2014年5月3日土曜日

戦国丹後国人名事典

------------------------------------------------------

【あ】

赤尾但馬守【あかおたじまのかみ(15??~15??)】

足利義昭家臣。木津城主。1582年、一色義俊勢に属して細川藤孝と戦い下岡城で討死した。

粟屋丹後守【あわたたんごのかみ(15??~1555)】

加佐郡高屋城主。1554年、高浜城主逸見駿河守の攻撃を受け大嶋但馬守とともに反撃を行った。粟屋丹後守は討死したが逸見駿河守勢は撃退した。

石川直経【いしかわなおつね(14??~15??)】

与謝郡加悦城主。1516年、丹後国守護職一色義清の勢力を弱まると、丹波国は与謝郡加悦城主石川直経、与謝郡宮津城主小倉播磨守、熊野郡久美浜城主伊賀右京亮が国の奉行として、丹後国を三分割して支配した。一色義清勢の加悦城主石川直経と、一色九郎を戴く丹後国守護代府中城主延永春信が争い丹後国は内乱状態となった。この内紛に便乗して、武田元信勢が丹後国に侵入し、丹後国は「国錯乱」と称されるほど激しい戦火が繰り返された。この戦いでは、石川直経が敗北して加佐郡まで後退した。1517年、延永春信勢が若狭国に侵攻すると、高浜城主逸見河内守が、武田元信に謀反を起こし延永春信に属した。武田元信には石川直経、朝倉孝景、一色義清、細川高国、足利義種、朽木種広らが加勢した。延永春信勢は加佐郡倉橋城に籠城したが敗退し一色九郎とともに宮津城に落延びた。

石川浄雲斎【いしかわじょううんさい(15??~15??)】

与謝郡亀島城主。1579年、細川藤孝、明智光秀勢に降伏した。

石川秀門【いしかわひでかど(15??~1582)】

与謝郡幾地城主。通称左衛門尉。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

一色義有【いっしきよしあり(15??~15??)】

加佐郡建部山城主。一色義遠の男(一色義直の養子)。丹後国守護職。1498年、宗家の一色義秀が自刃すると丹後国守護職を相続した。1503年、守護代延永春信と加悦城主石川直経らが抗争し、丹後国内は混乱を極めた。1506年、管領細川政元の命を受けて丹後国に侵攻した丹波国守護細川澄之、細川政賢、若狭守護武田元信勢の攻撃を受けるが延永春信、石川直経とともにこれを撃退した。1507年、細川家臣赤沢朝経を討取るなど戦功挙げた。1514年、但馬国の山名祐豊が熊野郡久美浜に侵攻し、その機に乗じ若狭国守護職武田元信がまた普甲峠を越えて宮津に攻め込んで来たが撃退した。

一色義幸【いっしきよしゆき(15??~15??)】

一色教親の男。官途は左京大夫。武田元光と丹後国、若狭国の支配権をめぐってたびたび争った。

一色義道【いっしきよしみち(15??~1579)】

一色義幸の次男。官途は式部大夫。1558年、父一色義幸の隠居により一色家の家督を相続した。弟一色義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせた。1570年、上洛して足利義昭とともに能を見物した。1575年、一色義道は織田信長勢に属して「越前一向一揆攻め」に参陣し、丹後国海賊衆を率いて越前国沿岸部を襲撃した。その戦功により丹後国を安堵された。「比叡山焼き討ち」よって追われた僧侶を匿うなど織田信長と対立し 。1579年、一色義道が病没すると細川藤孝勢が丹後国に侵攻した。細川藤孝勢を一度は撃退した。再度、細川藤孝、細川忠興父子が侵攻してきた。沼田清延が内応したため衆寡敵せず、建部山城から打って出て討死した。

一色義俊【いっしきよしとし(15??~1582)】

一色義道の男。官途は左京権大夫。通称五郎。別名一色義有。室は細川藤孝の娘(伊也姫)。剛勇に優れ、父一色義道とともに織田信長勢の細川藤孝の丹後国侵攻を度々撃退した。1579年、父一色義道の討死後も与謝郡弓木城に籠城して激しく抵抗したが明智光秀を仲介により細川藤孝の娘を娶って和議を結んだ。一色義俊は弓木城20,000石を領し、丹後国を分割統治した。中郡、竹野郡、熊野郡の奥丹後国を領した。細川藤孝は加佐郡、与謝郡を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死後の「山崎の戦い」では明智光秀勢に属した。細川藤孝、細川忠興父子は丹後国の掌握を目指して一色義俊を宮津城に呼寄せ謀殺した。

