2014年11月3日月曜日

戦国北肥後国人名事典

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【あ】

赤星親家【あかほしちかいえ(1514~1562)】

菊池義武家臣。隈部親永、城親冬とともに菊池家三家老職のひとり。1550年、菊池義武が挙兵では、菊池義武勢に属さず大友義鎮勢に属した。この戦功により菊池義武の本拠地であった隈府城主となった。1559年、隈部親永と対立し、隈部親永勢の猿返城を攻撃したが、反撃を受け「合瀬川の戦い」で大敗して勢力が衰えた。

赤星統家【あかほしむねいえ(1530~1619)】

赤星親家の男。1562年、父赤星親家の病没後、隈府城主となった。龍造寺隆信の肥後国侵攻で龍造寺隆信に降った。二人の子を人質に出すが、後に隈部親永が肥後国で勢力を伸ばすと、これを龍造寺隆信が支援する事となったため、隈部親永と敵対関係になった。1582年、赤星統家は、龍造寺隆信から命じられた佐賀城への出仕を渋ったために疑心ありとされ、龍造寺隆信に預けていた人質が謀殺された。これを恨んだ赤星統家は、島津義久勢に属した。1584年、「沖田畷の戦い」では先陣を務め、島津家久勢に赤装束に縄襷という出で立ちで兵50余りとともに参陣して戦功を挙げた。1586年、「九州討伐」後に、所領を没収された。

赤星親武【あかぼしちかたけ(15??~1615)】

赤星統家の男。通称は太郎兵衛。加藤清正十六将のひとり。羽柴秀頼に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「天王寺口の戦い」で討死した。

赤星道重【あかぼしみちしげ(1602~1636)】

赤星親武の男。通称は内膳。天草十七人衆のひとり。1614年、「大坂冬の陣」では、父赤星親武とともに、大坂城へ入城した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼が自刃すると、落延びて天草に潜伏した。1636年、「島原の乱」では一揆勢の評定衆として本丸付近を守備した。原城が落城する際、寺沢広高の家臣三宅籐右衛門と一騎討ちの末、討死した。

池松貞胤【いけまつさだたね(15??~15??)】

大野親祐家臣。玉名郡高道城主。1582年、龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城した。

石原吉利【いしはらよしとし(15??~1585)】

菊池郡今石城主。1585年、島津義久勢の攻撃を受けた際、石原吉利はわずか兵50余りで戦い討死した。

板楠景貞【いたくすかげさだ(15??~15??)】

玉名郡岡原城主。官途は豊後守。

板楠景次【いたくすけげつぎ(15??~15??)】

板楠景貞の男。

芋生親友【いもおちかとも(15??~15??)】

辺春親行家臣。山鹿郡苧生館主。官途は摂津守。

岩崎恵林【いわさきえいりん(15??~15??)】

鹿子木親員家臣。赤水城主。

有働兼元【うどうかねもと(15??~1588)】

隈部親永家臣。官途は志摩守。1587年、隈部親永、隈部親泰父子とともに城村城に籠城した。肥後国人衆は隈部親泰を総大将、有働兼元を総物頭とし、原口の大手や西之枡形など六つの部署に分けて鉄砲830挺、弓500張と兵18,000余りが籠城した。隈部親永は防戦の表には立たなかったが、佐々成政が攻城を始めると各方面で激戦が展開された。籠城勢が佐々成政を引き付けている間に別の国人衆が本城の隈本城を包囲したため、佐々成政は救援に引き上げたが立花宗茂、小早川隆景らが加勢、一揆勢は鎮圧された。開城後、隈部親永らは柳川城で謀殺された。

内空閑重載【うちくがしげのり(15??~15??)】

山本郡内村城主。菊池武経家臣。内空閑為載の男。官途は備前守。1505年、内空閑重載は枝連衆の内空閑朝誠、内空閑運直、内空閑朝貞らとともに、菊池政隆を追放し、阿蘇惟憲の男菊池武経を迎えて肥後国守護職に推戴した。菊池武経は阿蘇宮大宮司職を弟阿蘇惟豊に譲り、隈府城に入ると菊池武経と称した。菊池政隆は、内空閑重載のもとに落延びた。1511年、その菊池武経も菊池家臣団と対立して肥後守護職の追われた。内空閑重載、隈部親氏らは、菊池家枝連衆の詫磨武安から菊池武包を養子に迎えて肥後国守護職とした。1518年、大友義鑑は、菊池武包を追放すると弟菊池義武を入れ、肥後国守護職とし鹿子木親員、田島重賢の支持を得て隈本城に入った。菊池義武も菊池家臣団の支持を失い、相良晴広を頼って隈本城から落延びた。

