2015年9月10日木曜日

戦国架空人名事典(北沢秋編)

----------------------------

【あ】

愛吾姫【あいごひめ(15??~15??)】

仁科盛明の側室。

会田小次郎【あいだこじろう(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1550年、「中山平の戦い」では、小笠原長時勢に属して参陣した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

青柳頼長【あおやぎよりなが(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1550年、「中山平の戦い」に小笠原長時勢に属して参陣した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

青柳姫【あおやぎひめ(15??~15??)】

仁科盛明の室。

赤沢経康【あかざわつねやす(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1550年、「中山平の戦い」に小笠原長時勢に属して参陣した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

赤塩左馬介【あかしおさまのすけ(15??~15??)】

石堂一徹家臣。1535年、「花里城の戦い」で戦功を挙げた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

麻場茂能【あさばよししげ(15??~15??)】

石堂一徹家臣。別名「しげ」。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

吾妻清綱【あずまきよつな(15??~15??)】

村上義清家臣。1550年、「砥石城の戦い」では、矢沢総重、山田国政とともに村上義清の援軍が到着するまで武田晴信勢の攻撃から砥石城を守った。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

厚芝源吾【あつしばげんご(15??~15??)】

宮坂康高家臣。1550年、「第一次深志城の戦い」後、家中に流れる宮坂康高の内応の噂を宮坂康高に伝えた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

甘利虎泰【あまりとらやす(15??~15??)】

武田晴信家臣。1548年、「第一次上田原の戦い」で村上義清勢の反撃を受け討死した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

網倉道雪【あみくらどうせつ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、馬場信春勢に属して深志城に籠城して枡形を守備した。遠藤吉弘勢の攻撃を受け枡形を放棄した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

有坂信成【ありさかのぶなり(15??~15??)】

上野国碓氷郡有坂城主。1533年、村上義清に謀反を起こした有坂義春に援軍を差向けた。参考文献:『奔る合戦屋』by北沢秋。

有坂義春【ありさかよしはる(15??~15??)】

佐久郡有坂城主。1533年、上野国碓氷郡の有坂信成から児玉秋次郎率いる兵500余りの支援を受け、村上義清に謀反を起こした。石堂一徹の計略により、三の丸と二の丸を攻略されて、抵抗を諦め翌日落城した。有坂義春は枝連衆とともに上野国に落延びた。参考文献:『奔る合戦屋』by北沢秋。

飯森信綱【いいもりのぶつな(15??~15??)】

石堂一徹家臣。別名「のぶ」。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

飯森春盛【いいもりはるとき(15??~15??)】

小笠原長時家臣。埴原城主。石堂一徹に内応した。1550年、「中山平の戦い」で小笠原長時勢が大敗すると埴原城に落延びたが、武田晴信勢3,000余りに包囲され自落した。参考文献:『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

石川兵部【いしかわひょうぶ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、武田晴信勢の安曇郡侵攻を前に遠藤吉弘を味方に付けるべく、遠藤吉弘のもとに派遣された使者。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

石曾根信勝【いしそねのぶかつ(15??~15??)】

安曇郡豪族衆のひとり。1550年、石堂一徹勢600余りが安曇郡に侵攻すると、牛越正信、務台雅景らとともに降伏したが、日ごろの統治が過酷で農民からの怨嗟の声が大きかったため、降伏が認められず、石堂一徹勢から攻撃を受ける前に落延びた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

石堂龍紀【いしどうたつのり(15??~15??)】

村上義清家臣。埴科郡石堂館主。村上義清の勘定奉行で次席家老職として1,400石を領した。平時は村上義清の勘定奉行の責任者として村上家の財政を司り、戦時には荷駄衆の兵站を管理した。また、石堂膏2,000箱(80文)、善光寺膏3,000箱(100文)を北信濃国一円に販売することにより、年間460貫(2,300石)余りの収入を得た。15??年、村上義清の意向により、石堂惣領職1,000石を石堂一徹、継嗣石堂輝久には勘定奉行、次席家老職と500石を譲り別家を興させた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

石堂輝久【いしどうてるひさ(15??~15??)】

石堂龍紀の男。武芸では弟石堂一徹には遠く及ばないが、算術の才は父石堂龍紀に匹敵する能力を持つ。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

