2014年7月4日金曜日

戦国北紀伊国人名事典

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【あ】

阿弥陀院大弐【あみだいんだいに(15??~1560)】

根来衆の目頭。長宗我部国親に傭兵として属した。1560年、本山茂辰と長宗我部国親の「戸の本の戦い」では、阿弥陀院大弐は、本山茂辰勢に属した佐竹義昌に討たれた。

医王院正算【いおういんかずまさ(15??~1582)】

那賀郡寺尾壇砦主。根来寺門徒衆の目頭。1582年、織田信長勢と戦い討死した。

五輪作右衛門【いつわさくざえもん(15??~15??)】

根来衆の目頭。別名鱸作右衛門。1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こすと援軍として摂津国花熊城に籠城した。

井上主計【いのえかずさ(15??~15??)】

根来衆の目頭。

乾重本【いぬいしげもと(15??~15??)】

十ヶ郷直川郷の豪族衆。通称源内太夫。

乾藤四郎【いぬいとうしろう(15??~15??)】

乾源内太夫の男。

今井兼行【いまいかねゆき(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。通称権七。近江国武佐の一向門徒衆で雑賀に転居した。

岩室坊清祐【いわむろぼうきよすけ(15??~1585)】

雑賀衆の目頭。通称岩室坊勢誉。根来寺四旗頭のひとつ岩室坊の門主。1585年、「小牧、長久手の戦い」では松平元康に属したため、羽柴秀吉の「第二次紀州討伐」で討伐された。1600年、甥の岩室坊勢祐は毛利輝元に仕えた。

植松平大夫【うえまつひらだゆう(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。雑賀衆の勢力のひとつ湊衆。湊衆は鈴木重秀、岡吉正と共闘したり争ったりした集団で、北西部沿岸を支配し海運業や海賊に従事した。1572年、細川真之、三好長好の依頼で雑賀衆は植松平大夫は久保町の才助、湊の佐々木形部、鷺森の佐竹義昌らとともに鉄砲衆3,000余りを率いて阿波国に参陣した。

太田定久【おおたさだひさ(1531~1590)】

那賀郡太田城主。通称源三太夫。北紀伊国の四郡(伊都、那賀、名草、海部)には高野山、粉河寺衆、根来寺衆という三大寺社勢力と、太田党、雑賀党という二大在地領主の勢力があり、五つの勢力が互いに牽制しあいながらも共存し、他からの勢力の侵入を排除していた。太田党は雑賀党と抗争を繰り広げた。1585年、「小牧長久手の戦い」の際は松平元康の招きに応じて戦った。羽柴秀吉の「第二次紀州征伐」では居城を水攻めされた。

太田宗正【おおたむねまさ(15??~1585)】

太田定久の男。通称左近。1585年、羽柴秀吉の「第二次紀州討伐」では根来衆と結んで徹底抗戦したが、衆寡敵せず太田城に退去し籠城した。羽柴秀吉勢の堀秀政の3,000余りと長谷川秀一の3,000余りの計6,000余りで攻撃したが、待ち伏せに遭い敗退した。この敗北により羽柴秀吉勢は太田城に堤を築いて水攻を行った。増水するにつれて籠城に次第に物心両面で衰えが見え始め、蜂須賀正勝、前野長康の説得に応じて、太田左近をはじめ五十三名が自刃して開城した。

太田宗俊【おおたねとし(15??~15??)】

太田定久家臣。通称次郎右衛門刑部。

岡崎義重【おかざきよししげ(15??~15??)】

中郷岡崎の豪族衆。通称太郎左衛門。

岡崎三郎大夫【おかざきさぶろうだいふ(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。岡崎義重の弟。1577年、畠山貞政に応じて蜂起した。根来衆らが撃破され、鈴木孫一、土橋若大夫らと織田信長に降伏した。織田信長は朱印状を出して雑賀衆を許し全軍を撤退させたが、この際の降伏は名目上のことで、その直後から雑賀衆は織田信長に対して挙兵した。

岡五郎左衛門【おかごろうざえもん(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。室は土橋平次の妹。1549年、湊家との合戦で負傷した。佐竹義昌らに護衛されながら中之島に戻った。

岡吉正【おかよしまさ(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。通称太郎次郎。石山本願寺に籠城し鈴木重秀とともに織田信長勢と戦った。鉄砲の名手で、本願寺攻めの陣頭に立つ織田信長を狙撃し、大腿部に重傷を負わせた。石山本願寺が織田信長に降伏すると、雑賀衆内に意見の相違があり、織田信長に恭順派であった鈴木重秀らと、根来衆とも関係深く反織田派の土橋守重らとの間で激しい対立が起こり、後に土橋守重が鈴木重秀により謀殺された。土橋家枝連衆は土佐国に落延びた。岡吉正は、鈴木重秀が権力を握った雑賀衆に属した。1582年、「本能寺の変」後、鈴木重秀は織田信長勢の支援を失い、長宗我部元親、根来衆らの支援を受けた土橋守重勢に反撃され北紀伊国を追われたが岡岡吉正は雑賀荘に留った。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」では早々に降伏し土橋派雑賀衆の早期崩壊の要因となった。

岡了順【おかりょうじゅん(15??~15??)】

雑賀荘岡の土豪衆。一向門徒年寄衆。浄光寺末。

奥大蔵【おくおおくら(15??~15??)】

那賀郡荒川荘の領主。根来衆の目頭。別名奥野大蔵。弟奥小密茶とともに根来寺惣福院で根来衆の行人として修行、特に弓や鉄砲の扱いに優れた。鈴木重幸とともに、根来忍者の頭領として織田信長勢を苦しめ縦横無尽の働きを見せた。1584年、河内国国見で雑賀衆、根来衆と羽柴秀吉勢の中村一氏との「和泉岸和田の戦い」では、奥大蔵は弟奥小密茶とともに六十挺の鉄炮衆を指揮し殿を務め、二十挺ずつ三班に分け、一斑ごとに撃たせて弾幕を張り、このため寄せ手は追尾することができなかった。