内空閑為秋【うちくがためあき(15??~15??)】

内空閑重載の男。

内空閑長載【うちくがながとし(15??~15??)】

内空閑重載の次男。官途は伊賀守。通称刑部少輔。

内空閑佐載【うちくがさねとし(15??~1533)】

内空閑長載の男。官途は備前守。別名内空閑親貞。1533年、島津貴久勢と戦い討死した。

内空閑鎮真【うちくがしげざね(15??~1574)】

内空閑佐載の男。官途は式部少輔。1550年、「二階崩れの変」で大友義鑑が家臣によって謀殺されると、鹿子木親員、田島重賢らに擁立され再び隈本城に入った。1551年、大友義鎮は肥後国に侵攻して菊池義武を謀殺し、守護代として志賀親守を配し、大津山城主に小原鑑元を任じ筑後国方面に備えた。

内空閑鎮資【うちくがしげすけ(15??~1575)】

内空閑鎮真の男。官途は但馬守。別名内空閑親資。室は隈部親家の娘(菊姫)。

内空閑親房【うちくがちかふさ(15??~1588)】
 
隈部親永の男(内空閑鎮資の養子)。山本郡霜野城主。官途は式部大輔。別名内空閑鎮房。1566年、内空閑鎮資は嫡男に恵まれず隈部親家の次男内空閑鎮房に迎えたが、後に内空閑鎮照が生まれたことにより、家中が内空閑鎮房派と内空閑鎮照派に分かれて争うことになった。隈本城主城親賢の仲介により、和議が結ばれ、内空閑鎮房が霜野城2,750石、内空閑鎮照が内村城2,750石を領した。1575年、内空閑鎮資の病没により内空閑家の家督を相続した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久に大敗すると、城親賢は島津義久勢に属し、隈部親永は龍造寺隆信勢に属した。1579年、龍造寺隆信は小代親泰を攻撃した。1580年、隈府城主赤星統家が降伏したことにより北肥後国は龍造寺隆信勢の支配下に置いた。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、隈部親泰らとともに島津義久勢に降伏した。1587年、「九州討伐」では羽柴秀吉勢に属して、所領安堵を受けるものの、佐々成政の入国後に起きた「肥後一揆」に参陣した。1588年、柳川城で安国寺恵瓊に謀殺された。

内空閑鎮照【うちくがしげてる(15??~1588)】

内空閑鎮房の男。山本郡内村城。官途は備前守。1566年、内空閑鎮資は嫡男に恵まれず隈部親家の次男内空閑鎮房に迎えたが、後に内空閑鎮照が生まれたことにより、家中が内空閑鎮房派と内空閑鎮照派に分かれて争うことになった。隈本城主城親賢の仲介により、和議が結ばれ、内空閑鎮房が霜野城2,750石、内空閑鎮照が内村城2,750石を領した。1588年、柳川城で安国寺恵瓊に謀殺されたが、嫡男内空閑鎮員が落延び大津山家稜の嫡男大津山祐直とともに立花宗茂に仕えた。

大津山資冬【おおつやますけふゆ(15??~15??)】

玉名郡神尾城主。官途は美濃守。大友義鎮に謀反を起こしたが、大友義鎮勢の攻撃を受け大津山城は落城し大津山資冬は落延びた。 小原鑑元が大津山城に入ったが、小原鑑元も大友義鎮に叛旗を翻したため、大津山資冬が攻落して城主に復帰した。1579年、龍造寺隆信は肥後国に侵攻した和仁城、長坂城を攻落した。交通の要衝である大津山資冬を攻撃した。大津山城を捨てて神尾城へ退いて龍造寺隆信勢と対峙し、攻めあぐねた龍造寺隆信は南関を確保できたこともあり撤退した。

大津山家稜【おおつやまいえかど(15??~1587)】

大津山資冬の男。別名大津山家直。1586年、「九州征伐」では羽柴秀吉勢に属して本領を安堵された。1587年、佐々成政による検地に反対して起こった国人一揆では大津山家稜も一揆勢に参陣した。佐々成政は大津山家稜を謀殺した。

大津義種【おおつよしたね(15??~15??)】

菊池郡西嶽城主。

大野親祐【おおのちかすけ(15??~1581)】

玉名郡上村城主。1581年、島津義久勢に内応したことにより、龍造寺隆信勢に属した小代親忠の攻撃を受けた。「焼石原の戦い」で敗れ、大野親祐は上村城に撤退したが、支えきれずに日嶽開田城に籠城した。大野親祐は小代親忠勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず、城内の女性を逃がした後、全員が討死した。