石堂一徹【いしどういってつ(1514~15??)】

石堂龍紀の次男。室は菊原錦吾の娘(朝日姫)。六尺二寸、二十六貫(98㎏)の巨漢。1533年、「有坂城の戦い」では、有坂城の大手門と三の丸を攻略する戦功を挙げた。村上義清が石堂一徹に相談することなく武田信虎を挑発し、佐久郡に武田信虎勢の侵攻を招いた。その際、病気療養中の父菊原錦吾を見舞うため、実家に里帰りしていた朝日姫と青葉が戦に巻き込まれ失った。石堂家の家督を兄石堂輝久に譲り村上義清のもとから退去した。1549年、遠藤吉弘に軍配者として仕えた。遠藤吉弘の出陣中に高橋広家、高橋利家兄弟の奇襲を受けたが、これを討取る戦功を挙げた。周辺豪族衆を次々に攻略して、遠藤吉弘を24,000石を領する諸侯に押し上げた。1550年、「中山平の戦い」で遠藤吉弘が小笠原長時勢に属すると、それに従って参陣した。小笠原長時勢が仁科盛明の内応により大敗すると、殿を務め、遠藤吉弘勢の撤退を助けた。仁科盛明に降伏を勧められるが、それを断り犬甘城に夜営する仁科盛明勢を襲った。仁科盛明を降伏させて安曇郡を平定すると、村上義清と結んだ。「深志城の戦い」では、遠藤吉弘、村上義清、小笠原長時とともに深志城を包囲するが、武田晴信勢の佐久郡侵攻の噂に惑わされ村上義清勢が撤退すると、遠藤吉弘勢は孤立した。深志城を守る馬場信春の支援に来た宮坂康高勢2,000余りを打ち破り、捕縛した宮坂康高を解き放ち武田晴信勢に相互不信の芽をばら撒いた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』、『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

石堂いく【いしどういく(15??~15??)】

石堂龍紀の娘。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

泉澤八兵衛【いずみさわはちべい(15??~15??)】

村上義清家臣。1550年、「第二次深志城の戦い」で武田晴信勢の佐久郡侵攻の噂を村上義清に伝えた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

板垣信方【いたがきのぶかた(15??~1548)】

武田晴信家臣。1548年、「第一次上田原の戦い」で村上義清勢の反撃を受け討死した。参考文献:『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

板花忠明【いたはなただあき(15??~15??)】

仁科盛明家臣。仁科館の留守居役を務めた。1550年、遠藤吉弘勢が安曇郡に侵攻すると、寡兵により抵抗を諦めた。仁科盛明の一族とともに二里(8キロ)後方の森城まで落延びる途中、石堂一徹勢に補足され降伏した。石堂一徹に伴われ森城代一志蔵之進に帰順を勧めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

市ノ瀬三郎太【いちのせさびろうた(15??~15??)】

石堂一徹家臣。石堂家の郎党頭。1538年、郎党頭に任じられた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

一志蔵之進【いっしくらのしん(15??~15??)】

仁科盛明家臣。安曇郡森城代。1550年、遠藤吉弘勢の侵攻を受け、板花忠明の説得を受け入れ石堂一徹勢に降伏した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

出月景忠【いでつきかげただ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、「第二次深志城の戦い」では、武田晴信の意向を受け深志城を守る馬場信春を支援するため、第二陣の2,500余りを率いて参陣した。深志城を背にした遠藤吉弘勢に攻撃をかけたが、背後から石堂一徹勢の攻撃を受け左右から包囲され逆に深志城の堀に追い詰められ500余りの討死を出し、深志城に閉じ込められた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

井上清忠【いのうえきよただ(15??~15??)】

高井郡井上城主。1535年、「花里城の戦い」に兵300余りを率いて参陣した。後詰に加わったが、花里家勢の森角忠長の伏兵を受け損害を受けた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

今川義元【いまがわよしもと(15??~15??)】

駿河国安倍郡駿府城主。駿河国守護職。遠江国、三河国を併呑して西方に侵攻する動きを見せた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

山内上杉憲政【うえすぎのりまさ(15??~15??)】

上野国平井城主。1541年、「海野平の戦い」で真田幸隆が海野棟綱勢に属して村上義清、武田信虎、諏訪頼重勢と戦い敗れると、山内上杉憲政を頼って落延びた。1547年、武田晴信勢が佐久郡に侵攻すると、志賀城に籠城する笠原清繫を支援するため、金井秀景勢3,000余りを佐久郡に侵攻させたが、「小田井原の戦い」で武田晴信勢の迎撃を受け金井秀景以下500余りが討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

上原兵馬【うえはらへいま(15??~15??)】

船岡城主。小笠原長時勢に属する豪族衆。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

牛越正信【うしこしまさのぶ(15??~15??)】

安曇郡豊科館主。通称舞之進。1550年、石堂一徹勢600余りが安曇郡に侵攻すると、務台雅景、石曾根信勝らとともに降伏した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

海野棟綱【うんのむねつな(15??~15??)】

小県郡太平寺館主。1541年、「海野平の戦い」では、村上義清、武田信虎、諏訪頼重勢と戦い、寡兵の海野棟綱勢は、相良民部勢500余りで村上義清の本陣を急襲したが、石堂一徹に見破られ、相良民部が討取られ大敗した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

