2015年6月4日木曜日

織田信長家臣団事典(その他)

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青木信照【あおきのぶてる(15??~1589)】

織田信長家臣。通称善四郎。室は前田安勝の娘。越前府中衆のひとりとして蔵米6,350俵の給せられた。1582年、「本能寺の変」後、前田利家に仕えた。1589年、「武蔵八王子城の戦い」で討死した。

青木則成【あおきのりなり(15??~15??)】

青木信照の三男(前田利好の養子)。別名池田治部左衛門。養父前田利好の病没後、前田家の家督と800石を相続した。

青木鶴【あおきつる(15??~15??)】

織田信長家臣。1579年、織田信長の使者として高槻城に派遣され、荒木村重の謀反に加担した高山友照を受け取り、越前国の柴田勝家のもとまで連行した。

青木玄蕃允【あおきげんばのじょう(15??~15??)】

織田信長家臣。1581年、「第一次伊賀攻め」に参陣した。

青山信昌【あおやまのぶまさ(15??~1547)】

織田信秀家臣。通称与三右衛門。織田信長四家老のひとり。1542年、織田信長が那古野城主になった際、平手政秀、林秀貞、内藤勝介らとともに附家老職として織田信長を補佐した。1547年、「美濃稲葉山城の戦い」に参陣したが、長井規秀勢の奇襲を受け、織田信康など多くの将兵とともに討死した。

青山吉次【あおやまよしつぐ(1542~1612)】

青山信昌の男。通称与三。官途は佐渡守。室は前田利長の養女(長寿院)。織田信長に仕えたが後に前田利家に仕えた。1575年、越前府中二十一人衆のひとりとして1,000石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、前田利長勢に属して戦功を挙げ2,000石を加増された。魚津城主に任じられ1,7000石を領した。1592年、「文禄の役」では、前田利家に従い肥前国名護屋城に在城した。1600年、「大聖寺城の戦い」では、金沢城を守備した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

青山藤六【あおやまとうろく(15??~15??)】

織田信長家臣。足軽衆のひろち。1552年、「赤塚城の戦い」で、山口教継勢と戦った。

赤川景弘【あかがわかげひろ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称三郎右衛門。別名赤川通盛。矢島六人衆のひとり。佐久間信盛、村井貞勝、島田秀満とともに、「東脇、大瀬古の礼銭」の書状を発給した。

赤川平七【あかがわへいひち(15??~15??)】

織田信長家臣。足軽衆のひとり。1552年、「赤塚の戦い」に参陣して、敵に捕縛された。

赤川彦右衛門【あかがわひこえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。1547年、「第一次小豆坂の戦い」で戦功を挙げた。

浅井政貞【あざいまださだ(15??~1581)】

織田信長家臣。中島郡苅安賀城主。官途は信濃守。通称新八。室は毛利高政の娘。赤母衣衆のひとり。1568年、「近江観音寺城の戦い」では、羽柴秀吉とともに神崎郡内の掃討戦を行った。1571年、「伊勢長島の戦い」に参陣した。1574年、織田信忠勢に属した。1576年、織田信忠勢に属して播磨国に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井長時【あざいながとき(1569~1584)】

織田信雄家臣。浅井政貞の男。刈安賀城主。通称田宮丸。別名浅井正尚。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。岡田重孝、津川義冬らとともに三家老と称され、織田信雄のもとで大きな権限を持っていた。1584年、羽柴秀吉に内応したと疑いを持たれ、織田信雄に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

浅井政重【あざいまさしげ(15??~1652)】

浅井政貞の次男。通称新太郎。室は於亀の方。羽柴秀長に仕えた。後に松平元康に仕え、山城国綴喜郡内で500石を領した。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

浅井政候【あざいまさこう(15??~15??)】

浅井政重の男。

浅井備中守【あさいびっちゅうのかみ(15??~15??)】

織田信長家臣。盆踊りに参列して黒鬼の役を務めた。熱田宮惣検校千季信の内室は、浅井備中守の娘。1547年、「美濃稲葉山城の戦い」に参陣した。1556年、「稲生の戦い」に参陣した。

浅井清蔵【あざいせいぞう(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。

浅井四郎左衛門【あざいしろうざえもん(15??~1576)】

浅井孫八郎の男。1566年、織田信長から7貫200文を宛行われた。

浅井安親【あざいやすちか(15??~15??)】

織田信秀家臣。通称藤次郎。

浅井充秀【あざいあつひで(15??~1596)】

浅井親安の男。通称源五郎。

朝日孫八郎【あさひまごはちろう(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「大河内城の戦い」に参陣した。池田恒興勢に属して戦ったが北畠具教勢の反撃を受け討死した。

朝野吉光【あさのよしみつ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称彦二郎。

朝野十郎左衛門【あさのじゅうろうざえもん(15??~15??)】

朝野吉光の男。1568年、嫡男朝野意泉とともに、立政寺に土地を奇進した。

朝野意泉【あさのいせん(15??~15??)】

朝野十郎左衛門の男。1568年、父朝野十郎左衛門とともに、立政寺に土地を寄進した。

渥美刑部丞【あつみぎょうぶのじょう(15??~15??)】

織田信長家臣。赤母衣衆のひとり。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

跡部秀次【あとべひでつぐ(15??~15??)】

織田信長家臣。奉行衆のひとり。1568年、連署で、法隆寺寺家に対し、家銭銀子百五十枚の納入を催促した。

天野雄光【あまのかつみつ(15??~1609)】

織田信雄家臣。官途は周防守。別名佐々右衛門。伊勢長島城に拠った。1590年、織田信雄の没落後には羽柴秀次、ついで羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げに2,000石を領した。1607年、京都市中で町人に暴行を加えたため、改易処分に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

天野雄景【あまのかつかげ(15??~15??)】

天野雄光の男。官途は民部少輔。1590年、織田信雄が没落すると、羽柴秀吉に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

荒尾成房【あらおなりふさ(1556~1630)】

荒尾善次の次男。官途は遠江守。通称平左衛門。室は水野清忠の娘。継室は織田信直の娘。1572年、「三方ヶ原の戦い」で兄荒尾善久が討死したため、荒尾家の家督を相続した。1575年、「長篠の戦い」に参陣した。後に池田恒興に仕え、若森城3,000貫を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」で池田恒興が討死すると、池田輝政に仕えた。1590年、池田輝政が三河国吉田城主となると、牛久保城代に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」後、池田輝政が播磨姫路520,000石を領すると、龍野城代となり10,000石を領した。1625年、隠居して家督を継嗣荒尾成利に譲り、隠居料として3,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒川頼季【あらかわよりすえ(15??~1574)】

織田信長家臣。通称新八郎。馬廻衆のひとり。1556年、柴田勝家とともに三河国福谷城を攻略した。1574年、「伊勢長島一向一揆征伐」に参陣して討死した。

荒川与十郎【あらかわよじゅうろう(15??~1552)】

織田信長家臣。足軽衆のひとり。1552年、「赤塚の戦い」で討死した。

荒川頼季【あらかわよりよし(15??~1574)】

織田信長家臣。通称新八郎。1556年、柴田勝家とともに、酒井忠次らが守備する福谷城を攻撃した。1569年、「大河内城の戦い」に参陣した。1574年、「長島城の戦い」に参陣したが討死した。

あら鹿【あらしか(15??~15??)】

織田信長家臣。相撲取り。1578年、安土での相撲会に参加。えり相撲二十三人の内に選ばれた。「安土相撲会」では、賞として100石および私宅を賜った。

安西【あんざい(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1581年、賀藤与十郎らとともに知行を与えられた。

伊木忠次【いぎただつぐ(1543~1603)】

池田恒興家臣。香川七右衛門の男。官途は豊後守。通称清兵衛。別名香川清兵衛。継室は盛寿院(日根野高吉の娘)。はじめ織田信長に仕えた。1561年、「伊木城の戦い」で、斎藤義龍勢と戦い戦功を挙げ、伊木城を領して伊木に改名した。池田恒興の意向により、森寺秀勝の仲介で池田恒興に仕えた。1582年、「山崎の戦い」では、池田恒興が羽柴秀吉勢に属して戦功を挙げた。その後の「清洲会議」では、羽柴秀吉を支持した。1583年、池田恒興は美濃国大垣城130,000石を領した。筆頭家老の森寺秀勝が病に倒れると、伊木忠次が筆頭家老職を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で池田恒興と池田元助の討死後、次男池田輝政への家督相続では、羽柴秀吉から信濃国諏訪郡高島城60,000石の内示を受けるが、これを辞退して、池田輝政の家督相続を認めさせた。1589年、「小田原の役」後、池田輝政が三河国吉田城153,000石を領すると、伊木忠次は田原城15,000石を領した。1594年、正室の糸姫(中川清秀の娘)との離縁して、松平元康の娘(督姫)を継室に迎えた。1600年、「関ヶ原の役」後、播磨国姫路城520,000石に加増され、伊木忠次は三木城37,000石を領した。1603年、池田忠継が備前国岡山城主となると家老職に片桐長政、片桐忠雄が淡路国洲本城主となると荒尾成房を仕置家老職に任じた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊木忠繁【いぎただしげ(1581~1616)】

伊木忠次の男。官途は長門守。室は森寺忠勝の娘。1603年、父伊木忠次の病没により、伊木家の家督と三木城33,000石を相続した。4,000石は弟伊木幸雄に分与した。1613年、森寺忠勝の娘を正室に迎えた。1616年、伊木忠繁が病没すると、伊木家老職の伊木正春が五歳の伊木忠貞に家督を相続させた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田恒興【いけだつねおき(1536~1584)】

池田恒利の男。官途は紀伊守。通称勝三郎。室は荒尾善次の娘(善応院)。母の養徳院は織田信長の乳母で、織田信秀と再婚して側室となった。織田信長に従い「桶狭間の戦い」、「稲葉山城の戦い」などで戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」で戦功を挙げ犬山城10,000貫を領した。1580年、「花隈城の戦い」で荒木村重が滅亡すると、その旧領を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉勢に属した。「山崎の戦い」では、兵4,000余りを率いて右翼の先陣を務め、明智光秀勢を打ち破った。「清洲会議」では、羽柴秀吉とともに織田秀信を擁立し、摂津国内で120,000石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」には参陣しなかったが、美濃国大垣城130,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉勢に属した。羽柴秀次、森長可、堀秀政らとともに三河国に侵攻するが、松平元康勢の奇襲を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田元助【いけだもとすけ(1559~1584)】

池田恒興の男。通称庄九郎。室は伊勢貞良の娘。1580年、「花隈城の戦い」では、池田輝政とともに戦功を挙げた。羽柴秀吉勢とともに淡路国に侵攻して岩屋城を攻略し、羽柴秀吉勢の撤退後も岩屋城を守備した。1582年、「本能寺の変」後、父池田恒興とともに羽柴秀吉勢に属した。1583年、池田恒興が美濃国大垣城を領すると、池田元助は岐阜城主となった。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀次勢に属して三河国に侵攻するが、松平元康勢の奇襲を受け池田恒興とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田由之【いけだよしゆき(1577~1618)】

池田元助の男。官途は出羽守。通称九郎兵衛。室は蜂須賀家政の娘(万姫)。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、父池田元助が祖父池田恒興とともに松平元康勢の奇襲攻撃を受け討死した。池田家の家督は叔父池田輝政が相続した。1601年、播磨国佐用郡利神城22,000石を領した。1607年、駿河御普請役を務めた際、松平元康から馬を拝領した。1609年、備前国下津井城の城番になり32,000石に加増された。1613年、叔父池田輝政が病没して、池田利隆が家督を相続すると、播磨国明石城に転封した。1616年、池田利隆が病没すると、池田家督を継いだ池田光政は、幼少を理由に因幡国鳥取城に転封になり、池田由之も明石城から米子城に転封し、池田光政を補佐した。1618年、江戸から米子城への帰路、小姓の神戸平兵衛に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田由成【いけだよしなり(1605~1676)】

池田由之の男。通称主計。1618年、父池田由之の横死により家督と米子城32,000石を相続した。1623年、池田光政が松平家光に従い上洛した際に供した。1628年、池田光政と松平秀忠の養女勝子(本多忠刻の娘)の婚礼の際に御礼使として江戸城に下った。1632年、池田光政が因幡国鳥取城から備前国岡山城に転封されたので、池田由成も備前国下津井城主に転じた。1650年、池田光政の娘輝子と一条教輔の婚礼のため上京した。1668年、隠居して三男池田由孝に家督を譲った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田輝政【いけだてるまさ(1564~1613)】

池田恒興の次男。官途は武蔵守。通称三左衛門。室は中川清秀の娘(糸姫)。継室は徳川家康の娘(督姫)。1580年、「花熊城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、父池田恒興、兄池田元助とともに羽柴秀吉勢に属した。羽柴秀吉が京都大徳寺で織田信長の葬儀を催すと、池田輝政は羽柴秀勝とともに織田信長の棺を担いだ。1583年、池田恒興が美濃国大垣城主に任じられると、池田輝政は池尻城主となった。1584年、「小牧、長久手の戦い」で、池田恒興と池田元助が討死したため、池田家の家督と大垣城130,000石を領した。1589年、「小田原の役」後、東三河国吉田城(渥美郡、宝飯郡、八名郡、設楽郡)152,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、吉田城に留まり東国警衛役を務めた。1594年、羽柴秀吉の仲介によって、松平元康の娘(督姫)を娶った。1595年、「羽柴秀次事件」では、羽柴秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、池田輝政の妹若御前は助命された。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。役後、播磨国姫路城520,000石を領した。1606年、姫路城と加古川流域の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。1611年、羽柴秀頼、松平元康との二条城会見に列席した。次男池田忠継の備前国岡山城280,000石、三男池田忠雄の淡路国洲本城60,000石、弟池田長吉の因幡国鳥取城60,000石を領して、池田家枝連衆で920,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田利隆【いけだとしたか(1584~15??)】