奥小密茶【おくこみっちゃ(15??~15??)】

奥大蔵の弟。別名奥野右京。兄奥大蔵とともに根来寺惣福院で根来衆の行人として修行、特に弓や鉄砲の扱いに優れた。鈴木重幸とともに、根来忍者の頭領として織田信長勢を苦しめ縦横無尽の働きを見せた。1584年、雑賀衆、根来衆(奥大蔵、奥小密茶、愛染院、鳴神左衛門、根来大膳、福永院の和泉坊、帰一坊、須一坊、無至坊、赤城坊は千石堀、積善寺、浜之城三ヶ所の取手から羽柴秀吉勢の岸和田城主中村一氏を攻撃した。中村一氏勢も和泉海賊衆の淡輪隆重、鍋島貞成、松浦肥前守の支援を受け雑賀衆、根来衆を撃退した。奥小密茶は兄奥大蔵と共に六十挺の鉄炮衆を指揮し殿を務め、二十挺ずつ三隊に分け、一隊ごとに撃たせて弾幕を張り、寄せ手の追尾を許さなかった。1585年、羽柴秀吉の「第二次紀州征伐」では、小密茶が詰めていた千石堀城も攻撃をうけ堀秀政、筒井順慶、長谷川秀一、田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方らの猛攻を受けた。城主大谷左太仁法印と副将の的一坊、三番鳥坊らは善戦したが、羽柴秀吉勢の放った火矢が城の火薬庫に引火し、城内で大爆発を起こしたため落城した。根来寺が羽柴秀吉に滅ぼされると小密茶は、熊取盛重、和泉坊と福永院養泉、愛染院長算とその鳴神左衛門尉貞次や紀州雑賀衆の土橋重治、渡辺藤左衛門ら十六人とともに松平元康に仕えた。1614年、羽柴秀頼勢として根来衆の残党や荒川荘の鉄砲衆百人を連れて大坂城に入った。1619年、兄奥大蔵とともに紀州浅野家に仕えて300石を領した。

奥義弘【おくよしひろ(15??~15??)】

那賀郡安楽川荘上野村の領主。根来衆の目頭。官途は出羽守。別名奥延之。郷士で高野山を守護する家柄。

奥重政【おくしげまさ(1560~1612)】

奥義弘の男。通称弥兵衛。別名奥野弥兵衛。根来衆の砲術家。父奥義弘ととのに多くの戦いに参陣した。1575年、津田算正、津田算長に属して根来寺に入り砲術を学んだ。織田信長や羽柴秀吉勢と戦った。1590年、奥家の家督を相続した。1592年、天瑞寺に寄進された10,000石の管理を巡り、吉仲荘調月村の中勝助と対立した。1595年、氏家行広に仕えて鉄砲組組頭となった。1600年、「関ヶ原の役」では氏家行広が石田三成勢に属したため、所領を失い浪人となった。その後、紀州藩主となる浅野幸長が弥兵衛の砲術に興味を示し、1600年、浅野幸長に仕えて、谷衛友に属して1,000石を領した。

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【か】

花王院快応【かおういんかいおう(15??~15??)】

那賀郡茂原薬師砦主。畠山昭高の男。1572年、大和宇智郡の寺領を巡り戦いに及んだ。高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心で、全国に170,000石の寺社領を領する北紀伊国の勢力であった。1580年、荒木村重の家臣五人が高野山に落延びると、織田信長は前田利家と不破光治を高野山に差向け五人を引き渡すように命じたが高野山金剛峰寺はこれを拒否した。堺政所の松井友閑の手勢が高野山で謀殺されると、織田信長は報復として諸国の高野聖を捕縛を命じた。高野山は朝廷に働きかけ織田信長との和議工作を継続した。織田信長も宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に出すなど交渉を続けた。1581年、織田信長は高野聖数百人を安土において処刑するとともに、織田信孝を総大将に堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らで高野山を攻撃した。高野山金剛峰寺は伊都郡、那賀郡、有田郡の領内の門徒衆を動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙、学文路口に花王院快応を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、織田信長降伏の祈祷を行った。織田信長勢と高野山門徒衆は各所で戦ったが、織田信長の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城を攻撃した。南蓮上院弁仙と橋口重藤らがこれを防ぎ、竹田藤内ら四将を討取る戦功を挙げた。

亀井重堅【かめいしげかた(15??~15??)】

亀井重次の男。殺人の罪を犯し、根来寺に逃げ込んだ。根来衆徒として織田信長勢と戦った。根来寺が敗れると松平元康、蒲生氏郷、松平忠隆らに仕えた。

河崎定珍【かわさきじょうちん(15??~15??)】

雑賀衆架空の軍師。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」では根来左太仁とともに千石堀城に入城した。筒井順慶が放った火矢が城内の火薬に引火、落城、討死した。

岸忠次郎【きしちゅうじろう(15??~15??)】

雑賀海賊衆の目頭。湊衆のひとり。

狐島吉次【きつねじまよしつぐ(15??~15??)】

雑賀海賊衆の目頭。通常左衛門大夫。別名島本吉次。十ヶ郷狐島土豪。別名狐島。1577年、鈴木重秀とともに織田信長に抵抗するが降伏した。本願寺顕如と本願寺教如が織田信長への降伏を巡る対立では、狐島吉次は本願寺教如を支持した。鈴木重秀による本願寺教如派の土橋守重の謀殺や本願寺教如が石山本願寺へ退去したことによって、織田信長に降伏した。1576年、「第一次木津川口の戦い」では、雑賀海賊衆を率いて参陣した。石山本願寺城への兵糧搬入を目的とした毛利輝元勢の海賊衆、小早川景隆の海賊衆、村上武吉の海賊衆、雑賀海賊衆を中心とする海賊衆と織田信長の海賊衆が「第二次木津川口の戦い」で織田信長の海賊衆に壊滅的な打撃を与えた。織田信長勢では真鍋七五三兵衛、沼野伝内、沼野伊賀守、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、小畑大隅守、野口与市兵衛らが討死した。1580年、本願教如が織田信長に降伏した後も、本願寺顕如の男本願寺教如が徹底抗戦を唱えると、これを支持して戦いの継続した。