運野四里【うんのよんり(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。別名「伊作」。遠藤吉弘が高橋広家の動くを探るため、中原城下に派遣した間者。1549年、「遠藤館の戦い」では、高橋家広の遠藤吉弘領侵攻を四里(16キロ)の山道を走り、遠藤館に知らせた功により30石を領した。「つつじヶ原の戦い」では、五人の配下とともに不破館周辺に潜伏して不破左近勢の動きを探った。1550年、「中山平の戦い」後、郎党の次郎、三郎、四郎、五郎に情報収集や風評場流布にあたらせた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

江元源乃進【えのもとがんのしん(15??~15??)】

佐久郡小室館主。石堂一徹の寄騎衆のひとりで300石を領した。1533年、「有坂城の戦い」では、石堂一徹勢が占領した三の丸を守備した。1549年、武田晴信勢の攻勢が強まると佐久郡から退去して、石堂龍紀に仕えた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

遠藤吉弘【えんどうよしひろ(15??~15??)】

小県郡遠藤館主。遠藤家の家督を相続後、横山郷内で新田開発を積極的に行い物成りを2,000石から3,800石まで増加させた。参考文献:『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

遠藤吉明【えんどうよしあき(15??~15??)】

遠藤吉弘の弟。高橋広家との戦いで討死した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

遠藤若菜【えんどうわかな(15??~15??)】

遠藤吉弘の娘。1549年、叔母への見舞いの帰り道、保福寺街道で石堂一徹に出会い、その人柄に興味を抱き遠藤館に招いた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

大芝和泉守【おおしばいずものかみ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、馬場信春勢に属して深志城に籠城して搦め手を守備した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

小笠原長時【おがさわらながとき(15??~15??)】

筑摩郡林城主。1550年、「中山平の戦い」では、中信濃豪族衆3,500余りをまとめあげ武田晴信勢3,000余りと決戦を挑むが、仁科盛明勢500余りの内応により大敗した。後林城に落延びるが支えられず筑摩郡の諸城ととも自落した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

於菊【おきく(15??~15??)】

遠藤若菜の侍女。若菜の伴をして近隣から帰り道、若菜が出会った石堂一徹の

参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

小澤式部【おざわしきぶ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、「砥石城の戦い」で討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

押鐘信光【おしがねのぶみつ(15??~15??)】

石堂一徹家臣。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

小尾豊重【おびとよしげ(15??~1550)】

武田晴信家臣。1550年、「塩田平の戦い」で奥信濃から反転して来た村上義清勢の追撃を受け撤退する武田晴信の影武者として村上義清勢に討取られた。村上義清は、武田晴信の頸級と信じ追撃を中止した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

飯富兵部【おぶひょうぶ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、「中山平の戦い」に参陣した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

於雅【おまさ(15??~15??)】

石堂家女中頭。石堂一徹の家臣駒村長治の筆おろしの役を買って出た。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

----------------------------

【か】

笠原清繫【かさはらきよしげ(15??~1547)】

佐久郡志賀城主。通称新三郎。1547年、武田晴信勢が佐久郡に侵攻すると、一族郎党1,500余りで志賀城に籠城した。山内上杉憲政の家臣金井秀景勢3,000余りの支援を受けたが、「小田井原の戦い」で武田晴信勢の迎撃を受け金井秀景以下500余りが討死した。武田晴信勢の攻撃を受け荻原弥右衛門に討取られた。志賀城が落城すると、降伏した将兵、女子ども1,300余りは奴婢として売り渡された。無双の美貌として知られた、笠原清繫の夫人は小山田信有に30貫で売られた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

笠輪元春【かさわもとはる(15??~15??)】

長尾景虎家臣。1550年、長尾景虎を訪ねた石堂一徹の取次役を務めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

門田治三郎【かどたじさぶろう(1504~15??)】

遠藤吉弘家臣。横山郷の百姓の三男に生まれ、甲斐国の金山採掘に従事し、測量や石積みの技術を学んだ。二十五歳で帰郷し作事奉行の宮川源右衛門に仕え遠藤吉弘の新田開発に手腕を発揮した。宮川源右衛門の引退後はその職を引き継ぎ50石を領した。ぶな山の水源から20町(2,200m)の治三郎堤を築いて広野台に水田を開いた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

金井秀景【かないひでかげ(15??~1547)】

山内上杉憲政家臣。1547年、山内上杉憲政の意向を受け、志賀城主笠原清繫を支援するため、佐久郡に侵攻した。「小田井原の戦い」で武田晴信勢の迎撃を受け討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

金原兵蔵【かねはらへいぞう(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。勘定奉行職。1549年、「遠藤館の戦い」では、遠藤吉弘が神戸村を荒らす野武士を兵80余りを率いて出陣中に高橋広家勢の攻撃を受けた。

狩野正信【かのうまさのぶ(15??~15??)】

狩野派の絵師。遠藤吉弘屋敷の床の間に彼の絵が飾られていた。遠藤家の家宝。

上條織部【かみじょうおりべ(15??~15??)】

村上義清家臣。1548年、「第一次上田原の戦い」で板垣信方を討取る戦功を挙げた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