池田輝政の男。官途は右衛門督。室は榊原康政の娘(鶴姫)。1600年、「関ヶ原の役」では、父池田輝政とともに参陣した。1603年、弟池田忠継が備前国岡山城に任じされた際、陣代として岡山城に入城した。1604年、領内検地、兵農分離を行なった。1605年、榊原康政の娘(鶴姫)を内室に迎え松平秀忠との関係を深めた。1613年、父池田輝政の病没により池田家の家督を相続した。この際、西播磨三郡(宍粟郡、佐用郡、赤穂郡)100,000石を弟池田忠継に分与した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属した。1616年、京極高広の京都四条の屋敷で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田長吉【いけだながよし(1570~1614)】

池田恒興の三男(羽柴秀吉の養子)。通称藤三郎。室は伊木忠次の娘。兄池田輝政とともに羽柴秀吉に仕え近江国佐倉城30,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、池田輝政とともに松平元康勢に属した。「近江水口城の戦い」では、長束正家、長束直吉らを調略により開城させた。役後、因幡国鳥取城60,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

池田長政【いけだながまさ(1575~1607)】

池田恒興の四男(片桐俊元の養子)。官途は河内守。室は加藤嘉明の娘。1597年、養父片桐俊元が病没により、片桐家の家督と三河国新庄城7,000石を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、池田輝政とともに松平元康勢に属して戦功を挙げた。役後、播磨国赤穂城22,000石を領した。その後、備前国下津井城32,000石に転封した。江戸城普請や駿府城普請でも功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

生駒直勝【いこまなおかつ(1564~1614)】

織田信長家臣。吉田直元の男。官途は内膳正。通称甚右衛門。別名吉田又市。織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉の馬廻衆として仕えた。1596年、織田信雄の継嗣織田秀雄に仕え、織田信雄の娘を室に迎えて越前国大野郡内1,509石を領した。1603年、前田利長に仕え、5,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

生駒直義【いこまなおよし(15??~1638)】

生駒直勝の男。室は織田信雄の娘。前田利常に仕え5,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。前田利常の次男前田利次の傅役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩倉伊東祐元【いとうすけもと(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は若狭守。相模国の住人であったが尾張国に移り住んで織田信長に仕えた。

岩倉伊東武兵衛【いとうぶへえ(15??~1569)】

伊東祐元の男。通称夫兵衛。「津島盆踊り大会」では、飯尾定宗らとともに武蔵坊弁慶の仮装をした。その後、坂井迫盛を謀殺して織田信長のもとから出奔して今川氏真に仕えた。1569年、「掛川城の戦い」で松平元康勢の椋原次右衛門と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩倉伊東長久【いとうながひさ(15??~1585)】

伊東祐元の次男。通称清蔵。別名伊東祐之。槍衆のひとりで、堀田左内、城戸少左衛門と合わせて「鑓三本」と称された。「三本木の戦い」では、兜をつける隙が無く編笠をかぶって戦った。1573年、「小谷城の戦い」では刀、脇差などを持たずに戦いに出て、素手で槍を奪い頸級三つを取る戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1585年、「佐々成政討伐」で加賀国に参陣したが、陣中で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩倉伊東長実【いとうながざね(1560~1629)】

伊東長久の男。官途は丹後守。通称甚太郎。別名伊東長次。室は神子田正治の娘。1573年、「小谷城の戦い」では、羽柴秀吉の寄騎衆に任じられた。その後も羽柴秀吉勢に属して各地を転戦した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1589年、「山中城の戦い」では、一番乗りをする戦功を挙げた。1591年、備中国川辺城10,300石を領して諸侯に列した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋を守備した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成の挙兵を松平元康に伝える使者を送った。1615年、「大坂夏の陣」では、大坂七手組頭のひとりとして奮戦した。役後、青木一重とともに許され諸侯として存続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩倉伊東長直【いとうながなお(15??~15??)】

伊東長実の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩倉伊東長昌【いとうながまさ(1593~1640)】

伊東長実の次男。官途は若狭守。室は中島重次の娘(板倉勝重の養女)。幼少時から松平元康に仕えたが、後に羽柴秀頼の家臣となった。1615年、「大坂夏の陣」では、父伊東長実とともに羽柴秀頼勢に属して戦った。落城後、松平元康自刃を図るが松平元康の制止を受けて許され、以後は松平元康に仕えた。1629年、伊東長実の病没により岩倉伊東家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩倉伊東長重【いとうながしげ(15??~15??)】

伊東長実の三男。

岩倉伊東長行【いとうながゆき(15??~15??)】

伊東長実の養子。

石黒武左衛門【いしぐろたけざえもん(15??~16??)】

森寺忠勝家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、池田輝政の意向で幼少の森寺長貞の陣代として参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岩越吉久【いわこしよしひさ(15??~15??)】

菅屋長頼家臣。1581年、菅屋長頼の使者として能登国の温井景隆、三宅長盛らに上洛を促した。

魚住隼人【うおずみはやと(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。「摂津池田城の戦い」で戦功を挙げるも、戦傷を受けた。1580年、木下裕久とともに、織田信長の使者として、加賀国に在陣中の柴田勝家のもとに派遣された。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。

大津長昌【おおつながまさ(15??~1579)】

織田信長家臣。通称は伝十郎。別名大津長治。室は丹羽長秀の娘。織田信長の馬廻衆を務め、諸侯や諸将の取次役、奉行職、検使役などと務めた。1576年、「石山本願寺城の戦い」では、佐久間盛信の検使役を務めた。1578年、「播磨神吉城の戦い」では、羽柴秀吉の検使約を務めた。荒木村重が謀反を起こすと、摂津国高槻城の番衆を務めた。1579年、高槻城内で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡田重善【おかだしげよし(1527~1583)】

織田信秀家臣。岡田重頼の男。星崎城主。官途は長門守。小豆坂七本槍のひとり。織田信長に仕えて戦功を挙げた。織田信雄の附家老職に任じされた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡田重孝【おかだしげたか(15??~1584)】

岡田重善の男。官途は長門守。別名岡田直景。1583年、父岡田重善の病没により岡田家の家督を相続した。織田信雄の三家老職を浅井長時、津川義冬らとともに務めた。1584年、織田信雄と羽柴秀吉が対立すると、羽柴秀吉への内応を疑われ、浅井長時、津川義冬らとともに伊勢長島城で謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡田善同【おかだよしあつ(1558~1631)】

岡田重善の次男。官途は伊勢守。室は織田長孝の娘。佐々成政に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。役後、松平元康の馬廻衆として5,000石を領した。松平元康の美濃国蔵入地の代官職に任じられ、美濃国可児郡下切館を構えた。名古屋城築城普請奉行、陣奉行、山田奉行として伊勢神宮造営にも尽力した。1613年、美濃郡代に任じられ、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤を造営した。農民保護政策や治水事業に力を入れ、「濃州国法」を制定した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡田善政【おかだよしまさ(1605~1677)】

岡田善同の男。官途は豊前守。室は佐久間勝之の娘。美濃郡代職、勘定奉行を務めた。1631年、父岡田善同の病没により岡田家の家督を相続した。尾張国の御囲堤築堤を作事する際、美濃国側の作事奉行に任じされた。岡田善同と同様、農民保護政策や治水事業に力を入れ、美濃国の独自の国役普請制度「濃州国法」を制定、運用した。濃州国法は、通常、治水事業に徴発される人足は、村々に一定の割合で課せられていたため農民に大きな負担となっていたのを、人足役を普請所への遠近によって人足の負担の差を認め、さらに人足負担に替えて工事資材の納入を許可した代人足制を認めたなどの制度であり、農民の負担を大幅に軽減した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本治兵衛【おかもとじへい(15??~15??)】

岡本定季の男。

岡本良勝【おかもとよしかつ(1544~1600)】

織田信孝家臣。岡本定季の次男。官途は下野守。通称太郎右衛門尉。別名岡本宗憲。織田信孝が神戸家に養子に入る際、坂仙斎、三宅権右衛門、坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門らとともに神戸家に入った。1582年、「清州会議」後、織田信孝が柴田勝家、滝川一益らと結び、羽柴秀吉と対立した。織田信孝は岐阜城を羽柴秀吉勢に包囲され降伏、織田信孝の母とともに岡田宗憲の母も人質として羽柴秀吉のもとに送られた。再び織田信孝が羽柴秀吉と戦ったため、岡本膳政の母は処刑された。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が大敗すると、岡本宗憲は羽柴秀吉に内応した。1589年、「小田原の役」で戦功を挙げ、伊勢国亀山城22,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、船奉行として兵500を率いて参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して桑名城に籠城した。石田三成勢が壊滅すると、山岡景友の説得に応じて開城後、自刃した。

岡本重義【おかもとしげよし(15??~1600)】

岡本良勝の男。通称主税助。1600年、「関ヶ原の役」では、父岡本良勝とともに石田三成勢に属し、伊勢亀山城に籠城した。石田三成勢が壊滅したため、山岡景友の勧告により亀山城を退去、岡本良勝ともども自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

岡本太郎右衛門【おかもとたろうざえもん(15??~15??)】

岡本良勝の次男。

岡本重勝【おかもとしげかつ(15??~15??)】

岡本重義の男。松平康信に仕えた。

織田信秀【おだのぶひで(1510~1551)】

織田達勝家臣。中島郡勝幡城主。織田信定の男。官途は備後守。通称三郎。室は織田達勝の娘。継室は土田御前。清洲三奉行のひとり。1532年、織田達勝と争ったが、後に和議を結んだ。1532年、今川氏豊の愛知郡那古屋城を攻略、居城とした。1535年、「森山崩れ」で松平清康が討死すると、三河国に侵攻した。1539年、愛知郡古渡城を築城した。1540年、安祥城を攻略した。1541年、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭700貫文を献上した。1548年、愛知郡末森城を築城して居城を移した。1542年、「第一次小豆坂の戦い」で今川義元勢を打ち破り、西三河国を支配下に置いた。美濃国守護職の土岐頼芸が長井規秀によって美濃国を追われると、土岐頼芸を保護して長井規秀勢と戦った1547年、「加納口の戦い」では、稲葉山城を攻撃したが、長井規秀勢の反撃を受け敗退した。1548年、犬山城主織田信清、楽田城主織田寛貞らが謀反を起こすが、これを鎮圧した。1548年、「第二次小豆坂の戦い」では、今川義元勢に敗れた。「第三次安祥城の戦い」で安祥城を失った。1549年、織田信長と長井規秀の娘(濃姫)を政略結婚させることで長井規秀と和議を結んだ。1551年、流行病により末森城で急死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信広【おだのぶひろ(15??~1574)】

織田信秀の男。官途は大隈守。通称三郎五郎。1548年、「第二次小豆坂の戦い」では、先陣を務めたが、今川義元の岡部長教勢の伏兵を受け大敗した。1549年、「第三次安祥城の戦い」では、今川義元の太原雪斎勢20,000余りの包囲を受けるが、本多忠高を討取り撃退する戦功を挙げた。「第四次安祥城の戦い」では、平手政秀らの援軍を受けるも太原雪斎の攻勢により落城、捕縛された。後に、松平元康との人質交換で織田家へ送還された。1556年、斎藤義龍と結んで謀反を画策するが、露見して織田信長に降伏した。1569年、京都に常駐して室町幕府、山科言継、吉田兼見、一条内基との取次役を務めた。1570年、「比叡山焼き討ち」に参陣した。1573年、織田信長の名代として足利義昭との和議をまとめた。1574年、「第三次伊勢長島城の戦い」では、願証寺顕忍や三位法橋を討取ったが、大木兼能勢の突撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信長【おだのぶなが(1534~1582)】

織田信秀の次男。官名は上総介。室は長井規秀の娘(濃姫)。 尾張守護代の織田家の中でも庶流の弾正忠家の生まれであったが、父織田信秀の代から主家や尾張国守護の斯波家をも凌ぐ力をつけた。家督争いの混乱を収めて尾張国を統一した。1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元を討取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権を確立して天下人となった。安土城を築き、また関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を行なった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。1582年、「本能寺の変」で明智光秀に謀反を起こされ討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信行【おだのぶゆき(1536~1557)】

織田信秀の三男。愛知郡末森城主。通称勘十郎。別名織田達成。室は春日刑部の娘。側室は和田備前守の娘。1551年、父織田信秀の葬儀の際、織田信長は仏前で抹香を投げつけるという愚行を行ったのに対し、織田信勝は「折目高なる肩衣、袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」と称され、織田信長とは性格をことにしていた。1555年、弟織田秀孝が叔父織田信次の家臣洲賀才蔵に誤殺されると、織田信次の居城守山城の城下を焼き払った。1556年、織田信長の支援者であった長井規秀が斎藤義龍との戦に敗れて討死すると、織田信行は林秀貞、林通具、柴田勝家らとともに織田信長に謀反を起こすが、「稲生の戦い」で柴田勝家が敗れ、林通具が討死した。敗れた織田信行は末森城に籠城、土田御前の仲介により林秀貞、柴田勝家とともに赦免された。1557年、織田信行は岩倉城主織田信安に内応するが、柴田勝家が織田信長に内通して織田信行の謀反を知らせた。織田信長は清洲城に登城した織田信行を謀殺した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信包【おだのぶかね(1543~1614)】

織田信秀の四男(長野藤定の養子)。官途は上野介。通称三十郎。室は長野藤定の娘。1569年、織田信長の意向で北伊勢を支配する長野工藤家に養子入りして伊勢国上野城を居城とした。その後は織田信長に従って各地を転戦した。1573年、浅井長政が滅亡すると、於市とその娘たちである茶々、初、江を養育した。1575年、「越前一向一揆鎮圧」に参陣した。1578年、「第一次紀州討伐」にも参陣した。1582年、「本能寺の変」で織田信長と織田信忠が討死すると、羽柴秀吉勢に属して伊勢国津城150,000石を領した。1583年、織田信孝らと対立し、柴田勝家や滝川一益方の城を攻略した。1589年、「小田原の役」では、北条氏政、北条氏直父子の助命を嘆願したために羽柴秀吉の怒りをかい改易処分に処された。1598年、丹波国柏原城36,000石を領して羽柴秀吉の御伽衆となった。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。「丹後国田辺城の戦い」に参陣した。役後に松平元康は織田信包の罪を問わず、所領を安堵された。その後、織田信包は大坂城にあって姪孫である羽柴秀頼を補佐した。1614年、「大坂冬の陣」直前に大坂城内で吐血して急死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信治【おだのぶはる(1545~1570)】