木本左近太郎【きもとうこんたろう(15??~15??)】

那賀郡十ヶ郷豪族衆。別名田中左太郎。

木本甚太夫【きもよじんさいふ(15??~15??)】

那賀郡十ヶ郷豪族衆。別名田中甚太夫。

栗村三郎太夫【くりむらさぶろうだいふ(15??~15??)】 

雑賀衆の目頭。雑賀荘粟村の豪族衆、土橋家枝連衆。織田信長が雑賀衆に大規模な攻撃を仕かけた後、雑賀衆は織田信長勢に降伏したが、その降伏した雑賀の頭目として鈴木重秀、宮本兵部、土橋守重、岡吉正らとともに署名した。

小佐次盛重【こさつぎもりしげ(15??~15??)】

日根郡熊取荘領主。根来衆の目頭。別名熊取大納言坊。1585年、「第二次紀州討伐」では、和泉国大鳥郡高井城の籠城するも、福島正則勢の攻撃を受け落城した。後に松平元康に仕え根来右京と称して3,400石を領した。1582年、小佐次盛重は大森神社を再建した。

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【さ】

坂井与四郎【さかいよしろう(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。鈴木重秀と畿内各地を転戦していた。本願寺が石山本願寺城に籠城し、織田信長勢と戦った際、鈴木重秀や佐竹義昌とともに参陣して戦功を挙げた。1580年、石山本願寺は、織田信長との戦いに敗れて降伏するが、本願寺顕如の男本願寺教如が徹底抗戦を訴えて、主戦派とともに石山本願寺城に籠城した。織田信長の攻撃を受け、本願寺教如は紀伊国の雑賀衆を頼って落延びた。鈴木重秀と坂井与四郎は本願寺顕如、本願寺教如とともに、織田信長勢と戦いを続けた。1582年、「本能寺の変」 で織田信長が討死により全滅は免れた。

佐々木 刑部助【ささきぎょうぶのすけ(15??~15??)】

北紀伊国紀之湊の商人。紀之湊一帯を支配し、鉄砲隊と海賊衆を率いて傭兵活動を行った雑賀衆の有力者で関東地方にまで商船を派遣して商売を行った廻船商人。1586年、佐々木刑部助は紀之湊を拠点とし、後北条家領国への海上交易に参入を図り、後北条家臣海賊衆の梶原備前守を窓口に後北条家領との交易を行なった。

佐竹允昌【さたけいんまさ(15??~15??)】

足利義輝家臣。永禄年間に鷺森城2,000石を領した。
 
佐竹源大夫【さたけげんだいふ(15??~15??)】

佐竹允昌の男。1557年、「中之島の戦い」に参陣した。佐竹源大夫は佐竹義昌や鈴木重秀らとともに土橋家の留守居役を務めた。
  
佐竹義昌【さたけよしまさ(1538~1620)】

佐竹允昌の次男。官途は伊賀守。通称源左衛門。別名佐武義昌。1549年、鉄砲の訓練を受け湊高秀と岡吉正の戦いで初陣を果たした。1555年、根来寺へ入山し福宝院の行人となって修行した。根来の蓮花谷と菩提谷が争うと福宝院は蓮花谷に属していたため 佐竹義昌も参陣した。土佐国に渡り長宗我部国親と対立していた本山茂辰に属した。1560年、「戸の本の戦い」では本山茂辰勢として長宗我部国親、長宗我部元親勢と戦うが本山茂辰勢が敗退、佐竹義昌も敗走し雑賀に戻った。1570年、「石山本願寺城の戦い」では鈴木重秀とともに織田信長と戦い、織田信長による「第一次紀州征伐」でも戦功を挙げた。1585年、羽柴秀吉の「第二次紀州討伐」では、佐竹義昌は的場昌長とともに大将として奮戦し、雑賀城を守った。雑賀衆、根来衆の主力が壊滅した後も抵抗を続けた。その後、佐竹義昌は南紀伊国熊野の山中に落延び、征伐後に紀伊国を領した浅野幸長に1,000石で仕え、街の再興や寺院の再建に尽力した。

佐竹甚右衛門【さたけじんざえもん(15??~15??)】

佐竹義昌の男。1637年、浅野長晟が広島城420,000石に転封されるとそれに従った。
 
佐竹源大夫【さたけげんだいふ(15??~15??)】

佐竹義昌の男。紀伊松平徳川頼宣に仕えた。

山東孫之丞【さんどうまごのじょう(15??~15??)】

山東庄地侍。山東三之右衛門、乾源内太夫らとともに織田信長、羽柴秀吉と戦い続けた。

三宝院長政【さんぽういんながまさ(15??~15??)】

那賀郡地蔵ヶ峰砦主。根来寺門徒衆の目頭。1581年、那賀郡に侵攻した織田信長勢の織田信孝、堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らと戦った。

芝辻清右衛門【しばつじせいえもん(15??~15??)】

根来衆の鍛冶屋。本州で初めて鉄砲の製作を行った鉄砲鍛冶。根来衆の刀剣鍛冶だったのだが、津田算長が種子島から持ち帰った鉄砲の製造を依頼された。刀剣鍛冶の技術を応用して量産化に成功、雑賀衆、根来衆は鉄砲集団へと変わっていった。その後堺街に移住し、そこで工房を開いた。堺ではすでにポルトガルから輸入された鉄砲の取引が行われていたため、彼の鉄砲生産技術も合わさって、堺の町は鉄砲の一大生産地となった。子孫も鉄砲鍛冶の技術を受け継ぎ、江戸時代に鉄砲の製作を請け負っていた「五鍛冶」として、その技術を伝えた。

