2014年9月14日日曜日

伊達晴宗家臣団事典

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【あ】 

網代伯耆守【あじろほうきのかみ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。置賜郡長手古城主。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封に従った。その際、弟網代奥右エ門をこの地に残し天満宮の宮守として奉仕させた。

栗野右衛門【あわのうざえもん(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡二色根館主。梨郷、関根、中山などに所領を安堵された。枝連衆の栗野弥八郎も中丸に所領を安堵された。

粟野秀用【あわのひでもち(15??~1595)】

栗野右衛門の男。官途は木工頭。通称喜左衛門。伊達輝宗の次男伊達政道の傅役であったが、伊達政道が伊達政宗に謀殺されたため伊達家を出奔した。その後、羽柴秀次に仕え伊予国松前城150,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して自刃した。

鮎貝盛宗【あゆかいもりむね(15??~15??)】

置賜郡鮎貝城主。官途は兵庫頭。1542年、「天文伊達の乱」では、伊達植宗勢に属し、最上義守の支援を受けて南下した。、伊達晴宗勢を一旦は破ったが、伊達晴宗勢は、宮村館主片倉伊賀守を中心に力を盛り返した。伊達晴宗勢は野川を越え鮎貝盛宗を攻め、成田の飯沢館、五十川の諸館を攻落し、鮎貝盛宗勢を蚕桑村まで押し戻した。伊達晴宗は「今般の忠節により宮一円、小山一円、火神台一円三ヶ所を之に下賜す。永代相違あるべからざるものなり」と安堵状を与えた。乱後は、所領安堵と「守護不入」の特権が認められた。

鮎貝宗重【あゆかいむねしげ(1555~1624)】

鮎貝盛宗の男。官途は安房守。通称日傾斎。別名鮎貝盛次。1574年、「芋川の戦い」で戦功を挙げた。家督を伊達政宗に譲った伊達輝宗を、隠居城の館山城が完成するまで私邸に迎えた。1587年、嫡男鮎貝宗信が、最上義光の勧めで謀反を企て鮎貝城で謀反を起こした。鮎貝宗重は鮎貝宗信を説得したが聞き入れられず、弟高玉茂兵衛が城主を勤める高玉城に退出した。鮎貝宗重は直ちに事態を伊達政宗に告げてこれを攻めてもらうよう要請した。伊達政宗は、湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。鮎貝宗信は最上義光に援軍を要請したが、援軍を得られなかった。鮎貝宗信は籠城を諦め、最上義光のもとに落延びた。1591年、「奥州再仕置き」により、伊達政宗が岩出山城に転封しる際、鮎貝宗重もこれに従った。

鮎貝宗信【あゆかいわむねのぶ(15??~15??)】

鮎貝宗重の男。通称藤太郎。別名鮎貝忠旨。室は最上義守の娘。1587年、最上義光の勧めで謀反を起こした。父鮎貝宗重は伊達政宗にこれを密告した。伊達政宗は、湯目景康、泉田重光、宮沢元実らの軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。鮎貝宗信は最上義光に援軍を要請したが、援軍を得られず、鮎貝宗信は籠城を諦め、最上義光のもとに落延びた。鮎貝城に残された家臣100余りは伊達政宗勢に討取られた。

鮎貝宗益【あゆかいむねます(15??~15??)】

鮎貝宗重の次男。官途は兵庫頭。通称長七郎。1587年、兄鮎貝宗信が伊達政宗に謀反を起し没落すると、鮎貝家の家督を相続した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封になるとそれに従い一家の家格の筆頭となった。本吉郡松崎で1,000石を領し、泊浜唐船番所の海防警備を務めた。

鮎貝忠宗【あゆかいただむね(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。1585年、伊達政宗の家督相続を猪苗代盛国が祝賀したため、返礼の書状を送った。

飯田小十郎【いいだこじゅうろう(15??~15??)】

片倉景重家臣。片倉景綱の母方の叔父。猛将で、片倉景綱の名は飯田小十郎にあやかった。

石田興純【いしだおきずみ(1589~1636)】

伊達政宗家臣。通称石田将監。石田家は伊達家の庶家。石田興純は伊達政宗の近習として仕えた。1614年、「大坂冬の陣」は伊達政宗勢の左翼を指揮した。伊達政宗が病没すると他の家臣十四名とともに殉死した。

石田常信【いしだつねのぶ(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称八郎兵衛。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

伊藤宗良【いとうむねよし(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。1536年、伊達稙宗とともに政事式目百七十九条である『塵芥集』を定めた。

伊藤肥前守【いとうひぜんのかみ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」では、高倉城を守備した。戦後、次男伊藤利蔵が加増された。1588年、片倉景綱邸で伊達政宗を招いての能興行があった。能が終わると伊藤肥前らは片倉景綱とともに獅子躍りを踊った。1588年、芦名義広との「郡山城の戦い」の評定に出席した。

氏家直通【うじいえなおみち(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称藤左衛門。1614年、「大坂冬の陣」には参陣した。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

遠藤基信【えんどうもとのぶ(1532~1585)】

中野宗時家臣。官途は山城守。通称文七郎。遠藤基信は信夫郡八丁目城下西光寺の住職の男。諸国を巡り、その後米沢を訪れ中野宗時に仕えた。後に中野宗時が伊達輝宗に謀反を起こしたとき、中野宗時の謀反を直前に知らせて、伊達輝宗に取り立てられた。外交手腕に優れており、織田信長、松平元康、北条氏照、柴田勝家らと頻繁に書状を取り交わして交渉を行った。織田信長と積極的に交誼するよう伊達輝宗に進言し、織田信長へ鷹や馬などの奥羽の特産を頻繁に贈った。後に伊達政宗の片腕となる片倉景綱を若年のうちに見い出し小姓に推挙した。1585年、伊達輝宗が畠山義継により拉致されて、伊達政宗に畠山義継もろとも銃撃されて討死すると伊達輝宗の墓前で殉死した。

遠藤宗信【えんどうむねのぶ(1572~1593)】

遠藤基信の男。通称文七郎。1585年、父遠藤基信が伊達輝宗に殉じて殉死したため遠藤家の家督を相続した。1588年、佐竹義重、岩城常隆連合との戦いでは田村城を死守するなど戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」でも伊達政宗に従い渡海し戦功を挙げた。一時出奔するが後に帰参した。1593年、京都で病没した。