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【か】

鹿子木親員【かのこぎちかかず(15??~1549)】

菊池義武家臣。飽田郡隈本城主。鹿子木重能の男。官途は三河守。大友義鎮の次男菊池義武を菊池家の養子に迎え、田島重賢らとともにこれを補佐した。1516年、阿蘇山衆徒と彦山衆徒が対立するとこれを仲裁し、相良晴広、名和武顕の対立の際も和議の仲介を行った。1535年、菊池義武と大友義鎮が対立すると、菊池義武を離れて大友義鑑勢に属した。藤崎宮を修築して後奈良天皇の勅願の下賜を奏請するほか、焼亡した大慈寺の再建などを行った。和歌を好み、三条西実隆より「源氏物語」を購入した。
 
鹿子木親俊【かのこぎちかとし(15??~15??)】

鹿子木親員の男。1539年、父鹿子木親員とともに上代城に移った。

鹿子木鑑有【かのこぎかねあり(15??~15??)】

鹿子木親俊の男。通称次郎。祖父鹿子木親員の病没後、鹿子木家の家督を相続した。1550年、田島重賢とともに菊池義武に協力、大友義鎮勢の侵攻を受け没落した。鹿子木鑑有は小代実忠から玉名郡小田村に領地を受け、国人衆としては復帰したが、隈本城を支配する勢力への復帰はかなわなかった。

鹿子木鎮国【かのこぎあきくに(15??~15??)】

鹿子木鑑有の男。

亀井光総【かめいみつふさ(15??~1550)】

亀井城主。1550年、菊地義武勢の攻撃を受け討死した。

亀井吾助【かめいごすけ(15??~15??)】

亀井光総の男。1550年、父亀井光総が討死すると、菩提を弔うため光照寺を建立した。

菊池武経【きくちたけつね(1480~1537)】

菊池郡隈府城主。阿蘇惟憲の男(菊池政隆の養子)。官途は肥後守。別名阿蘇惟長。菊池武経は阿蘇家の大宮司を継いでいたが、阿蘇惟長は菊池家の衰退に付け込み肥後国守護職の簒奪を図った。阿蘇惟長は肥後国への勢力拡大を図る豊後国の大友義長と結んだ。城親冬、赤星親家、隈部親永らの菊池家臣団は、肥後守護職の菊池政隆を排除して阿蘇惟長を新たな守護として迎える起請文を提出した。1507年、阿蘇惟長は大友義長の支援を得ると隈府城へ侵攻し菊池政隆を隈府城から追放した。阿蘇惟長は隈府城に入り菊池武経と名乗り、肥後守護職の簒奪に成功した。この時、阿蘇大宮司職を弟の阿蘇惟豊に譲っている。肥後守護職となったが、名目だけの肥後守護職であり、家臣団との関係も悪化した。1513年、菊池武経は阿蘇惟豊側を攻撃し、阿蘇惟豊は日向国に落延びた。菊池武経は嫡男の阿蘇惟前を大宮司職に据えると、阿蘇惟長の名に復して実権を掌握した。1517年、甲斐親宣らの支援を得た阿蘇惟豊は逆襲に転じ、敗北を喫した阿蘇惟長、阿蘇惟前父子は薩摩国へと落延びた。

菊池武包【きくちたけかね(15??~1532)】

詫磨武安の男(菊池武経の養子)。1513年、菊池武経が菊池家臣団と対立し阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を奪還した。菊池家の後継者として、大友義長の男大友重治(菊池義武)が迎えられ、菊池武包が菊池家の家督を相続した。1520年、菊池武包の元服後家督を譲った。1532年、大野城で病没した。

菊池義武【きくちよしたけ(15??~15??)】

大友義長の男(菊池武包の養子)。肥後国守護職。官途は左兵衛佐。室は名和武顕の娘。別名菊池重治。大友義鑑は肥後国に勢力を拡大するため、肥後国に大きな影響力を持つ菊池家の簒奪を図り、菊池武経の跡を詫摩家出身の菊池武包に継がせ、弟菊池重治の成長後に菊池家の家督を継がせる密約を結んだ。1520年、菊池武包から菊池家の家督を相続した。菊池義武は菊池家の家督を相続すると、大内義隆や相良晴広と結んで大友義鑑に反抗した。大友義鑑との争いに敗れ、相良晴広を頼って落延びた。1550年、大友義鑑が「二階崩れの変」で横死すると再び領地を奪還した。1554年、甥大友義鎮の帰国の誘いに乗り、豊後国へ向かう途上で大友義鎮勢に包囲され自刃した。

菊池高鑑【きくちたかあき(15??~1554)】

菊池義武の男。官途は備前守。1538年、八代白木社にて元服した。父菊池義武に従い行動し、主家筋の大友家から独立した行動を取ったため、従兄弟である大友義鎮の討伐勢に敗れ、相良家の下へ落延びた。1554年、大友義鎮の甘言によって帰国する途上、父菊池義武とともに誘殺された。

