蒲生郷成と共に蒲生氏郷に仕えた。1587年「九州征伐」での「岩石城の戦い」で戦功を挙げた。後に父蒲生郷成が蒲生姓を許され、蒲生郷舎と称した。1590年、蒲生氏郷の会津若松城の転封に従い、父蒲生郷成と共に二本松城40,000石を領した。1595年、蒲生氏郷の病没すると、蒲生郷安が蒲生秀行の寵臣蒲生亘理八右衛門を謀殺した為、蒲生郷舎も蒲生郷安と対立した。1598年、羽柴秀吉の裁定により、蒲生秀行は「蒲生騒動」を治めることができず下野国宇都宮城180,000石に減封された。父蒲生郷成、兄蒲生郷喜は蒲生家に引き続き仕えたが、蒲生郷舎は蒲生家を出奔して石田三成に仕えた。1600年「関ヶ原の役」で、石田三成が討死すると蒲生秀行に帰参した。その後、岡重政と対立すると、蒲生郷成、蒲生郷喜と共に蒲生家を出奔して藤堂高虎に仕えた。1613年、蒲生秀行が病没して蒲生忠郷が蒲生家の家督を相続すると岡重政は失脚し、蒲生郷成、蒲生郷喜、蒲生郷舎は再び蒲生家に帰参した。父蒲生郷成が病没した為、蒲生郷喜が30,000石、蒲生郷舎は三春城15,000石を領した。町野幸和と対立し、蒲生家から兄弟で追放された。町野幸和の失脚後、再び蒲生家に帰参するが、蒲生忠知により再び追放された。

蒲生郷可【がもうさとよし(15??~1598)】

浅井長政家臣。上坂兵庫助の養子。別名上坂左文。浅井長政が「小谷城の戦い」で自刃すると、柴田勝家に仕えた。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家が自刃すると、蒲生氏郷に武勇を買われて蒲生家に仕えた。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」の「岩石城の戦い」で、先鋒を務め戦功を挙げた。後に蒲生姓を許され、蒲生郷可と称した。1590年、蒲生氏郷の会津若松城の転封に従い、中山城13,000石を領した。1595年「蒲生騒動」で、蒲生家筆頭家老蒲生郷安と対立して、蒲生郷安を追放した。蒲生秀行が下野国宇都宮城に減封されると、河原城60,000石を領した。

蒲生郷安【がもうさとやす(15??~1600)】

六角義治家臣。通称四郎兵衛。別名赤座隼人。蒲生家筆頭家老職。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、蒲生賢秀に属した。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、蒲生氏郷と共に日野城に籠城した。1587年、羽柴秀吉の「九州征伐」で戦功を挙げた。後に蒲生姓を許され、蒲生郷安と称した。1590年、蒲生氏郷の会津若松城の転封に従い、猪苗代城代となった。その後「葛西大崎一揆」「九戸政実の乱」などに参陣して長沼城30,500石を領した。羽前国置賜郡が蒲生氏郷の領地となると米沢城主となり、蒲生家筆頭家老職となった。1591年、蒲生家中最高の70,000石を領した。1595年、蒲生氏郷が病没すると、蒲生郷安の専横に不満のあった蒲生郷可、蒲生郷成らと対立した。蒲生秀行の寵臣亘理八右衛門を謀殺したことをきっかけに「蒲生騒動」が起こり、羽柴秀吉の裁定で蒲生家を追放され加藤清正に預けられた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康に属した加藤清正に従ったが「宇土城の戦い」で討死した。

嶬峨越前守【ぎがえちぜんのかみ(15??~15??)】

甲賀郡嶬峨城主。甲賀五十三家のひとり。六角義賢家臣。六角義治が観音寺城を追われると、惣領職の蒲生と共に織田信長に属した。1585年、羽柴秀吉の「甲賀破儀」により改易処分を受けた。

九里信隆【くのりぶたか(15??~1514)】

蒲生郡水茎岡山城主。官途は備前守。1508年、足利義澄が南近江国に落延びると、九里信隆はこれを保護し水茎岡山城へ迎え入れた。1509年、城内で後に将軍となる足利義晴が誕生したが、足利義澄が城内で病没した。1514年、九里信隆と六角高頼が不仲になり、六角高頼により謀殺された。

九里浄椿【くのりじょうちん(15??~15??)】

九里信隆の男。九里浄椿は、六角高頼と対立していた伊庭貞説と結び抵抗を続けた。1520年、六角定頼の攻撃を受け、水茎岡山城に籠城するも落城した。九里浄椿、伊庭貞説の残党は、九里三重郎を擁立して再び水茎岡山城に籠城した。1525年「黒橋の戦い」で六角定頼に敗れ、滅亡した。

黒川久内【くろかわひさない(15??~15??)】

甲賀郡黒川城主。通称与四郎。甲賀郡五十三家で北山九家のひとり。1568年、足利義昭を奉じて上洛する織田信長の上洛阻止に失敗した六角義賢の甲賀郡に匿った。武田晴信への応援の使者として六角義賢の次男中務太夫賢永と共に家臣辻和泉守を甲斐国へ下らせた。1585年、羽柴秀吉の「甲賀破儀」によって改易処分を受けたが、後に本領黒川郷のみの領有を許された。1614年「大坂冬の陣」の際、羽柴秀頼に属して参陣した為に領地を失ったが、黒川家の娘が紀州松平頼宣の側室となり松平綱教を産んだことで、黒川村を回復した。

毛屋武久【けやたけひさ(1554~1628)】

六角義賢家臣。通称主水。後に柴田勝家の家臣となった。柴田勝家の討死後は前田利家、佐々成政に仕えた。佐々成政が改易処分されると、蒲生氏郷から高禄での誘いがあったが、これを断り黒田孝高に仕えて300石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、物見として正確に敵情を探り、過大に宣伝されていた敵兵の数が、実際には少ないことを報告し味方の士気をあげたため、松平元康よりその機知を褒められ饅頭を褒美として受け取った。黒田家二十四騎のひとり。