遠藤玄信【えんどうげんしん(15??~15??)】

遠藤基信の次男。1593年、兄遠藤宗信の病没により遠藤家の家督を相続した。

遠藤盛利【えんどうもりとし(15??~15??)】

伊達政宗家臣。置賜郡志田館主。1591年、伊達政宗の岩出山城への転封には従わず置賜郡に残留した。1600年、「関ヶ原の役」では、越後長尾景勝に属して、上山方面軍の別働隊を指揮した。柏木峠と小穴峠を越えて塩崎の丘に陣を置いたが、この時に既に上山方面軍の本隊は最上義光勢の奇襲を受けて壊滅しており、遠藤盛利はこれ以上進軍できずに撤退した。二井宿まで撤退した遠藤盛利は、湯原の国人達が伊達家旧臣が寝返ったことを伝えられ、急いで街道の峠を抑えるために進軍し、玉ノ木原で湯原の軍勢と合戦となった。遠藤盛利は敗れて撤退するが、峠を越えて追撃してきた軍勢を静田橋で撃退した。

大立目右衛門【おおたちめうえもん(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。1553年、舟生彦五郎、中野常陸介、湯目式部、今野新左衛門らとともに横越郡の所領を安堵された。他に舟生式部の旧領も安堵され、舟生彦五郎、平大学助、鎌田与惣衛門も同様の処遇を受けた。枝連衆に大立目伊勢鶴、大立目彦江門らがいた。

大塚下総守【おおつかしもふさのかみ(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡大塚城主。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属した。この戦功により嫡男大塚将監と共に「守護不入」の特権を得った。

大塚縄頼【おおつかつなより(15??~15??)】

大塚下総守の男。官途は将監。林崎館を安堵された。

大塚宗頼【おおつかぬねより(15??~15??)】

大塚縄頼の男。通称左衛門佐。1589年、伊達政宗の岩出山城への転封に従った。

大町三河守【おおまちみかわのかみ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」で、嫡男大町源四郎とともに討死した。

岡和田昌真【おかわだまさざね(15??~1615)】 
 
片倉景綱家臣。通称太郎左衛門。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

小原縫殿助【おばらぬいのすけ(15??~1589)】

伊達政道家臣。1589年、伊達政道が伊達政宗に謀殺されると、伊達政道の遺体を長谷寺に埋葬し、その五十間離れた場所に埋葬するよう遺言し、殉死した。

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【か】

片倉景時【かたくらかげとき(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。置賜郡小桜城主。官途は伊豆守智勇兼備の名将。片倉家は加藤判官景廉を祖とし、その末裔が信州片倉村に住んでいた。建武年中大崎持詮に従って奥羽栗原郡に定住した。その後、片倉景時は伊達晴宗に仕え羽州置賜長井荘小松郷を領した。1542年、「伊達天文の乱」では伊達晴宗勢に属した。伊達稙宗勢の鮎貝盛宗、大立目朝安、最上義守の連合軍の南下を抑え、置賜郡内での伊達晴宗勢の勝利に貢献した。

片倉景親【かたくらかげちか(15??~15??)】

片倉景時の男。官途は壱岐守。通称意休斎。別名片倉頼高。父片倉景時の跡を継いで小桜城主となる。伊達輝宗、伊達政宗の二代に仕え、大内定綱への使者を務めた。伊達政宗が米沢城にいた頃、軍奉行として数々の戦に参陣した。弟片倉景重は米沢成島八幡神社の神職となった。嫡男片倉頼久が討死した後に、馬印を弟片倉景重の次男片倉景綱に譲った。

片倉景重【かたくらかげしげ(15??~15??)】

片倉景時の次男。官途は式部少輔。米沢八幡神主職。室は本沢真直の娘。先に鬼庭良直に嫁いでおり、鬼庭良直の娘を連れ子にしていた。

片倉景継【かたくらかげつぐ(15??~15??)】

片倉景重の男。

片倉景綱【かたくらかげつな(1557~1615)】

片倉景重の次男。官途は備中守。通称小十郎。室は矢内重定の娘。側室は上原五兵衛の娘。笛の名手。片倉景綱は遠藤基信に見出されて伊達輝宗の小姓に抜擢された。1575年、伊達輝宗の嫡男伊達政宗の近侍となった。疱瘡で片目を失った伊達政宗を補佐し、その知略で伊達政宗の参謀として活躍した。1585年、「人取橋の戦い」では伊達政宗を守り奮戦した。1589年、「摺上原の戦い」では第二陣を受け持ち、戦見物をしている農民たちに発砲して逃げさせた。これを味方の敗走と勘違いした芦名盛重勢は浮き足立ち敗走した。羽柴秀吉からの小田原参陣要求に伊達家では臣従するか、一戦交えるか揉めたが、片倉景綱は羽柴秀吉を蝿に例えて追い払ってもまた来ると言い、伊達政宗に参陣を決意させた。1592年、「文禄の役」でも活躍した。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝の白石城を攻略した。伊達成実や茂庭綱元とともに「伊達の三傑」と称された。

片倉重長【かたくらしげつな(1585~1659)】

片倉景綱の男。通称小十郎。室は針生盛直の娘。継室は真田信繁の娘(阿梅姫)。生まれた時、片倉景綱はまだ子が無い伊達政宗を慮って幼い重長を殺そうとした。片倉重長は美丈夫で評判であったために、想いを寄せる小早川秀秋に追い掛け回された。勇猛果敢で「鬼の小十郎」の異名をとった。1600年、「白石城の戦い」で父片倉景綱とともに参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では奮戦し、後藤又兵衛や薄田隼人など名だたる勇将の軍を撃破し討取った。父片倉重長に劣らぬ知勇兼備の武将として活躍した。

片倉藤左衛門【かたぎりとうざえもん(15??~16??)】

片倉景重家臣。1588年、「郡山の戦い」に参陣した。

北川宣勝【きたがわのぶかつ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。浜田景隆の男。通称治郎兵衛。諸事情で伊達家を出奔、北川宣勝と称して羽柴秀頼に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では大坂城八町目口を守って奮戦した。羽柴秀頼より長宗我部盛親を指揮下に置くよう命ぜられるが「私が長宗我部盛親の下に付くのが道理」と固辞した。1615年、「大坂夏の陣」では「道明寺の戦い」「天王寺、岡山の戦い」で奮戦するも力及ばず。大坂城落城後は山川賢信とともに八幡滝本坊に隠れたがのちに投降した。