唐木田善助【からきだぜんすけ(15??~15??)】

石堂一徹家臣。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋

菊原錦吾【きくはらきんご(15??~15??)】

佐久郡大里館主。200石を領する豪族衆。

1549年、武田晴信勢の攻勢が強まると佐久郡から退去して、石堂龍紀に仕えた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋

菊原朝日姫【きくはらあさひきめ(1516~15??)】

石堂一徹の室。菊原錦吾の娘。厳しい躾を受け家事一切を得意とするが五尺六寸(164㎝)の大女。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋

教来石景光【きょうらいしかげみつ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、「中山平の戦い」に参陣した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

清野清秀【きよのきよひで(15??~15??)】

村上義清家臣。村上家筆頭家老職。石堂龍紀が務めていた勘定奉行職を譜代衆に取り戻すため、謀を巡らしたが失敗した。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

金原兵蔵【きんばらへいぞう(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。勘定奉行職を務めた。金原兵蔵は父の代から仕える家臣で算術の才を見込まれ、遠藤家の財政を取り仕切った。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

黒田龍広【くろだたつひろ(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1550年、武田晴信勢の侵攻を前に遠藤吉弘を味方に付けるべく、小笠原長時から遠藤吉弘のもとへ使者として派遣された。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

小古井兵部【こごひょうぶ(15??~15??)】

高梨政頼家臣。筆頭家老職を務めた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

後町幸久【ごまちゆきはさ(15??~15??)】

宮坂康高家臣。1550年、「第一次深志城の戦い」に参陣して石堂一徹勢と戦った。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

越山兵庫【こしやまひょうご(15??~1550)】

遠藤吉弘家臣。遠藤家筆頭家老職を務めた。1549年、「つつじヶ原の戦い」では、兵75余りを率いて遠藤吉弘勢の右翼を担当したが、功を焦るあまり軍律を破り不破左近勢の突撃を許し15余りの討死を出した。戦後、石堂一徹から叱責を受けるが遠藤吉弘の執り成しを受け、石堂一徹に恨みを持った。1550年、五人の刺客とともに石堂一徹を襲ったが返り討ちにあった。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

越山丹波【こしやまたんば(1529~15??)】

越山兵庫の男。1550年、父越山兵庫が石堂一徹に返り討ちに遭ったが、遠藤吉弘の計らいにより、御家取り潰しは免れ越山家の家督を相続した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

駒村義貞【こまむらよしさだ(15??~15??)】

根石数正家臣。駒村一角の男。参考文献:『奔る合戦屋(上)』by北沢秋。

駒村長治【こまむらながはる(1528~15??)】

石堂一徹家臣。駒村一角の次男。通称次郎。別名一ノ瀬長治。身の丈は四尺八寸、整った顔立ちの美少年。1535年、「花里城の戦い」で戦功を挙げた。

夫の一ノ瀬三郎太を失った花を娶り、一ノ瀬家50石の家督を相続した。

一ノ瀬虎王丸【いちのせとらおうまる(15??~15??)】

一ノ瀬三郎太の男(駒村長治の養子)。

黒岩源吾【くろいわげんご(15??~15??)】

有坂義春家臣。1533年、「有坂城の戦い」では450余りを率いて三の丸の主将を務めた。石堂一徹の計略に嵌り土屋宗右衛門率いる300余りと三の丸を奪われた。参考文献:『奔る合戦屋(上)』by北沢秋。

幸兵衛【こうべい(15??~15??)】

日の出村の名主を務めた。領主の遠藤吉弘から広野台の開墾を提案され、遠藤吉弘に協力して三年かけて広野台を開墾して村の取れ高を。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

児玉秋次郎【こだまあきじろう(15??~15??)】

有坂信成家臣。有坂信成の意向を受け兵500余りを率いて有坂城主有坂義春を支援した。石堂一徹の計略により、三の丸、二の丸が攻略されると城主有坂義春に降伏を進言して、自らも上野国に落延びた。参考文献:『奔る合戦屋(上)』by北沢秋。

----------------------------

【さ】

斎間八兵衛【さいまへちべい(15??~15??)】

石堂龍紀家臣。善光寺膏を製造する

参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

坂田官兵衛【さかたかんべい(15??~15??)】

室賀光氏家臣。三十代半ばの髭の濃い精悍な顔立ちをした大柄な侍大将。1533年、「有坂城の戦い」では、大物見を行い敵方の侍大将土屋宗右衛門を討取る戦功を挙げた。参考文献:『奔る合戦屋(上)』by北沢秋。

相良民部【さがらみんぶ(15??~1541)】

海野棟綱家臣。別名「鬼相良」。1541年、「海野平の戦い」で石堂一徹と鈴木六蔵に討取られた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