一色義清【いっしきよしきよ(15??~1582)】

中郡吉原城主。一色義幸の三男。官途は左京大夫。別名吉原西雲。甥一色義俊が細川藤孝に謀殺されると一色宗家の家督を相続して弓木城に入った。1579年、明智光秀勢に敗れた丹波の波多野家の残党が落延びそれを匿った。1582年、細川藤孝勢の松井康之、米田求政の攻撃を受け討死した。

稲富直時【いなどめなおとき(15??~15??)】

与謝郡弓木城主。一色義有家臣。別名稲富祐秀。官途は相模守。佐々木義国に砲術を学び、独自の工夫を加えた。

稲富直秀【いなどめなおひで(15??~15??)】

稲富直時の男。

稲富祐直【いなどめすけなお(1551~1611)】

稲富直秀の男。官途は伊賀守。通称弥四郎。祖父直時に鉄砲術を学び、稲富流(一夢流)を創始した。一色家没落により新たに丹後領主となった細川藤孝に属した。1598年、「慶長の役」に参陣して「蔚山城の戦い」で戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では大坂の細川家邸にあってガラシャ夫人の警護の任についた。石田三成勢の襲撃を受けてガラシャ夫人を守れずに逃げかえり、細川忠興の激怒を買った。執拗に奉公構えをされたが、稲富祐直の鉄砲術を惜しむ松平元康の取り成しを受けて、松平忠吉、松平義直に仕えた。

井上佐渡守【いのうえさどのかみ(15??~1579)】

小寺山城主。1579年、細川藤孝、明智光秀勢と戦い討死した。

岩田丹波守【いわたたんばのかみ(15??~15??)】

長良城主。一色家臣。1582年、細川藤孝の家臣松井康之勢の攻撃を受け落城した。

上野甚太夫【うえのじんだいふ(15??~15??)】

上世屋城主。上野秀政の男。足利義昭の滅亡後に丹後国に来て、一色松丸に仕えた。

氏家大和守【うじいえやまとのかみ【(15??~15??)】

一色義有家臣。熊野郡代。

江木豊後守【えぎぶんごのかみ(15??~1582)】

倉椅山城主。1582年、細川藤孝勢と戦い討死した。

大江越中守【おおええっちゅうのかみ(15??~1582)】

一色義俊家臣。与謝郡延利城主。別名成吉越中守。1582年、細川藤孝が一色義俊を宮津城を招こうとしたた際、一色義俊は家老衆の大江越中守と杉山出羽守をこの是非を問うた。大江越中守は反対したが、杉山出羽守は、このまま自滅の途をたどるよりもかえって、細川藤孝を討取るべきだと主張した。

大谷成家【おおたにしげいえ(15??~1582)】

近藤善明家臣。官途は刑部左衛門。足利義昭の滅亡の後丹後国に落延び吉原城代近藤善明に仕えた。吉原城落城後、但馬国へ落延びる途中細川興元の家臣沢田仙太郎に討取られた。

小国友重【おぐにともしげ(15??~1582)】

佐野備前守家臣。官途は若狭守。1582年、細川藤孝の家臣松井康之勢の攻撃を受けた際、佐野備前守は佐野城で籠城し、小国友重は友重城に籠城したが討死した。佐野備前守は落延びた。

小倉播磨守【おぐらはりまのかみ(15??~1581)】

与謝郡宮津城主。一色家五家老衆のひとり。丹後海賊衆を率いた。1578年、細川藤孝から攻撃を受けたが撃退した。明智光秀の加勢を受けた細川藤孝が再度侵攻、宮津城に籠城するが討死した。

小倉筑前守【(15??~15??)】

小倉播磨守。宿野山城主。

------------------------------------------------------

【か】

金谷伊豆守【かなやいずのかみ(15??~1582)】

与謝郡石川城主。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

北庄鬚九郎【きたのしょうびんくろう(15??~15??)】

惣村城主。1579年、細川藤孝、明智光秀の攻撃を受け降伏した。

刑部玄蕃亮【ぎょうぶげんばのじょう(15??~1582)】

与謝郡枝の城主。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

栗田内膳正【くりたないぜんのじょう(15??~1582)】

鳥取城主。一色義有家臣。1582年、細川藤孝の家臣松井康之の攻撃を受け討死した。

河島一宣【くわしまかずのぶ(15??~15??)】

高妻山城主。官途は越前守。通称左衛門尉。1565年、足利義輝が松永久秀に謀殺後丹後国に落延びた。1570年、織田信長に属して、丹後国海賊衆を率いて越前国に侵攻し浦々に放火した。