後藤賢豊【ごとうかたとよ(15??~1563)】

六角義賢家臣。官途は但馬守。別名重左衛門尉。娘は蒲生賢秀に嫁ぐ。後藤賢豊と進藤貞治は「六角家の両藤」と称された家老衆。後藤賢豊は智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井長政との戦いで戦功を挙げた。1559年、蒲生定秀と共に恩賞条奉行を務めた。1562年、後藤義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務めた。1563年、六角義治が起こした「観音寺騒動」により、観音寺城内で嫡男後藤壱岐守らと共に謀殺された。

後藤壱岐守【ごとういきのかみ(15??~1563)】

後藤賢豊の男。1563年、六角義治が起こした「観音寺騒動」により、観音寺城内で父後藤賢豊らと共に謀殺された。

後藤高治【ごとうたかはる(15??~1589)】

後藤賢豊の次男。通称は喜三郎。別名後藤定豊。1563年「観音寺騒動」で、父後藤賢豊と兄後藤壱岐守が六角義治によって謀殺された為、後藤家の家督を相続した。1567年、後藤高治は六角義治と和睦和睦したが「六角家式目」に連署して六角義治の専制に歯止めをかけた。1568年、織田信長の上洛戦で六角義治が観音寺城を追われると、織田信長に属した。1578年、織田信長が安土で相撲大会を開くと、その奉行を務めた。1582年「本能寺の変」では、明智光秀に属した為、失領した。後に蒲生氏郷に仕えた。

後藤高雄【ごとうたかお(15??~15??)】

六角義賢家臣。六角家奉行衆の筆頭。

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【さ】

篠山景春【ささやまかげはる(15??~1600)】

篠山城主。官途は備中守。通称理兵衛。1600年、松平元康は長尾景勝を討つため伏見城より東下、石部で宿泊をしていた。水口城主長束正家が参上して、水口岡山城への招待を申し入れたが、篠山景春は、石田三成勢の策謀であると松平元康に告げ、夜中に松平元康を鈴鹿峠まで送った。篠山景春は篠山景尚と共に鳥居元忠に属して伏見城を守ったが石田三成勢の攻撃を受け討死した。

佐治為次【さじためつぐ(15??~1585)】

甲賀郡佐治城主。官途は美作守。通称三郎。甲賀五十三家で北山九家ひとり。佐治為次は六角義賢を離れて織田信長に内応した。1568年、織田信長の上洛勢に属して14,000石を領した。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、佐治為次は羽柴秀吉に属して勢力を保った。1585年、羽柴秀吉の「甲賀破儀」により、佐治為次ら佐治家枝連衆は佐治城に籠城して抵抗した。多勢に無勢、堀秀政、中村一氏らに率いられた攻撃軍にさらされ、佐治城は敗れて落城、佐治為次は討死した。

進藤貞治【しんどうさだはる(1497~1551)】

野洲郡木浜城主。進藤長久の男。六角高頼家臣。六角高頼、六角定頼の二代に仕えた。外交手腕に優れ、足利義晴と細川晴元の和睦を仲介、豊後国大友義鑑と書簡のやり取りやその使者臼杵鑑続との取次ぎ役になった。蒲生賢秀や平井定武らと共に「六角家六家老」と称された。

進藤賢盛【しんどうかたもり(15??~15??)】

進藤貞治の男。官途は山城守。通称小太郎。進藤賢盛は後藤賢豊と共に「六角の両藤」と称された。1560年「肥田城の戦い」「野良田の戦い」など、浅井長政勢との戦いに参陣し戦功を挙げた。外交面では室町幕府との交渉を担当した。1563年「観音寺騒動」では、六角義治に反抗した。騒動後は六角義治家と和睦し「六角家式目」に連署した。延暦寺の内紛に介入し一乗寺へ放火をした。1568年、織田信長の上洛戦で六角義治が観音寺城から追われると、織田信長に属した。1569年「大河内城の戦い」に参陣した。1571年、佐久間信盛の寄騎衆となった。1573年「槇島城の戦い」に参陣した。1573年「石山本願寺城の戦い」に参陣した。佐久間信盛が追放された後は「第二次天正伊賀の乱」にも参陣した。1582年「本能寺の変」後、織田信雄、羽柴秀吉に属した。1584年「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢の別働隊に所属し蒲生氏郷と共に「伊勢峰城の戦い」に参陣した。

杉谷善住坊【すぎたに ぜんじゅぼう(15??~1573)】

甲賀郡杉谷館主。通称与藤次。甲賀五十三家のひとり。甲賀衆の杉谷善住房は鉄砲の名手として六角義賢に属した。1570年、織田信長が朝倉義景を攻撃した際、浅井長政から挟撃され京都に落延びた。京都から岐阜城への帰還の途、善住坊は伊勢方面へ抜ける織田信長を千草越で狙撃するが失敗に終わった。織田信長の厳命で、徹底した探索が行われ、高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、磯野員昌に捕縛された。菅屋長頼、祝重正によって尋問された後に、生きたまま頸から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて頸を切断する鋸挽きの刑に処された。

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【た】

高畑源十郎【たかはたげんじゅうろう(15??~15??)】

野洲郡北里館主。娘は小倉実澄に嫁ぎ、甚五郎、松千代を生む。小倉実澄没後、娘は織田信長に保護され、その側室となった。

種村貞和【たねむらさだかず(15??~15??)】

六角義賢家臣。六角家の奉行衆のひとり。六角義治が家臣の家督安堵をした際、立会人として後藤賢豊、平井定武、布施公雄と共に署名した。

多羅尾光吉【たらおみつよし(15??~1568)】

甲賀郡小川城主。官途は和泉守。甲賀五十三家のひとり。鶴見成俊を逐って信楽の最有力者となった多羅尾家は、近衛家領である信楽郷の押領を繰り返した。1501年、近衛家は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾家は伊庭家の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽郷(7,000石)随一の領主に成長した。