さわ【さわ(15??~15??)】

石堂龍紀の室。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

鈴村六蔵【すずむらろくぞう(1502~15??)】

石堂一徹家臣。別名「鑓の六蔵」。石堂家武芸指南役。1533年、「有坂城の戦い」では、南門を制圧する戦功を挙げた。石堂一徹が村上義清のもとから出奔した際もそのれに従った。1541年、「海野平の戦い」では、石堂一徹に従って相良民部勢を討取る戦功を挙げた。1550年、「中山平の戦い」では、敗走する遠藤吉弘勢の殿を石堂一徹とともに務めた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』、『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

鈴村和正【すずむらまさかず(15??~15??)】

鈴村六蔵の男。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

諏訪頼重【すわよりしげ(15??~1549)】

諏訪郡上原城主。1541年、「海野平の戦い」では、村上義清、武田信虎、諏訪頼重らとともに海野棟綱を撃破る戦功を挙げた。1549年、「上原城の戦い」で武田晴信勢に敗れ、甲斐国に幽閉され自刃した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

諏訪頼高【すわよりたか(15??~1549)】

諏訪頼重の弟。1549年、「上原城の戦い」で兄諏訪頼重とともに武田晴信勢に破れ、甲斐国に幽閉され自刃した。

----------------------------

【た】

高橋広家【たかはしひろいえ(15??~1549)】

小県郡中原城主。体重が22貫(83kg)もある強豪の武者。1549年、遠藤吉弘が野武士討伐に出陣中130騎を率いて遠藤館に夜討を掛けたが、石堂一徹の速攻により討死した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

高橋利家【たかはしとしいえ(15??~1549)】

高橋広家の弟。猛牛の角を両手で掴んでねじ伏せるほどの怪力の持ち主。1549年、遠藤吉弘が野武士討伐に出陣中130騎を率いて遠藤館に夜討を掛けたが、石堂一徹の家臣鈴村六蔵に討取られた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

高橋胡蝶【たかはしこちょう(15??~15??)】

高橋広家の長女。1549年、父高橋広家が討死すると、遠藤吉弘勢の攻撃を受けた。「中原城の戦い」では、高橋広家の枝連衆はことごとく謀殺されたが、高橋胡蝶だけが助けられた。戦の戦功として石堂一徹に与えられたが、石堂一徹は娘を解放した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

高梨政頼【たかなしまさより(15??~15??)】

高井郡中野館主。真田幸隆の継嗣真田信綱に娘を井上左衛門尉の養女にして嫁がせた。高梨政頼は武田晴信勢に内応すると見せ掛け、中野館で村上義清に謀反を起こした。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

竹鼻虎政【たけはなとらまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

武田信虎【たけだのぶとら(15??~15??)】

甲斐国躑躅ヶ崎城主。甲斐国守護職。1528年、「神部境川の戦い」で、諏訪頼重と戦い敗れた。1541年、武田晴信に駿河国に追放された。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

武田晴信【たけだはるのぶ(15??~15??)】

武田信虎の男。別名武田信玄。1541年、父武田信虎を追放すると、信濃国諏訪郡に侵攻して諏訪頼重を滅ぼし佐久郡方面で村上義清と争った。1548年、「第一次上田原の戦い」では、武田晴信が板垣信方、甘利虎泰、飯富兵部、小山田信有、内藤豊昌、室住虎光、馬場信房、原昌俊、真田幸隆、栗原左衛門佐ら8,000余りを率いて小県郡に侵攻すると、村上義清は、高梨政頼、井上清政、小田切清定、島津規久、須田親満など北信濃四郡の諸侯を集結させ、武田晴信勢に対抗した。武田晴信は甘利虎泰、板垣信方を失う敗北を喫すると、林城主小笠原長時勢が塩尻峠を越えて諏訪郡に侵攻しが、「塩尻峠の戦い」でこれを撃破した。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

丹澤秀久【たんざわひでひさ(15??~1550)】

武田晴信家臣。1550年、「砥石城の戦い」で先陣を願い出て村上義清の家臣山田国政が守る砥石城を兵500余りとともに攻撃した。村上義清勢の反撃を受け兵170余りとともに討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

丹沢善七郎【たんざわぜんしちろう(15??~1550)】

出月景忠家臣。1550年、「第二次深志城の戦い」で背後から石堂一徹勢の攻撃を受け退却する出月景忠勢の殿を務め石堂一徹に一騎打ちを挑んだが返り討ちに遭った。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

土屋宗右衛門【つちやそえもん(15??~1533)】

黒岩源吾家臣。1533年、「有坂城の戦い」で石堂一徹の計略により坂田官兵衛に討取られた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

津羽之守【つばゆきもり(15??~1537)】

植科郡戸山城主。1537年、「戸山城の戦い」では、兵2,000余りで村上義清勢2,500余りに対抗した。左翼に伏兵を配して村上義清勢を混乱に陥れるが、石堂一徹勢の活躍により討死した。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