島宗近【しまむねちか(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。通称與四郎。十ヶ郷坂井谷土豪の豪族衆。雑賀衆の内紛を見た織田信長は織田信孝、丹羽長秀ら150,000余りで北紀伊国に侵攻した。本願寺顕如が隠棲していた鷺森御坊を攻撃するが、的場昌長はこれにいち早く駆けつけ、鈴木重秀、和歌玄意、三井遊松軒、島與四郎、関掃部守ら200余りで守り抜いた。

庄司加仁右衛門【しょうじかにざえもん(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。1576年、本願寺顕如は織田信長勢の攻撃に備え、雑賀衆にも参陣を求めた。この時、鈴木重秀、的場昌長、庄司加仁右衛門が大将となり、馬上百騎、鉄炮千挺を率いて参戦した。

白石永仙【しらいしえいせん(15??~1601)】

根来寺衆の目頭。1585年、羽柴秀吉による焼き討ちにより、白石永仙は日向国に落延びて広済寺の住職になった。そこで伊集院忠真と知り合い、兵法に通じていたために請われて還俗しその客将となった。1599年、伊集院忠真の父伊集院忠棟が謀反の疑いで島津忠恒に謀殺されると、伊集院忠真は枝連衆や家臣団と対応を合議した。白石永仙は旧領安堵を請うべきとする家臣団を抑え徹底抗戦を唱えた。伊集院忠真は白石永仙の献策を入れ、島津義久に対して反旗を翻した。伊集院忠真勢は十二の城に籠城した。白石永仙は伏兵を隠して、少数の騎馬隊を率いて山田城を攻撃した。山田城主鎌田政近の援将川上忠兄は、将兵を誘きよせる策略であると気付き追わぬよう進言したが、将兵は逃げる白石永仙を勇んで追い、伏兵に散々に討取られた。1600年、松平元康の調停により伊集院忠真が降伏し乱は終息した。白石永仙は伊集院忠真に謀反を勧めたこと、伏兵を用いて沢山の将兵を殺害したことを咎められ頸を刎ねられた。

鈴木重意【すずきしげおき(1511~1585)】

海部郡中野城主。雑賀衆の頭目。通称佐大夫。1562年、「教興寺の戦い」に参陣した。1570年、本願寺顕如が三好三人衆を支援した際、鈴木重意は根来衆とともに600余の鉄砲隊を率いて織田信長勢と戦い佐々成政を負傷させた。織田信長勢と本願寺顕如勢が続くと、鈴木重意は石山本願寺城で鉄砲隊を指揮して織田信長勢と戦った。1577年、織田信長勢の「紀州征伐」で、雑賀衆三組(中郷、社家郷、南郷)が織田信長勢に降伏した後も、織田信長勢の攻撃を受け降伏した。織田信長が北紀伊国から撤退すると、鈴木重意は雑賀三組を追討し、本願寺顕如と結んで織田信長勢を攻撃した。1580年、本願寺顕如が織田信長と和議を結ぶと、鈴木重意も本願寺顕如の仲介を受けて織田信長に降った。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、雑賀党は独立した勢力として割拠した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では松平元康勢に属した。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」では鈴木重意は徹底抗戦したが、兵力と物量の差により降伏したが謀殺された。

鈴木重兼【すずきしげかね(1540~1589)】

鈴木重意の男。別名平井孫一。北紀伊国内で政治面で重責を担った。

鈴木重秀【すずきしげひで(1546~1586)】

鈴木重意の次男。別名雑賀孫一。室は土橋若大夫の娘。鈴木重秀は下間頼廉と並んで「大坂之左右之大将」と称された。1570年、「石山本願寺の戦い」では雑賀衆とともに参陣して織田信長勢と戦った。1575年、「天王寺の戦い」では原田直政を討取る戦功を挙げた。この後も鈴木重秀は毛利輝元勢による石山本願寺城への補給手配のために播磨国に赴いたり、織田信長の「第一次雑賀討伐」を迎撃したり、織田信長に謀反を起こした荒木村重の援軍に赴いたりと各地の戦場で戦功を挙げた。反織田信長勢力が各個撃破され、雑賀衆も内紛を起こし、本願寺顕如が降伏すると雑賀衆も織田信長と和議を結んだ。1581年、雑賀衆の勢力争いから鈴木重秀は織田信長の支援を受けて土橋若大夫を謀殺した。1582年、「本能寺の変」が起こると、和泉国岸和田城主織田信張のもとに落延びた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では根来衆、雑賀衆らの紀州勢とともに織田信雄、松平元康の連合軍に属して和泉国で羽柴秀吉勢と戦った。

鈴木金兵衛【すずききんべい(15??~15??)】

鈴木重意の三男。織田信長勢とは南近江方面で戦った。1582年、「賤ヶ岳の戦い」では羽柴秀吉勢として参陣して戦功を挙げた。1585年、「小牧、長久手の戦い」にも羽柴秀吉勢として参陣した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。

鈴木重朝【すずきしげとも(1561~15??)】

鈴木重秀の男。父鈴木重秀や弟鈴木重次らとともに本願寺顕如に協力して織田信長と戦った。1585年、羽柴秀吉による「第二次紀州征伐」で雑賀衆が滅亡すると、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在番した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「伏見城の戦い」で先鋒となって一番乗りを果たし、伏見城に籠もる鳥居元忠を討取った。役後は浪人し、伊達政宗に仕え、後に伊達政宗の仲介により松平元康に仕え3,000石を領した。松平頼房が南常陸国水戸城主に任じられると附家老職として仕えた。

鈴木重次【すずきしげつぐ(1598~1664)】

鈴木重朝の男。1616年、松平秀忠に3,000石で仕えた。その後、父鈴木重朝が松平頼房に仕えたので、鈴木重次も3,000石で仕えた。鈴木重次は松平頼房の十一男を養子に迎えた。
 
鈴木金大夫【すずきかねだいふ(15??~15??)】

鈴木重朝の次男。

鈴木重幸【すずきしげゆき(15??~15??)】

雑賀衆架空の軍師。官途は飛騨守。知勇兼備の名将で、本願寺顕如に属して戦功を重ねた。「石山本願寺城の戦い」でも戦功を挙げた。1578年、織田信長の暗殺を京都に侵入したが返り討ちに遭った。