織田信秀の五男。中島郡野府城主。1570年、浅井長政、朝倉義景勢が宇佐山城に迫ると、織田信治は京都から援兵2,000余りを率いて参陣した。「宇佐山城の戦い」では、森可成、青地茂綱らとともに戦ったが、衆寡敵せず森可成、青地茂綱とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信時【おだのぶとき(15??~1556)】

織田信秀の六男(織田信康の養子)。官途は玄蕃允。1555年、織田信長は清須城を攻略すると、守山城主織田信光に那古野城を与えた。織田信光が那古野城に転封すると、守山城主には弟織田信次が入った。織田信次の家臣洲賀才蔵が織田信長の弟織田秀孝を誤って射殺してしまい、織田信次はそのまま逐電した。守山城は織田信行勢の佐久間信盛の計略により、角田新五、坂井喜左衛門らが寝返って織田信時勢を引き入れたたため、織田信時が守山城主となった。1556年、坂井喜左衛門の継嗣坂井孫平次が織田信時に重用されるのを妬んだ角田新五は、普請と偽って兵を城内に入れ織田信時を自刃に追い込んだ。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信興【おだのぶおき(15??~1570)】

織田信秀の七男。通称彦七郎。1565年、織田信長の意向で滝川一益ととも鯏浦城、小木江城を築き、伊勢長島一向一揆、服部友貞勢と対峙した。1570年、朝倉義景、浅井長政、足利義昭、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)、石山本願寺、伊勢長島一向一揆らによって信長包囲網が組まれると、織田信興の古木江城も伊勢長島一向一揆衆によって包囲された。織田信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、滝川一益も桑名城に籠城していたため、援軍を送ることができなかった。織田信興も奮戦したが、衆寡敵せず古木江城は落城、討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀孝【おだひでたか(15??~1555)】

織田信秀の八男。通称喜六郎。1555年、庄内川で松川の渡しで、織田信次の家臣洲賀才蔵によって誤って射殺された。織田信次は、織田信長の報復を恐れ逐電した。織田信行は、織田信次の旧臣が籠城する守山城下を焼き払う報復を行ったが、織田信長は、織田信次の罪を許した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀成【おだひでなり(15??~1574)】

織田信秀の九男。別名津田信成。通称半左衛門。織田信長に従って畿内各地を転戦した。1574年、「第二次伊勢長島城の戦い」で伊勢長島一向一揆勢の突撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信照【おだのぶてる(15??~1610)】

織田信秀の十男(中根忠貞の養子)。官途は越中守。別名中根信照。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣したが、羽柴秀吉勢の捕縛された。戦後、再び織田信雄に仕えたが、織田信雄が改易処分に処されると、本多忠勝に仕え、家老職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、大多喜の留守居役を、継嗣織田忠晴とともに務めた。役後、本多忠勝が伊勢国桑名城100,000石を領すると、桒名城の縄張り、町割りなど城下の再整備を行った。1610年、本多忠勝が病没すると殉死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田長益【おだながます(1547~1622)】

織田信秀の十一男。通称は源五郎。別名「有楽斎」。室は平手政秀の娘(雲仙院)。1574年、織田信忠の寄騎衆として知多郡大草城を領した。1581年、「京都馬揃え」では、織田信忠、織田信雄、織田信包、織田信孝、津田信澄の後に続いて参列した。1582年、「武田家征伐」では、木曽口から鳥居峠を攻め、木曽義昌勢を支援して鳥居峠を攻略する戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠とともに二条御所にあったが、織田長益は落延びた。その後、織田信雄に仕え、検地奉行などを務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属して参陣した。戦後、羽柴秀吉と松平元康の和議交渉の取次役を務めた。1590年、織田信雄が改易処分に処されると、羽柴秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌館2,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、継嗣織田長孝とともに兵450余りを率いて大谷吉継、石田三成、小西行長、宇喜多秀家勢と戦い、戸田重政、戸田内記、蒲生頼郷らを討取る戦功を挙げた。役後、大和国内で32,000石を領した。織田長孝は美濃国野村館10,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田長利【おだながとし(15??~1582)】

織田信秀の十二男。通称又三郎。別名津田長利。織田信長の意向で織田信忠勢の寄騎衆を務めた。1574年、「伊勢国長島城の戦い」に参陣した。1581年、「京都御馬揃え」では、織田信長の枝連衆として参列した。1582年、「二条御所の戦い」で織田信忠とともに明智光秀勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信正【おだのぶまさ(1554~1647)】

織田信長の男(村井貞勝の養子)。官途は大隅守。別名帯刀重勝。室は織田信広の娘(恭姫)。側室は村井貞雲の娘。1568年、「観音寺城の戦い」で六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。1574年、「伊勢長島城の戦い」で討死した織田信広の家督を相続した。1582年、「本能寺の変」では、前田玄以とともに二条城にあったが落延びた。1588年、織田信長、織田信忠など、「本能寺の変」で討死にした家臣らの七回忌法要を営んだ。1591年、羽柴秀吉により見性寺の寺社領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信忠【おだのぶただ(1555~1582)】

織田信長の次男。官途は秋田城介。通称勘九郎。側室は塩川長満の娘(鈴)。1567年、父織田信長と武田晴信が同盟を結ぶと、織田信忠と武田晴信の娘(松姫)と婚約が成立した。1572年、織田信長と武田晴信が敵対関係になると、松姫との婚約は解消された。1574年、「長篠の戦い」では、織田信長に従って参陣した。「岩村城の戦い」では、総大将として参陣して、秋山信友を捕縛するなどの戦功を挙げた。1576年、織田信長から織田家の家督と美濃国東部、尾張国の領国を譲られた。1578年、「第一次紀州討伐」では、中野城を攻落す戦功を挙げた。「信貴山城の戦い」では、明智光秀、羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀、松永久通が籠城する信貴山城を攻落した。1578年、「上月城の戦い」では、毛利輝元勢(吉川元春・小早川隆景、宇喜多忠家、村上家海賊衆)61,000余りが上月城を包囲した。織田信長勢は織田信忠を総大将に、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉ら72,000余りを動員したが、決戦は行わず撤退した。1582年、「武田家討伐」では、美濃国、尾張国の軍勢50,000余りを率いて伊那口から侵攻、飯田城、鈴与城、高遠城などを攻略した。武田勝頼、武田信勝らを自刃に追い込み、信濃国、甲斐国を平定した。論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(河内郡を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井郡、水内郡、更科郡、埴科郡、毛利長秀が、信濃国伊那郡を領した。1582年、「本能寺の変」では、二条御所に籠城して明智光秀勢と戦うが、衆寡敵せずに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信雄【おだのぶかつ(1558~1630)】

織田信長の三男(北畠具房の養子)。官途は左近衛権中将。別名北畠信意。室は北畠具教の娘(雪姫)。継室は木造具政の娘。1569年、父織田信長が北畠具教と和議を結ぶと、その娘(雪姫)を娶って養嗣子となった。1575年、北畠具教の隠居により、北畠家の家督を相続した。1576年、織田信長の意向で北畠具教らを謀殺した。1579年、「第一次天正伊賀の乱」では、織田信長に無断で伊賀国に侵攻して大敗を喫した。1581年、「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長が大和国、伊勢国の諸将を動員して伊賀国を平定した。1582年、「本能寺の変」で兵を率いて近江国甲賀郡土山まで進出したが、伊勢国人衆が動揺したため、伊勢国に撤退した。「清洲会議」では、織田秀信を擁立した羽柴秀吉に阻まれ、織田家の家督を相続することができなかったが、尾張国、南伊勢国、伊賀国の三ヶ国1,000,000石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で織田信孝を擁立した柴田勝家と羽柴秀吉が戦うと、羽柴秀吉勢に属して織田信孝を自刃させ、滝川一益を降伏に追い込んだ。松平元康と結び羽柴秀吉と対立した。1584年、羽柴秀吉に内応したとして、家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時らを謀殺した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、松平元康勢とともに羽柴秀吉勢の池田恒興、森長可らを討取ったが、南伊勢国の諸城が羽柴秀吉勢に攻略されると、松平元康に無断で、羽柴秀吉と和議を結んだ。1589年、「小田原の役」後、松平元康が関東地方に転封になると、東海地方への転封を命じられるがそれを拒否して、改易処分に処された。1592年、羽柴秀吉から赦免を受け相伴衆として大和国内で18,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、役後織田秀雄とともに改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して、役後大和国宇陀郡内30,000石と上野国小幡城20,000石を領して、養蚕など産業育成を図った。後に上野国小幡城20,000石は四男織田信良に分知した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信孝【おだのぶたか(1558~1583)】

織田信長の四男(神戸具盛の養子)。別名神戸信孝。室は神戸具盛の娘(鈴与)。1568年、父織田信長が神戸具盛と和議を結ぶと、その娘(鈴与)を娶って養嗣子となった。養子に入る際、織田信長から幸田彦右衛門、岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門ら諸将を附けられ、鹿伏兎定長、関盛信、峯、国府盛種、峰竹右衛門、山路段左衛門、上田主水、野々懸彦之進、吉川九兵衛らは寄騎衆とされた。1572年、神戸具盛の隠居後、神戸家の家督を相続した。1582年、「四国討伐」の大将に任じられると、所領の伊勢国河曲郡、鈴鹿郡から大動員を図り、多くの浪人衆を召し抱えた。副将には丹羽長秀と津田信澄らが任じられた。1582年、「本能寺の変」後、浪人衆や他国衆から逃亡者が相次ぎ戦わずして織田信孝勢は壊滅した。明智光秀の娘婿である津田信澄を謀殺した。1582年、「山崎の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して明智光秀勢と戦った。織田信孝は織田秀信の後見役として美濃国を領した。羽柴秀吉と対立する柴田勝家と結び、柴田勝家と於市との婚儀を仲介した。柴田勝家、滝川一益らと結び、織田秀信を擁し羽柴秀吉勢と戦うが岐阜城を包囲され降伏した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、織田信孝は再度挙兵するが、織田信雄によって居城の岐阜城を包囲され、柴田勝家も北ノ庄城で自刃すると、岐阜城を開城して羽柴秀吉勢に降伏した。尾張国知多郡の大御堂寺で自刃した。辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀勝【おだひでかつ(1568~1586)】

織田信長の五男(羽柴秀吉の養子)。官途は左近衛権少将。別名羽柴秀勝。1579年、羽柴秀吉の養子となった。羽柴秀吉の領地のうち、長浜支配は秀吉より織田秀勝に委託されていた。1582年、羽柴秀吉が備中を攻めると、それに随って備中児島城攻めで初陣を果たし、高松城攻めにも参陣した。織田信長が「本能寺の変」で横死すると「山崎の戦い」では織田信孝と共に弔い合戦の旗印とされ、羽柴秀吉が主導して行った織田信長の葬儀では喪主を務めた。1583年「賤ヶ岳の戦い」「小牧、長久手の戦い」にも参陣した。内藤元種の娘(毛利輝元の養女)と婚約した。織田家領の再分配を決めた「清洲会議」の際には、明智光秀の旧領で京都に近い要地である丹波亀山城を領した。1585年、病弱だったことが災いして病床に就き、丹波国亀山城で病死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田勝長【おだかつなが(15??~1582)】

織田信長の六男(遠山景任の養子)。通称源三郎。別名津田信房。おつやの方は岩村城主遠山景任は継嗣をもうけず病没したため、遠山家を相続させるために、織田勝長を養子に迎えた。1572年、武田晴信の家臣秋山信友によって岩村城が攻略されると、おつやの方は岩村城代となった秋山信友の夫人として迎え入れられることで和議が結ばれた。その際、織田勝長は甲斐国に送られ、武田晴信の人質となった。1581年、武田勝頼が織田信長との和議を図るため、織田信長のもとに返還された。尾張国犬山城主に任じられた。1582年、「武田家討伐」では、武田信忠勢に属して参陣して戦功を挙げた。「二条御所の戦い」で織田信忠とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信秀【おだのぶひで(1571~15??)】

織田信長の七男。室は稲葉貞通の娘。洗礼名は「ペトロ」。美濃国揖斐地方に所領を領した。1582年、「本能寺の変」の際、美濃の仏照寺に落ちて難を避けた。稲葉良通の仲介で羽柴秀吉に仕えた。1586年、任官の礼物として白銀十枚を朝廷に献上した。織田熊之丞とともに大坂でキリスト教に入信した。1587年、「九州征伐」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、東二之丸御後備二十七人衆の筆頭として兵300余りを率いて参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信高【おだのぶたか(1576~15??)】

織田信長の八男。官途は左衛門佐。通称藤十郎。室は佐々成政の娘(光秀院)。1582年、「武田家討伐」では、織田信忠の意向で美濃国垂井に配され、凱旋する織田信忠に一献進上した。「本能寺の変」で織田信長が討死すると、氏家行広に養育された。その後、羽柴秀吉に仕えた。1591年、近江国神崎郡山上内で1,060石を領して黄母衣衆を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、弟織田信貞とともに石田三成勢に属して伏見城攻撃に参陣しため、役後に改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信吉【おだのぶよし(1573~1615)】

織田信長の九男。1582年、「本能寺の変」後、母興雲院とともに小倉にて蟄居していた。1583年、羽柴秀吉に仕え近江国神崎郡高野村や犬上郡宇尾村で2,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。弟織田長次とともに平塚為広勢に属して、兵500余りで大谷吉継勢の前備を務めた。大谷吉継以下平塚為広、織田長次らは討死にしたが、織田信吉は落延びた。役後、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信貞【おだのぶさだ(1574~1624)】

織田信長の十男。官途は雅楽助。通称藤四郎。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、織田信雄の家臣埴原長久に養育された。のちに羽柴秀吉に仕え、近江国内で1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄織田信高とともに石田三成勢に属した。「伏見城の戦い」に参陣しため、役後に改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して戦功を挙げ、松平秀忠に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信好【おだのぶよし(15??~1609)】

織田信長の十一男。官途は左京亮。馬廻衆を務めた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田長次【おだながつぐ(1574~1600)】