菊池則直【きくちのりなお(15??~15??)】

菊池義武の次男。通称は十郎。父菊池義武が大友義鎮に追討を受けて殺害された際、菊池則直は幼少の為か母と辰若(菊池義武の娘)とともに姻戚関係である相良晴広に預けられていたため、難を逃れた。

木野親則【きのちかのり(15??~15??)】

菊池武経家臣。木野相直の男。菊池義武の振る舞いに対して、度々諫言を行ったが、それを疎んだ菊池義武は木野親則を謀殺した。木野親則の娘は大友親冶に嫁いで、嫡子大友義長を生んだ。

草野宗晴【くさのむねはる(15??~15??)】

和仁親続家臣。通称隼人。

久保田重兼【くぼたしげかね(15??~15??)】

山鹿郡方久保城主。

久木野備前守【くにのびぜんのかみ(15??~1585)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡駒返城主。1585年、島津義弘勢の攻撃を受け討死した。

隈部親家【くまべちかいえ(15??~1550)】

山鹿郡永野城主。隈部貞明の男。官途は式部大輔。

隈部親永【くまべちかなが(15??~1588)】

隈部親家の男。官途は但馬守。1550年、父隈部親家が病没すると大友義鎮勢に属する旧菊池家臣団の中心人物となった。隈部親永と赤星親家が菊池家の主導権を争い、領土問題も絡んで対立が深まった。1559年、赤星親家を「合勢川の戦い」で撃破った。赤星親家が大友義鎮に属すると、対抗して龍造寺隆信と結んだ。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信の肥後国侵攻を支援した。1580年、城親賢らととに大友義鎮勢に属する阿蘇惟憲を攻めたが、阿蘇惟憲の家臣甲斐宗運によって撃退された。江上家種率いる龍造寺隆信勢とともに赤星統家の家臣星子廉正が拠る長坂城を攻撃した。赤星統家の叔父合志親賢勢を撃破り星子廉正を自刃させて長坂城を攻略し有働兼元を城番とした。本拠を永野城から隈府城に移し、嫡男隈部親泰を城村城に入れ、菊池郡、山鹿郡。山本郡に勢力を広げ、菊池家家臣団と婚姻関係を結んで勢力を拡大させた。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、肥後国における龍造寺隆信勢の勢力が衰え、島津義久勢が肥後国北部に侵攻してくると、人質を出して降伏した。1587年、「九州征伐」では、他の肥後国人衆とともに羽柴秀吉勢に降伏するが、所領の減封処分を受けた。佐々成政の検地に反対して、他の肥後国人衆とともに隈府城に籠城した。羽柴秀吉勢の攻撃を受け安国寺恵瓊の仲介により開城したが謀殺された。

隈部親安【くまべちかやす(15??~1588)】

隈部親永の男。官途は式部大輔。通称源次郎。別名隈部親泰。肥後国人衆一揆では有働兼元、山鹿重安らとともに佐々成政、立花宗茂らに抵抗した。1587年、父隈部親永とともに降伏した。豊前小倉で毛利吉成に謀殺された。

合志隆峯【こうしたかみね(15??~15??)】

合志郡竹迫城主。官途は蔵人少輔。別名合志隆岑。1511年、竹迫城主竹迫公種が豊後国に転封したのち、合志隆峯が竹迫城に入った。

合志隆房【こうしたかひさ(15??~15??)】

合志隆峯の男。官途は三河守。

合志高久【こうしたかひさ(15??~15??)】

合志隆房の男。官途は兵庫頭。

合志重遠【こうししげとう(15??~15??)】

菊池重安の次男(合志高久の養子)。官途は丹波守。

合志親為【こうしちかため(15??~1585)】

赤星重隆の次男(合志高久の養子)。官途は伊勢守。別名合志親賢。1550年、菊池義武に協力して大友義鎮勢と戦った。1561年、相良、名和との対立を仲裁した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗した後も、大友義鎮勢に属した。1580年、島津義久、城親賢らとの「久保田の戦い」に敗れた。1581年、龍造寺隆信勢が肥後に侵攻すると赤星統家、隈部親永らとともに降った。1584年、島津義久勢にと内応したため、龍造寺隆信勢の攻撃を受け降伏して、合志家の家督を弟合志親重に譲って隠居した。