多羅尾光俊【たらおみつとし(1514~1609)】

多羅尾光吉の男。通称四郎右衛門。1568年、織田信長の上洛戦で、六角義治が観音寺城から追われると織田信長に属した。1574年、織田信長の側近である福富秀勝、毛利長秀と共に多聞城番手を勤めた。1581年「第二次天正伊賀の乱」に参陣した。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、和泉国の堺に居た松平元康は長谷川秀一を先導により、山城国宇治郡田原城主山口光広の元に落延びた。多羅尾光俊は家臣の新主膳正末景と市野辺出雲守を原田城まで出迎えに向わせ松平元康を信楽に迎え入れた。嫡男多羅尾光太、三男多羅尾光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀衆150人余りと共に松平元康を伊勢国白子の浜まで無事送り届けた。「山崎の戦い」後、柴田勝家は織田信孝、滝川一益と共に反羽柴秀吉勢をまとめ対決姿勢を示した。羽柴秀吉勢の浅野長政は伊賀国経由で伊勢国亀山城への攻撃を試みたが、多羅尾光俊は、四男別所城主多羅尾光量と共に浅野長政勢に夜襲をかけ撃退した。浅野長政は力攻めを諦め多羅尾光俊と和睦した。和睦後、多羅尾光俊は羽柴秀吉に属して信楽郷を中心に80,000石を領し、羽柴秀次の家老職となった。

多羅尾光太【たらおみつとし(15??~15??)】

多羅尾光俊の男。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、和泉国の堺に居た松平元康は長谷川秀一を先導により、山城国宇治郡田原城主山口光広の元に落延びた。父多羅尾光俊は家臣の新主膳正末景と市野辺出雲守を原田城まで出迎えに向わせ松平元康を信楽に迎え入れた。多羅尾光太は、弟多羅尾光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀衆150人余りと共に松平元康を伊勢国白子の浜まで無事送り届けた。近江国八幡城430,000石を領した羽柴秀次に属し、娘の於万が羽柴秀次の側室となった。1595年「羽柴秀次事件」に連座して、多羅尾家枝連衆はことごとく改易の憂き目となった。

土山盛忠【つちやまもりただ(15??~15??)】

甲賀郡土山城主。頓宮利盛の次男。通称鹿之助。甲賀五十三家のひとり。

土山盛綱【つちやまもりつな(15??~15??)】

土山盛忠の男。通称左近太夫。1582年、滝川一益の攻撃を受け落城した。1584年「小牧、長久手の戦い」の際、土山城を羽柴秀吉が陣屋として使用した。

頓宮守孝【どんぐうもりたか(15??~15??)】

甲賀郡岩倉城主。官途は因幡守。甲賀五十三家で北山九家ひとり。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、頓宮守孝は織田信長に降った。1585年、羽柴秀吉の「甲賀破儀」により領地を召し上げられた。

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【な】

永田賢弘【ながたかたひろ(15??~15??)】

六角義賢家臣。官途は備中守。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。

永田景弘【ながたかげひろ(15??~1582)】

六角義賢家臣。蒲生郡永田館主。官途は刑部少輔。高島郡高島七頭永田家の庶家。1563年、六角義治が最有力家臣の後藤賢豊を観音寺城内で謀殺すると、多くの家臣が六角義治から離反した。永田景弘も永田館にに籠城した。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。1570年、織田信長から中島郡、中郡の所領を安堵され、中川重政の寄騎衆として畿内各地を転戦した。

永原重隆【ながはらしげたか(15??~1550)】

野洲郡小堤城山城主。六角定頼家臣。永原重泰の男。官途は越前守。通称太郎左衛門。1527年、細川高国に逐われた足利義晴を支援した。1532年、六角定頼の「山科本願寺攻略」に参陣して戦功を挙げた。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治と共に鎮圧部隊を率いて上洛した。1539年、浅井亮政との対陣にも参陣した。1540年、細川晴元の後詰として進藤貞治と共に上洛した。

永原重興【ながはらしげおき(15??~1562)】

永原重隆の男。官途は越前守。1556年、野洲川の梁漁権をめぐる争論を調停した。六角義賢が六角家の家督を相続すると、次第に勢力を衰退させた。1562年、三好義賢勢との「久米田の戦い」では、先鋒を務めて戦功を挙げた。1562年、六角義賢に属して「地蔵山の戦い」に参陣して、松永久秀勢と戦い討死した。

永原重虎【ながはらしげとら(15??~15??)】

永原重興の男。官途は越前守。1560年、浅井長政が肥田城主高野瀬秀隆を寝返らせると、六角義賢は永原重虎、蒲生賢秀、進藤貞治ら25,000余り率いて出陣、対する浅井長政勢は11,000余りの寡勢であったが、六角義賢勢は敗退した。1563年、六角義治が家臣後藤賢豊を観音寺城内で謀殺する「観音寺騒動」が起こると、多くの家臣団と共に永原重虎も離反し、六角義賢は六角義治と共に観音寺城から追われた。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は三好三人衆と通じて織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、織田信長に属した。

永原久重【ながはらひさしげ(15??~15??)】

永原重興の次男。通称弥左衛門。

永原重康【ながはらしげやす(15??~15??)】

永原重虎家臣。官途は越前守。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、織田信長に属して佐久間信盛の寄騎衆となった。

山中為俊【やまなかためとし(15??~15??)】

甲賀郡山柏木館主。室町幕府御家人で細川晴元の元で摂津闕郡の守護代。細川晴元の没落により六角義賢に属した。

山中長俊【やまなかながとし(1547~1607)】

山中為俊の男。官途は山城守。1568年、織田信長によって六角義賢が観音寺城を追われた際、甲賀郡に保護して織田信長と抗戦した。1573年、石部城に籠城、包囲軍の佐久間信盛の家臣林寺熊之介を討取る戦功を挙げた。1574年、長光寺城主柴田勝家の寄騎衆となり3,000石を領した。1583年「賤ヶ岳の戦い」において柴田勝家が討死した後は丹羽長秀に仕えたが、丹羽長秀の病没後、堀秀政に仕えた。1585年、羽柴秀吉に祐筆として迎えられ、外交折衝などで活躍した。畿内の羽柴秀吉領の代官として30,000石を治めた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属し大坂城留守居として大坂城周辺を守備した。役後に改易処分となった。著書に「中古日本治乱記」。