織田信長の十二男。通称長兵衛尉。馬廻衆を務めた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。兄織田信吉とともに大谷吉継勢、平塚為広勢とともに戦ったが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田昌澄【おだまさずみ(1579~1641)】

織田信澄の男。通称三左衛門。別名津田昌澄。藤堂高虎に仕えた。1692年、「文禄の役」に参陣した。後に藤堂高虎を去り羽柴秀頼に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎勢と戦いって活躍し、羽柴秀頼から褒賞を受ける。「大坂夏の陣」では、嫡男織田勘七郎が討死した。大坂城落城後、松平方に降伏すると、藤堂高虎のとりなしを受け、松平元康に仕えた。1618年、松平秀忠の馬廻衆として、近江国甲賀郡で2,000石を領した。

織田信糺【おだのぶただ(1555~1633)】

織田信行の次男。通称勝三郎。別名津田信糺。室は春田與右衛門の娘。織田信雄に仕えた。1583年、尾張国内で665貫文を領した。後に蜂須賀家政に仕え、1,000石を領した。

織田信兼【おだのぶかね(15??~1583)】

織田信行の三男。通称新八郎。織田信孝に仕えた。1582年、「本能寺の変」の直後に織田信孝が織田信兼の実兄である織田(津田)信澄を謀殺したが、変わらず織田信孝に仕え続けたけ、最期は織田信孝に殉じた。

織田信重【おだのぶしげ(15??~15??)】

織田信包の男。官途は民部大輔。通称三十郎。室は津川義近の娘。羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1587年、「九州征伐」では、父織田信包の陣代として参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して丹後国田辺城を攻撃したが、役後所領は安堵された。1614年、父織田信包が病没すると、弟織田信則と家督を巡って争い、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信則【おだのぶのり(1599~1630)】

織田信包の三男。官途は式部少輔。室は岡部長盛の娘。1614年、父織田信包の病没により織田家の家督を相続した。相続では、兄織田信重から異議申し立てがなされたが、松平秀忠は織田信則の家督相続を承認した。1620年、大坂城の修築工事を命じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信当【おだのぶまさ(1600~1671)】

織田信包の四男。通称弥十郎。別名織田重直。室は水野守信の娘。1650年、織田信勝の無嗣改易処分に伴って、馬廻衆に取り立てられ、丹波国氷上郡内3,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀信【おだひでのぶ(1580~1605)】

織田信忠の男。官途は左近衛権少将。通称岐阜中納言。室は和田孫太夫の娘。継室は生地真澄の娘(町野)。1582年、「本能寺の変」では、岐阜城に在城していたが、前田玄以、長谷川嘉竹らに保護されて清洲城に落延びた。「清州会議」では、羽柴秀吉に擁立され、織田家の家督を相続した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、人質として叔父織田信孝によって岐阜城に留め置かれが、織田信孝が自刃すると、織田信雄の後見を受けた。1589年、「小田原の役」では、堀秀政勢に属して参陣した。1592年、羽柴秀勝が病没ると、美濃国岐阜城130,000石を領した。1592年、「文禄の役」に参陣して戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。「米野の戦い」では、石田三成の家臣柏木彦右衛門、河瀬左馬之助らの援軍を受け百々綱家、飯沼長資、木造長政、佐藤方政ら6,530余りを率いて率いて、池田輝政、福島正則らの松平元康勢を迎え撃った。飯沼長資が一柳直盛の家臣大塚権太夫を討取るも、衆寡敵せず飯沼長資、冨永勝吉、杉浦重勝らが討死した。織田秀則、織田兵部、斎藤徳元、木造長政、百々綱家、梶川高盛、武藤助十郎、入江左近、飯沼長実、安達中書、山田又左衛門、土方治兵衛、和田孫大夫、津田藤右衛門、十野左兵衛、伊達平右衛門、大岡左馬介らとともに岐阜城に籠城するが、池田輝政の説得を受け開城した。役後、改易処分を受け高野山に追放された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀則【おだひでのり(1581~1625)】

織田信忠の次男。通称左衛門尉。室は羽柴秀勝の娘。洗礼名「パウロ」。1598年、京都妙心寺に見性院を創建した。1600年、「関ヶ原の役」では、兄織田信秀とともに石田三成勢に属して岐阜城に籠城した。岐阜城は、松平元康勢の福島正則、池田輝政らの攻撃を受け枝連衆の織田兵部、津田藤右衛門らとともに奮戦するが落城した。役後、織田信秀が改易処分に処されると、羽柴秀頼に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀雄【おだひでかつ(1583~1610)】

織田信雄の男。官途は参議。1590年、父織田信雄が改易処分に処されると、越前国大野郡亀山城50,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して改易処分に処された。1602年、松平秀忠の意向により、蔵米3,000俵を給された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信良【おだのぶよし(1584~1626)】

織田信雄の四男。官途は兵部少輔。室は下津俸庵の娘。父織田信雄から上野国甘楽郡小幡館20,000石を分与された。城下街や灌漑用水設備の整備など積極的行った。父織田信雄が病没すると、大和国宇陀郡31,200石の所領を巡り、兄織田信良の継嗣織田信昌と弟織田高長の間で家督相続争いが起きた。1623年、長女が松平秀忠の三男松平忠長に嫁いだ。1622年、茶会を催し、佐竹義宣らを招いた。1624年、伊達政宗、毛利秀元らとともに江戸城西丸の松平家光のもとに出仕した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田高長【おだたかなが(1590~1674)】

織田信雄の五男。官途は侍従。室は藪政一の娘。1590年、父織田信雄の改易後、兄織田秀雄、次いで細川忠興、さらに前田利常に寄食した。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利常勢に属して参陣した。兄織田信良の病没により、織田信雄から甥織田信昌の後見役に任じされた。1630年、父織田信雄が病没すると、大和国宇陀郡松山城31,200石を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信為【おだのぶため(15??~1666)】

織田信雄の六男。官途は伊予守。通称又十郎。別名津田信為。岩清水寺の住職を務めた。

織田良雄【おだよしかつ(15??~1651)】

織田信雄の七男。官途は主膳正。別名織田長晴。はじめは祥雲寺の僧侶であり、久蔵主と称した。豊臣秀頼の舎弟扱いであったという。[要出典]後に還俗した。

織田長孝【おだながたか(15??~1606)】

織田長益の男。官途は河内守。通称源二郎。1600年、「関ヶ原の役」では、父織田長益とともに松平元康勢に属した。「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢の戸田重政、戸田内記親子を討取る戦功を挙げ、美濃国大野郡内で10,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田頼長【おだよりなが(1582~1620)】

織田長益の次男。通称孫十郎。父織田長益とともに羽柴秀頼に仕えた。1608年、羽柴秀頼の意向で年賀の使者として江戸城に赴いた。1609年、公家の猪熊教利の逃亡を助けて処罰され所領を失ったがまもなく帰参した。1614年、「大坂冬の陣」では、織田長益とともに大坂城に籠城し、二の丸玉造口などを守備した。自ら率いる部隊内の喧嘩騒ぎにより、松平元康勢の藤堂高虎隊が攻撃を開始して「谷町口の戦い」が起きるが、織田頼長は病気と称して指揮をしなかった。1615年、「大坂夏の陣」では、大坂城を退去して京都に隠遁し、茶の湯に専念して有楽流を継承した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信茂【おだのぶしげ(15??~15??)】

織田信孝の男。官途は肥後守。別名神戸信茂。父織田信孝の自刃後、上野国宮崎城主小幡播磨守に仕えた。1589年、「小田原の役」後、小幡播磨守が没落すると、帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田秀朝【おだひでとも(1601~15??)】

織田秀信の男。通称弥三次郎。別名西山清明。1601年、高野山を追放された織田秀信が紀州向副村善福寺に閑居した頃、西山家の娘梅との間に儲けた庶男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田恒直【おだつねなお(15??~15??)】

織田秀信の次男(隅田忠直の養子)。通称三五郎。別名隅田恒直。母は生地真澄の娘(町野)。1605年、高野山を追放された織田秀信が紀州向副村善福寺に閑居した頃、地元の豪族生地真澄の娘(町野)との間に儲けた嫡男。織田秀信の病没後、町野が隅田忠直に嫁いだため、三五郎は忠直の養子となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

織田信房【おだのぶふさ(15??~1560)】

織田信秀家臣。官途は造酒丞。1542年、「小豆坂の戦い」に参陣した、織田信秀の病没後は織田信長に仕えた。1556年、「稲生の戦い」では、柴田勝家勢に佐々孫介が討たれ、危機に陥った際に森可成とともに奮戦し、勝利に導いた。1560年、「桶狭間の戦い」に参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

落合重清【おちあいしげきよ(15??~1660)】

織田信長家臣。落合重定の男。母は落合市安の娘。新八郎。主膳正。室は吉田豊後守の娘。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕え5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げた。後に松平秀康に仕え10,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

落合重長【おちあいしげなが(15??~15??)】

落合重清の男。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

下石頼重【おろしよりしげ(15??~1582)】

織田信長家臣。通称彦右衛門。馬廻衆のひとり。1576年、津田宗及茶会に牧村利貞、富田一白らとともに列席した。1577年、柴田勝家率いる北陸方面軍の目付役として派遣された。1578年、「摂津有岡城の戦い」では、福富秀勝、古田重然らとともに茨木城主中川清秀の内応工作に尽力した。中川清秀の開城後は、福富秀勝、古田重然ととも茨木城を守備した。1580年、細川藤孝への使者を務めた。福富秀勝、野々村正成とともに使者として中川清秀のもとに遣わされた。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠とともに二条御所に籠城して討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【か】

恒河忠徳【かきかわただとこ(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1576年、村井貞勝を訪れた山科言継より贈品を受けた。

春日源八郎【かすがげんぱちろう(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。

柏原鍋丸【かしわばらなべまる(15??~1582)】

織田信長家臣。小姓衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で討死した。

梶原松千代【かじわらまつちよ(1570~1582)】

織田信長家臣。原源左衛門尉の男。小姓衆のひとり。1582年、「本能寺の変」では、病床にあったが変報を聞いて二条城に馳せ参じた。織田信忠とともに討死した。

梶原平右衛門【かじわらへいえもん(15??~15??)】

織田信忠家臣。1573年、織田信忠が京都に在陣した際、吉田兼和との取次役を務めた。

梶原次右衛門【かじわらじえもん(15??~15??)】

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「信濃高遠城の戦い」で仁科盛信勢と戦い戦功を挙げた。

梶川正教【かじかわまさのり(15??~15??)】

織田信長家臣。梶川正継の男。足利義昭が謀反を起こし、槙島城に籠城した際、先陣を務め戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梶原景久【かじわらかげひさ(15??~1582)】

織田信長家臣。羽黒城主。通称源左衛門尉。1569年、「大河内城の戦い」に参陣した。1570年、「野田城、福島城の戦い」に参陣した。1574年、「第三次長島城の戦い」では、織田信忠勢に属して市江口より攻め込んだが、一揆勢の反撃を受け負傷した。1582年、「鳥居峠の戦い」では、木曾義昌勢を支援して戦功を挙げた。「本能寺の変」で織田信忠を守って明智光秀勢と戦って討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加藤忠景【かとうただかね(15??~1584)】

織田信長家臣。通称太郎右衛門。別名加藤景常。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属して討死した。

賀藤助丞【かとうすけのじょう(15??~15??)】

織田信長家臣。足軽衆のひとり。1553年、「赤塚の戦い」に参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

金森甚七郎【かなもりじんしちろう(15??~1579)】

織田信忠家臣。1579年、織田信忠小姓の佐治新太郎と口論の末、謀殺された。佐治新太郎もまもなく自刃した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

金森義入【かなもりぎにゅう(15??~1582)】

織田信長家臣。1582年、「本能寺の変」では、本能寺で織田信長とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

兼松正吉【かねまつまさよし(1542~1627)】

織田信長家臣。兼松清秀の男。葉栗郡島村館主。通称又四郎。官途は修理亮。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。下級武士であったが、戦功を挙げて馬廻衆として戦功を重ねた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1590年、織田信雄が改易処分に処されると、羽柴秀吉に仕えた。羽柴秀吉の病没後は松平元康に仕えた。1600年、「岐阜城の戦い」で戦功を挙げた。役後、松平忠吉に仕え2,600石を領した。松平忠吉が早世したのち、尾張松平義直に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

狩野又九郎【かのうまたくろう(15??~1582)】

織田信長家臣。1582年、「本能寺の変」で討死した。

兼松正吉【かねまつまさよし(1542~1627)】

織田信長家臣。官途は修理亮。通称又四郎。1565年、佐々平太とともに五ヶ所都合30貫文の所領を宛行われた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

金松久左衛門【かねまつきゅうざえもん(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。丹羽長秀勢に属して夜襲を行ったが、城方の反撃を受け討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

鎌田助丞【かまたすけじょう(15??~1556)】

織田信長家臣。1556年、「稲生の戦い」で討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鎌田江次【かまたえつぐ(15??~15??)】

織田信長家臣。喧嘩がもとで、自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鎌田五左衛門【かまたござえもん(15??~1597)】

織田信長家臣。通称新介。1573年、「長篠の戦い」で、軍律違反を犯して改易処分に処された。後に織田信忠に仕えた。「二条御所の戦い」で、織田信忠の介錯を務めた後、二条御所から落延びた。後に福島正則に仕えた。1597年、「南原城の戦い」で戦功を挙げたが、まもなく病没した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

川口宗吉【かわぐちむねよし(1520~1582)】

川口宗定の男。通称文助。別名川口宗治。室は小島信房の娘。赤母衣衆のひとり。「小豆坂の戦い」、「稲生の戦い」、「浮野の戦い」、「桶狭間の戦い」などで戦功を挙げた。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

川口宗勝【かわぐちむねかつ(1548~1612)】

川口宗吉の男。通称久助。室は福富秀勝の娘。水野信元に仕えた。1563年、柴田勝家勢の先陣を務めた。1564年、織田信長のもとで弓大将を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