木幡四郎右衛門【きはたしろうざえもん(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1600年、「松川の戦い」で、挙げた頸級を、位牌の描かれた敵の軍旗に包んで持ち帰った。その戦功により、位牌の軍旗は木幡四郎右衛門の軍旗として使用された。

国分景広【こくぶかげひろ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。金谷館主。通称左衛門尉。1537年、『塵芥集』制定を任された。1542年、「伊達天文の乱」で伊達稙宗勢に属したため、伊達晴宗によって改易された。

国分民部少輔【こくぶみんぶしょうゆ(15??~15??)】

置賜郡萩生城主。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗に属して、萩生郷の南方は浜田左馬助、北方は国分民部少輔他七名の在地領主に安堵された。

国分行信【こくぶゆきのぶ(15??~15??)】

国分民部少輔の男。1591年、伊達政宗の転封に従って奥州柴田郡成田邑に移住した。

虎哉宗乙【こさいそういつ(1530~1611)】

臨済宗の僧。美濃国の出身で快川紹喜の門下として首座を務めた。伊達輝宗の叔父康甫が住職を勤める東昌寺に寓居していた。1572年、伊達輝宗の要請で資福寺の住持となり、伊達政宗の師を勤めた。1575年、明人の翰林学士楊一龍が東昌寺に寄寓した際、宗乙と詩を唱和した。京都妙心寺の住持にもなった。1587年、討死を遂げた伊達輝宗のため、伊達政宗を開基として米沢の郊外遠山に覚範寺を開いた。1600年、覚範寺を仙台に移転し、松島瑞巌寺の再興を伊達政宗に勧め再建させた。

後藤信康【ごとうのぶやす(1555~1614)】

伊達輝宗家臣。湯目重弘の次男(後藤信家養子)。官途は肥前守。通称孫兵衛。知勇兼備の将で黄色の母衣を背負って戦ったことから「黄後藤」と称された。1585年、芦名盛隆勢を攻略の別働隊として米沢城から桧原峠を越え、桧原城を攻略し守備した。1591年、「佐沼城の戦い」で敵将山上内膳を一騎打ちで倒し「宮崎城の戦い」では夜襲をかけ落城させたが軍令違反で知行没収となった。仙台城築城では普請総奉行を勤めた。1614年、「大坂冬の陣」では参陣を命ぜられなかったことに抗議するため愛馬「五島」にまたがり城の本丸から飛び降りて死んだ。

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【さ】

佐久間義直【さくまよしなお(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称与惣右衛門。別名作間与惣右衛門。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

桜田資親【さくらだすけちか(15??~15??)】

桜ノ倉城主。1584年、家臣の安田勘左衛門は河股城普請奉行となり、巨大な城郭を完成させた。桜田資親は河股城付近の館を整備し、伊達政宗の大内定綱の攻略戦を支援した。1590年、「奥州仕置」により玉造郡吉岡館に転封した。

桜田基親【さくらだもとちか(15??~1632)】

桜田資親の男。1589年、「摺上原の戦い」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、伊達政宗に属して「白石城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1602年、仙台城の築城に伴って賦役している百姓らが暴動を起こしたことがあったが、鬼庭綱元とともにこれを鎮圧した。1602年、仙台城の築城の際、農民が暴動を起こした鬼庭綱元とともにこれを鎮圧した。1615年、伊達秀宗の附家老となり、伊予国宇和島城主伊達秀宗を補佐して1,900石を領した。宇和島城に転封する際、伊達政宗から30,000両を借用していたが、この返済に税収の3割があてられ家臣の多くが減俸を余儀なくされた。これに反対する桜田基親は惣奉行の山家公頼と対立した。1620年、大坂城石垣修築を命じられた伊達秀宗は山家公頼と桜田基親を奉行として派遣した。工事の進捗状況に関しての伊達秀宗に対する報告で桜田基親は伊達秀宗に山家公頼が不正をしていると讒言し、疑われた山家公頼は伊達秀宗に弁明して帰国し謹慎した。山家公頼は桜田基親勢により襲撃されて謀殺された。

佐藤九郎右衛門【さとうくろううざえもん(15??~1615)】

片倉景綱家臣。白石城下に居住。1603年、片倉景綱は新たに居城となった白石城に入城。その際、門に近い神宮寺村から入ると方位が悪いため、宮村の佐藤九郎右衛門宅に入り、吉日を選んで入城した。以後、佐藤九郎右衛門は片倉景綱に仕えた。

渋谷右馬充【しぶやううまのじょう(15??~15??)】

片倉景綱家臣。1615年、「道明寺の戦い」で薄田兼相を討取る戦功を挙げた。伊達政宗からその戦功を賞され、黄金二枚を賜った。

白岩義広【しらいしごしひろ(1554~1591)】

伊達輝宗家臣。一本柳館主。1588年、「大崎の戦い」では陣代として参陣した。1590年、「摺上原の戦い」では後備を務めるなど、各地の戦いで活躍した。1591年、「宮崎城の戦い」で鉄砲に撃たれ討死した。

鈴木元信【すずき もとのぶ(1555~1620)】

伊達政宗家臣。官途は和泉守。通称七右衛門。京都の茶人であったが、その縁で伊達政宗と知り合い家臣となった。行政能力、財務能力に優れた才能を持っていたことから、伊達政宗の厚い信任を受けて古川城1,500石を領した。伊達政宗が仙台を留守中には国家老として政務を執った。分限帳では2,464石ながら家臣団の筆頭となった。鈴木元信は、伊達政宗が天下人になること、伊達幕府ができることを夢見て、伊達政宗が天下を取ったときのための「憲法」や「条々」などを用意した。1620年、伊達政宗が天下を取ることもないだろうと悟ってそれらを全て焼き捨てさせた。

鈴木重信【すずきしげのぶ(15??~16??)】

鈴木元信の男。

須田親信【すだちかのぶ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。官途は伯耆守。1582年、伊達輝宗が畠山義継に謀殺されると殉死した。

須田伯耆守【すだほうきのかみ(15??~15??)】

須田親信の男。官途は伯耆守。1582年、父須田親信が殉死したにも関わらず重用されなかったために出奔した。会津に移り、伊達政宗が一揆を扇動し蒲生氏郷暗殺を企んでいると訴えた。

須田良邦【すだよしくに(15??~1615)】

片倉景綱家臣。通称弥平左衛門。1615年、片倉景綱との殉死を願い「大坂夏の陣」への参陣を辞退しようとしたが、片倉重綱から参陣を懇願され参陣し討死した。須田良邦の跡目は、大和田常元の嫡男須田良持を婿養子にして継がせた。