小出左京進【こいでさきょうのしん(15??~15??)】

一色義有家臣。田原城主。1578年、細川藤孝、細川忠興父子と明智光秀による丹後国侵攻では、一色義俊とともに戦った。田原城主小出左京進、大島城主千賀伊賀守、伊根城主島津藤兵衛、亀山城主倉内通倫、岩ヶ鼻主橋本豊後守らは細川藤孝勢に属さず奥丹後地方に勢力を維持した。1582年、一色義俊、一色義清が討死すると、細川藤孝勢の攻撃を受けた。小出左京進、千賀伊賀守、島津藤兵衛、倉内将監、橋本豊後守らは大島城に籠城して戦ったが千賀山城守以外は討死した。

小西宗雄【こにしそうゆう(15??~15??)】

松倉周防守家臣。1582年、松倉周防守の討死後、細川藤孝の家臣松井康之勢の攻撃を受け、小西宗雄と香久山勝右衛門は城から落延びた。

小西石見守【こにしいわみのかみ(15??~1582)】

一色義清家臣。日村岳城主。小西政盛の男。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

駒沢主水【こまざわもんど(15??~1575)】

由良城主。1575年、吉川元春の警固衆が尼子勝久を支援する由良城を攻落した。

近藤善明【こんどうよしあき(15??~1582)】

一色義清家臣。官途は玄蕃頭。一色義清が宗家を継ぐぎ弓木城に移った後吉原城の城代に任じられた。細川藤孝の攻撃を三日三晩耐えたがついに落城し、嫡男近藤光明とともに討死した。

近藤光明【こんどうみつあき(15??~1582)】

近藤善明の男。官途は兵庫允。1582年、父近藤善明とともに戦うが討死した。

------------------------------------------------------

【さ】

桜井豊前守【さくらいぶぜんのかみ(15??~15??)】

一色義俊家臣。浜村城主。1575年、一色義俊が織田信長に属して、越前国侵攻した際には一色義道とともに丹後国海賊衆を率いて参陣した。細川藤孝の丹後国侵攻の際には、細川藤孝は桜井豊前守一色義俊との和平交渉を提案した。一色義俊が謀殺されると羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ嶽の戦い」で戦功を挙げた。

佐野備前守【さのびぜんのかみ(15??~1582)】

一色義有家臣。意布伎城主。1582年、細川藤孝の家臣松井康之勢の攻撃を受け、友重城主小国友重、大井城主牧左京進とともに意布伎城に籠城して抵抗したが松井康之勢の攻撃により討死した。

白杉主税【しろすぎしゅぜん(15??~15??)】

名木館主。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け降伏した。

杉山出羽守【すぎやまでわのかみ(15??~15??)】

一色義俊家臣。石丸城主。1582年、細川藤孝が一色義俊を宮津城を招こうとしたた際、一色義俊は家老衆の大江越中守と杉山出羽守をこの是非を問うた。大江越中守は反対したが、杉山出羽守は、このまま自滅の途をたどるよりもかえって、細川藤孝を討取るべきだと主張した。

------------------------------------------------------

【た】

高岡貞正【たかおかさだまさ(15??~15??)】

与謝郡男山城主。官途は出羽守。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

高屋良栄【たかやりょうえい(15??~1582)】

一色義俊家臣。下岡城主。官途は駿河守。別名高屋良閑。1582年、細川藤孝と一色義清の戦いでは弟高屋治部左衛門、木津城主赤尾但馬守、高橋城今井能世次郎、日和田城主松本内蔵之助らと共に籠城した。細川興元勢の攻撃を受け落城、高屋良閑、高屋遠江守は討死した。

高屋遠江守【たかやとおとうみのかみ(15??~1582)】

高屋良栄の男。1582年、細川藤孝と一色義清の戦いでは弟高屋治部左衛門、木津城主赤尾但馬守、高橋城今井能世次郎、日和田城主松本内蔵之助らと共に籠城した。細川興元勢の攻撃を受け落城、高屋良閑、高屋遠江守は討死した。

田辺小太夫【たなべこへいた(15??~15??)】

須津城主。別名大内季武。1582年、一色義清が討たれた後、細川藤孝に属した。

千賀兵太夫【ちがひょうだいふ(15??~15??)】

小倉播磨守家臣。大島城主。1578年、細川藤孝、細川忠興父子と明智光秀による丹後国侵攻では、小倉播磨守とともに戦った。1581年、小倉播磨守の討死後も田原城主小出左京進、大島城主千賀伊賀守、伊根城主島津藤兵衛、亀山城主倉内通倫、岩ヶ鼻主橋本豊後守らは細川藤孝勢に属さず奥丹後地方に勢力を維持した。1582年、一色義俊、一色義清が討死すると、細川藤孝勢の攻撃を受けた。小出左京進、千賀伊賀守、島津藤兵衛、倉内将監、橋本豊後守らは大島城に籠城して戦ったが千賀山城守以外は討死した。

------------------------------------------------------

【な】

沼田幸兵衛【ぬまたよしべい(15??~15??)】

一色義道家臣。中山城主。1579年、細川藤孝勢によって建部山城を攻め落とされた際、一色義道は中山城に落延びた。沼田幸兵衛が細川藤孝に内応して逃げ場を失った一色義道は中山城で自刃した。

野尻隠岐守【のじりおきのかみ(15??~15??)】

竹野郡野尻城主。

野村将監【のむらしょうげん(15??~15??)】

小倉播磨守家臣。大久保山城主。1578年、細川藤孝、細川忠興父子と明智光秀勢の攻撃を受け小倉播磨守が討死すると細川藤孝に降伏した。1600年、「関ヶ原の役」では石田三成勢に属する小野木重勝の兵15,000余りに包囲された田辺城に嫡男野村小藤次とともに兵糧を運び込んだ。

延永春信【のべながはるのぶ(15??~15??)】

府中城主。丹波守護代。通称修理進。1501年、武田元信が丹後国守護職に任じられて、守護代延永春信を置いた。延永春信が石川直経と対立し、それに武田元信の丹後国侵入が加わって丹後国内は混乱状態となった。1507年、丹後守護職一色義有と、若狭守護職武田元信との合戦が行われた。1517年、若狭国守護代逸見河内守が丹後守護代延永春信と謀り、若狭守護武田元信を攻撃するが、 武田元信は幕府に救援を求め、連合軍の朝倉孝景、朽木稙綱に追われて逸見河内守勢力は失墜した。丹後国に敗走した延永春信は倉梯城に籠城したが討死した。

------------------------------------------------------

【は】

橋本豊後守【はしもとぶんごのかみ(15??~1582)】

一色義有家臣。岩ヶ鼻城主。1578年、細川藤孝、細川忠興父子と明智光秀による丹後国侵攻では、一色義俊とともに戦った。田原城主小出左京進、大島城主千賀伊賀守、伊根城主島津藤兵衛、亀山城主倉内通倫、岩ヶ鼻主橋本豊後守らは細川藤孝勢に属さず奥丹後地方に勢力を維持した。1582年、一色義俊、一色義清が討死すると、細川藤孝勢の攻撃を受けた。小出左京進、千賀伊賀守、島津藤兵衛、倉内将監、橋本豊後守らは大島城に籠城して戦ったが千賀山城守以外は討死した。

疋田孫太郎【ひきたまごたろう(15??~15??)】

与謝郡温江城主。足利義輝家臣。足利義輝が謀殺されると一色松丸に仕えた。

藤田左衛門尉【ふじたさえもんのじょう(15??~1582)】

与謝郡谷垣城主。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

------------------------------------------------------

【ま】

松倉周防守【まつくらすぼうのかみ(15??~15??)】

松倉城主。一色義道家臣。1576年、織田信長は細川藤孝に命じて丹後に侵攻させました。しかし丹後守護職一色義道の抵抗にあい、明智光秀は丹波国に退却した。1577年、細川藤孝は一色家中を懐柔して明智光秀の援軍を得て丹後にふたたび侵攻すると孤立した一色義道は討死した。一色義定が弓木城に籠り細川藤孝勢に徹底抗戦したため、細川藤孝は一色義定に娘伊也を娶らせ和睦した。その後、細川藤孝が南丹後国を、一色義定が北丹後国を支配した。1582年、「山崎の戦」では、一色義定は明智光秀方に属した。その後、一色義定は細川藤孝の攻撃を受けて滅亡した。久美浜城は細川藤孝家臣松井康之の攻撃を受けて落城し、松倉周防守は討死した。

松田頼通【まつだよりみち(15??~1582)】

一色義有家臣。日ヶ谷城主。官途は山城守。1582年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

三上宗寶【みかみそうほう(15??~15??)】

一色義有家臣。志高城主。

三上近江守【みかみおおみのかみ(15??~1579)】

足利義昭家臣。加佐郡佐武嶽城主。1579年、細川藤孝、細川忠興父子と明智光秀による丹後国侵攻で討死した。

三富豊前守【みとみぶぜんのかみ(15??~15??)】

与謝郡泊城主。丹波国海賊衆のひとり。1582年、一色義俊が諸将を弓木城に参集させた際、三富豊前守は丹後国海賊衆を率いて参陣した。

三富左馬亮【みとみさうまのじょう(15??~15??)】

与謝郡菅野城主。1578年、丹後国に侵攻した細川藤孝勢に伊根城主島津藤兵衛と連携し海賊衆を編成して対抗した。

三野対馬守【みのつしまのかみ(15??~1572)】

与謝郡本庄城主。1572年、落城した。

森脇宗坡【もりわきそうは(15??~15??)】

加佐郡女布城主。一色義有家臣。官途は相模守。1556年、 森脇宗坡の娘は隣村に嫁いだが、里帰りのため女布城に向う途中に大蛇に食われてしまった。森脇宗坡は弓とやり で敵討ちに向い、大蛇を死闘の末に退治すると、その体の長さは五丈三尺。三つに切断し、頭部を雨引神社、胴体を中之森神社、尾は尾森神社に祭って供養した。1579年、細川藤孝勢の攻撃を受け降伏後、帰農した。

------------------------------------------------------

【や】

矢野満俊【やのみちとし(15??~1582)】

加佐郡溝尻城主。通称藤一郎。織田信長の勢力が丹後国に及ぶと織田信長に属して越前国一向一揆との参陣した。1581年、一色義俊が20,000石を与えられたときに4,500石を領した。1582年、「本能寺の変」後、明智光秀に属して細川藤孝勢の討取られた。

由利助之進【ゆりすけのしん(15??~1579)】

丹波城主。1579年、細川藤孝勢の攻撃を受け討死した。

------------------------------------------------------

【資料Ⅰ】

丹後国(6郡/180,000石)

加佐郡:倉梯城、田辺城、建部山城。
北与謝郡:今熊野城。
南与謝郡:加悦城、宮津城。
中郡 (丹波郡):
竹野郡:吉沢城、堤籠屋城。
熊野郡:久美浜城。

------------------------------------------------------

【資料Ⅱ】

調査中。

------------------------------------------------------

【資料Ⅲ】

丹後国【たんごのくに】

丹後半島を主とする山陰道の国。南西で但馬国、南東で丹波国と接し、北は長い海岸線で日本海に面する。東は若狭湾の西端から若狭国と繋がり、西は丹後山地で但馬国との国境を作る。国土は全般に山がちでわずかに竹野川と由良川の流域に平野部が存在する程度である。北部は太鼓山を中心とした丹後半島が日本海に突き出し、その南には宮津湾と舞鶴湾の良港を抱え、日本海方面への海上交通に有利な位置にある。特に中国大陸、朝鮮半島との交通の便がよく、大陸との交流も盛んであった。

由良川【ゆらがわ】

丹後国、北近江国、若狭国の境にあたる丹波高地の三国岳の杉尾峠に源を発し若狭湾に注ぐ河川。河口の宮津津は、かつては由良川水運の湊として栄えた。

天橋立【あまのはしだて】

天橋立は、宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルある湾口砂州。2万年前に宮津湾が完全陸地化して後、約7~8千年前に氷河期が終わって海面上昇が落ち着くなか当初水中堆積で発達が始まり、縄文時代の後氷期に急速に成長し、2~3千年前に地震により大量に流出した土砂により海上に姿をみせ、有史時代に現在の姿にまで成長した。古代より景勝の地として知られ、平安時代の百人一首の小式部内侍に「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」と詠まれた。

如願寺【じょうがんじ】

一色家の菩提寺。1024年、皇慶上人が創建した。丹後国守護職一色家臣小倉播磨守から庇護され寺運が隆盛した。一色義道と細川藤孝との兵火により30余りあった堂宇が尽く焼失した。その後、領主となった細川忠興が天正年間に再興した。

------------------------------------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

------------------------------------------------------