2015年12月6日日曜日

羽柴秀吉家臣団辞典(五奉行+大谷吉継編)

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【あ】

青木市左衛門【あおきいちざえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。鉄炮頭を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」で松平元康勢に捕縛された。「佐和山城の戦い」で開城を促す使者となった。

赤座三右衛門尉【あかざさんうえもんのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

浅野長勝【あさのながかつ(15??~1575)】

織田信秀家臣。浅野長詮の男。通称又右衛門。室は杉原家利の娘(七曲殿)。織田信秀に弓衆として仕えた。その後、織田信長の意向を受け羽柴秀吉に寄騎衆となった。杉原定利の娘である寧々、彌々の姉妹を養女として養育した。また姉婿の安井重継の甥浅野長政を彌々の婿養子に迎えた。寧々が羽柴秀吉に嫁いだことから浅野家は杉原家定とならんで羽柴秀吉の姻戚となった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浅野長政【あさの ながまさ(1547~1611)】

安井重継の男(浅野長勝の養子)。官途は弾正少弼。通称弥兵衛。室は浅野長勝の娘(彌々)。1573年、「小谷城の戦い」で戦功を挙げた。羽柴秀吉が長浜城主となると120石を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げて、近江国大津城20,000石を領した。1584年、五奉行の筆頭を務めた。1587年、「九州征伐」に参陣して戦功を挙げ、若狭国小浜城80,000石を領した。1593年、「文禄の役」でも戦功があり、加藤光泰の病没後に収公された甲斐国府中城215,000石を領した。検地や甲府城の修築を行い、甲斐国支配を進めた。1599年、前田利長らとともに松平元康謀殺の嫌疑を受け、家督を浅野幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。浅野長政は中山道を進み、浅野幸長は松平元康勢の先陣を務めて戦功を挙げた。役後、浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野幸長【あさのよしなが(1576~1613)】

浅野長政の男。官途は左京大夫。室は池田恒興の娘。1590年、「岩槻城の戦い」で父浅野長政とともに参陣した。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次の事件」連座し、能登国津向に配流されたが、前田利家、松平元康の取り成しにより復帰した。1597年、「慶長の役」では、蔚山城に拠って明国勢の李如梅と戦った。1598年、羽柴秀吉の病没後、加藤清正、福島正則、池田輝政らとともに五奉行の石田三成らと対立した。1599年、前田利家の病没後には福島正則、加藤清正らとともに石田三成の館を襲撃した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。「関ヶ原の戦い」では、南宮山の毛利秀元、長束正家勢に備え、垂井一里塚付近に陣を構えた。役後、紀伊国和歌山城370,000石を領した。1611年、加藤清正と協力して二条城における松平元康と羽柴秀頼の会談を実現させ、加藤清正とともに二条城の警備を行った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野長晟【あさのながあきら(1586~1631)】

浅野長政の次男。官途は右兵衛佐。室は松平元康の三女(振姫)。1594年、羽柴秀吉に仕えて3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、役後備中国足守城24,000石を領した。1613年、兄浅野幸長が嗣子無くして病没したため、浅野家の家督を相続して紀伊国和歌山城主となった。1614年、「樫井の戦い」では、松平元康勢に属して塙直之らを討取る戦功を挙げた。紀伊国内では「北山一揆」「紀州一揆」と土着勢力の相次ぐ蜂起に遭い、役後すぐに領内に戻り一揆の鎮圧にあたった。1619年、福島正則が改易されると、その後を受けて安芸国広島城420,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野長重【あさのながしげ(1588~1632)】

浅野長政の三男。通称長兵衛。室は竹谷松平家清の娘(松平元康の養女)。1593年、羽柴秀吉は、浅野長重を継嗣が宇都宮国綱の養子にする工作を行った、芳賀高武の反対により失敗に終わった。1599年、松平秀忠に小姓として仕えた。1600年、「関ヶ原の役」には、若年を理由に参陣できなかった。芳賀高武の旧領である下野国真岡城20,000石を領した。1611年、浅野長政の病没後、隠居料の常陸国真壁城50,000石を領して、真岡城20,000石を返上した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、毛利勝永らと戦い、家臣30人、雑兵100人余りを失い敗走した。1622年、本多正純が改易されると、宇都宮城の収城使を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野氏次【あさのうじつぐ(15??~15??)】

浅野長勝の男。通称善左衛門。

浅野氏重【あさのうじしげ(15??~1619)】

浅野氏次の男。官途は左衛門佐。1593年、浅野長政が甲斐国に転封になると、それに従い、都留郡勝山城を改築し、領内に北口本宮冨士浅間神社の西宮本殿を造営した。1600年、「関ヶ原の役」の戦功により浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領すると、筆頭家老職を務め、田辺城30,000石を領した。1613年、浅野幸長が病没すると、三弟の浅野長重を浅野家の後継者に推したが、次弟の浅野長晟が浅野家の家督を相続した。1615年、「樫井の戦い」では、亀田高綱らとともに、羽柴秀頼勢の大野治房、塙直之、淡輪重政らを撃破る戦功を挙げた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城に転封になると、浅野長晟と対立して謀殺された。

浅野忠吉【あさのただよし(1546~1621)】

浅野長忠の男。官途は右近大夫。1593年、浅野長政が甲斐国に転封になると、それに従い、身延山にある久遠寺の本殿を造営した。1600年、「関ヶ原の役」の戦功により浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領すると、紀伊国新宮城28,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」の参陣中、所領の熊野で北山一揆が勃発するが、戸田勝直らが一揆の拡大を防ぎ、浅野忠吉も大坂から折り返してこれを鎮圧した。1619年、浅野長晟が安芸国広島城に転封となると、備後国三原城30,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野正勝【あさのまさかつ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称六右衛門。1590年、伊達政宗から会津領を接収する役目に任じられた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅野良重【あさのよししげ(15??~16??)】

浅野長政家臣。通称左衛門佐。1615年、「大坂夏の陣」で、羽柴秀頼勢の塙直之を討取る戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安見甚七【あみじんしち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

有坂宮内【ありさかくない(15??~15??)】

長束正家家臣。1589年、「武蔵忍城の戦い」で、家所帯刀 、臼杵平四郎 、一宮善 兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。

安西左傳次【あんざいさでんじ(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

安藤直重【あんどうなおしげ(15??~1600)】

石田三成家臣。別名蒲生将監。はじめ蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷の病没後、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」で討死した。

家所帯刀【いえどころたてわき(15??~1600)】

長束正家家臣。1589年、「忍城の戦い」で臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。1600年、「水口城の戦い」で長束正家が亀井茲矩、池田長吉らと本領の安堵を条件に和議を結ぶが、嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞らとともに捕縛され自刃に追い込まれた。

石川民部【いしかわみんぶ(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、増田長盛の陣代として福西源次郎、大岡佐左衛門、福原清左衛門らを率いて参陣した。

石井三承【いしいさんじょう(15??~15??)】

浅野長政家臣。下野国検地では、浅野長政の家臣筆頭として功を挙げた。

石田為広【いしだためひろ(15??~15??)】

近江国坂田郡石田館主。和歌や文学に造詣が深い人物。

石田正継【いしだまさつぐ(15??~1600)】

石田為広の男。官途は隠岐守。通称藤右衛門。石田三成が羽柴秀吉に仕えると、代官職を務めて補佐した。1595年、石田三成が佐和山城主に任じられると、佐和山城代30,00石を領して石田三成の留守居役を務めた。1592年、「文禄の役」では、楠木正虎とともに肥前国名護屋城にあって帳簿関係を担当した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田正澄とともに佐和山城留守居役を努めた。石田三成勢が敗退すると、小早川秀秋らの猛攻を受け自刃した。

石田正澄【いしだまさずみ(15??~1600)】

石田正継の男。通称は弥三。弟の石田三成とともに羽柴秀吉に仕えた。近江国高島郡の代官職や堺町奉行を務め、近江国内で15,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、物資を朝鮮に輸送する任務につき、石田三成とともに功を挙げた。1597年、「慶長の役」では、伏見城留守居役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田正継とともに佐和山城を守備した。石田三成勢が大敗すると、小早川秀秋らの猛攻を受け自刃した。

石田朝成【いしだともなり(15??~1600)】

石田正澄の男。通称右近。1598年、弟の石田主水正とともに羽柴秀頼に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、父石田正澄らとともに佐和山城を守備した。石田三成勢が大敗すると、小早川秀秋勢の猛攻を受け自刃した。辞世の句は、「気にさそなにしに心はいそかるるかたふく月も今はいとはし」。

石田主水正【いしだもんどのしょう(15??~1600)】

石田正澄の次男。1600年、「関ヶ原の役」では、羽柴秀頼に対する人質として大坂城に留め置かれた。石田三成勢が大敗して佐和山城が小早川秀秋勢の猛攻を受け落城すると、高野山の木喰上人を頼ったが、まもなく自刃した。

石田三成【いしだみつなり(1560~1600)】

石田正継の男。官途は治部少輔。室は宇多頼忠の娘(皎月院)。辞世の句「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

石田重家【いしだしげいえ(1583~1686)】

石田三成の男。官途は隼人正。1600年、「関ヶ原の役」では、羽柴秀頼に対する人質として大坂城に留め置かれた。石田三成勢が大敗して佐和山城が小早川秀秋勢の猛攻を受け落城すると、京都妙心寺塔頭寿聖院の住職伯蒲恵稜によって剃髪して仏門に入った。京都所司代奥平信昌を通じて助命を願い、松平元康から許され、寿聖院の住職を務めた。

石田重成【いしだしげなり(1589~1641)】

石田三成の次男。官途は隼人正。通称仁兵衛。別名杉山源吾。羽柴秀頼に小姓として仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が大敗して佐和山城が小早川秀秋勢の猛攻を受け落城すると、津軽信建とともに津山甚内らとともに陸奥国に落延びた。大浦為信の庇護を受け深味村に隠棲した。

石田佐吉【いしださきち(15??~15??)】

石田三成の三男。別名深長坊清幽。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が壊滅すると、津田清幽、津田重氏が脇坂安治の家臣村瀬忠兵衛を捕縛して松平元康と石田佐吉の助命を交渉した。役後出家して甲斐国河浦山薬王寺十六世を務めた。

石田佐兵衛【いしださへい(15??~1600)】

石田三成の甥。1600年、「関ヶ原の役」では、能登国安代原城を守備した。松平元康勢の攻撃を受け自刃した。

五十表小平次【いそおもてこへいじ(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

磯野平三郎【いそのへいざぶろう(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、石田三成に渡辺勘平、塩野清助とともに従って落延びた。しかし、石田三成の意向を受け別々に落延びた。

一宮善兵衛【いちのみやぜんえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1589年、「武蔵忍城の戦い」で、家所帯刀 、臼杵平四郎 、一宮善 兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。

稲沢家貞【いなさわいえさだ(15??~15??)】

増田長盛家臣。

今中光安【いまなかみつやす(15??~16??)】

浅野長政家臣。通称勘右衛門。足利義昭に仕え山城国普賢寺城を領した。織田信長勢の攻撃を受け没落した。1577年、浅野長政に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げた。1614年、「大坂の陣」では、和歌山城留守居役を務めた。

岩田五助【いわたごすけ(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

岩間伝五郎【いわまでんごろう(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

入江権左衛門【いりえごんざえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、島津義弘勢の中央突破に従い先導役を務めた。

上原久兵衛【うえはらきゅうべい(15??~15??)】

増田長盛家臣。ルソン壺の代金受け取りの督促状を組屋甚四郎に送った。

鵜飼藤助【うかいとうすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「伏見城の戦い」で鳥居元忠は内藤家長、内藤元忠、佐野綱正、松平家忠、松平近正、駒井直方、岩間光春、多賀作左衛門、深尾清十郎、木下勝俊、上林竹庵らとともに伏見城に籠城したが、宇喜多秀家勢40,000余り攻撃を受けたが頑強に持ち堪えた。鵜飼藤助は長束正家の意向を受け、鳥居元忠勢の深尾清十郎を寝返らせて城内に火を放たせた。

臼杵平四郎【うすきへいしろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1589年、「武蔵忍城の戦い」で、家所帯刀 、臼杵平四郎 、一宮善 兵衛、有坂宮内、増田新次郎らとともに戦功を挙げた。

大滝源右衛門【おおたきげんざえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

大谷吉房【おおたに しふさ(15??~15??)】

羽柴秀吉家臣。官途は伊賀守。別名は大谷吉定。室は東殿。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が滅亡すると、羽柴秀吉に仕えた。

大谷吉継【おおたによしつぐ(15??~1600)】

大谷吉房の男。官途は刑部少輔。通称は紀之介。業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った。石田三成の推挙により、羽柴秀吉に仕え150石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」では、石田三成とともに兵站奉行を務めた。1589年、越前国敦賀城50,000石を領した。癩病を病み、両目の視力を失うに及んで羽柴秀吉に解職を願い出たが、その能力の高さゆえに許されなかった。1589年、「小田原の役」後、羽後国の検地奉行を務めた。1592年、「文禄の役」では、石田三成とともに船舶の調達にあたった。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に従うために兵1,000余りを率いて美濃国垂水まで進むが、石田三成の説得を受け石田三成勢に属した。大谷吉継は北陸方面を転戦後、美濃国に侵攻した。「関ヶ原の戦い」では、小早川秀秋勢の離反に備えて赤座直保、朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠らとともに陣を引いたが、小早川秀秋が離反すると、赤座直保、朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠の内応して、側背面を衝かれ大谷吉継勢は壊滅して討死した。

大谷吉治【おおたによしはる(1581~1615)】

大谷吉継の男。官途大学助。1597年、羽柴秀吉の饗応役を大谷吉継に代わりに務めた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、遺品の「鐘切りの刀」を受け取った。1600年、「関ヶ原の役」では、父大谷吉継とともに石田三成勢に属するが、小早川秀秋勢の離反により大谷吉継勢は壊滅したが、越前国敦賀城に落延びた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して足軽大将を務めた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、真田信繁勢とともに松平忠直勢と戦うが討死した。

大谷頼継【おおたによりつぐ(15??~1600)】

大谷吉継の次男。官途は山城守。別名木下頼継。羽柴秀吉に仕え越前国内で25,000石余りを領した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、父大谷吉継とともに石田三成勢に属した。小早川秀秋勢の離反により大谷吉継勢は壊滅したが、越前国敦賀城に落延びたが、まもなく病没した。

大谷泰重【おおたにやすしげ(15??~15??)】

大谷吉継の三男。官途は治部。

大石良定【おおいしよしさだ(1540~1608)】

山口宗永家臣。大石朝良の男。通称平左衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、山口宗永に従って石田三成勢に属したが敗れて浪人した。

大石一定【おおたにかずさだ(15??~15??)】

大石良定の男。浅野長重に仕えた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢に討死した。

大石良信【おおいしよしのぶ(15??~1599)】

羽柴秀次家臣。大石朝良の次男。通称久右衛門。室は進藤長治の娘(志茂)。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、浪人となった。

大石良照【おおいしよしてる(15??~15??)】

大石良信の男。

大石良勝【おおいしよしかつ(1587~1650)】

大石良信の次男。通称内蔵助。父大石良信は羽柴秀次に仕えた。石清水八幡宮の宮本坊で仏門に入ったが、まもなく武士に戻った。1604年、浅野長重に仕え300石を領した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で戦功を挙げ、筆頭家老職を務め1,500石を領した。

大石信云【おおいしのぶこと(1592~1675)】

大石良信の三男。通称八郎兵衛。室は奥野尚次の娘。兄大石良勝とともに浅野長重、浅野長直に仕え450石を領した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、大石良勝とともに戦功を挙げた。1645年、隠居して次男大石信澄に家督を譲った。

大岡佐左衛門【おおかさぜえもん(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代の石川民部に従って参陣した。

大谷次郎右衛門尉【おおたにじろうえもんのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

大橋掃部【おおはしかもん(15??~1600)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋が内応すると、石田三成勢が壊滅した。黒田長政の家臣後藤基次と一騎打ちとなり討取られた。

大場土佐守【おおばとさのかみ(15??~15??)】

石田三成家臣。官途は土佐守。通称三左衛門。若江八人衆のひとり。藤堂玄蕃、舞兵庫、大山伯耆らとともに羽柴秀次に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」でも羽柴秀次勢に属して参陣した。1584年、「小牧、長久手の戦い」にも参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が自刃すると、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成の侍大将として参陣した。「関ヶ原の役」後は、蜂須賀至鎮に仕えた。

大山伯耆守【おおやまほうきかみ(15??~1600)】

石田三成家臣。若江八人衆のひとり。官途は伯耆守。豊臣秀次に仕え馬廻衆を務めた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、石田三成に仕えた。1600年、「伏見城の戦い」では、高野越中守とともに石田三成の陣代理を務めた。「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の先陣を務めたが討死した。

岡部小衛門【おかべこえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

岡村数馬助【おかむらかずまのすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

奥村左馬助【おくむらさまのすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「水口城の戦い」では、池田長吉、亀井茲矩らのもとに赴き長束正家が自刃するための猶予を乞い認められた。長束正家は弟長束直吉とともに家臣奥村左馬助の介錯で自刃した。

岡本修理【おかもとしゅり(15??~15??)】

浅野長晟家臣。1619年、浅野長晟が安芸国広島城を領すると、浅野良重は備後国三原城を領することを望んだが、備後国三次城30,000石を領することになった。浅野良重はこれを拒否して屋敷に立て籠もった。岡本修理が浅野長晟の意向を受け木村石見守、平尾形部らとともに浅野良重を討取った。

大音新助【おとわしんすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。1594年、石田三成が領国に帰還すると、石田三成に代わって
黒川左近助、高橋新太夫、坂上源之丞、河崎新六ら奉行衆を率いて薩摩国、大隅国、日向国の検地の総奉行を務めた。

小野覚雲【おのかくうん(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称覚雲。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、浅野長政に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従い1,000石を領した。

小幡信世【おばたのぶよ(1578~1600)】

石田三成家臣。,通称助六。石田三成に仕えて納戸頭を務めた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が壊滅すると、近江国石山寺に落延びたが捕縛された。石田三成の所在を問い質されたが白状せずに自刃した。

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【か】

笠井慶秀【かさいよしひで(15??~16??)】

大谷吉継家臣。笠井満秀の男。1600年、「関ヶ原の役」で大谷吉継が討死すると、井伊直政に仕えた。

柏原彦右衛門【かしはらひこえもん(15??~16??)】

石田三成家臣。1600年、使者として大谷吉継もとに派遣された。「美濃岐阜城の戦い」では、河瀬左馬助、柏原彦右衛門、柏原内膳、大西善左衛門、松田重太夫らとともに石田三成勢に属した織田秀信への援軍に派遣され、美濃瑞龍寺山砦を守備した。浅野幸長や一柳直盛らの攻撃を受けた。

上坂吉次【かみさかよしつぐ(15??~1650)】

浅野長政家臣。通称六右衛門。浅野長政に200石で仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

河瀬左馬助【かわせうまのすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「岐阜城の戦い」では、柏原彦右衛門、柏原内膳、大西善左衛門、松田重太夫らとともに石田三成勢に属した織田秀信への援軍に派遣され、美濃瑞龍寺山砦を守備した。浅野幸長、一柳直盛らの攻撃を受けた。

河瀬織部【かわせおりべ(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「佐和山城の戦い」では、搦手を守備した。

川副式部丞【かわふくしきぶのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

河村長門守【かわむらながとのかみ(15??~15??)】

増田長盛家臣。1600年、上杉景勝に誓詞を求めるため、伊奈昭綱とともに会津に下向した。

岸久七【きしきゅうしち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

北村権右衛門【きたむらごんえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1597年、安房国の検地奉行を務めた。

木下小次郎【きのしたこじろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

木村石見守【きむらいわみのかみ(15??~15??)】

浅野長晟家臣。1619年、浅野長晟が安芸国広島城を領すると、浅野良重は備後国三原城を領することを望んだが、備後国三次城30,000石を領することになった。浅野良重はこれを拒否して屋敷に立て籠もった。岡本修理が浅野長晟の意向を受け木村石見守、平尾形部らとともに浅野良重を討取った。

熊沢直勝【くまざわなおかつ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称兵庫介。浅野長政に仕え2,400石を領した。1614年、「紀州一揆」では、大坂に参陣していたが地元に戻って鎮圧に務めた。「百貫島の戦い」で一揆勢の山室彦左衛門と一騎打ちを行った。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従い3,200石を領した。

桑島治右衛門【くわじまじえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。1599年、前田利家が病没すると、福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政らと石田三成、増田長盛、長束正家らとの仲裁を図るものがいなくなった。福島正則らは石田三成の屋敷を襲撃し、石田三成を討取ることを企てた。石田三成は羽柴秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に落延びた。

小堺是成【こさかいこれなり15??~1582)】

織田信長家臣。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢と戦い討死した。

小堺吉景【こさかいよしかげ(15??~1614)】

浅野長政家臣。官途は兵部少輔。浅野長政に仕え戦功を重ね1,500石を領した。1614年、「木津川口の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い討死した。

小島利元【こじまとしもと(15??~16??)】

浅野長政家臣。小島清右衛門の男。通称九郎兵衛。浅野長政に仕えた切米50石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、馬廻衆として参陣した。

小西治右衛門【こにしじえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が敗れ、長束正家が自刃すると、形見の品を拝領した。

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【さ】

堺猪左衛門尉【さかいいざえもんのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

坂井平三郎【さかいへいざぶろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

佐久間与左衛門【さくまよざえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

三位融盛【さんいゆうせい(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

塩屋法順【しおやほうじゅん(15??~15??)】

増田長盛家臣。郡山城代を務めた。

篠原金助【しのはらきんすけ(15??~15??)】

長束正家家臣。1597年、安房国の検地奉行を務めた。安房国長狭郡の小原村と小町村は、領地を巡り争うと、領地を取り決める裁定に列席した。

島清興【しまきよおき(1540~1600)】

石田三成家臣。官途は左近。別名島勝猛。松倉重信とともに筒井順昭に仕え、「筒井家の右近左近」と称された。1585年、筒井定次と不仲になり筒井家を辞し、羽柴秀長に仕えた。1594年、羽柴秀保が病没すると、石田三成に仕えた。1600年、「杭瀬川の戦い」では、中村一栄勢を撃破した。「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の先陣を務め、黒田長政勢と戦ったが、銃撃を受けて討死した。

島信勝【しまのぶかつ(1585~1600)】

島清興の男。通称新之丞。別名島政勝。父島清興が加増を固辞したため、代わりに3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、大谷吉継勢の軍奉行を務めた。藤堂高虎の甥藤堂良政を討取る戦功を挙げるが、藤堂良政の家臣山本牛三郎に討取られた。
 
島友勝【しまともかつ(15??~15??)】

島清興の次男。通称吉次郎。別名島忠正。室は財満貞之丞の娘。1600年、「関ヶ原の役」には参陣せず敗報を聞き母とともに安芸四日市に落延びた。後に「白牡丹酒造」を興した。

島清正【しまきよまさ(15??~1600)】

島清興の四男。1600年、「関ヶ原の役」では、大谷吉継隊に属して戦い討死した。
 
島勘左衛門【しまかんえもん(15??~15??)】

嶋清興の従弟。島清興とともに石田三成に仕えた。

下河原惣左衛門【しもがわらそうざえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

杉江勘兵衛【すぎえかんべえ(15??~1600)】

石田三成家臣。もと稲葉良通に仕えた。島清興、舞兵庫とともに猛将さを謳われた。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で藤堂高虎、黒田長政、田中吉政らと戦い、田中吉政の家臣辻重勝に討取られた。

薄田源太郎【すすきだげんたろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

菅田四郎右衛門【すだしろうえもん(15??~16??)】

浅野長政家臣。1614年、「伯楽淵砦の戦い」では、池田輝政の家臣箕浦右近が一番頸の戦功を挙げた。頸実検で菅田四郎右衛門が平子貞詮の頸であることを証言した。

須藤権右衛門【すどうごんえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。石田三成のもとで、城下の民衆との夫役問題では交渉役を務めた。

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【た】

高田一英【たかだかずえい(15??~15??)】

増田長盛家臣。官途は遠江守。もと 羽柴秀長家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、高野山に蟄居した増田長盛の意向を受け開城を命ずる書状を受け取り山川半平とともに大和郡山城にと届け開城させた。

高樋主水【たかとうもんど(15??~1615)】

増田長盛家臣。通称主水。1600年、「関ヶ原の役」後、増田長盛が改易処分に処されると、浪人となり大和国に隠棲した。1615年、「大坂夏の陣」では、上洛する松平元康の焼討ちを図るが、河内国駒ヶ谷で捕縛され、奈良奉行中坊秀政のところに送られた。

高橋二郎兵衛【たかはしじろうべい(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

高野盛定【たかのもりさだ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称吉右衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領しすると、それに仕え300石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従った。

高野越中守【たかのえっちゅう(15??~15??)】

三好康長家臣。官途は左馬助。別名平尾形部。羽柴秀次が三好康長の養子になるとその家臣となり、馬廻衆組頭を務めた。若江八人衆のひとり。1595年、「羽柴秀次事件」後、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。役後、浅野幸長に仕えた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城を領すると、浅野良重は備後国三原城を領することを望んだが、備後国三次城30,000石を領することになった。浅野良重はこれを拒否して屋敷に立て籠もった。岡本修理が浅野長晟の意向を受け木村石見守、平尾形部らとともに浅野良重を討取った。

拓殖吹郎吉【たくしょくふきろうきち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

竹内伊右衛門【たけうちいえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。

田中藤七郎【たなかとうしちろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

田中三十郎【たなかさんじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

谷市助【たにいちすけ(15??~15??)】

増田長盛家臣。

津田清幽【つだきよふか(15??~15??)】

石田正澄家臣。織田信氏の次男。1600年、「佐和山城の戦い」では、継嗣の津田重氏とともに幾度も小早川秀秋勢を撃退した。松平元康の使者舟越景直と和議の交渉を行った。石田正澄の自刃を条件に城兵の和議が結ばれたが、羽柴秀頼の家臣長谷川守知が内応、小早川秀秋、小川祐忠、脇坂安治、田中吉政らを城内に引き入れ佐和山城は落城、石田正澄、石田正継らが自刃した。津田清幽は脇坂安治の家臣村越忠兵衛を捕縛すると、松平元康と交渉を行ない石田佐吉の助命を認めさせた。

津田重氏【つだしげうじ(15??~15??)】

津田清幽の男。1600年、「佐和山城の戦い」では、父津田清幽とともに幾度も小早川秀秋勢を撃退した。

津田新八【つだしんぱち(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

津田重長【(15??~15??)】

増田長盛家臣。

土田成久【つちだなりひさ(15??~1600)】

石田三成家臣。別名東雲斎。石田三成に仕えた。1600年、「佐和山城の戦い」で小早川秀秋勢と戦い自刃した。

土田友成【つちだちもなり(15??~15??)】

土田成久の次男。1600年、「佐和山城の戦い」後、石田朝成とともに西国に落延びた。

土屋守四郎【つちやもりしろう(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、最後まで本陣に留まった。

津山甚内【つやまじんない(15??~15??)】

石田三成家臣。通称喜内。1600年、「関ヶ原の役」では、石田重成とともに大坂城を守備した。石田三成勢が壊滅すると、石田重成とともに大浦為信を頼って落延びた。

戸田勝直【とだかつまさ(15??~16??)】

浅野長政家臣。1583年、浅野長政に仕え100石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、浅野幸長が紀伊国和歌山城370,000石を領すると、浅野忠吉の附家老職に任じられ新宮城代を務めた。1614年、「紀州一揆」では、新宮城が一揆勢3,000余りの攻撃を受けたが手勢60余りで夜襲を行ない一揆勢を敗走させる戦功を挙げた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、浅野忠吉が備後国三原城主に任じられ、その城代を務めた。

戸部武直【とべたけなお(15??~1600)】

石田三成家臣。戸部正直の男。1600年、「関ヶ原の役」では、佐和山城留守居役を務めた。「佐和山城の戦い」で松平元康勢と戦い討死した。

戸部忠直【とべただなお(15??~16??)】

戸部武直の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父戸部武直とともに佐和山城留守居役を務めた。「佐和山城の戦い」で松平元康勢に捕縛されたが、後に許されて最上義光に仕えた。

富永主膳【とみながしゅぜん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

伴五兵衛【ともごへえ(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代の家所帯刀に従って参陣した。甲賀衆の鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせ、伏見城攻落とす戦功を挙げた。1637年、「島原の乱」では、岩根勘右衛門に従って松平信綱勢に属して参陣した。島原城に潜入して兵糧不足を報告する功を挙げた。

伴藤三郎【ともとうざぶろう(15??~15??)】

長束正家家臣。

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【な】

中田六兵衛【なかたろくべい(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

中村金六【なかむjらきんろく(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「大津城の戦い」では、陣代の増田作左衛門に従って参陣した。京極高次の家臣浅見藤右衛門を討取る戦功を挙げた。

長束正家【なつかまさいえ(1562~1600)】

丹羽長秀家臣。水口盛里の男。通称利兵衛。室は本多忠高の娘(栄子)。1585年、丹羽長秀が病没すると、奉行衆として羽柴秀吉に仕えた。蔵入地の管理や検地に功を挙げた。1589年、「忍城の戦い」では、家臣の家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城で小荷駄奉行を務めた。1595年、近江国水口城50,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂城下に残る諸将の妻子を人質とする作戦を担当したが山崎家盛らの知略により失敗した。「伏見城の戦い」では、陣代の家所帯刀を派遣して甲賀衆の鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城させる戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」では、南宮山に布陣したが、本戦には参陣せず石田三成勢は壊滅した。山岡道阿弥勢の追撃を受け、弟の長束玄春が討死したが。松田秀宣の奮戦で水口城に帰還した。亀井茲矩、池田長吉らと本領の安堵を条件に和議を結ぶが、嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞らとともに捕縛され、弟の長束直吉とともに家臣奥村左馬助の介錯で自刃した。

長束助信【なつかすけのぶ(1589~16??)】

長束正家の男。通称半右衛門。室は細川忠興の娘(伊也姫)。1600年、「関ヶ原の戦い」では、室の実家(吉田兼治の屋敷)に難を避け、さらに細川藤孝の居城である田辺城へ匿われた。父長束正家が改易処分に処されると、細川忠興に仕えた。

長束直吉【なつかなおよし(1567~1600)】

水口盛里の次男。官途は伊賀守。通称次郎兵衛。兄長束正家とともに小荷駄奉行を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組頭を務めた。近江国内で10,000石を領した。平野新八とともに羽柴秀次の領地、日野輝資の領地の検地奉行を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、兄長束正家の近江国水口城を守備した。石田三成勢が壊滅をると、池田長吉勢に水口城を包囲され、桜井谷で長束正家とともに自刃した。

長束玄春【なつかげんしゅん(15??~1600)】

水口盛里の三男。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、長束正家は水口城に撤退した。山岡景友勢の追撃を受けて敗走、長束玄春は捕縛され斬頸に処された。

長束与十郎【なつかよじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、長束正家の自刃すると、形見の品を拝領した。

西川兵庫【にしかわひょうごう(15??~15??)】

長束正家家臣。織田信長に仕えた。1585年、「伊勢宮山城の戦い」で木造具康勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「武蔵忍城の戦い」でも戦功を挙げた。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代として長束正家勢を率いた。1600年、「近江水口城の戦い」では、亀井茲矩、池田長吉勢に包囲され、本領安堵の条件で城から出たところ長束正家とともに捕縛された。このとき嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞らも池田長吉勢に捕縛され自刃した。

野依時【のよりとき(15??~1635)】

増田長盛家臣。通称清右衛門。大和宇陀野依荘出身。羽柴秀保が病没すると、郡山城主となった増田長盛に仕えた。1600年、「大津城の戦い」に参陣した。役後、生駒政俊、筒井定次らに仕え、最後に藤堂高虎に使え1,000石を領した。

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【は】

伯蒲恵稜【はくほえりょう(1543~1628)】

臨済宗の僧。龍安寺、妙心寺で位頭を務めた。石田三成に招かれ、石田正継の菩提所寿聖院開山となる。後に石田三成の継嗣石田重家は松平元康勢の落武者狩りから逃れるため、寿聖院に落延びた。

橋元久八【はしもとひゅうはち(15??~15??)】

大谷吉継家臣。

橋与兵衛【はしよへい(15??~16??)】

増田長盛家臣。郡山城代を務めた。

長谷藤十郎【はせとうじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

林守家【はやしもりいえ(1559~1621)】

浅野長政家臣。通称六郎左衛門。織田信孝に仕えた。1583年、織田信孝が自刃すると、福島正則に仕え1,000石を領した。1594年、浅野長政に仕え310石を領した。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。浅野幸長が紀伊国和歌山376,000石に転封されると熊野地方の代官職を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では和歌山城の南門を守備した。

林半助【はやしはんすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。石田三成に仕え700石を領した。1600年、「杭瀬川の戦い」で一番頸を上げる戦功を挙げた。

原可永【はらよしなが(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称勘兵衛。日野根弘就に仕えた。浅野幸長に仕えた。1606年、組頭となり2,500石を領した。1615年、「紀州一揆」の鎮圧で戦功を挙げた。

引塩伝右衛門【ひきしおでんえもん(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1594年、明国の講和使節沈惟敬が来日した際、相調可申添奉行務めた。

一柳大六【ひとつやなぎだいろく(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

日比野小十郎【ひびのこじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

平塚久賀【ひらつか ひさよし(15??~15??)】

石田三成家臣。平塚入道無心の次男。官途は越中守。兄平塚為広とともに猛将として知られた。松平元康から仕官の誘いを受けるが、それを断って石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅すると、松平元康勢に捕縛されたが、許された。

広瀬加兵衛尉【ひろせかへいのじょう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

伏兎彦之丞【ふくとひこのじょう(15??~1600)】

長束正家家臣。1600年「関ヶ原の役」で亀井茲矩、池田長吉に水口城を攻められ籠城した。亀井茲矩、池田長吉らに本領の安堵を約束されるが城から出たところ長束正家とともに捕縛された。このとき伏兎彦之丞、嶺三郎兵衛、家所帯刀らも入城した池田勢に捕縛され自刃した。

福原清左衛門【ふくはらせいざえもん(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、伏見城内に籠城する甲賀衆に寝返りを促し落城に導いた。

福西源次郎【ふくにしげんじろう(15??~16??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」では、陣代の石川民部に従って参陣した。

古高正永【ふるたかまさなが(15??~15??)】

長束正家家臣。

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【ま】

舞兵庫【まいひょうご(1560~1600)】

石田三成家臣。別名前野忠康。室は前野長康の娘。若江八人衆のひとり。はじめ羽柴秀次に仕え各地を転戦した。1595年、「羽柴秀次事件」では、羽柴秀次が自刃すると、附家老職を務めていた岳父前野長康が自刃したため、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の先陣を島清興とともに務め、黒田長政勢、田中吉政勢、藤堂高虎勢を何度も撃退した。石田三成勢が敗走を始めると、松平元康勢に突撃して継嗣の舞三七郎とともに討死した。

舞三七郎【まいさんしちろう(15??~15??)】

舞兵庫の男。1600年、「関ヶ原の戦い」で黒田長政勢や田中吉政勢と戦い父舞兵庫とともに討死した。

舞左馬助【まいうなのすけ(15??~15??)】

舞兵庫の次男。1600年、「関ヶ原の戦い」で父舞兵庫が討死したため、藤堂高虎の仲介で丸亀城主生駒一正に仕えた。

前田基勝【まえだもとかつ(1539~1602)】

前田基光の男。官途は民部卿法印。別名前田玄以。五奉行衆のひとり。室は村井貞勝の娘。はじめ尾張国小松原寺の僧侶であったが、織田信長に仕えた。後に織田信長の意向を受け織田信忠の附家老を職を務めた。1582年、「本能寺の変」では、二条御所から織田信忠の継嗣織田秀信とともに落延びた。1583年、織田信雄から京都所司代に任じられた。1584年、羽柴秀吉に仕え京都所司代として朝廷との交渉役を務めた。1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行を務めた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、内部抗争の沈静化に尽力した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したが西国の状況を逐一松平元康に伝えた。病気を理由に戦場へは参陣しなかった。役後、丹波国亀山城の本領を安堵された。

前田秀以【まえだひでもち(1576~1601)】

前田基勝の男。官途は左近将監。通称半右衛門。洗礼名「パウロ」。父前田基勝とともに羽柴秀吉に仕えた。前田基勝の影響を受け切支丹に改宗した。1596年、羽柴秀吉の意向を受け畿内の切支丹を弾圧した。前田秀以は密かに切支丹を匿った。前田基勝は前田秀以に棄教するように促したが、前田秀以はこれに従わず、弟前田茂勝に継嗣の座を譲った。

前田正勝【まえだまさかつ(1581~1623)】

前田基勝の次男。通称半右衛門。室は小野四郎右衛門の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、江戸城に留め置かれた。役後丹波国桑田、船井両郡において1,000石を領した。

前田茂勝【まえだしげかつ(1581~1621)】

前田基勝の三男。官途は主膳正。通称彦四郎。洗礼名「コンスタンチノ」。1600年、「丹後田辺城の戦い」では、細川藤孝が守る田辺城を攻め、開城の使者も務めた。役後、所領を安堵された。1602年、父前田基勝の病没後、前田家の家督を相続した。その後、丹波国亀山城から丹波国八上城に転封された。基督教を信仰していたため、松平秀忠から危険視された。自身も政治を省みずに放蕩に耽り、諫言をする家臣の尾池清左衛門を謀殺した。改易処分に処され堀尾忠晴に預けられた。

牧野成里【まきのしげさと(1556~1614)】

石田三成家臣。牧野成継の男。官途は伊予守。通称伝蔵。若江八人衆のひとり。滝川一益、織田信雄、長谷川秀一らに仕えた。1592年、「文禄の役」で長谷川秀一が陣没すると、羽柴秀吉の意向を受け長谷川秀一勢を指揮した。日本に帰還後、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢が壊滅すると、池田輝政のもとに落延びた。1603年、松平元康に仕えて、下野国簗田館で3,000石を領した。1606年、御持筒頭に任じられた。

増田長盛【ましたながもり(1545~1615)】

羽柴秀吉家臣。官途は右衛門少尉。通称仁右衛門。室は森可成の娘。1573年、羽柴秀吉に仕えて300石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、先陣を務め、戦功を挙げ20,000石を領した。1587年、「九州征伐」では、小荷駄奉行を務めた。五奉行に任じられ検地、庶務、民政などで功を挙げた。1589年、「小田原の役」でも小荷駄奉行を務めた。1595年、大和国郡山城200,000石を領して羽柴秀保の家臣高田一英、浅井井頼らを召抱えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂城留守居役を務めた。役後、改易処分に処され高野山へ追放された。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼への使者を命じられたが拒絶した。1615年、「大坂夏の陣」で継嗣の増田盛次が羽柴秀頼勢に属したため、自刃を命じられた。

増田盛次【ましたもりつぐ(1580~1615)】

増田長盛の次男。通称兵部大輔。1590年、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、連座して謹慎処分に処された。1600年、「関ヶ原の役」では、父増田長盛とともに石田三成勢に属した。役後、増田長盛が改易処分に処されると、増田盛次と兄増田長勝は叔父増田長俊の養子となり連座を免れ松平義直に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平義直勢に属して参陣し戦功を挙げた。その後、松平義直の了承を得て、増田長盛とともに羽柴秀頼のもとに参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、長宗我部盛親勢に属した。「天王寺、岡山の戦い」で敗走する長宗我部盛親勢の殿を務めたが、藤堂高虎の家臣磯野行尚に討取られた。

増田安俊【ましたやすとし(15??~16??)】

増田長盛家臣。通称作左衛門。1600年、「大津城の戦い」では、増田長盛の陣代として参陣した。

増田新次郎【ましだしんじろう(15??~15??)】

長束正家家臣。

増田安俊【ましたやすとし(15??~15??)】

増田長盛家臣。通称作左衛門。1600年、「大津城の戦い」では、増田長盛の陣代を務め湖側から大津城を攻撃した。

松田秀宣【まつだひでのぶ(15??~1600)】

長束正家家臣。指物に『天下一卑怯者』と大書して各地を転戦した。蒲生氏郷に仕え戦功を重ね鉄砲頭を務めた。蒲生氏郷の病没後、長束正家に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、退却する長束正家勢の殿を務めたが池田輝政勢の追撃を受け討死した。

松田重太夫【まつだじゅうだいふ(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「岐阜城の戦い」では、河瀬左馬助、柏原彦右衛門、柏原内膳、大西善左衛門らとともに石田三成勢に属した織田秀信への援軍に派遣され、美濃稲葉山砦守将を守備した。井伊直政勢の攻撃を受けた。

溝口理兵衛【みぞぐちりへえ(15??~16??)】

浅野長政家臣。通称理兵衛。1614年、「樫井の戦い」後、浅野長晟が紀伊国山口に帰陣した際、和歌山まで戻ったため、罪に問われ改易処分に処された。

三浦喜太夫【みうらきちだいふ(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が壊滅して大谷吉継が自刃すると、大谷吉継の頸を袋に包んで従軍僧祐玄に持せた。湯浅隆貞とともに藤堂高虎勢と戦い討死した。

南彦右衛門【みなみひこえもん(15??~15??)】

長束正家家臣。1597年、安房国の検地奉行を務めた。安房国長狭郡の小原村と小町村が領地を巡って争うと、領地を取り決める裁定に列席した。

嶺三郎兵衛【みねさぶろべえ(15??~1600)】

長束正家家臣。1600年、「水口城の戦い」では、亀井茲矩、池田長吉勢の攻撃を受けるが、長束正家が亀井茲矩、池田長吉らと本領の安堵を条件に和議を結ぶが、城から出たところ長束正家とともに捕縛された自刃した。

武藤安成【むとうやすなり(1558~1624)】

増田長盛家臣。武藤安盛の男。通称理兵衛。室は鈴木重五左衛門の娘。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が改易処分に処されると、山城国に酬恩庵に隠棲した。
1606年、松平元康に勘定奉行として仕え大和国式下郡内で510石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、「大坂夏の陣」には、継嗣の武藤安信とともに参陣した。

武藤安信【むとうやすのぶ(15??~15??)】

武藤安成の男。

武藤安之【むとうやすゆき(15??~15??)】

武藤安成の次男。

武藤安通【むとうやすみち(15??~15??)】

武藤安成の三男。

牟礼朝泰【むれともやす(15??~15??)】

石田重成家臣。通称孫兵衛。石田重成に仕え700石を領した。

森九兵衛【もりきゅうべい(15??~15??)】

石田三成家臣。若江八人衆のひとり。1600年、「渡川の戦い」では、舞兵庫らとともに松平元康勢と戦い、敗れて退却した。「関ヶ原の戦い」では、舞兵庫とおtもに石田三成勢の先陣を務め、奮戦したが討死した。

諸角余市【もろずみよいち(15??~15??)】

大谷吉継家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、最後まで本陣に留まった。

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【や】

安井正忠【やすいまさただ(15??~15??)】

浅野長政家臣。通称喜内。若江七人衆のひとり。羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃すると、前田基勝に仕えた。前田茂勝が改易されたため再び浪人となった。1608年、「大坂夏の陣」では、浅野長晟勢に属して足軽大将を務めた。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従い2,300石を領した。

八十島助左衛門【やそじますけざえもん(15??~15??)】

石田三成家臣。1600年、「関ヶ原の戦い」では、戦闘を静観する島津義弘勢のもとに参戦を促す使者となった。馬上から石田三成からの口上を述べたため、島津豊久を激怒させた。

矢野源六郎【やのげんろくろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山川半平【やまかわはんぺい(15??~15??)】

増田長盛家臣。1600年、「伏見城の戦い」で、京極高次のもとに降伏を勧める使者として赴いた。

山口三十郎【やまぐちさんじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山田上野介【やまだうえのすけ(15??~15??)】

石田三成家臣。茶阿局の実兄。1600年、「佐和山城の戦い」で松平元康勢と戦い討死した。

山田隼人正【やまだはやとのじょう(15??~15??)】

山田上野介の男。室は石田三成の娘。1600年、「佐和山城の戦い」で父山田上野介は討死したが、親戚の孝蔵主のもとに落延びた。松平忠輝に仕え家老職を務めた。

山田半三郎【やまだはんざぶろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山名市十郎【やまないちじゅうろう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

山羽虎蔵【やまばとらぞう(15??~15??)】

長束正家家臣。1592年、「文禄の役」では、長束正家に従って肥前国名護屋城を守備し、三の丸御番衆馬廻組三番組を務めた。

湯浅隆貞【ゆあさたかさだ(15??~1600)】

大谷吉継家臣。別名湯浅五助。大谷吉継に仕え馬屋別当職を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋勢の攻撃を受け大谷吉継勢が壊滅すると、大谷吉継の介錯を務めた。湯浅隆貞は大谷吉継の頸をを戦場から離れた場所に埋めたが、藤堂高虎の家臣藤堂高刑に発見され、自らの頸を差し出し大谷吉継を頸の在り処を隠匿した。

湯浅十郎左衛門【ゆあさじゅうろうざえもん(15??~16??)】

湯浅隆貞の男。1600年、「関ヶ原の役」後、高力家に仕えた。

渡辺勘兵衛【わたなべかんべえ(15??~1600)】

石田三成家臣。通称新之丞。石田三成に仕え500石を領したが、石田三成は知行の10分1を与える約束をして雇用した。石田三成が佐和山城主となると、渡辺勘兵衛の知行を加増しようとしたが、渡辺勘兵衛は「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と固辞した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、黒田長政の家臣後藤基次と一騎打ちを行った。石田三成勢が壊滅すると、重傷を負い自刃した。

龍神頼春【りゅうじんよりはる(15??~15??)】

浅野長政家臣。1619年、浅野長晟が安芸国広島城426,000石を領すると、それに従った。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

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【資料Ⅰ】

五奉行【ごぶぎょう】

前田基勝、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家。

若江八人衆【わかえはちにんしゅう】

大場土佐守、(石田三成勢の右翼を守備し奮戦した)、大山伯耆守(石田三成勢の先陣を務め奮戦したが討死した)、高野越中守(石田三成勢に従って奮戦した。役後、浅野幸長に仕えた)、藤堂良政(藤堂高虎勢の先陣を務めて奮戦したが討死した)、舞兵庫(石田三成勢の先陣として奮戦したが、継嗣とともに討死した)、牧野成里(石田三成勢の後備を守った。役後、松平元康に仕えた)、森九兵衛(石田三成勢の先陣を務め、奮戦したが討死した)、安井喜内(浅野幸長に仕えた)。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by新田次郎、『武田信玄(全2巻)』by津本陽、『武田勝頼(全3巻)』by、『国盗り物語(全4巻)』by新潮文庫、『兵は詭道なり 斎藤道三』by学研M文庫、『ふたり道三(全3巻)』by徳間文庫、『斎藤道三(戦国史記)』by光文社文庫、『浅井長政の決断―賢愚の岐路』by笹沢左保、『浅井長政―信長に反旗を翻した勇将』by星亮一、『浅井長政』by江宮隆之、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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2015年11月4日水曜日

松平元康家臣団辞典(その他)

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【あ】

青山忠門【あおやまただかど(1518~1571)】

松平広忠家臣。青山忠世の男。通称藤右衛門。室は卯野某の娘。別名青山忠義。目額郡国人衆で松平広忠に仕えた。1548年、「第二次小豆坂の戦い」に参陣した。松平広忠の討死後は、今川義元勢に属した。1560年、「桶狭間の戦い」では、松平元康勢に属して織田信長勢と戦った。今川義元の討死後は、松平元康勢に属した。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して岡崎城を守備した。1571年、「三河侵攻」では、防戦に努めたが、その際の傷がもとで病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青山忠成【あおやまただなり(1551~1613)】

青山忠門の男。官途は播磨守。室は天方通興の娘。1571年、父青山忠門の討死により青山家の家督を相続した。1585年、松平元康の三男松平秀忠の傅役に命じられた。1590年、松平元康が関東に移封され江戸城主となると江戸街奉行に任じられ5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠に属していた。1601年、常陸国江戸崎城15,000石を領した。さらに江戸奉行、関東総奉行を兼任し、本多正信、内藤清成とともに老中職を務めた。1606年、内藤清成とともに蟄居を命ぜられたがまもなく赦免された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青山忠次【あおやまただつぐ(1577~1595)】

青山忠成の男。青山家の家督を継ぐことなく早世した。

青山忠俊【あおやまただとし(1578~1643)】

青山忠成の次男。官途は伯耆守。通称藤五郎。室は大久保忠佐の娘。1589年、「小田原の役」に参陣した。兄青山忠次の病没により青山家の家督を相続した。1603年、「関ヶ原の役」の戦功により5,000石を領した。1607年、土井利勝、酒井忠世とともに松平家光の傅役を務めた。1610年、5,000石を加増され10,000石を領して諸侯に列した。1613年、父青山忠成の病没により、江戸崎城主となった。1615年、江戸城本丸中老職となった。1620年、岩槻城55,000石を領した。1623年、青山忠俊は松平家光に諫言を繰り返したため老中職を免職のされ、上総国大多喜城20,000石に減転封された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

青山幸成【あおやまよしなり(1586~1643)】

青山忠成の三男。官途は大蔵少輔。通称石之助。室は小笠原信之の娘。1602年、下総国印旛郡内で500石を領した。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣した。1619年、書院番頭、評定衆に任じられ、常陸国新治郡などで13,000石を領して諸侯に列した。1633年、遠江国掛川城26,000石に転封された。1635年、摂津国尼崎城50,000石に転封された。青山幸成は、内政を充実させるため儒学者を招聘して文学を奨励し、大庄屋制度を制定し、積極的な新田開発を行い4,000石の新田を開発した。1640年、讃岐国高松城主生駒高俊の改易処理を行い、松平頼重の入封を支援した。

青山忠重【あおやまただしげ(15??~1571)】

松平広忠家臣。青山忠世の男。1571年、討死した。

青山成重【あおやまなりしげ(1549~1615)】

服部正信の次男(青山忠重の養子)。官途は図書助。通称七右衛門。室は常岡当自の娘。1571年、青山忠重が継嗣をもうけず討死したため、青山家の家督を相続した。1590年、松平元康が関東に転封になると、下総国香取郡内で3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、2,000石を加増された。1603年、下総国内で5,000石を加増され、計10,000石で諸侯に列した。1608年、老中職に就任、大久保長安の男大久保成国を養子迎えた。1613年、「大久保長安事件」に連座して罷免、7,000石を減知され蟄居した。1614年、「大坂冬の陣」では、本多正信勢に属して、戦功を挙げたが赦免されることなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

青山成次【あおやまなりつぐ(1593~1639)】

青山成重の男。室は彦坂光正の娘。1613年、「大久保長安事件」に連座して父青山成重が改易処分に処されたが、後に改めて馬廻衆として1,000石を領した。

朝岡五郎左衛門【あさおかごろうざえもん(15??~15??)】

松平家忠家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

浅井元貞【あさいもとさだ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称九郎左衛門。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

浅原孫七郎【あさはらまごしちろう(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

朝比奈新五左衛門【あさひなしんござえもん(15??~15??)】

松井忠次家臣。1575年、「久間山砦の戦い」に石川新兵衛、乾作兵衛、大津権之助らとともに参陣した。

渥美友吉【あつみともよし(15??~15??)】

松平元康家臣。通称太郎兵衛。豪勇をうたわた。1570年、「姉川の戦い」で槍がおれてもなお素手でたたかい数人を討取った。参考文献:デジタル版日本人名大辞典+Plus。

渥美重経【あつみしげつね(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称源五郎。織田信長の家臣青木重直の弟。高天神城主小笠原長忠の寄騎衆として大河内政局とともに籠城した。

渥美勝吉【あつみかつよし(1557~15??)】

大須賀忠政家臣。通称源五郎。家老職を務めた。織田信長の家臣青木一重の従兄弟。1575年、「長篠の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

阿部定吉【あべさだよし(1505~1549)】

松平清康家臣。阿部定時の男。官途は大蔵。通称源次郎。1535年、尾張国守山に在陣した際、阿部定吉の謀反の噂が立った。阿部定吉は、継嗣の阿部正豊を呼んで「もし自分が討たれるようなことがあったら、無実を証明してほしい」と潔白を示す書状を託した。本陣で馬が嘶く音を聞いた阿部正豊は、松平清康が阿部定吉を成敗したと勘違いし、松平清康を謀殺した。阿部定吉は責任を取って自刃しようとしたが、松平清康の継嗣松平広忠は阿部定吉を許した。桜井松平信定が、松平清康の弟松平信孝と結び岡崎城を占拠すると、松平広忠は阿部定吉とともに、吉良持広を頼って伊勢国に落延びた。吉良持広が病没すると、今川義元を頼った。1537年、松平清康は、三木松平信孝、鵜殿松平康孝、大久保忠俊から支援を受け岡崎城に復帰した。その後、阿部定吉は後継を作らず阿部定吉の家は断絶した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部正豊【あべまさとよ(15??~1535)】

阿部定吉の男。通称弥七郎。1535年、父阿部定吉が松平清康に謀殺されたと勘違いして、松平清康を謀殺した。阿部正豊は、本陣内において植村氏明によって討取られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿部忠政【あべただまさ(1531~1607)】

松平元康家臣。大久保忠次の男(阿部定次の養子)。通称四郎兵衛。 1545年、「安祥清縄手の戦い」で戦功を挙げた。1556年、「尾張蟹江城の戦い」で戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1575年、「遠江二俣城の戦い」では、大久保忠世と諍いを起こし伊勢国へ出奔した。大久保忠隣に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部正勝【あべまさかつ(1541~1600)】

阿部正宣の男。官途は伊予守。通称善右衛門。室は江原定次の娘。松平元康が今川義元の人質であった頃から仕えた譜代の家臣。三河、遠江攻略戦で戦功を挙げた。1573年、武田勝頼の天竜川侵攻を阻止した。1575年、「長篠の戦い」で戦功を挙げた。1582年、「」では、北条氏直との和議の使者を務めた。1585年、本多正信、大久保忠隣、牧野康成とともに、石川数正の出奔で発生した家中の動揺を抑えるため、馬廻衆の監督を行った。1590年、松平元康が関東に転封になると、足立郡鳩ヶ谷城5,000石を領した。嫡男阿部正次も下総国で1,300を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部正次【あべまさつぐ(1569~1647)】

阿部正勝の男。官途は備中守。通称善九郎。室は佐原義成の娘。1590年、父阿部正勝が加増された際、阿部正次も下総国で1,300石を領した。1600年、父阿部正勝の病没により阿部家の家督を相続して5,000石を領した。1610年、下野国鹿沼城に転封になった。1614年、「大坂冬の陣」には、大番組衆を率いて先陣を務めた。大坂城に一番に突入して奮戦、一番頸も取る戦功を挙げた。1626年、大坂城代に任じられ86,000石を領した。1637年、「島原の乱」では、大坂城代として関東と北九州間の取次役を務めた。1638年、継嗣の阿部重次に46,000石、孫の阿部正令に10,000を分与し、自身は30,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

阿部重次【あべしげつぐ(1598~1651)】

阿部正次の次男(三浦重成の養子)。官途は対馬守。三浦重成の養子となるが、三浦重成に実子が生まれたため、近江国浅井郡内で3,000石を領して別家を興した。
1628年、兄阿部政澄が病没したため、阿部家の家督を相続した。1638年、父阿部正次の所領の一部を相続して武蔵国岩槻城59,000石を領した。老中職に就任して失業対策、鎖国令などの制定に参画した。1651年、松平家光が病没すると殉死した。
 
阿部忠秋【あべただあき(1602~1675)】

阿部正次の三男。官途は豊後守。1623年、小姓番頭を務めた。1633年、老中職に任じられ、「松平忠長事件」の処分や日光東照宮造営、浪人対策などで功を挙げた。1635年、下野国壬生城25,000石を領した。1669年、80,000石に加増された。松平家綱を補佐して中老職を務めた。

天野遠房【あまのとおふさ(15??~15??)】 

松平清康家臣。碧海郡坂崎城主。

天野景隆【あまのかげたか(15??~15??)】 

天野遠房の男。別名天野景勝。

天野康景【あまのやすかげ(1537~1613)】

天野景隆の男。通称又五郎。室は牛田行正の娘。1563年、「三河一向一揆」で戦功を挙げた。本多重次、高力清長とともに岡崎三奉行に任じられ、「康景は慎重、重次は剛毅、清長は寛大」「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」と称された。1586年、甲賀忍衆を統率して2,200貫を領した。1590年、松平元康が関東に転封になると、江戸街奉行に任じられ下総国香取郡内で3,000石を領した。1601年、興国寺城10,000石を領して農政や治水工事に尽力した。1607年、家臣が天領の領民を殺害した問題を巡って本多正純と対立、本多正純の処断に激怒した天野康景は城地を放棄して継嗣の天野康宗とともに出奔した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野家次【あまのいえつぐ(15??~15??)】 

松平元康家臣。通称清兵衛。別名天野正次。1590年、松平元康が関東に転封になると、普請奉行、郡奉行を務め800石を領した。1599年、罪を犯し改易処分に処された。

天野康宗【あまのやすむね(1574~1645)】

天野康景の男。官途は対馬守。室は安部信勝の娘。1607年、本多正純と対立、父天野康景に従って城地を放棄し出奔したため、改易に処せられた。1628年、天野康宗は赦免されて1000俵を領した。

天野景房【あまのかげふさ(15??~15??)】 

天野景隆の次男。1563年、「三河一揆一揆」では、松平元康勢に属した兄天野康景に従った。1590年、松平元康が関東に転封になると500石領した。

天野清宗【あまのきよむね(15??~15??)】

天野景房の男。松平忠長に仕え駿河国内で5,000石を領した。松平忠長が改易処分に処されると、下野国烏山に蟄居した。 

天野正重【あまのまさしげ(15??~1564)】 

松平清康家臣。1564年、「吉田城の戦い」で討死した。

天野正景【あまのまさかげ(15??~15??)】

天野正重の男。

安藤基能【あんどうもとよし(15??~1573)】

松平元康家臣。安藤家重の男。御旗奉行を務めた。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。1573年、「三方ヶ原の戦い」で武田晴信勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤直次【あんどうなおつぐ(1555~1635)】

安藤基能の男。官途は帯刀。通称彦兵衛。室は中根助右衛門の娘。継室は本多信俊の娘。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1572年、「長篠の戦い」にも参陣した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、池田恒興や池田元助を討取る戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封されると1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康の使番として参陣した。1605年、本多正純や成瀬正成とともに松平元康の側近として2,300石を領した。1610年、松平頼宣の附家老に任じられた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平頼宣の陣代として松平頼宣勢を率いて参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、継嗣の安藤重能が討死した。1619年、松平頼宣が紀伊国和歌山城に転封になると、田辺城に38,000石を領した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤重信【あんどう しげのぶ(1557~1621)】

安藤基能の次男。室は大久保忠豊の娘。1584年、「小牧、長久手の戦い」で戦奉行に任じられた。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢に属して真田昌幸勢と戦った。1611年、下総国小見川城20,000石を領した。1614年、「大久保長安事件」で大久保忠隣が改易処分に処されると、高力忠房とともに小田原城を接収した。1615年、「大坂夏の役」では、大野治房勢と戦ったが、猛攻を受け敗走した。1619年、上野国高崎城66,000石を領した。福島正則が改易されると、広島城を永井直勝とともに接収した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤重長【あんどうしげなが(1600~1657)】

本多正盛の男(安藤重信の養子)。官途は伊勢守。室は志水忠宗の娘。松平秀忠に仕えた。1621年、養父安藤重信の病没により、安藤家の家督を相続した。書院番頭寺社奉行、泰者番を努めた。

阿久和安藤定次【あんどうさだつぐ(1540~1600)】

安藤家重の五男。通称次右衛門。1562年、「三河一向一揆」では、一向一揆勢に属して松平元康と戦ったため、改易処分に処された。その後、松平信康に仕えたが、松平信康が自刃すると、石川数正や内藤家長に属した。1589年、「小田原の役」では、内藤家長勢に属し戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、伏見城に籠城して、石田三成勢と戦い、左の股を矢で射抜かれ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

阿久和安藤正次【あんどう まさつぐ(1565~1615)】

安藤定次の男。通称次右衛門尉。1600年、「伏見城の戦い」で父安藤定次が討死したため、阿久和安藤家の家督を相続して2,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平秀忠の御旗奉行を務めた。前田利常の陣に使者として主赴く途中、羽柴秀頼勢の物見と戦いになり深手を負い自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川清兼【いしかわきよかね(15??~15??)】

松平清康家臣。碧海郡小川城主。石川忠輔の男。官途は安芸守。通称助十郎。別名石川忠成。室は水野忠政の娘(妙春尼)。三河国石川家惣領職。石川清兼は松平松平清康に仕え、代々筆頭家老職を務めた安祥譜代七家のひとつ。三河国の浄土真宗門徒の総代を務めた。松平清康家の政務を取仕切る五奉行のひとりとして活躍した。

石川松平家房【いしかわいえふさ(15??~15??)】

形原松平親忠家臣。通称勘右衛門。室は石川筑後守の娘。幼少の松平家信の陣代を務めた。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

石川松平正重【いしかわまさしげ(15??~16??)】

松平家房の男。室は松平家信の娘。松平元康に仕えて300石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げた。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

石川松平正長【いしかわまさなが(15??~1646)】

松平正重の男。室は松平康信の娘。1626年、父松平正重の隠居により石川松平家の家督を相続した。1646年、継嗣をもうけぬまま病没した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

石川康正【いしかわやすまさ(1500~1530)】 

額田郡土呂城主。石川清兼の男。室は松平重吉の娘。

石川一政【いしかわかずまさ(15??~15??)】 

石川清兼の次男。「小川城の戦い」で織田信秀勢と戦って討死した。

石川家成【いしかわいえなり(1534~1609)】

石川清兼の三男。官途は日向守。通称彦五郎。室は松平清善の娘。1558年、「寺部城の戦い」では、先陣を務め戦功を挙げた。1560年、「丸根城の戦い」でも戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1569年、遠江国掛川城主に任じられた。三河国石川家惣領職と西三河の旗頭職を甥の石川数正に譲った。1580年、石川家の家督を嫡男石川康通に譲って隠居した。1590年、松平元康が関東に転封になると、伊豆国梅縄館5,000石を領した。1607年、大垣城主石川康通が病没したため、復帰して石川家の家督を相続したがまもなく病没した。石川家の家督は外孫で養子の石川忠総が相続した。

石川康通【いしかわやすみち(1554~1607)】

石川家成の男。官途は長門守。室は植村家存の娘。1573年、武田勝頼勢と戦って戦功を挙げた。1580年、父石川家成が隠居したため、石川家の家督を相続した。1590年、松平元康が関東に転封されると、上総国成戸城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平家清とともに、尾張国清洲城を守備した。「佐和山城の戦い」に参陣して戦功を挙げ、役後に美濃国大垣城50,000石を領した。1607年、父石川家成に先立って病死した。継嗣の石川忠義は幼少のため、石川家の家督は父の石川家成が再び相続した。参考文献資料リー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

石川忠総【いしかわただふさ(1582~1651)】

大久保忠隣の男(石川家成の養子)。官途は主殿頭。室は堀尾吉晴の娘。継室は前田玄以の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、下野国小山に在陣した。1607年、石川家成の継嗣石川康通が病没したが、石川康通の継嗣石川忠義が幼少のため、石川家成が石川家の家督を再び相続した。1609年、石川家成も病没したが、石川忠義はまだ幼少であったため、石川忠総が石川家の家督を相続した。1614年、「大久保長安事件」で父大久保忠隣が改易処分に処されると、連座して石川忠総も駿河国で蟄居した。1614年、「大坂冬の陣」では、罪を許され参陣して戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」でも戦功を挙げた。1616年、豊後国日田城に転封となり60,000石を領した。肥後国熊本城主加藤忠広が改易処分に処されると、その処理を取り仕切った。

石川春重【いしかわはるしげ(15??~1575)】

松平信康家臣。松平信康の附家老職を努めた。1575年、岡崎街奉行の大賀弥四郎と武田勝頼に内通して謀反を画策したが失敗して謀殺された。

石川玄蕃頭【いしかわげんばのかみ(15??~15??)】 

石川康正の男。官途は玄蕃頭。

石川新兵衛【いしかわしんべい(15??~15??)】

松井忠次家臣。1575年、「久間山砦の戦い」に朝比奈新五左衛門、乾作兵衛、大津権之助らとともに参陣した。

板倉頼重【いたがきよりしげ(15??~15??)】

松平好景家臣。板倉義堯の三男。通称八右衛門。三河額田郡小美村に居住した。

板倉好重【いたくらよししげ(1520~1561)】

板倉頼重の男。通称八右衛門。室は本多光次の娘。1561年、松平好景の継嗣松平伊忠が三河上野城救援に赴くと、松平伊忠の守っていた中嶋城が手薄になった。吉良義昭は中嶋城を攻撃、松平好景は板倉好重とともに深溝城から中嶋城救援するが、吉良義昭勢と戦って討死した。

板倉忠重【いたくらただしげ(15??~15??)】

板倉好重の男。通称杢右衛門。

板倉勝重【いたくらかつしげ(1545~1624)】

板倉好重の次男。官途は伊賀守。通称四郎右衛門。室は粟生永勝の娘。1586年、松平元康が遠江国浜松城から駿河国駿府城に本拠を移すと、駿府街奉行に任じされた。1590年、松平元康が関東へ転封されると、関東代官職、江戸街奉行職に任じられ、武蔵国新座郡、豊島郡内で1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、京都所司代に任じられ、三河国内で6,600石を領した。京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の羽柴秀頼の監視役を務めた。1609年、近江国、山城国内で加増を受け16,600石を領した。1614年、「方広寺鐘銘事件」では、本多正純らとともに強硬策を上奏した。1620年、継嗣の板倉重宗に京都所司代の職を譲った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

板倉定重【いたくらさだしげ(1554~1581)】

板倉好重の三男。通称喜蔵。板倉家を嗣ぎ、松平家忠に仕えた。1581年、「高天神城の戦い」で武田勝頼勢と戦って討死した。

板倉重宗【いたくらしげむね(1586~1657)】

板倉勝重の男。官途は周防守。通称十三郎。室は成瀬正成の娘。継室は戸田氏鉄の娘。永井尚政、井上正就とともに松平秀忠に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠に従って参陣した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して、松平元康と松平秀忠との取次役を務めた。役後、書院番頭に任じられ6,000石を領した。1620年、京都所司代に任じられ27,000石を領した。1624年、父板倉勝重が病没すると、その遺領を16,600石の内 弟板倉重昌とともに相続して、板倉重宗が10,860石を相続して38,000石を領した。1654年、所司代職を退任したが、後任の牧野親成を補佐した。保科正之や井伊直孝らと同等の政治力を保持した。1656年、下総国関宿城50,000石を領した。

板倉重昌【いたくらしげまさ(1588~1638)】

板倉勝重の次男。官途は内膳正。通称宇右衛門。松平正綱、秋元泰朝とともに松平元康の近習を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼との取次役を務めた。1637年、「島原の乱」の上使となるも諸侯、諸将は指揮に従わず、焦慮を覚え、突撃を敢行して討死した。辞世句は「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」。

板倉重大【いたくらしげだい(15??~15??)】

板倉勝重の三男。通称十三郎。

坂部勝之【いたべかつゆき(1588~1657)】

松平康元家臣。通称弥内。松平元康の意向を受け、金田宗房、高木正次、平野弥角、吉田久兵衛らとともに松平康元に仕えた。

伊東雁助【いとうがんすけ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

伊奈忠基【いなただもと(15??~1570)】

松平広忠家臣。播豆郡小嶋城主。父荒川易次が叔父の保科易正に信濃国伊奈郡熊蔵城を終われ三河国に落延びた。松平広忠に仕えた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して追放されるが、後に帰参した。1570年、「姉川の戦い」に参陣して討死した。

伊奈貞政【いなさだまさ(15??~1561)】

伊奈忠基の男。1561年、「東条城の戦い」で吉良義昭勢と戦い討死した。

伊奈貞次【いなさだつぐ(15??~1563)】

伊奈忠基の次男。1563年、「三河一向一揆」で一揆勢に属して参陣して討死した。

伊奈貞平【いなさだひら(15??~15??)】

伊奈忠基の三男。1563年、「三河一向一揆」で一揆勢に属して参陣した。

伊奈貞吉【いなさだよし(15??~15??)】

伊奈忠基の五男。1563年、「三河一向一揆」で一揆勢に属したが、一揆が収束すると、他国に落延びた。

伊奈忠家【いなとただいえ(1528~1607)】

伊奈忠基の十一男。別名伊奈康忠。1573年、「三方ヶ原の戦い」で伊奈昭忠が討死したため、伊奈家の家督を相続した。1574年、「三河一向一揆」で一揆勢に参陣して松平元康から追放処分に処された。1572年、「長篠の戦い」では、松平信康勢に参陣して戦功を挙げ帰参を許された。松平信康が自刃すると、継嗣の伊奈忠次とともに和泉国堺に落延びて、織田信雄に仕えた。1590年、織田信雄が改易処分に処されると、伊奈忠家の頼った。

伊奈昭忠【いなあきただ(15??~1567)】

伊奈貞政の男。1567年、「美濃加流城の戦い」で討死した。
 
伊奈昭応【いなかきおう(15??~1584)】

伊奈昭忠の男。1584年、「蟹江城の戦い」で討死した。
 
伊奈昭綱【いなあきつな(15??~1600)】

伊奈昭忠の次男。官途は図書。通称根之助。1584年、兄伊奈昭応が討死したため、伊奈家の家督を相続した。1590年、松平元康が関東に転封になると、武蔵国内で2,500石を領した。1600年、長尾景勝のもとに使者として派遣された。「関ヶ原の役」後、京都の関所を警備していた家臣が、通行手形を持っていなかった福島正則の家臣佐久間嘉右衛門の通過を認めなかったため、面目を失った佐久間嘉右衛門が自刃した。福島正則が伊奈昭綱の頸を要求したため、伊奈昭綱も自刃した。

伊奈忠次【いなただつぐ(1550~1610)】

伊奈忠家の男。官途は備前守。通称半左衛門。1563年、「三河一向一揆」で父伊奈忠家が一揆勢に参陣して松平元康のもとを出奔した。1575年、「長篠の戦い」に参陣して戦功を挙げ伊奈忠家とともに松平元康のもとに帰参した。松平信康に仕えたが、松平信康が自刃すると、和泉国堺に落延びた。1582年、「本能寺の変」後、松平元康の伊賀越えに小栗吉忠らとともに功を挙げ再び帰参が許された。三遠奉行のひとりとして小栗吉忠のもとで奉行衆筆頭を務めた。1590年、松平元康が関東に転封すると、関東代官職筆頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らとともに松平元康の関東支配に貢献した。

伊奈忠政【いなただまさ(1585~1618)】

伊奈忠次の男。官途は筑後守。通称熊蔵。室は酒井重忠の娘。父伊奈忠次とともに松平元康のもとで奉行職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、小荷駄奉行職を務め後方支援に功を挙げた。伊奈忠次とともに関東地方での検地や新田開発、河川改修、街道整備に手腕を発揮した。1610年、父伊奈忠次が病没すると、伊奈家の家督と関東郡代職を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、外堀を埋め立てる普請奉行を務めた。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の頸級を挙げる戦功を挙げた。
伊奈忠治【いなただはる(1592~1653)】

伊奈忠次の次男。通称半十郎。松平秀忠の側近を務めた。松平忠長が改易処分に処されると、青山幸成とともに領地受け取りの使者となった。
 
伊奈忠武【いなただたけ(15??~1652)】

伊奈忠次の三男。官途は縫殿助。別名「日誉源貞」。病弱のため仏門に入った。武蔵国鴻巣勝願寺、相模国鎌倉光明寺、山城国智恩院などの住職を務めた。

乾作兵衛【いぬいさくべい(15??~15??)】

松井忠次家臣。1575年、「久間山砦の戦い」に朝比奈新五左衛門、石川新兵衛、大津権之助らとともに参陣した。

井上清秀【いのうえきよひで(1533~1604)】

阿部大蔵の男。大蔵の側室であった母は井上清宗に嫁ぐが、すでに清秀を身籠もっていた。清宗は生まれた清秀を実子として育てた。半平。半右衛門。佐久間信盛に仕え、家康の援軍として三河に向かい大須賀康高に属す。
 
井上正就【いのうえまさなり(1577~1628)】

井上清秀の三男。官途は主計頭。通称半九郎。室は市川孫左衛門の娘。板倉重宗、永井尚政とともに松平元康の近侍を務めた。1614年、「大坂冬の陣」では、御徒歩奉行を務めた。1615年、小姓組番頭を務め10,000石を領した。「大坂夏の陣」で頸六つを上げる戦功を挙げた。1623年、老中職を務め、遠江横須賀城52,500石を領した。1628年、江戸城西丸で目付豊島正次に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

井上政重【いのうえまさしげ(1585~1661)】

井上清秀の四男。官途は筑後守。通称清兵衛。室は太田重正の娘。1632年、江戸城で切支丹の禁教政策にあった。1638年、「島原の乱」では、上使として九州に赴いた。1640年、下総国高岡城10,000石を領して諸侯に列した。1644年、大目付として宮城和甫とともに、諸大名に「正保国絵図、正保郷帳」の作成を命じた。継嗣の井上政次が早世したため、その井上政次の継嗣井上政清に井上家の家督を譲って隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

井上清宗【いのうえきよむね(1509~1596)】

大須賀康高家臣。井上正俊の男。通称半右衛門。1575年、撰要寺の寺領坪付を作成した。

今井喜助【いまいきよしすけ(15??~15??)】

松平真乗家臣。家老職を務めた。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

植村氏義【うえむらうじよし(14??~15??)】

松平信忠家臣。通称新五郎。本多忠勝の外祖父。娘の小夜は本多忠高に嫁ぎ本多忠勝をもうけた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

植村氏明【うえむらうじあき(1520~1552)】

植村氏義の男。通称新六郎。槍、刀の名手。1535年、「森山崩れ」で、松平清康が阿部正豊に謀殺された際、阿部正豊を斬り捨てた。1549年、松平広忠が岩松八弥に謀殺された際も、岩松八弥を討取った。1552年、「沓掛城の戦い」で織田信秀勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

植村家存【うえむらいえさだ(1541~1577)】

植村氏明の男。官途は出羽守。通称新六郎。1552年、父植村氏明が討死したため、植村家の家督を相続した。1562年、「清洲同盟」では、織田信長のもとに赴いた松平元康の護衛役を務めた。松平元康に続い」て松平元康の配刀を持ったまま入室、織田信長の警固の者に咎められた。これに対して植村家存は「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」と荒々しく言い放った。織田信長は護衛役の植村家存に二振りの行光の太刀を与えた。その後、酒井忠次、石川家成、石川数正らとともに家老職を務めた。1572年、織田信長と長尾景虎の同盟の仲介を行い長尾景虎から長光の刀と山伏出立の具足を贈られた。参考文型:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

植村家次【うえむらいえつぐ(1567~1599)】

植村家存の男。室は依田信蕃の娘。通称新六郎。1577年、父植村家存を亡くし松平信康の小姓となった。罪を受けて松平信康が自刃すると、流浪の身となった。榊原康政の推挙により、再び松平元康に仕え、上野国邑楽郡500石を領した。嫡男植村家政は松平秀忠の小姓から、諸侯に列した。

植村家政【うえむらいえまさ(1589~1650)】

植村家次の男。官途は志摩守。通称新六郎。室は植村泰忠の娘。1599年、父植村家次の病没により植村家の家督を相続して500石の馬廻衆となった。松平秀忠付の小姓に任じられた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢の斥候を務め、役後にその戦功により1,500石を領した。1625年、松平家光付となり、大番頭に任じられ3,500石を領した。1640年、大和国高取城25,000石を領して諸侯に列した。

植村安重【うえむらやすしげ(15??~15??)】

植村氏義の次男。本多忠勝の叔父。

植村安政【うえむらやすまさ(15??~15??)】

植村安重の男。1566年、松平元康の意向を受け本多忠勝に仕えた。

植村泰忠【うえむらやすただ(1539~1611)】

植村泰職の男。官途は土佐守。室は本多忠朝の娘。別名「安養院」。幼くして父植村泰職を亡くし、三河国鳳来寺の大叔父二位法印教円に養育された。鳳来寺薬師別当職を務めた。1573年、「三方ヶ原の戦い」では、僧兵を率いて松平元康勢として参陣した。戦後に還俗し、遠江国榛原郡内に所領を得た。1589年、「小田原の役」では、本多忠政とともに参陣して武蔵国岩槻城を攻略する戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると、上総国夷隅郡勝浦城3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」でも戦功を挙げ、2,000石の加増を受け5,000石を領した。

植村泰勝【うえむらやすかつ(1578~1635)】

植村泰忠の男。通称帯刀。1600年、「関ヶ原の役」では、本多忠勝勢に属して戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げ、大番頭に任じられた。1633年、加増を受け9,000石を領した。

植村政泰【うえむらまさやす(1600~1636)】

植村泰忠の男。通称平右衛門。松平秀忠の小姓となり、のちに大番組に列した。常陸国鹿島郡内で100石を領した。

植村小夜【うえむらさよ(15??~15??)】

本多忠高の室。植村氏義の娘。本多忠高の後家として城主松平元康の不在の苦しい時代の岡崎城下でも有名だった。後家を貫いたわけではなく、後年再婚し、本多忠勝の妹をもうけた。

上村庄右衛門【うえむらしょうえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1582年、本多信勝とともに野地城の作事奉行職を務めた。

鵜殿康孝【うどのやすたか(15??~1542)】

碧海郡西浅井城主。松平信忠の三男。通称十郎三郎。別名松平康孝。1542年、無嗣のまま病没したために鵜殿松平家は絶家となったが、その所領は兄三木松平信孝が押領した。1536年、織田信秀が8,000余りを率いて三河国に侵攻すると、松平忠広勢に従って参陣した。

梅村正胤【うめむらまさたね(15??~15??)】

松平親乗家臣。通称喜八郎。1575年、「長篠の戦い」に参陣して、姥ヶ懐で河合半兵衛とともに武田勝頼の家臣三枝守義を討取る戦功を挙げた。

江坂次郎太夫【えざかじろう15??~15??)】

松平元康家臣。1590年、榊原康政が上野国館林城100,000石を領すると、松平元康の意向を受け榊原康政に仕えた。1615年、「岩田村の戦い」では、榊原康政の先手足軽組頭を努め、羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

海老江里勝【えびえさとかつ(15??~16??)】 

大須賀康高家臣。通称勝左衛門。1607年、大須賀忠政が病没すると、井伊直孝に仕えた。

遠藤右近【えんどううこん(15??~1572)】

松平元康家臣。1572年、「三方ヶ原の戦い」で武田晴信勢の追撃をかわすため、松平元康の身代わりとなって討死した。

大石久末【おおいしひさすえ(15??~15??)】 

大須賀康高家臣。通称宗兵衛。1605年、横須賀の新野池新田を開拓した。

大岡伝左衛門【おおかでんざえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。鉄炮奉行を務めた。1612年、大坂城攻略用の長距離狙撃用の鉄炮八十六挺の試し撃ちを国友代官窪嶋孫兵衛、鉄炮奉行大岡伝左衛門、井伊直政の家臣宇津木次郎右衛門、鉄炮吟味衆内山治右衛門らととも試射を行った。1614年、豊島作右衛門から百匁玉の鉄炮二挺、三十匁玉の鉄炮五十一挺、さらに玉の鋳型を受取った。

大岡清勝【おおかきよかつ(1553~1624)】

大岡助次の男。通称伝蔵。伏見城代を務めた。1573年、「三方ヶ原の戦い」では、本多忠勝勢に属して参陣した。1574年、大賀弥四郎が謀反を起こすと、米河内城を攻撃して倉地平左衛門を討取る戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1614年、「大坂冬の陣」にも参陣して戦功を挙げた。

大賀弥四郎【おおがやしろう(15??~1574)】

松平元康家臣。中間を務めていたが、算術の才を認められ、三河国奥郡20余郷の代官に抜擢された。同僚を罪に陥れたため、捕縛され家財を没収された。小谷甚左衛門、倉知平左衛門、山田八蔵らとともに謀反を企んだが、発覚して市中を引き廻しの上竹鋸の刑に処された。

大草松平信貞【おおくさのぶさだ(15??~1525)】

額田郡大草城主。松平親貞の男。別名松平信貞。1524年、「山中城の戦い」で安祥城主松平清康と戦って敗れ、岡崎城も追われ大草城へ隠退した。

大草松平昌久【おおくさまさひら(15??~15??)】

松平信貞の男。別名松平昌久。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して松平元康税と戦った。一揆勢が敗北したため、大草城を没収され、継嗣の松平三光とともに浪々の身となった。

大草松平三光【おおくさみつみつ(15??~15??)】

松平昌久の男。別名松平三光。1563年、「三河一向一揆」では、父松平昌久とともに一揆勢に属して松平元康と戦った。一揆勢が敗北したため、大草城を失った。

大草松平正親【おおくさまさちか(15??~1560)】

松平三光の男。別名松平正親。松平元康に仕え馬廻衆を務めた。1560年、「尾張丸根砦の戦い」で、織田信長勢と戦い討死した。

大草松平康安【おおくさやすやす(1555~1623)】

松平正親の男。別名松康安。松平信康に仕え馬廻衆を務めた。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、石川数正勢に属して戦功を挙げた。

大久保忠俊【おおくぼただとし(1499~1581)】

松平清康家臣。宇津忠茂の男。通称五郎右衛門。蟹江七本槍のひとり。松平広忠が松平信定によって岡崎城を追われると、松平信定を追放し、松平広忠を岡崎城に入城させた。1560年、「桶狭間の戦い」に参陣した。1563年、「三河一向一揆」では、岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。
 
大久保忠次【おおくぼただつぐ(15??~1569)】

宇津忠茂の次男。通称左衛門次郎。
 
大久保忠員【おおくぼただかず(1511~1583)】

宇津忠茂の三男。通称平右衛門。室は三条西公条の娘。蟹江七本槍のひとり。1563年、「三河一向一揆」との戦いで戦功を挙げた。
 
大久保忠久【おおくぼただひさ(15??~1548)】

宇津忠茂の四男。通称三郎右衛門。1548年、「 三河三木城の戦い」で討死した。
 
大久保忠世【おおくぼただよ(1532~1594)】

大久保忠員の男。通称七郎右衛門。室は近藤幸正の娘。蟹江七本槍ひとり。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して参陣した。1573年、「三方ヶ原の戦い」では、大敗を喫して敗走するなかで、敗残兵をまとめ天野康景とともに夜襲を行ない武田晴信勢を混乱に陥れた。1575年、「長篠の戦い」では、弟の大久保忠佐、寄騎衆の成瀬正一、日下部定好らととも戦功を挙げた。1582年、「天正壬午の乱」では、信州惣奉行として小諸城に在番、依田康国の後見役を務めた。1585年、「第一次上田城の戦い」では、鳥居元忠、平岩親吉らとともに参戦したが、真田昌幸勢に大敗した。1590年、松平元康が関東に転封すると、小田原城45,000石を領した。

大久保忠隣【おおくぼただちか(1553~1628)】

大久保忠世の男。官途は相模守。室は石川家成の娘。1568年、「遠江堀川城の戦い」では、敵将の頸を上げる戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、敗走する中にあって松平元康から離れず浜松城まで従った。1582年、「天正壬午の乱」後、武田勝頼の遺臣大久保長安を抜擢して甲斐国、信濃国内の領国支配に尽力した。1590年、松平元康が関東に転封になると、松平秀忠の附家老を務め、武蔵国羽生城20,000石を領した。1594年、父大久保忠世が病没すると、大久保家の家督と小田原城65,000石を相続した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、上田城攻撃を主張して本多正信らと対立した。1612年、「岡本大八事件」後、本多正信、本多正純父子と対立した。1614年、「大久保長安事件」に連座し、改易処分に処され、近江国栗太郡中村郷5,000石を領した。

大久保忠佐【おおくぼただすけ(1537~1613)】

大久保忠員の次男。通称治右衛門。1572年、「一言坂の戦い」では、本多忠勝ととも松平元康勢の殿を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると、上総国茂原城5,000石を領した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢に従ったが真田昌幸、真田信繁勢と戦い敗退した。1601年、駿河国沼津城20,000石を領して諸侯に列した。継嗣の大久保忠常が病没したため、弟の大久保忠教を養子にして家を相続させようとしたが、大久保忠教が固辞したため、大久保家は無嗣断絶で改易処分に処された。

大久保忠包【おおくぼただかね(1540~1561)】

大久保忠員の三男。通称大八郎。1561年、「藤波縄手の戦い」で討死した。
 
大久保忠寄【おおくぼただより(1547~1572)】

大久保忠員の四男。通称新蔵。1572年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。
 
大久保忠核【おおくぼただかく(1551~1574)】

大久保忠員の五男。通称勘七郎。1574年、「遠江乾の戦い」で討死した。
 
大久保忠為【おおくぼただため(1554~1616)】

大久保忠員の六男。通称彦十郎。1609年、石川忠総が大垣城主になるとこれを補佐した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

大久保忠長【おおくぼただなが(1554~1606)】

大久保忠員の七男。通称甚右衛門。
 
大久保忠教【おおくぼただよし(1560~1639)】

大久保忠員の八男。通称彦左衛門。別名大久保忠雄。1576年、「遠江乾の戦い」で敵将の頸を上げる戦功を挙げた。1581年、「高天神城の戦い」で戦功を挙げた。1585年、「第一次上田城の戦い」で戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると、武蔵国埼玉郡内で2,000石を領した。1614年、大久保忠隣が改易処分に処されると、松平家臣団内での大久保家勢力が弱体化した。三河国額田郡内1,000石に減封した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平秀忠に従って槍奉行を務めた。著書に『三河物語』。 

大久保忠常【おおくぼただつね(15??~1611)】

大久保忠隣の男。官途は加賀守。通称新十郎。室は奥平信昌の娘。別名大久保忠兼。幼少時から智勇に優れた人物であったが、若くして病没した。

大久保教隆【おおくぼよしたか(1586~1643)】

大久保忠隣の次男。官途は右京亮。室は松平家乗の娘。松平秀忠に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に従うが、若年であったため戦うことなく江戸に帰された。1606年、水野忠元、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、成瀬正武らとともに御小姓組の番頭に任ぜられた3,000石を領した。1614年、父大久保忠隣が改易処分に処されると、連座して改易され天海に預けられた。1632年、赦免され、御書院の番頭に任ぜられた。1633年、加増を受け6,000石を領した。

大久保幸信【おおくぼゆきのぶ(1587~1642)】

大久保忠隣の三男。官途は主膳正。通称宗四郎。

大久保忠職【おおくぼただとも(1604~1670)】

大久保忠常の男。官途は加賀守。室は松平忠明の娘。1611年、父大久保忠常が病没したため、大久保家の家督を相続した。若年のため、大久保家の政務は祖父の大久保忠隣が務めた。1614年、「大久保長安事件」に連座して、大久保忠隣が改易処分に処されると、大久保忠職は蟄居処分に処された。1639年、播磨国明石城70,000石に転封になった。1649年、肥前国唐津城83,000石に転封になった。唐津城では地方知行制の廃止と蔵米知行制の導入、代官制度による統治と農民登用による民政の安定など、領国経営の基礎固めに努めた。

大久保与兵衛【おおくぼよへい(15??~15??)】

松平元康家臣。1575年、松平元康の意向を受け井伊直政に仕えた。

大河内善兵衛【おおこうちぜんべえ(15??~1573)】

松平元康家臣。1573年、「三方ヶ原の戦い」で武田晴信勢と戦い討死した。

大須賀康高【おおすがやすたか(1527~1589)】

酒井忠尚家臣。額田郡洞村館主。大須賀正綱の男。榊原康政とともに酒井忠尚に仕えていたが、酒井忠尚が松平元康に反旗を翻すとこれに従わずに榊原康政とともに松平元康に仕えた。1573年、「馬伏塚砦の戦い」では、武田勝頼勢を撃退する選考を挙げた。1569年、「大井川の戦い」では、本多忠勝、榊原康政らとともに武田晴信勢を撃退した。1570年、「姉川の戦い」で戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、先陣を務めた。1585年、「第一次上田城の戦い」では、井伊直政とともに救援に赴いた。

大須賀信高【おおすがのぶたか(15??~15??)】 

大須賀康高の男。仏門に入りったため、娘婿の榊原康政の継嗣榊原忠政が大須賀家の家督を相続した。1603年、横須賀城下に善福寺を開山した。

大須賀忠政【おおすが ただまさ(1581~1607)】

榊原康政の男(大須賀康高の養子)。1589年、大須賀康高の死後大須賀家の家督を継いだ。1590年、松平元康が関東に移ると、上総国久留里城30,000石を与えられた。1600年「関ヶ原の役」後の遠江国横須賀城60,000石に転封された。1605年、領内の検地を行ない、さらに城下街造りを行なって内政の基盤を整えた。

大須賀久五郎【おおすがひさごろう(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

太田吉勝【おおたよしかつ(15??~1608)】

松平元康家臣。通称甚四郎。1568年、「遠江掛川城の戦い」攻めの際、士屋敷に放火して敵を退却させた。その際、忍びに城戸口を押さえさせ、自ら火を放った。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

太田吉政【おおたよしまさ(1563~1638)】

大田吉勝の男。通称甚四郎。上田七槍のひとり。「遠江二俣城の戦い」「遠江高天神城の戦い」で武田勝頼勢と戦った。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢の尾張国星崎城を包囲した。星崎城内に入ろうととした敵兵を討取る戦功を挙げた。1600年、「第二次上田城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

大津文右衛門【おおつぶんえもん(15??~15??)】

松平家忠家臣。1575年、「鳶ヶ巣山砦の戦い」では、武田勝頼勢が守る鳶ヶ巣山砦に火を放った。

大津権之助【おおつごんのすけ(15??~15??)】

松井忠次家臣。1575年、「久間山砦の戦い」に朝比奈新五左衛門、石川新兵衛、乾作兵衛らとともに参陣した。

小笠原信倫【おがさわらのぶみち(15??~15??)】

大須賀康高家臣。別名入道宗玄。1572年、「三方ヶ原の戦い」で大須賀康高に従って参陣した。

小笠原定信【おがさわらさだのぶ(15??~15??)】

小笠原信倫の男。通称次右衛門。1572年、「三方ヶ原の戦い」で父小笠原信倫とともに大須賀康高に従って参陣した。

小笠原清有【おがさわらせゆう(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称与三右衛門。1607年、大須賀忠政が病没すると、松平頼宣に仕えた。

小笠原孫六【おがさわらまぐろく(15??~16??)】

松平元康家臣。1590年、榊原康政が上野国館林城100,000石を領すると、松平元康の意向を受け榊原康政に仕えた。1615年、「岩田村の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

岡田竹右衛門【おかだたけえもん(15??~15??)】

松井忠次家臣。1569年、「遠江天王山の戦い」に参陣した。

岡田元次【おかだもとつぐ(15??~15??)】

松平家忠家臣。通称竹右衛門。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1575年、「久間山砦の戦い」では、攻撃前に織田信長勢に向けて烽火を上げた。

岡本平左衛門【おかもとへいざえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。築山殿を手にかけた。継嗣の岡本大八は不正事件によって処刑されており、築山殿の祟りだと噂された。

岡本大八【おかもとだいはち(15??~1612)】

岡本八郎左衛門の男。洗礼名は「パウロ」。はじめ長崎奉行の長谷川藤広に仕えたが、後に本多正純に仕えた。1609年、有馬晴信が長崎湊外においてマードレ・デ・デウス号を攻撃した際、有馬晴信の監視役を務めた。岡本大八は、この事件の際の恩賞を松平元康に斡旋すると偽って多額の賄賂を有馬晴信から受け取った。有馬晴信が本多正純と直談判したために詐欺行為が発覚した。1612年、駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大給松平親乗【おぎゅうちかのり(1515~1577)】
 
額田郡大給城主。松平乗勝の男。官途は和泉守。通称源次郎。室は松平信定の娘。別名松平親乗。1530年、松平清康勢に属して、八名郡宇利城主熊谷重美と戦い戦功を挙げた。1552年、東条松平忠茂勢の攻撃を受けた。1555年、今川義元の意向を受け、織田信長勢の蟹江城を攻撃した。

大給松平真乗【おぎゅうさねのり(1546~1582)】 

松平親乗の男。室は戸田忠重の娘。別名松平真乗。「遠江掛川城の戦い」で戦功を挙げた。その後も主要な戦いの多くに参陣して戦功を重ねた。

大給松平家乗【おぎゅういえのり(1575~1614)】 

松平真乗の男。室は石川康通の娘。官途は和泉守。通称源次郎。別名松平家乗。1582年、父松平真乗の病没により大給松平家の家督を相続した。1590年、松平元康が関東に転封されると、上野国内で10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して三河国吉田城の守備を務めた。役後、美濃国岩村城20,000石に転封された。

大給松平乗寿【おぎゅうのりなが(1600~1654)】 

松平家乗の男。官途は和泉守。室は戸田康長の娘。別名松平乗寿。1614年、父大給家乗の病没により、大給松平家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の役」に参陣して戦功を挙げた。1638年、美濃国岩村城20,000石から遠江国浜松城36,000石へ転封された。1642年、松平家綱の附家老職に任じられた。1644年、上野国館林城60,000石に転封となった。

大給松平為親【おぎゅうためちか(15??~15??)】

松平親乗の次男。官途は主水。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。

小栗忠吉【おぐりただよし(15??~15??)】

水野忠重家臣。筒針城主。

小栗吉忠【おぐりよしただ(1527~1590)】

小栗忠吉の男。通称仁右衛門。松平広忠に仕えた。1560年、「桶狭間の戦い」では、小栗家同心衆を率いて戦功を挙げ、遠江国中泉で824貫文を領した。その後は「三遠奉行」として遠江国内で、検地、寺社領支配、街道整備などに内政面で功を挙げた。1582年、「武田家征伐」後、帰京する織田信長のために、浅井道忠らとともに天竜川に架橋、宿場などの整備を行った。1582年、「本能寺の変」では、伊奈忠次とともに伊賀越えに貢献した。1589年、「小田原の役」では、駿河国吉原に架橋し、羽柴秀吉の饗応を任され、さらに出陣した松平元康に代わって、病をおして駿府城留守役の任に就くが、城内で倒れ病没した。

小栗忠政【おぐりただまさ(1555~1616)】

小栗吉忠の男。通称庄三郎。室は天野康景の娘。継室は松平信一の娘。内政面で活躍した父小栗吉忠と異なり、槍働きで戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」では、松平元康の馬廻衆を務め、急襲してきた敵兵を討取る戦功を挙げた。その後も戦功を重ねたが、独断専行、軍律違反などを犯し、松平元康の勘気を被って大須賀康高に預けられた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した際、鉄炮傷を受けまもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小栗重常【おぐりしげつね(15??~15??)】

松平元康家臣。通称大六。使者として織田信長に高天神城の救援要請を行った。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

尾崎半平【おざきはんぺい(15??~15??)】

松平家忠家臣。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

小野惣左衛門【おのそうざえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1614年、国友の鉄炮鍛冶が製造した鉄炮を伏見まで警護して運搬した。

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【か】

鏡島光忠【かがみしまひつただ(15??~16??)】

鏡島光元の男。尾張松平義直に仕え10,000石を領した。

柿原次郎右衛門【かきはらじろうえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1569年、「遠江天王山の戦い」で尾張浪人伊藤武兵衛を討取る戦功を挙げた。

筧重忠【かけいしげただ(1512~1588)】 

松平広忠家臣。1547年、「岡崎城の戦い」で織田信秀、松平忠倫勢の攻撃を受けた。松平広忠の意向を受け、上和田砦の松平忠倫を謀殺した。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

筧正重【かけいまさしげ(1523~1594)】

松平広忠家臣。1547年、松平広忠の意向を受け、松平忠倫の謀殺を図った兄筧重忠の帰還をたすけて奮戦した。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

筧正重【かけいまさしげ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称助大夫。

筧正長【かけいまさなが(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称龍之助。
 
形原松平貞副【かたはらさだすけ(15??~1531)】

松平清康家臣。形原城主。松平興副の男。

形原松平親忠【かたはらちかただ(15??~1541)】

松平貞副の男。官途は佐渡守。1535年、守山城で松平清康が謀殺されると、継嗣の松平家広の内室に水野忠政の娘(於丈の方)を迎えた。1541年、「東条城の戦い」で吉良義昭を攻撃した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平家広【かたはらいえひろ(15??~1571)】

松平親忠の男。官途は薩摩守。通称又七郎。室は水野忠政の娘(於丈の方)。1535年、「守山崩れ」で松平清康が謀殺されると、父松平親忠は織田信秀勢と戦った。水野忠政が今川義元から離反し織田信秀に属すると、水野忠政の娘(於丈の方)を離縁した。1549年、松平元康が人質として駿府国に赴くと、松平家広らもそれぞれ妻子を人質として吉田城に差し出した。1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると松平元康は織田信長と結び今川氏真から離反した。吉田城代小原資良は人質として預かっていた、妻子を謀殺した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平忠要【かたはらただとき(15??~15??)】

松平親忠の次男。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平家忠【かたはらいえただ(1547~1582)】

松平家広の男。官途は紀伊守。通称又七郎。室は酒井正親の家臣。松平家忠は弟松平左近が松平元康とともに人質として今川義元のもとに送られた。1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、松平元康とともに今川氏真勢から離反したが、人質の松平左近は処刑された。1564年、「吉田城の戦い」では、今川氏真の家臣小原鎮実を討取る戦功挙げた。1569年、「掛川城の戦い」で今川氏真が伊豆国に落延びると、それを護送する任を果たした。1572年、「二俣城の戦い」では、援軍として二俣城に向かったが、城代青木又四郎が降伏した。1575年、「鳶巣山砦の戦い」では、酒井忠次勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平家信【かたはらいえのぶ(1565~1638)】

形原松平家忠の男。官途は紀伊守。通称又七郎。室は松平康忠の娘。継室は石川康正の娘、太田輝資の娘。1582年、「武田家討伐」では、酒井忠次勢に属して戦功を挙げた。父松平家忠の病没により形原松平家の家督を相続した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、酒井忠次に属して野呂孫一郎を討取る戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封されると、上総国五井城5,000石を領した。1635年、下総国佐倉城に移されて40,000石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平康信【かたはらやすのぶ(1600~1682)】

松平家信の次男。官途は若狭守。室は水野重仲の娘。継室は酒井忠勝の娘。父松平家信が松平康忠の娘ともうけた継嗣が病没したため、形原松平家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、井上正就税に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、父松平家信の陣代として参陣し松平頼宣勢に属して戦った。1649年、丹波国篠山城50,000石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平氏信【かたはらうじのぶ(15??~15??)】

松平家信の三男。1620年、父松平家信が摂津国高槻城20,000石を領すると、次弟松平信忠とともに2,000石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

形原松平信忠【かたはらのぶただ(15??~15??)】

松平家信の四男。1620年、父松平家信が摂津国高槻城20,000石を領すると、次兄松平信忠とともに2,000石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

加藤頼景【かとうよりかげ(15??~15??)】

松平清康家臣。出陣ごとに「御旗」「御幕」を松平清康から受け取った。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤景元【かとうかげもと(15??~1573)】

加藤頼景の男。官途は播磨守。1573年、「三方ヶ原の戦い」で武田晴信勢と戦い討死した。

加藤景元【かとうかげもと(15??~1600)】

加藤景元の男。松平信康に仕えた。松平信康が自刃すると、内藤家長勢に属した。1600年、「伏見城の戦い」で、石田三成勢と戦って討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤正次【かとうまさつぐ(15??~1572)】

加藤正任の男。別名竹本正次。織田信長に仕えた。1568年、松平元康の意向を受けて、加藤利正の家督を相続した。1572年、「三方ヶ原の戦い」で従兄弟の加藤源四郎とともに討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤常正【かとうつねまさ(15??~1542)】

松平清康家臣。松平広忠に仕えた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤重常【かとうしげつね(15??~15??)】

加藤常正の男。1560年、「丸根砦の戦い」に参陣した。1590年、松平元康が関東に転封になると900石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤忠正【かとうただまさ(15??~15??)】

松平清康家臣。松平元康に仕え額田郡、碧海郡内で600石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤勘右衛門【かとうかんえもん(15??~15??)】

松平清康家臣。1542年、「の戦い」で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤家成【かとういえなり(15??~1578)】

加藤勘右衛門の男。1542年、父加藤勘右衛門を討取った敵将を返り討ちにした。松平信康に仕えた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤正久【かとうまさひさ(15??~15??)】

松平清康家臣。「合歓木の戦い」で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤正重【かとうまさしげ(15??~1569)】

加藤正久の男。1569年、「掛川城の戦い」で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤一義【かとうかずよし(15??~1596)】

松平清康家臣。松平元康の馬廻衆を務めた。「参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤光重【かとうみつしげ(15??~15??)】

松平清康家臣。三河国大谷郷で80貫分を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

加藤光治【かとうみつはる(15??~15??)】

加藤光重の男。1590年、松平元康が関東に転封になると、30石を領して小田原城在番を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

金田宗房【かねだむねふさ(15??~1572)】

松平康元家臣。松平元康の意向を受け、高木正次、坂部勝之、平野弥角、吉田久兵衛らとともに松平康元に仕えた。1572年、「三方ヶ原の戦い」で騎馬を失い松平康元が武田晴信勢に包囲されると、自身の騎馬に松平元康を乗せ撤退させた。金田宗房は武田晴信勢に捕捉され討死した。

河合重明【かわいしげあき(15??~15??)】

松平真乗家臣。通称久次郎。家老職を務めた。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

河合半兵衛【かわいはんべい(15??~15??)】

松平親乗家臣。1575年、「長篠に戦い」に参陣して今井喜八郎、今井喜助、鈴木八平らとともに久保峠から武田勝頼勢の姥ヶ懐砦を攻撃した。梅村正胤とともに武田勝頼の家臣三枝守義を討取る戦功を挙げた。

川上四郎右衛門【かわかみしろうえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1590年、榊原康政が上野国館林城100,000石を領すると、松平元康の意向を受け榊原康政に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、榊原康政の馬廻旗奉行を務めた。

久世長宣【くぜながのぶ(15??~1563)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」に参陣した。1563年、「三河一向一揆」では一揆勢に属した。「針崎の戦い」で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

久世広宣【くぜひろのぶ(15??~15??)】

久世長宣の男。通称三四郎。1576年、大須賀康高に仕え先手衆を務めた。158?年、「第二次高天神城の戦い」で戦功を挙げた。1582年、「天正壬午の乱」では、北条氏直勢の豆生田砦を攻落とした。1590年、松平元康が関東に転封すると300石を領した。1605年、横須賀康高のもとを離れ、多摩郡南沢に蟄居した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平秀忠勢の先手衆を務めた。1620年、福島正則が改易処分を受けると、坂部広勝とともにその取次役を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

久世広当【くぜひろまさ(15??~15??)】

久世広宣の男。百人組頭を務め、7,110石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

久世広之【くぜひろゆき(15??~15??)】

久世広宣の三男。松平元康の小姓組頭を務め5,000石を領した。後に若年寄に任じられ10,000石を領して諸侯に列した。1669年、下総国関宿城60,000石に転封した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

久保島孫兵衛【くぼしままごへい(15??~15??)】

松平元康家臣。鉄炮頭を務めた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、行動を決めかねている小早川秀秋勢の本陣に威嚇射撃を行った。小早川秀秋勢は遂に大谷吉継勢に雪崩れ込んだ。

久米新四郎【くめしんしろう(15??~15??)】

松平広忠家臣。1560年、「丸根城の戦い」に参陣した。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

五井松平元心【ごいもとむね(1481~1562)】

松平忠景の男。松平長親の意向により額田郡深溝城主大場次郎左衛門を討取り、その戦功を弟の松平忠定に譲った。松平忠定は深溝松平家を興した。

五井松平信長【ごいのぶなが(1503~1551)】

松平元心の男。1535年、「守山崩れ」で松平清康が安部弥七郎に謀殺され、松平広忠が、松平信定に岡崎城を追われた際には、領地を捨てて松平広忠と伊勢国に落延びた。1537年、松平広忠が岡崎城主として復帰するまで従った。

五井松平忠次【ごいただつぐ(1521~1547)】

松平信長の男。1540年、「第一次安祥城の戦い」では、織田信秀勢を撃退した。1545年、「第二次安祥城の戦い」では、松平親忠の継嗣松平長家を支援して、織田信秀勢を撃退する戦功を挙げた。1547年、「耳取縄手の戦い」では、松平広忠に従って参陣したが、松平信孝勢た戦って討死した。

五井松平景忠【ごいかげただ(1545~1597)】

松平忠次の男。1560年、「丸根砦の戦い」で戦功を挙げた。1573年、「姉川の戦」では、酒井忠次勢に属して戦功を挙げた。1575年、「長篠の戦い」では、奥平貞昌勢に属して長篠城に籠城、武田勝頼と戦税った。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城まで参陣した。

五井松平伊昌【ごいこれまさ(1560~1601)】

松平景忠の男。通称弥三郎。室は酒井忠次の娘(ふう)。1575年、「長篠城の戦い」では、城主奥平信昌、父松平景忠とともに籠城した。1590年、松平元康が関東に転封になると、下総国飯沼城2000石を領した。

高力重長【こうりきしげなが(15??~1535)】

松平清康家臣。1535年、織田信秀勢と戦い討死した。

高力安長【こうりきやすなが(15??~1535)】

額田郡高力城主。高力重長の男。称新三。室は板倉氏の娘。1535年、父高力重長とともに織田信秀勢と戦い討死した。

高力清長【こうりききよなが(1530~1608)】

高力安長の男。官途は河内守。通称与左衛門。室は阿部道金の娘。天野康景や本多重次らとともに三河三奉行を務め、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」と称された。「桶狭間の戦い」、「三河一向一揆」、「遠州平定戦」などで戦功を挙げた。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」後、松平元康とともに伊賀越えで帰還した。1588年、聚楽第造営の普請奉行を務めた。1590年、松平元康が関東に転封になると、武蔵国岩槻城20,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、軍船建造を担当した。1600年、「関ヶ原の役」後、隠居し、嫡孫の高力忠房に高力家の家督を譲った。

高力正長【こうりきまさなが(1558~1599)】

高力清長の男。官途は土佐守。通称権左衛門。室は本多忠俊の娘。「三方ヶ原の戦い」、「長篠の戦い」、「小牧、長久手の戦い」などで戦功を挙げた。1582年、「武田家討伐」で武田勝頼が滅亡すると、その娘(貞姫)を預かった。1587年、大番頭に就任。1599年、父高力清長に先立って早世した。

高力忠房【こうりきただふさ(1584~1656)】

高力正長の男。1599年、父高力正長が病没したため、祖父の高力清長の後見を受け、高力家の家督と岩槻城20,000石を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠勢に属して参陣した。1609年、岩槻城が全焼したが復興に尽力した。1614年、大久保忠隣が改易処分に処されると、安藤重信らとともに小田原城を接収した。「大坂冬の陣」では、松平秀忠勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、土井利勝勢に属して奈良で羽柴秀頼勢と戦った。1619年、遠江国浜松城30,000石に転封した。1637年、「島原の乱」後、肥前国島原城40,000石に転封された。高力忠房を島原をよく治め、長崎の警備や九州における外様大名の監視も行った。

小林勝吉【こばやしかつよし(15??~15??)】

松平元康家臣。通称新助。1569年、「遠江天王山の戦い」で戦功を挙げた。

小林重正【こばやししげまさ(15??~15??)】

松平広忠家臣。使番を務めた。1549年、「安祥城の戦い」に参陣した。

五味元保【ごみもとやす(15??~1572)】

松平家忠家臣。岡田元次の弟。通称右衛門。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

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【さ】

榊原仁平【さかきばらじんべい(15??~15??)】

松平元康家臣。1590年、松平元康の意向を受け榊原康政に仕えた。1615年、「天王子、岡山の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

坂部正定【さかべさだまさ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称又十郎。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

坂部広勝【さかべひろかつ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称三十郎。1576年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

坂部正家【さかべまさいえ(1497~1570)】

坂部正則の男。松平広忠家臣。通称又十郎。1560年、「尾張石ヶ瀬の戦い」で戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」で討死した。

向坂式部【さぎさかしきぶ(15??~15??)】

松平元康家臣。官途は,常陸介。通称六郎左衛門。1570年、「姉川の戦い」では、向坂五郎次郎、向坂六郎五郎らとともに朝倉義景勢の真柄直澄を討取る戦功を挙げた。井伊直政につかえたが追放された。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説。

向坂五郎次郎【さぎさかごろうじろう(15??~1570)】

松平元康家臣。1570年、「姉川の戦い」は、で向坂五郎次郎、向坂六郎五郎らとともに朝倉義景勢の猛将真柄十郎左衛門を討取るが、その後の乱戦で向坂五郎次郎は討死した。
 
向坂六郎五郎【さぎさかろうくろうごろう(15??~15??)】

松平元康家臣。1570年、「姉川の戦い」で向坂式部、向坂五郎次郎とともに朝倉義景勢の猛将真柄十郎左衛門を討取る戦功を挙げた。

桜井松平信定【さくらいのぶさだ(15??~1538)】

碧海郡桜井城主。松平長親の三男。室は織田信定の女。1529年、松平清康に従って吉田城の牧野信成を攻めて戦功を上げる。1529年尾張国「品野城の戦い」にも従軍して活躍した。1530年、宇利城の熊谷重美を攻めた際に福釜(松平)親盛、親次父子を助けられなかったことから松平清康の勘気を受け、それに対して不満を持った桜井信定は松平清康が尾張守山へ出陣した際は病と称して命令に従わなかった。1535年、松平清康が安部弥七郎に暗殺されると、松平本家の地位を乗っ取る野望を目論んで尾張の織田信秀と通じて反旗を翻して岡崎城を占拠したが、松平広忠が今川家の傘下に入ると、城を明け渡して降伏した。

桜井松平清定【さくらいきよさだ(15??~1543)】

松平信定の男。1545年、「広畔畷の戦い」では、酒井忠尚、榊原長政らとともに松平広忠と戦うが敗れた。1564年、「吉田城の戦い」に父松平信定とともに参陣して戦功を挙げた。「尾張品野城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。

桜井松平家次【さくらいいえつぐ(15??~1563)】

松平清定の男。通称は監物丞。1545年、「広畔畷の戦い」で父松平清定、酒井忠尚、榊原長政らとともに松平広忠と戦うが敗れる。翌年には忠尚は許され、家次の居城・尾張品野城は忠尚の居城となり、品野城を明け渡す。1553年、三河・下和田の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家の松平忠茂と争うが松平家次の敗訴に終わる。松平元康の命で品野城に攻めてきた織田勢を撃退し功績をあげた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢の属した。

桜井松平忠正【さくらいただまさ(1543~1577)】

松平家次の男。1569年、「掛川城の戦い」で先陣を務め戦功を挙げた。1573年、「野田城の戦い」では、武田晴信勢20,000余りの攻撃を受けた。城主菅沼定盈と援将の松平忠正は、野田城に籠城するが武田晴信勢の金掘衆に水の手を切られやもなく降伏した。1575年、「長篠の戦い」で戦功を挙げた。

桜井松平忠吉【さくらいただよし(1559~1582)】

松平家次の次男。1577年、兄桜井忠正の死後、継嗣の松平家広が幼少だっため、桜井松平家の家督を相続した。1581年、「高天神城の戦い」で戦功を挙げたが、まもなく病没した。

桜井松平家広【さくらいいえひろ(1577~1601)】

松平忠正の男。1582年、父桜井忠正の病没後、桜井松平家の家督は叔父松平忠吉が相続したが、その松平忠吉も死去したため若年ながら家督を相続した。1584年「小牧、長久手の戦い」では、酒井忠次勢に属して戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると武蔵国松山城10,000石を領した。

桜井松平忠頼【さくらいただより(1582~1609)】

松平忠吉の男。1582年、父桜井忠吉が病没後に桜井松平家の家督を相続した、
従兄の桜井家広に継嗣がいなかったため、再び松平忠吉の家系が桜井松平家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、三河岡崎城を守備した。役後、遠江国浜松城50,000石を領した。

佐橋吉忠【さはしよしただ(15??~15??)】

松平広忠家臣。松平元康の弓指南役を務めた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢の属したが赦免された。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

佐橋吉次【さはしよしつぐ(15??~15??)】

松平秀忠家臣。近習を務め、後に大番頭を務め170石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

佐橋吉村【さはしよしむら(15??~15??)】

佐橋吉忠の四男。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属したが討死した。

左右田正綱【さゆだまんさつな(15??~15??)】

松平家忠家臣。通称与平。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

柴田康忠【しばたやすただ(15??~15??)】

松平元康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1561年、吉良義昭との戦いに参陣した。1563年、「三河一向一揆」では、門徒衆であったが松平元康勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

柴田重政【しばたしげまさ(15??~15??)】

松平元康家臣。通称七九郎。1585年、「第一次上田城の戦い」に下条信氏、知久頼氏、遠山友政、依田康国、三枝昌吉らとともに参戦した。

柴山正和【しばやままさかず(15??~15??)】

松平元康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢の酒井忠尚に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

清水広吉【しみずひろよし(1586~1664)】

大須賀忠政家臣。佐野尚定の男(清水広之の養子)。官途は内蔵之允。通称善兵衛。1594年、大須賀忠政に仕えた。1603年、大須賀忠政の意向を受け、背信のあった近習戸塚権平を討取る戦功を挙げ近習頭として300石を領した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。榊原忠次が館林城主になると、これに従った。1622年、原田種政、村上勝重らとともに日光東照宮光奥院を改築奉行に任じられた。1634年、鉄炮足軽20余りを率いた。

進藤伝十郎【しんどうでんじゅうろう(15??~15??)】

松平元康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

新見彦右衛門【しんみひこえもん(15??~15??)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

杉浦吉貞【すぎうらよしさだ(15??~15??)】

松平清康家臣。杉浦政次の男。通称八郎五郎。1555年、「尾張蟹江城の戦い」に参陣して、継嗣の杉浦勝吉、大久保忠勝、大久保忠員、大久保忠世、大久保忠佐、安部忠政らとともに戦功を挙げ、「蟹江七本鑓」と称された。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。

杉浦時勝【すぎうらときかつ(1525~1590)】

杉浦政次の次男。通称藤次郎。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して参陣した。1585年、石川数正が出奔すると城番は鐘をついてこれを知らせ、岡崎城兵を静め、城の守りを固めた。1589年、「小田原の役」では、岡崎城番を務めた。

杉浦親貞【すぎうらちかさだ(15??~15??)】

杉浦政次の三男。

杉浦久勝【すぐうらひさかつ(1539~1600)】
 
杉浦政次の四男。通称惣左衛門。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して参陣した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、大久保忠世勢に属して戦功を挙げた。1574年、「遠江乾の戦い」では、大久保忠隣勢の先陣を務め負傷した。1585年、「第一次上田城の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、旗奉行を務めたが、大久保忠隣から軍法違反と咎められ自刃した。

杉浦久成【すぎうらひさなり(15??~15??)】

杉浦久勝の男。

杉浦久眞【すぎうらひさざね(15??~15??)】

杉浦久勝の次男。

杉浦久元【すぎうらひさもと(15??~15??)】

杉浦久勝の三男。

杉浦勝吉【すぎうらかつよし(15??~1611)】

杉浦吉貞の男。通称八郎五郎。室は筧重成の娘。1555年、「尾張蟹江城の戦い」に参陣して、父杉浦吉貞、大久保忠勝、大久保忠員、大久保忠世、大久保忠佐、安部忠政らとともに戦功を挙げ、「蟹江七本鑓」と称された。1557年、酒井忠次が守備する福谷城に、安部忠政、大久保忠佐、大久保忠勝、渡邊八郎右衛門、筧正長、大原惟宗らとともに援軍として派遣された。1560年、「大高城の戦い」では、兵糧を城内に運び入れる功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して参陣した。1572年、「三方ヶ原の戦い」で戦功を挙げ、本宗定角の鏃二つを賜った。1575年、「長篠の戦い」では、久世広宣、坂部広勝らとともに戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると、相模国小雀館300石を領した。

杉浦勝次【すぎうらかつつぐ(15??~15??)】

杉浦久成の男(杉浦勝吉の養子)。

杉浦勝重【すぐうらかつしげ(15??~1560)】

杉浦吉貞の次男。八十郎。1560年、水野信勢と戦い討死した。
 
杉浦親次【すぎうらちかつぐ(15??~15??)】

松平元康家臣。通称弥市郎。本多忠勝の寄騎衆を務めた。1572年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。

杉浦正友【すぎうらまさとも(1577~1662)】

杉浦親次の三男。官途は内蔵允。通称市右衛門。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1626年、松平秀忠の京都上洛に供奉した。留守居役、勘定頭を務めた。

杉浦定政【すぎうらさだまさ(15??~15??)】

伊奈忠次家臣。通称五郎右衛門。1600年、「関ヶ原の役」前に、松平元康の意向を受け伊奈忠次が武蔵大川戸に陣屋敷する際、杉浦定政を作事奉行に任じて陣屋敷を建設させた。

鋤柄百度右衛門【すけがらずんどうざえもん(15??~15??)】

松平清宗家臣。1575年、「鳶ヶ巣山砦」では、酒井忠次勢に属して戦功を挙げた。

杉浦仁右衛門【すぎうらじんえもん(15??~15??)】

松平家忠家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

鈴木次右衛門【すずきじろうえもん(15??~1568)】

松平元康家臣。1568年、「遠江掛川城の戦い」で日根野弘就の家臣日根野源太に討たれた。

鈴木角右衛門【すずきかくえもん(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

鈴木藤九郎【すずきとうくろう(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

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【た】

高木宣光【たかぎのぶみつ(15??~15??)】

水野信元家臣。碧海郡牧内館主。室は酒井正信の娘。

高木清秀【たかぎきよひで(1526~1610)】

高木宣光の男。通称善次郎。生涯に戦場で四十五ヶ所の疵を負った。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。1565年、水野信元が病没すると、織田信長の意向で佐久間信盛勢に属した。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、高木広正の仲介により松平元康に仕え1,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、内藤正成とともに目付を務めた。1590年、松平元康が関東に転封になると、5,000石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

高木正次【たかぎまさつぐ(1563~1631)】

高木清秀の三男。官途は主水正。通称善次郎。室は大久保忠佐の養女。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」にも参陣した。1594年、父高木清秀の隠居により高木家の家督と5,000石を相続した。1600年、「第二次上田城の戦い」では、松平秀忠勢に従って真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。1602年、大番頭に任じられ2,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、江戸城の留守居役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」では、参陣して戦功を挙げた。1623年、河内国丹南城10,000石を領して諸侯に列した。

高木正成【たかぎまさなり(1587~1635)】

高木正次の男。官途は主水正。通称善次郎。室は山口重政の養女。1600年、「第二次上田城の戦い」では、父高木正次とともに松平秀忠勢に従って真田昌幸勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げ上総国内1,000石を領した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で戦傷を負いながらも戦功を挙げた。1631年、父高木正次の病没により高木家の家督を相続した。小田原城守衛や御書院番頭などを務めた。

高木清方【たかぎきよかた(15??~15??)】

高木宣光の次男。兄高木清秀とともに水野信元に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、高木清秀とともに松平元康に仕え680石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

高木重正【たかぎしげまさ(15??~1545)】

松平清康家臣。1545年、「上野城の戦い」で討死した。

高木広正【たかぎひろまさ(15??~16??)】

高木重正の男。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して松平元康勢と戦った。赦免され松平元康に仕え、加賀国に在った本多正信に三河国への帰還を促した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、馬を失った松平元康に自ら馬を差し出した。武田晴信の家臣大隅入道を討取る戦功を挙げた。1575年、「遠江諏訪原城の戦い」では、兵卒たちが流行病に倒れると自ら調合した五徳散を与えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、鉄炮組を率いて戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、武蔵国忍城を守備して1,600石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

高木喜左衛門【たかぎきざえもん(15??~16??)】

高木重正の次男。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

高木正次【たかぎまさつぐ(1588~1657)】

松平康元家臣。通称小左衛門。松平元康の意向を受け、金田宗房、坂部勝之、平野弥角、吉田久兵衛らとともに松平康元に仕えた。

竹田右衛門【たけだうざえもん(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1605年、大須賀忠政に新田置目を提出した。

高屋部架助【たかなやべかすけ(15??~1572)】 

本多広孝の家臣。1572年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。

滝脇松平乗清【たきわきのりきよ(15??~1556)】

松平清康家臣。松平親忠の九男。1556年、「滝脇城の戦い」で松平親乗勢の攻撃を受け討死した。

滝脇松平乗遠【たきわきのりとお(15??~1556)】

松平乗清の長男。1556年、1556年、「滝脇城の戦い」で松平親乗勢の攻撃を受け父松平親忠とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

滝脇松平正乗【たきわきまさのり(15??~1556)】

松平乗遠の男。1556年、「滝脇城の戦い」で祖父松平乗清と父松平乗遠ととともに大給松平親乗勢の攻撃を受け討死した。

滝脇松平乗高【たきわきのりたか(15??~1592)】

松平乗遠の次男。1556年、「滝脇城の戦い」で松平乗清、松平乗遠、松平正乗は、大給松平親乗勢と戦い討死した。滝脇松平家の家督は松平乗遠の次男松平乗高が相続した。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に従って、水野忠重とともに蜂屋貞次勢と戦った。1575年、「大給城の戦い」で松平親乗を敗走させて父祖の仇を晴らした。遠江侵攻の際にも参陣して「二俣城の戦い」で戦功を挙げた。その後も戦功を重ねた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

滝脇松平乗次【たきわきのりつぐ(15??~15??)】

松平乗高の男。通称右馬助。1598年、松平元康上洛の際に供奉し、伏見城番を務めた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ、三河国額田郡内で600石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹谷松平親善【たけのやちかよし(14??~15??)】

松平守親の男。竹谷城主。官途は玄蕃允。室は今川氏親の娘。継室は鵜殿長持の室。

竹谷松平清善【たけのやきよよし(1505~1587)】

松平親善の男。官途は備後守。通称玄蕃允。室は松平家広の娘。1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、松平元康勢に属して松平家広、西郷正勝、奥平貞能、菅沼定盈、菅沼定忠、菅沼定景らとともに今川氏真から離反した。人質として差し出していた娘は殺害された。1562年、「上ノ郷城の戦い」では、鵜殿長照を攻撃したが攻落とすことができず、松平元康の援軍を得て攻落とした。1572年、遠江国宇津山城の城代となった。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

竹谷松平清宗【たけのやきよむね(1538~1605)】

松平清善の男。通称玄蕃允。室は松平家好景の娘。1563年、「三河一向一揆」で戦功を挙げた。1564年、「吉田城の戦い」では、二ヶ所に被傷するも、頸級五つを上げる戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」では、酒井忠次勢に属して参戦した。1575年、「長篠の戦い」には酒井忠次勢の奇襲隊として参戦した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、継嗣の松平家清とともに、駿河興国寺城を守備した。1590年、松平元康が関東に転封になると、武蔵国児玉郡八幡山城10,000石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

竹谷松平家清【たけのやいえきよ(1566~1610)】

松平清宗の男。室は久松俊勝の娘。1581年、元服の際に松平元康から家の字を賜って家清と名乗り、家康の異母妹を妻として娶った。関東入国後は武蔵八幡山にて10,000石が与えられた。1600年「関ヶ原の戦い」後は三河吉田城30,000石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

竹谷松平忠清【たけのやただきよ(1585~1612)】

松平家清の男。官途は玄蕃頭。通称万之助。室は亀井滋矩の娘。1610年、父松平家清の病没後、竹谷松平家の家督を相続した。1612年、継嗣をもうけぬまま病没した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

竹谷松平清昌【たけのやきよまさ(15??~16??)】

松平家清の次男。1612年、兄松平忠清が病没すると、無嗣断絶の危機に陥ったが、母が松平元康の異母妹ということもあり、弟の松平清昌が三河国西郡で5,000石を領して竹谷松平家を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、三河本坂城を守備した。1615年、「大坂夏の陣」では、松平頼宣勢に属して戦功を挙げた。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

竹谷松平清昌【たけやきよまさ(1593~1655)】

松平家清の次男。官途は玄蕃頭。通称庄次郎。1612年、父松平家清の病没後、兄松平忠清も病没したため、竹谷松平家30,000石は無嗣除封となった。松平清昌が改めて宝飯郡内で5,000を領を領して竹谷松平家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、36騎余りを率いて参戦した。1632年、松平秀忠が病没すると、遺金として銀3枚を拝領した。1636年、大坪流馬術の秘伝目録を伝授された。

柘植又十郎【つげまたじゅうろう(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

土屋惣兵衛【つちやそうざえもん(15??~15??)】

松平広忠家臣。
 
土屋重治【つちやしげはる(15??~15??)】

土屋惣兵衛の男。通称惣兵衛。1563年、「三河一向一揆」で戦功を挙げた。

土屋重信【つちやしげのぶ(15??~15??)】

土屋重治の男。通称甚七郎。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。
 
土屋重利【つちやしげとし(15??~15??)】

土屋重信の男。通称甚助。

土屋利清【つちやとしきよき(15??~15??)】

土屋重利の男。通称忠左衛門。

土屋利次【つちやとしつぐ(15??~15??)】

土屋利清の男。

筒井忠正【つついただまさ(15??~1573)】

松平清康家臣。大和国出身。三河国に転封して松平清康に仕えた。1573年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して討死した。

筒井忠次【つついただつぐ(15??~1582)】

筒井忠正の男。通称内蔵。1569年、「遠江掛川城の戦い」で戦功を挙げた。1582年、「武田家討伐」に参陣して、武田勝頼勢と戦い討死した。
 
筒井与右衛門尉【つついよぜもんのじょう(15??~15??)】

松平清康家臣。1563年、「三河一向一揆」では、一向門徒でありながら、松平元康勢に属して戦功を挙げた。
 
筒井正吉【つついまさよし(15??~15??)】

筒井与右衛門尉の男。通称次左衛門尉。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。

筒井吉重【つついよししげ(15??~15??)】

筒井正吉の男。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

筒井忠正【つついただまさ(15??~1582)】

松平元康家臣。1582年、「天正壬午の乱」では、北条氏直勢の足軽衆を討取る戦功を挙げた。その後の戦いで討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

筒井忠重【つついただしげ(1579~16??)】

筒井忠正の男。松平元康に仕え220石を領した。「島原の乱」に参陣した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

筒井忠光【つついただみつ(15??~15??)】

松平清康家臣。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。「上和田の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

筒井久忠【つついひさただ(15??~15??)】

筒井忠光の男。松平元康に仕え富士見番を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

筒井正成【つついまさなる(15??~15??)】

筒井久忠の男。1615年、蔵米350俵を与えられた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

筒井余右衛門【つついよざえもん(15??~15??)】

松平清康家臣。1563年、「三河一向一揆」では、門徒衆であったが松平元康勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

筒井正吉【つついまさよし(15??~15??)】

筒井余右衛門の男。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

東条松平義春【とうじょうよしはる(15??~1556)】

幡豆郡東条城主。松平長親の男。官途は右京亮。1556年、「日近城の戦い」で奥平貞直勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

東条松平甚二郎【とうじょうじんじろう(15??~15??)】

松平義春の男。別名平甚二郎。父松平義春の病没により、東条松平家の家督を相続した。1551年、織田信長勢に内応したため、今川義元から追放処分に処された。

東条松平忠茂【とうじょうただしげ(15??~1556)】

松平義春の次男。通称甚太郎。別名松平忠茂。1551年、兄松平甚二郎は、織田信長勢に内応したため、今川義元から追放処分に処された。東条松平家の家督は、松平忠茂が相続したが、若年のため松井忠次、山内助左衛門尉らが補佐した。

東条松平家忠【とうじょういえただ(1556~1581)】

松平忠茂の男。室は深溝松平家忠の妹。1556年、父松平忠茂が討死したため、東条松平家の家督を相続した。家臣の松井忠次が後見役を務めた。1563年、「三河一向一揆」では、松井忠次とともに戦功を挙げ、東条城主に任じられた。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。

東条松平忠吉【とうじょうただよし(15??~16??)】

松平元康の四男(松平家忠の養子)。官途は下野守。室は井伊直政の娘。1581年、東条松平家忠が病死した後、その家督を相続して東条城10,000石を領した。1582年、駿河国沼津城40,000石に転封された。1590年、松平元康が関東へ転封されると、武蔵国忍城主に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣して、福島正則と先陣を争い島津豊久を討取る戦功を挙げた。

遠山安吉【とおやまやすよし(15??~15??)】

松平広忠家臣。松平広忠が討死すると、林藤五郎とともにその遺骨を高野山大徳寺に納めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

遠山平太夫【とおやまへいだいふ(15??~15??)】

遠山安吉の男。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると330石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

戸田重之【とだしげゆき(15??~15??)】

松平元康家臣。通称半平。1575年、「鳶ヶ巣山砦の戦い」では、天野西次とともに一番乗りの戦功を挙げたが、銀の髑髏の指物を差す戸田重之が敵味方を問わず目についたので、一番槍と承認された。

外山小作【とやまこさく(15??~1572)】

松平元康家臣。1572年、「三方ヶ原の戦い」で武田晴信勢の追撃をかわすため、松平元康の身代わりとなって討死した。

鳥居忠吉【とりいただよし(1496~1572)】

松平清康家臣。鳥居忠明の男。碧海郡渡城主。官途は伊賀守。松平清康が謀殺されると、松平広忠は今川義元勢に属した。松平元康が人質として駿府城に送られると、岡崎城の家政は鳥居忠吉、阿部定吉らが運営した。1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、松平元康を岡崎城に迎えた。

鳥居忠宗【とりいただむね(15??~1547)】

鳥居忠吉の男。1547年、「三河渡の戦い」で討死した。

鳥居元忠【とりいもとただ(1539~1600)】

鳥居忠吉の三男。通称彦右衛門尉。室は松平家広の娘。側室は馬場信春の娘。松平元康とともに人質として今川義元のもとに送られた。1572年、父鳥居忠吉が病没すると、長兄の鳥居忠宗が討死し、次兄の本翁意伯も出家していたため、鳥居家の家督を相続した。1558年、「遠江寺部城の戦い」に参陣した。1570年、「姉川の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。「諏訪原城の戦い」では、武田勝頼勢から銃撃を受け足を負傷した。1575年、「長篠の戦い」では、石川数正とともに作事奉行を務めた。1581年、「第二次高天神城の戦い」に参陣した。1582年、「天正壬午の乱」では、北条氏忠、北条氏勝勢10,000余りを三宅康貞、水野勝成ら2,000余りで撃退する戦功を挙げた。乱後、甲斐国都留郡谷村城30,000石を領した。1585年、「第一次上田城の戦い」では、大久保忠世、平岩親吉らとともに7,000余りを率いて真田昌幸勢と戦い大敗した。1589年、「岩槻城の戦い」に参陣した。1590年、松平元康が関東に転封になると下総国矢作城40,000石を領した。1600年、「伏見城の戦い」では、松平家忠、松平近正、内藤家長ら1,800余りで籠城したが石田三成勢の攻撃を受け討死した。
 
鳥居忠広【とりひただひろ(15??~1572)】

鳥居忠吉の四男。通称四郎左衛門。1558年、松平元康に従い、水野信元勢と戦った。1560年、「丸根砦の戦い」に参陣した。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、武田晴信勢の陣形を見て松平元康に撤退を進言したが受け入れられなかった。松平元康勢に殿を務め、土屋直村勢と戦い討死した。

鳥居忠政【とりいただまさ(15??~1628)】

鳥居元忠の次男。官途は左京亮。通称新太郎。室は生駒家長の娘(滝川雄利の養女)。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1600年、「伏見城の戦い」で父鳥居元忠が討死したため、鳥居家の家督と下総国矢作城40,000石を相続した。役後、鳥居元忠の戦功により100,000石を領した。1622年、羽前国山形城220,000石を領した。
 
鳥居成次【とりいなりつぐ(1570~1631)】

鳥居元忠の三男。通称久五郎。官途は土佐守。1600年、「関ヶ原の役」後、捕縛された石田三成の身柄を預かった。甲斐国の領主浅野長政が紀伊国に転封になると、平岩親吉ら四奉行のもとに甲斐国を統治した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して戦功を挙げた。1615年、松平忠長が甲斐国を領すると、朝倉宣正とともに附家老職に任じられた。1624年、松平忠長が駿河国、遠江国、信濃国小諸を領すると、鳥居成次も駿河国内で35,000石を領した。1631年、松平忠長が改易処分に処されると、鳥居成次、朝倉宣正らは失脚した。

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【な】

内藤清長【ないとうきよなが(1501~1572)】

松平清康家臣。碧海郡上野城主。内藤義清の男。1542年、「三河上野城の戦い」では、織田信秀勢の攻撃を受けたが、甥の内藤正成らとともに防戦し、織田信秀勢を撃退した。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して、敗れて荻城に蟄居になった。1572年、「二俣城の戦い」の陣中で病没した。
 
内藤家長【ないとういえなが(1546~1600)】

内藤清長の男。通称弥次右衛門。弓の名手で「無双の弓手」と称えられた。義兄の内藤信成から内藤家の家督を譲られた。1560年、「丸根砦の戦い」では、今川義元勢に属して参陣した。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。1572年、父内藤清長の病没により内藤家の家督を相続した。1590年、松平元康が関東に転封すると上野国佐貫城20,000石を領した。1600年、「伏見城の戦い」では、鳥井元忠勢に属して西の丸を守備したが石田三成勢の攻撃を受け討死した。

内藤正成【ないとうまさなり(1527~1602)】

内藤清長家臣。内藤忠郷の男。通称四郎左衛門。弓の名手。1560年、「大高城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「上和田で戦い」では、舅石川十郎左衛門に矢を射て傷を負わせた。また、大将渡辺源五左衛門を討取る戦功を挙げた。1570年、「第一次越前討伐」では、矢六本で敵六人を無駄なく仕留めた。1590年、松平元康が関東に転封になると5,000石を領した。

内藤信成【ないとうのぶなり(1545~1612)】

松平広忠の男(内藤清長の養子)。官途は豊前守。室は粟生長勝の娘。1558年、「広瀬城の戦い」では、養父内藤清長とともに参陣した。1563年、「三河一向一揆」後、中島で600石を領した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、殿を務めた。1575年、「長篠の戦い」で戦功を挙げ織田信長から賞賛された。1589年、甲斐国常光寺城主に任じられ6,000石を領した。1589年、「小田原の役」では、戦功を挙げ羽柴秀吉から「武備」を賞賛された。1590年、松平元康が関東に転封になると、伊豆国韮山城10,,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、駿河国三枚橋城を守備した。1601年、駿府城40,000石を領した。

内藤忠村【ないとうただむら(15??~15??)】

内藤家長家臣。通称甚五左衛門。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

内藤忠郷【ないとうたださと(15??~15??)】

松平信孝家臣。通称甚五左衛門。後に松平広忠に仕えた。

内藤正成【ないとうまさなり(15??~15??)】

内藤忠郷の男。

永井直勝【ながいなおかつ(1563~1625)】

松平信康家臣。長田重元の男。官途は右近大夫。通称伝八郎。室は阿部正勝の娘。1579年、松平信康が自刃すると隠棲した。1580年、松平元康に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、池田恒興を討取る戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、近江国内で7,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」にも参戦して戦功を挙げ上野国小幡城17,000石を領した。1617年、常陸国笠間城32,000石を領した。1622年、笠間城を浅野長重に譲り、下総国古河城72,000石を領した。

永井尚政【ながいなおまさ(1587~1668)】

永井直勝の男。官途は信濃守。通称伝八郎。室は内藤清成の娘。1600年、「関ヶ原の役」後、松平秀忠に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げ、御小姓番頭に任じられた。1619年、上総国潤井戸城15,000石を領して諸侯に列した。1622年、「釣天井事件」で本多正純が改易処分に処されると、老中職に任じられた。1625年、父永井直勝が病没したため、永井家の家督と下総国古河城89,000石を相続した。1633年、老中職を解任されて山城国淀城100,000石を領した。京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担った。

永井直清【ながいなおきよ(1591~1671)】

永井直勝の次男。官途は日向守。通称伝十郎。室は高木正次の娘。松平秀忠に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げ、530石を領した。1633年、山城国長岡城20,000石を領して諸侯に列した。1649年、摂津国高槻城に転封して36,000石を領した。兄永井尚政とともに京都周辺の領地を支配した。1635年、継嗣の永井直吉を廃嫡した。1671年、永井直清が病没した後、永井直吉の継嗣永井直時が家督を相続した。

永井直貞【ながいなおさだ(1598~1668)】

永井直勝の三男。官途は豊前守。通称十左衛門。1604年、松平家光に仕え小姓組番頭に任じられた。1626年、父永井直勝が病没すると、兄永井尚政より遺領のうち3,300石を領した。

永井直重【ながいなおしげ(1604~1682)】

永井直勝の四男。官途は式部少輔。松平秀忠に仕えた。1626年、父永井直勝が病没すると、兄永井尚政より遺領のうち、3,200石を領した。1634年、松平家光の上洛の共奉を務めた。

永井白元【ながいはくげん(15??~15??)】

松平元康家臣。官途は監物。通称弥右衛門。1596年、相模国戸塚で330石の代官職を務めた。1625年、鵜野森3.350石の代官職を務めた。東海道、中山道の普請奉行を務め、一里塚を設置した。参考文献:相模原情報発信基地。

長沢松平一忠【ながさわかずただ(15??~1543)】

松平勝宗の男。

長沢松平親広【ながさわちかひろ(15??~1571)】

松平一忠の男。1560年、「桶狭間の戦い」では、継嗣の松平政忠が参陣したが討死した。長沢松平家の家督は、孫の松平康忠に相続させ、後見人として家政を取り仕切った。

長沢松平政忠【ながさわまさただ(15??~1560)】

松平親忠の男。室は松平清康の娘(碓井姫)。1560年、「桶狭間の戦い」では、父松平親広とともに参陣するが、織田信長勢の攻撃を受け討死した。

長沢松平康忠【ながさわやすただ(1545~1618)】

松平政忠の男。1560年、「桶狭間の戦い」で父松平政忠が討死すると、祖父松平親広の後見を受け長沢松平家の家督を相続した。「牛久保城の戦い」で戦功を挙げた。1575年、「長篠の戦い」では、酒井忠次勢に属して鳶ヶ巣山砦を攻撃して戦功を挙げた。その後、松平信康の附家老を務めた。松平信康が自刃すると、松平元康に仕えた。

長沢松平康直【ながさわやすなお(1569~1593)】

松平康忠の男。1588年、父松平康忠の隠居により、長沢松平の家督を相続した。1590年、松平元康が関東に転封すると、武蔵国深谷城10,000石を領した。

長沢松平松千代【ながさわまつちよ(1594~1599)】

松平元康の七男(松平康直の養子)。1593年、松平康直の病没にともない、長沢松平家の家督を相続した。幼少のうちに病没した。

長沢松平忠輝【ながさわただてる(1592~1683)】

松平元康の六男(松平康忠の養子)。官途は左近衛権少将。通称越後少将。室は伊達政宗の娘(五郎八姫)。下野国長沼城主皆川広照が附家老として松平忠輝を養育した。1599年、長沢松平家の家督を相続していた松平松千代が病没したため、長沢松平家の家督と武蔵国深谷城10,000石を相続した。1602年、下総国佐倉城50,000に転封した。1603年、信濃国松代城120,000石に転封すると、その附家老に大久保長安が任じられた。1605年、松平元康の名代として羽柴秀頼と謁見した。1606年、大久保長安の仲介により、伊達政宗の娘と婚姻した。1608年、花井吉成が附家老職に任じられた。1609年、皆川広照が松平忠輝の素行を松平元康に訴えたが、逆に皆川広照が改易処分に処された。1610年、越後国高田城750,000石に転封した。1614年、「大坂冬の陣」では、越後国高田城の留守居役に任じられた。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。1616年、松平元康が臨終の際、松平秀忠、松平義直、松平頼宣、松平頼房らを呼び寄せたが、松平忠輝だけは呼ばなかった。松平元康が病没すると、改易処分に処されて、伊勢国朝熊に流罪となった。1683年、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)で病没した。

長田重元【ながたしげもと(15??~15??)】

松平広忠家臣。大浜羽根城主。通称平右衛門。1560年、「大浜城の戦い」で織田信長勢の攻撃を受けた。1582年、「本能寺の変」後、伊勢白子浜へ舟を回して松平元康を出迎えた。

長田重吉【ながたしげよし(15??~15??)】

長田重元の弟。

中野重吉【なかのしげよし(15??~15??)】

伊奈忠次家臣。1590年、松平元康が関東に転封すると、伊奈忠次の代官として上総武射郡、長南郡の検地奉行を務めた。1608年、尾張国の検地奉行を務めた。

中根正照【なかねまさてる(15??~1573)】

松平清康家臣。中根正昭の男。別名中根正行。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。「遠江横須賀城の戦い」では、大須賀康高勢に属して籠城、武田晴信勢と戦った。「遠江二俣城の戦い」では、松平康安、青木貞治ととも籠城して武田晴信勢と戦った。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根忠利【なかねただとし(15??~1573)】

松平元康家臣。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根利重【なかねとししげ(15??~15??)】

中根忠利の男。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。1572年、「三方ヶ原の戦い」で先陣を務め、松平元康の馬前で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根正次【なかねまさつぐ(15??~15??)】

中根利重の次男。1572年、「三方ヶ原の戦い」で父中根利重が討死したため、中根家の家督を相続した。小姓組頭を務め270石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根正吉【なかねまさよし(15??~15??)】

中根広政の男。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根正俊【なかねまさとし(15??~16??)】

中根正吉の男。1614年、「大坂冬の陣」では、鉄炮組頭を務め、鉄炮足軽50余りを率いた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根正連【なかねまさつら(15??~16??)】

中根正俊の四男。松平秀忠に仕えた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

中根新八郎【なかねしんぱち(15??~15??)】

松平家忠家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

中村吉繁【なかむらよししげ(15??~1624)】

高力清長家臣。通称弥右衛門尉。1590年、松平元康が関東に転封すると、武蔵国の領国経営に手腕を発揮して、松平元康に仕え代官職を務めた。1614年、安房国検地奉行を務め、館山城下街の建設に携わった岩崎与次右衛門を重用し政務を補佐させた。

夏目正吉【なつめまさよし(1518~1572)】

夏目吉久の男。幡豆郡豊坂館主。通称次郎左衛門。別名夏目吉信。1562年、「三河八幡の戦い」で、今川氏真勢の攻撃を受け松平元康勢が敗退すると、殿を務め六度踏み止まり奮戦した。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して六栗城に籠城した。乙部八兵衛の裏切りにより、松平伊忠に捕縛された。松平伊忠の嘆願により松平元康への帰参が許された。1573年、「三方ヶ原の戦い」では、松平元康勢の殿を務め、身代わりとなり、松平元康の兜を被って武田晴信勢に突撃して討死した。

波切孫四郎【なみきりまごしろう(15??~15??)】

松平広忠家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

成瀬正頼【なるせまさより(15??~1540)】

松平清康家臣。成瀬国重の男。木戸城主。通称藤左衛門。「森山崩れ」で松平清康が謀殺されると、松平広忠に仕えた。1537年、松平信定に岡崎城を追われた松平広忠の帰還を八国甚六郎、大久保忠俊、林藤助、大原左近右衛門らとともに支援した。1540年、「安祥城の戦い」で織田信秀勢と戦って討死した。

成瀬正義【なるせまさよし(1535~1572)】

成瀬正頼の男。通称藤蔵。松平元康に仕え、使番と旗奉行を務めた。1562年、同僚を斬り出奔した。1563年、「三河一向一¥揆」が起こると、帰参して一揆勢と戦った。1568年、「箕作城の戦い」では、織田信長勢に従って六角義治勢と戦い戦功を挙げた。1570年、姉川の戦い」に参陣した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、旗奉行として松平元康を守り武田晴信勢と戦ったが馬場信春勢の攻勢を受け、後事を弟の成瀬正一に託し、松平元康の身代わりとして討死した。

成瀬正一【なるせまさかず(1538~1620)】

成瀬正頼の次男。通称吉右衛門。室は熊谷真連の妹。継室は山上淡路守の娘。

丹羽又左衛門【にわまたざえもん(15??~15??)】 

大須賀康高家臣。1585年、撰要寺の寺領坪付を作成した。

丹羽四郎左衛門【にわしろうざえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1590年、松平元康から榊原康政の寄騎衆に任じられた。1615年、「天王子、岡山の戦い」では、榊原康政勢に属して参陣した。羽柴秀頼勢と戦い頸級を上げる戦功を挙げた。

野中重政【のなかしげまさ(15??~15??)】

松平元康家臣。通称三五郎。1579年、松平元康の意向を受け小藪村において築山殿を謀殺した。その後、野中重政は城を出て堀口に隠棲した。後に野中重政の娘二人が聾唖で生まれたため、野中重政の孫は築山殿の廟前に石灯籠を寄進した。

能見松平光親【のみみつちか(15??~1536)】

額田郡能見城主。松平信光の八男。

能見松平重親【のみしげちか(15??~1558)】

松平光親の男。

能見松平重玄【のみしげはる(15??~15??)】

松平重親の男。通称右衛門。別名松平玄鉄。1571年、武田晴信勢の支援を受け蜂起した遠江一揆勢を青山忠門らとともに撃破った。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

能見松平重吉【のみしげよし(1498~1580)】

松平重親の次男。通称次郎右衛門。別名松平重吉。室は松平親長の娘。1558年、「寺部城の戦い」では、今川義元から離反した鈴木重辰を攻撃した。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属して上野城主酒井忠尚を攻撃して戦功を挙げた。松平信康が初陣を飾った際には鎧を着せる具足親となった。1575年、「遠江二俣城の戦い」では、先陣を務めた。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

能見松平重利【のみしげとし(15??~1560)】

松平重吉の男。1560年、「尾張丸根砦の戦い」では、松平元康に従って織田信長勢と戦い討死した。

能見松平重勝【のみしげかつ(1549~1620)】

松平重吉の四男。室は鳥居忠吉の娘。別名松平重勝。1560年、「桶狭間の戦い」で兄松平重利が討死したため、能見松平家の家督を相続した。1585年、石川数正が羽柴秀吉のもとに出奔すると、家中の動揺を鎮める功を挙げた。1612年、松平忠輝の附家老職に任じられ、越後国三条城20,000石を領した。松平忠輝が改易処分に処されると、松平秀忠に仕え下総国関宿城主に任じられた。

能見松平昌利【のみまさとし(15??~1613)】

松平重利の男。別名清水昌利。1560年、「尾張丸根砦の戦い」で父松平重利が討死したため、叔父の松平重勝が能見松平家の家督を相続した。

能見松平重忠【のみしけただ(1570~1626)】

松平重勝の男。1612年、大番頭に任じられた。1615年、「大坂冬の陣」に参陣した。

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【は】

長谷川長久【はせがわながひさ(15??~15??)】

松平元康家臣。今川氏真の没落後、松平元康に仕え代官職を務めた。

向井正勝【むかいまさかつ(15??~15??)】

長谷川長久の男。

長谷川長盛【はせがわながもり(15??~15??)】

長谷川長久の次男。

長谷川長綱【はせがわながつな(1543~1604)】

長谷川長久の三男。通称七左衛門。1590年、松平元康が関東に転封のなると、大久保長安、伊奈忠次、彦坂元正らと関東代官諸に任じられ、相模三浦郡西浦賀に陣屋を置き、代官頭として南関東の検地を担当した。代官職、奉行職にとどまらず、船奉行として江戸湾、三浦半島の海運整備を行った。1602年、松平信吉が常陸国水戸城150,000石を領すると、領内の検地目録を提出した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長谷川長次【はせがわながつぐ(15??~15??)】

長谷川長久の四男。

蜂屋貞次【はちやさだつぐ(1539~1564)】

松平広忠家臣。通称半之丞。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して松平元康勢と戦った。水野正重と槍を交えたが、松平元康が現れると退散した。松平金助の追撃を受けるがこれを討取った。1564年、「三河牛窪城の戦い」で本多忠勝勢と戦い討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

林藤五郎【はやしとうごろう(15??~15??)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

林伝右衛門【はやしでんえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1609年、三河国の検地奉行を務めた。

原与太夫【はらよだいふ(15??~1568)】

松平元康家臣。1568年、「遠江掛川城の戦い」で朝比奈泰朝の家臣讃井善右衛門に討取られた。

久代勘右衛門【ひさよかんざえもん(15??~15??)】

松平元康家臣。1600年、「関ヶ原の役」後、役後の状況を知らせる書状を大関資増に送った。

氷見為重【ひみためしげ(15??~1568)】

松平清康家臣。1568年、「遠江堀川城の戦い」で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

氷見勝定【ひみかつさだ(15??~15??)】

氷見為重の男(今村勝長の養子)。1584年、「小牧、長久手の戦い」で戦功を挙げ250石を領して寄騎衆10余り、徒歩足軽50余りを率いた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

日向政成【ひゅうがまさなり(15??~15??)】

松平元康家臣。室は内藤正勝の娘。1609年、三河国の検地奉行を務めた。

平井甚三郎【ひらいじんざぶろう(15??~1569)】

松平元康家臣。1569年、「堀川城の戦い」では、松平信一、榊原康政らに率られて小林重直、永見為重、大久保勘七郎、小林平蔵太夫らとともに参陣した。堀川城主尾藤高明、山村修理、武田杢之進らを1,500余りで攻撃したが討死した。

平岩親重【ひらいわちかしげ(15??~15??)】

額田郡坂崎館主。官途は左京進。室は天野貞親の娘。松平元康の乳母は天野貞有の内室。
 
平岩親吉【ひらいわちかよし(1542~1611)】

平岩親重の次男。1547年、駿河駿府城に人質として送られた松平元康の小姓を務めた。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。松平信康の傅役を努めた。1579年、織田信長の意向を受け松平信康が自刃すると、その責任を取り蟄居謹慎した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、甲斐国を平定した松平元康の意向を受け甲斐国郡代職を務めた。1589年、「小田原の役」で戦功を挙げ、武蔵国厩橋城33,000石を領した。1600年、「関ヶ原の戦い」後、甲斐国甲府城63,000石を領した。1603年、松平義直が甲斐国250,000石を領すると、松平義直の後見役を努めた。1607年、松平義直が尾張国に転封になると、附家老職を務め犬山城123,000石を領した。

平岩元重【ひらいわもとしげ(15??~15??)】

松平家忠家臣。通称権大夫。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1575年、「鳶ヶ巣山砦の戦い」では、武田勝頼勢が守る砦に尾崎半平、左右田与平、浅岡五郎左衛門らとともに火を放ち、河窪信実を討取る戦功を挙げた。

平岩基親【ひらやまもとちか(15??~15??)】

松平家忠家臣。通称弥之助。1572年、「三方ヶ原の戦い」に参陣した。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

平岩十兵衛【ひらいわじゅうべい(15??~15??)】

松平清康家臣。1544年、「安祥城の戦い」では、安祥城に籠城し織田信秀勢の多くを矢で射抜いた。

平岩親長【ひらいわちかなが(15??~15??)】

平岩親吉の叔父。1547年、松平元康が人質として駿府に送られる際に従った。

平岡主膳【ひらおかしゅぜん(15??~15??)】

松平元康家臣。1568年、「遠江掛川城の戦い」で戦功を挙げた。

平野弥角【ひらのよすみ(1588~1657)】

松平康元家臣。松平元康の意向を受け、金田宗房、高木正次、坂部勝之、吉田久兵衛らとともに松平康元に仕えた。

深溝松平忠定【ふかみぞたださだ(15??~1531)】

額田郡深溝城主。五井松平忠景の次男。室は松平親長の娘。父五井(松平)忠景から深溝城の地を与えられて移住したことから深溝松平家と称した。1524年、兄松平元心は松平長親の命により額田郡深溝城主であった大場景紀を滅ぼし深溝城を奪う。その戦功を弟の松平忠定に譲り、深溝松平家を興させた。深溝城を奪う際に松平忠定が大場景紀の家臣稲吉惣助と謀り、大場景紀を謀殺した。

深溝松平好景【ふかみぞよしかげ(1516~1561)】

松平忠定の男。通称又八郎。碧海郡中島の板倉重定を攻めた功により中島や長良などの地を与えられる。1561年、幡豆郡東条の地を巡って東条城の吉良義昭と争って「善明堤の戦い」で敵を深追いし、敵方の伏兵に包囲され討死した。

深溝松平伊忠【ふかみぞこれただ(1537~1575)】

松平好景の男。別名松平伊忠。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属した夏目吉信らを説得して松平元康に帰属させた。1570年、「姉川の戦い」では、先陣を務め戦功を挙げた。1575年「長篠の戦い」では、酒井忠次勢に属して鳶ヶ巣山砦を攻撃したが、敗走する敵勢を深追いしたため、小山田昌行勢に囲まれて討取られた。

深溝松平家忠【ふかみぞいえただ(1555~1600)】

松平伊忠の男。1575年、「長篠の戦い」では、父松平伊忠とともに酒井忠次勢に属して鳶ヶ巣山砦を攻撃して戦功を挙げたが、松平伊忠は討死した。1578年、「掛川城の戦い」や「小牧、長久手の戦い」などで戦功を挙げた。1589年、松平元康が関東に転封になると武蔵国忍城10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康が主力を率いて北上した後、鳥居元忠らとともに伏見城に籠城した。石田三成勢の攻撃を受け討死した。

深溝松平忠利【ふかみぞただとし(1582~1632)】

松平家忠の男。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢の押さえとして下野国に残った。役後は旧領深溝で10,000石を領した。1612年、三河国吉田城30,000石に転封となった。

福釜松平親盛【ふくかまちかもり(15??~1530)】 

松平長親の二男。福釜城を築き、居城とした。野心家とは程遠い人物で、松平宗家に忠誠を尽くし、松平清康がの東三河を平定戦で活躍した。1530年、「宇利城の戦い」で熊谷重美勢と大手門で戦うが、弟の福釜部定の救援が遅れたことにより、継嗣の福釜親次とともに討死した。

福釜松平親次【ふくかまちかつぐ(15??~1530)】

松平親盛の男。別名松平親次。松平清康に仕えた。戦場では槍を持って比類ない働きをしたので槍三郎次郎と称された。1530年、「宇利城の戦い」で父松平親盛とともの熊谷重美勢と戦い討死した。

福釜松平親俊【ふくかまちかとし(15??~1581)】

松平親次の男。1563年、「三河一向一揆」では松平元康方として参陣する。1581年、「二俣城の戦い」の陣中で発病して病死した。

福釜松平康親【ふくかまやすちか(15??~1617)】

松平親俊の男。松平元康に仕え、関東転封後は下総国、武蔵国にて知行を賜わって大番頭となる。1600年、「関ヶ原の役」後は旧領である福釜の地へ帰った。

藤井松平長親【ふじいながちか(1473~1544)】 

松平親忠の三男。官途は出雲守。通称次郎三郎。連歌などの教養にも秀でていた。1496年、父松平親忠の隠居により藤井松平家の家督を相続した。今川氏親勢の攻撃を受け苦戦を強いられたが、何度も撃退した。

藤井松平利長【ふじいとしなが(15??~1560)】

松平長親の五男。通称彦四郎。1547年、「第二次安祥城の戦い」では、安祥城主松平長家とともに織田信秀勢と戦いこれを撃退したが、松平長家は討死した。1560年、「丸根城の戦い」では、織田信長勢と戦い討死した。

藤井松平信一【ふじいのぶかず(1539~1624)】 

松平利長の男。1558年、「尾張品野城の戦い」では、織田信長勢の竹村、磯田、戸崎、滝山などの諸将を含む50余りを討取る戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」でも、戦功を挙げた。1568年、「箕作城の戦い」では、織田信長勢の援軍として差し向けられ、本丸一番乗りを果たす戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると、下総国布川城5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、常陸国江戸崎城の留守居役を努めた。役後、常陸国土浦城35,000石を領した。1604年、桜井松平家から松平信吉を養子に迎えて家督を譲った。

細井勝久【ほそいかつひさ(1544~1620)】

松平元康家臣。通称金兵衛。1563年、「和田城の戦い」では、一揆勢を戦い三の丸一番鑓を戦功を挙げたが、鉄炮で右肩を撃ち抜かれた。1573年、「三方ヶ原の戦い」で戦功を挙げた。1573年、「長篠の戦い」でも戦功を挙げた。1584年、「第二次上田城の戦い」では、鉄炮足軽50余りを率いて戦功を挙げた。
 
細井勝吉【ほそいかつよし(1580~1693)】

細井勝久の男。通称金兵衛。1607年、松平秀忠の意向を受け江戸本江にて大岡十大夫を討取った。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。1620年、父細井勝久の病没により、細井家の家督を相続して、鉄炮足軽50余りを率いた。1621、駿河清水船手奉行を務め、水手50余りを率いた。

本翁意伯【ほんおういはく(15??~15??)】

鳥居忠吉の次男。出家して京都の誓願寺で修行した。博学者で、宗派の曼荼羅の指導者として高名をはせた。岡崎城の近くの光善寺の住職をしていたが、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第6世の住職になった。1572年、正親町天皇の勅願により二条城に参内して曼荼羅を講演した。1593年、松平元康の妹(市場姫)の葬儀を不退院で行い、その導師を務めた。

本多信重【ほんだのぶしげ(15??~1529)】 

三河国碧海郡土居城主。松平長親に属して三河譜代衆となった。1529年、「御油縄手の戦い」では、松平清康に従って参陣しが討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本多広孝【ほんだひろたか(1528~1598)】 

本多信重の男。官途は豊後守。通称彦三郎。室は松平義春の娘。1535年、松平清康の討死後も松平宗家に忠節を続けた。今川義元に人質として留め置かれていた松平元康の返還を度々求めた。1561年、「藤波の戦い」では、劣勢の松平元康勢を支え、吉良義昭の家臣富永忠元を討取り、吉良義昭を降伏に追い込んだ。1562年、「三河一向一揆」では、本多広孝は継嗣本多康重を松平元康に人質として送り、自らは三河国内を転戦して一向一揆勢と戦った。1572年、「三方ヶ原の戦い」で敗れた松平元康勢の殿を務め、武田晴信勢の追撃を防いだ。1575年、「鳶の巣山砦の戦い」では、酒井忠次らとともに河窪信実を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本多康重【ほんだやすしげ(1554~1611)】 

本多広孝の男。官途は豊後守。通称彦次郎。室は石川家成の娘。1569年、「掛川城の戦い」で戦功を挙げた。1572年、「三方ヶ原の戦い」で戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封になると、上野国白井城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」でも戦功を挙げ三河国岡崎城50,000石を領した。

本多康紀【ほんだやすのり(1579~1623)】

本多康重の男。官途は豊後守。通称彦次郎。室は松平家清の娘。1611年、父本多康重の病没により本多家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣し島野川と淀川の中洲から青屋口を攻撃した。羽柴秀頼と松平元康の間で和議が結ばれると、松平忠明や本多忠政らとともに大坂城の堀埋め立て、石垣破壊の奉行を務めた。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房と戦い、戦功を挙げた。

本多紀貞【ほんだのりさだ(1580~1623)】

本多康重の三男。官途は対馬守。通称次郎八。1618年、上野国白井城10,000石を領して、大番頭に任じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本多左馬之介【ほんだうまのすけ(15??~15??)】

本多広孝家臣。1569年、「掛川城の戦い」で戦功を挙げた。
 
本多重次【ほんだしげつぐ(1529~1596)】 

本多重正の男。通称作左衛門。別名「鬼作左」。室は鳥居元忠の妹。1563年、「三河一向一揆」では、宗門を改め松平元康に誓詞を差し出した。1565年、高力清長、天野康景とともに三河三奉行に任ぜられ、剛直、果敢をもって民政を司った。1575年、陣中から内室に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、本多重次の人柄を表す句として有名。1585年、岡崎城代に任じられた。岡崎城に人質として下向した羽柴秀吉の母なかの処遇に不手際があったことを咎められた。1590年、松平元康の関東に転封後、上総国古井戸に蟄居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本多成重【ほんだ なりしげ(1572~1674)】

本多重次の男。官途は飛騨守。室は土岐定政の娘。幼名は仙千代(「一筆啓上。お仙泣かすな」のお仙)。1613年、松平忠直の付家老となり、丸岡城40,000石を領して若年の松平忠直を本多富正とともに補佐した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢と戦って戦功を挙げた。松平忠直が改易処分に処されると、丸岡城40,000石を領して諸侯に列した。1624年、6.300石の加増され城下街の整備や治水工事などに手腕を発揮した。

本多忠俊【ほんだただとし(15??~1564)】

三河国宝飯郡伊奈城主。1556年、「雨山の戦い」では、今川義元から離反した奥平貞勝を攻撃した。1560年、「桶狭間の戦い」では、自らは参戦せずに継嗣の本多光忠を陣代として派遣した。松平元康が今川氏真勢から離反すると、松平元康に従った。1563年「一向一揆の戦い」では、吉田城を守備して、岡崎城に本多光忠を支援に向かわせた。

本多光忠【ほんだみつただ(15??~15??)】

本多忠俊の男。

本多忠次【ほんだただつぐ(1547~1613)】

本多忠俊の三男。通称は隼人佑。室は菅沼定村の娘。1564年、「吉田城の戦い」に父本多忠俊とともに参陣した。1565年、父本多忠俊の病没により、三男本多忠次が本多家の家督を相続した。1565年、家臣戸田小栗を派遣して今川氏真の家臣小原鎮実が守備する吉田城主を攻略した。1570年、「姉川の戦い」では、酒井忠次勢に属して参陣した。1575年、「足助城の戦い」で戦功を挙げた。1575年、「鳶の巣山砦の戦い」では、酒井忠次勢に属してを河窪信実を討取る戦功を挙げた。1579年、「高天神城の戦い」で戦功を挙げた。1579年、酒井忠次の次男本多康俊を迎え養子とした。1581年、松平元康の娘が北条氏直に嫁ぐ際、その御輿添えとして相模国に随従した。

本多康俊【ほんだやすとし(1569~1612)】 

酒井忠次の次男(本多忠次の養子)。室は菅沼定盈の娘。1575年、人質として織田信長のもとへ赴いた。1580年、本多忠次の養子となった。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ三河国西尾城20,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では近江国膳所城を守備した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」に参陣して105の頸級を上げる戦功を挙げた。役後、近江国膳所城30,000石を領した。

本多俊正【ほんだとしまさ(15??~15??)】

本多正定の男。

本多正信【ほんだまさのぶ(1538~1616)】 

本多俊正の次男。官途は佐渡守。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して松平元康勢と戦った。1575年、松平元康のもとに帰参した。1582年、松平元康が甲斐国、信濃国を併合すると、両国の統治を担当した。1590年、松平元康が関東に転封になると、相模国玉縄城10,000石を領した。1600年、「第二次上田城の戦い」で松平秀忠とともに真田昌幸の知略に嵌まり本戦に参陣することができなかった。1601年、京都の朝廷と松平元康の将軍職就任の政治工作を担当した。1603年、松平元康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると側近として幕政を主導するようになった。本多忠勝、大久保忠隣ら武功派と対立した。1613年、「大久保長安事件」で大久保忠隣らを失脚させた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼を滅亡に追いやるために数々の諜略を行った。

本多正重【ほんだまさしげ(1545~1617)】 

本多俊正の四男。通称三弥左衛門。1563年、「三河一向一揆」が起こると、兄本多正信と共に一揆方の武将として松平家に敵対した。一揆衆が鎮圧されると、一時放浪したがまもなく松平家に帰参した。「掛川城の戦い」「姉川の戦い」「一言坂の戦い」「三方ヶ原の戦い」「長篠の戦い」などで活躍した。再び松平家を去り、滝川一益に属し「神吉城の戦い」、前田利家に属して佐々成政と戦うなどした後に、蒲生氏郷に仕える。1596年、蒲生氏郷と喧嘩をし再び徳川家に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では検使を務め、その功で近江坂田郡内に1,000石を与えられた。1614年「大坂冬の陣」では松平秀忠の参謀として活躍した。

本多正純【ほんだまさずみ(1565~1637)】

本多正信の男。官途は上野介。通称弥八郎。室は酒井重忠の娘。父本多正信が諸国を放浪している間、本多正純は大久保忠世のもとで養育された。父本多正信が松平元康のもとに帰参すると、本多正信とともに松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1603年、松平元康が征夷大将軍に任じられると、重用されるようになった。1605年、松平元康が将軍職を松平秀忠に譲って大御所となり、二元政治が始まると、江戸城には大久保忠隣が、駿府城には本多正純が、そして正純の父本多正信は両者の調停を務める形で、政治が行われた。1614年、「大久保長安事件」では、政敵の大久保忠隣を失脚させた。1614年、「大坂冬の陣」では、開戦までに数々の諜略を行った。

本多政重【ほんだまさしげ(1580~1647)】

本多正信の次男(倉橋長右衛門の養子)。1597年、松平秀忠の乳母大姥局の息子岡部荘八を斬り殺して出奔し、大谷吉継に仕えた。その後宇喜多秀家に仕え、20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、宇喜多秀家に従って松平元康勢と戦った。役後、前田利長に30,000石で仕えたが、すぐに前田利長のもとを離れた。1604年、長尾景勝の家臣直江兼続は本多政重を娘於松の婿養子に迎えた。1605年、於松が病死した後も養子縁組は継続された。1609年、直江兼続は弟大国実頼の娘阿虎を養女にして嫁がせた。1611年、長尾景勝のもとから離れ、藤堂高虎の取りなしで前田利常のもとに帰参した。1614年、「大坂冬の役」では、真田信繁に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、真田信繁に名を成さしめた。

本多忠郷【ほんだたださと(15??~15??)】

本多正信の三男。室は片桐貞隆の娘。

本多忠純【(15??~15??)】

本多正信の四男。官途は大隅守。1605年、榎本城18,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で戦功を挙げ28,000石を領した。

本多正勝【ほんだまさかつ(1596~1630)】

本多正純の男。官途は出羽守。室は戸田氏鉄の娘。1614年、「大坂冬の役」に参陣した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、戦功を挙げた。1622年、父本多正純が改易処分されると連座して出羽由利郡に配流された。1624年、佐竹義宣のもとに移された。

本多甚七郎【ほんだじんしちろう(15??~1575)】

松平元康家臣。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属したが降伏して再び松平元康に仕えた。1575年、「長篠の戦い」で討死した。

本多左馬之介【ほんださまのすけ(15??~15??)】

本多広孝家臣。1569年、「掛川城の戦い」で戦功を挙げた。

本間清光【ほんまきよみつ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。官途は惣兵衛。 

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【ま】

松井忠直【まついただなお(15??~1542)】

松平清康家臣。松井為維の男。通称金四郎。別名松井忠信。

松井忠次【まついちゅうじ(1521~1582)】

松平家忠家臣。幡豆郡津平城主。官途は左近将監。別名松平康親。室は松平重吉の娘。側室は江原政秀の娘。松平家忠の陣代を務めた。1563年、「三河一向一揆」で東条城主吉良義昭が敗れると、松平家忠が東条城主に任じられた。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、敗走する三河勢の中で松平元康の鎧を譲り受け影武者として武田晴信勢を引き付けるおとり役を努めた。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。「遠江諏訪原城の戦い」で戦功を挙げ諏訪原城主に任じられた。1582年、沼津城主に任じられた。松平忠吉の後見役を努めた。

松下範久【まつしたのりひさ(15??~15??)】

大須賀康高家臣。通称助左衛門。1585年、撰要寺の寺領坪付を作成した。

松井康重【とまつだいらやすしげ(1568~1640)】

松井忠次の男。官途は周防守。通称次郎。別名松平康重。室は石川康通の娘。1575年、「長篠の戦い」で武田勝頼勢の鉄炮に撃たれ負傷した。

松平信忠【(まつだいらのぶただ(1490~1531)】

松平長親の男。官途は越前守。通称次郎三郎。室は大河内満成の娘(岩倉殿)。1503年、父松平長親の隠居により松平家の家督を相続したが、実権は松平長親が握っていた。1506年、「永正三河の乱」で今川氏親が三河国に侵攻すると、松平信忠も攻撃を受けた。「井田野の戦い」では、松平長親が指揮を取り今川氏規勢の伊勢盛時と戦い撃退した。1523年、枝連衆と酒井忠尚が合議で松平信忠の隠居と継嗣松平清康の家督相続が決まると、三河国幡豆郡大浜郷に隠居した。

松平清康【まつだいらきよやす(1511~1535)】

松平信忠の男。通称次郎三郎。室は松平昌安の娘(於波留姫)。1523年、父松平信忠の隠居により松平家の家督を相続した。1524年、「山中城の戦い」で岡崎城主西郷信貞を降し、娘の於波留を嫁がせ、居城を安祥城から岡崎城に転封した。1525年、加茂郡足助城主鈴木重直を降した。1529年、吉田城主牧野成時、田原城主戸田康光を攻略、さらに設楽郡の山家三方衆など国人衆を切り従え、東条城主吉良持広と和議を結んだ。尾張国に侵攻して、品野城、岩崎城、小島城、宇利城、伊保城などを攻略した。1535年、「守山城の戦い」で織田信秀勢と対陣中、家臣の阿部正豊に謀殺された。

松平広忠【まつだいらひろただ(1526~1549)】

松平清康の男。通称次郎三郎。室は水野忠政の娘(於大の方)。継室は戸田康光の娘(真喜姫)。1535年、「守山崩れ」で父松平清康が謀殺されると、阿部定吉に擁せられて伊勢国に落延びた。1537年,今川義元の支援を受け岡崎城への帰還を果した。以後、今川義元勢に属して織田信秀勢と戦った。1547年、人質として今川義元のもとに継嗣の松平元康を送る際、田原城主戸田康光に奪われ、織田信秀に引き渡された。織田信秀は松平広忠に今川義元からの離反を迫ったが、松平広忠は拒絶して今川義元勢に属し続けた。1548年、「第二次小豆坂の戦い」で今川義元勢とともに織田信秀勢を激したした。1549年、家臣の岩松八弥に謀殺された。

松平元康【まつだいらもとやす(1543~1616)】

松平広忠の男。官途は征夷大将軍。通称次郎三郎。別名徳川家康。室は関口親永の娘(築山殿)。1547年、人質として今川義元のもとに送られる途中、田原城主戸田康光勢に襲われ、織田信秀のもとに送られた。二年後に人質の交換で三河国にもどるが直ぐに再び人質として駿府国に送られた。1560年、「大高城の戦い」では、兵糧を入れる戦功を挙げた。「桶狭間の戦い」で今川義元が討死すると、今川氏真から独立して織田信長と結んだ。1563年、「三河一向一揆」で一揆勢を撃破して東三河国を勢力圏とした。1564年、武田晴信と結び、遠江国に侵攻して今川氏真勢と戦った。1570年、浜松城を攻略して居城とした。「姉川の戦い」では、織田信長勢とともに浅井長政、朝倉義景勢を撃破る戦功を挙げた。1572年、「三方ヶ原の戦い」で武田晴信勢を迎撃したが大敗した。1575年、「長篠の戦い」で織田信長勢とともに武田勝頼勢を撃破った。1582年、「武田家討伐」で織田信長勢とともに武田勝頼を滅亡させ、織田信長から駿河国を拝領したに加えた。「本能寺の変」では、和泉国堺から間道を経て帰還した。「天正壬午の乱」では、信濃国、甲斐国に侵攻して北条氏直勢と戦い信濃国、甲斐国を領国とした。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉と対立した織田信雄を支援して羽柴秀吉勢と戦い勝利を収めた。羽柴秀吉と和議を結ぶと、駿河国駿府城に居城を移した。1589年、「小田原の役」で北条氏直が滅ぶと、関東に転封して江戸城2,500,000石を領した。1598年、羽柴秀吉が病没すると、筆頭大老として勢力を拡大した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢を撃破り、政権を確立した。1604年、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。1605年、将軍職を松平秀忠に譲ったが、駿府城で政務を統轄、対外的には、朱印船貿易を推進するとともに、長崎での交易を統制した。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼を滅ぼして、政権を磐石なものとした。「武家諸法度」、「禁中並びに公家諸法度」を制定して、政権の基礎を固めた。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

松平信康【まつだいらのぶやす(1559~1579)】

松平元康の男。通称岡崎三郎。別名徳川信康。室は織田信長の娘(徳姫)。側室は浅原昌時の娘。1559年、今川義元のもとで人質として駿府城で過ごした。1562年、「上ノ郷城の戦い」で今川氏真の家臣鵜殿氏長、鵜殿氏次が松平元康勢に捕縛されると、松平信康との人質交換により岡崎城に帰還した。1567年、織田信長と松平元康が結ぶと、織田信長の娘(徳姫)と婚姻した。1575年、「長篠の戦い」では、松平元康勢の部隊を率いて戦功を挙げた。1577年、「遠江横須賀の戦い」では、殿を務め、武田勝頼勢の追撃を防いだ。1579年、織田信長から武田勝頼勢内応に嫌疑を受け、自刃を命じられた。

松平秀忠【まつだいらひでただ(1579~1632)】

松平元康の三男。官途は武蔵守。通称江戸中納言。別名徳川秀忠。室は織田信雄の娘(小姫)。継室は浅井長政の娘(江姫)。長兄松平信康は自刃、次兄松平秀康は羽柴秀吉に養子として出されたため、松平家の継嗣として処遇された。1589年、「小田原の役」では、人質として羽柴秀吉のもとに赴き、織田信雄の娘(小姫)と婚姻したが、まもなく織田信雄が改易処分に処されたため、離縁した。1595年、浅井長政の娘(江姫)と再婚した。1600年、「関ヶ原の役」では、主力30,000余りを率いて中山道を進んだが、真田昌幸の挑発に乗り上田城を攻撃したため、「関ヶ原の戦い」に遅参した。1605年、松平元康から将軍職を譲られ征夷大将軍に任じられた。松平秀忠は直轄領及び譜代家臣を統治して江戸城に居住し、駿府城の松平元康は外様諸侯との交渉を行う二元政治体制が取られた。1615年、「大坂夏の陣」では、総大将を務めた。羽柴秀頼が滅亡すると、松平元康とともに「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」などの制定につとめた。1616年、松平元康が病没すると、酒井忠世、土井利勝らとともに多くの諸侯を改易処分とした。娘のひとり和子を後水尾天皇に入内させ、外国船寄港を平戸、長崎に限定させた。1623年、松平家光に将軍職を譲ったが実権は保持した。

松平忠吉【まつだいらただよし(1580~1607)】

松平元康の四男(松平家忠の養子)。官途は下野守。別名尾張左中将。室は井伊直政の娘(政子)。1581年、松平家忠が病死すると、東条松平家の家督と東条城10,000石を領した1582年、「武田家討伐」後、松平元康が駿河国を領すると沼津城40,000に転封した。1590年、松平元康が関東に転封すると、武蔵国忍城を領した。1600年、「関ヶ原の戦い」では、井伊直政とともに福島正則と先陣を争い、島津豊久を討取る戦功を挙げた。役後、尾張国清洲城520,000石を領した。1607年、「関ヶ原の戦い」の折に負傷した傷がもとで病没した。

松平信吉【まつだいらのぶよし(1583~1603)】

松平元康の五男(穴山勝千代の養子)。通称七郎。別名武田信吉。室は木下勝俊の娘(天祥院)。1582年、「武田家討伐」後、武田家の名跡を継承させて穴山家の領地、河内領、江尻領、駿河山西、河東須津などを領した。1590年、松平元康が関東に転封すると、下総国小金城30,000石を領した。1593年、下総国佐倉城100,000石に転封した。1600年、「関ヶ原の役」では、江戸城西ノ丸の留守居役を務めた。1602年、常陸国水戸城250,000石を領して、武田家の遺臣を附せられ武田家を再興したがまもなく病没した。

松平仙千代【まつだいらせんちよ(1595~1600)】

松平家康の八男(平岩親吉の養子)。養父平岩親吉の転封に従い甲斐国府中に転封した。幼少のうちに病没した。

松平義直【まつだいらよしなお(1601~1650)】

松平元康の九男。官途は右兵衛督。通称尾張大納言。別名徳川義直。室は浅野幸長の娘(春姫)。継室は津田信益の娘(於佐井)。1603年、甲斐国250,000石を領したが、駿府城に在城して平岩親吉、佐枝種長らが松平元康の意向を受けて甲斐国を統治した。1607年、尾張国清洲城の兄松平忠吉が病没すると、尾張国に転封して名古屋城を築城した。平岩親吉、竹腰正信、成瀬正成らが附家老職を務め、松平義直を補佐した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で戦功を挙げた。灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行なって米の増産に努め、、儒教を奨励し、孔子堂の建立や城内の尾張東照宮の建築を進めた。

松平頼宣【まつだいらよりのぶ(1602~1671)】

松平元康の十男。官途は常陸介。別名紀伊頼宣。室は加藤清正の娘(瑤林院)。1603年、常陸国水戸城200,000石を領したが、駿府城の松平元康のもとで養育された。1609年、駿河国駿府城500,000石に転封された。1611年、松平元康と羽柴頼が京都二条城で会見を行った際は、兄松平義直とともに東寺まで出迎え、人質として加藤清正に預けられた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で後詰として戦功を挙げた。1619年、紀伊国和歌山城555,000石に転封し、和歌山城の改築、城下街の整備、法令を定めた。1651年、「慶安の変」で、謀反の疑いをかけられた。1667年、紀伊松平家の家督を継嗣の松平光貞に譲り隠居した。

松平頼房【まつだいらよりふさ(1603~1661)】

松平家康の十一男。官途は権中納言。別名徳川頼房。側室は谷重則の娘(久昌院)。1606年、常陸国下妻城100,000石を領した。1609年、常陸国水戸城主松平頼宣が駿河国転封すると、水戸城250,000石を領したが、幼少のため、駿府城の松平元康のもとで養育された。水戸松平家の石高は兄松平義直の尾張松平家、松平頼宣の紀州松平家の半分にも満たなかった。1610年、松平元康の意向により、市姫を亡くした於梶の方の養子となった。1614年、「大坂冬の陣」では、駿府城を守備した。1626年、松平家光の上洛に随行した。1625年、水戸城の改築、城下街の整備、法令を定めた。

郷敷松平勝茂【まつだいらかつしげ(15??~1533)】 

松平親忠家臣。郷敷(松平)城主。松平長勝の男。官途は越前守。通称は太郎左衛門。1493年、「井田野の戦い」で父松平長勝とともに参陣したが、松平長勝が討死したため、松平家の家督を相続した。1506年、今川氏勢の攻撃を受けたが、松平親忠に従って今川勢を撃退する戦功を挙げた。1533年、「岩津城の戦い」では、松平忠広勢に属して鈴木重辰、三宅右衛門尉らと戦ったが、継嗣の松平信茂とともに討死した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平信茂【まつだいらのぶしげ(15??~1533)】 

松平勝茂の男。1533年、「岩津城の戦い」では、松平忠広勢に属して鈴木重辰、三宅右衛門尉らと戦ったが、松平勝茂とともに討死した。参考文献:「徳川、松平一族
の辞典」by東京堂出版。

郷敷松平信吉【まつだいらのぶよし(15??~1542)】 

松平勝茂の次男。官途は隼人佐。通称太郎左衛門。1533年、「岩津城の戦い」で父松平勝茂と兄松平信茂が討死したため、郷敷松平家の家督を相続した。1535年、「守山崩れ」で松平清康が謀殺されると、松平広忠が松平宗家の家督を相続した。松平信定勢の攻撃を受けると、松平広忠に従って伊勢国に落延びた。1537年、松平広忠が今川義元の支援を受けて岡崎城に復帰すると、家老職に任じられた。1542年、「第一次小豆坂の戦い」で、織田信秀勢と戦い父松平信吉とともに討死した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平勝吉【まつだいらかつよし(15??~1542)】

松平信吉の男。1542年、「第一次小豆坂の戦い」で、織田信秀勢と戦い父松平信吉とともに討死した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平親長【まつだいらちかなが(1521~1564)】

松平信吉の次男。官途は隼人佐。通称太郎左衛門。別名岩津松平親長。室は松平安房守の娘。1542年、「第一次小豆坂の戦い」で父松平信吉と兄松平勝吉が討死したため、郷敷松平家の家督を相続した。郷敷(松平)城が松平親乗勢の焼き討ちを受けた。1555年、「尾張蟹江城の戦い」では、松平親乗勢に属して戦功を挙げた。1560年、「桶狭間の戦い」後、松平元康が岡崎城主に復帰すると、これに仕えた。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平重長【まつだいらしげなが(15??~1584)】

松平親長の男。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、馬廻衆の後備えを務め討死した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平由重【まついだらよししげ(1543~1603)】

松平の親長の次男。官途は隼人佐。通称太郎左衛門。1560年、「刈谷城の戦い」で負傷して歩行困難になり、軍役を負うことができず松平郷に閑居した。1564年、郷敷松平家の家督を相続した。1570年、「姉川の戦い」に参陣することができなかった。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平重正【まつだいらしげまさ(15??~15??)】

松平親長の三男。通称次郎左衛門。松平元康に仕えて別家を興し400石を領した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平尚栄【まつだいらなおよし(1570~1654)】

松平由重の男。通称太郎左衛門。室は成瀬惣右衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、弟松平信晴とともに戦功を挙げ、松平郷210石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、本多正純勢に属して戦功を挙げ440石を領した。役後、馬廻衆として交代寄合衆を務めた。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

郷敷松平重和【まつだいらしげふさ(1607~1664)】

松平尚栄の男。通称太郎左衛門。室は本多光久の娘。1648年、父松平尚栄の隠居により郷敷松平家の家督を相続した。参考文献:『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版。

三浦平三郎【みうらへいさぶろう(15??~15??)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

三木松平信孝【みきのぶたか(15??~1548)】

松平信忠の次男。1535年、兄松平清康が守山城で安部弥七郎に謀殺されると、松平親長及び弟松平康孝の領地を押領し、さらに松平宗家の地位を乗っ取る野望を目論んで上和田の松平忠倫とともに織田信秀に内応した。1548年、松平広忠勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

三木松平重忠【みきしげただ(15??~1601)】

松平信孝の男。松平広忠に仕えた。1590年、松平元康が関東に転封になると、大番頭に任じられた。

三木松平忠清【みきただきよ(15??~15??)】

松平重忠の男。父松平重忠と同じく大番頭を務めた。継嗣が無かったため三木松平家は断絶した。

水野貞吉【みずのさだよし(15??~15??)】

松平元康家臣。通称太郎作。1569年、「遠江天王山の戦い」で日根野弥吉を討取る戦功を挙げた。

宮石完治【みやいしかんじ(15??~1560)】

松平貞次の男。別名大給完治。1560年、「桶狭間の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。

武藤万休【むとうまんきゅう(15??~16??)】

大須賀康高家臣。1605年、大須賀忠政に新田置目を提出した。1607年、大須賀忠政が病没すると、松平頼信に仕えた。

村井源四郎【むらいげんしろう(15??~15??)】

松平広忠家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属して善秀寺に籠城した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

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【や】

矢田作次郎【やださくじろう(15??~15??)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

八国甚五郎【やくにじんごろう(15??~15??)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

薮田武左衛門【やぶたぶざえもん(15??~15??)】

松平清康家臣。1560年、「丸根城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、松平元康勢に属した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

山下庄左衛門【やましたしょうざえもん(15??~15??)】 

本多広孝の家臣。1575年、「長篠の戦い」で、本多康重とともに姥ヶ懐で三枝守友を討取る戦功を挙げた。

山城忠久【やましろただひさ(15??~15??)】

松平元康家臣。官途は宮内少輔。1607年、三枝昌吉、山本正成、滝川忠任、佐久間政実らとともに駿府城普請奉行を務めた。

山田正勝【やまだまさかつ(15??~15??)】 

松平元康家臣。通称平一郎。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、武田晴信勢と戦うが岡崎城まで敗走した。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

吉田久兵衛【よしだきゅうべい(1588~1657)】

松平康元家臣。松平元康の意向を受け、金田宗房、高木正次、坂部勝之、平野弥角らとともに松平康元に仕えた。

吉見孫八郎【よしみまごはちろう(15??~15??)】 

本多広孝家臣。1569年、「掛川城の戦い」で戦功を挙げた。

米津勝信【よねきづかつのぶ(14??~15??)】

松平清康家臣。碧海郡米津城主。別名米津正種。尾張国から碧海郡米津村に転封した。

米津勝政【よねつきかつまさ(15??~1569)】

米津正種の男。別名米津勝信。1549年、「安祥城の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

米津常春【よねつきつねはる(1524~1612)】

米津勝政の男。通称小大夫。1549年、「安祥城の戦い」では、今川義元勢に属して、安祥城主織田信広を捕縛する戦功を挙げた。1560年、「桶狭間の戦い」では、三河衆の先陣を務めた。1563年、「三河一向一揆」では、岡崎城に駆けつけ松平元康とともに三河国内を転戦した1564年、「三河赤坂の戦い」で渡辺守綱とともに戦功を挙げた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by煎本増夫。

米津正勝【よねきつまさかつ(15??~1614)】

米津常春の次男。通称清右衛門。別名米津親勝。1600年、「関ヶ原の役」に参陣して戦功を挙げ、堺奉行に任ぜられた。1603年、三河国の検地奉行を務めた。1611年、板倉勝重とともに山城国の検地奉行を務めた。1613年、摂津国嶋上郡芥川村で部下が賄賂を受け取り、犯人を捕縛したかったため、奉行職を解任され阿波国に配流され、斬罪に処された。

米津春親【よねきつはるちか(15??~16??)】

米津常春の三男。1613年、兄米津正勝が改易処分に処されると、士籍を剥奪される処罰を受けた。

米津政信【よねきつまさのぶ(1531~1573)】

米津勝政の次男。通称小太夫。1573年、「三方ヶ原の戦い」で討死した。

米津康勝【よねきつやすかつ(15??~15??)】

米津政信の男。通称梅干助。

米津盛円【よねきつもりまど(15??~15??)】

米津政信の次男。

米津田政【よねきつただまさ(15??~1625)】

米津政信の三男。通称勘兵衛。1590年、松平元康が関東に転封すると、武蔵都筑郡、下総印旛、相馬両郡、上総埴生、香取両郡の5郡で5,000石を領した。1622年、嶋田利正とともに最上義忠に改易処分と伝える上使に任じられた。

米津田盛【よねきつただもり(1616~1684)】

米津田政の男。官途は出羽守。室は永井尚政の娘。1625年、父米津田政の病没により米津家の家督を相続した。1666年、大坂定番として摂津国、河内国内で15,000を領した。

鷲山伝八郎【わしやまでんぱちろう(15??~15??)】

大須賀康高家臣。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。

渡辺氏綱【わたなべうじつな(15??~1563)】

松平清康家臣。額田郡浦部館主。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺高綱【わたなべたかつな(15??~15??)】

渡辺氏綱の男。1547年、「上野城の戦い」では、先陣を務めた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属し針崎で討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺守綱【わたなべもりつな(1542~1620)】

渡辺高綱の男。通称「槍半蔵」。室は平岩親重の娘。1562年、「八幡の戦い」で松平元康勢が今川氏真の家臣板倉重貞勢の攻撃を受け敗走した際、殿を務めた。1563年、「三河一向一揆」では、一向一揆勢に属して戦ったが、一揆勢が敗れると松平元康に帰参した。1570年、「姉川の戦い」では、一番槍を戦功を挙げた。1572年、「三方ヶ原の戦い」でも戦功を挙げた。1575年、「長篠の戦い」では、先陣を務め、山本幸晴の継嗣山本勘蔵を討取る戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」でも先陣を務めた。1590年、松平元康が関東に転封になると、武蔵国比企郡内で3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、騎馬衆30余りを率いて6,000石を領した。1613年、松平元康の意向を受け、尾張国名古屋城主松平義直の附家老職に任じられ、三河国寺部城14,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平義直の後見役を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺重綱【わたなべ しげつな(1574~1648)】

渡辺守綱の男。通称半蔵。室は水野正重の娘。継室は杉浦盛嗣の娘。1589年、「小田原の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1610年、父渡辺守綱とともに松平義直に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」では、松平義直勢の先陣を務めた。1620年、父渡辺守綱の病没により、渡辺家の家督を相続した。1641年、家老職に任じられた。1643年、渡辺家の家督を四男渡辺治綱に譲り、隠居した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺政綱【わたなべまさつな(15??~15??)】

渡辺高綱の次男。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、御旗奉行を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺秀綱【わたなべひでつな(15??~15??)】

渡辺政綱の男。1614年、松平元康の意向を受けて尾張松平義直に仕えた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺宗綱【わたなべむねつな(15??~15??)】

渡辺守綱の次男。1615年、「大坂夏の陣」では、大坂城の物見役を務めた。羽柴秀頼が自刃すると、井伊直孝、安藤重信に従い検分役を務めた。福島正則、加藤忠弘、最上義俊らが改易されると、その奉行職を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺勝綱【わたなべかつつな(15??~1615)】

渡辺重綱の男。1610年、松平秀忠に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

渡辺遠綱【わたなべといつな(15??~1587)】

松平清康家臣。額田郡浦辺館主。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺直綱【わたなべなおつな(15??~15??)】

渡辺遠綱の男。1560年、「大高城の戦い」で戦功を挙げた。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属したが赦免された。1590年、松平元康が関東に転封すると、300石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺有綱【わたなべありつな(15??~15??)】

松平清康家臣。碧海郡赤渋館主。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺義綱【わたなべよしつな(15??~1569)】

渡辺有綱の男。1540年、「安祥城の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺雅綱【わたなべまさつな(15??~1600)】

渡辺有綱の次男。1600年、「伏見城の戦い」で石田三成勢と戦い討死した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺競【わたなべきょう(15??~1534)】

松平清康家臣。八名郡和田館主。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺信【わたなべのぶ(15??~15??)】

渡辺競の男。松平清康、松平忠広に仕え、馬廻衆組頭を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺勝【わたなべかつ(15??~15??)】

渡辺信の男。松平元康に仕え、足軽頭を務め2,500石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺茂【わたなべしげる(1582~1712)】

渡辺信の三男。官途は山城守。通称久三郎。別名渡辺幸庵。大番頭を務めた。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して戦功を挙げ10,000石を領した。柳生宗矩に師事し、目録を与えられた。金沢城主前田綱紀の意向で、家臣の杉本義隣が渡辺茂の話を聞きまとめた。著書に『渡辺幸庵対話』。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺治綱【わたなべはるつな(15??~15??)】

松平清康家臣。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺正綱【わたなべまさつな(15??~15??)】

渡辺治綱の男。松平広忠に仕えた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺真綱【わたなべさねつな(15??~15??)】

渡辺正綱の男。1558年、松平元康に仕え20貫文を領した。1560年、「桶狭間の戦い」で松平元康が岡崎城に帰還する際、それに従った。1563年、「三河一向一揆」では、一揆勢に属したため、三河国から離れ松永久秀に仕えた。後に今川氏真に仕えた。1569年、三河国に帰還して本多忠勝に仕えた。1601年、上総国大多喜城主本多忠朝に仕え2,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺輝【わたなべてらす(15??~15??)】

渡辺真綱の男。山田奉行職を務めた。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺勝綱【わたなべかつつな(15??~15??)】

渡辺真綱の三男。1614年、「大坂冬の陣」に父渡辺真綱とともに参陣して戦功を挙げ御先弓頭を務め500石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

渡辺悦【わたなべえつ(15??~15??)】

松平元康家臣。1582年、「武田家討伐」では、石川数正勢に属して戦功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で戦功を挙げた。1590年、松平元康が関東に転封すると200石を領した。参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版。

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【資料Ⅰ】

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【資料Ⅱ】

岡崎五人衆【おかざきごにんしゅう】

天野貞有、石川忠輔、植村氏明、内藤義清、林藤助。

蟹江の七本槍【かにえのななほんやり】

阿部忠政、大久保忠勝、大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠員、杉浦吉貞、杉浦勝吉。

上田七本槍【うえだしちほんやり】

中山照守、小野忠明、辻久吉、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉、朝倉宣正。

松平十六神将【まつだいらじゅうろくしんしょう】

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、

松平家忠、平岩親吉、鳥居元忠、鳥居忠広、大久保忠世、大久保忠佐、内藤正成、服部正成、高木清秀、米津常春、渡辺守綱、蜂屋貞次。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に活躍した国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に地名、城の名前を入れています。

参考文献は出展もとを示しています。歴史小説も含まれるため史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

徳川家康は松平元康、徳川秀忠は松平秀忠、豊臣秀吉は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、参考文献:『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by文春文庫、『武田信玄(全3巻)』by講談社、『武田勝頼(全3巻)』by講談社、『甲州武田家臣団』by新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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