制野高義【せいのたかよし(15??~1615)】

片倉景綱家臣。官途は下総介。1615年、片倉景綱に殉じて殉死した六人のひとり。

瀬上中務【せがみなかつかさ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」では、中島伊勢守、桜田右兵衛とともに本宮城を守備した。

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【た】

大有康甫【だいゆうこうほ(1534~1618)】

伊達稙宗の十三男。東昌寺十四世住職。六歳で出家し、伊達家の外交僧として活躍した。東昌寺に滞在していた虎哉宗乙を伊達輝宗に伊達政宗の教育係として推挙した。1600年、千代北山に東昌寺を移した。伊達政宗が建立した東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、興福寺は伊達五山と称された。観音寺と興福寺は長井家が建てた資福寺に統合され、資福寺から伊達輝宗を弔う覚範寺が分かれ再び五山になった。

大林坊俊海【だいりんぼうしゅんかい(1567~15??)】

伊達政宗家臣。羽黒山の修験者。1585年、伊達政宗は諜報を担当する黒脛巾組を結成し首領に大林坊俊海に任じた。出羽三山は東北に大きな力を持ち、情報源として活用するには最適であった。1586年、「人取橋の戦い」において、圧倒的な数的不利に立たされた伊達政宗勢を救うため、敵の佐竹重義や芦名盛重の陣営に潜入し、流言飛語を用いて撤退させることに成功した。1589年、「摺上原の戦い」においても諜報活動に暗躍し、芦名盛重の備蓄状況や、戦場の天気などを伊達政宗へ進言することで戦況を有利に導いた。他にも最上義光の動向を伊達政宗に報告するなど優秀な間者であった。

高倉近江守【たかくらおおみのかみ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」で、高倉城を守備した。桑折摂津守らも同様に布陣した。大町高綱らは高倉で討死した。

高玉茂兵衛【たかたもへいえい(15??~15??)】

鮎貝盛宗の次男。置賜郡高玉城主。

高橋秀行【たかはしひでゆき(15??~15??)】

置賜郡高橋館主。伊達輝宗家臣。官途は筑前守。

伊達晴宗【だてはるむね(1519~1577)】

置賜郡米沢城主。伊達稙宗の男。官途は左京大夫。奥州探題職。室は岩城重隆の娘(久保姫)。1542年、弟伊達実元の越後上杉家養子問題が起こると中野宗時、桑折景長に擁立され、父伊達植宗を西山城に幽閉した。伊達稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、伊達稙宗が奥州諸侯を糾合して伊達晴宗に対抗した。1542年、「伊達天文の乱」が勃発した。伊達晴宗勢は劣勢であったが、伊達稙宗勢であった芦名盛氏、田村清顕、二階堂照行が寝返ったことから形勢が逆転した。1555年、奥州探題就任。懸田俊宗、懸田義宗父子を滅ぼした。奥州諸侯の二階堂盛義、岩城親隆、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗に養子に入れ、阿南姫(二階堂盛義室)、女子(伊達実元室)、女子(小梁川盛宗室)、彦姫(芦名盛興室)、女子(佐竹義重室)を輿入れさせた。中野宗時はじめ七人の家老衆に特権を与えたため守護権が弱体した。1564年、次男伊達輝宗に伊達家の家督を譲って隠居したが、実権は依然として伊達晴宗と中野宗時らが保持した。

伊達輝宗【だててるむね(1544~1585)】

伊達晴宗の次男。官途は左京大夫。室は最上義守の娘(義姫)。長兄岩城親隆は母方の祖父岩城重隆の養子となったため次男伊達輝宗が伊達家の家督を相続した。家中の実権を中野宗時、牧野久仲父子に握られていた。1570年、伊達輝宗は、中野宗時、牧野久仲を討伐した。この際、非協力的だったとして、小梁川盛宗、白石宗利、宮内宗忠らが処罰し、遠藤基信を登用した。1565年、芦名盛氏と戦ったが、和睦した。相馬盛胤に「金山城」「小斎城」を奪取された。1570年、最上義光と最上義守との「天正最上の乱」では、最上義守に属して派兵したが、義姫が伊達輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた。鬼庭良直や中野宗時の家臣遠藤基信を登用した。1575年、遠藤基信に命じて織田信長に鷹を贈り、北条氏政、柴田勝家と頻繁に書簡、進物をやりとりして友好関係を構築した。1578年、「御館の乱」では、芦名盛氏とともに長尾三郎景虎勢に属したが、新発田長敦、新発田重家に阻まれて北越後国に侵入することができなかった。1581年、新発田重家が長尾景勝に叛旗を翻すと、伊達輝宗は芦名盛隆とともに新発田重家を支援し、柴田勝家とも連携して北越後国への介入を続けた。伊具郡では、叔父亘理元宗が指揮を執り、相馬盛胤、相馬義胤父子と対抗したが劣勢に立たされた。1579年、田村清顕の娘(愛姫)を伊達政宗の室に迎えた。1582年、小斎城主佐藤為信の調略し、丸森城を奪還後相馬盛胤と和議を結んだ。1584年、伊達家の家督を伊達政宗に譲り隠居した。1585年、伊達政宗が小浜城主大内定綱、二本松城主畠山義継を攻略、大父定綱は芦名盛氏のもとに落延び、畠山義継は伊達政宗と和議を結んだが所領問題から畠山義継に謀殺された。