河尻秀隆【かわじりひでたか(1527~1582)】

織田信秀家臣。河尻親重の男。官途は肥前守。通称与兵衛。別名川尻鎮吉。1542年、「第一次小豆坂の戦い」では、織田信秀に従って参陣した。1548年、「第二次小豆坂の戦い」に参陣した。織田信秀の病没後は織田信長に仕え、黒母衣衆の筆頭を務めた。1558年、織田信長が弟織田信行を清洲城へ呼び寄せた際、織田信行を謀殺した。1560年、「桶狭間の戦い」に参陣した。1565年、「美濃堂洞城の戦い」では、一番乗りの戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1574年、織田信忠の後見役に任じられ、織田信忠を補佐した。1575年、「長篠の戦い」でも織田信忠の陣代として織田信忠勢の指揮を執った。「岩村城の戦い」では、秋山信友を捕縛する戦功を挙げ、岩村城50,000石を領した。1582年、「武田家討伐」では、織田信忠勢の先陣として戦功を挙げ、甲斐国(河内穴山信君領を除く)220,000石と信濃国諏訪郡36,000石を領した。「本能寺の変」で織田信長が討死すると、甲斐国、信濃国では武田旧臣の一揆が起こった。森長可、毛利長秀が領地を放棄し美濃国に落ち延びたが、河尻秀隆は甲斐国に留まった。その後、甲斐国から落延びる途中、松平元康の煽動を受けた三井弥一郎勢の追撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河尻秀長【かわじりひでなが(15??~1600)】

河尻秀隆の男。官途は肥前守。通称与四郎。別名河尻直次。1582年、「本能寺の変」で織田信長と父河尻秀隆が討死すると、森長可の客将となり、森長可の東美濃の平定戦で戦功を挙げ苗木城10,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。「伏見城の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河尻鎮行【かわしりひろゆき(15??~15??)】

河尻秀隆の次男。松平元康に仕え、馬廻衆として200俵を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

神戸二郎作【かんべじろさく(15??~15??)】)

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「本能寺の変」では、二条御所に籠城して織田信忠とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

神戸賀介【かんべがのすけ(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

神戸市介【かんべいちすけ(15??~1569)】

織田信長家臣。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣して討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

北若【きたわか(15??~15??)】

織田信長家臣。小人衆のひとり。1581年、「京都馬揃え」に参列した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

木全六郎三郎【きまたろくろうさぶろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1556年、「稲生の戦い」で山口又次郎を討取る戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

木下太郎【きのしたたろう(15??~15??)】

織田信長家臣。小姓衆のひとり。1579年、別の小姓衆と喧嘩をお越し織田信長から叱責を受けた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

喜多嶋良滋【きたじまよししげ(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は和泉守。織田信忠に仕え、岐阜城番。1582年、「本能寺の変」後、堀秀政に仕えた。娘は堀秀政に嫁いだ。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

木下祐久【きのしたすけひさ(15??~1584)】

織田信長家臣。通称助左衛門尉。羽柴秀吉の寄騎衆を務めた。1569年、山城国法金剛院の寺領の安堵状を発給した。1572年、大徳寺からの租税を徴収した。1573年、朝倉義景の滅亡後、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益から津田元秀、溝尾茂朝らとともに北ノ庄三奉行職を引き継いだ。1574年、「越前一向一揆」が起こると、守護代職にあった前波吉継を討取った富田長繁ら一揆勢の攻撃を受けた。安居景健、朝倉景胤ら仲介により一揆勢と和議を図り、畿内に落延びた。1582年、「本能寺の変」後も羽柴秀吉勢に属した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉の本隊に属して戦った。1584年、「小牧、長久手の戦い」にも参陣して、羽柴秀次の戦目付を務めたが、水野忠重、丹羽氏次、大須賀康高勢の奇襲を受け羽柴秀次勢は壊滅、撤退を図ったが捕捉され討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

木下嘉俊【きのしたうたのすけ(15??~1584)】

織田刑部大輔の三男。官途は周防守。通称雅楽助。別名織田播磨守。赤母衣衆のひとり。中川重政、津田盛月の弟。1560年、「桶狭間の戦い」に参陣して前田利家、毛利十郎ととも戦功を挙げた。1561年、「森部の戦い」で斎藤義龍の家臣長井新八郎を討取る戦功を挙げた。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、菅屋長頼、原田直政、前田利家、福富秀勝、中川重政、河尻秀隆、湯浅直宗らとともに大河内城を包囲した。1572年、中川重政、津田盛月らが織田信長から追放処分に処された際、連座して失脚した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀次に属して参陣したが、松平元康勢の水野忠重、丹羽氏次、大須賀康高、榊原康政らの攻撃を受け、羽柴秀次勢が壊滅した際、討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

久く利亀【くくりかめ(15??~1582)】

織田信長家臣。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢と戦い討死した。

日下部定好【くさかべさだよし(1542~1616)】

織田信長家臣。日下部定金の男。通称兵右衛門。室は西村久吉の娘。織田信長に仕えていたが、羽柴秀吉と諍いをおこし出奔した。後に松平元康に仕えた。1573年、「長篠の戦い」では、成瀬正一とともに戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、松平元康が甲斐国を領すると、甲斐国奉行衆に任じられた。1590年、松平元康が関東に転封になると、武蔵国鉢形城の代官職に任ぜられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平秀忠の旗奉行を務めた。伏見城留守居役に任ぜられた。

日下部宗好【くさかべむねよし(1574~1633)】

日下部定好の男。官途は大隅守。通称五郎八。室は成瀬正一の娘。普請奉行として各地の城壁の修復した。その後江戸城留守居役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

櫛田忠兵衛【くしだちゅうべえ(15??~15??)】

織田信長家臣。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕え50貫文を領した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

九藤深宮【くとうしんきゅう(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は肥前守。通称源真。別名九藤新左衛門。1578年、松井友き、万見重元とともに、法隆寺東寺に対して段銭を西寺と折半して堤出するように求めた。1575年、「越前一向一揆討伐」に参陣した。

熊【くま(15??~1582)】

織田信長家臣。中間衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢と戦い討死した。

桑原吉蔵【くわばらよしぞう(15??~1582)】

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「信濃高遠城の戦い」で戦功を挙げた。「二条御所の戦い」で討死した。

桑原九蔵【くわばらきゅうぞう(15??~1582)】

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。

桑原家次【くわばらいえつぐ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称四郎左衛門。奉行衆のひとり。1562年、池山信勝、武田左吉とともに、尾張密蔵院領の川成承認の奉行職を務めた。

黒田半平【くろだはんぺい(15??~15??)】

織田信長家臣。1556年、「稲生の戦い」に参陣して、敵将林美作守と一騎打で負傷した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

黒田次右衛門【くろだじえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。赤母衣衆のひとり。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

河野三吉【こうのさんきち(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。丹羽長秀勢に属して夜襲を行い討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

河野氏吉【こうのうじよし(1527~1616)】

織田信長家臣。通称藤左衛門。奉行衆ひとり。坂井利貞、篠岡八右衛門、山口太郎兵衛と組んで奉行職を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

河野氏門【こうのうじかど(1558~1582)】

河野氏吉の男。通称善四郎。馬廻衆のひとり。1582年、「二条城の戦い」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

小俣与吉【こまたよきち(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「二条城の戦い」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

小市若【こいちわか(15??~15??)】

織田信長家臣。市若の男。1581年、「京都馬揃え」に参列した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

小池備後守【こいけびんごのかみ(15??~15??)】

織田信長家臣。

小島兵部少輔【こじまひょうぶのしょう(15??~15??)】

織田信孝家臣。1571年、織田信孝が神戸家の家督を相続した際、高岡城を領した。1582年、「本能寺の変」後、織田信孝の美濃国転封に伴い、神戸城代を務めた。1583年、織田信孝が自刃すると、神戸城は織田信雄の家臣林与五郎の攻撃を受け開城した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

小虎若【ことらわか(15??~1582)】

織田信長家臣。小人衆のひとり。中間衆虎若の男。1582年、「本能寺の変」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

小林家鷹【こばやしいえたか(1531~1612)】

織田信長家臣。官途は民部。別名小林家次。鷹匠のひとり。鷹の道に鍛錬し、織田信長の意向で名を「家鷹」と改めた。1582年、「本能寺の変」後は羽柴秀吉、羽柴秀頼に仕えた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

近藤重勝【こんどうしげかつ(1553~1604)】

近藤重郷の男。万見重元家臣。官途は織部佐。通称四郎右衛門。室は伊藤重雄の養女。1578年、「摂津伊丹城の戦い」で万見重元が討死したため、堀秀政に仕えた。1585年、堀秀政が越前国北ノ庄城を領すと、近藤重勝も加増を受け5,000石を領した。堀秀政の病没後は堀親良に仕えた。1598年、堀親良が越後国蔵王堂城40,000石を領すると、そのうち10,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

近藤政成【こんどうまさなり(1588~1618)】

堀秀政の四男(近藤重勝の養子)。官途は信濃守。室は生駒一正の娘。1600年、松平元康に小姓として仕えた。1604年、養父近藤重勝の病没により近藤家の家督と越後国蔵王堂城10,000石を相続した。1610年、堀忠俊が改易処分に処されると、信濃国高井郡内に転封した。1614年、「大坂冬の陣」では、永井直勝勢に属し戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

近藤重直【こんどうしげなお(1611~16??)】

近藤政成の男。通称百千代。別名近藤重堯。1618年、父近藤政成の病没により近藤家の家督を相続するが、幼少を理由に減封になり5,000石を領した。信濃国高井郡立石館に居を構え交代寄合となった。伯父堀親良が後見役に任じられ、残り5,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

近藤源兵衛【こんどうげんべえ(15??~15??)】

織田信長家臣。1574年、松葉にある所領を欠所とされ、それを岩室小十蔵が領した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

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【さ】

斎藤六大夫【さいとうろくだゆう(15??~15??)】

野々村正成家臣。1582年、野々村正成が織田信長の使者として雑賀に赴いた際、千職坊が砦を捨てて逃亡したため、斎藤六大夫がそれを追いかけ、討取った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

斎藤五八【さいとうごはち(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣したが、夜襲に失敗して討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

坂井政尚【さかいまさひさ(15??~1570)】

織田信長家臣。官途は右近将監。1568年、「勝竜寺城の戦い」で柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成らとともに岩成友通勢と戦い戦功を挙げた。1569年、「大河内城の戦い」で戦功を挙げた。1570年、「近江堅田城の戦い」では、小谷山山麓まで攻め寄せ、街を焼き払った。「姉川の戦い」で、浅井長政勢の突撃を受け継嗣の坂井尚恒が討死した。「志賀の陣」で堅田の猪飼昇貞が降伏したため、安藤右衛門佐、桑原平兵衛らとともに堅田に侵攻すると、朝倉義景の家臣前波景当らの反撃を受けて孤立し、前波景当を返討ちにするなど奮戦したが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

坂井尚恒【さかいひさつね(1555~1570)】

坂井政尚の男。通称久蔵。1568年、「観音寺城の戦い」で六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

坂井越中守【さかいえっちゅうのかみ(15??~15??)】

織田信長家臣。坂井政尚の次男。官途は越中守。1570年、「姉川の戦い」で兄坂井尚恒が討死した。「近江堅田城の戦い」で父坂井正尚も討死したため、坂井家の家督を相続した。織田信忠勢に属して各地を転戦した。1582年、「武田家討伐」では、捕縛された飯羽間右衛門尉を成敗した。「本能寺の変」では、明智光秀勢と戦い二条城で織田信忠とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

坂井利貞【さかいとしさだ(15??~15??)】

織田信長家臣、奉行衆のひとり。尾張国内で奉行職を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

坂口縫殿助【さかぐちぬいのすけ(15??~1570)】

織田信孝家臣。1568年、織田信長が神戸家に三男織田信孝を養子として入れた際、、岡本良勝とともに織田信孝の附家老を務めた。後に織田信長のもとに戻った。1570年、「竪田城の戦い」で坂井政尚らとともに朝倉義景、浅井長政勢と戦って討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

逆川甚五郎【さかがわじんごろう(15??~1582)】

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「二条御所の戦い」で織田信忠とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

佐久間弥太郎【さくまやたろう(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。1569年、「伊勢大河内の戦い」に参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

佐治新太郎【さじしんたろう(15??~1579)】

織田信忠家臣。小姓衆のひとり。1579年、小姓の金森甚七郎と口論の末これを斬り、自身も自刃した。

佐藤三河入道【さとうみかわにゅうどう(15??~15??)】

織田信長家臣。1579年、島田秀満、猪子外記らとともに京都留守居役を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

猿荻甚太郎【さるおぎじんたろう(15??~15??)】

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1575年、「美濃岩村城の戦い」では、織田信忠に従って参陣した。城方の反撃を受けたが河尻秀隆、毛利長秀とともに、これを撃退した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

沢井雄重【さわいかつしげ(15??~1608)】

織田信長家臣。沢井元政の男。官途は修理亮。通称左衛門尉。室は花井三河守の娘。通称左衛門尉。1567年、「稲葉山城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1569年、北畠具教の養嗣子となった織田信雄の傅役となり父沢井元政と合わせ4,400貫を領した。1582年、黒田城14,500貫を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、黒田城を死守して羽柴秀吉勢と戦った。1590年、織田信雄が転封を拒否し改易処分に処されると、尾張清洲城主福島正則に仕えた。1600年、「竹ヶ鼻城の戦い」では、城方の梶原三十郎を調略して、城主杉浦重勝を自刃に追い込んだ。役後、福島正則の広島城転封には従わず、清洲城主となった松平忠吉に仕え3,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐渡民部大輔【さわたりみんぶのたいふ(15??~1574)】

織田信長家臣。1574年、「伊勢長島城の戦い」に参陣した。一向一揆勢の突撃を受け討死した。

佐脇藤右衛門【さわきとうえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。織田信長の出陣の際は、清洲城の留守居役を務めた。織田信広が長井規秀と謀って、織田信長の出陣中の城内に入ろうとした時、城門を閉じて抵抗した。前田利昌の佐脇良之を養子とした。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