杉之坊三宝院【すぎのぼうさんぽういん(15??~15??)】

根来寺杉之坊門主。1556年、泉識坊威徳院と争った。

西方院覚心【せいほういんかくしん(15??~15??)】

那賀郡庵ノ砦主。根来寺門徒衆の目頭。1581年、那賀郡に侵攻した織田信長勢の織田信孝、堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らと戦った。

関掃部太夫【せきかもんだいふ(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。1580年、本願寺顕如が織田信長に降伏後、雑賀衆を頼って落延びた本願寺顕如を擁して鈴木重秀とともに織田信長勢と最後まで戦った。1582年、雑賀衆の内紛を見た織田信長は織田信孝、丹羽長秀ら150,000余りで北紀伊国に侵攻した。本願寺顕如が隠棲していた鷺森御坊を攻撃するが、的場昌長はこれにいち早く駆けつけ、鈴木重秀、和歌玄意、三井遊松軒、島與四郎、関掃部守ら200余りで守り抜いた。

全光院覚応【ぜんこういんえいおう(15??~15??)】

花王院快応家臣。根来寺門徒衆の目頭。1582年、織田信長勢の侵攻に備えて西尾山砦を守備した。

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【た】

大光明院覚乗【だいこういんかくじょう(15??~15??)】

伊都郡雲路ノ砦主。根来寺門徒衆の目頭。1581年、伊都郡に侵攻した織田信長勢の織田信孝、堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らと戦った。

智荘厳院【ちそうげんいん(15??~15??)】

伊都郡槇ノ砦主。根来寺門徒衆の目頭。1581年、伊都郡に侵攻した織田信長勢の織田信孝、堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らと戦った。

津田算長【つだかずなが(1499~1568)】

那賀郡吐前城主。河内国交野郡津田城主津田正信の男。官途は監物。根来寺四旗頭のひとつ杉ノ坊門主。別名杉ノ坊算長。津田流砲術の祖。根来衆は北紀伊国高野山の仏教勢力で20,000余りの僧兵と傭兵を持つ勢力。津田算長は、根来寺三旗頭院のひとつ杉ノ坊を率いた。自ら種子島に渡り、種子島時堯から種子島銃を買い、職人芝辻清右衛門に鉄砲を複製させた。鉄砲技術を算長が畿内に持ち込んだ事によって、紀伊国、堺などは鉄砲の大量生産国となった。

津田算正【つだかずまさ(1585~1585)】

津田算長の男。官途は監物。通称太郎左衛門。根来寺西口の旗頭。1568年、父津田算長の病没を受けて津田家の家督を相続した。1577年、織田信長に仕えて和泉国佐野城主として雑賀衆の備えを任された。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、松平元康勢に属して参戦して、羽柴秀吉勢の背後を脅した。1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」に対して抗戦するも根来寺が陥落し討死した。

津田照算【つだしょうざん(15??~1585)】

津田算長の次男(津田妙算の養子)。別名杉ノ坊照算。叔父杉ノ坊明算の養子になり杉ノ坊院主となった。根来寺僧兵を率いた。算長創始の津田流砲術を継承し自由斎流の開祖。1585年、羽柴秀吉を苦しめたが「紀州征伐」において増田長盛勢と戦い討死した。

津田妙算【つだたえかず(15??~1585)】

津田算行の男。別名杉ノ坊明算。兄津田算長に命じられて、火縄銃による武装化を命じられた。

津田有直【つだありなお(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。通称四郎大夫。1577年、雑賀三絡衆とともに織田信長に属した。

土橋重隆【どばししげさと(15??~15??)】

雑賀衆の筆頭目頭。雑賀荘粟村を領した。雑賀衆の中でも大きな地位を占めながら、根来衆に代表を送り込むほどの勢力を有した。

土橋守重【つちばしもりしげ(15??~1582)】

土橋重隆の男。通称若太夫。鈴木重秀とともに石山本願寺に協力して、織田信長と敵対して三好三人衆に援軍を送るなどした。1577年、鈴木重秀とともに織田信長に降伏したが親織田信長派の鈴木重秀と反織田信長派の土橋守重との間で対立が起きた。1582年、鈴木重秀によって土橋守重は謀殺された。弟土橋重治は兄土橋守重が謀殺されると、籠城したが織田信張勢の攻撃を受け長宗我部元親のもとへ落延びた。

土橋重治【つちばししげはる(15??~15??)】

土橋重隆の次男。本願寺顕如とともに織田信長勢に抵抗した。1582年、鈴木重秀によって兄土橋守重が謀殺されると、居城に籠って織田信長に徹底抗戦するが、織田信張勢の攻撃を受け長宗我部元親を頼って土佐国に落延びた。1582年、「本能寺の変」後、雑賀荘へ戻った。羽柴秀吉に家臣として招かれるも、仇敵の鈴木重秀と同輩になることを嫌い断った。1585年、羽柴秀吉の「紀州討伐」雑賀攻めで抗戦するも、砦を攻落され土佐国へ落延びた。

土橋兵大夫【どばしへいだいふ(15??~1582)】

雑賀衆の目頭。室は土橋若大夫の娘。1582年、鈴木重秀ととも義父土橋若大夫を謀殺した。織田信長が「本能寺の変」で討死すると、雑賀衆は反織田信長を打ち立てて蜂起した。鈴木重秀は和泉国岸和田城に落延びたが、土橋兵大夫は雑賀衆に討取られた。
 
土橋小左衛門【どばしこざえもん(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。室は土橋若大夫の娘。1582年、相婿の鈴木重秀とともに義父土橋若大夫を謀殺した。織田信長が「本能寺の変」で討死すると雑賀衆は蜂起。追われる身となった土橋小左衛門は生き延びることが出来たが、土橋兵大夫は討取られた。
 
土橋平之丞【どばしへいのじょう(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。毛利輝元勢の救援のために羽柴秀吉勢と戦った。羽柴秀吉の「第二次紀州討伐」で攻撃を受け落延びた。
 
土橋春継【どばしはるつぐ(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。1580年、本願寺顕如は石山本願寺城を退去し、鷺森城に移ったが、本願寺教如ら反織田信長勢は石山本願寺城に残った。織田信長は雑賀衆の土橋晴継、土橋胤継ら有力者に起請文を出させ、戦闘に加わらないよう確約させた。

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【な】

長坂泉徳院【ながさかせんとくいん(15??~15??)】

根来衆の目頭。1554年、根来寺の蓮花谷と菩提谷の二地方が争った際、長坂泉徳院は福宝寺で修行中の佐竹伊賀守と戦い、長巻で斬りつけた。佐竹伊賀守は鎧を切られ、退いた。

中村吉正【なかむらまさよし(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。浄光寺方及び本脇射箭頭八幡宮宮司職。通称源左衛門九郎。十ヶ郷本脇門を領した。

中島孫六郎【なかじままごろくろう(15??~15??)】

別名中嶋孫太郎。鈴木孫一の兄。

南蓮上院弁仙【なんれんじょういんべせん(15??~15??)】

伊都郡飯盛山砦主。遊佐信教の男。1572年、大和宇智郡の寺領を巡り戦いに及んだ。高野山は真言宗の本山として比叡山と並ぶ信仰の中心で、全国に170,000石の寺社領を領する北紀伊国の勢力であった。1580年、荒木村重の家臣五人が高野山に落延びると、織田信長は前田利家と不破光治を高野山に差向け五人を引き渡すように命じたが高野山金剛峰寺はこれを拒否した。堺政所の松井友閑の手勢が高野山で謀殺されると、織田信長は報復として諸国の高野聖を捕縛を命じた。高野山は朝廷に働きかけ織田信長との和議工作を継続した。織田信長も宇智郡の領有権を認める朱印状を高野山に出すなど交渉を続けた。1581年、織田信長は高野聖数百人を安土において処刑するとともに、織田信孝を総大将に堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らで高野山を攻撃した。高野山金剛峰寺は伊都郡、那賀郡、有田郡の領内の門徒衆を動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙、学文路口に花王院快応を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、織田信長降伏の祈祷を行った。織田信長勢と高野山門徒衆は各所で戦ったが、織田信長の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城を攻撃した。南蓮上院弁仙と橋口重藤らがこれを防ぎ、竹田藤内ら四将を討取る戦功を挙げた。

根来寺玉宝【ねごろじぎょくほう(15??~15??)】

根来衆の目頭。1570年、河内国古橋城に籠城、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と結んだ雑賀衆の攻撃を受け落城した。

根来寺千識坊【ねごろじせんしきぼう(15??~1582)】

根来寺東口の旗頭。土橋守重の男。根来寺四旗頭のひとつ泉識坊の門主。1582年、雑賀衆の内部対立で、父土橋守重が鈴木重秀に討取られた。叔父土橋重治とともに挙兵したが。織田信長勢の野々村正成と戦い討死した。

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【は】

橋口重藤【はしぐちしげふじ(15??~15??)】

伊都郡雨壺山砦主。高野山の軍師。通称隼人。1581年、織田信長は高野聖数百人を安土において処刑するとともに、織田信孝を総大将に堀秀政、岡田重孝、松山庄五郎、筒井藤政、筒井定次らで高野山を攻撃した。高野山金剛峰寺は伊都郡、那賀郡、有田郡の領内の門徒衆を動員し、軍師橋口隼人を中心に「高野七砦」をはじめとする多数の砦を築いた。そして西の麻生津口と北の学文路口を特に重視して、麻生津口に南蓮上院弁仙、学文路口に花王院快応を大将として配置した。また学侶方の老練の僧が交替で護摩を焚き、織田信長降伏の祈祷を行った。織田信長勢と高野山門徒衆は各所で戦ったが、織田信長の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山城を攻撃した。南蓮上院弁仙と橋口重藤らがこれを防ぎ、竹田藤内ら四将を討取る戦功を挙げた。

平井義兼【ひらいよしかね(15??~1589)】

鈴木重意の三男。通称孫市郎。外交や内政などの政治的な分野や裏方とて傭兵の管理や兵站などで活躍した。1585年、羽柴秀吉の「紀州討伐」を受け降伏した。

福宝院【ふくほういん(15??~15??)】

福宝院門主。泉識坊に属した。1554年、西谷の者と争うた際、敵の攻撃で転倒するが、根来寺は敵の頸は取らないことを寺法として定めていたため、命を拾いをした。

藤井太郎左衛門【ふじいたろうざえもん(15??~15??)】

本願寺顕如家臣。一向門徒衆。

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【ま】

松江定久【まつださだひさ(15??~15??)】

雑賀の海賊衆目頭。通称源三大夫。別名松田源三大夫。十ヶ郷松江中村を領した。鈴木重秀、湊高秀らとともに織田信長に抵抗した。1576年、織田信長と戦端を開いた本願寺顕如から鉄砲衆500余りの派遣を依頼された。織田信長勢の攻撃を受け鈴木重秀、宮本兵部、土橋守重、岡吉正らとともに降参した。

松江新之丞【まつえしんのじょう(15??~15??)】

根来衆の目頭。1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こすと援軍として摂津国花熊城に籠城した。

的場源内大夫【まとばげんないだいふ(15??~15??)】

海部郡中之島館主。雑賀衆の目頭。

的場昌清【まとばまさきよ(15??~15??)】

的場源内大夫の男。通称七郎左衛門尉。別名的場源次郎往経。父的場源内大夫とともに足利将軍義輝に仕えた。1576年、雑賀荘と南郷が戦った「井ノ松原の戦い」で討死した。

的場昌長【まとばまさなが(15??~15??)】

的場源内大夫の次男。通称源四郎。猛将と称され鈴木重秀とともに畿内各地を転戦した。鈴木重秀ととも石山本願寺城に籠城する本願寺の救援に向かい、織田信長勢を撃退した。北紀伊国に落延びてきた本願寺顕如 をかばって鈴木重秀が織田信長勢と戦った際にも、鈴木重秀とともに織田信長勢と抗戦した。1582年、織田信長の討死後、鈴木重秀が雑賀衆を去った後も雑賀の残った。羽柴秀吉による雑賀侵攻では佐竹義昌ととも抵抗したが多勢に無勢で敗れ、敵中突破して落延びた。

三井遊松軒【みついゆうまつけん(15??~15??)】

本願寺顕如家臣。雑賀衆の内紛を見た織田信長は織田信孝、丹羽長秀らが北紀伊国に侵攻し、本願寺顕如が隠棲していた鷺森御坊を攻撃すると、的場昌長は援軍として駆けつけ、鈴木重秀、和歌玄意、三井遊松軒、島與四郎、関掃部守らとともに鷺森御坊を守り抜いた。

湊高秀【みなとたかひで(15??~15??)】

雑賀衆の目頭。通称平太夫。別名宮本兵部太夫。鈴木重秀とともに織田信長勢と戦った。1577年、織田信長勢の北紀伊国侵攻によって織田信長に降伏した。その後も織田信長との戦いを訴えた。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると松平元康と結んで羽柴秀吉に対抗したが討伐を受けて降伏した。その後は羽柴秀吉に属した。

向井強右衛門尉【むかいすええもん(15??~15??)】

雑賀海賊衆。村上武吉から瀬戸内海の航海の安全を保証する過所旗を受けた。

木食応其【もくじきおうご(1536~1608)】

六角義秀の男。真言宗の僧。1572年、誓願寺の勧進聖であったが高野山の宝性院政遍に迎えられ客僧となった。木食苦行して小野、広沢の二法流を受け、仁和寺任助親王の室に入って阿闍梨位を会得した。1585年、羽柴秀吉と高野山金剛峯寺との間を斡旋して高野山の地位を安泰に導いた。1587年、羽柴秀吉と島津義久との和議交渉での力を尽くした。また高野山内に興山寺と秀吉の母大政所の菩提所、青巌寺を創建した。1591年、検地に際し非法が発覚した際にもとりなした。羽柴秀吉は、「高野の木食」ではなく「木食の高野」であると称した。1595年、「羽柴秀次事件」により、羽柴秀次が青巌寺で自刃すると、仏教五戒のうちの殺生を行うことを認めざるを得ない苦しい立場に追いやられた。1600年「関ヶ原の役」では、伊勢国安濃津城主富田信高や近江国大津城主京極高次との開城交渉にあたった。役後石田三成勢との内通を疑われ、近江国飯道寺に隠棲した。著書に『無言抄』。

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【や】

山本弘忠【やまもとひろただ(15??~15??)】

本願寺顕如家臣。別名善内之介弘忠。一向門徒衆。

往来左京【ゆききさきょう(15??~15??)】

根来衆の荒法師。1562年、「和泉久米田の戦い」では、畠山高政勢の傭兵として参陣し三好義賢を討取った。その際、三好義賢の小姓や近習らも悉く討死した。

和歌玄意【わかげんい(15??~15??)】

一向門徒衆。和歌浦土豪衆のひとり。1582年、雑賀衆の内紛を見た織田信長勢は織田信孝を大将に丹羽長秀らが北紀伊国に侵攻した。本願寺顕如が隠棲していた鷺森御坊を攻撃するが、的場昌長はこれにいち早く駆けつけ、鈴木重秀、和歌玄意、三井遊松軒、島與四郎、関掃部守ら200余りで守り抜いた。

渡辺藤左衛門【わたなべとうざえもん(15??~15??)】

根来衆の目頭。根来衆の猛将として恐れられた。土橋平之丞とともに羽柴秀吉と戦った。織田信長と敵対した石山本願寺城に籠城した際、雑賀孫市とともに本願寺の援軍に向かった雑賀の武将のひとり。石山本願寺城を攻撃した織田信長勢と戦いこれを撃退した。毛利輝元の勧誘によって荒木村重が寝返った際、鈴木重秀とともに尼崎城に籠城した。

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【資料Ⅰ】

北紀伊国(4郡/262,000石)

伊都郡:霜山城。
那賀郡:根来城。
名草郡:大野城。
海部郡:雑賀城。

※北紀伊国という国は存在しません。個人的趣味として紀伊国を北紀伊国と南紀伊国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

根来衆【ねごろしゅう】

紀伊国北部の根来寺を中心とする一帯に居住した僧兵たちの集団。根来寺は、大塔の建築や舗装道路、多数の礼拝施設が造られ、境内が大規模に整備された。院98、僧坊2,700、寺領720,000石、僧兵10,000余りを擁し、その勢力は北紀伊国から和泉国、河内国にまで及んだ。根来寺には新義真言宗の教学を学ぶ衆徒と、寺院経営の実務を執り行う行人がいたが、戦国期になると行人の 組織が大きな力を持つようになっていった。北紀伊国や泉南の豪族衆は高野山内に行人方の院を建て、子弟を出家させて住職とした。実家を武力を背景として行人の主力となり、水利権をめぐって紀伊守護職畠山高政と争う武装集団に成長した。種子島から鉄砲を伝えた津田算長の弟津田明算は杉之坊の院主として根来寺西口の旗頭で最も大きな勢力持っていた。東口の旗頭岩室坊は那賀郡豪族衆の田中家が代々僧院を世襲した。泉識坊は、雑賀衆の土橋守重が院主を配し、土橋泉識坊は遠く安房国や土佐国の長曽我部国親の動乱にも参陣し。阿加井坊順海は傭兵ととして各地を転戦した。根来寺の生活を支えるため門前街の西坂本は商工業街となり、漆器や鍛冶の職人が集住し、甲冑や武具の製造も行なわれた。四坊の一つ杉之坊の院主である津田算長は、熊野船に乗って紀州と種子島との航路を往来し、根来寺の力を背景に 貿易を盛んに行った。津田算長は中国語、葡萄牙語を解した。種子島にもたびたび訪れていた。1544年、種子島に渡った津田算長は種子島時堯から 鉄炮を得て根来に持ち帰った。津田算長は根来西坂本の芝辻鍛刀場、芝辻清右衛門妙西に複製を作らせた。弟津田明算と共に鉄砲の生産を産業化し、根来衆を鉄砲で武装させた。根来衆は新兵器鉄炮に練達した傭兵集団として各地の大名に雇われて戦働きをした。1585年、「小牧、長久手の戦い」では松平元康勢に属して大坂城を攻撃した。松平元康と和議を結んだ羽柴秀吉は「第二次紀州征伐」を行った。根来衆は根来大善(霜盛重)を中心に抵抗した。