合志隆重【こうしたかしげ(15??~15??)】

合志高久の男。官途は隼人佐。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が大敗すると、龍造寺隆信勢が筑後国、肥後国へ侵攻した。竹迫城も攻撃を受けたが、合志隆重は奮戦し城を守りぬいた。1580年、龍造寺政家勢が江上家種を大将として長坂城を攻撃した。長坂城には赤星統家の家臣星子廉正が守っていた。赤星統家の叔父合志親為は星子廉正に援軍を送った。合志親為の嫡男合志親重は、龍造寺政家、隈部親永らと戦ったが、合志親為家臣の大津藤左衛門が内応したため敗退して、合志親重は竹迫城へ退却した。長坂城は落城、星子廉正は自刃した。

合心親重【こうしちかしげ(15??~1586)】

合志高久の次男。別名志親泰。1582年、合志親為は出家し家督を合志親重へ譲った。合志親泰は島津義久と和平交渉を行ったが、交渉は成立しなかった。1585年、島津義久勢の攻撃を受け落城した。合志親泰は開城し、新納忠元、稲田新助に城を明け渡した。1586年、合志親泰は薩摩の羽月に送られ謀殺された。

合志千代松丸【こうしちよまつまる(15??~15??)】

合志親重の男。1586年、「九州征伐」後、所領安堵された。

小島遠江守【こじまとおとうみのかみ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡湯浦城主。1584年、島津義久勢の侵攻により落城した。

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【さ】

下田惟政【しもだこれまさ(15??~15??)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡下田城主。1585年、島津義弘勢の攻撃を受け、長野城主長野惟久とともに戦い討死した。

小代重忠【しょうだいしげただ(14??~1540)】

玉名郡筒ヶ嶽城主。菊池武包家臣。官途は刑部少輔。1523年、菊池武包は小代重忠の支援を受け筒ヶ嶽城に籠城して兵を挙げた。大友義鑑は、阿蘇惟豊に筒ヶ嶽城攻撃を命じた。阿蘇惟豊は甲斐親宣を大将として兵を送り、小代重忠との間で激戦が展開されたが筒ヶ嶽城は落城、菊池武包は肥前国に落延びた。1533年、大内義隆勢の陶興房が筑後国に侵攻すると、小代重忠は大友義鑑に属した。1540年、菊池義武、相良晴広、名和武顕らの南部衆との戦において、肥後国北部の国人衆らととも参陣したが「犬淵の戦い」で、多くの枝連衆とともに討死した。

小代実忠【しょうだいさねただ(15??~15??)】

小代重忠の男。官途は加賀守。1550年、菊池義武が筑後国人衆の支援により隈本城に復帰したが、小代実忠は大友義鎮勢に属した。三池親員、大津山重経、辺春薩摩守、和仁親続、大野上総介、田嶋宮内少輔、吉弘但馬守、東郷衆らの攻撃を受けたがこれを撃退した。大友義鎮の家臣小原鑑元とともに大津山重経を攻撃した。大友義鎮とともに三池城主三池親員を攻撃し、三池右衛門大夫を討取る戦功を挙げた。大友義鎮勢の攻撃により菊池義武も隈本城から島原に落延びた。1554年、大友義鎮が肥後国の押えとして大津山主に任じた小原鑑元が本庄、中村、佐伯らとともむ謀反を起こした。大友義鎮は田原親賢を大将に小代実忠、三池鎮実、田尻鑑種、蒲池鎮並らとともに小原鑑元を攻撃した。1556年、小原鑑元が討死すると大津山城には小代実忠の尽力により大津山資冬が復帰した。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、龍造寺隆信が筑後国に侵攻し、蒲池鎮並ら筑後国人衆は龍造寺隆信に降った。1579年、龍造寺隆信は田尻鑑種、蒲池鑑広らを降し、今山城主三池鎮実を攻撃した。小代実忠は援軍を送ったが鍋島直茂勢の攻撃を受け敗退した。三池鎮実は龍造寺隆信勢の攻撃を受け今山城は落城した。小代実忠、小代親泰親子は筒ヶ嶽城に籠城して鍋島直茂勢と戦ったが落城、小代実忠は龍造寺隆信に降伏した。

小代親忠【しょうだいちかただ(15??~15??)】

小代実忠の男。官途は伊勢守。龍造寺隆信の肥後国侵攻に際して、隈本城主の城親賢は島津義久と結んで対抗しようとしたため、小代親泰は大津山資冬、合志隆重らとともに「窪田の戦い」で島津義久勢と戦った。1581年、小代親忠は島津義久勢の上村城主大野親祐を攻撃し、大野親祐は城内にいた女たちを落すと、小代親泰勢を迎かえ撃ち全員討死した。

小代親秀【しょうだいちかひで(15??~15??)】

小代実忠の次男。官途は阿波守。

小代鎮泰【しょうだいあきやす(15??~15??)】

小代実忠の三男。通称藤内兵衛尉。

小代親泰【しょうだいちかやす(15??~15??)】

小代親忠の男。官途は下総守。1584年、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、北肥後国人衆の多くは島津義久勢に降伏した。1587年、「九州討伐」では、他の国人衆とともに羽柴秀吉勢に参陣して旧領安堵の朱印状を与えらえれた。肥後国の領主として佐々成政が入部すると、検地に反対して「肥後国人一揆」が起こるが、小代親泰は城久基、名和顕孝らとともに大坂にあったため、多くの国人衆が没落する中で所領を守ることができた。その後、一揆の責任を取り佐々成政が自刃すると、北肥後国を加藤清正が、南肥後国を小西行長が領した。小代親泰は加藤清正に仕え、小代親泰は芦北郡津奈木城に転封された4,135石を領した。

小代実長【しょうだいさねなが(15??~15??)】

小代親忠の次男。

小代重定【しょうだいしげさだ(15??~15??)】

小代親泰の男。官途は下総守。

城為冬【じょうためふゆ(14??~15??)】

山鹿郡城村城主。城冬時の男。菊池重朝家臣。官途は右京亮。菊池家三家老のひとり。隈部忠直とともに菊池重朝を補佐した。1481年、万句連歌では第二亭の席主(隈部忠直は第三亭の席主)。1503年、菊池氏の家督を簒奪した宇土為光討伐に協力し、乱後宇土城に在番した。1504年、菊池能運が病没すると、名和顕忠勢の攻撃を受け宇土城は落城した。

城為親【じょうためちか(15??~15??)】

城冬時の次男。官途は伊豆守。

城敏岑【じょうとしみね(15??~15??)】

城為冬の男。官途は大蔵大輔。

城重岑【じょうよりみね(15??~15??)】

城為冬の男。官途は越前守。1503年、菊池能運復帰戦に協力した。1505年、阿蘇惟長(菊池武経)迎立や菊池義武を菊池家の後継に擁立した立役者。1518年、大友義鑑の介入で菊池武包が菊池家臣団によって追放され、大友義鑑が弟菊池義武を菊池家に入れ肥後守護とした。菊池義武は城重岑、赤星親家、隈部親永ら菊池家三家老の強い権限を嫌い、鹿子木親員、田島重賢らの支持を得て、城為冬、赤星親家、隈部親永らは中枢から遠ざけられた。

城親冬【じょうちかふゆ(15??~1581)】

城重岑の男。官途は越前守。通称十郎太郎。別名城親賢。室は鹿子木親員の娘。大友義鑑勢に属して、菊池義武と対立した。1536年、菊池義武勢に属した鹿子木鎮有は大友義鎮に隈本城を追われ、城親冬が城主となり、菊池義武は大友義鑑から肥後国守護職を追われ大友義鑑みずからが肥後国守護職となった。1550年、「二階崩れの変」で大友義鑑が討死すると、菊池義武は鹿子木親員、田島重賢らの支持を得て隈本城に入った。大友義鎮は肥後国に侵攻して菊池義武を攻撃した。大友義鎮勢に属くして戦功を挙げ、菊池義武は相良晴広を頼って落延びた。大友義鎮は、隈府城に赤星親家を入れ、隈本城に城親冬を配した。隈本城主として飽田郡、託麻郡を支配した。

城重照【じょうしげてる(15??~15??)】

城重岑の次男。官途は下野守。

城政冬【じょうまさふゆ(15??~15??)】

城重岑の三男(井田重綱の養子)。

城親賢【じょうちかかた(15??~15??)】

城親冬の男。官途は越前守。1558年、父城親冬の隠居により、城家の家督を相続した。岳林寺を再建し、荒れ果てた領地を回復するため領民に植樹を勧め、京都の楽市を真似て庭師を招いて植木市を興行し産業育成を図った。1578年、「耳川の戦い」で大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、大友義鎮の肥後国への影響力が低下した。城親賢は名和顕孝らとともに島津義久勢に属した。1580年、島津義久勢に属して甲斐宗運勢と白川旦過ノ瀬に戦ったが敗退した。1582年、龍造寺隆信が肥後国に侵攻すると降伏し、まもなく病没した。

城久基【じょうひさもと(1562~1588)】

城親賢の男。通称十郎太郎。1582年、父城親賢の病没により、城家の家督を相続したが、若年であったため叔父城親基の補佐を受けた。「九州征伐」後、大坂に呼び出されており、国人一揆には参陣しなかったため失領は免れたが筑後国石垣山に転封させられた。1588年、病没した。1582年、城親基は島津義久と結んで、龍造寺家政勢を「安楽寺の戦い」に撃破した。1586年、「九州征伐」では羽柴秀吉勢に属して島津義久勢と戦った。島津義久が降伏したのち、城久基は羽柴秀吉から8,000石をを所領安堵を受けたが、隈本城は収公された。「肥後国衆一揆」では、国衆一揆に関与することなく所領安堵を得たが、後に筑後国石垣山城に転封となった。1588年、石垣山城で病没した。