伊達政宗【だてまさむね(1567~1636)】

伊達輝宗の男。官途は左京大夫。通称藤次郎。室は田村清顕の娘(愛姫)。幼少の頃、疱瘡を患い隻眼になったことから「独眼龍」と称された。名僧虎哉宗乙に教育され、片倉景綱らの補佐を受けた。1584年、父伊達輝宗の隠居により伊達家の家督を相続した。1585年、小浜城主大内定綱、二本松城主畠山義継を攻略し畠山義継と和議を結ぶが、畠山義継に伊達輝宗を謀殺された。伊達政宗は、再度二本松城を攻撃すると、佐竹義重、佐竹義宣、芦名亀王丸、二階堂阿南姫、岩城常隆、石川昭光、結城義親、結城義広、相馬義胤らを中心とする南奥州諸侯が援軍に駆けつけ伊達政宗勢と人取橋で激突した。伊達政宗勢は危機的状況に陥ったが鬼庭良直勢の奮戦により退却に成功した。小野崎義昌が謀殺され、水戸城主江戸重通や安房国里見義頼らが佐竹家領に侵入したという報により、佐竹義重勢が退却すると連合軍は瓦解した。1588年、大崎義隆の内紛に介入して兵10,000余りを侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎義隆勢の頑強な抵抗に遭い敗北した。最上義光が兵5,000余りを率いて大崎義隆を支援して、黒川郡、志田両郡の伊達政宗勢の諸城を攻略した。最上義姫の仲介により和議が成立した。1589年、芦名義広を磐梯山麓の「摺上原の戦い」で破った。芦名義広は佐竹義重のもとに落延びた。1590年、「小田原の役」では、羽柴秀吉に参陣した。仙道南部を没収されたが、置賜郡及び伊達郡など仙道北部諸郡、宮城郡など南部の諸郡は安堵された。1600年、「関ヶ原の役」では松平元康勢に属して、長尾景勝勢の甘粕景継が守る白石城を攻略し、本庄繁長が守る福島城も攻撃した。1615年、「大坂夏の陣」では、騎馬鉄砲隊を率いて羽柴秀頼勢の後藤又兵衛基次を討取る戦功を挙げた。伊達政宗は新領地で北上川など河川改修や治水に努め新田開発、石巻港整備を進めた。

伊達政道【だてまさみち(1568~1590)】

伊達輝宗の次男。通称小次郎。芦名家の養子候補となったが芦名家は佐竹家から芦名義広を養子として迎えた。1590年、「小田原の役」に参陣して羽柴秀吉に恭順するかどうかを巡って、伊達政宗が窮地に陥った。義姫はこの機をとらえて伊達政道を伊達宗家を継がせようと画策したが失敗、伊達政道は謀殺された。義姫(保春院)は兄最上義光のもとに戻り、附家老の小原定綱は殉死した。

伊達秀雄【だてひでお(15??~1642)】

伊達輝宗の三男。通称鶴若。仏門に入り大悲願寺住職。1623年、伊達政宗は鮎漁の帰りに大悲願寺に立ち寄り、庭の見事な白萩を気に入り、後日所望した。そして、大悲願寺から伊達政宗に一本の白萩が献上された。

伊達秀宗【だてひでむね(1591~1658)】

伊達政宗の男。官途は遠江守。通称兵五郎。室は井伊直政の娘(亀姫)。1594年、人質として伏見城で養育された。1595年、「羽柴秀次事件」では、伊達政宗も罪に問われ、石川義宗、伊達成実、留守政景、亘理重宗、国分盛重、泉田重光、大條宗直、桑折宗長、白石宗実、石母田景頼、大内定綱、中島宗求、原田宗資、富塚信綱、遠藤玄信、片倉景綱、山岡重長、湯目景康、湯村親元らの連署による起請文提出を命じられた。1596年、羽柴秀吉の猶子となった。1600年、石田三成勢が松平元康に対して挙兵すると、石田三成勢の宇喜多秀家の邸で人質となった。1602年、松平元康に人質として差し出された。1611年、弟伊達忠宗が伊達宗家を相続することとなった。1614年、「大坂冬の陣」には、父伊達政宗とともに参陣した。役後、伊予国宇和島城100,000石を領した。宇和島城入部の際には侍大将、足軽他1,200名余りが従った。その際、伊達政宗より60,000両を借財した。1620年、山家公頼は、対立していた桜田元親に襲撃されて枝連衆とともに謀殺された。1653年、嫡男伊達宗時が早世したため、三男伊達宗利が宇和島伊達家の家督を相続した。

伊達忠宗【だてただむね(1600~1658)】

伊達政宗の次男。官途は左近衛権少将。通称総次郎。室は池田輝政の娘(振姫)。1607年、池田輝政の娘(振姫)が松平秀忠の養女として嫁いだ。1614年、兄伊達秀宗は「大坂冬の陣」に伊達政宗とともに参陣し、役後伊予国宇和島城100,000石を領した。1536年、父伊達政宗の病没により伊達家の家督を相続した。伊達忠宗は、家老衆六人(石母田宗頼、中島意成、茂庭良綱、奥山常良、津田頼康、古内重広)と奉行衆五人(津田景康、遠藤玄信、片倉重綱、古内義重、鴇田周如)を任じた。「寛永総検地」を実施して家臣団の知行地の再編を行った。1639年、仙台城に二の丸を造営したほか、寺社建築も幅広く行った。1637年、伊達政宗を祀るため瑞鳳殿、瑞鳳寺を建立した。嫡男伊達光宗が早世していたため、伊達家の家督は六男伊達綱宗が相続した。

伊達宗清【だてむねきよ(1600~1634)】

伊達政宗の三男(飯坂宗康の養子)。官途は河内守。別名飯沼宗清。黒川郡吉岡城38,000石を領した。1604年、飯坂宗康の養嗣子となり、後に伊達姓を賜り伊達河内守宗清と称した。1634年、病没したが嫡子がなく桑折重長の男桑折定長が家督を相続した。

伊達宗泰【だてむねや(1602~1638)】

伊達政宗の四男。官途は三河守。室は伊達宗利の娘(池照院)。傅役として山岡重長、安積重遠の二人が任じられた。1603年、岩出山城13,000石を領した。1626年、弟伊達宗高とともに江戸城へ上る兄伊達忠宗に随行し、松平元康に拝謁した。伊達政宗は伊達宗泰が松平秀忠に新恩給与によって大名へ取立られることを願い出たが実現しなかった。

伊達宗綱【だてむねつな(1603~1618)】

伊達政宗の五男。傅役として茂庭綱元が任ぜられた。1613年、伊達宗綱が養育されていた茂庭綱元邸に伊達政宗が出向いて元服式を行った。栗原郡岩ヶ崎城30,000石を領した。1616年、江戸城に登城し松平秀忠に拝謁した。岩ヶ崎伊達家の家督は伊達宗信が相続した。

手塚源右衛門【てづかげんえもん(15??~15??)】

鮎貝盛宗家臣。置賜郡平吹館主。1542年、「伊達天文の乱」では、鮎貝盛宗とともに伊達植宗勢に属した。1591年、伊達政宗の岩出山城転封には従わず帰農した。

富塚仲綱【とみづかなかつな(15??~1542)】

置賜郡洲島城主。官途は近江守。伊達稙宗のもとで評定衆として『塵介集』や『蔵方の掟』に連署した。1542年、「伊達天文の乱」では伊達稙宗勢に属して、戦いに敗れて討死した。洲島周辺は冨塚仲綱他七名により統治されいたが、乱以後は乱で勝利を収めた伊達晴宗勢に属した湯目雅樂允他五名により統治された。