寺尾重頼【てらおしげより(15??~15??)】

村上義清家臣。松代城代。高梨政頼が武田晴信勢に内応すると見せ掛け、中野館で村上義清に謀反を起こすと、自らも謀反を起こした。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

徳兵衛【とくべい(15??~15??)】

木戸村の名主。1550年、「中山平の戦い」で小笠原長時勢が大敗すると、、遠藤吉弘が北信濃国に落延びるという噂を聞いて、思いとどまるように説得にやってきた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

----------------------------

【な】

長井利政【ながいとしまさ(15??~15??)】

美濃国稲葉山城主。別名斎藤道三。1541年、土岐頼芸を追放して美濃国主に成り上がった。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

長井八角【ながいはっかく(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。1549年、「つつじヶ原の戦い」では25余りを率いて馬場利政の後陣を守った。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

長尾景虎【ながおかげとら(1530~1578)】

南越後国春日山城主。1536年、父長尾為景が病没すると、兄長尾晴景が長尾家の家督を相続したが病弱だったため、国人衆の反乱が続いた。1545年、黒滝城主黒田秀忠が謀反を起こすと、長尾景虎は還俗して栃尾城に入り天才的な采配により国内を平定した。1548年、長尾晴景の隠居により長尾家の家督を相続した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

仁科盛明【にしなもりあき(15??~15??)】

安曇郡森城主。官途は安芸守。仁科盛明勢は具足から馬具、指物に至るまで、ことごとく朱色に統一して赤備えと称された。1550年、「中山平の戦い」では、500余りを率いて小笠原長時勢に参陣した。左翼に陣を張り武田晴信勢の攻勢に備えたが、予め武田晴信勢に内応しており、小笠原長時勢の攻勢が限界に達すると、寝返り小笠原長時勢を攻撃した。武石峠に撤退する遠藤吉弘勢を追撃して石堂一徹に武田晴信勢に付くように説得するが失敗した。参考文献:『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

仁科勝千代【にしなかつちよ(15??~15??)】 

仁科盛明の男。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

仁科照千代【にしなてるちよ(15??~15??)】

仁科盛明の次男。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。 

仁科桃子【にしなももこ(15??~15??)】 

仁科盛明の娘(長女)。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

仁科桜子【にしなさくらこ(15??~15??)】 

仁科盛明の娘(次女)。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

沼田主膳【ぬまたしゅぜん(15??~1549)】

小県郡沼田館主。1549年、遠藤吉弘勢の攻撃を受け、刈谷原峠を越えて太田弥助のもとに落延びる途中、原田馬之助勢の待ち伏せを受け討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

根石数正【ねいしかずまさ(15??~15??)】

佐久郡五加館主。200石を領した。

根津元信【ねずもとのぶ(15??~15??)】

佐久郡根津城主。1542年、武田晴信勢が佐久郡に侵攻すると、内応して娘を武田晴信の側室に入れた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

----------------------------

【は】

波田数馬【はたかずま(15??~15??)】

小笠原長時家臣。1550年、「中山平の戦い」に小笠原長時勢に属して参陣した。

服部良蔵【はっとりりょうぞう(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。1549年、「遠藤館の戦い」では、遠藤吉弘が神戸村を荒らす野武士を兵80余りを率いて出陣中に高橋広家勢の攻撃を受けた。弟服部重蔵、継嗣の服部竹蔵、石堂一徹とともに高橋広家勢を迎え撃った。1550年、「中山平の戦い」では、新庄玄蕃を討取る戦功を挙げた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

服部重蔵【はっとりしげぞう(15??~15??)】

服部良蔵の弟。1549年、「遠藤館の戦い」では、兄服部良蔵とともに高橋広家勢を迎え撃った。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

服部竹蔵【はっとりたけぞう(15??~15??)】

服部良蔵の男。1549年、「遠藤館の戦い」では、父服部良蔵とともに高橋広家勢を迎え撃った。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

服部仁右衛門【はっとりにんざえもん(15??~15??)】

越山兵庫家臣。用人頭を務めた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

馬場信春【ばばはるのぶ(15??~15??)】

武田晴信家臣。官途は民部。別名馬場信房。1549年、武田晴信の意向を受け筑摩郡村井城で中信濃豪族衆の諜略にあたり仁科盛明を内応させ、他の諸豪族には小笠原長時に属すように仕向けた。

馬場利政【ばばとしまさ(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。次席家老職。1549年、「つつじヶ原の戦い」では、兵75余りを率いて遠藤吉弘勢の左翼を担当した。越山兵庫が功を焦るあまり軍律を破り不破左近勢の突撃を許し苦戦を強いられると、不破左近勢の後詰を攻撃して、不破左近勢の攻撃力を弱める戦功を挙げた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

花里玄蕃【はなざとげんば(15??~15??)】

佐久郡花里城主。1535年、村上義清に謀反を起こした。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

原田馬之助【はらだうまのすけ(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。遠藤吉弘の近習を務めた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