芝山次大夫【しばやまじだゆう(15??~15??)】

織田信長家臣。弓衆のひとり。1578年、「摂津有岡城の戦い」に参陣した。平井久右衛門、中野一安とともに、火矢で有岡城下を放火した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

島田秀満【しまだひでみつ(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は但馬守。通称弥右衛門尉。別名島田秀順。1556年、織田信行が降伏すると、村井貞勝とともに織田信長に伝えた。1571年、織田信長に意向で東大寺八幡宮社人と大仏寺人の諸役を免除した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

下方貞清【しもかたさだきよ(1527~1606)】

織田信秀家臣。春日井郡上野城主。官途は左近将監。通称弥三郎。

下方弥三郎【しもかたやさぶろう(15??~1582)】

下方貞清の男。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。

下方源左衛門【しもかたげんざえもん(15??~15??)】

下方貞清家臣。1578年、「播磨志方城の戦い」に参陣した。

下方九郎左衛門【しもかたくろうざえもん(15??~15??)】

下方貞清家臣。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。

志水長次【しみずながつぐ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称悪兵衛尉。奉行衆ひとり。1568年、奥村秀正、跡辺秀次、織田吉清と四人連名で、法隆寺に家銭銀子百五十枚の納入を命じた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

住阿弥【じゅうあみ(15??~1578)】

織田信長家臣。同朋衆のひとり。1578年、不倫を犯したため、「さい女」とともに織田信長に成敗された。

新七【しんしち(15??~15??)】

織田信長家臣。職人頭。1581年、織田信長から小袖を賜った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

新六【しんろく(15??~1582)】

織田信長家臣。中間衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

菅屋長頼【すがやながより(15??~1582)】

織田信長家臣。織田信房の男。通称九右衛門。別名菅屋長行。1569年、岐阜を訪れた山科言継を織田信広、飯尾尚清、大津長昌らとともに饗応した。「伊勢大河内城の戦い」に参陣して前田利家、原田直政、福富秀勝、河尻秀隆、中川重政らとともに戦った。1570年、「姉川の戦い」にも参陣した。「志賀の陣」では、織田信長の意向で、比叡山に在陣している朝倉義景に軍使として遣わされた。1573年、織田信長の暗殺に失敗した杉谷善住坊の処刑を祝重正とともに行った。1574年、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀らとともに東大寺の蘭奢待切り取りの奉行を務めた。1575年、「越前一向一揆討伐」では、前田利家とともに一揆勢1,000余りを討取る戦功を挙げた。1578年、織田信長の意向で家中取締を行い、弓衆、馬廻衆らの家族を安土城に移住させた。「摂津有岡城の戦い」では、堀秀政、万見重元とともに鉄砲隊を率いて有岡城を攻撃した。1581年、菅屋長頼は家臣岩越吉久を能登国に派遣して、温井景隆、三宅長盛らの上洛を促した。その後、能登国内の仕置きを行った。1582年、「武田家討伐」では、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定、福富秀勝らとともに甲州に侵攻したが、武田勝頼が討死したため、戦功を挙げることなく終わった。長谷川秀一とともに総見寺で松平元康の饗応役を務めた。「本能寺の変」では、織田信長が討死したため、二条御所に籠城する織田信忠とともに明智光秀勢と戦ったが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

菅屋四郎右衛門【すがやしろうえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。近習衆のひとり。1571年、織田信長は岐阜に御料所の遺乱停止を求める勅使山科言継の訪を受け、その十九日、山口又左衛門尉と菅屋四郎右衛門尉を善処させるため京へ遣わした。

菅屋勝次郎【すがやしょうじろう(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で二条御所にて討死した。

菅屋角蔵【すがやかくぞう(15??~1582)】

菅屋長頼の男。織田信長の小姓衆。1582年、「本能寺の変」で二条御所にて討死した。

薄田与五郎【すすきだよごろう(15??~1582)】

織田信長家臣。小姓衆にひとり。1582年、「本能寺の変」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

鈴木伊直【すずきこれなお(15??~1618)】

織田信長家臣。通称久右衛門。1573年、「小谷城の戦い」で戦功を挙げた。1584年、美濃国可児郡内で1,000貫を領した。1582年、「本能寺の変」後、松平元康に属した。松平元康が関東に転封になると、下総千葉郡内で1,000石を領した。後に三河国足助で2,000石を領した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

鈴木主馬【すずきかずま(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。丹羽長秀勢に属して夜討を行うが討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

世木弥左衛門【せぎやぜもん(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「本能寺の変」の際、安土城本丸の留守衆役を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

祖父江秀治【そぶえひではる(15??~15??)】

中島郡祖父江城主。通称大膳亮。

祖父江秀盛【そぶえひでもり(15??~1569)】

内藤主計の次男(祖父江秀治の養子)。官途は豊後守。通称孫三郎。室は祖父江秀治の娘。色に溺れて織田信秀の勘気を被り、伊勢国に蟄居した。織田信長から許され、祖父江秀重の後見役を務めた。1569年、「大河内城の戦い」に参陣したが討死した。

祖父江秀重【そぶえひでしげ(1524~1585)】

祖父江秀時の男。通称五郎右衛門尉。

祖父江孫【そぶえまご(15??~1582)】

祖父江秀重の次男。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢と戦い討死した。

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【た】

高木政清【たかぎまさきよ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称左吉。高木義清の養子。馬廻衆のひとり。武田左吉とともにに「織田の両左吉」と並び称された。1573年、「第二次越前討伐」で戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、丹羽長秀、蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷のもとで武者奉行を務め、戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

高木由政【たかぎゆいまさ(15??~15??)】

高木政清の男(河合中務の養子)。官途は右近大夫。通称源左衛門。織田信雄に仕えて小姓頭を務めたが、その後蒲生氏郷、加藤清正、池田輝政に仕えた。池田輝政家臣、河合中務の養子となり1,200石を領した。また、娘は森可政に嫁いだ。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

武田左吉【たけださきち(15??~15??)】

織田信長家臣。奉行衆を務めた。高木左吉と「両左吉」と並び称された。1562年、桑原家次、池山信勝とともに、尾張密蔵院領の川成承認の奉行を務めた。1574年、津田宗及の茶会に塙直政とともに参列した。1578年、「摂津有岡城の戦い」では、大津長昌勢に属して高槻城を守備した。林高兵衛尉、長坂助一とともに綱吉領の代官職を務めた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕え、志田見郷内で1850貫文を領した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

武田喜太郎【たけだきたろう(15??~1582)】

下方貞清の次男(武田左吉の養子)。小姓衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で討死した。

竹尾源七【たけおげんしち(15??~15??)】

織田信長家臣。職人頭。安土築城に従事した。1581年、織田信長から小袖を賜った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

滝山伝三郎【たきやまでんざぶろう(15??~1558)】

織田信長家臣。1558年、「三河品野城の戦い」に参陣して、高木広正に討取られた。

高畠三右衛門【たかばたけさんえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1556年、「稲生の戦い」に参陣して、富野左京進を討取る戦功を挙げた。

高橋藤丸【たかはしふじまる(15??~1582)】

織田信忠家臣。小姓衆のひとり。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。

高橋虎松【たかはしとらまつ(15??~1582)】

織田信長家臣。小姓衆のひとり。1579年、安土城下の旧長谷川秀一邸を与えられた。織田信長から所領を与えられた1582年、「本能寺の変」で討死した。

種村彦次郎【たねむらひこじろう(15??~1582)】

織田信忠家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で二条御所にて討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

近松豊前【ちかまつぶぜん(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内の戦い」に参陣した。丹羽長秀勢に属して討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

津田信益【つだのぶます(15??~1633)】

織田信清の男。官途は左衛門佐。別名織田信益。父織田信清は、織田信長と戦い続けたが、津田信益は罪を許され織田信長に仕えた。1581年、連枝衆として馬揃に参列した。1582年、「本能寺の変」では、蒲生賢秀らとともに安土城本丸の留守衆役を務めた。後に羽柴秀吉に仕えた。後に結城秀康に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津田盛月【つだもりつき(15??~15??)】

織田信長家臣。織田刑部大輔の次男。官途は隼人正。通称左馬允。別名織田信重。黒母衣衆のひとり。1552年、「萱津の戦い」では、織田信友勢の坂井五郎を討取る戦功を挙げた。1556年、「稲生の戦い」では、柴田勝家勢の鎌田勘之丞を討取る戦功を挙げた。1569年、織田信長から足利義昭の警護役に任じされた。兄中川重政と長光寺城主柴田勝家とが領地争いを起こすと、津田盛月は柴田勝家の家臣を斬り、中川重政とともに改易処分に処された。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げるが、弟木下雅楽助が討死した。松平元康と羽柴秀吉の妹朝日姫との縁談を蜂須賀正勝とともにまとめた。1587年、「九州征伐」後、所領を与えられ35,000石を領した。1589年、「小田原の役」では、富田一白とともに北条氏直のもとに和議の使者として派遣されたが、北条氏直が拒否した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

津田信任【つだのぶとう(15??~15??)】

津田盛月の男。官途は左近将監。通称は与左衛門。別名津田信秋。羽柴秀吉に仕え黄母衣衆を務めた。1593年、父津田盛月の病没により津田家の家督と山城国三牧城35,000石を相続した。1594年、伏見醍醐、山科における洛外千人斬り事件の犯人として捕縛され、所領を没収され、前田利家に身柄を預けられ金沢城に蟄居となった。津田家の家督は弟津田信成が13,000石に減封された上で相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

角田勝頼【つのだかつより(15??~15??)】

織田信長家臣。通称新介。奉行衆のひとり。1552年、林信勝、林頼安とともに、加藤延隆に対し、日比野修理、日比野彦左衛門が加藤家の被官であることを認める書状を出した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

角田石見守【つのだいわみのかみ(15??~15??)】

織田信長家臣。矢島六人衆のひとり。1555年、他の六人衆ともに坂井孫八郎を討ち取る戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

恒河久蔵【つねかわきゅうぞう(15??~15??)】

織田信長家臣。津島の人。1558年、織田信長より北方の内、興雲寺領10貫文、堀之内公文名20貫文を与えられた。1562年、「森辺の戦い」に参陣して、日比野清実を討取る戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

八草中条家忠【ちゅうじょういえただ(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は左近将監。通称小一郎。別名中条秀正。1552年、「萱津の戦い」では、柴田勝家勢とともに織田信友勢の坂井甚介を討取る戦功を挙げた。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。1570年、「八相山の戦い」では、佐々成政、簗田広正とともに殿を務め、浅井長政勢と戦い負傷した。1570年、「志賀の陣」に参陣した。1574年、「伊勢長島城の戦い」に参陣した。1577年、秀興山正林寺を創建した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

八草中条秀佳【ちゅうじょうひでよし(15??~1592)】

中条家忠の男。通称弥十郎。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1592年、「文禄の役」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

八草中条勝助【ちゅうじょうかつすけ(15??~15??)】

中条家忠の次男。通称荘助。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉勢の攻撃を受け、足助城に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

八草中条又兵衛【ちゅうじょうまたべい(15??~15??)】

中条家忠家臣。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に中条家忠に従って参陣した。1570年、「八相山の戦い」では、佐々成政、簗田広正とともに殿を務め、浅井長政勢と戦い負傷した。

富田清左衛門【とみたせいざえもん(15??~15??)】

松井友閑家臣。1576年、津田宗及茶会に列席した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

豊瀬与十朗【とよせよじゅうろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1570年、「姉川の戦い」では、織田信長に従って参陣して浅井長政勢と戦った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

豊島十朗【とよしまじゅうろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1569年、坂井利貞とともに、岐阜滞在中の山科言継を訪問した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

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【な】

内藤勝介【ないとうしょうすけ(15??~15??)】

織田信秀家臣。1535年、織田信長が那古野城主に任じらえると林秀貞、平手政秀、青山信昌らとともに家老衆を務めた。1542年、「小豆坂の戦い」では、今川義元勢と戦い戦功を挙げた。1551年、織田信秀の病没後は、織田信長に仕えた。1553年、「赤塚の戦い」では、先手衆として山口教継勢と戦った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中川重政【なかがわしげまさ(15??~15??)】

織田信長家臣。織田刑部大輔の男。官途は駿河守。通称八郎右衛門尉。別名織田忠政。黒母衣衆のひとり。1568年、京畿の所務担当者として明智光秀、木下秀吉・、羽長秀らと連判状を度々出した。1569年、「大河内城の戦い」では、織田信長の馬廻衆にひとりとして参陣した。1570年、織田信長から安土城主に任じられ、六角義賢らの残党に備えた。隣接する長光寺城主柴田勝家と領地争いを起こし、弟津田盛月が柴田勝家の家臣を謀殺さひたため、改易処分に処された。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、松平元康勢に属して武田晴信勢と戦った。1573年、織田信長から罪を許され、再び織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄に属して犬山城を守備したが、池田恒興勢の攻撃を受け敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中野一安【なかのかずやす(15??~1598)】 

織田信長家臣。通称又兵衛。室は今川氏豊の娘。1542年、「小豆坂の戦い」で奮戦、七本槍の一人に数えられた。弓の名手で、平井久衛門とともに弓衆を率いた。1570年、「野田、福島城の戦い」に参陣して弓隊を率いて戦功を挙げた。1572年、虎御前山砦を守備する羽柴秀吉勢が浅井長政から攻撃を受けた際、これを支援した。1578年、「有岡城の戦い」に参陣して、平井久衛門、芝山次大夫と三人で弓衆を指揮した。1580年、佐久間信盛が追放された際、楠木長諳、松井友閑とともに譴責使を務めた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕え高針郷で600貫文を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

丹羽玄政【にわはるまさ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称伝次。1572年、木下祐久、蜂須賀正勝らとともに大徳寺より年貢を徴収した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

丹羽小四郎【にわこしろう(15??~1576)】

原田直政家臣。1576年、「天王寺の戦い」では、原田直政に従い参陣したが、本願寺顕如勢の反撃を受け原田直政とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