楢崎賢道【ならさきかたみち(15??~15??)】

六角義賢家臣。通称太郎左衛門尉。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。

野寺忠弘【のでらただひろ(15??~15??)】

六角定頼家臣。後藤高雄と共に六角定頼の奉行人。後藤高雄についで奉書への署名が多い。

野寺忠行【のでらただゆき(15??~15??)】

野寺忠弘の男。天文後期、野寺忠弘に代わって奉書に署名した。

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【は】

馬場孫次郎【ばばまごじろう(15??~15??)】

竪田海賊衆のひとり。1570年、竪田衆の猪飼野昇貞、居初又次郎と共に、坂井政尚を介して織田信長に降った。竪田で浅井長政、朝倉義景勢と、坂井政尚と共に戦った。明智光秀の指揮で、湖岸の一揆を竪田海賊衆と共に攻撃した。

八幡山秀綱【はちまんやまひでつな(15??~1601)】

六角義秀の次男(織田秀信の養子)。別名六角左京大夫。1592年、兄六角義郷の養子として六角家の相続人となり、六角義郷と共に肥前名護屋城に在番した。1601年、兄六角義郷に先立って病没した。

伴長信【ばんながのぶ(15??~1582)】

甲賀郡柏木三家のひとり。通称太郎左衛門。甲賀五十三家中もっとも勢力があった。六角義賢や織田信長の元で甲賀忍者衆を指揮した。1582年「本能寺の変」の際、織田信長の側にあって最後まで明智光秀勢をくい止めて討死した。

平井定武【ひらいさだたけ(15??~15??)】

六角定頼家臣。栗太郡平井城主。平井高好の男。官途は加賀守。通称右兵衛尉。平井定武は、後藤賢豊、蒲生賢秀、三雲成持らと並んで六角家の執政を支える六宿老と称された。1525年、六角定頼と浅井亮政との戦いで戦功を挙げた。六角義賢に臣従した浅井久政の嫡男浅井長政の烏帽子親を務め、後に娘(萩の御前)を浅井長政の嫁に送り込んだ。六角義賢の専横に怒った浅井家臣団が浅井久政を廃して浅井長政を擁立すると、娘は離縁され娘は平井家に送り返された。1568年、織田信長が近江に侵攻すると六角義治を離反して織田信長に降った。

平井高明【ひらいたかあき(15??~15??)】

平井定武の男。通称弥太郎。1563年、六角義治が家臣の後藤賢豊を観音寺城内で謀殺する「観音寺騒動」が起こると、多くの家臣と共に六角義治から離反した。六角義賢は六角義治と共に観音寺城から追われた。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、平井高明は織田信長に属した。

布施公雄【ふせきみお(15??~15??)】

六角義賢家臣。布施山城主。官途は淡路守。布施家は三河守家と淡路守家の二家に分かれ、三河守家は布施山城を、淡路守家は大森城を領した。1566年「観音寺騒動」の後、浅井長政に通じて謀反を起こし籠城、寄せ手の大将三雲賢持に抗戦するも許された。1567年、六角義治の支配を制限する「六角氏式目」に連署した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義治は、三好三人衆と通じて織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、織田信長に属した。

布施公保【ふせきみやす(15??~15??)】

布施公雄の男。官途は淡路守。

布施三河守【ふせみかわのかみ(15??~15??)】

六角義賢家臣。官途は三河守。布施家は三河守家と淡路守家の二家に分かれ、三河守家は布施山城を、淡路守家は大森城を領した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びた後も、織田信長に抵抗した。

堀口貞祐【ほりぐちさだすけ(15??~15??)】

今堅田城主。堀口貞満の男。通称掃部介。浅井長政、朝倉義景勢が、織田信長に対抗する為、甲賀衆磯谷新右衛門を配置したが、織田信長勢の柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの攻撃を受け陥落した。

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【ま】

馬淵建綱【まぶちたてつな(15??~15??)】

六角義賢家臣。蒲生郡小堤城山城主。官途は兵部少輔。1563年、六角義治が家臣の後藤賢豊を観音寺城内で謀殺する「観音寺騒動」が起こると、多くの家臣と共に六角義治から離反した。六角義賢は六角義治と共に観音寺城から追われた。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。

馬淵宗綱【まぶちむねつな(15??~15??)】

馬淵建綱の男。官途は山城守。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式家」に連署した。

馬淵秀信【まぶちひでのぶ(15??~1570)】

六角義賢家臣。野洲郡岩倉城主。官途は甲斐守。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、馬淵秀信は最後まで抵抗したが討死した。

三雲行定【みくもゆきさだ(15??~15??)】

甲賀郡三雲城主。六角定頼家臣。甲賀五十三家のひとり。単独で明と貿易を行い室町幕府に寄付をするなど、高い経済力を有していた。三雲家は六角家臣ではなく、同盟者とでもいうべき有力な存在だった。寺社を独自に統制したり、恩賞の決裁を独自に行なうなど、その権力は相当なものであった。

三雲定持【みくもさだもち(15??~1570)】

三雲行定の男。官途は対馬守。通称三郎左衛門。父三雲行定と共に六角定頼に仕えた。1563年「観音寺騒動」では蒲生定秀らと共に奔走した。1567年、佐和山付近での浅井長政勢との戦で嫡男三雲賢持が討死した為、家督は次男三雲成持が相続した。1567年「六角家式目」には、三雲成持と共に連署した。1568年、織田信長勢の上洛戦で観音寺城から落延びた六角義賢、六角義治を三雲城に迎え入れた。1570年「野洲河原の戦い」で、織田信長勢と戦い討死した。

三雲賢持【みくもかたもち(15??~1566)】

三雲定持の男。通称新左衛門尉。1566年、浅井長政勢との戦いで討死した。

三雲成持【みくもしげもち(1540~1603)】

三雲定持の次男。1566年、浅井長政との戦いで兄三雲賢持が討死したため、三雲家の家督を相続した。1567年「六角家式目」に署名した。1568年、織田信長勢の上洛戦で観音寺城から落延びた六角義賢、六角義治を三雲城に迎え入れ、独立勢力として六角義治の再起を支援した。1575年、佐久間信盛を通じて織田信長に降伏した。1584年、織田信雄に仕え、旧領復帰の約束を受け「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢として参陣、兵約700余りを率いて伊勢国松ヶ島城に籠城した。織田信雄と羽柴秀吉が和睦した為、旧領復帰は果たせず蒲生氏郷に4,000石で仕えた。