城親基【じょうちかもと(15??~1593)】

城親冬の次男(出田重基の養子)。官途は讃岐守。通称十郎太郎。別名出田一要。1581年、兄城親賢が病没すると、若年の城久基を補佐した。1582年、島津義久勢に属して龍造寺勢を肥後玉名安楽寺に撃破。「九州征伐」では島津義久と行動を異にし、本領安堵された。「肥後一揆」の際は大坂におり、失領は免れたが筑後国石垣山城に転封となった。1588年、城久基が病没すると、城家の家督を相続した。1593年、 城親基も病没したため、城家は断絶となった。

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【た】

高森惟直【たかもりこれなお(15??~1586)】

阿蘇郡高森城主。阿蘇惟将家臣。南郷七家の筆頭である高森惟居が一帯を治めた。1586年、「阿蘇の戦い」で、阿蘇惟将が島津義久勢に属したことに反発し、大友義鎮勢と結んだ。そのため、高森城は新納忠元勢の攻撃を受けた。高森惟直は大友義鎮に援軍を要請したが、それより前に新納忠元勢と決戦に臨んだが敗北。兵200人以上の討死を出し、高森惟直も討死した。

高森惟居【たかもりこれ(15??~15??)】

高森惟直の男。1586年、島津義久勢の攻撃を受け城主高森惟居が自刃し、高森城は落城した。高森惟居の娘(柏姫)が島津義久勢に斬られた。

多久宗員【たくむねかず(15??~15??)】

隈部親永家臣。山鹿郡鵠の巣城主。隈部親永の次席家老職。

多久宗貞【たくむねさだ(15??~15??)】

隈部親永家臣。山鹿郡熊入城主。

竹崎筑後守【たけさきちくごのかみ(15??~15??)】

本山惟久家臣。

田島重賢【たじましげかた(15??~15??)】

菊池義武家臣。1550年、鹿子木鑑有らとともに菊池義武を擁立した。

富田氏続【とみたうじつぐ(15??~15??)】

隈部親永家臣。山鹿郡日渡城主。

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【な】

長野惟久【ながのこれひさ(15??~1585)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡長野城主。1585年、島津義弘の攻撃を受け際、長野惟久は南郷城に入って討死した。

中村治部少輔【なかむらじぶしょうゆ(15??~15??)】

和仁親続家臣。

中村出羽守【なかむらでわのかみ(15??~15??)】

大津山家稜家臣。

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【は】

原野親宣【はらのちかのぶ(15??~15??)】

和仁親続家臣。通称藤弥太。

辺春親貞【へばるちかさだ(15??~15??)】

玉名郡坂本城主。官途は薩摩守。1582年、龍造寺隆信勢に属していた鷹尾城主田尻が謀反を起こすと、それに同調して、龍造寺隆信に謀反を起こした。龍造寺隆信勢は鷹尾城攻めに苦戦した。龍造寺隆信は、田尻攻めの手を緩め、小代実忠、大津山資冬に命じて、坂本城を攻撃した。辺春親貞勢は、酒井田統連、稲員安守勢の支援を受けて戦うが、鍋島直茂の知略により落城した。

辺春親行【へばるちかゆき(15??~1587)】

辺春親貞の男。官途は能登守。室は和仁親実の娘。1587年、「肥後国人一揆」では、和仁親実とともに田中城に籠城した。小早川秀包、安国寺恵瓊、立花宗茂、鍋島直茂、筑紫広門らの攻撃を受けてもよく守備したが、大津山資冬の内応により落城した。和仁親実、辺春親行らは斬頸になった。

辺春盛道【へばるもりみち(15??~1584)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡内牧城主。1584年、島津義久勢が侵攻すると、辺春盛道は内牧城に籠城したが、支えきれずに自刃した。

星子廉正【ほしこかどまさ(15??~1579)】

赤星統家家臣。長坂城主。官途は中務丞。1579年、龍造寺隆信、隈部親永らの攻撃を受けた。数日間の攻防の結果、城は落とされ、星子廉正は自刃した。

堀切種藤【ほりきりたねふじ(15??~15??)】

小代実忠家臣。玉名郡平山城主。

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【ま】

松尾親種【まつおちかたね(15??~15??)】

和仁親続家臣。官途は日向守。

松尾市正【まつおいちまさ(15??~15??)】

松尾親種の男。

光永宗甫【みつながそうほ(15??~1584)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡津森城主。1584年、「阿蘇の戦い」で、島津義久勢に徹底抗戦した。島津義久に降伏するがその後、再び反旗を抗った。島津義久勢の攻撃により、城親賢と合志隆重の手勢が崩れたのを見て総崩れに陥り、高森惟直、合志隆重、木山惟久らとともに討死した。