野々村正成【ののむらまさしげ(15??~1582)】

織田信長家臣。野々村幸政の男。通称三十郎。別名野々村正利。美濃国の出身。はじめ、長井規秀に仕えた。1562年、「軽海の戦い」では、織田信長勢の織田広良を討取った。その後織田信長に仕えた。1575年、「長篠の戦い」では、前田利家、佐々成政、福富秀勝とともに鉄炮隊を指揮した。1578年、「摂津有岡城の戦い」に参陣、中川清秀の投降を織田信長に仲介した。1582年、紀伊方面に派遣され、土橋攻めの検使を務め、更に本願寺顕如や根来寺、粉河寺へ織田信長の朱印状を伝達した。「本能寺の変」では、織田信忠に従って二条御所に籠城して討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

野々村幸成【ののむらゆきなり(15??~1615)】

野々村幸政の次男。官途は伊予守。別名野々村吉安。羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」では、諸城攻めに戦功を挙げた。役後、黄母衣衆となり3,000石を領して寄騎衆50騎を率いた。1598年、羽柴秀吉の病没後、羽柴秀頼に仕え、七手組のひとりとなった。1614年、「大坂冬の陣」では、大坂城惣構森村口を守備した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、兵1,200を余りを率い奮闘するも、衆寡敵せず大敗して退却した。大坂落城の際には本丸が猛火に包まれて入れず、手前の二の丸から本丸への石垣の上で自刃した。

野々村幸次【ののむらゆきつぐ(15??~1612?)】

野々村幸成の男。

野々村豊前守【ののむらぶぜんのかみ(15??~15??)】

野々村幸政の三男。

野間六蔵【のまろくぞう(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1570年、禁中普請場に、山科言継の訪問を受けた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

野間孫兵衛【のままごべえ(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1570年、山科言継より香需散を贈られた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

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【は】

埴原常安【はいばらつねやす(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は加賀守。通称次郎右衛門尉。信濃国埴原の出身で巡礼として諸国を巡るうちに織田信長に仕えた。1568年、織田信長から岩滝内で20貫の所領を与えれた。1577年、津田一安の持っていた金子、銀子、米を預けられた。

埴原新右衛門【はいばらしんえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。側近のひとり。1558年、織田信長から秋山善右衛門尉宛ての書状に対して添状を出した。1570年、村井新四郎とともに勢多の舟橋の警固役に任じられた。1578年、織田信長に名馬を献上したが、この馬は、織田信長に属した高山友照に与えられた。

萩原修理進【はぎわらしゅりのしん(15??~15??)】

織田信長家臣。1569年、大蔵卿局で細川藤賢らと参会した。

橋本一巴【はしもといっぱ(15??~15??)】

織田信長家臣。中島郡片原一色城主。官途は伊賀守。別名橋本道求。炮術家。織田信長の鉄炮の師匠。織田信長は、弓を市川大介、鉄炮を橋本一巴、兵法を平田三位に付いて学んだ。1558年、「浮野の戦い」では、橋本一巴は弓の達人林弥七郎と二つ玉を用いて鉄砲対弓矢の戦いを演じた。1549年、鉄炮撃ちとして世上に名高いことから織田信長に仕えた。織田信長の意向により国友村の鉄砲鍛冶国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

橋本道一【はしもとみちかず(15??~1597)】

橋本一巴の男。織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、羽柴秀吉に仕えた。1597年、「慶長の役」では、鉄炮頭に任じられたが、まもなく肥前国で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

橋本大膳【はしもとだいぜん(15??~15??)】

橋本一巴の次男。矢合城主。橋本大膳は嗣子なく没して矢合城は廃城となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長谷川与次【はせがわよじ(15??~1600)】

織田信長家臣。官途は丹波守。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1570年、「野田、福島城の戦い」に参陣した。1571年、「」では、佐久間信盛らとともに中筋口から侵攻した。1574年、「第三次伊勢長島城の戦い」では、織田信忠勢に属して参陣した。1578年、織田信長から元旦の茶会に織田信忠、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀らとともに招かれた。1582年、「武田家討伐」でも織田信忠勢に属して参陣した。津田元嘉、関成重、赤座永兼らとともに織田信長の意向で恵林寺焼き討ちを行い、快川紹喜ら150余りを焼き殺した。「本能寺の変」後、羽柴秀吉のもとで、前田玄以とともに織田秀信の傅役を務めた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、遺品として「尻懸」を受け取った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

長谷川秀一【はせがわひでかず(15??~1594)】

織田信長家臣。長谷川与次の男。通称藤五郎。別名長谷川貞長。室は飯尾尚清の娘。1578年、「播磨神吉城の戦い」では、大津長昌、菅屋長頼、矢部家定、万見重元、祝重正と番替で検分を行った。「摂津有岡城の戦い」で万見重元が討死すると、安土の万見邸が与えられた。1580年、猪子高就、福富秀勝、西尾吉次らとともに、高天神城を攻撃忠の松平元康のもとに使者として派遣された。1581年、野々村正成とともに所領の加増を受けた。1582年、「武田家討伐」では、織田信長に従って菅屋長頼、堀秀政、矢部家定、福富秀勝らとともに甲州に侵攻したが、武田勝頼の討死により戦功を挙げることができなかった。1582年、「本能寺の変」では、松平元康とともにの飯盛山城から尾張国熱田まで落延びた。1583年、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、羽柴秀吉勢に属して柴田勝家勢の滝川一益の伊勢峰城を攻撃した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、兵2,300余りを率いて参陣した。羽柴秀次勢に属して三河国に侵攻するが、松平元康勢の攻撃を受け敗走した。1585年、「第二次太田城の戦い」で参陣して戦功を挙げ、越前国東郷城150,000石を領した。1589年、「小田原の役」では、兵3,000余りを率いて山中城を攻撃した。1592年、「文禄の役」では、兵5,000余りを率いて細川忠興等とともに晋州城を攻撃した。「昌原の戦い」で柳祟仁勢を撃破した。1594年、陣中で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

服部六兵衛【はっとりろくべえ(15??~15??)】

織田信忠家臣。1582年、山科言継より香れい散一包を贈られた。「二条御所の戦い」で討死した。

服部弥六郎【はっとりやろくろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1553年、織田信長より買得地の権利を保障された。

服部弥五八【はっとりやごはち(15??~15??)】

織田信長家臣。1578年、「播磨志方城の戦い」に参陣した。

服部平左衛門【はっとりへいざえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。津島の人。1561年、「森部の戦い」に参陣して、敵将の長井甲斐守を討取る戦功を挙げた。

服部小藤太【はっとりことうた(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1566年、織田信長から、新儀の諸役や諸棟別銭を免除された。1582年、「二条御所の戦い」で織田信忠とともに討死した。

服部一忠【はっとりかずただ(15??~1595)】

織田信長家臣。丹羽郡大赤見館主。通称小平太、別名服部春安。馬廻衆のひとり。1560年、「桶狭間の戦い」では、今川義元に斬りつけたが横槍を受け負傷した。今川義元の頸級は毛利良勝が挙げた。1582年、「本能寺の変」後は、黄母衣衆として羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、二重堀撤退の際、戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」後、伊勢国一志郡松坂城35,000石を領して、羽柴秀次に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して、自刃した。

花井右衛門尉兵衛【はないうえもんのじょうびょうえ(15??~15??)】

織田信長家臣。1555年、一雲軒とともに、尾張星崎、根土の今川義元勢に寝返った者の所領を欠所するため、調査を行った。後に織田信雄に仕えて200貫を領した。

原田直政【はらだなおまさ(15??~1576)】

織田信長家臣。春日井郡大野木城主。官途は備中守。通称九郎左衛門。別名塙直政。後室は柴田勝家の娘。赤母衣衆のひとり。1568年、織田信長の上洛後、吏僚として畿内の政務を担当した。蘭奢待下賜の際の御奉行を務めた。1574年、南山城国守護職、大和国守護職に任じられた。「石山本願寺の戦い」、「伊勢長島城の戦い」、「高屋城の戦い」、「越前一向一揆討伐」に参陣して戦功を挙げた。1576年、「天王寺の戦い」に明智光秀、荒木村重、細川藤孝、三好康長らとともに参陣したが、本願寺顕如勢の伏兵を受け討死した。原田直政の討死により織田信長勢は壊滅の危機に陥ったが、織田信長が参戦により戦線を立て直した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原田安友【はらだやすとも(1556~1629)】

原田直政の男。通称八右衛門。別名塙安友。織田信長の家臣として槇島城を守備した。その後、佐々成政に仕えた後、羽柴秀吉に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原田安弘【はらだやすひろ(15??~1576)】

原田直政家臣。通称喜三郎。別名塙安弘。原田直政が南山城と大和国守護職に任じなれるとこれを補佐した。1570年、「小谷城の戦い」では、太田牛一らとともに殿を務めた。1576年、「天王寺の戦い」で原田直政とともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原田小七郎【はらだこしちろう(15??~1576)】

原田直政家臣。1575年、原田直政が大和国守護職に任じられると、原田直政の陣代として拠山城を拠点に南山城衆と大和衆を支配した。1576年、「天王寺の戦い」で、本願寺顕如勢と戦い原田直政とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

林高兵衛【はやしこうべえ(15??~15??)】

織田信長家臣。奉行衆ひとり。1579年、武田佐吉、長坂助一とともに山城国の代官職を務めた。武田佐吉、長坂助一とともに、石清水八幡宮造営を命じられた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

彦一【ひこいち(15??~1582)】

織田信長家臣。中間衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

平井久右衛門【ひらいきゅうえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。弓衆ひとり。1561年、「三河梅ヶ坪城の戦い」で戦功を挙げた。1578年、「有岡城の戦い」に参陣した。1581年、「京都馬揃え」に参列した際、100人の弓衆を、中野一安と二手に分けて率いた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

平野新左衛門【ひらのしんざえもん(15??~1582)】

織田信忠の家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。

平松助十郎【ひらまつすけじゅうろう(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1580年、織田信長から安土城下に屋敷地を与えられた。

比留正元【ひるまさもと(15??~1577)】

織田信長家臣。通称与十郎。織田信長に仕え、丹波国笹郷を領した。

広葉【ひろは(15??~15??)】

織田信忠家臣。鷹匠のひとり。1578年、織田信忠の使者として織田信長に鷹を献上して、織田信長より服を賜った。

福富秀勝【ふくずみひでかつ(15??~1582)】

織田信長家臣。福富貞家の男。通称平左衛門尉。別名福富貞次。室は朝倉景紀の娘。赤母衣衆のひとり。1562年、「軽海の戦い」に参陣した。1569年、「大河内城の戦い」に参陣した。1570年、「第一次越前討伐」に参陣した。1575年、「長篠の戦い」では、佐々成政、前田利家、野々村正成とともに鉄炮隊を指揮した。1578年、「第一次紀州討伐」に参陣した。1578年、「有岡城の戦い」では、古田重然、下石頼重らともに検使として参陣して、茨木城主中川清秀の投降に尽力した。1580年、猪子高就、長谷川秀一、西尾吉次とともに遠江国の松平元康もと使者として派遣された。1581年、菅屋長頼とともに能登国内の仕置を行った。1582年、「武田家討伐」では、菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定とともに織田信長の馬廻衆として参陣したが、戦火を交えることなく帰還した。「本能寺の変」では、明智光秀勢に阻まれ、二条御所で織田信忠とともに籠城したが、村井貞勝らとともに討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伏屋市兵衛【ふせやいちべえ(15??~15??)】

織田信長家臣。葉栗郡伏屋館主。1581年、織田信忠より、小新国領名田方を宛行われた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

古江加兵衛【ふるえかへえ(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1570年、「姉川の戦い」で戦功を挙げた。不破光治から、小村喜左衛門尉と連名で書状を受けた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

古川久介【ふるかわきゅうすけ(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、丹羽長秀勢に属して夜討ちを行い討死した。

堀田左内【ほったさない(15??~15??)】
 
織田信長家臣。鑓衆のひとり。伊藤長久、城戸小左衛門とともに、織田家の鑓三本と称された。

堀田正道【ほったまさみち(15??~15??)】

織田信秀家臣。官途は加賀守。通称弥三郎。中島郡の豪族衆。織田信秀の病没後は、織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕え、中島郡内で2,460石余りを加増された。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

堀田勝家【ほったかついえ(15??~15??)】

織田信長家臣。堀田正光の男。津島の人。1582年、「本能寺の変」後、津島に戻り帰農した。後に松平元康に仕えた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

堀田一継【ほったかずつぐ(1550~1630)】

織田信長家臣。官途は若狭守。通称権右衛門。別名本田重武。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕え鷹匠頭を務めた。河内国などで5,000石領した。1589年、「小田原の役」では、北条氏政、北条氏照が自刃する際、検使を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して加増を受け8,880石を領した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

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【ま】

真木宗十郎【まきむねじゅうろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1560年、「桶狭間の戦い」では、丹下砦に籠城した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

真木与十郎【まきよじゅうろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1560年、「桶狭間の戦い」では、丹下砦に籠城した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

松井友閑【まついゆうかん(15??~15??)】

織田信長家臣。官途は宮内卿法印。清須の街人だったが織田信長に抜擢され、吏僚として活躍し右筆、堺の代官職などを歴任した。寺社や諸侯との取次役を務めた。1574年、正倉院の名香「蘭奢待 (らんじゃたい) 」を織田信長が拝受するときの奉行をつとめた。1580年、本願寺石山城が開城する際、目付として活躍した。また織田信長の名物茶器収集に尽力した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1586年、堺政所を罷免された。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

松浦亀介【まつうらかめすけ(15??~15??)】

織田信長家臣。1556年、「稲生の戦い」では、織田信長に従って参陣した。織田信次の家臣角田新五を討取る戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

松岡九郎二郎【まつおかくろうじろう(15??~15??)】

織田信長家臣。黒母衣衆のひとり。1561年、「軽海の戦い」に参陣した。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、山城国淀城の留守居役を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

松波三河守【まつなみみかわのかみ(15??~15??)】

織田信長家臣。1553年、山科言継の東国に下向する際、松波三河守への進物を準備した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

松波七郎左衛門【まつなみしちろうざえもん(15??~15??)】

松波三河守の男。

松村与右衛門【まつむらよえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。職人衆のひとり。1581年、画家の狩野永徳、大工棟梁岡部又右衛門とともに、織田信長から褒美を受けた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