三雲成長【みくもなりなが(15??~1635)】

三雲成持の男。1593年、肥前名護屋において松平元康に仕えた。以後、大番を勤めて上総国望陀郡で500石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、参陣して戦功を挙げ国甲賀郡で1,000石を領した。1614年「大坂冬、夏の陣」にも参陣した。

三上士忠【みかみあきただ(15??~15??)】

六角義賢家臣。別名三上栖雲軒。布施公雄、宮木賢祐と共に裁定にあたった。

三上恒安【みかみつねやす(15??~15??)】

六角義賢家臣。三上頼安の男。官途は越後守。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。 1567年、安国寺質物訴訟で進藤貞治と後藤賢豊が争った時は後藤賢豊に属した。

三井治秀【みついはるひで(15??~15??)】

六角義賢家臣。通称新五郎。1567年、六角義治の支配を制限する「六角家式目」に連署した。
 
宮木賢祐【みやきかたすけ(15??~15??)】

六角義賢家臣。六角家の奉行人。1551年、浅井長政と戦った際、観音寺城の留守居役となった。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義治は、三好三人衆と通じて織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、宮木賢祐は織田信長に属した。

目賀田忠朝【めがたただとも(15??~15??)】

蒲生郡目賀田城主。目賀田綱清の男。六角定頼家臣。通称次郎左衛門尉。1537年、日触神社の守護札を近江国内に頒布する許可を枝連衆の目賀田釆女正氏秀、目賀田相模守長俊、目賀田備中守貞房、目賀田摂津守秀実らと連署して行った。六角定頼は管領細川高国の内訌に介入して京都に侵攻、京極高吉の被官から北近江の強豪に成長した浅井久政を討伐するなど、六角家の全盛期を築き上げた。1559年、浅井長政が勢力を伸ばすと、六角義賢は湖北に侵攻佐和山城を包囲し、浅井長政に寝返った高野瀬秀頼が籠城する肥田城を攻撃した。六角義賢と共に浅井長政勢と野良田で戦ったが、兵力で勝る六角義賢勢の敗北となった。目賀田忠朝は、衰退する六角義賢に忠誠を尽くした。1563年、六角義治は、観音寺城内で後藤賢豊を謀殺した為、家臣団の離反を招き観音寺城を追われた。目賀田貞政は、浅井長政に通じて六角義氏に反旗を翻した。

目賀田貞政【めだかさだまさ(15??~15??)】

目賀田忠朝の男。官途は摂津守。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義賢は、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と結んで織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びると、目賀田貞政は浅井長政に属した。1573年、織田信長と浅井長政、朝倉義景が戦うと嫡男目賀田堅綱と共に織田信長に属して所領を安堵された。1576年、織田信長が安土城を築城する為、目賀田城の引き渡しを求められ代替地の光明寺野20,000石に新らたに新目賀田城を築城した。1582年「本能寺の変」で織田信長が討死すると明智光秀に属した。「山崎の戦い」後、羽柴秀吉から改易処分を受け枝連衆は離散した。

目賀田堅綱【めだかかたつな(15??~1582)】

目賀田貞政の男。官途は摂津守。1582年、六角義治勢と戦いで討死した。

目賀田堅政【めだかかたまさ(15??~15??)】

目賀田堅綱の男。官途は摂津守。通称次郎左衛門尉。1582年、松平元康が安土城を訪問した際、織田信長の命で番場宿で饗応し堺見物の際にも同行した。「本能寺の変」が起こると、松平元康は伊賀越で近江国に出て三河国に落延びた。松平元康は目賀田堅政に三河国行きを進めたが、目賀田堅政は近江国に留まる道を選び、明智光秀に属して「山崎の戦い」に参陣して、敗残の身となった。所領は没収されて枝連衆は離散、目賀田堅政は蟄居した。

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【や】

矢島越中守【やじまえっちゅうのかみ(15??~15??)】

野洲郡矢島城主。1565年、足利義輝が三好三人衆と松永久秀らに謀殺されると、興福寺を脱出した足利義昭(覚慶)は和田維政を頼って落延びた。1566年、甲賀郡和田維政から矢島少林寺に足利義昭を迎えた。足利義昭は南近江国に侵攻した三好長逸の圧力で越前国に落延びた。

山岡景之【やまおかかげゆき(15??~15??)】

志賀郡勢多城主。六角氏綱家臣。山岡景就の男。官途は美作守。室は和田惟政の娘。瀬田城を居城にして江南の旗頭と称された。六角氏綱に属して多くの戦功を挙げた。山岡景之は六角家の有力家臣で、青地長綱、馬淵宗綱らと共に六角家の戦力の中核を担った。
 
山岡景隆【やまおかかげたか(1525~1585)】

山岡景之の男。官途は美作守。室は水野重久の娘。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、織田信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し、南近江国の豪族衆の旗頭として抵抗した。1569年、織田信長勢の攻撃を受けて大和国へ落延び、松永久秀に人質を差し出しこれに属した。後に織田信長に降伏しその家臣となり佐久間信盛の寄騎衆として戦功を挙げた。織田信長は、山岡景隆の家柄などを顧慮して、甲賀衆の指揮権を与えた。1573年、織田信長と足利義昭との戦いでは織田信長勢に属して「槇島城の戦い」などで戦功を挙げた。1577年「雑賀討伐」「第二次天正伊賀の乱」にも参陣した。1582年「本能寺の変」で織田信長が討死すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、山岡景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智光秀勢の進軍路を妨害するなど抵抗した。「山崎の戦い」以後は、柴田勝家勢に属した。1583年「賤ヶ岳の戦い」で、柴田勝家が討たれると羽柴秀吉に降伏した。命は助けられたが弟山岡景佐と共に所領を没収され、以後は甲賀郡に隠遁した。

山岡景佐【やまおかかげすけ(1531~1589)】

山岡景之の次男。官途は対馬守。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、織田信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し兄山岡景隆と共に抵抗した。その後、降伏して、弟山岡景猶と共に明智光秀の寄騎衆となり近畿各地を転戦した。1572年、降伏した松永久秀に代わり多聞山城に城番した。1582年、織田信長の上洛の際、蒲生賢秀と共に、安土城二の丸の番衆を務めた。1582年「本能寺の変」で織田信長が討死すると、明智光秀からの勧誘を受けるが、兄山岡景隆と共明智光秀に対し抵抗した。羽柴秀吉に属したが「賤ヶ岳の戦い」の後、柴田勝家に内通したとの嫌疑をかけられ所領を没収された。
 