富塚宗綱【とみづかむねつな(1543~1613)】

富塚仲綱の男。1542年、「伊達天文の乱」で、父富塚仲綱が伊達稙宗に属して討死したため伊達晴宗により所領を没収された。懸田俊宗の取り成しにより所領の一部を復して、伊達晴宗に仕えた。伊達輝宗の代になって再び宿老職に取立てられた。1589年、「人取橋の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で伊達政宗が肥前名護屋城に向かった後は岩出山城の留守役を務めた。和漢連句にも長じていた。

富塚信綱【とみづかのぶつな(15??~1627)】

富塚宗綱の男。1586年、「人取橋の戦い」で戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」でも戦功を挙げた。1622年、最上義俊が改易された際、伊達政宗の命を受け、伊達政宗の母保春院を仙台に連れて帰った。

富塚宗総【とみづかむねふさ(1583~16??)】

富塚宗綱の次男。1600年、直江兼続勢との戦いでは弟山川賢信ともに敵将を討ったが認められず、後に出奔した。1614年、「大坂冬の陣」では、柴田五左衛門と称して山川賢信とともに羽柴秀頼勢に属した。

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【な】

長倉彦兵衛【ながくらひこべい(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。長倉館主。1542年、「伊達天文の乱」で、枝連衆の長倉信濃守、長倉伊賀守らが伊達稙宗に属したため、伊達晴宗側に属した長倉彦兵衛が長倉家惣領職を継承し所領を安堵された。

中野宗時【なかのむねとき(1501~1571)】

伊達稙宗家臣。智謀に優れ、参謀として伊達稙宗、伊達晴宗、伊達輝宗の三代に仕えた。伊達稙宗の拡張政策に不満を持ち、越後上杉家への養子問題をきっかけに伊達晴宗を擁立して反逆「伊達天文の乱」を引き起こし、数年の抗争の末に勝利し、伊達稙宗を隠居に追い込んだ。中野宗時は伊達晴宗から特権を与えられ権勢を振るった。1564年、伊達輝宗は伊達晴宗を隠居させ実権を握るが、これは伊達晴宗が野心家である中野宗時の権勢を掣肘しきれなかったことが原因ともされている。1570年、中野宗時は牧野久仲とともに伊達輝宗に背いて反逆する「元亀の変」が敗北し、相馬家を頼って落ち延びた。その後、帰参を願ったが許さないまま病没した。

中野親時【なかのちかとき(15??~15??)】

中野宗時の男。室は桑折景長の娘。1536年、伊達稙宗とともに分国法である『塵芥集』の制定にあたって、父中野宗時とともに家老評定人として連署した。

錦織即休斎【にしきおりそくきゅうさいい(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「二本松城の戦い」の陣中で、伊達政宗より書を送られた。それ以後、茶会や料理の席に相伴した。佐竹義重と和議を結ぶと検使役を務めた。1589年、義姫が伊達政宗を毒殺しようと毒を盛った際、伊達政宗に薬を調進した。

新田景綱【にったかげつな(15??~15??)】

置賜郡館山城主。官途は遠江守。新田景綱の嫡男新田義直は中野宗時の孫娘を室にしていた。1570年、中野宗時の謀反に加担し、それを知った新田景綱は遠藤基信らと伊達輝宗に訴え、新田義直を館山城に滅ぼし、中野宗時らの追討勢を率いて小松城を攻め落とした。

新田義直【にったよしなお(15??~1570)】

新田景綱の男。館山城主。官途は遠江守。室は中野親時の娘。1570年、中野宗時、牧野久仲らが伊達輝宗に謀反を起こした際、中野宗時勢に属した。父新田景綱がこれを伊達輝宗に訴え出て、新田景綱に討伐された。

新田義綱【にったよしつな(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1588年、後藤信康とともに檜原城在番の功を賞された。

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【は】

浜田宗景【はまだむねかげ(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。置賜郡一本柳城主。1536年、伊達稙宗とともに分国法である『塵芥集』の制定した。伊達郡と置賜郡で5,000石を領した。1536年、伊達稙宗が大崎義直を攻めた際に第二陣の大将を務めた。1546年、「伊達天文の大乱」では伊達晴宗に属して宿老職となった。

浜田景隆【はまだかげたか(1554~1591)】

浜田宗景の男。官途は伊豆守。伊達政宗からの信頼は厚く「摺上原の戦い」「人取橋の戦い」「中新田城の戦い」「二本松城の戦い」などで留守政景や泉田重光らとともにしばしば陣代を務めた。1591年、「葛西大崎一揆」では、加美郡宮崎城攻めの最中に被弾、討死した。

浜田景国【はまだかげくに(15??~15??)】

浜田景隆の男。通称四郎兵衛。4,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、敵将の頸級をあげるも伊達政宗の不興を買い出奔した。

浜田左馬助【はまださえもんのすけ(15??~15??)】

伊達晴宗家臣。萩生郷南を安堵された。萩生郷北は国分民部少輔の他七名が安堵された。

原田宗政【はらだむねまさ(15??~1582)】

置賜郡原田城主。桑折宗長の次男。通称大蔵。原田家の家督を相続した。1582年、討死した。

原田宗時【はらだむねとき(1565~1593)】

山嶺源一郎の男(原田宗政の養子)。官途は左馬助。1582年、伯父原田宗政の討死により原田家の家督を相続した。1585年、牢人平田を派遣して芦名亀王丸勢の武将を内応させ、会津を攻めたが平田自身が敵方に走ったため敗北した。原田は後藤信康が自分を笑ったことを怒り、決闘を申し入れた。1585年、刈松田に参陣し、大内定綱に備えた。続いて本宮に参陣した。1588年、「郡山の戦い」では評定衆として活躍した。1592年、「文禄の役」に参陣する際、大太刀を背負い、金の鎖で結び、駿馬にまたがり現れた。1593年、対馬国で病没した。