本山惟久【もとやまこれひさ(15??~15??)】

木山城主。別名本山惟貞。

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【や】

山鹿重安【やまげしげやす(15??~1587)】

隈部親永家臣。山鹿郡山鹿城主。1584年、島津義久勢が侵攻し、山鹿重安は降伏した。1587年、「肥後国衆一揆」が起こると、山鹿重安は隈部親永が籠城する城村城に入城した。開城後に自刃した。

吉田主水頭【よしだもんどのしょう(15??~1585)】

阿蘇惟将家臣。阿蘇郡吉田城主。

吉田高房【よしだたかふさ(15??~15??)】

山鹿郡下山田城主。

和仁親続【わにちかつぐ(15??~15??)】

玉名郡田中城主。別名和仁弾正忠。肥後国五二人衆のひとり。菊地義武に仕えていたが、菊地義武が大友義鎮に滅ぼされると大友義鎮勢に属した。龍造寺隆信勢の攻撃を受け落城、その後島津義久の支援を受け本領を回復した。

和仁親実【わにちかざね(15??~1587)】

和仁親続の男。通称勘解由。父和仁親続の病没後に田中城主となった。1587年、佐々成政の検地に対して、隈部親永らとともに「肥後国人一揆」を起こした。弟和仁親範と和仁親宗および姉婿辺春親行とともに田中城に籠城した。佐々成政は肥後国の各地で発生した国人一揆を単独で鎮圧できず援兵を求めた。羽柴秀吉は、小早川秀包、安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門ら兵10,000余りを肥後国に派遣した。和仁親実らは攻め手からよく城を守ったが、安国寺恵瓊による内応工作により落城、討死したした。

和仁親範【わにちなのり(15??~15??)】

和仁親続の次男。

和仁親宗【わにちかむね(15??~1587)】

和仁親続の三男。別名和仁人鬼。人相風体は身の丈七尺六寸もある大男。顔は真っ赤、目は光り輝き、手足は熊並だが動作は機敏で早いその風貌から 「人鬼」と称された。1587年、佐々成政の検地強行に抵抗して[肥後国人一揆」を起こした兄和仁親実とともに居城に籠城した。約二ヶ月抵抗したのち落城し討死した。

和仁統実【わにむねざね(15??~15??)】

和仁親実の次男。室は小野鎮幸の妹。1587年、「肥後国人一揆」では、立花宗茂にった。小野鎮幸を娶り、小野久右衛門と称した。

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【資料Ⅰ】

北肥後国(8郡/246,000石)

玉名郡:筒ヶ嶽城、田中城、坂本城。
山鹿郡:城村城、山鹿城。
菊池郡:隈府城。
阿蘇郡:高森城。
合志郡:竹迫城。
山本郡:内村城。
飽田郡:楠原城。
託麻郡:

※北肥後国という国は存在しません。個人的趣味として肥後国を北肥後国と南肥後国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

菊池家三家老【きくちけさんかろう】

赤星親家、隈部親永、城親冬。

菊池家五家老【きくちけごかろう】

赤星親家、隈部親永、鹿子木鑑有、田島重賢、木野親則。

和仁五人衆【わにごにんしゅう】

和仁親実、和仁親範、和仁親宗、中村治部、辺春親行。

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【資料Ⅲ】

北肥後国【きたひごのくに】

九州中央部に位置する西海道の国。北は筑肥山地を境に筑後国に接し、東北は阿蘇山の外輪山系で豊後国、東南は九州山地で日向国との国境を形成する。南は国見山山地の山々が薩摩国、大隅国と境を隔て、西は南北に有明海、島原湾、不知火海が続き、島原湾と不知火海を分ける宇土半島の先には。、大矢野島、天草諸島など数多くの島々が浮かぶ。三方を山に囲まれ、残る一方が海に面した地形で、豊後国、日向国との境界の山岳地帯から流れる球磨川、菊池川、緑川などの河川は、中流域の小国、阿曾、矢部、甲佐などの盆地地帯を通って、下流域の八代、菊池、熊本などの平野部を潤し、有明海、不知火海に注ぐ。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は、羽柴秀吉、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、立花道雪は戸次鑑連、高橋紹雲は高橋鎮種、陶晴賢は陶隆房の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「九州戦国合戦記」海鳥社、「大宰府戦国史」海鳥社、「筑前戦国史」葦書房、「筑後戦国史」葦書房、「九州戦国史」葦書房。「筑後争乱記(蒲池一族の興亡)」海鳥社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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