松本為足【まつもといそく(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1582年、「本能寺の変」では、安土城二の丸の守備した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

真野重吉【まのしげよし(15??~1571)】

織田信長家臣。通称金右衛門。

真野兵部【まのひょうぶ(15??~15??)】

織田信長家臣。津島神社官。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

真野膳二郎【まのぜんじろう(15??~15??)】

真野兵部の男。1571年、織田信長から神社官職、田畑、屋敷を安堵された。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

万見重元【まんみしげもと(15??~1576)】

織田信長家臣。神子田長門守の男。通称仙千代。織田信長のもとで諸侯や諸将の取次役を務めた。1576年、「神吉城の戦い」では、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、菅屋長頼とともに検使を務めた。荒木村重が謀反を起こすと、松井友閑、明智光秀とともに糾問使として有岡城に派遣された。「摂津有岡城の戦い」では、織田信長に従って参陣した。鉄砲隊を堀秀政、菅屋長頼とともに指揮して、石垣に迫り討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

水野九蔵【みずのきゅうぞう(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1578年、「播磨神吉城の戦い」で大津長昌、長谷川秀一、菅屋長頼らとともに検使を務めた。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

水野宗介【みずのそうすけ(15??~1582)】

織田信長家臣。1582年、「二条御所の戦い」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

水野大膳大夫【みずのだいぜんだいふ(15??~15??)】

織田信長家臣。1570年、「比叡山の戦い」に参陣した。1578年、「第一次紀州討伐」に参陣した。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕え1,800貫文を領した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

溝口富介【みぞぐちとみすけ(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、丹羽長秀勢に属して夜襲を行い討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

宮田彦次郎【みやたひこじろう(15??~1582)】

織田信忠家臣。1582年、「二条御所の戦い」で織田信忠とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

宮西遊左衛門【みやにしゆうざえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。職人頭。安土城の築城に功を挙げた。1581年、織田信長より褒美を受けた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

明院良政【みょういんりょうせい(15??~15??)】

織田信長家臣。右筆、奉行職を務めた。1564年、織田信長からの徳山則秀宛ての書状に副状を出した。1565年、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、村井貞勝とともに、佐々平太、兼松正吉への30貫文の宛行を行った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

毛利良勝【もうりよしかつ(15??~1582)】

織田信長家臣。通称新左衛門。別名毛利秀高。黒母衣衆のひとり。1560年、「桶狭間の戦い」では、負傷した服部一忠を助け、今川義元の頸を取る戦功を挙げた。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。1582年、「武田家討伐」に参陣した。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠に従って二条御所に籠城するが、明智光秀勢の攻撃を受け討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。(Wikipedia)」。

村井貞勝【むらいさだかつ(15??~1582)】

織田信長家臣。京都所司代。通称吉兵衛。官途は民部少輔。行政手腕に長けていたため、織田信長から信任を受けた。1556年、織田信長が織田信行の謀反を鎮圧すると、島田秀満とともに織田信行と和議の交渉を行った。西美濃三人衆降誘の際の人質受け取りや足利義昭の庇護を担当した。織田信長が足利義昭を擁して上洛すると明院良政、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀らの諸将とともに二条城や京都御所の造営、その他社寺との折衝、諸政務などを担当した。1573年、織田信長から京都所司代に任ぜられ、松井友閑、武井夕庵、明智光秀、塙直政ら行政官僚らとともに、京都の治安維持や朝廷、貴族、各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、京都に関する行政の全てを任された。1576年、二条城の普請奉行に任じられた。1578年、京都の町人に御所の築地塀の修復に協力するよう命じ、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠とともに二条御所に籠城して明智光秀勢と戦ったが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

村井宗信【むらいむねのぶ(15??~1582)】

村井貞勝の弟。通称新右衛門尉。織田信長の上洛後、兄村井貞勝とともに京都で政務を担当した。1576年、吉田兼見から30疋を贈られた。吉田兼見から道普請免除の要請を受け、村井貞勝に取り次いだ。1582年、京都大徳寺で行われた禅師号の執奏で、宗信が馳走役を務めた。「本能寺の変」では、織田信忠とともに二条御所で明智光秀勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

村井貞成【むらいさだなり(15??~1582)】

村井貞勝の男。通称作右衛門尉。別名村井貞盛。織田信長の馬廻衆を務めた。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。父村井貞勝が京都所司代に任じられると、その補佐を務めた。1581年、「京都御馬揃え」に参列した。1582年、「本能寺の変」では、村井貞勝や弟村井清次らとともに妙覚寺にいた織田信忠のもとに駆けつけ、二条御所に籠城して、明智光秀勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

村井清次【むらいきよつぐ(15??~1582)】

村井貞勝の次男。別名村井専次。1582年、「本能寺の変」では、父村井貞勝や兄村井貞次とともに織田信忠のいる妙覚寺に駆けつけ、二条御所に籠城して明智光秀勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

村井清三【むらいせいぞう(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1570年、親王御所での宴会に列席した。村井貞勝が京都所司代として在京すると、村井清三もこれに従って京に滞在し村井貞勝への取次役を務めた。1576年、吉田兼見から20疋を贈られた。1578年、村井貞勝の継嗣村井貞成と対立して追放されが、翌年には許され村井貞勝のもとで政務を行った。1582年、「本能寺の変」後、織田信孝の意向で、桑原貞也とともに京都粟田口に明智光秀、斎藤利三の頸塚を造営した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

村垣徳室【むらがきとくしつ(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1570年、作事場を訪れた山科言継と雑談した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

村井又兵衛【むらいまたべえ(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1577年、前大納言中山孝親に進物を送った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

村井又左衛門【むらいまたざえもん(15??~15??)】

村井貞勝家臣。1576年、山科言継より香需散を贈られた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

村井専次【むらいせんじ(15??~1582)】

村井貞勝家臣。織田信長の在京の時には取次役を務めた。

村田将監【むらたしょうげん(15??~15??)】

松井友閑家臣。1576年、津田宗及茶会に列席した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城本丸広間の番衆を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

森小介【もりこすけ(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1560年、「桶狭間の戦い」に参陣した。

森寺秀勝【もりでらひでかつ(15??~15??)】

織田信秀家臣。通称藤左衛門。

森寺忠勝【もりでらただかつ(15??~1599)】

森寺秀勝の男。通称政右衛門。1582年、「本能寺の変」後、池田恒興に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、犬山城代を務めた。

森寺長貞【もりでらながさだ(1588~1606)】

池田長吉の次男(森寺忠勝の養子)。通称主水。室は森寺忠勝の娘。1599年、養父森寺忠勝が病没した際、継嗣がいなかったため、池田輝政の意向で森寺長貞が森寺忠勝の娘を娶り森寺家の家督と7,000石を相続した。1600年、「関ヶ原の役」では、池田輝政の意向で、石黒武左衛門が陣代となり森寺長貞勢を率いて参陣した。1606年、森寺長貞が病没すると、内室の(森寺忠勝の娘)は松平元康の馬廻衆能勢頼隆に再嫁した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【や】

矢島四郎右衛門【やじましろうえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。矢島六人衆のひとり。1555年、矢島六人衆の坂井孫八郎を討取った。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

矢島五郎右衛門【やじまごろうざえもん(15??~15??)】

佐々成政家臣。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

矢代勝介【やだいしょうすけ(15??~1582)】

織田信長家臣。関東出身の馬術家。1581年、爆竹、馬揃えに参列した。1582年、「本能寺の変」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

矢部家定【やべいえさだ(15??~15??)】

織田信長家臣。通称善七郎。室は雲林院祐基の娘。長谷川秀一とともに諸事に用いられた。1570年、「姉川の戦い」後、織田信長が若狭国に侵攻した際、若狭国人衆の本郷泰茂との取次役を務めた。1572年、妙心寺寺領の安堵を奉行の島田秀満、村井貞勝と室町幕府御供衆の上野秀政に報告した。1577年、謀反を起こした松永久秀の人質を福富秀勝とともに成敗した。謀反を起こした、荒木村重の説得を福富秀勝、佐久間信盛、堀秀政らとともに行った1579年、「安土宗論」では、浄厳院の警固役を務めた。1582年、1582年、「武田家討伐」で織田信長は、菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、福富秀勝の五人が馬廻を率いて甲州に侵攻したが、戦闘を行うことはなかった。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、羽柴秀吉勢に属した。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。生駒親正、山内一豊らとともに尾張国柏井の砦を守備した。1587年、「九州征伐」にも参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢部定政【やべさだまさ(15??~16??)】

本郷泰茂の次男(矢部家定の養子)。官途は豊後守。養父の矢部家定は、菅屋長頼、長谷川秀一、福富秀勝、堀秀政らとともに織田家奉行五人衆として織田信長に仕えた。1570年、父本郷泰茂は若狭国大飯郡本郷館主だったが、矢部家定が仲介により織田信長に属した。1582年、「本能寺の変」後、矢部家定とともに羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城二の丸を守備して10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。「伏見城の戦い」、「大津城の戦い」で戦功を挙げた。役後、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山口小弁【やまぐちこべん(15??~1582)】

織田信忠家臣。小姓衆のひとり。1582年、「高遠城の戦い」で戦功を挙げた。「二条城の戦い」で織田信忠とともに討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山口太郎兵衛【やまぐちたろべい(15??~15??)】

織田信長家臣。1574年、尾張国内での街道、橋、上水の整備を命じられた。1575年、織田信忠に属した。1579年、織田信忠から西美濃国内で街道、橋の補修を命じられた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山口取手介【やまぐちとりでのすけ(15??~1556)】

織田信長家臣。1556年、長井規秀を支援するため、斎藤義龍勢と戦いで討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山口半四郎【やまぐちはんしろう(15??~1582)】

織田信忠家臣。1582年、「二条城の戦い」で討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山口飛騨守【やまぐちひだのかみ(15??~1572)】

織田信長家臣。小姓衆のひとり。河尻秀隆とともに織田信行を謀殺した。1560年、「桶狭間の戦い」に参陣した。その後、織田信長の勘気を蒙って出奔した。1572年、「三方ヶ原の戦い」では、長谷川橋介、佐脇良之、加藤弥三郎とともに松平元康勢に属して討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山口守孝【やまぐちもりたか(15??~15??)】

織田信長家臣。1560年、「桶狭間の戦い」では、丹下砦を守備した。1561年、「軽海の戦い」に参院した。娘は山岡景佐に嫁いだ。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山口弥七郎【やまぐちやしろう(15??~15??)】

織田信長家臣。奉行衆のひとり。1571年、岐阜に下向した山科言継を坂井隼人とともに饗応した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山崎平三郎【やまざきへいさぶろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1575年、織田信忠に属した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山下三右衛門【やましたさんえもん(15??~15??)】

織田信長家臣。1568年、織田信孝が神戸家に婿養子に迎えられる際に附られた家臣。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田勝盛【やまだかつもり(1538~1574)】

織田信長家臣。山田左衛門尉の男。通称三左衛門。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、柴田勝家勢に属してに参陣した。1570年、「比叡山の戦い」に参陣した。1572年、「河内交野城の戦い」に参陣した。1574年、「長島城の戦い」では、織田信忠勢に属して参陣した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田左衛門尉【やまださえもんのじょう(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、尺限廻番衆として参陣した。1570年、「越前討伐」に参陣した際、滝川彦右衛門とともに引壇城を破却した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田七郎五郎【やまだしろうごろう(15??~15??)】

織田信長家臣。1554年、「清州城の戦い」に柴田勝家の足軽衆として参陣した。1567年、織田信長から島内10貫文の所領を宛がわれた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田治部左衛門【やまだじぶざえもん(15??~1556)】

織田信長家臣。1555年、織田信次が織田秀孝を誤殺して出奔した後、織田信長勢に属して守山城を攻撃した。1556年、「稲生の戦い」では、侍大将のひとりとして参陣したが、織田信行の家臣柴田勝家勢と戦い討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田大兵衛【やまだたへい(15??~1569)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、丹羽長秀勢に属して参陣したが、夜討ちに失敗して討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田半兵衛【やまだじはんべえ(15??~15??)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1568年、「池田城の戦い」で戦功を挙げた。1570年、「第一次越前討伐」では、佐々成政とともに殿を務めた。1574年、津田宗及の茶会に参列した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山田弥太郎【やまだやたろう(15??~1582)】

織田信長家臣。馬廻衆のひとり。1569年、「伊勢大河内城の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

弥六【やろく(15??~1582)】

織田信長家臣。中間衆のひとり。1582年、「本能寺の変」で討死した。

湯浅直宗【ゆあさなおむね(1545~1582)】

織田信長家臣。室は中島主水正の娘。馬廻衆のひとり。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げた。1569年、「伊勢大河内城の戦い」では、尺限廻番衆として参陣した。1570年、「春日井堤の戦い」で一向一揆勢と戦った。1572年、「伊勢長島城の戦い」に参陣した。1573年、「長篠の戦い」では、猪子高然とともに鉄炮隊を率いた。1578年、「有岡城の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」では、洛中の宿に滞在していたが、本能寺に向ったが討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

余語勝直【よごかつなお(15??~15??)】

織田信長家臣。余語市右衛門の男。通称久兵衛。子1559年、伊勢神宮に田地五段を寄進した。1580年、織田信長から安土城下に屋敷地を与えられた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

横井時泰【よこいときやす(15??~16??)】

織田信長家臣。海西郡赤目城主。通称伊織。1574年、岐阜城に忍び入った賊を討取る戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕え1,800貫文を領した。1590年、織田信雄が改易処分に処されると、羽柴秀吉に属した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、徳永寿昌ととに福束城を攻略した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

吉田家次【よしだいえつぐ(15??~15??)】

織田信長家臣。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

吉田家隆【よしだいえたか(15??~15??)】

吉田家次の男。官途は主水。別名吉田家澄。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。1590年、織田信雄が改易処分に処されると、羽柴秀吉に属した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1598年、羽柴秀吉の病没後は松平元康に仕えた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

吉田平内【よしだ(15??~15??)】

織田信長家臣。1576年、安土城を築城する際、石奉行職を務めた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

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【資料Ⅰ】


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【資料Ⅱ】


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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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