原田宗資【はらだむねすけ(1582~1623)】

桑折宗長の四男(原田宗時の養子)。官途は甲斐守。室は伊達政宗の娘(津多姫)。1593年、「文禄の役」に参陣していた、従兄原田宗時が病没したため、伊達政宗の命により原田家を相続して牡鹿郡大瓜領を治めた。1595年、「羽柴秀次事件」に際し、連判状には父原田宗長とともに署名した。松平元康に帰国を命じられ、伊達政宗が相馬家領を通過する際、使者として赴き水谷胤重と会談して家中の説得を依頼し、相馬義胤から領内通過の許可を得ることに成功した。1606年、伊達政宗の娘(五郎八姫)と松平忠輝との婚礼の際には、貝桶渡しの役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、柴田郡船岡城主となった。原田家の家督は嫡男原田宗輔が家督を相続した。この原田宗輔が「伊達騒動」で有名な原田甲斐。

布瀬備後守【ふせびんごのかみ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1585年、「人取橋の戦い」で、嫡男布施弥七郎とともに討死した。

舟山伊賀守【ふなやまいがのかみ(15??~15??)】

山岡重長家臣。1600年、「白石城の戦い」に参陣した。南門脇の堀を登り、城内に入って斧で閂を破壊する戦功を挙げた。

本沢真直【ほんざわまさなお(15??~15??)】

片倉景重家臣。官途は刑部。片倉景綱の母方の祖父。娘は鬼庭良直に嫁ぐが離婚、片倉景重と再婚した。片倉景重との間に片倉景綱が生まれた。

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【ま】

牧野宗興【まきのむねおき(15??~1542)】

伊達稙宗家臣。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達晴宗勢に属したが、伊達稙宗勢の攻撃を受け嫡男牧野景仲とともに討死した。中野宗時の次男が家督を継いだ。

牧野久仲【まきのひさなか(1529~15??)】

中野宗時の次男。父中野宗時は伊達晴宗の重臣として権勢を振るった。牧野久仲は伊達家の守護代を務める名族である牧野家の養嗣子となった。
1570年、伊達晴宗を継いだ伊達輝宗に不満な中野宗時は反乱を起こし、牧野宗時もこれに同調したが失敗し、ともに流浪の身となる。父中野宗時の病没後、帰参を望んだがその望みは牧野久仲の孫の代まで叶えられる事はなかった。

真山式部【まやましきぶ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。1591年、伊達政宗は岩出山城に移った。その際、伊達家の氏神である米沢成島八幡宮を岩出山城に分祀した。大崎八幡宮を岩出山城に遷座し、両社を合祀した。1604年、伊達政宗は真山式部を大崎八幡宮造営奉行に任命し、仙台に神社を創建した。1607年、大崎八幡宮を仙台に遷座した。

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【や】

屋代閑盛【やしろそうもり(15??~15??)】

伊達稙宗家臣。置賜郡屋代館主。

屋代修理【やしろしゅり(15??~15??)】

屋代閑盛の男。罪を受け所領は没収された。嫡男の鹿股源六郎は鹿股家に養子に入ったため、次男の屋代景頼が屋代家を継いだ。

屋代景頼【やしろかげより(1563~1608)】

屋代修理の次男。通称勘解由兵衛。屋代景頼は伊達政宗に仕えて旧領を回復した。1590年、「葛西、大崎一揆」では一揆を起こした物頭衆をだまし討ちで皆殺しにした。1592年、「文禄の役」では、岩出山城の留守を預かり、国政を取り仕切った。1596年、伊達成実が伊達政宗の命に背き、高野山へ出奔すると伊達成実の居城角田城を攻撃して、伊達成実の妻子や家臣を討取った。1600年、「関ヶ原の役」では、最上義光への援軍として直江兼続率いる長尾景勝勢と戦った。「福島城の戦い」でも第二陣も務めた。1607年、驕った振る舞いが多いという理由で所領を没収された。

矢内重定【やないしげさだ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。米沢城下大街の検断職に任じられた。娘が片倉景綱に嫁ぎ、嫡男片倉重綱をもうけた。伊達政宗が仙台城に移った際、仙台大街の検断職を務めた。

柳原戸兵衛【やなぎはら とへえ(15??~15??)】

伊達政宗家臣。伊達政宗が安部重定に命じて編成した黒脛巾組の組頭となった。組頭は柳原戸兵衛と世瀬蔵人が勤めた。陸奥国南方の調略活動を担当していた安部重定の指揮下で、世瀬蔵人とともに下忍50人を率いて諜報、流言任務に携わった。

山村矩義【やまむらかねよし(15??~1615)】 

片倉景綱家臣。通称六右衛門。片倉景綱と殉死と約束をするほど結束が深かった。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して、殉死が出来なくなることを心配していたが、片倉景綱から嫡男片倉重長とともに戦うよう求められ参陣した。「道明寺の戦い」で討死したため、殉死こそ果たせなかったが、片倉家では山村矩義を殉死者のひとりとした。

山川賢信【やまかわかねのぶ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。富塚宗綱の次男。官途は帯刀。別名富塚小平二。伊達政宗に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢と戦い戦功を挙げたが、その戦功を認められず伊達政宗のもとを出奔した。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢の後藤基次に属して八丁目口の守備を守備した。1615年、「道明寺の戦い」で奮戦するも及ばず、北川宣勝とともに八幡滝本坊に落延びた。松平元康に罪を許され、その後松浦隆信に仕えた。

山家公頼【やんべきみより(1579~1620)】

伊達秀宗家臣。通称清兵衛。伊達政宗に仕えて頭角を現し、伊達秀宗が伊予国宇和島城100,000石を領した際、筆頭家老として附けられた。伊達政宗や松平元康との関係調節に苦慮した。伊達政宗から借入れた60,000両の返済のために、伊達政宗に隠居料として30,000石を割くことで借財返済を繰り延べをおこなった。この行為が伊達秀宗や桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた。1620年、伊達秀宗の命を受けた家臣達が山家邸を襲撃、山家公頼は討取られた。

結城治部【ゆうじじぶ(15??~15??)】

伊達輝宗家臣。置賜郡深沼西館主。1591年、伊達政宗の岩出山城の転封には従わず、長尾景勝に仕えた。米沢城に樋口兼続が入ると、春日元忠に属して、結城治部は、安部右馬之助、石岡丹波守らとともに白龍湖周辺を開墾した。