原田十兵衛【はらだじゅうべい(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。船岡砦留守居役を務めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

樋口成之【ひぐちなりゆき(15??~15??)】

石堂龍紀家臣。用人頭を務めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

菱田義直【ひしだよしなお(15??~15??)】

黒岩源吾家臣。1533年、「有坂城の戦い」では、三の丸に侵攻した石堂一徹勢の攻撃を受け南門を失った。参考文献:『奔る合戦屋』by北沢秋。

古畑義昌【ふるはたよしまさ(15??~15??)】

武田晴信家臣。宮坂康高の寄騎馬衆のひとり。1550年、「第一次深志城の戦い」に参陣して石堂一徹勢と戦った。戦後、上原城に戻った宮坂康高の自刃を止めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

不破左近【ふわさこん(15??~15??)】

小県郡不破館主。不破館5,000石を領した。1549年、高橋広家を滅ぼした遠藤吉弘に本領安堵を条件に降伏したが、石堂一徹により拒否された。「つつじヶ原の戦い」では、先陣を切り遠藤吉弘の本営に突撃をかけた。越山兵庫勢と乱戦になると馬場利政に横腹を突かれた。反撃に出た越山兵庫勢に討取られた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

不破隆幸【ふわたかゆき(15??~15??)】

不破左近の弟。兄不破左近の猛勇に隠れているが戦上手と評判が高い。1549年、「つつじヶ原の戦い」では、別働隊40余り率いて遠藤吉弘の本営に突撃を図るも石堂一徹勢によって討取られた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

北条氏康【ほうじょううじやす(15??~15??)】

相模国足柄下郡小田原城主。1546年、「河越城の戦い」で扇谷上杉朝定を討取り関東に勢力を拡大した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

保坂友政【ほさかともまさ(15??~15??)】

武田晴信家臣。宮坂康高の寄騎馬衆のひとり。1550年、「第一次深志城の戦い」に参陣して石堂一徹勢と戦った。戦後、上原城に戻った宮坂康高の自刃を止めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

星沢秀政【ほしざわひでまさ(15??~15??)】

石堂一徹家臣。別名「ひで」。室は秋。一ノ瀬三太郎が討死すると、郎党頭になった。1550年、「塩田平の戦い」では、村上義清に従って武田晴信勢を追撃中、自身の郎党を守って討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

----------------------------

【ま】

万里小路頼資【まりのこうじよりすけ(15??~15??)】

京公家衆。官途は大納言。1536年、石堂龍紀の献策によって行われた、村上義清からの朝廷献金に返礼として天皇直筆の「般若心経」を村上義清に送り届けた。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

峰村元澄【みねむらもとずみ(15??~15??)】

屋代政国家臣。1550年、「塩田平の戦い」で武田晴信を討取る戦功を挙げたが、その頸は武田晴信の影武者小尾豊重の頸だった。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

宮川源右衛門【みやかわげんえもん(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。遠藤吉弘の作事奉行を務め、領内の新田開発に携わった。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

宮坂康高【みやさかやすたか(15??~15??)】

武田晴信家臣。諏訪郡上原城代。遠藤吉弘勢の深志城攻撃に備えて兵2,000余りとともに駐留した。1550年、遠藤吉弘勢が馬場信春が守る深志城を包囲すると、馬場信春を支援するため筑摩郡に侵攻した。「第一次深志城の戦い」では、石堂一徹の計略に嵌り800余りの兵を失った。宮坂康高の自刃を条件に石堂一徹と和議を結ぶが、命を助けられたことにより諸将の疑念を招き出家を願い出た。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

務台雅景【むだいまさかげ(15??~15??)】

安曇郡豪族衆のひとり。1550年、石堂一徹勢600余りが安曇郡に侵攻すると、牛越正信、石曾根信勝らとともに降伏した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

室賀光氏【むろがみつうじ(15??~15??)】

村上義清家臣。小県郡布引城4,000石を領した。1549年、武田晴信勢の攻勢により布引城から退去した。参考文献:『奔る合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

村上義清【むらかみよしきよ(15??~15??)】

小県郡葛尾城主。北信濃最大勢力の国人衆で北信濃国四郡から東信濃国小県郡、佐久郡の一部を支配した。1533年、佐久郡有坂城主有坂義春を攻撃した。武田信虎と結び勢力を拡大したが、武田晴信とは対立した。1548年、、「第一次上田原の戦い」で武田晴信が板垣信方、甘利虎泰、飯富兵部、小山田信有、内藤豊昌、室住虎光、馬場信房、原昌俊、真田幸隆、栗原左衛門佐ら8,000余りを率いて小県郡に侵攻した。村上義清は、高梨政頼、井上清政、小田切清定、島津規久、須田親満など北信濃四郡の諸侯を集結させ板垣信方、甘利虎泰らを討取る戦功を挙げた。