山岡景猶【やまおかかげなお(15??~1599)】

山岡景之の三男。官途は備前守。志賀郡の園城寺(三井寺)の僧侶だった。1567年、尾張国に滞在し、里村紹巴と交流した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、織田信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し兄山岡景隆と共に抵抗した。その後、降伏して、兄山岡景佐と共に明智光秀の寄騎衆となり近畿各地を転戦した。1570年、近江国内で2,050石を領した。1571年「比叡山焼き討ち」では、織田信長は三井寺山内の山岡景猶の屋敷より指揮を行った。1572年、明智光秀に属して湖上から堅田衆と共にに、琵琶湖周辺で起こった一揆と戦った。1573年、足利義昭が織田信長に対して挙兵すると、山岡景猶は足利義昭の誘いを拒絶して「填島城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1582年「本能寺の変」で織田信長が討死すると、兄山岡景佐と共に羽柴秀吉に属したが、柴田勝家に内通したとの嫌疑をかけられ「賤ヶ岳の戦い」の後、兄山岡景佐と共に改易された。後に加藤清正に仕えてた。
 
山岡景友【やまおかかげとも(1540~1604)】

山岡景之の四男。官途は備前守。通称八郎左衛門。別名三井寺光浄院住職(暹慶)。三井寺光浄院の住持となり暹慶と称した。室町幕府の奉公衆と親しく、政所代の蜷川親長とも親交があり、足利義昭により幕臣に取り立てられた。1571年、三淵藤英と共に松永久秀に攻められた大和国の筒井順慶の救援に赴いた。1572年、足利義昭の命で還俗し山岡景友と称して、足利義昭より山城半国の守護に任じられた。織田信長と足利義昭の戦いが始まると、三人の兄が織田信長に属する中、山岡景友は足利義昭に属して石山城に籠城して抗戦した。1573年、柴田勝家から攻撃を受け、兄山岡景隆の説得を受けて降伏した。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、兄山岡景隆と共に明智光秀勢の近江国進撃を妨害した。その後、三人の兄が羽柴秀吉により改易されたため、山岡景友が山岡家惣領職となり甲賀郡の旗頭になった。1584年「小牧、長久手の戦い」では、佐久間信栄に属して伊勢国峰城を攻撃した。和睦後、羽柴秀吉に仕えて領地を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して伊勢長島城の守備や伊勢桑名城、水口城の攻略で戦功を挙げてた。これにより近江国内で9,000石と甲賀組頭となった。

山岡景宗【やまおかかげむね(15??~15??)】

山岡景隆の男。織田信長家臣。1576年、松永久秀に属して「石山本願寺の戦い」に参陣した。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、父山岡景隆は羽柴秀吉と対立して改易処分とされた。山岡景宗は羽柴秀吉から許され馬廻衆として1,450石を領した。1592年「文禄の役」では、羽柴秀吉勢に属して肥前名護屋城に在陣した。羽柴秀吉の病没後は羽柴秀頼に仕えた。1614年「大坂夏の陣」でも羽柴秀頼勢として戦った。役後は罪を許されて松平元康に属して本領を安堵された。

山岡景以【やまおかかげもち(1574~1642)】

山岡景隆の七男。官途は図書頭。通称長太郎。室は佐々成政の娘。1588年、羽柴秀次に属して3000石を領した。1595年「羽柴秀次事件」では、羽柴秀次に従って高野山に入るが、山岡景以は罪を許されて羽柴秀吉に仕えた。1600年「関ヶ原の役」後は、松平元康に属した。1603年、叔父山岡景友が病没すると、嫡男山岡景本が山岡景友養子となって山岡家の家督を相続したが幼年の為、山岡景以が陣代として甲賀衆を指揮した。1614年「大坂冬の陣」では、松平元康に属して、永井直勝、水野勝成らと共に戦功を挙げた。

山岡景本【やまおかかげもと(1595~1645)】

山岡景以の男。通称新太郎。室は山岡景友の娘。山岡景友の娘婿となり山岡家の家督を相続した。1603年、松平元康が山岡景友の屋敷に訪れた際、松平元康に引見した。松平元康の命で甲賀組頭領山岡景友の家督を相続するが幼年であった為、山岡景以が代わって甲賀組を預かった。

吉田重賢【よしだしげかた(1463~1543)】

近江国蒲生郡の弓術家。官途は上野守。通称太郎左衛門。弓術に優れた六角定頼家臣。吉田重賢は、逸見流、武田流、小笠原流などの古流弓術を学び、続いて日置正次が創始した射法を修めた。日置正次の射法は従来のものに比べ革新的であったことから、日置正次以前の流派を「古流」、日置正次以降を「新流」と称した。吉田重賢により大いに世に広まり、日置流または吉田流と称され、吉田重賢は吉田流の祖とされた。近世以降の弓術流派はほぼ全てこの日置、吉田流の系統に属した。

吉田重政【よしだしげまさ(1485~1569)】

吉田重賢の男、官途は出雲守。通称は助左衛門。弓術吉田流を引き継ぎ、出雲派吉田流の祖となる。六角義賢に仕えたが、弓術の伝授をめぐってもめ、越前国の朝倉義景に仕えた。後、六角義賢に弓術の秘伝を伝授した。

吉田重高【よしだしげたか(1509~1586)】

吉田重政の男。官途は出雲守。通称助左衛門。父吉田重政から奥義をつたえられた六角義賢に学び、吉田流出雲派の祖となった。

吉田重勝【よしだしげかつ(1514~1590)】

吉田重政の四男。通称六右衛門。祖父吉田重賢や父吉田重政から弓術を学んだ。六角義賢と吉田重政の間で争いがおきた際、吉田重賢から奥秘真伝をさずけられ京都に落延びた。後に細川藤孝に仕え、弓術雪荷派吉田流雪荷(せっか)派の祖となった。門下には蒲生氏郷、羽柴秀長、羽柴秀次、宇喜多秀家、細川藤孝らがいた。