雑賀衆【さいがしゅう】

雑賀荘、十ヶ郷、宮(社家)郷、中郷、南(三上)郷の五郷を以って雑賀衆と称された。人口200,000、鉄砲3,000挺、動員兵数30,000余で、戦国時代最大の惣国一揆だが、各郷の有力家の争いが絶えなかった。雑賀荘の十ヶ郷は一向(浄土真宗)門徒の鈴木重秀をはじめ、浄土宗の土橋重隆や岡吉正、粟国氏、狐島吉次、松田、宮本、渡辺藤左衛門などが寄合を形成して鉄砲衆や海賊衆を束ねていた。雑賀衆の中心的な一門である鈴木重秀と土橋重隆は仲が悪く、鈴木重秀は後に土橋を謀殺した。また宮郷の日前宮の神宮を勤める太田党は宮(社家)郷のほかにも中郷、南(三上)郷の国人たちと共闘し、鈴木と何度も戦った。この三郷は特に三緘衆とも呼ばれ、農耕を由とした一団のようで、羽柴秀吉の紀州攻めにも最後まで抵抗し、壮絶な水攻めの後、滅亡した。

粉河寺【こかわでら】

北紀伊国那賀郡粉河にある天台宗系の粉河観音宗総本山。本尊は千手千眼観音菩薩。770年、大伴孔子古によって創建された。戦国時代になると巨大な僧兵軍団を抱える寺となり40,000石を領した。粉河寺の僧徒には、衆徒方、行人方、方衆方三集団があり、衆徒方の有カな学頭坊の御池坊があって、その学頭法印が別当となって寺務を執った。行人方と方衆方の大部分は寺領内の土豪、地侍で、身分の違いから互いに抗争を繰り広げながらも勢力を拡大した。1585年、羽柴秀吉の「第二次紀州討伐」で、粉河寺は根来寺などとともに焼き払われた。

紀之湊【きのみなと】

紀淡海峡東側の紀ノ川河口部に位置した湊街。雑賀荘や上流の根来寺、高野山などの外港を担い、広域を結ぶ廻船が発着するなど和歌山平野の経済の中心として栄えた。1498年、「明応大地震」により、砂丘が決壊して紀ノ川の流れが変わり、その影響で壊滅した和田浦の住人が、新たな紀ノ川河口部となった雑賀荘湊地域に移住して形成された。1586年、紀之湊の商人佐々木刑部助が関東の北条氏政から商船の乗り入れを許可された。紀之湊は西方へも航行したとみられ、土佐国や薩摩国などとも交易を行った。雑賀衆は焔硝の販売で廻船業で財を蓄え、中国から直接に焔硝などを調達した。

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【資料Ⅲ】

北紀伊国【みなみきいのくに】

紀伊半島の先端部を占める南海道の国。北は和泉国、河内国と接し、東端の北部で伊勢国と国境を分ける。東部から西部にかけての広い範囲で大和国の南部を取り囲み、西端は紀淡海峡を挟んで淡路国、紀伊水道を隔てて阿波国、土佐国と向い合う。南部は太平洋の黒潮が長い海岸線を洗い、三方を海に囲まれた地形になる。平城京、平安京といった古代の都に近く、古くから栄えた地域である。国土の大部分は和泉山脈、長峰山脈、白馬山脈、大塔山脈といった山地で占められ、山がちで平地は乏しいが、山間部では雨量が多く気候も温暖なため山林が豊富であり、古来から良質な木材を産した。牟婁郡の熊野三山は密教系の修験者の道場として独自的な文化を持っていた。平地は紀ノ川、熊野川など河川の流域に点在しているが、その中でも紀ノ川流域の雑賀地域では、古くから大規模な灌漑が行なわれて農業の水準も高く、雑賀衆と呼ばれる豪族衆が勢力を持った。良質な木材と長い海岸線の至るところに存在する良湊によって発達した熊野海賊衆や高野山から分派した真言宗根来寺の信徒勢力も大きな力を持っていた。

紀ノ川【きのかわ】

紀の川は、大和国から北紀伊国へと流れ紀伊水道に注ぐ水系の本流。河川法上の名称は「紀の川」であるが大和国内では大和南部の地名「吉野」に因み「吉野川」と称されている。1584年、「小牧、長久手の戦い」において根来寺、雑賀衆、太田党は松平元康に属して、羽柴秀吉への敵対姿勢を強めた。1585年、羽柴秀吉は、羽柴秀長、羽柴秀次とともに兵60,000余りを率い「第二次紀州征伐」を行った。根来寺を焼き討ちした羽柴秀吉勢は・太田城を攻撃したが太田党の奇襲による大打撃を受けた。羽柴秀吉は明石則実に命じ堤を設計させ、紀ノ川を堰き止めて太田城を水没させる策に出た。全て人力であるにも関わらずわずか六日間で完成させたことになる。十分な籠城準備が出来ていなかった城内は10日余りで兵糧が尽き、蜂須賀正勝、前野長康の降伏勧告を受諾し太田城は開城した。城主である太田宗正を始め51名が自刃して戦いは終了した。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※雑賀孫市は鈴木重秀、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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