湯目重康【ゆのめしげやす(15??~15??)】

置賜郡筑茂城主。室は大津光本の娘。湯目家は置賜郡の在地豪族で、南北朝時代に伊達家が置賜郡を攻略するとその家臣となった。

湯目景康【ゆのめかげやす(1564~1638)】

湯目重康の男。官途は豊前守。別名津田景康。室は高泉隆景の娘(西姫)。1577年、伊達政宗が元服するとその側近となり「人取橋の戦い」「摺上原の戦い」「葛西大崎一揆」鎮圧戦などに参陣した。1591年、伊達政宗が岩出山城に転封されると栗原郡佐沼城主となり1,500石を領した。1595年、伊達政宗が「羽柴秀次事件」に関与したとして謹慎を命じられた際には、中島宗求とともに伏見の津田が原にて羽柴秀吉に直訴し、処分を解くことに成功した。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。

湯目重旧【ゆのめしげひさ(15??~1600)】

伊達輝宗家臣。1600年、「長谷堂城の戦い」では、最上義光の援軍として送られていた。石田三成勢の敗北により撤退を開始した樋口兼続勢への追撃戦で討死した。

世瀬蔵人【よせ くらんど(15??~15??)】

伊達政宗家臣。伊達政宗の諜報機関として安部重定により作られた黒脛巾組の組頭に就任した。柳原戸兵衛とともにこれを務めた。安倍重定が伊達の諜報を取り仕切っていたので、そのまま彼の指揮下に戸兵衛とともに入った。太宰金助、大林坊俊海ら下忍50人を率いて伊達政宗の戦を裏で支えた。

立石寺円海【りゅうしゃくじえんかい(15??~15??)】

最上郡立石寺住職。1521年、伊達家と最上、寒河江家らと諸族の戦乱がおこり、立石寺が伊達家に味方したことにより天童頼長が立石寺を攻撃し、寺領を侵略し寺中はことごとく破滅した。1543年、立石寺円海(沙門一相坊円海)がその荒廃をなげき、最上義守の実母春還芳公禅尼を大檀那に、比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に諸堂を修築した。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより延暦寺の法灯が焼失したさい、逆に分灯した。

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【資料Ⅰ】

羽前国(4郡/320,000石)

田川郡:鶴ヶ岡(大宝寺)城、松根城。
最上郡:清水城、鮭延城。 
村山郡:山形城、寒河江城、延沢城。
置賜郡:米沢城、高畠城、鮎貝城。

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【資料Ⅱ】

黒脛巾組【くろはばきぐみ】

伊達政宗が信夫郡鳥屋の城主安部対馬重定に命じて、鼠になれたる者50人をえらみ扶持を与へこれを黒脛巾組と称した。柳原戸兵衛、世瀬蔵人、佐々木左近、気仙沼左近、横山隼人、逸物惣右衛門を首長とした。

伊達家四十八館【だてけよんじゅうはったて】

館山城主:伊達晴宗、米沢城主:伊達輝宗、兵庫館主:遠藤兵庫信秋、赤坂館主:遠藤丹後守、高橋館主:高橋筑前守秀行、大桐館主:多田木左馬頭、土肥単館主:土肥単備中守、白旗館主:小梁川泥藩、戸内館主:山鷺氏、戸坂山館主:大津土佐守、三沢館主:富沢飛騨守高祖、蛇口館主:須藤備中守夏館、樋口館主:須藤備中守冬館、原田館主:原田典膳、錦戸館主:遠藤三右衛門、橋本館主:橋本区蔵人、本郷館主:本郷入道教信、栖島館主:湯野目肥前守宗厚、元館主:遠藤氏、館ノ山館主:網代伯耆守、笹館主:佐々若狭守友清、館ノ崎館主:後藤孫兵衛信康、後藤館主:二宮万五郎恒宗、新宿館主:遠藤吉兵衛、高畠館主:伊達氏主城、塩森館主:塩森兵庫頭、熊坂館主:熊坂宇右衛門、深沼西館主:結城治部、一本柳館主:浜田伊豆守、館ノ山館主:飯坂佐衛門蔵人、小豆館主:舟橋頼母重宗、中島館主:安藤東次郎照明、入生田館主:入生田三左衛門、糠野目館主:伊達周防守、夏刈館主:伊達氏夏館、筑茂館主:小梁川泥藩、中瀬館主:中瀬和泉守、大橋館主:湯ノ目資綱、小塚館主:小野武豊、中山館主:中山弥太郎、二色根館主:粟野喜左衛門、蒲生田館主:大津土佐守、矢ノ目館主:矢野目市三郎、落合館主:落合堂伊賀守好盛、和泉館主:吉田冠者惟益、増田館主:梨郷館主:増田摂津守輿隆、大塚城主:大塚左衛門佐宗頼、林崎館主:林崎氏、治兵衛館主:那須治兵衛、桑島館主:桑島信左衛門信国、大石館主:太宰信九郎、粘町館主:山田主殿、中小松城:中野常陸介、藤ヶ森館主:原田甲斐守、片倉館主:片倉小十郎、大舟館主:兵庫頭康長、京ヶ森館主:二階堂駿河守、谷地館主:佐藤筑前守、石川館主:石川氏、鳴島館主:遠藤丹後守、荒砥城主:桑島和泉守、鮎貝城主:鮎貝太郎盛宗、高玉城主:高玉茂兵衛、小桜城主:片倉小十郎景綱、萩生城主:国部源三行信、添川館主:大立目遠江守、黒沢館:阿久津氏、手ノ子館主:遠藤四郎左衛門、小国城主:上郡山民部盛為、轟館主:遠藤宗寿。

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【資料Ⅲ】

羽前国【うぜんのこく】

調査中。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。基本的に楽しい戦国人名辞典を目指しています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:「津軽秋田安東一族」新人物往来社、「東北大名の研究(戦国大名論集2)」吉川弘文館、「会津芦名一族」歴史春秋社、「最上義光(戦国の驍将)」新人物往来社、「奥州葛西記(乱世を風のように駆けた男たち)」宝文堂、「会津芦名四代」歴史春秋、「伊達政宗(全8巻)」講談社、「天を衝く(全3巻)」講談社文庫、「独眼竜伊達政宗」時代小説文庫、「津軽風雲録」時代小説文庫、「政宗に睨まれた二人の老将」宝文堂、「秋田『安東氏』研究ノート」無明舎、「(史伝)伊達政宗」学研M文庫、「独眼竜政宗」講談社文庫、「奥羽永慶軍記(全2巻)」新人物往来社、「津軽南部の抗争(南部信直)」、「秋田の中世浅利氏」無明舎出版、「独眼龍政宗」文藝春秋、「みやぎの戦国時代」宝文堂、「陸奥南部一族」新人物往来社、「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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