六角定頼【ろっかくさだより(1495~1552)】

蒲生郡観音寺城主。六角高頼の次男。室町幕府管領代。南近江国守護職。官途は弾正少弼。1504年、京都相国寺慈照院に僧侶として入り、吉侍者と称された。1506年、兄六角氏綱が細川政賢との戦いの傷がもとで病没した為、六角定頼が還俗して六角家の家督を相続した。足利義稙に属して、細川政賢勢を撃破する戦功を挙げた。足利義稙が追放されると足利義晴の擁立に細川高国と共に貢献した。

六角義賢【ろっかくよしかた(1521~1598)】

六角定頼の男。官途は左京大夫。別名六角承禎。室は畠山義総の娘。1552年、父六角定頼の病没により六角家の家督を相続相続した。父六角定頼の病没後も足利義輝や細川晴元を支援して三好長慶勢と戦うが、三好長慶の反抗により敗北を続けた。1558年、足利義輝と三好長慶の和睦を仲介した。湖北に侵攻して浅井久政を従属させ、浅井久政の嫡男浅井長政に、家臣平井定武の娘を娶わせた。1559年、嫡男六角義治に家督を譲って隠居した。1560年、浅井長政が家督を相続すると、六角義賢に対して反攻を開始した。湖北に侵攻するが「野良田の戦い」の戦いに敗れ湖北に対する影響力を失った。その後、敵対していた斎藤義龍と同盟関係を結び浅井長政に対抗した。1561年、細川晴之を奉じて、畠山高政と共に京都に侵攻して三好長慶を京都から追い落した。1562年、畠山高政と共に河内国で、三好義賢勢に「久米田の戦い」で大勝し、三好義賢を討取る戦功を挙げた。「教興寺の戦い」で、畠山高政勢が壊滅すると三好長慶と和睦して山城国から撤退した。1563年、六角義治が家臣後藤賢豊を観音寺城内で謀殺する「観音寺騒動」が起こると、家臣団の多く離反して、六角義賢は六角義治と共に観音寺城から追われた。蒲生定秀、蒲生賢秀の仲介で六角義賢父子は観音寺城に戻ることができた。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と通じて織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びた。1570年、長光寺城に籠城する柴田勝家と佐久間信盛を攻撃したが敗退した。六角義賢は六角義治と共に朝倉義景、浅井長政や三好三人衆らと同盟して織田信長勢と戦うが劣勢を挽回することはできなかった。1571年、菩提寺城に籠城し敗れ、織田信長に降伏した。

六角義治【ろっかくよしはる(1545~1612)】

六角義賢の男。官途は右衛門督。通称四郎。別名六角義弼。1559年、父六角義賢が隠居した為、六角家の家督を相続したが実権は父六角義賢が把握していた。1561年、河内国の畠山高政と共に三好長慶を攻めた際は、父六角義賢と共に京へ派兵した。1563年、六角義治は、観音寺城内で後藤賢豊を謀殺した為、家臣団の離反を招き観音寺城を追われたが蒲生定秀、蒲生賢秀らの尽力により観音寺城に戻った。1565年、三好三人衆と松永久秀に追われた足利義昭をそれを匿ったが、三好三人衆に内応して足利義昭を追放した。1567年、六角義治の権限を制約する「六角家式目」に署名することを余儀なくされ、家督も弟六角義定に譲らされた。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、三好三人衆と通じて織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びた。1570年、長光寺城に籠城する柴田勝家と佐久間信盛を攻撃したが敗退した。六角義賢は六角義治と共に朝倉義景、浅井長政や三好三人衆らと同盟して織田信長勢と戦うが劣勢を挽回することはできなかった。1571年、菩提寺城に籠城し敗れ、織田信長に降伏した。

六角義定【ろっかくよしさだ(1547~1620)】

六角義賢の次男。官途は中務大輔。通称次郎左衛門尉。はじめは大叔父大原高保の跡を継ぎ、大原家を称した。1563年、兄六角義治が後藤賢豊を謀殺した「観音寺騒動」を起こし、家臣団の統制が取れなくなると、六角義賢の命で六角義治に代わり六角義定が六角家の家督を相続した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、父六角義賢は、三好三人衆と通じて織田信長の要請を拒絶、織田信長勢と戦ったが観音寺城を失い甲賀郡に落延びた。六角義賢が穴山信君に書状を送る際、使者として派遣された。

和田惟助【わだこれすけ(15??~1546)】

甲賀郡和田城主。別名和田宗立。甲賀五十三家で南山六家のひとり。1546年、摂津国高槻城主荒木氏綱の戦いで討死した。

和田惟政【わだこれまさ(1530~1571)】

和田惟助の男。官途は弾正忠。室は高山友照の娘。足利義輝に幕臣として仕えた。1565年、足利義輝が松永久秀らによって謀殺されると、軟禁されていた足利義輝の弟足利義昭を仁木義政と共に一乗院より救い出して自身の屋敷にも匿った。織田信長の援助で足利義昭が十五代将軍に就任すると、織田信長によって摂津国芥川山城を与えられた。足利義昭からは池田勝正、伊丹親興と共に摂津国守護職に任じられ「摂津三守護」と称された。1569年、織田信長に援軍を要請した播磨国の龍野赤松政秀の援軍として、備前国の浦上宗景攻めに参陣した。1570年、和田惟政は織田信長から蟄居を命じられるが。まもなく蟄居を解かれた。「姉川の戦い」では、織田信長勢として参陣した。1571年、松永久秀、三好三人衆と結んだ池田知正を討伐する為、伊丹親興、茨木重朝、郡正信と共に「摂津国白井河原の戦い」で、池田知正の家臣荒木村重に敗れ討死した。

和田惟増【わだこれます(15??~1572)】

和田惟助の次男。兄和田惟政に属して、畿内各地を転戦した。1572年、和田家中が織田信長派と足利義昭派に割れて対立すると、足利義昭を支持した和田惟増は、織田信長派であった甥和田惟長に謀殺された。