村山正則【むらやままさのり(15??~15??)】

遠藤吉弘家臣。村山善衛門の三男。遠藤吉弘家中では、一番の槍の使い手。関島芳次に小者として仕え、赤坂甚五郎から槍を習得した。戦功を挙げ50石を領して、越山兵庫の寄騎を務めた。1549年、「中原城の戦い」で石堂一徹の戦びりに感銘を受け、その寄騎に転属を願い出た。1550年、「中山平の戦い」では、武田晴信勢の柴田久兵衛を討取る戦功を挙げた。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

室住虎光【むろずみとらみつ(15??~15??)】

武田晴信家臣。1550年、「中山平の戦い」に参陣した。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

森角忠長【もりかどただなが(15??~15??)】

花里玄蕃家臣。1535年、「花里城の戦い」では、後詰の井上清忠に奇襲攻撃をかけ、村上義清勢を撃退した。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

----------------------------

【や】

屋代政重【やだいまさしげ(15??~15??)】

村上義清家臣。参考文献:『奔る合戦屋』by北沢秋。

屋代政国【やだいまさくに(15??~15??)】

屋代政重の男。室は室賀光氏の娘(村上義清の養女)。別名矢代政国。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』、『翔る合戦屋』by北沢秋。

柳沢道正【やなぎさわみちまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。有坂義春の家臣だったが村上義清に仕えた。1533年、「有坂城の戦い」では、城攻めの絵図面を作成した。参考文献:『奔る合戦屋』by北沢秋。

矢彦沢甚五郎【やひこさわじんごろう(15??~15??)】

武田晴信家臣。宮坂康高の寄騎馬衆のひとり。1550年、「第一次深志城の戦い」に参陣して石堂一徹勢と戦った。戦後、上原城に戻った宮坂康高の自刃を止めた。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

山田国政【やまだくにまさ(15??~15??)】

村上義清家臣。参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』by北沢秋。

横田高松【よこたたかとし(15??~1550)】

武田晴信家臣。1550年、「砥石城の戦い」で討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

渡邊雲州【わたなべうんしゅう(15??~1550)】

武田晴信家臣。1550年、「砥石城の戦い」で討死した。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

----------------------------

【資料Ⅰ】

北信濃国(8郡/186,000石)

水内郡:旭山城、横山城、飯山城、野尻湖。
上高井郡:長沼城、山田城、高梨城。
北安曇郡:小谷城、森城。
南安曇郡:小岩岳城、中塔城。
更級郡:牧之島城、荒砥城。
埴科郡:海津城、葛尾城。
小県郡:砥石城、尾山城。
佐久郡:海ノ口砦、前山城、志賀城、小諸城。

----------------------------

【資料Ⅱ】

花の十八人衆【はなのじゅうはちにんしゅう】

参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

村上家三家老【むらかみけさんかろう】

屋代重政、室賀光氏、清野清秀。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

----------------------------

【資料Ⅲ】

北信濃国【きたしなのこく】

信濃国は、本州の中央に位置する東山道の国。南北に長い内陸国で北部と南部では気候も風俗も異なる。北信濃国は、周囲を南信濃国、飛騨国、越後国、上野国と接している。戦略的には、北に越後国、東に上野国、西に南信濃国と周囲を強国に囲まれ侵入を受けやすい。国土防衛には不利な位置にあるが、標高の高い山岳地帯で形成された山がちな国で、険しい峠を越えないと領国に侵入できない。平地は安曇郡を中心とした安曇平野と、小県郡の海野平等の平野はわずかで防衛線をはるのは難しくない。東は白根山、浅間山、妙高山などの山系で上野国、関東山地で武蔵国、赤石山脈で甲斐国と国境を接し、西は飛騨山脈が越中国、飛騨国、和田峠、塩尻峠、鳥居峠で南信濃国との国境を形成する。

三日月【みかづき】

石堂一徹の愛馬。肩の高さが五尺六寸(約170cm)ある巨馬。参考文献:『哄う合戦屋』by北沢秋。

雲梯【うんてい】

石堂一徹が考案し、門田治三郎が製作した攻城用の兵器。城壁を乗り越えるために台車の上に折りたたみ式のはしごを搭載し、これを城壁にとりつく。参考文献:『翔る合戦屋』by北沢秋。

----------------------------

戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※『奔る合戦屋(上・下)』『哄う合戦屋』『翔る合戦屋』は架空小説ですので、参考文献が上記の書籍の場合は架空の人物と考えて下さい。武田晴信、小笠原長時、長尾景虎など史実上の人物も登場しますが書籍に登場する人物として説明します。

※武田信玄は武田晴信に上杉謙信は長尾景虎の名に統一しました。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用。

※参考文献:『奔る合戦屋(上・下)』、『哄う合戦屋』、『翔る合戦屋』by北沢秋、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国人名事典』by吉川弘文館。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

----------------------------

0 件のコメント: