2015年1月25日日曜日

三好之長家臣団事典

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【あ】

芥川長光【あくたがわながみつ(15??~1520)】

摂津国能勢郡芥川山城主。三好之長の三男。通称孫四郎。1520年、等持院において細川高国と戦うも敗れた為、父三好之長や弟芥川長則などの枝連衆とともに曇華院殿に落延び、助命を条件に弟芥川長則とともに降伏した。三好之長と従兄弟三好新五郎も降伏したが、細川高国に騙され、三好之長、芥川長光、三好長則とともに謀殺された。

芥川孫十郎【あくたがわまごじゅうろう(15??~15??)】

芥川長光の男。室は三好元長の娘。通称孫十郎。1546年、細川氏綱、遊佐長教が謀反を起こし摂津国の諸城を攻撃すると、摂津国人衆とともに降伏し、芥川山城を薬師寺元房に奪われた。1547年、従甥三好長慶と細川晴元勢の支援を受け芥川山城を薬師寺元房から奪還した。1548年、三好長慶が細川晴元、三好政長らと争うと三好長慶に属して戦った。1549年、「江口の戦い」では、多大な戦功を挙げた。1552年、三好長慶が丹波国に侵攻すると、細川晴元勢の波多野晴通と内通して三好長慶から離反したが、まもなく帰参した。1553年、足利義輝と結んだ細川晴元勢に属して、三好長慶と再び戦ったが、足利義輝、細川晴元らも三好長慶に敗れ近江国に追放されたため、芥川山城を明け渡し降伏し、阿波国の三好義賢を頼って落延びた。

天羽久利【あもうひさとし(1540~15??)】

三好長治家臣。阿波国名西郡天羽城。官途は出羽守。和泉国から阿波国へ転封し、天羽城を築いて長宗我部元親勢に備えた。1574年、「黒田原のと戦い」で長宗我部元親勢と戦いこれを撃退する戦功を挙げた。1582年、再び長宗我部元親勢勢の攻撃を受け敗北した。

飯尾国盛【いいおくにもり(15??~15??)】

三好康政家臣。通称太六兵衛。天正年間に仲多度郡丸山城を築城した。

飯尾為清【いいおためきよ(15??~15??)】

三好長慶家臣。官途は越前守。三好長慶に擁立された管領細川氏綱との取次役を務めた。三好長慶の所(伊勢国蜷川)を管理した。

伊沢長綱【いさわながつな(15??~15??)】

三好義賢家臣。

伊沢大和守【いさわやまとのかみ(15??~15??)】

三好長慶家臣。1562年、「河内教興寺の戦い」では、三好義興勢に属して参陣した。「教興寺の戦い」では、三好長慶の使番を務めた。

市原長胤【いちはらながたね(15??~15??)】

三好義賢家臣。青木城主。官途は石見守。

乾忠清【いぬいただきよ(1531~1610)】

三好康長家臣。乾信忠の男。通称長大夫。のち羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣した。羽柴秀吉没後は羽柴秀頼に仕えた。

岩成友通【いわなりもとみち(15??~1573)】

三好長慶家臣。官途は主税助。室は三好長慶の娘。三好三人衆のひとり。1558年、「山城瓜生山城の戦い」で戦功を挙げた。三好長慶が病没すると松永久秀、三好長逸、三好政康らとともに三好義継の後見役を務めた。1565年、「永禄の変」では、足利義輝を松永久秀、三好長逸、三好政康らとともに謀殺して足利義栄を将軍職に擁立した。松永久秀と対立すると、篠原長房の支援を受け京都から松永久秀を追落した。1566年、足利義栄、細川昭元を伴って上洛した。「勝龍寺城の戦い」では、豪族衆の中沢満房、革嶋一宣らを討取り勝龍寺城を居城として西山城国を支配した。1567年、「奈良東大寺の戦い」では、池田勝正とともに、三好義継、松永久秀勢の奇襲を受け大敗した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、三好長逸、三好政康、篠原長房、六角義賢らとともに抵抗した。1569年、「本圀寺の戦い」では、三好長逸、三好政康らとともに足利義昭を襲撃するも敗退した。1573年、「山城淀城の戦い」では、三淵藤英、細川藤孝、羽柴秀吉らの攻撃を受け奮戦したが、番頭義元、諏訪盛直らが内応したため落城、細川藤孝の家臣下津権内に討取られた。

江戸備中守【えどびっちゅうのかみ(15??~15??)】

三好長逸家臣。

岡友満【おかともみつ(15??~1573)】

三好長慶家臣。官途は飛騨守。1573年、「若江城の戦い」で討死した。

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【か】

柿原源吾【かきはらげんご(15??~1572)】

篠原実長家臣。柿原城主。1573年、「上桜城の戦い」に参陣したが枝連衆の柿原新五、柿原藤五らとともに討死した。
 
柿原義長【かきはらよしなが(15??~1582)】

柿原源吾の男。1582年、「中富川の戦い」て討死した。

加地盛時【かじもりとき(15??~15??)】

三好義賢家臣。

金山武春【kなやまたけはる(15??~15??)】

三好義継家臣。金山武興の男。官途は駿河守。別名金山長信。家老職を務めた。若江三人衆に謀殺された。

川島惟忠【かわしまこれただ(15??~1580)】

三好康長家臣。川島城主。通称兵衛進。1572年、「上桜城の戦い」で戦功を挙げ川島郷200貫を領した。1579年、「脇城の戦い」に参陣して討死した。

河村恒基【かわむらつねもと(15??~1579)】

三好長治家臣。陰城主。官途は左馬亮。1577年、三好長治が細川真之と争い一宮成助、伊沢頼俊勢の攻撃を受け自刃すると、阿波三好家の後継者として十河存保を勝瑞城主に迎え入れた。長宗我部元親に抵抗した。1579年、「脇城の戦い」で長宗我部元親の家臣宇山孫一郎に討取られた。

小寺長隆【こでらながたか(15??~1573)】

三好長慶家臣。1573年、「若江城の戦い」で討死した。

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【さ】

斎藤基連【さいとうもとつら(15??~15??)】

三好長慶家臣。斎藤基雄の男。官途は越前守。足利義材に仕えたが、後に三好長慶の右筆を、松永久秀とともに務めた。

塩田一閑【しおたいっかん(15??~15??)】

三好康長家臣。家老職を務めた。

篠原長政【しのはらながまさ(15??~15??)】

三好元長家臣。阿波国麻植郡上桜城主。篠原宗半の男。官途は大和守。三好長慶の傅役を務めた。父篠原宗半が近江国野洲郡篠原郷からくだって三好元長に仕えた。三好長慶からの信頼厚く、木津城主に任ぜられた。

篠原長房【しのはらながふさ(15??~1573)】

三好義賢家臣。篠原長政の男。阿波国麻植郡上桜城主。官途は右京進。通称孫四郎。別名「岫雲斎怒朴」。継室は教行寺兼詮の娘。三好義賢の筆頭家老職を務めた。1553年、三好義賢が細川持隆を謀殺後、三好義賢に仕え畿内各地を転戦した。1559年、摂津国富田の教行寺兼詮の娘を室とした。1561年、「久米田の戦い」では、先陣を務めて畠山高政、根来衆と戦うが、手薄となった本陣を襲われ三好義賢が討死した。「教興寺の戦い」では、三好長慶勢に属して畠山高政を撃破った。阿波三好長家の家督は三好長治が相続したが、幼年のため木津城主篠原実長、板西城主赤沢宗伝らとともにこれを補佐した。1566年、三好長治、細川真之らとともに足利義栄を擁立して畿内に侵攻した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、畿内の三好家政権は崩壊した。1569年、「本圀寺の変」では、三好三人衆とともに本圀寺の足利義昭を襲撃したが、細川藤孝、三好義継、伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、阿波国に落延びた。1570年、「野田城、福島城の戦い」では、本願寺顕如、浅井長政、朝倉義景勢の支援により織田信長勢を撤退に追い込んだ。1570年、「本太城の戦い」では、浦上宗景を支援するため備前国児島に侵攻、小早川隆景勢の粟屋就方勢を撃破った。1573年、弟篠原実長の讒言により三好長治、細川真之勢の攻撃を受け上桜城で自刃した。三好長房の室と次男三好新次郎、三男三好義房らは、教行寺兼詮を頼って落延びた。

篠原長重【しのはらながしげ(1555~1573)】

篠原長房の男。官途は大和守。1573年、伯父篠原実長の讒言により父篠原長房が細川真之、三好長治、十河存保勢の攻撃を受け際、長刀を振りかざし防戦に努めたが、香西佳清の家臣植松資久に討取られた。

篠原佐吉兵衛【しのはらさきちべえ(15??~1562)】

篠原長政の次男。夷山城主。室は伊沢頼俊の妹。1562年、「久米田の戦い」で三好義賢勢に属して参陣したが、畠山高政勢に敗れ自刃した。

篠原実長【しのはらさねなが(15??~15??)】

篠原長政の三男。阿波国板野郡木津城主。官途は肥前守。別名篠原自遁。木津城主。三好義賢の家老職を務めた。1562年、「和泉久米田の戦い」に参陣したが敗走した。三好長治の未亡人小少将と通じたことを兄篠原長房に咎められると、三好長治に篠原長房を讒言してこれを攻め滅ぼさせた。1578年、十河存保の三好家宗家の家督相続に反対したが、敗れ十河存保に属した。1582年、長宗我部元親勢が阿波国に侵攻すると、十河存保勢に属したが「中富川の戦い」や「勝瑞城の戦い」には参陣しなった。「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、長宗我部元親勢の攻勢を受け淡路国に落延びた。

篠原長秀【しのはらながひで(15??~1577)】

篠原実長の男。官途は玄蕃頭。三好長治に属して今切城110貫を領した。1576年、細川真之を攻撃するが敗退した。三好長治が一宮成助との戦いに敗れると、今切城への退却を進言した。1577年、今切城も攻撃を受け落延びたが、家臣郡勘助の内応によって討死した。

篠原右近【しのはらうこん(15??~1624)】

篠原実長の三男。別名釋正秀。1582年、長宗我部元親勢の阿波国侵攻により、父篠原実長が淡路国に落ち延びると枝連衆、家臣団は霧散。石山本願寺へ加勢した縁を頼りに、顕如上人のもとを訪れて得度した。1592年、阿波国圓勝寺を開基した。

篠原右京【しのはらうきょう(1562~15??)】

篠原佐吉兵衛の男。叔父篠原長房に養育されが、篠原長房の討死により外縁の伊沢頼俊が養育した。1576年、庄野兼時の後見を受けて篠原家の家督を相続した。十河存保に代わり讃岐国に転封した。1577年、庄野兼時が一宮成助を通じて長宗我部元親に降ると、篠原右京も長宗我部元親勢に属した。1580年、十河存保に仕えた。

篠原盛家【しのはらもりいえ(15??~15??)】

篠原長房家臣。官途は雅楽助。1539年、篠原長房とともに、細川持隆の使者として上洛し、本願寺証如と往信を交わした。

篠原好長【しのはらよしなが(15??~1582)】

篠原長房家臣。阿波国山口城主。官途は三河守。長宗我部元親勢の攻撃を受け討死した。

庄野兼時【しょうのかねとき(15??~15??)】

篠原右京家臣。通称久右衛門。1578年、伊沢頼俊を討取った。1578年、篠原右京の留守居として夷山城代を務めた。1579年、長宗我部元親に通じた東条行長に属した。

諏訪盛直【すわもりなお(15??~1582)】

岩成友通家臣。官途は飛騨守。1573年、「山城淀城の戦い」で岩成友通が三淵藤英、細川藤孝、羽柴秀吉らの包囲を受けると、番頭大炊助とともに羽柴秀吉に内応した。明智光秀に属した。1582年、「山崎の戦い」に参陣したが討死した。

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【た】

竹内季治【たけうちよしはる(15??~15??)】

三好長慶家臣。竹内秀治の男。1570年、足利義昭勢に属して、織田信長を愚弄する発言をした。1571年、織田信長の勘気を受け謀殺された。

竹内秀勝【たけのうちひでかつ(15??~1571)】

松永久秀家臣。竹内秀治の次男。官途は下総守。1571年、謀叛の嫌疑を受け、妻子を人質に差し出したが疑いは晴れず、河内国若江城で自刃した。
高野越中守【たかのえっちゅうのかみ(15??~15??)】

三好康長家臣。通称左馬助。別名平尾刑部。若江七人衆のひとり。三好康長の養子となり羽柴秀次に仕え馬廻組頭を務めた。羽柴秀次が自刃すると石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。その後、紀伊和歌山を領した浅野幸長に仕えた。

竹田三河守【たけだみかわのかみ(15??~1572)】

篠原実長家臣。1572年、「上桜城の戦い」では、篠原実長勢に属して籠城するも枝連衆の竹田株之丞とともに討死した。

竹鼻清範【たけはなきよのり(15??~15??)】

三好長逸家臣。

土肥康信【どひやすのぶ(15??~15??)】

三好長慶家臣。1509年、谷馬之助が謀反を起こすと、丹谷常有は、家臣土肥綱真に谷馬之助を討たせ井上城を丹治常直とともに守らせた。細川元常が三好長慶に敗れると、土肥康信は丹治常直を討って城主となった。1579年、「脇城外の戦い」で土肥秀実は長宗我部元親勢と戦って敗北した。

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【な】

永原重高【ながはらたかしげ(15??~1638)】

三好義賢家臣。官途は越後守。別名「松雲」。儒学や兵法、和歌などに卓見で丹羽長重に仕え1,000石を領した。同僚の南部無右衛門と仲が悪く、ある諍いがもとで南部無右衛門が襲いかかってきた際は柔術で軽くいなした。 1600年、「浅井畷の戦い」では、南部無右衛門が戦功を挙げた。その後、紀伊和歌山を領した浅野幸長に700石で仕えた。

 中村高続【なかむらたかつぐ(15??~15??)】

松山重治家臣。通称新兵衛。別名「鎗中村」。1561年、「地蔵山の戦い」では、六角義賢の家臣永原安芸守を討取る戦功を挙げた。松山重治から離反し三好三人衆に属した。

那須家富【なすいえとみ(15??~1573)】

三好長慶家臣。通称久右衛門。1573年、「若江城の戦い」で討死した。

野間左橘兵衛【のまさきつひょうえ(15??~15??)】

三好義継家臣。通称左吉。若江三人衆のひとり。1573年、三好義継が織田信長と対立すると、佐久間信盛に内通して三好義継を自刃に追いやった。1580年、津田宗及、山上宗二らと茶会を催した。織田信長より『燕絵』を拝領した。

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【は】

番頭義元【ばんがしらよしもと(15??~15??)】

岩成友通家臣。通称大炊助。1565年、松永久秀、三好長逸、三好政康らとともに足利義輝を謀殺した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に仕えた。兄足利義輝の仇であるのにかかわらず足利義昭に重んじられた。1573年、「山城淀城の戦い」で岩成友通が三淵藤英、細川藤孝、羽柴秀吉らの包囲を受けると、諏訪飛騨守とともに羽柴秀吉に内応した。

板東信秀【ばんどうのぶひで(15??~15??)】

三好長逸家臣。

姫田藤家【ひめだふじいえ(15??~1577)】

三好長治家臣。板野郡姫田城主。官途は佐渡守。1577年、三好長治が討たれると、その後を追い自刃した。

藤原友清【ふじわらもときよ(15??~15??)】

三好康俊家臣。通称平右衛門。1553年、「内山城の戦い」で戦功を挙げ、戦後内山城主に任じらえた。

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【ま】

松永久秀【まつながひさひで(1510~1577)】

三好長慶家臣。摂津国滝山城主。官途は弾正忠。三好長慶の右筆を務めた。1551年、「山城相国寺の戦い」では、弟松永長頼とともに細川晴元勢の三好政勝、香西元成を撃破した。1559年、三好長慶の命で信貴山城を築城、大和国内の国人衆を切り従えた。1562年、足利義輝が政所執事に任じた摂津晴門と対立した。1565年、三好三人衆とともに足利義輝を討取った。足利義栄を擁立して、勢力を拡大した。1567年、多聞山城を築城した。1570年、二条御所での猿楽に松平元康とともに織田信長に招待された。

松永長頼【まつながながより(15??~1565)】

三好長慶家臣。松永久秀の弟(内藤国貞の養子)。官途は備前守。通称は甚介。別名松永長頼。室は内藤国貞の娘。三好長慶の丹波攻略戦で、内藤宗勝は頭角を現して、八木城を本拠として丹波国の統治を任された。内藤国貞の娘を室に迎えて、内藤家の家督を継ぎ、丹波守護代内藤宗勝を称した。兄松永久秀とともに三好長慶に仕え、松永久秀を影から補佐した。謀略を駆使して活躍した兄松永久秀に対して、武勇に優れて誠実で、三好長慶から信頼された。三好家中での出世は兄松永久秀より早く、松永久秀は弟の助力により三好家中の地位を高めた。その後、丹波国は松永長頼の半独立した領国のようなものであったとまで言われるほど、強大な勢力を誇っていた。1559年、「河内教興寺の戦い」では、丹波国衆を率いて参陣した。1565年、黒井城主荻野直正と戦いの最中に討死した。

松永久通【まつながひさみち(1543~1577)】

松永久秀の男。官途は右衛門太夫。室は十市遠勝の娘。1563年、父松永久秀の隠居により、松永家の家督を相続して大和多聞山城主となった。1564年、三好義継に従い上洛した。1565年、三好三人衆や三好義継とともに二条御所にいた足利義輝を謀殺した。1566年、松永久秀が三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通らと争うと多聞山城で籠城した。1567年、三好三人衆勢に属した筒井順慶と戦った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、松永久秀とともに織田信長に降伏して所領の大和を安堵された。1573年、「多聞山城の戦い」で松永久秀とともに織田信長から離反するが織田信長勢の攻撃を受け降伏した。1575年、十市遠勝の娘おなへ(御料)を室に迎え龍王山城に移った。1576年、原田直政の命により、室の叔父十市城主十市遠長のを攻め落とした。1577年、再び松永久秀が織田信長から離反したが、織田信長勢の攻撃を受け自刃した。織田信長に人質として預けられていた子が二人は、信貴山城落城前に京都六条河原で磔に処された。

松永長直【まつながながなお(15??~1576)】

松永長頼の男。別名内藤長直。通称金吾。1576年、「本願寺城の戦い」では、原田直政勢に属して参陣するも討死した。

松山重治【まつやましげはる(15??~15??)】

三好長慶家臣。通称は新介。もと本願寺の番士。三好長慶に仕え5,000石を領した。弁舌爽やかであり、更に小皷、尺八、早歌等の芸能も巧みであった。1561年、「地蔵山の戦い」では、松山重治の家臣中村高続が、六角義賢の家臣永原安芸守を討取る戦功を挙げた。1562年、「河内教興寺の戦い」では安宅冬康を補佐し、畠山高政の率いる根来寺衆と戦い戦功を挙げた。1568年、織田信長勢の上洛に備えて奈良但馬守とともに摂津高槻城に籠城した。後、織田信孝に仕えた。1582年、「高野山の戦い」に参陣して、伊都郡内に多和城を築城した。

松山安芸守【まつやまあきのかみ(15??~15??)】

松永久秀家臣。松永久秀から離反して三好三人衆に属した。

松山彦十郎【まつやまひこじゅうろう(15??~15??)】

三好長慶家臣。室は伊丹貞親の娘。松永久秀に仕えたが、離反して三好三人衆に属した。1570年、「野田、福島の戦い」に参陣した。

三橋宗忠【みはしむねただ(15??~15??)】

三好康俊家臣。三橋城主。官途は常陸介。

三好之長【みよしゆきなが(1458~1520)】

阿波細川義春家臣。三好長之の男。官途は筑前守。1506年、上洛し畿内各地を転戦した。1507年、細川政元の病没すると、細川澄之を擁する香西元長と戦った。細川澄之は、細川高国を擁する細川尚春、細川政賢に討取られた。足利義澄、細川澄元を擁立するも、対立し隠居した。三好長秀が跡職を継承する。1509年、「如意ヶ嶽の戦い」では、細川高国と大内義興との戦い大敗した。伊勢国に落延びた嫡男三好長秀、次男三好頼澄が北畠材親勢の攻撃を受け討死した。1511年、再び畿内に侵攻するが、細川高国、細川尹賢勢と戦いを続けた。1520年、「船岡山の戦い」で大内義興勢に敗北して、細川政賢が討死した。

三好長秀【みよしながひで(1579~1509)】

三好之長の男。別名芥川長則。細川政元に仕えた。「永正の錯乱」で細川政元が細川澄之に謀殺されると、細川澄元を擁立してその執事となった。1509年、足利義稙を擁立した大内義興、細川高国らと戦い敗北した。「如意ヶ獄の戦い」で敗れ、伊勢国に落延びるが、北畠材親勢の攻撃を受け、細川頼澄とともに自刃した。

三好元長【みよしもとなが(1501~1532)】

三好長秀の男。山城国下五郡守護代職。官途は筑前守。細川尹賢に香西元盛が討たれたため、香西元盛の弟柳本賢治、波多野稙通達が「西七条川勝寺の合戦」にて12代将軍足利義晴、細川高国を破り追放。1526年、阿波にて細川晴元を擁して挙兵。1527年、足利義澄の次男足利義維を細川晴元とともに擁立し、和泉堺に新幕府を樹立する。1529年、柳本賢治と対立し阿波へ。足利義晴と細川高国に対し足利義維、細川持隆を立てて争うが、1532年、細川晴元の裏切りにより木沢長政、本願寺証如の一揆勢に攻囲され、堺の顕本寺で自刃した。

三好長慶【みよしながよし(1523~1564)】

三好元長の男。通称孫次郎。官途は筑前守。別名三好範長。室は遊佐長教の娘。1532年、父三好元長が細川晴元に疎まれ、一向一揆勢の攻撃で討死した。1533年、幼年で三好家の家督を相続した三好長慶であったが、本願寺顕如と細川晴元の和議を整え、木沢長政の仲介で細川晴元に帰参した。摂津国越水城主に任じられ、摂津国西半国守護代となった。1542年、「河内太平寺の戦い」で木沢長政を討取った。1547年、「,摂津舎利寺の戦い」で細川氏綱、遊佐長教勢を撃破後、細川晴元から離反した。1549年、「江口の戦い」では、細川,氏綱を擁し,細川晴元勢に大勝した。足利義輝と細川晴元らと離反、和議を繰り繰り返した。「京都霊山の戦い」で再び足利義輝、細川晴元勢を追落して三好政権を樹立した。以後、政所執事伊勢貞孝らの補佐を得ながら山城国、,丹波国、,摂津国、和泉国、淡路国、,讃岐国、,阿波国の七ヶ国を支配領域とした。1559年、河内国守護代安見直政を追放し、畠山高政を高屋城に入れた。1562年、「教興寺の戦い」では、畠山高政、六角義賢、筒井順慶勢力を畿内から排除した。1564年、家宰の松永久秀の台頭に押され、嫡男三好義興を失い、足利義輝、細川晴元との調整に悩みながら失意のうちに病没した。

三好義興【みよしよしおき(1542~1563)】

三好長慶の男。官途は筑前守。通称孫次郎。別名三好義長。三好長慶が足利義輝と細川晴元と和議を結ぶ際、人質として近江国に送られた。1560年、足利義輝の相伴衆に任じられた。三好長慶が飯盛山城に転封すると芥川城主に任じられた。1561年、御相伴衆に任じられた。六角義賢が京都に侵攻すると松永久秀と結んでこれを撃破し、河内国の畠山高政との戦いに大勝する等活躍した。1563年、三好義興を突然の病没した。

三好義継【みよしよしつぐ(1551~1573)】

十河一存の男(三好義興の養子)。官途は左京大夫。通称孫六郎。別名十河重存。室は足利義晴の娘。1563年、三好義興の病没により、三好惣領家の家督を相続した。1564年、松永久通、三好長逸、広橋国光らとともに上洛した。1565年、「二条城の戦い」では、松永久通、三好三人衆とともに足利義輝を謀殺した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利義昭に仕えた。1569年、三好三人衆の攻撃から足利義昭を救援した。1572年、「河内交野城の戦い」で畠山勢を撃退した。織田信長、足利義昭勢から討伐を受けた。1573年、足利義昭勢に属して織田信長と敵対するが、織田信長勢に属する若江三人衆の離反により自刃に追い込まれた。

三好義兼【みよしよしかね(15??~15??)】

三好義継の男。

三好義茂【みよしよしもり(15??~15??)】

三好義継の次男。

三好長元【みよしながもと(15??~15??)】

三好義継の三男。

三好頼澄【みよしよりずみ(15??~1509)】

三好之長の次男。父三好之長や兄三好長秀ととも細川澄元に仕えた。1509年、「如意ヶ獄の戦い」で細川高国、大内義興勢と戦いに敗れ、伊勢国に兄三好長秀とともに落延びた。北畠材親勢の攻撃を受け細川頼澄、三好長秀とともに自刃した。

三好長尚【みよしながなお(15??~15??)】

三好長之の次男。

三好勝宗【みよしかつむね(15??~15??)】

三好長之の四男。別名三好一秀。1529年 塩田胤光とともに柳本賢治勢と戦い撃破った。1531年、畠山義堯は三好勝宗の支援を受けて飯盛山城主木沢長政を攻撃した。木沢長政は、細川晴元に和議の仲介を依頼、三好勝宗は撤退した。

三好政成【みよしまさなり(15??~1562)】

三好頼澄の男。官途は下野守。1561年、「三箇山城の戦い」で畠山高政勢の攻撃を受け討死した。

阿波三好義賢【みよしよしかた(1527~1562)】

三好元長の次男。官途は豊前守。室は久米義広の娘。別名三好実休。1544年、兄三好長慶は細川晴元に仕えたが、三好義賢は阿波細川持隆に仕えた。1547年、「舎利寺の戦い」では、細川晴元らと対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らを撃破る戦功を挙げた。その後も三好長慶勢に属して畿内各地を転戦した。1552年、細川持隆を謀殺して、阿波国の実権を掌握、弟十河一存が和泉国岸和田城に転封すると、讃岐国も合わせて統治した。1553年、十河一存とともに細川持隆を見性寺で謀殺して、細川真之を守護職として擁立した。久米義広、佐野丹波守ら反対派を撃破した。1558年、「北白川の戦い」では、阿波国、讃岐国勢を率いて参陣した。1560年、兄三好長慶とともに畠山高政、安見宗房らと戦い大勝し、河内国守護職に任じられた。1562年、「久米田の戦い」では、根来衆の支援を受けた畠山高政の反撃を受け討死した。武野紹鴎、千利休に茶道を学び、名物『三日月』の茶入を所持するなど数寄者としても著名。

阿波三好長治【みよしながはる(1553~1577)】

三好義賢の男。1562年、「久米田の戦い」で父三好義賢が討死すると、篠原長房の補佐を受け阿波三好家の家督を相続した。篠原長房と対立すると、細川真之を擁立した。1569年、「本圀寺の戦い」では、足利義昭を襲撃するが、戦果を挙げられず、畿内から撤退した。1570年、「野田城、福島城の戦い」では、三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通らとともに細川昭元を擁して織田信長勢と戦うが劣勢を覆すことができまず織田信長と和議を結んだ。1572年、「上桜城の戦い」では、細川真之と結んで篠原長房を攻め滅ぼした。弟十河存保に属する香川之景や香西佳清らを攻撃した。1577年、「阿波荒田野で戦い」で細川真之勢の一宮成助、伊沢頼俊らの攻撃を受け自刃した。辞世の句は「三好野の梢の雪と散る花を 長き春とやは人のいふらむ」。

高屋三好康長【みよしやすなが(15??~1583)】

三好長秀の男。官途は山城守。通称孫七郎。別名「笑岩」。三好三人衆と結び、松永久秀と対立した。1562年、「河内教興寺の戦い」では、三好義興勢に属して参陣した。三好長慶の病没後、三好三人衆と松永久秀が対立すると、三好康長は三好三人衆に属した。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、織田信長に対抗した。1569年、「本圀寺の戦い」では、足利義昭の拠る本國寺を襲撃した。1570年、石山本願寺と結んで野田砦、福島砦に籠城した。1573年、足利義昭、松永久秀、三好義継と結び高屋城に籠城した。1575年、松井友閑を通じて、所持していた名物「三日月葉茶壷」を織田信長に献上して織田信長に降伏、河内国半国を領して本願寺顕如との取次役を務めた。1576年、「本願寺城の戦い」では、原田直政勢に属して先陣を務めたが敗走した。1582年、四国方面軍の織田信孝勢に属して、安宅信康の勧誘工作、三好康俊を内応させる功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、三好康長は阿波国から撤退した。

高屋三好康俊【みよしやすとし(15??~1582)】

三好康長の男。美馬郡岩倉城主。官途は式部大輔。通称徳太郎。室は三好長房の娘。父三好康長が畿内に転封になると勝瑞城主になり、家臣横田宗昭、塩田一閑の補佐を受けた。1579年、計略を用いて岩倉城外で矢野国村、森飛騨守、河村右馬助、三好越後守、川島惟忠らを討取った。長宗我部元親勢の攻撃を受け、嫡男三好俊長と大島丹波守の嫡男大島利忠を人質に差し出して和議を結んだ。三好康長が、織田信長の支援を受けて阿波国に侵攻すると、長宗我部元親から離反した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、長宗我部元親勢の攻撃をけ討死した。

高屋三好俊長【みよしとしなが(15??~15??)】

三好康俊家臣。1579年、父三好康俊が長宗我部元親に降伏すると、人質として土佐国に送られた。1582年、三好康俊が討死すると、長宗我部元親に仕えた。

椋橋三好長直【みよしながなお(15??~15??)】

三好康長家臣。摂津国椋橋城主。官途は伊賀守。

椋橋三好長房【みよしながふさ(15??~15??)】

三好長直の男。官途は備中守。1562年、「河内教興寺の戦い」では、三好義興勢に属して参陣したが敗退した。1566年、三好義継に従い堺攻撃。1568年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛すると、三好義継のもとから離れ三好三人衆に属して、阿波国に撤退した。1570年、「摂津野田城、福島城」に籠城。のち三好康長に従う。息に房一。娘婿に康俊。

椋橋三好房一【みよしふさかず(1554~1614)】

三好長房の男。官途は丹後守。通称新右衛門尉。織田信長に仕え「野尻、草部の戦い」で戦功を挙げた。後、羽柴秀吉に仕え黄幌衆に任じられた。1592年、「文禄の役」で戦功を挙げた。その後、松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ、役後、御相伴衆を務め河内国2,300石を領した。1605年、松平秀忠の参内の際これに供奉した。

榎並三好勝長【みよしかつなが(15??~1509)】

摂津国榎並城主。三好勝時の男。1509年、波多野種通、柳本賢治、細川高国、細川尹賢らと対立し、細川晴元、細川澄賢と結んだ。波多野種通を支援するため、細川澄賢を擁し、弟三好政長とともに畿内に侵攻した。「山城川勝寺の戦い」で、細川高国勢の武田元光を撃破するも、討死した。

榎並三好政長【みよしながまさ(1508~1548)】

三好勝時の次男。官途は越後守。通称神五郎。別名三好宗三。1548年、細川氏綱を擁する三好長慶と対立した。 木沢長政、茨木長隆とともに細川晴元の三家老職を務めた。六角義賢、細川晴元と結んで、三好長慶と対抗した。1549年、「江口の戦い」に参陣して十河一存勢と戦い討死した。

榎並三好政康【みよしまさやす(1528~1615)】

榎並三好政長の男。官途は下野守。三好三人衆のひとり。1555年、「丹波八上城の戦い」では、三好長慶勢に属して戦功を挙げた。1562年、「久米田の戦い」、「教興寺の戦い」では、畠山高政勢と戦い戦功を挙げた。三好長慶の病没後は三好義継の三好長逸、岩成友通らとともに後見役を務めた。1565年、「永禄の変」では、松永久秀、三好長逸、岩成友通らとともに足利義輝を討取った。畿内の主導権を争いにより松永久秀と争うと、三好長逸、岩成友通らとともに三好義継を擁して、松永久秀を京都から追い落した。篠原長房とともに足利義栄を擁立して、筒井順慶とともに松永久秀を攻撃した。1566年、「上芝の戦い」で三好長逸、岩成友通らとともに畠山高政、松永久秀、安見宗房らを撃破した。篠原長房、三好長逸、岩成友通らとともに足利義栄を擁して畿内を制圧するが、これに反発した三好義継が松永久秀と結んだ。1567年、「東大寺の戦い」では、松永久秀勢の奇襲攻撃を受け敗退した。1568年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛するとこれに敵対したが、「勝竜寺城の戦い」、「淀城の戦い」に敗れると総崩れとなった。その後も足利義昭、本願寺顕如、松永久秀、浅井長政、朝倉義景らと結んで織田信長と対抗した。

榎並三好政勝【みよしまさかつ(1536~1632)】

三好政長の次男。官途は因幡守。通称右衛門大夫。香西元成、波多野晴通らと結んで三好長慶に対抗した。1544年、父三好政長の隠居により榎並三好家の家督を相続した。1547年、「舎利寺の戦い」では、三好政長とともに参陣した。1548年、三好政長が三好長慶と対立すると、三好長慶勢の攻撃を受け榎並城を包囲された。1549年、「江口の戦い」で、三好政長が討死すると、榎並城から落延びた。1551年、「山城相国寺の戦い」では、香西元成や波多野晴通と結んで三好長慶勢の松永久秀、松永長頼らと戦ったが敗退した。1553年、「霊山城の戦い」では、細川晴元と足利義輝が結んで三好長慶と戦いが再び敗退した。丹波国八木城主内藤国貞を討取る戦功を挙げるが、松永長頼に八木城を奪回された。1564年、三好長慶が病没すると、三好義継を補佐した。1568年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛するとこれに対抗した。1570年、「野田城、福島城の戦い」で織田信長勢に降伏した。1572年、伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した。

飯岡三好長逸【みよしながやす(15??~1573)】

芥川長則の男。山城国飯岡城主。官途は日向守。別名芥川孫四郎。三好三人衆のひとり。1549年、「江口の戦い」で細川晴元の家臣香西元成と戦った。1550年、「東山の戦い」では、近江国から京都に侵攻した足利義輝、細川晴元勢を十河一存らとともに撃破した。1558年、「如意ヶ嶽の戦い」では、松永久秀とともに足利義輝勢と戦った。三好長慶と三好義興が病没すると、三好義継を三好政康、岩成友通、松永久秀らとともに補佐した。1562年、「河内教興寺の戦い」、「久米田の戦い」では、畠山高政勢と戦い戦功を挙げた。1565年、「永禄の変」で三好政康、岩成友通、松永久秀らとともに足利義輝を謀殺した。1566年、篠原長房、三好康長、筒井順慶と結んで松永久秀勢を京都から追い落し足利義栄を将軍職に擁立した。1567年、「東大寺の戦い」では、松永久秀勢の奇襲を受け大敗、嫡男三好長将を失った。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると六角義賢、紀伊国人衆、高野山らと結んで対抗したが、敗れて阿波国に落延びた。1569年、「本圀寺の戦い」では、足利義昭を襲うが、織田信長勢の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの迎撃を受け敗退した。1570年、「野田城、福島城の戦い」では、本願寺顕如、浅井長政、朝倉義景らの支援を受け、篠原長房らとともに畿内に侵攻するが、戦略的勝利を得られず織田信長と和議を結び四国に撤退した。1573年、武田晴信、足利義昭、三好義継、松永久秀らとととも織田信長包囲網を作るが、三好家中の混乱により積極策が取れないまま、武田晴信の病没により破綻した。

飯岡三好長将【みよしなが(15??~1567)】

三好長逸の男。通称久介。1567年、「東大寺の戦い」で松永久秀勢の奇襲を受け討死した。

飯岡三好長勝【みよしながかつ(15??~15??)】

三好長逸の次男。官途は兵庫頭。

三好長徳【みよしながとく(15??~15??)】

三好長逸家臣。通称新左衛門。1569年、「本圀寺の戦い」では、三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通、松永久秀らとともに足利義昭を襲撃した。

三好政保【みよしまさやす(15??~1573)】

三好義継家臣。官途は筑前守。家老職を務めた。

三好隼人佐【みよしはやとのさ(15??~15??)】

十河存保家臣。1582年、長宗我部元親勢攻撃を受けたが撃退した。1584年、再び長宗我部元親勢の攻撃を受け開城、備前国に落延びた。

三好勝時【みよしかつとき(15??~1579)】

三好長治家臣。三好長之の三男。官途は越後守。三好長治三家老職のひとり。1578年、伊沢頼俊を討取った。1579年、三好康俊の計略により矢野国村、川島惟忠らとともに脇城外で謀殺された。

三好盛長【みよしもりなが(15??~15??)】

三好義興家臣。

三好長朝【みよしながとも(15??~15??)】

三好義興家臣。通称弓之助。別名三好忠康。

三好盛政【みよしもりまさ(15??~15??)】

三好義興家臣。1562年、「河内教興寺の戦い」では、三好義興勢に属して参陣した。「久米田の戦い」で畠山高政勢と戦い戦功を挙げた。

三好通清【みよひみちきよ(15??~15??)】

三好長慶家臣。官途は主水正。1565年、「永禄の変」に参陣して、三好政康、岩成友通、松永久秀らとともに足利義輝を謀殺した。

三好因幡守【みよしいなばのかみ(15??~15??)】

三好為三の男。1614年、「大坂冬の陣」では、父三好為三とともに松平元康勢に属して参陣した。

森九兵衛【もりくへえ(15??~1600)】

三好康長家臣。若江七人衆のひとり。羽柴秀次、蒲生氏郷、石田三成らに仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、岐阜城への援軍に派遣されたが撃退された。1600年、「関ヶ原の戦い」にも参陣したが討死した。

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【や】

矢野国村【やのくにむら(15??~1579)】

三好義賢家臣。阿波国矢野城主。官途は駿河守。讃岐国大川郡虎丸城主も兼ねた。1571年、三好長治と寒川元隣の間に和議結ばれると、讃岐国大内郡引田城四郷が割譲され、矢野国村が城主に任じられた。虎丸城には安富盛定が入った。1577年、三好長治が細川真之勢の伊沢頼俊、一宮成助らの攻撃を受け討死すると、篠原実長とともに伊沢頼俊を謀殺し、一宮成助と戦った。1578年、十河存保を勝瑞城に迎え、阿波三好惣領家の家督を相続させた。1579年、三好康俊が長宗我部元親に内応して、矢野国村、三好越後守、森飛騨守、河村左馬亮らを脇城に呼寄せ、これを謀殺した。

矢野虎村【やのとらむら(15??~1582)】

矢野国村の男。別名「戒厳」。1562年、「久米田の戦い」に参陣した。1579年、父矢野国村が三好康俊に謀殺されたため、矢野家の家督を相続した。三好義賢の病没後、出家した。1582年、「中富川の戦い」で討死した。

­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­結城忠正【ゆうきただまさ(15??~15??)】

三好長慶家臣。官途は山城守。洗礼名「アンリケ」。後に松永久秀に仕え、基督教の弾圧した。1563年、ディエゴの影響を受け基督教に傾倒した。高山友照、清原枝賢らとともにロレンソのもとで受洗を受け、基督教を保護した。

結城左衛門尉【ゆうきさえもんのじょう(15??~15??)】

­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­結城忠正の男。洗礼名「アンタ」。

横田宗昭【よこたむねあき(1552~1603)】

三好康長家臣。通称内膳。別名横田村詮。塩田一閑とともに三好康俊の補佐役をつとめた。1583年、中村一氏の妹を室に迎え、それに仕えた。中村一氏が駿河国駿府館主に任じられると検地、交通路整備、土木施策などに功績を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、中村一氏の嫡男中村一忠を補佐して、松平元康勢に属した。「関ヶ原の役」後、中村一忠は伯耆国米子城175,000石を領した。横田宗昭は筆頭家老として6,000石を領した。米子城を築城、米子感応寺を建立、領国内の検地、城下街建設、運河の建設、内政面で功績を挙げた。1603年、横田宗昭の専横を憎くむ安井清一郎、天野宗杷らの讒言を信じた中村一忠に謀殺された。嫡男中村主馬助は、柳生宗章とともに飯山に籠城した。中村一忠は堀尾吉晴、堀尾忠氏父子に助勢を求め、これを鎮圧した。

吉成信長【よしなりのぶなが(15??~15??)】

三好義賢家臣。

若槻光保【わかつきみつやす(15??~15??)】

三好長逸家臣。

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【資料Ⅰ】

調査中。

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【資料Ⅱ】

三好三人衆【みよしさんにんしゅう】

三好長慶の病没後、三好義継を擁して専権を振るった。三好義継の離反、織田信長の入京などにより衰退。三好長逸、三好政康、岩成友通。

三好長治家三家老【みよしながはるけさんかろう】

三好勝時、矢野国村、森飛騨守。

若江三人衆【わかえさんにんしゅう】

若江城主三好義継を補佐した三家老。池田教正、多羅尾右近、野間長前。

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【資料Ⅲ】

三好長慶政権【みよしながよしせいけん】

三好長慶政権は室町幕府の旧体制を受け継いだ武家政権。将軍を傀儡として、幕府の要職を名誉職として有力諸侯に与えることで諸大名を懐柔するなど、幕府機能を最大限に利用した。三好長慶政権は内部構造が非常に脆弱で、その政権は三好長慶と実弟三好実休、安宅冬康、十河一存らと嫡男三好義興という限られた人物の存在によって成立した。旧来の政治構造を取り込みつつも将軍職、管領職といった上位権力の意思とは全く無関係に行動し、国人層の支持を得ることで上位権力やその権威、枠組を相対化した。堺や京都を勢力下に置き他の諸侯を凌ぐ経済力を持っていた。支配領域は、三好長慶が芥川山城を直轄領化を図った山城国、摂津国、堺。三好義賢が支配した阿波国。安宅冬康、十河一存を養子に送り込んで支配した淡路国、讃岐国、三好長慶に属した、丹波国内藤国貞、和泉国松浦、松永久秀を国主に送り込んだ。

管領【かんれい】

将軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。最初,執事と称された。1362年、斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが、三代将軍足利義満のときに管領職がおかれ、足利家枝連衆、斯波、細川、畠山の三家が交代で就任したのでこの三家を三管領と称した。

守護職【しゅごしょく】

鎌倉,室町幕府が治安維持および武士統制のために国単位に設置した地方官。文治1 (1185) 年,源頼朝が弟義経の探索を目的として諸国に設置することを奏請して勅許を得たことに始る。その職務権限は「大犯 (だいぼん) 三箇条」と称され,大番催促,謀反人および殺害人の検断権が与えられた (公家,本所領内のものでも検断することができた) 。

守護代【しゅごだい】

守護の代官。室町時代の守護は任地に赴任しない者が多かったので,任国には代官がおかれたが,多くは在地の有力御家人が任命され,1ヵ国に複数の代官が存在した。室町時代には在京守護代と在国守護代があったが,守護大名領国制が展開する過程で,領国支配を強化するため,有力被官を在国守護代として領国内に配置した。

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れ

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一III(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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