和田定利【わださだとし(15??~1571)】

和田惟助の三男。通称新助。兄和田惟政と共に足利義昭の入洛に供奉し、その後織田信長に属して、織田信清の家老職として黒田城主を務めた。織田信清が織田信長と対立すると、丹羽長秀の調略により、織田信清家老の中島豊後守と共に織田信長勢の兵を引き入れた。織田信清は甲斐国に落延びた。1569年、中島豊後守と共に織田信忠に属して「大河内城の戦い」に参陣した。1571年「長島城の戦い」に参陣した一向一揆勢の攻撃を受け討死した。

和田定教【わださだよし(15??~15??)】

和田惟助の四男。通称八郎。1571年、和田定利の討死により、和田家の家督を相続した。

和田惟長【わだこれなが(1551~1573)】

和田惟政の男。通称伝右衛門。1571年、摂津郡山に父和田惟政と共に参陣して池田知正、荒木村重勢と戦ったが、先鋒を務めた父和田惟政が討死した為、和田惟長は敗走、諸将の信頼を失った。1572年「交野城の戦い」では、足利義昭に属して、織田信長勢として戦った。足利義昭と織田信長が対立すると、家臣団も二つに割れ、足利義昭派の叔父和田惟増を謀殺した。和田惟長は、織田信長に属した。1573年、高山友照、高山右近親子の謀殺を画策したが失敗し戦いになり、深手を負いその傷がもとで病没した。

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【資料Ⅰ】

南近江国(7郡/420,000石)

犬上郡:佐和山城、多賀街、彦根城、高野瀬城、肥田城、八町城、吉田城、西明寺。
愛知郡:目賀田城、八日市街、山口城、愛知城、神埼城、八木城、金剛輪寺、沓掛街。
蒲生郡:日野城、中野城、石寺街、音羽城、鎌掛城、佐久良城l、鏡街、海津街、鳥居平城、安土城、観音寺城、百済寺。
甲賀郡:水口城、信楽城、石部城、三雲城、佐治城、青木城、岩室城、滝川城。
野洲郡:永原城、守山城、三上城、浮気城、北村城、野洲城、明見城、相原城。
栗太郡:青地城、多喜山城、小槻寺、草津街、勢多城、八坂城、橋本城、田上城、駒井城、大石城。
滋賀郡:坂本城、大津街、延暦寺、園城寺、膳所城、雄琴城、粟津街、堅田街。

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【資料Ⅱ】

甲賀郡五十三家【こうかぐんごじゅうさんけ】

山中十郎、嵯峨越前守、宮島掃部介、倉冶右近助、平子主殿介、葛城丹後守、杉谷与藤次、土山鹿之助、望月出雲守、針和泉守、美濃部源吾 、鵜飼源八郎、小川孫十郎、川上藤七郎、青木筑後守、小泉外記、鳥居兵内、杉山八郎、夏見大学、多羅尾四郎兵衛、三雲新蔵人、大原源三郎、和田伊賀守、牧村右馬介、池田庄右衝門、服部藤太夫、大河原源太、大久保源内、八田勘助、神保兵内、饗庭河内守、高野備後守、隠岐右近太夫、頓宮四方介、上山新八郎、岩室大学介、中山民部丞、佐治河内守、上野主膳正、上田三河守、長野刑部丞、多喜勘八郎、野田五郎、内貴伊賀守 大、野宮内少輔、岩根長門守、高山源太左街門、黒川文内、伴左京介、高峰蔵人、芥川左京亮、新庄越後守、宇田藤内。

六角の両藤【ろっかくのりょうとう】

後藤賢豊、進藤賢盛。

六角義賢六宿老【ろっかくよしかたろくしゅくろう】

蒲生賢秀、後藤秀勝、進藤貞治、平井定武、三雲成持、目賀田綱清。

堅田海賊衆【かただかいぞくしゅう】

琵琶湖は東「東の切」、西「西の切」、南「宮の切」、北「今堅田」と四つに区切られ、東西南を総称して堅田三方と呼び、東西南北を総称して堅田四方と称した。堅田衆は琵琶湖の魚介類、鳥類、葦などの専売権を有し「今堅田」に居住する百姓衆「全人衆」はこれらを販売するため遠く東北、山陰まで行商した。全人衆は本願寺の浄土真宗(一向宗)を信仰して行商と共に各地で布教を行ったため本願寺勢力が拡大する一因となった。また、堅田の地侍「殿原衆」は禅宗を信仰し、居初党、刀禰党、小月党の三党に分かれ、居初党は「宮の切」、刀禰党は「西の切」、小月党は「東の切」に、それぞれ居住していた。堅田の本福寺が本願寺の拠点化すると琵琶湖一帯で本願寺門徒が急速にその数を増やした。堅田衆は「元弘の乱」で足利尊氏に協力したため、「上乗り」と呼ばれる水先案内で運送品の十分の一を徴収することを許されていたが、南北朝時代になると堅田衆による関料徴収を逃れるために無断で琵琶湖を往来する者が増加、堅田衆は関料を百分の一にまで引き下げたが状況は変わらなかった。以来、収入確保と住民の生活安定のため無断で往来する者に海賊行為を行うようになる。足利義政は花の御所を造営するために琵琶湖を使って湖上運搬を行ったが、堅田衆の許しを得なかったため運搬船が堅田衆に襲われた。足利義政はこれに激怒し、延暦寺山門宗徒に命じて堅田を攻撃させたため堅田は大打撃を受けたが、堅田衆の結束は返って強固になった。1569年、織田信長は堅田を親郷、つまり近隣の港の総領とする朱印状を与え、これまでの特権を安堵した。これにより堅田衆は織田信長に属することとなり、羽柴秀吉も同様に堅田衆を用いた。しかし、秀吉は堅田を親郷と認めず、湖上往来の自由を確保しようとするなどの政策を行ったため堅田衆は衰えた。

六角家式目【ろっかくけしきもく】

六角家式目。1567年、六角義治が制定した六十七条からなる分国法。諸伝本には六角義治の署判のものだけでなく、六角義治と父六角義賢の連署のものがある。1563年「観音寺騒動」という内乱、浅井長政との戦いにおける惨敗という六角家危急存亡のときに、領国の支配体制再建を目的として制定された。

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【資料Ⅲ】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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